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老 恋

いきなりですが、皆さんは

 川田 順

という方をご存知でしょうか?


1882(明治15)年に東京・浅草に生まれ、一高から東京帝大に入学・・・当初文学部に籍を置きましたが、小泉八雲の薫陶を受けたものの、彼が退任したため「もう文科で学ぶことはない」として法科に転科したという秀才。


卒業後住友に入社し1930年には理事に就任、同年には一足飛びで常務理事となり、住友総本社のトップ・総理事就任が確実視される中、「自らの器に非ず」 として1936年に突然自己都合退職してしまいます。

その後佐佐木信綱門下の歌人、また 『新古今集』 の研究家として活躍し、戦後は皇太子の作歌指導や歌会始の選者を務めたという、ビジネスマンとしても歌人としても頂点を極めた人物でした。

・・・が、彼の名が世間で注目を集めたのはその業績ではなく、不倫愛でした。

1939年に妻を脳溢血で亡くした彼は、1944年から旧知の仲だった元京都帝大教授・中川与之助の夫人・鈴鹿俊子の作歌指導をしていました。

『新古今集』 研究の手伝いも彼女にしてもらっているうちに、2人の仲は師弟関係から恋愛関係へと発展。

それが中川元教授の知るところとなり、2人は彼の前で別離を誓ったものの・・・結局はその後も逢瀬を重ね、1948年8月に中川夫妻は離婚。

その自責の念に苛まれた川田氏は、今から71年前の今日・1948年11月30日に家出。

翌日、亡妻の墓石に頭を打ちつけて自殺未遂を図ったのです。

幸い一命は取り止めましたが、谷崎潤一郎ら友人に遺書を、また新聞社に告白録を送っていたため事の顛末が報道されることに。


     

                 12月の朝日新聞社会面


この一件は、川田氏が書いた 『恋の重荷』 の序文、

「若き日の恋は、はにかみて おもて赤らめ、

壮子時の四十歳の恋は、世の中にかれこれ心配れども、

墓場に近き老いらくの恋は、怖るる何ものもなし


から、〝老いらくの恋〟が当時流行語になったとか。


しかし世間の冷たい視線にもメゲず、2人は翌1949年に結婚。

川田68歳、鈴鹿41歳・・・27歳という父娘程の年齢差でしたが、2人は京都から神奈川・湘南に転居し、中川元教授との間にもうけた3人の子供の内、成人した長子を除く2人を引き取り生活を共にしました。


    

そして2人は川田氏が1966年に84歳で亡くなるまで添い遂げ、奥さんは96歳まで生き抜きました。

この不倫愛を題材にした小説があります。


 『虹の岬』 (辻井 喬・著 中公文庫・刊)


       


著者は、5日前に拙ブログで取り上げた、セゾン・グループの元総帥・堤清二・・・いや、辻井喬氏。


川田氏と同じく、企業経営者から詩人・作家へと転じた彼がこの不倫愛をどう描いたのか?

中にはこの作品を辻井喬の最高傑作という方もいらっしゃいますが、発表当時川田氏は既に亡くなっていたものの夫人はまだ存命だったことを併せ考えて読むと、面白いかもしれません。

これからますます高齢化社会となる日本・・・たとえ不倫ではなくても、配偶者を亡くした者同士の〝老いらくの恋〟は増えるはず。

葬儀屋時代、母親を亡くした子供たちと、父親と再婚した後妻(義母)との微妙な家族関係を垣間見たことがある私としては、周囲に理解される恋愛であって欲しいと願うばかりですが・・・。

えっ、お前は大丈夫なのかって?

どうかご心配なく。 


私にはそんな恋愛をするカネも時間も気力も、まして鬼より怖い女王様を裏切る度胸もないですから~。あせあせ


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殺 戮

アメリカでは、移民として乗り込んできた白人が原住民たるインディアンを迫害したことは皆さんもご存知だと思いますが、その中でも西部開拓史上最悪といわれる

 サンドクリークの虐殺

 Sand Creek Massacre


が起きたのが、今から155年前の今日・1864年11月29日のことでした。

当時のアメリカでは1861年から南北戦争が勃発しており、北軍が優勢になりつつある時勢。

北軍は南軍との戦いに臨むと同時に、支配圏をミシシッピー川からロッキー山脈周辺にまで拡張。

その過程では、原住民のインディアンとの衝突で激しい戦闘が行われ、双方とも残忍な殺戮を行って憎しみが増すばかり。

1863年には、デンバーの地元新聞社が州を挙げてのインディアン撲滅キャンペーンを張るまでに両者の関係は悪化。

そんな中、1864年9月28日・・・コロラド準州デンバーにあるウェルド基地で、周辺に居住するインディアンのシャイアン族やカイオワ族、アラバホ族の酋長と、コロラド州知事ら白人高官らによる和平会談が開かれました。

その席上、白人側から食糧の提供と狩りの出来る地域への移転を提案されたインディアン側は、サンドクリークの川辺に移動しティーピー(居住用テント)を建てて、そこに居住することで、一時休戦に。

 


               サンドクリークの位置

しかし米軍コロラド軍管区の指揮官ジョン・チヴィントン大佐は、大のインディアン嫌いで、

小さいのも大きいのも、全て殺して頭の皮を剥ぐべき。

卵はシラミになるから。」

とインディアンの皆殺しを公言し、彼等をシラミに例える差別主義者でしたから、黙って引き下がるわけがありませんでした。

       
               
John Milton Chivington


彼は和平交渉から2ヶ月後の同年11月29日早朝、自らが率いる800人の騎兵部隊に命じてサンドクリークのインディアン居住区を襲撃したのです。

12月8日付けの地元新聞 『ロッキー山脈ニュース』 は、チヴィントン大佐の報告を基に、

〝インディアンとの大会戦! 野蛮人どもは追い払われた!
  インディアンの死者500人、我が軍は死者8人・負傷者38人!〟

と大々的に戦果を報じ、虐殺から2週間後にはデンバーで記念行進が行われて市民は熱狂。

チヴィントン大佐は英雄として祭り上げられました・・・が、新聞記事は真実を伝えていませんでした。

実際は、当時サンドクリークの居住区には男性は狩りに出ていたため35人程しかおらず、約600人いたインディアンの殆どは女性・子供・老人。

しかも騎兵部隊が一斉射撃・砲撃で攻撃を仕掛けた際インディアンは無抵抗で酋長は白旗を掲げたにもかかわらず、攻撃の手を緩めない無差別虐殺でした。


  


その殺戮方法は凄惨で、殺したインディアン全員の頭の皮を剥ぎ、手足をバラバラにして・・・と、もうこれ以上ここで書くのは皆さんの気分を害すると思うので、控えます。

その後議会の調査や兵士らの証言によって虐殺の真相が明らかになるにつれ、東部白人社会の世論は一変、チヴィントン大佐に対する非難の声が高まりました。

彼は白旗を掲げたインディアン虐殺を咎められて軍事裁判にかけられ、軍を辞職。

しかし彼が去っても、白人とインディアンの衝突・報復は繰り返されましたが・・・。

この虐殺を題材にした映画があります。 
それは1970年に公開された


 『ソルジャー・ブルー』 (原題:Soldier Blue


        


キャンディス・バーゲンが主役の女性を演じる同作の最後に、この虐殺の凄惨なシーンが描かれています。

かなり昔、この作品を地上波の洋画ロードショー番組で放映したことがあったそうな。

よくまぁ放送できたものだと驚きますが、
私はこういう負の歴史から目を背けないことで、人間の残酷さや愚かさを知ることができると思うんですけどネ。

皆さんは、どうお考えになるでしょうか?


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追 放

残念ながら、国内外を問わず複数のプロスポーツにおいて過去に八百長事件・疑惑が発覚してきました。


野球の場合アメリカのメジャーリーグでは1919年に〝ブラックソックス事件〟という八百長事件がワールドシリーズで起きたり、その後〝ピート・ローズ事件〟も。

アジアでは韓国や台湾でも八百長事件や疑惑が取沙汰されました。

そして日本国内では、国会でも取り上げられるほど大きな社会問題となったのが、いわゆる


 黒い霧事件


この西鉄ライオンズを中心に球界、更にはオートレースにまで広がった大スキャンダルで球界初の永久追放処分が下されたのは、今からちょうど50年前の今日でした。

※〝黒い霧〟は、1960年に発表された松本清張の作品 『日本の黒い霧』 に由来して名付けられたとか。


1969(昭和44)年のペナントレース中、西鉄ライオンズ担当の報知新聞記者が同球団の外国人選手から 「わざとエラーをする選手がいる」 という話を聞きつけ、読売新聞の社会部と合同で調査を開始。


それ以前に八百長行為の事実を掴んでいた球団は、八百長に関わったのが永易将之投手であることを特定。

         

彼をシーズン終盤に解雇しましたが、同年10月8日に 「解雇は八百長が原因」 と報知・読売両紙がすっぱ抜いたことで、この事件が表沙汰に。(↓)


         


そして50年前の今日・1969年11月28日、プロ野球機構・コミッショナー委員会は、永易投手を永久追放処分に。


(上掲の報知新聞は10月8日付ですが、決定する1ヶ月以上前に永久追放と見出しにしています。 どうして断言できたのか、不思議。)


・・・しかし、コトはこれで収まりませんでした。


球界を追われた永易投手は球団や中西監督を脅迫したばかりか、翌年4月に雑誌のインタビューで 「他にもやった選手がいる」 と言明。


更に国会内で記者会見して6人の選手名を公表し、球団が口止め料を支払ったことまで暴露。


    

          中央・マイク前に座っているのが永易元投手


その後オートレースの八百長事件にまで疑惑は波及し、結局永易投手を含め西鉄・中日・東映の選手6名が永久追放処分を下され、その他出場停止・戒告を受ける選手が続出。

オートレース選手19名も警察に逮捕されました。


あの江夏投手や、皮肉にもこの騒動をスクープした読売グループの巨人・藤田元司投手まで処分の対象となり、沈静化するまで2年近くを要する一大騒動に。

主力選手を失った西鉄は低迷を続け1972年に太平洋クラブに身売りする羽目になるなど、球界に大打撃を与えました。


中には永久追放処分を受けた後裁判で無罪を勝ち取り、現役復帰したオートレース選手もいましたが、私が残念に思うのはやはり永久追放された西鉄・池永正明投手のこと。


           


下関商業のエースとして3期連続甲子園に出場し、優勝・準優勝投手となった彼は1965年に鳴り物入りで西鉄に入団。


ルーキーでいきなり20勝を上げ、稲尾投手の後継者として早くも同球団のエースになると、1967年には23勝で最多勝。


入団5年で99勝をマークした将来の大投手でした。


同期入団した甲子園の優勝投手・尾崎将司投手が、キャンプのブルペンで彼のピッチングを見て 「こんな凄いヤツが一緒ではかなわん。」 とゴルフ界に転身したことからも、その才能の凄さが分かります。


その大器の未来を潰したのが、この事件。


先輩選手からの八百長話を断ったものの、「預かってくれ」 と言われた100万円をただ押し入れにしまったままにしていただけで永久追放。


他選手からの嘆願も通じず、当時から見せしめといわれた理不尽な処分で200勝・・・いや、300勝すら可能だった投手の未来を奪ったのですから。うー


ジャンボ尾崎選手や関係者の尽力により、池永氏の名誉回復・追放処分解除がなされたのは、事件から35年も経った2005年のこと。


社会人野球の監督就任など、自ら天職と語った野球にやっと関われるようになったことが、せめてもの救いでしょうか・・・。

一方、事件の中心人物だった永易投手は、2003年にひっそりと病死したことが週刊誌で報じられました。


少年たちの夢を壊し歴史に汚点を残す八百長・不正行為は、二度と起こして欲しくはありません。


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予 約

先日の夜、葬儀屋時代の取引先で今でも親交のあるU社長と、少々早めの忘年会をしました。

予約したレストランは・・・あのエネゴリ君の店。

当日の午前中、彼とこんなメールのやり取りをしました。

「今夜はU社長と2人で行くから、よろしく。」

「はい、分かりました。」

「久しぶりのディナーだから、ちゃんとオススメ料理考えといてネ。」

「期待に添えるか分かりませんが・・・。」

「添わなきゃ、ダメ!」

「ホントですか? どんな感じのがいいですか?」

「お前さんに任せる。」

「ありがとうございます。」


        


最初は殊勝な返信だと思ったんですが、徐々にいつも通りのズレた会話になって、最後の「ありがとうございます」 ってのは・・・漠然とした不安を抱えながら、私は予約時間に入店。


席に着いた私は、U社長に

「今日は、予めエネゴリ君にオススメ料理考えとくように言ってあるんですョ。」

と言ってから、彼をテーブルに呼び寄せました。

「ちゃんと考えといてくれた?」

「いえ、ランチが忙しくて考えてません。
って言うか、どれもオススメ料理ですから~。」


「コラお前、そんな言い訳が通用すると思ってんのか?
と言いたいところだけど、どうせそんなことだと思ってたョ。 じゃ、メニュー見せて。」

と、手に取って暫し・・・。

「このマグロとアボガドのコンフィと、岩中豚のミラノ風カツレツってのをちょうだい。」


「おっ、さすがですねェ。 

ボクもそれをお出ししようと思ってたんですョ。」

「だったら、最初に言わんかいっ!」

このやりとりを聞いていたU社長は、大笑い。

実は彼とは以前からこの店で何回か食事を共にしていて、エネゴリ君のことは先刻ご承知であり、かつファンの一人なんです。

「いやぁ相変わらずですネ、エネゴリ君は。」

「私の教育が至りませんで。 でも面白いでしょう? 

喜んでいただければナニヨリです。」

「えぇ、楽しませていただいてます。」

「どうですか? 彼を従業員として雇ってみては。
きっと職場の雰囲気が和みますョ。」

「いやァ、それはちょっとご勘弁を。」

その言葉を聞いていた店のオーナーの顔は、心なしか引きつっていたような・・・。うー


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小さな巨人

・・・といっても、『ドカベン』の里中投手ではありません。

今日は、身長150cmに満たない小柄な体格ながら、明治時代後期の激動期に日本の外交を取り仕切った政治家・外交官、


 小村 寿太郎

の命日にあたります。


        


寿太郎は1855(安政2)年、日向国飫肥藩(おびはん=現在の宮崎日南市)の藩士・小村寛平の長男として生まれました。

1861年に藩校・振徳堂に入ると、そこで教鞭を取っていた藩きっての俊傑で、寿太郎より9歳年上の小倉処平に見込まれ、彼の推挙により明治維新後の1870年に長崎へ遊学。

※後に小倉処平は西南戦争に参戦し自刃しますが、小村はその遺児2人の面倒を見てその恩に報いています。

大隈重信が作った英語学校・致遠館で数ヶ月間英語を学ぶと、同年には藩の推薦を受けて大学南校(東京大学の前身)に入学。


                       

                     15歳の寿太郎


ここで成績優秀につき学費を免除される官費生となった彼は、5人の学友と共に政府に建白書を出すなどの留学運動を起こし、自ら第1回文部省海外留学生に選出され1875年にアメリカ・ハーバード大学へ留学し法律を学びます。

同大でも優秀な成績を挙げ、小柄ながら周囲から尊敬を集めた彼は弁護士を目指し、卒業後も現地に残って2年間法律事務所で実務研修をしました。

そして帰国後は1880年に司法省刑事局に入省し、翌年27歳の敵に旧幕臣の娘で17歳だった朝比奈満知子さんと結婚・・・後に二男一女をもうけます。

4年後には語学力と法律の知識を見込まれて外務省に転籍。

ところが上司は彼の卓越した能力を見抜けず、翻訳局という閑職に10年近く塩漬けにされ、同時期に父親が事業に失敗し小村家は破産・・・長男の寿太郎はその借金を背負うことに。


彼は翻訳の内職をして糊口を凌いだそうですが、この翻訳によって多くの知識を身に着け、それを披露したことで陸奥宗光の目に留まることになるのですから、人生は分かりません。

 ※陸奥宗光に関する過去記事は、こちら。(↓)



 彼の推薦によって1893年に清国代理公使を務めたのを皮切りに、駐韓弁理公使を経て外務次官に。

1898年には駐米・駐露公使を歴任し、1900年に起きた義和団の乱では、講和会議全権として事後処理にあたりました。

そして1901年には第一次桂内閣で外務大臣に就任し、日英同盟の締結に成功すると、1905年には日露戦争の講和会議に日本全権として臨み、ポーツマス条約締結に漕ぎ着けます。


 
          
ポーツマス講和会議での小村(左から3人目)


しかしこの条約が決して日本にとって有利なものではなかったため、日本では新聞などメディアに煽られ戦争に勝ったと思い込んでいた国民の不満が爆発。

帰国した小村は新橋駅で群衆に取り囲まれたり、日比谷焼き討ち事件が起きたりと大荒れ。

小村自身も自宅に投石されたため、家族との別居を余儀なくされたそうな。


全権としてポーツマスに向けて出発する際、小村は新橋駅で戦勝を祝う歓呼の人垣に囲まれて見送る桂に

「帰って来る時には、人気はまるで正反対でしょう」

と予言したそうですから、外交センスやバランス、先見性に優れた外交官だったことが伺えます。


1908年に第2次桂内閣で再び外務大臣に就任した彼は、幕末以来の不平等条約の撤廃・改正に尽力し、1911年には日米通商条約航海条約を調印し、関税自主権の回復を果たします。

その後日露条約締結や韓国併合に関わった彼は、同年に桂内閣が総辞職すると同時に政界を引退。

そこで精魂尽き果てたかのように、引退から僅か3ヶ月後の同年11月28日・・・結核療養のため滞在していた葉山の別荘で56歳の生涯に幕を閉じました。

当代一流の外務大臣と言える彼に関して詳しく知りたい方には、こちらのご一読をお勧めします。


 『小村寿太郎 近代随一の外交家その剛毅なる魂


                        (岡田幹彦・著 展転社・刊)


       


パスポートには156cmと記載していたものの、実際には145cm以下だったという小柄な彼ですが、ある時身長180cm以上あった清国の李鴻章と対面した際、

「日本人は皆閣下のように小さいのですか?」

と小馬鹿にされると、

「日本には、〝大男総身に知恵が回りかね〟という諺があります。」

と見事に切り返したとか。

また駐露公使として赴任した際は、大津事件で皇太子がケガをさせられたことで、皇太后がそれまでの日本公使に

「陛下も先年貴国で受けた傷が、時節の変わり目には痛みますの。」


とイヤミを言っては相手が言葉に窮するのを楽しんでいましたが、小村公使は


「日本にも欧州諸国同様、時として狂人が出まして意外な椿事を起こすのは困ったものです。」


と軽く受け流し、それ以後彼女の口から小言は出なくなったそうな。

何を言われても黙って微笑んでいるような政治家には、外交は任せられませんョネ。

そんなことを思いつつ、〝小さな巨人〟の冥福をあらためて祈りたいと存じます。


【余 談】

彼は 「これ以上読んだら失明する」 と医者に止められるほどの読書家だったそうですが、その原点は祖母・熊子の教育にあったとか。

彼女は寿太郎少年に義経や弁慶の故事などを面白く、また秀吉や源平の逸話から武士道の訓育を施してくれたとのこと。

その尊敬する祖母から、彼は毎朝暗いうちから行燈に火を灯して

「さあ寿太郎、起きて本を読みなさい!」

と命じられて育ったそうです。

ただ 「勉強しろ、本を読め」 と子供にガミガミ言うだけでは、ダメみたいですョ。
あせあせ


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感覚経営

私のような昭和世代にとって、主としてビジネスマンには実業家として、また文学愛好家には詩人・小説家として親しみのある方だと思います。

今日は、その詩人経営者


堤 清二 氏 

の命日・七回忌にあたります。

       


清二氏は、1927(昭和2)年に、西武グループの創業者にして、衆議院議長も務めた代議士でもあった堤康次郎氏(1889-1964)と、彼の妾(後に入籍し本妻となった)青山操さんの間に生まれました。

(康次郎氏は、5人の女性との間に清二氏を含め5男2女をもうけています。)


その複雑な家庭環境と父親に対する反抗心・確執から、清二氏は東京大学経済学部入学直後、同級生で後に日テレの代表取締役会長を務めた氏家齊一郎氏に誘われて日本共産党に入党。

しかし1950年に共産党の分裂に伴い党中央から除名されると、翌年大学卒業後に肺結核の療養を経て、父・康次郎氏の秘書になり、この頃から詩を書き始めたとか。


         

                  堤 康次郎 氏

1954年に西武百貨店に入社し、翌年には取締役店長として百貨店運営を任されると同時に、処女詩集 『不確かな朝』 を発表し、1961年には室生犀星詩人賞を受賞。

そして1964年、東京オリンピック開催の半年前に父・康次郎氏が死去すると、清二氏が西武グループを継承する・・・とみられていましたが、結局後継者は、異母弟の堤義明氏に。


       


                  堤 義明 氏    


その義明氏と相互不干渉の確約を交わし、西武流通グループ(後のセゾングループ)を率いることになった清二氏は、阪急百貨店の清水雅会長を訪れて流通業の経営手法を学ぶと、スーパーマーケットの西友を急展開させて業務を拡大。

池袋西武百貨店に隣接する百貨店 『東京丸物』 を小佐野健治氏から買収して 『PARCO』(イタリア語で公園という意)を興し、全国に展開。

更に西武百貨店とPARCOを東急グループの本拠地・渋谷に進出させるなどして、当時二流百貨店と揶揄された西武百貨店を売上高で三越を抜き日本一の百貨店に育て上げました。


※ちなみに渋谷の公園通りは、このPARCOから命名されました。

また私個人としては、学生時代お世話になった吉野家が倒産した際、同社をグルーブに吸収して存続させてくれたことが実にありがたく、清二氏に対する好感度が一気に上がったことを憶えています。

(とは言え、私自身は辻井喬というペンネームで発表された彼の詩や小説は、殆ど読んでいませんが・・・。)

吉野家以外にもラコステ・ブランドで有名な大沢商会などの倒産企業を買収する一方でセゾン・カード、無印商品やファミリーマート、雑貨店のロフトやFM放送のJ-WAVE、大型書店リブロを展開。

またエルメスやラルフ・ローレン、イブ・サンローランやアルマーニなどの海外ブランドを初めて百貨店に導入するなど、その〝感覚経営〟は一世を風靡しました。


(この経営方針転換には、清二氏の1つ下の妹でフランスに留学した邦子さんの活躍が大きかったそうな。 清二氏曰く、7人の子の中で彼女が最も父・康次郎氏に性格が似ていたとか。)

しかしバブル崩壊により、金融機関からの借り入れに依存して事業の急拡大を進めていたセゾングループの経営は破綻し、1991年にセゾン・グループ代表を辞任。
(同グルーブは2000年に解体されました。)


その後は精力的に作家活動を展開し、1994年の谷崎潤一郎賞をはじめ多くの文学賞を受賞した清二氏が肝不全のために86歳でこの世を去ったのは、2013(平成25)年11月25日のことでした。

その亡くなる前年に、清二氏が応じた長時間インタビューが一冊の本にまとめられています。


  
『堤清二 罪と業 最後の「告白」 

                   (児玉博・著 文藝春秋・刊)


       


自ら語った父親や異母弟・義明氏との関係は、巷間言われていた確執や怨念とは違っていたこと。

一見温和な顔立ちながら、その経営姿勢は父譲りのワンマンかつ部下に完璧を求める独裁だったことには、少なからず驚かされました。


また幼少時、清二氏の家庭が極貧だったことにも・・・。

堤一族・西武王国に関して興味のある方は、是非ご一読を。

かつて三島由紀夫氏とも意外に深い交流があったという、ソニーの大賀氏同様芸術の感性を持った名経営者のご冥福を、あらためてお祈り致します。


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学生社長

今でこそIT関連で起業して社長になる現役大学生は珍しくありませんが、そのハシリというべき現役東大生が世間の注目を集めたのは、終戦直後にまで遡ります。


その人物の名は、


 山崎 晃嗣


今日は、この元祖・学生社長が自殺を図ってからちょうど70周年にあたります。(※死亡が確認されたのは翌25日)


       


彼は1923(大正12)年、関東大震災が起きた翌月に医学博士でもあり、事件が起きた時は2代目の木更津市長を務めていたた父・直の五男として、同市で生まれました。


非常に頭脳明晰だったことに加え、毎日15時間以上という猛勉強の末に一高・東大というエリートコースを突き進んだものの、戦争が彼の運命を大きく変えてしまいます。


学徒出陣で陸軍主計少尉に任官されますが、戦時中に部隊内で上官からのリンチで同級生を亡くしたこと。

また終戦直後上官の命令により食料横流しに加担したことで訴追され、取調べで警察から拷問を受けながら耐えて有罪ながら執行猶予がついて1年半後に釈放されたものの、自分だけが罪を背負わされたことから人間不信や人生に対する虚無感・厭世観が深く心に根ざしたようです。


1946年2月東大に復学するや、彼は全教科〝優〟獲得を目指し綿密な (というより病的な) スケジュール表を作成して猛勉強を始めますが、20教科中3教科が 〝良〟・・・ここでもショックを受けたとか。


そして1948年9月・・・彼は自らの頭の良さを確認するため、2人の学生と共に東京・中野区に 『光クラブ』 という貸金業の会社を設立し社長に就任。


資本金全てを 【遊金利殖、月1割3分】 などと謳った新聞広告に注ぎ込んだところ、これが大当たり。


この高利回り運用と、学生が立ち上げた珍しい名前の会社ということもあって注目度が高まり、出資者は後を断たず。


(日本マクドナルドの創始者・藤田田氏も出資した1人だったとか。)


その潤沢な資金を、彼は月2~3割という 『ナニワ金融道』 ・萬田銀次郎ばりの高利で個人事業者や中小企業に貸し付けて成功。


4ヶ月後には事務所を銀座に移転し、従業員30名を抱える程に急成長。 彼自身も何人もの愛人を囲うまでに。


         


しかしこんな暴利をお上が見逃すはずもなく、税務官と交際し内偵のため入社した女性秘書の通報・裏切りにより、1949年7月に物価統制令・銀行法違反により逮捕されてしまいます。


2ヵ月後に不起訴・釈放されたものの、不信感を抱いた債権者達が次々に手を引いたことで資金繰りに行き詰まり、約3,000万円(現在の貨幣価値で2.5~3億円)の負債の一部・300万円の決済を翌日に控えた11月24日深夜、最期の一文が


「貸借法すべて清算カリ自殺 晃嗣 午後十一時四八分五五秒呑む。


午後十一時四九分 ジ・エン・・・」


という、いかにもスケジュール魔だった彼らしい遺書を残し、青酸カリを飲み自殺して果てました。

最後に〝ド〟と書く直前に意識不明に陥ったのでしょうが、社長室の机上には、その遺書と交際した8人の女性の写真が整然と並べられていたそうな。

その異常なほどの几帳面さから推して、今風に言うなら強迫神経症だったのかもしれません。


以前華々しく世間に登場しながら結局は逮捕されたホリエモンと比較する論評が出ましたが、彼らはお互いをどう見るのか、興味あるところではあります。

この学生社長と事件に関して詳しく知りたい方には、こちらのご一読をお勧めします。

 『眞説 光クラブ事件 戦後金融犯罪のひかる真実と闇
                           (保坂正康・著 角川文庫・刊)


       

この『光クラブ事件』は、(戦前の価値観・権威が完全に崩壊し既存の道徳観を欠いた無軌道な若者による)アプレゲール犯罪のひとつと言われました。


名家に生まれながら、医学部への進学を望んでいた父親の意向に反して法学部の道に進んだ複雑な父子関係が、彼の人生に少なからず影を落としたことが伺えます。

更に悲惨な軍隊体験が、彼を感情が表に出ない合理主義者に変えたのかも・・・。

同書を読めば、自殺する1年数ヶ月前までは勤勉な東大生だったのに、なぜ彼が高利貸の道に突き進んでしまったのか? その裏事情を垣間見ることが出来ます。


もし彼が平成の世に生まれ、戦争中の人間不信に陥るような事件に巻き込まれなかったら・・・皆さんは彼がどんな人生歩むと予想しますか?

【余 談】

山崎と同時期に東大に通い、同じ授業にも出席していたといわれた三島由紀夫氏は、彼をモデルにした『青の時代』という作品を事件の翌年に上梓しています。

そしてその三島氏が防衛庁で割腹自殺をして果てたのは、同作を発表してからちょうど20年後の、山崎の命日と同じ11月25日でした。

これは果たして偶然だったのか・・・?


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演奏箱

私が社会人になったのは1981(昭和56)年でしたが、その頃はまだ飲食店にあった記憶があります。 それは

 ジュークボックス
      jukebox


juke とは俗語で〝音楽を演奏する〟という意味だそうですから、まさに『演奏箱』。

この硬貨を投入してお客さんが好きな曲を選んで聴ける、多数のシングルレコードを内蔵した装置が初めてお目見えしたのが、今からちょうど130年前の今日・1889年11月23日のことだったそうな。

場所はアメリカのサンフランシスコ。

バレ・ロワイヤル・サルーンに、パシフィック・フォノグラム社の総支配人ルイス・グラスなる人物が設置したという記録が残っているとのこと。


この装置は私たちが知っている、スビーカーから音が出るものではなく、エジソン蓄音機に聴音菅(イヤホン?)を接続して個別に聴くものでした。

    

またこれは音楽を聴かせるというより、声を機械で聞かせて人々を驚かせるのが目的だったとのこと。

その後各家庭に蓄音機が普及するにつれ一度は廃れましたが、電気録音とアンプが考案されたことで、硬貨投入式の蓄音機が復活。

1927年にレコードが選択できるジュークボックスが発売され、大成功。

ジュークボックスという呼称は、1940年以降から使われ始めたとか。


その頃から1960年代中盤まで人気が高かったようですが、それは当時レコードやプレーヤーが高価で庶民には手が出せなかったから。

1940年代中頃アメリカで生産されたレコードの3/4がジュークボックスで使われたといいますから、その人気ぶりが分かります。

やがて機械の改良・進化に伴い、電飾などを施した派手な機械が登場するように。

        


日本には戦後進駐軍が持ち込んだといわれ、タイトーやセガなど、現在のゲーム機メーカー大手が輸入を手掛けて1970年代までに飲食店・ホテル等に設置され、後に国産化されて全盛期を迎えたそうな。

ただその後カラオケが普及するにつれて、店からは徐々にジュークボックスが消え・・・今店に置いてあったとしても、それはインテリアのひとつになっているのかも。

個人的にジュークボックスで思い出深いのは、映画 『トップガン』(1986年公開)。

一度は袂を分かった彼女が戻ってきて、昔口説かれた時と同じ曲をかける・・・何とも洒落たラストシーンでした。

さて皆さんには、ジュークボックスにまつわる思い出、何かありますか?


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新嘗祭

今日は、『勤労感謝の日』。


国民の祝日に関する法律により 「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう日」 と定められ、1948年から公布・施行されている祝日。


ですが、1947(昭和22)年までは数ある神事の中で最も重要とされる


    にい  なめ  さい
   新 嘗 祭


が執り行われる、同名の祝日でした。


これは宮中祭祀のひとつで、天皇陛下が五穀の新穀や新酒を神々に供え、またご自身もそれを食して収穫に感謝する儀式であり、全国の神社でも同様の儀式が執り行われます。


新嘗祭は古くから行なわれており、1872(明治5)年までは旧暦11月の2回目の卯の日に行われていました。


それが太陽暦の導入と共に新暦11月の2回目の卯の日に行うこととなり、その最初が11月23日だったため、そのままこの日に固定され現在に至っています。   


宮中での式典は午後6時~8時の『夕(よい)の儀』、午後11時~翌日午前1時の 『暁(あかつき)の儀』

の2回、神嘉殿において催されるとのこと。


       
 
         夕の儀』のご様子


嘗て10年半にわたり侍従長を務められた現・宮内庁参与の渡邉 允(まこと)氏が以前月刊 『致知』 で天皇陛下の祭祀に臨まれる姿勢について語られていましたので、以下に抜粋・編集にてご紹介させていただきます。


       ◆    ◆    ◆    ◆


両陛下は毎朝6時にはお目覚めになり、お二方で吹上御苑の森の中を散歩なさっています。 驚くべきことに、ご病気の時を除いて、この6時起床を変えられたことはありません。

普通はその日の予定に合わせて起床時間を決めたり、休みの日は遅くまで寝ていたくなるものでしょう。


しかし1年を通じて時間を変えないという規律を自らに課しておられる・・・そこに私は陛下の一貫した強靭な意志力を垣間見る思いがします。

そんな陛下の1日は、本当にお忙しいものです。

例えばまず午前中、宮中三殿で宮中祭祀を執り行われた後、午後は宮殿において社会福祉関係者の拝謁や認証官任命式
※国務大臣その他の官吏を任命し、辞令を交付する儀式)がある。 


その後新しく着任した外国大使夫妻のためにお茶会をなさり、夜は御所で近く訪問予定の国の歴史について、学者の話をお聴きになる。

通常、夜10時半が御格子
【※みこうし=陛下が御寝(おしずまり)になること】ですが、大抵両陛下はそれ以後も翌日の行事のための資料や式典で読まれるお言葉の原稿に目を通したり、外国の国王・王妃にお手紙を書かれたりされているようです。

このように朝から晩まで次々と性質の異なるお仕事に取り組まれており、それが1年を通じて続くことになります。


両陛下がお出ましになる大きな行事や式典は休日・祝日に行われることが多いため、5日働いて2日休むという生活のリズムもないのです。


そこまでしてご公務に邁進される陛下の根底にあるもの

・・・それは、「国民のために」 という思いにほかなりません。


陛下のその思いが一つの形として具現化される場が


『宮中祭祀』 です。 


これは陛下が国家国民の安寧と繁栄をお祈りになる儀式のこと。

陛下の一年は、元旦朝5時半から執り行われる 『四方拝』 で始まります。


外は真っ暗、しんしんと冷えている中、白い装束に身をまとい神嘉殿の前に敷かれた畳の上に正座され、伊勢神宮をはじめ四方の神々に拝礼される。

その後宮中三殿に移られて 『歳旦祭』 を執り行われ、五穀豊穣や国民の幸福をお祈りになるのです。

このように陛下が執り行われる宮中祭祀は年間20回程度ありますが、この中で最も重要とされるのが11月23日の 『新嘗祭』 です。


夜6時から8時までと、夜11時から翌午前1時までの2回、計4時間にわたって執り行われる間、陛下はずっと正座で儀式に臨まれます。


我々も陛下がいらっしゃるお部屋の外で同じように2時間正座を続けるのですが、これは慣れている人でも難儀なことです。 


私は毎年夏を過ぎると正座の練習を始めていました。


ある時、陛下の元に伺うと、居間で正座をされながらテレビをご覧になっていたことがありました。

やはり陛下も練習をなさっていると思ったのですが
、後でお聞きしてみると陛下はこうおっしゃったのです。

「足が痺れるとか痛いと思うことは一種の雑念であって神様と向き合っている時に雑念が入るのは良くない。 


澄んだ心で神様にお祈りするために、普段から正座で過ごしている。」

その取り組み方ひとつとっても、専ら肉体的苦痛を避けたいと思っていた私とはまるで次元が違うと感服した一瞬でした。

これらさまざまな宮中祭祀の多くは国民の祝日に行なわれています。


つまり私たちが休んでいる時に、陛下は国民の幸福をお祈りされているのです。

そのことを私たちは忘れてはなりません。


     ◆    ◆    ◆    ◆

渡邊氏の仰るように、多くの人々が祝日の楽しいひと時を過ごしたり寝入っている本日の昼夜、農耕民族たる日本人の代表としてその祭祀を司る天皇陛下自らが長時間正座しながら神々に感謝の祷りを捧げられていることを、国民はしっかりと認識すべきでしょう。


また同記事には、その他にも大きな地震や災害が起きた際にも狼狽えず即座にテレビをつけて情報を収集し、ご自身よりも国民の安全を気にかけておられたエピソードなどが記されておりました。

〝国民が第一、自分は二の次〟・・・普段からのこうしたお考えや姿勢が両陛下から滲み出ているからこそ、東日本大震災や水害被災地をお見舞いされた際、多くの被災者に希望と勇気を与えて下さったのでしょう。

逃げるように現場を離れようとして被災者から厳しい言葉を浴びせられた当時の総理大臣とは、比べることすら憚られます。


今年は既に大嘗祭が今月14~15日にかけて執り行われたため、宮中での新嘗祭はありません。

    

しかし日々私たちのために祈りを捧げられている両陛下に感謝し、その思いに応えられるような国民にならねば!・・・と改めて今日、気を引き締める次第。


そして敗戦後GHQによって葬り去られた伝統ある祭祀の歴史や由来を次世代に語り継ぐことも、私たち大人の義務であり、〝日本を取り戻す〟ためには、まず 『勤労感謝の日』 という意味不明の呼称を 『新嘗祭』 に戻すべきだと私は考えます。

今日はそんな思いを込めつつ、厳粛な気持ちで国旗を掲揚しましょう!


        

 


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有耶無耶

将棋ファンの私にとって、それは少なからずショックを受けた出来事でした。 

それは今から26年前の1993(平成5)年11月22日に起きた


 森安秀光九段刺殺事件

つまり今日は、森安九段の二十七回忌にあたります。

       

森安九段は、1949(昭和24)年に岡山県笠岡市で生まれました。

小学校6年生の時に兄・正幸さんと共に奨励会に入会し、1968年には兄より一足早く四段に昇進。

新人王戦で優勝するなど、関西棋界のホープとして脚光を浴びました。

1980年にはA級八段となり、トップ棋士の仲間入り。

〝森安だるま流〟と呼ばれる粘り強さを信条として、1983年には棋聖戦に勝ち初タイトルを獲得。


しかし翌年A級から陥落し、一時はB級2組まで落ち低迷しましたが、1988年に九段に昇進し復活の兆しが見えてきた矢先に、事件は起きました。


1993年11月23日午前9時前、西宮市にある自宅書斎で森安九段がされて死んでいるのを妻が発見。(死亡推定時刻は22日午後5~6時)

警察に通報しようとしたところ、包丁を持った当時12歳だった中学1年生の長男に襲われ、首に全治2週間のケガを負います。

それでも気丈に包丁を奪うと、長男は


「ボクの逃げ場がないんや」

と絶叫して、そのまま家を飛び出しました。

妻は隣家に警察への通報を依頼し、事件が発覚。


    

警察が長男の行方を追い、翌24日午後2時過ぎ、自宅から約7km離れた行きつけのファミコンショップで発見・保護されました。

警察の取り調べに対して、長男は母を刺したことは認めたものの、受験勉強を厳しく強いていたという父親を批判する供述はしたものの、刺殺についてはは「知らない」と一貫して否認。


そして翌年1月に西宮児童相談所が長男の処遇を決定すると、森安九段を殺したのが誰か分からないまま、事件に関する報道は示し合わせたように一切されなくなりました。

誰が考えても犯人は長男なのに、そう断言するメディアはなく、また少年法に護られて児相がどんな処遇をしたのかも不明のまま、事件は風化しています。

当時より少年犯罪に世間が厳しい目を向ける現代では、実名や顔写真がネット上で拡散されるのでしょうが・・・。

おそらく生きているであろう長男は、現在38歳。
果たして、どこで何をしているのやら?


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