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定 年

皆さんの勤務先は、何歳で


 定年退職


になりますか?

おそらく60歳かそれ以上という方が多いと思いますが、私が社会人になった1981(昭和56)年当時は、私の勤務先を含めて55歳という会社が殆どだったと思います。

しかしそれ以前には、平成世代には信じられない状況がありました。
それは、男性は55歳でも女性が30歳という男女格差があったこと。

いわゆる〝寿退社〟が当たり前の時代のことですが、これが男女差別だとして複数の会社が女性社員に訴えられました。

その中の一つである名古屋放送が訴えられた訴訟で、今からちょうど45年前の今日・1974(昭和49)年9月30日に、名古屋高裁が

「女子の定年を30歳と定める就業規則は民法90条に反し無効」

と、原告勝訴の判決を下しました。

まぁ今から考えれば当然のことですけどネ。


この後も男性より女性の定年が5歳若いことを不服として訴えられた日産自動車事件でも、ちょうど私が社会人になった1981年に最高裁が会社側の上告を棄却。

また男女雇用機会均等法の改正などを受け、日本企業における定年の男女格差はなくなりました。

       

一方で55歳という年齢は、時代と共に徐々に引き上げられることに。

1986年には『高年齢者雇用安定法』で60歳に引き上げる努力を義務化し、1998年には60歳未満の定年制を禁止。

その後2000年には65歳までの雇用確保措置の努力が義務化され、2013年には希望者全員の65歳までの雇用が義務化されました。

少子高齢化が進む我が国では、致し方ない措置だと言えましょう。

現在、定年制を定めていない企業は、全体の7.4%。
従業員数1,000名以上の大企業は0.3%ですが、100名以下の中小企業では10%を超えているのが実情だとか。

もう少しすれば、希望者には定年を廃止する時代がやってくるかもしれません。

な~んて言ってる私自身は、60歳でリタイアしちゃいましたけど。


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緻 密

今日は、名作・大作を多数世に出した日本を代表する女流作家、

 山崎 豊子 さん


の命日・七回忌にあたります。


       


 


山崎(本名:杉本 豊子)さんは、1924(大正13)年に大阪・船場で老舗昆布屋を営む小倉屋山本という店に生まれました。

1944年に旧制京都女子専門学校(現・京都女子大学)の国文学科を卒業した彼女は、毎日新聞社に就職。

大阪本社調査部を経て、1945年に学芸部に転属されたことが、彼女の運命を決したと言えましょう。

なぜなら当時の学芸副部長が、後に日本を代表する作家となる井上靖さんだったから。

彼の指導を受けながら記者としての修練を重ねた山崎さんは、やがて小説を書き始め、1957年には生家の昆布屋をモデルにした『暖簾』を発表して文壇デビュー。

同作はすぐに映画・ドラマ化されて人気を博すと、翌年には吉本興業の創業者・吉本せいをモデルにした『花のれん』で第39回直木賞を受賞したのを機に新聞社を退職し、作家に。

初期の頃は典型的な大阪商人の姿を描いた『ぼんち』、神戸銀行をモデルにした経済小説『華麗なる一族』など、地元・大阪を舞台にした作品が多く、1970年代後半からは戦争の非人間性を描いた『不毛地帯』・『二つの祖国』・『大地の子』の三部作が有名。

とは言え、私が初めて山崎さんの作品に触れたのは、本ではなく映画でした。

それは、大学医学部の内情を鋭くえぐった 『白い巨塔』。

口ひげをはやした田宮二郎さん演じる主人公が「財前教授の総回診が始まります」という声と共に、他の意志や看護婦を引き連れて病院の廊下をあたかも大名行列のように闊歩するシーン・・・子供の私には衝撃的で、今でもはっきり憶えています。


 


の後も映画やテレビドラマで彼女の作品に触れてばかりだった私が先に読んだ小説はといえば、日本航空をモデルにした超巨編の『沈まぬ太陽』。


1995~99年まで週刊新潮で連載された同作を、私は単行本として発売された1999年にすぐ買い求め、一気に(と言っても5冊もありましたから2週間あまりで)読了しました。


        

山崎さん自身は認めていないものの主人公は実在の元社員とされ、御巣鷹山墜落事故や経営不振を題材にフラッグキャリアの苦悩を描いた同作を読んで、私は彼女のストーリー構築力に舌を巻いたものです。

しかし私の目にはどちらかというと組合活動に身を入れ過ぎて中東・アフリカなどの支店をドサ回り(?)させられた主人公を擁護し会社に厳しい目を向けた、少々バランスを欠いた印象も否めませんでしたが。

やはり日航も同様に感じたようで、同作連載中の週刊新潮は機内サービスから外されたとか。


そしてこの作品を仕上げてから4年後、海軍軍人を主人公にした 『約束の海』 連載中、体調不良により緊急入院してから1ヶ月後の2013(平成25)年9月29日・・・呼吸不全により89歳でこの世を去りました。

綿密且つ粘り強い取材を重ね、ノンフィクションとフィクションを織り交ぜて書き上げた社会派小説はいずれも骨太で、

「万年筆の先から血が滴(したた)る思いで書いている」

と自らが仰る作品の殆どが映画・ドラマ化されたことからも、質の高さが証明されています。

ただ
参考資料を殆ど脚色せず作品に反映させたため、盗作の指摘を何度も受けてしまいましたが・・・。


取材で面談した某一流企業の会長が冷淡な態度を取った際、

「私を、そこらの作家と一緒にしないでください。 もう結構です!」

と激怒し憤然と席を立ったという〝女傑〟作家のご冥福を、改めてお祈り致します。
笑3

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密 告

今日・9月28日は、20世紀ハリウッド隆盛の一翼を担い、アカデミー賞監督賞を2度獲得した

 エリア・カザン
   Elia Kazan

の命日、日本流に言えば十七回忌にあたります。

       

カザンは1909年にオスマン帝国(現・トルコ)の首都イスタンブールで、ギリシャ人家庭に生まれました。

その翌年にギリシャとオスマン帝国,が戦争になったため住みづらくなり、カザンが4歳の時に両親共々アメリカに移住。


演出家を志望した彼はイェール大学などで演劇を学び、1933年にニューヨークの劇団〝グループ・シアター〟に入団し、俳優として舞台に立ちました。


1942年にソーントン・ワイルダーの戯曲『危機一髪』を演出し、これがビューリッツァー賞を受賞したことで名が知られると、1944年には映画『ブルックリン横丁』で初メガホン。

1947年の『紳士協定』ではユダヤ人問題をテーマにした初の映画として話題を呼び、早くもアカデミー賞の作品賞・監督賞・助演女優賞を獲得。


また同年には戯曲『欲望という名の電車』を演出し、大成功。


マーロン・ブランドが出演したこの舞台はピューリッツァー賞・ニューヨーク劇評家サークル賞などを獲得。


この頃、彼はグループ・シアターの同窓生らと共に、俳優養成学校〝アクターズ・スタジオ〟を創設。

ここからは前述のマーロン・ブランドやジェームズ・ディーンなど多くの名優を輩出しました。

この学校で教えた〝メソッド〟を習得した俳優を起用したカザンの作品・・・映画版 『欲望という名の電車』 (1951年) や 『エデンの東』(1955年)な どは、ハリウッド映画界に新風を吹き込みました。

    


しかしそんなカゾンには、脚光を浴びるのとは逆に影の部分も・・・。
それは、1950年代にアメリカで吹き荒れたレッド・パージ。

グループ・シアター時代に短期間ながら共産党に入党していたことがあった彼は1952年、米下院非米活動委員会に共産党員の嫌疑をかけられます。

彼はそれを否定するために司法取引し、共産主義者の疑いがある映画関係者ら11人の名を同委員会に提出。

そのおかげでは彼はその後も映画界で活躍することが出来ました・・・が、当然仲間内を売った形となり、裏切り者の烙印を押されることに。

その後もメガホンを取った彼は、1998年に長年の映画界に対する功労を評価され、アカデミー賞・功労賞を授与されました。

しかしその授与式の際、一部の映画人からはブーイングが出たり、恒例のスタンディング・オベーションをせず座ったまま腕組みをして無言の抗議をする者がいて、会場は異様な雰囲気になったといいます。

       


そんな毀誉褒貶に包まれた彼が94歳でこの世を去ったのは、2003年9月28日のことでした。

嫌疑をかけられた時に他人の名を出さなかったら、彼自身はどうなったのか? 

それは知る由もありませんが、もし皆さんが同じ立場に立たされたらどうするでしょうか。


非常に難しい決断を迫られると思いますが・・・。


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夜 景

東京から横浜方面に ドライブする方の多くは、ここを通るはず。

その横浜名所のひとつ


横浜ベイブリッジ


が開通したのが、今からちょうど30年前の今日・1989(平成元)年9月27日のことでした。


    


全長860m(中央支間長460m)・全幅31m、高さ172mある2本の支柱塔からワイヤーで吊るされた、当時世界最大の斜張橋が建設されたのは、横浜市内及び東京方面をつなぐ首都高速道路などの渋滞解消が目的でした。


    

1980年11月に着工し、難工事の末9年の歳月をかけて完成。

日没から24時まで白色ライトで照らされていますが、夜間は毎時20~30分と50分~正時までのそれぞれ10分間は支柱塔の先端がブルー照明に変わり、遠くから眺めても美しい吊り橋です。


また橋の上から眺める横浜市内や遠く富士山も見られる景観は大変注目を集めました。

それゆえ、開通直後はこの橋の路肩に車を停めて眺望を楽しむ人が続出し、社会問題に。

さすがに今ではそういう人はまずいません・・・もし停めたら、すぐパトカーが飛んでくるでしょうし。


また当初は高速道だけでしたが、地域住民の要望もあり2004年には高速道の下が一般道の国道357号線として開通しましたので、料金を払わずとも渡ることが可能になりました。


ただ残念なのは、逆に開通当初にあった〝スカイウォーク〟と呼ばれた遊歩道が2010年に廃止されてしまったこと。

有料(500円程)でしたが、ゆっくりとこんな風景を楽しめるリーズナブルなデート・コースだっただけに、残念。


    

しかし皆さん、喜んでください。

実はこの遊歩道が、復活!


何でも、最近建造されたクイーン・メリー2などの巨大豪華客船がベイブリッジの下を通過することが出来ず、横浜ふ頭ではなく大黒ふ頭に係留され、それを間近で見られるよう、今年の春から営業を再開。

但し通年営業ではなく、客船が係留している期間のみだそうですが。

 
※詳細は、下記HPをご覧ください。(↓)

  https://www.city.yokohama.lg.jp/kanko-bunka/minato/taikan/kengaku/sw201905.html


さて、もし横浜でのデートを計画するなら、私は・・・


夕方からスカイウォークで豪華客船を眺め → 横浜中華街で美味しい四川料理に舌鼓 → ライトアップされたベイブリッジを通過 → 首都高湾岸線を突っ走り → 夜の羽田空港を離発着するジェット機を眺めながら滑走路の下を通って → お台場を眺めつつレインボーブリッジを通過 → 東京タワーや潮留・銀座の高層ビル街の間を走りぬけ → ご帰宅


・・・なぁんてのがいいですねェ。

その逆コースとなりますが、夜のベイブリッジ・ドライブの動画がありましたので、ご参考までに。(ベイブリッジ通過は、2分過ぎから)



おっと、そういえばこのデート・コース・・・まだ女王様をお連れしていなかった! うー


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帆 布

今は〝Gパン〟とは言わないんだそうですネ。

Gパンとは、戦後日本に駐留していたアメリカ兵が GI government issue )と呼ばれ、その彼らが穿いていたことからそう呼ばれるようになったというのが、有力説だとか。

このGパン・・・いや、ジーンズのトップ・ブランドとして有名なのがリーバイスですが、今日はこのブランド・メーカーである 『リーバイ・ストラウス社』 の創業者、

 
リーバイ・ストラウス

     Levi Strauss


の命日にあたります。

        


リーバイは1829年に織物の行商人だったユダヤ系ドイツ人の父ヒルシュ・ストラウスと二番目の妻との間の3番目の子として、ドイツのブッケンハイムに生まれました。

しかし彼が16歳の時に父親が亡くなったため、母と2人の姉と共に織物の卸売業を営んでいた異母兄のヨナとルイを頼ってニューヨークへ移住。


その後ルイビルに移って異母兄の扱う商品を販売していたリーバイは、24歳でアメリカ国籍を取得。


そしてストラウス家はゴールドラッシュに湧くカリフォルニア州サンフランシスコで織物の商売をしようと決意。

同地に先乗りしたリーバイは、姉の夫デビット・スターンと共に 『リーバイ・ストラウス&カンパニー』 を設立し、異母兄から仕入れた衣料品や寝具などを卸すように。

更に金鉱山の労働者向けにテントや荷馬車の幌用のキャンパス帆布も販売・・・これが後のジーンズ製造販売に繋がりました。

そして1872年、彼はネバダ州リノで洋服店を営むジェイコブ・デイビスからズボンに金属鋲を用いる新しい製法の特許を取る資金提供を持ちかけられ、これに同意。

共同申請して翌1973年に特許を取得すると、早速アモスキーグ社製の帆布を用いポケットを銅製の鋲で強化した新しいスタイルの鉱夫用作業ズボンを製造。

これがブルージーンズ誕生の瞬間でした。


    


1880年代に入って、素材がキャンパス地からデニム地に変わり、現存する最古のジーンズが生産され、以後現在に至るまで人々のパンツとして製造・販売されているジーンズ。


※このデニムの語源は、“serge de Nimes ”(フランス南部のニーム製のサージ)が簡略化されたもの。

そしてこの生地が北イタリアで生産されジェノヴァ港から各国に出荷された際、荷札につけられた出港地の “Genova ” をフランス語で “Gênes ” と記載。

これが元となり、アメリカで “Jeans ” になったそうな。


今から117年前の今日・1902年9月26日にリーバイは73歳で亡くなりましたが、彼は生涯独身だったために子がなく、会社は姉の4人の子供が引き継ぎました。

    


1906年のサンフランシスコ大地震により本社ビルが倒壊するなど大打撃を受けた同社ですが、見事立ち直り、現在はアメリカ本土以外に生産拠点を移しながらもジーンズの供給を行っています。

しかし鉱夫の作業着として生産したジーンズが今やプレミアがついて高値で取引されているのを、リーバイは天国でどんな気持ちで眺めているのか?・・・ちょっと聞いてみたい気もします。


リーバイ・ジーンズをお持ちの方・・・今日は創業者に敬意を込めて穿いてくださいまし!笑2


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円舞曲

日本の年末年始といえば紅白歌合戦やゆく年くる年ですが、音楽の都・ウィーンでは、ウィーン・フィルによるニューイヤー・コンサートが恒例行事。

そこで演奏されるのが優雅な円舞曲の数々・・・今日は、その〝ワルツの父〟と言われる

 ヨハン・シュトラウス1世

    Johann Strauss I


の命日・没後に170周年あたります。

         


シュトラウスは、1804年ウィーンに生まれました。

実家は居酒屋を経営しており、そこに出入りしていた所謂流しの音楽家たちの奏でる素朴なワルツを聴いていたことが、彼の音楽性の素地を築いたそうな。


しかし店の経営は思わしくなく、彼の幼少時に倒産。


母は過労死し、父親は借金苦でドナウ川に投身自殺してしまい、親戚に引き取られ製本屋で奉公を強いられるという、過酷な幼少期を過ごしました。


暫くしてその環境から飛び出した彼は、かつて居酒屋で見ていたのと同じ流しの音楽家に。

そして15歳の時にミヒャエル・パーマーの楽団に入り、そこで年上の楽団員ヨーゼフ・ランナーと知り合います。

やがて放漫経営を続けるパーマーに愛想を尽かせたランナーに誘われるまま、シュトラウスは楽団を離脱。

パーマーの曲を演奏できなくなった2人が演奏する曲を自ら作る必要に迫られたことが、後に〝ワルツの父〟を生むことに・・・。

ランナーと組んだ楽団は絶大な人気を博し、演奏依頼に応えきれなまくなった2人は楽団を2つに分けて、それぞれが率いるように。

その頃シュトラウスは、同じく居酒屋に生まれた4つ年上のマリアと出会い、彼女が妊娠したことで結婚。

その3ヶ月後に生まれたのが、後に〝ワルツ王〟といわれることになる、長男のヨハン・シュトラウス2世でした。

音楽室に飾られている肖像画は、父親ではなくこの髭もじゃの息子の方が圧倒的に多いと思います。(

       


ところが、長男が生まれたことで給料アップを要求したもののランナーに拒否されたことで2人の間には隙間風が吹くようになり、やがてはコンサート会場で取っ組合いするまで悪化し、喧嘩別れ。

その後は2人がライバル関係となって張り合い、ウィーンでは〝ワルツ合戦〟が勃発。

しかし1843年にランナーが亡くなってワルツ合戦は幕引き・・・になるかと思いきや、今度は息子のシュトラウス2世が挑戦状を叩きつけてきたのです。

実はシュトラウス1世、我が息子が自分と同じ不安定な音楽家を目指すことには大反対。

しかし彼は1933年から10歳年下のエミーリエと不倫関係に陥り、彼女の元に入り浸り・・・怒った妻が、その意趣返しとばかり息子が音楽家になるよう応援していたのです。

1844年に息子が作曲家としてデビューを果たすと、今度は〝カドリーユ対決〟と言われる父子対決が始まりました。

(その直後にシュトラウス1世は離婚。)

考えようによっては、2人が張り合ったおかげで私たちは数多くのワルツの名曲を楽しめることになったわけです。

その後宮廷舞踏会のま音楽監督に就任し、オーストリアの英雄を讃える有名な 『ラデッキー行進曲』 などを作曲したシュトラウス1世でしたが、イギリスへの演奏旅行から帰った後にエミーリアに生ませた子が罹った猩紅(しょうこう)熱を移され、1849年9月25日に45歳という若さであっけなくこの世を去ってしまいました。

妻との間に6人、愛人との間に8人の子を残して・・・。


ところで彼が亡くなった時、愛人のエミーリエは遺体を置き去りにして一切合切の家財道具を持ち去ってトンズラ。

かつて張り合った息子と前妻のアンナが引き取ったのだそうな。

男性諸氏は、人生の最期に子供や家族に迷惑をかけることのないよう、くれぐれもご注意を!うー

それでは最後に、ニューイヤー・コンサートでの彼の代表作・ラデッキー行進曲をお聴きいただきましょう。




 


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掃 除

今日・9月24日は、

 清掃の日

なのだそうです。

1971(昭和46)年に 『廃棄物の処理及び清掃に関する法律』 が施行されたことを記念して厚生省(現・環境省)が制定したとのこと。

また今日から10月1日までを〝環境衛生週間〟として、エコやリサイクルについての意識を高める取り組みを強化するそうな。


とはいえ、清掃・掃除は今日だけ、あるいは向こう1週間だけすれば良いというものじゃないですょネ。

毎日すべきお務めだと思いますが・・・皆さんは、ご自宅あるいは自室・トイレの掃除をちゃんとやっていますか?

また勤務先では、如何でしょう。


       

よく企業体質は、その会社のトイレを見れば分かるって言われます。

コンパニや飲食店でも、ピッカピカに磨いたトイレもあれば、中には掃除しているとは思えない汚いトイレも・・・。

トイレが汚い店は、2度と利用しようと思いませんょネ。

逆に時々隣近所の掃除までしている店員の姿を見かけると、そのコンビニを利用したくなります。


私自身も、会社の前の歩道を掃除する時は、気持ち隣のマンション前も掃いてますけどネ。

掃除といえば、自動車用品販売会社・イエローハットを創業し、一代で全国チェーン店300以上、年商800億円以上の大企業に育て上げた鍵山秀三郎氏が有名。

鍵山氏は、28歳で脱サラして会社を興したものの、当初は苦難の連続。


そこで毎朝午前6時に出社してトイレや玄関の掃除を続け、10年後には数人の社員が、そして20年後には大半が自発的に掃除するようになり、それと共に社業が伸びたとか。


       

              素手で便器を磨く鍵山氏

その経験から、鍵山氏が中心となって1991年に『日本を美しくする会』を発足させ、そこから派生した『掃除に学ぶ会』は日本国内120ヶ所以上、台湾・ブラジル・ニューヨークなど海外にもその運動は広がっています。

現在でも素手で便器を掃除するという鍵山氏の信念を、この著書から学び取ることができます。 


 『掃 除 道』 (PHP文庫・刊)


        


同書には、掃除をすることによって会社の雰囲気や業績、荒れた学校が変わる様子、更には暴走族が更生するというウソのようなホントの事例が、日本国内だけでなく海外も含め紹介されています。


私自身、20年程前に街に出てトイレ掃除をさせていただく、という企業研修を受けた経験があります。

あまりキレイでないトイレを心を込めて磨く、そしてピカピカに磨き上げることの喜びや、店主に感謝される嬉しさを実体験し、少なからず人生観が変わったものです。

今までトイレ掃除したことのない方は『清掃の日』の今日、自宅や会社で思い切ってやってみませんか?

亭主の株、あるいは上司の評価が上がること、請け合いですょ・・・って、1日だけじゃダメでしょうけど。
あせあせ



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硝 子

皆さんは、〝アール・ヌーボー(仏語=Art Nouveau )〟をご存じでしょうか?

これは〝新しい芸術〟という意味で、1900年前後にフランス・ベルギーなどのヨーロッパで広まった美術運動で、従来の様式に囚われない装飾性や鉄などの新素材を用いたことが特徴。

このトレンドの中で、それまで単なる工業製品だったガラスを陶器・家具などの美術品に引き上げたのが


 シャルル・マルタン・エミール・ガレ

       Charles Martin Émile Gallé


今日は、このフランスを代表するガラス工芸家・デザイナーの命日にあたります。

       


ガレはロレーヌ地方ナンシーで家具工場を経営する父親の息子として、1846年に生まれました。

地元の高等中学校を優秀な成績で卒業した彼は、1865~67年にかけてドイツのヴァイマールに留学し、その間マイゼンタールにあるブルグン・シュベーラー社でガラスの製造技術を習得。


1870年に普仏戦争に従軍後、父親と共にイギリスの美術館を見学した彼は、1877年にその父親に代わって工場責任者に。

翌年、独自に開発した月光色ガラスや陶器を出品して銅賞を、また庭園装飾の陶器で銀賞を獲得して、一躍注目を浴びた彼は、その後も新製品を続々と製造。

1884年には装飾美術中央連盟主催の『石木土そしてガラス』展で金賞を受賞。


   

そしてその翌年には水墨画を得意とする日本画家・高島北海(1850-1931)と交流を持ったことで日本に関する知識を得た彼は、水墨画のぼかしを取り入れた黒褐色のガラス〝悲しみの花瓶〟をも生み出しました。

    


様々な創意工夫と新しい技術の導入を重ねたガレは、1889年のバリ万博に大量の作品を出品して、ガラス部門でグランプリ、陶器部門で金メダル、そして家具部門で銀賞を受賞し、工芸家として世界的に名を知られるように。


更にマルケトリ技法やパチネ素材で特許を取得すると、1900年のパリ万博でも大量の作品を出品し、再びグランプリを獲得・・・その名声を不動のものとしました。

その翌年に〝エコール・ド・ナンシー(ナンシー派)〟の会長に就任した彼が、持病の白血病悪化により58歳でこの世を去ったのは、今から115年前の今日・1904年9月23日・・・日本では日露戦争真っ最中頃でした。

その後夫人らの手によってエミール・ガレ商会は存続されましたが、第一次世界大戦中は作業中断を余儀なくされ、更に世界大恐慌の煽りを受けて遂に工房は閉鎖・売却。

しかし彼の遺した膨大な作品は、世界中で今でも観賞することができます。

日本でも、彼の作品を100点以上展示している 『エミールガレ美術館』(栃木県那須郡) をはじめ、『北澤美術館』(長野県諏訪市)、『鳴門ガレの森美術館』(徳島県鳴門市)、『サントリー美術館』(東京都港区)、『北海道立近代美術館』(北海道札幌市)、『ポーラ美術館』(神奈川県足柄下郡)など、他にもいくつかの美術館で観賞するそうな。

毎日食器として使っているガラス製品を芸術として見つめ直すのも、よろしいかと・・・。笑2

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mistake

皆さんは、〝アプレゲール犯罪〟という言葉をご存知でしょうか?

これは終戦後にそれまでの価値観や権威が完全に崩壊し、それによって道徳観を欠いた無軌道な若者が起こした犯罪のことだそうな。

その代表例と言えるのが、今から69年前の今日起きた

 日大ギャング事件


でしょう。

1950(昭和25)年9月22日午後2時頃、日本大学の会計職員2名と運転手1名が銀行から同大職員約100名分の給与190万円を東京・神田の銀行から受け取り自動車で運んでいる最中、19歳の男性Yに “Hey stop!” と停められます。

普通はこの状況で停車させるはずはないのですが、このYは彼らと同僚の運転手。

「何の用だ?」 と気軽に車を停めて声をかけたところ、Yはいきなりナイフを出して同僚を切りつけて脅し、大手町方面に車を運転させた後、3人を車から降ろして現金の入ったボストンバックを強奪・逃走。

あの『3億円事件』より単純かつ荒っぽい手口ですが、簡単に身元が割れる間抜けな犯行ともいえます。

 ※三億円事件に関する過去記事は、こちら。(↓)


このYには、18歳の恋人Fがいたのですが・・・・何と彼女は、日大教授の娘。

大学構内で父親と同居していた彼女は息苦しさを感じていたらしく、宿直室で手紙の受け渡しをした際に知り合った、かつてグレた経験があり腕にジョージという刺青を入れ粋がっていたYに惹かれ、交際をスタート。

しかしそれが父親の逆鱗に触れ反対されたことで家出した彼女は犯行当日の夜、有楽町駅前の喫茶店で落ち合い、逃避行を始めます。

この強盗は、その駆け落ちというか逃亡資金を作ることが動機だったのです。

と言っても、品川区大井の会社員宅の2階をアメリカ人二世という振れ込みで英語を交えて間借りすることに成功したものの、すぐにその会社員の奥さんに新聞に出ていた犯人だと気づかれ、通報で駆け付けた警官に24日午後5時頃にあっさり御用。 

その際にアメリカかぶれのYが

Oh, mistake!

とオーバーに両手を広げて叫んだことが話題になったとか。

今なら間違いなく年末の流行語大賞にノミネートされたでしょうネ。


       

上の写真が、捕まった直後の二人ですが、何とも気取っていておよそ犯罪者には見えないところが、いかにもアプレゲール犯罪という感じ。

ですが、それもそのはず、彼らは逮捕されるまでの2日間で、強奪した190万の内30万円を衣服などの買い物で使いまくったんですから。


当時の大卒初任給が3,000円。 現代が約20万円だとすると、当時の30万は単純計算で約2,000万円!驚き顔

よくまぁそれだけの買い物が出来たもの・・・と怒りを通り越して呆れてしまいます。

翌年2月、東京地裁でYに4年以上7年以下の懲役、Fには懲役2年執行猶予3年の判決が言い渡されました。

その後Fは日大を退職した父親と共に別の仏教系大学に行き、そこで教師となり信者の男性と結婚したとか。

一報のYについては情報がありませんが、もし今生きていれば88歳。

存命ならば、その後の人生と犯行についての感想を聞いてみたいものですが・・・そもそも浪費した30万円を、彼は返済したんでしょうかねェ?うー

若気の至り、という一言では片づけられない、稚拙かつ重大な犯罪でした。


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有言実行

世界に誇る日本人の発明品といえば、インスタントラーメン・青色LED・カラオケに温水便座など数多くありますが、養殖真珠も間違いなくそのひとつに挙げられるでしょう。

今日は、その真珠の養殖・量産化に世界で初めて成功した


 御木本 幸吉

の命日・没後65周年にあたります。

       

幸吉は江戸時代末期の1858(安政5)年に現在の三重県鳥羽市で代々うどんの製造販売を営む 『阿波幸』の 、八男三女の長男として生まれました。

祖父は商才に長け、また父親は便利な粉挽機の発明で県から賞金を受け取ったことがあったそうですが、幸吉はそのDNAを色濃く受け継いだようです。

正規の学校教育は受けられなかったものの、士族から寺子屋で読み書き・そろばんを習った彼は、幼少の頃から家業のうどん製造販売では利が薄く将来性がないことから、父親の言いつけで14歳から家業の手伝いをする傍ら青物の行商を始めました。

周囲には遠大なる目標を口にしたことから〝大法螺吹き〟と言われたそうですが、その業績を見れば分かる通り、彼はあらゆる手練手管を駆使して夢を実現していきます。

艦長や船員たちに手品を披露して可愛がられ、イギリス戦艦への青物や卵の売り込みに成功した幸吉は、1876年の地租改正で納税が米から金に変わったことから米が商売の種になると睨み、青物商から米穀商に転換。

20歳の時に家督を受け継き゜、22歳で最年少の町会議員に選ばれると、天然真珠など志摩の特産品が有力な貿易商品になることを知り、海産物商に再転換。

真珠やアワビ・伊勢海老などの販路を拡大して地元の産業振興に貢献し、
志摩国海産物改良組合長、三重県勧業諮問委員、三重県商法会議員などを歴任して地元の名士に。


そして1881年に鳥羽藩士族の娘だった17歳のうめと結婚した彼は、明治政府の殖産新興のうねりの中で、高値で取引される天然真珠に代わる養殖真珠の開発に着手。

真珠の養殖については、既に支那で12世紀に発刊された書物に方法が記載されており、1850年代にはイギリスの学会でも報告され、ヨーロッパでは研究が始まっていました。

(但しそれはあくまで真珠貝の内側を利用する貝付き真珠でしたが。)


1888年から天然真珠の乱獲で激減していたアコヤ貝の増殖を始めていた幸吉は、東京帝国大学の箕作佳吉らから学術的に養殖が可能なことを教えられると、1890年から養殖真珠の実験を開始。


資金難や赤潮被害の危機を乗り越えた彼は1893年7月、実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着しているのを発見。

1896年1月に、半円真珠の特許(第2670号・真珠素質被着法)を取得すると、1907年には東京帝大で水産動物学を専攻後御木本研究所に入り、1903年に幸吉の次女と結婚した西川 籐吉(とうきち 1874-1909)が真円真珠養殖法の特許を請願。

残念ながらこの特許が認定されたのは西川の死後でしたが、彼の開発した(真珠貝の外套膜組織の一片を切り取って真珠貝の体組織の中に挿入する)〝ピース式〟が、現在の真珠養殖法として定着しています。


       

                      西川  籐吉


しかし一方で半円真珠の特許を取った3ヶ月後、物心両面で献身的に幸吉を支えた妻・うめが一男四女を残して病没。

周囲は苦労を察して幸吉に再婚を勧めましたが、頑として聞き入れず、亡き妻の位牌を撫でながら真珠の養殖に専心。

1905年に明治天皇に召されて真珠養殖事業について説明した際は、帰宅するなり仏壇の前で号泣しながら報告をしたそうな。


ただ幸吉が最初に取得した真珠養殖の特許は、1912年の大陪審の判決により、既に〝公知〟であったとされ、取り消されています。

しかしその間、幸吉は1899年に東京・銀座に御木本真珠店(現・ミキモト)を開店し、更に1913年にはロンドン、1927年にニューヨーク、1928年にはパリに出店して販路を拡大していますから、発明家というよりは実業家としての手腕が高かったと言えましょう。

1918年に養殖真珠の量産体制に入った幸吉は、イギリス・フランスから養殖真珠は偽物との訴訟を起こされましたが、裁判所から 「天然と変わらない」 というお墨付き判決を勝ち取り、逆にその価値を世界に認めさせることに成功。

生産拠点も全国に広がり、1950年代には日本の養殖真珠は世界シェア90%を握るまでに。


    

       1953年、地元に皇后陛下をお迎えした95歳の幸吉


1924年貴族院議員に勅選された幸吉は、養殖真珠が急成長の最中だった1954(昭和29)年9月21日・・・老衰により96歳で大往生を遂げました。


彼の偉業・生涯に関して詳しく知りたい方には、彼の長男でイギリス文学者だった御木本隆三(1893-1971)が記したこちらの古書のご一読をオススメします。

 『御木本幸吉 一業一人伝』 (時事通信社・刊)


        


半世紀以上前に出版された本ですが、非常に読みやすく身内ならではの様々なエピソードがちりばめられた、父・幸吉の生涯を生き生きと描いている良書・・・できれば再出版して欲しいもの。


さて、実は幸吉の養殖真珠量産で、産業構造が変わってしまった国があるんです。

それは、中東のクウェート。

同国はそれまで天然真珠の生産をほぼ独占していましたが、ミキモト・パールのおかげで真珠漁業は壊滅状態に。

そこで新たな産業として石油採掘の許可を出し、それが石油大国への足掛かりとなったのです。

当初はミキモトパールを恨んだでしょうけど、今は幸吉に感謝しているでしょうネ。

明治天皇に拝謁した際、


「世界中の女性の首を真珠でしめて御覧に入れます」


と大見得を切って周囲を慌てさせたそうですが、見事その言葉を実現された大法螺吹き・・・じゃなくて有言実行の人であり、エジソンやマッカーサー夫人をはじめ多くの政・財・官界の著名人とも交流があった真珠王の冥福を、改めて祈りたいと存じます。


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