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崩 壊

あれからもう30年も経ったとは、とても思えないのですが・・・1989年11月9日は、あの


 ベルリンの壁


が事実上崩壊した日でした。


壁の上によじ登った群衆が歓声の中ツルハシを振り上げ、壁を壊す映像をご記憶の方も多いと思います。


この日が、ドイツを含む各国の予想を上回るスピードで東西ドイツの再統一を為し得る、大きな分岐点となりました。


ともすると 『ベルリンの壁』 って、東西ドイツの国境と同じだと思いがちなんですが、実は全くの別物。


元来ベルリンは東ドイツ領内のほぼ真ん中に位置しており、ドイツ本土同様、ベルリン市も米・英・仏・ソの4ヶ国による分割統治となりました。


まもなく東西冷戦に突入すると、1948年6月からソ連はベルリンへの生活物資の搬入を遮断。

西側諸国はこれに対抗して、生活物資を空輸。


そして東西ドイツに分かれた後の1961年8月、東ドイツは突如東西ベルリンを結ぶ68の道路全てを閉鎖。


有刺鉄線により境界線を明確にすると以後順次コンクリート製に作り変えられ、1975年に総延長155kmに及ぶ 〝ベルリンの壁〟 が完成。


       

これにより西ベルリンは (空路や東ベルリンに停車しない直通列車により西ドイツと行き来ができるとはいえ) 東ドイツ内の〝陸の孤島〟となったのです。() 


       


以後1989年の壁崩壊まで、西ベルリンに亡命を企て成功した者は5,000名を越える一方で、狙撃され死亡した東ベルリン住民は192名に上ったそうです。


しかし1980年代に入ると、東側諸国の風向きが変わり始めます。

1985年ソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは、ペレストロイカ(改革)政策とグラスノスチ(情報公開)によって急速に民主化へと傾き、周辺の東欧諸国にも民主化推進の波が。

ところが東ドイツのホーネッカー書記長は秘密警察などを使って逆に国内統制を強化。


それでも1989年5月にハンガリーがオーストリア国境の鉄条網を撤去し、翌月にはポーランドが選挙によって民主化を実現すると、東ドイツ国民はポーランド経由で西ドイツに行くように。

しかしホーネッカー書記長は時代の流れに逆行するかのように、チェコとの国境を封鎖して国民を閉じ込めます。

これに怒った国民がデモを繰り返すようになり、彼の頼みの綱だったソ連も救いの手を差し伸べようとはしませんでした。


そして11月8日に開かれた党中央委員会で政治局員全員が一旦辞任するなど政府内も混乱の極に達し、翌9日にとどめを刺す声明が発表されます。

それは党スポークスマンだったシャボウスキーが

「ベルリンの壁を含めて全ての国境通過点から直ちに出国できる」

というもの。 しかしこれ、正しくは

「ベルリンの壁を除く国境通過点からの出国を認める」


もので、しかもそれは翌10日から・・・という内容でした。

それをロクに中身を確かめないまま、生放送の記者会見で発表したからたまりません。

声明を聞いて喜んだ東ベルリン市民は検問所に殺到。


その凄まじい勢いに、国境警備隊はゲートを開放するしかありませんでした。

        


壁によじ登ってハンマーで叩き割ったのは翌10日未明のこと・・・11月9日は、正確に言えば〝国境検問所の崩壊〟だったのです。

この歴史の大転換は、混乱した政府のミスとホーネッカーの慢心と時代錯誤、そして何より圧倒的な民衆のパワーによる〝寄り倒し〟によって起きたのでした。


検問所の解放という〝アリの一穴〟が開いたことで始まったこの流れは、他国の政治家たちの予想をはるかに上回る早さ・・・ベルリンの壁崩壊から1年も経たない翌1990年10月3日に東西ドイツ統一を成就させたのです。

(もっとも、そのあまりの早さ故に統一ドイツはその後様々な弊害に悩まされることのなるのですが・・・。)

東側の民主化を先導したゴルバチョフ書記長は、後にこう語っています。

「政治家ではなく、国民が英雄だった。」

・・・民衆の力って、凄いんですネ。


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