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感 触

今年2月から17年ぶりにゴルフを再開してから半年・・・おかげさまでスコアも昔と同じ、というより大叩きがなくなった分平均ストロークはむしろ良くなりました。

主たる原因は、情けないことながら加齢と共に筋力が衰えて飛距離が落ちた分、ボールが曲がってもOBまで行かなくなったこと。

そしてスコアメイクのキーポイントであるアブローチの失敗が少なくなったから。

それには、ひとつの大きな理由があります。

以前、拙ブログで私が昔のギアを使って酷い目に遭ったり驚いたことを記事にしました。(↓)


やはりゴルフギアは日々進化していますから、新しいものを使うに越したことはない・・・ってことで、ゴルフ再開時にクラブを買い替えました。

そして現在使用しているクラブセットは、こちら。(↓)

       

パッと見、アイアンの中に1本だけ色の違うクラブが入っているのがお分かりいただけますでしょうか?

クラブを買い替えた際、同時にアブローチショットで多用するウェッジもロフト角50度・54度・58度と4度刻みで3本買い替えたのですが、そのうちの1本・58度を昔使っていたウェッジに戻したんです。

主としてバンカーやグリーン周りで使用するクラブなのですが、新しいクラブがどうもしっくりこなかったから。

一見して年代物とわかるウェッジは、約20年前に購入したもの。

クラブヘッドを通常のようにメッキせず軟鉄のまま(ノーメッキ)にすることで、ボールの打感が柔らかくなる・・・という触れ込みで、一時期流行ったウェッジ。

現在ではもう中古クラブショップの店頭でも目にすることはまずない骨董品(?)ですが、この焦げ茶色はほったらかしにして錆びたのではなく、ガンブルーという黒錆をわざと発生させる溶液を自分で塗って出したもの。

一昔・・・いや二昔前のクラブをダメ元で物置から引っ張りだして試しに使ってみたら、これが意外に好感触。

昔はあまり感じなかったのですが、改めて使うと本当に新しいクラブより打感がソフトで手に馴染むのです。


同じメーカーなのに、どうしてこうも感触が違うのか?


試しにドリルで新しいクラブに穴を開けたりして古いクラブと同じ重量・バランスに調整し再度使い比べて見ましたが、やはり軍配は古いクラブに・・・。


    

科学的な数値より、見た目の色や打感の柔らかさという手の感覚・視覚が勝り、再採用・・・新しいクラブはお蔵入りとなりました。

ゴルフクラブに限らず、野球のバットやテニスラケット・・・また包丁や工具などでも、同じ製品でスペックが同じでも使いやすさや手の馴染み感が微妙に違うことって、皆さんにも経験があるのでは?

やはり新しくても不安感があるものより、古くてもシックリくる道具を使った方が良い結果を出せるようです。

今後もこの骨董品のようなウェッジ、時々ガンブルーを塗り直しながら使い続けることになりそう。


    


ただ、ひとつだけ心配な事が。


それはフルショットした時に、接着剤が劣化してヘッドがスッポ抜けないかどうか。

過去に3番アイアンをフルスイングしたら、ボールとクラブヘッドが同時にすっ飛んだ経験があるだけに・・・。

えっ、じゃあ一度シャフトを抜いて接着し直せばいいだろうって?

いやぁ、それをやったら今の好感触が無くなりそうで、怖いです。


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直 通

いじめ相談とか、アメフトでクォーターバックとワイドレシーバーの関係を表す時に使われる単語といえば・・・

 ホットライン

ですネ。 


〝すぐに繋がる直通電話〟というイメージがありますが、一般的には2ヶ国の首脳が直接対話できるよう設置された電話回線のこと。

そのホットラインが米ソ間で初めて開設されたのが、今から56年前の今日・1963年8月30日のことでした。


開設された理由は、当時『キューバ危機』により米ソの対立が深刻化し、偶発的な戦闘によって第三次世界大戦を引き起こさぬよう、両国首脳間の意思疎通を迅速に行おうとしたこと。

 ※キューバ危機に関する過去記事は、こちら。(↓)



それまで米ソ両国間の通信は、米国務省またはソ連外務省から両国大使館に連絡して通信を暗号化し、それを連絡員(配達員)が自転車で電報局に持ち込み打電、受け取った相手がそれを解読する・・・という煩雑な手順を踏むため、約6時間もかかっていたとか。

それじゃあ配達員が自転車に乗っている間にミサイルが発射されてもおかしくないですょネ。

そこで両国間で北欧経由と北大西洋の海底電線を使用したホットラインの設置に至ったのです。


       

ところでホットラインというと、こんな赤い電話機で会話しているイメージがありませんか?


        


映画やドラマなどでそんなシーンがあるからでしょうが、実は当時のホットラインは電話で直接会話したわけではなく、テレタイプによる文字通信でした。


そしてその端末機はホワイトハウスではなく米国防総省内に設置され、24時間365日エンジニアと翻訳者が待機し、受け取った通信を大統領に知らせる・・・というシステムだったとか。


       


そして実際に初めてこのホットラインが利用されたのは設置から4年後・・・第三次中東戦争(六日戦争)が勃発した1967年6月に、コスイギン首相からジョンソン大統領に連絡した時でした。

さすがに現在は衛星回線等を利用して直接首脳同士が〝電話会談〟していると思います・・・が、赤い電話機を使っているかどうかは分かりません。

ちなみに我が家のホットライン・・・女王様からかかってくる電話に私はほぼ100%出ますが、私からかけると殆ど繋がりません。うー


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日 果

2014年9月から半年間にわたってNHKで放映された朝のテレビ小説『マッサン』・・・視聴された方もいらっしゃるでしょう。

今日は、その主人公マッサンのモデルであり、〝ウィスキーの父〟と言われたニッカウヰスキーの創業者、


 竹鶴 政孝 


の命日・没後40周年ににあたります。


        


日清戦争が開戦した1894(明治27)年に現在の広島県竹原市で生まれた政孝氏は、生家が製塩・酒造業を営んでいたことから自然と酒に興味を持つように。


中学3年生の時に寮生活を送りましたが、その時に1年下の後輩で彼の布団の上げ下ろしをしていたのが、後の総理大臣・池田勇人氏だったとか。


家業を継ぐべく大坂高等工業高校(現・大阪大学)の醸造学科に進学したものの、日本酒より洋酒に惹かれた竹鶴氏は卒業する直前の1916年3月、当時の洋酒業界大手の摂津酒造に入社すると、希望通り洋酒製造部門に配属。


そして同年12月に徴兵検査を受けた際、彼の履歴書を見た検査官が 「アルコール製造は火薬製造に必要な技術だから」 とわざと乙種合格に格下げしてくれたおかげで戦地行きを免れました。


まさに、芸は身を助けてくれたわけですネ。


そして1918年に純国産ウィスキーの製造を目指す社長の勅命を受けて単身スコットランドに留学しグラスゴー大学で有機・応用化学を学ぶと同時に、ウィスキー醸造場を見学し釜の掃除を手伝いながら製造工程を習得。


現地の女性ジェシー・ロバータ・カウンさんと当時としては珍しい国際結婚をして帰国した彼は、第一次大戦後の不況の煽りを受けて摂津酒造のウィスキー醸造計画が頓挫したため、同社を退社。

    

仕方なく大阪で中学校の教鞭を取っていた彼を再び洋酒の世界に引き込んだのが、寿屋(現・サントリー)の鳥井信次郎社長でした。


国内でのウィスキー製造を計画した同社がスコットランドに技術者の有無を打診したところ、「日本に竹鶴という適任者がいるはずだ」 という返答があり、鳥井社長は1923年6月に年俸4千円・10年契約という破格の条件で竹鶴氏を迎え入れます。

翌年11月に竹鶴氏の指揮によって山崎工場が竣工、彼は初代工場長に就任。


1929年4月に彼が製造した最初のウィスキー〝サントリー白札〟がめでたく発売されましたが、当時の日本人にはあまり受け入れられなかったとか。

その後、工場長を任命され着任した横浜工場を会社が相談もなく突如売却したことで不信感を抱くようになった竹鶴氏は、ちょうど契約期間の10年を迎え若手技術者の育成にも目途が立ったことから、1934年3月に同社を退職。


同年7月に北海道余市町でウィスキー製造を開始すべく 『大日本果汁株式会社』 を設立しました。


     


でもウィスキーを製造する会社のはずなのに、なぜ〝果汁〟という社名にしたのか?


それはウィスキー製造・販売までには数年の月日がかかるため、それまでは余市特産のリンゴを絞ってリンゴジュースを造り、その販売利益で当面を凌ごうとしたからだとか。


実際、この地で製造したウィスキーを発売したのは1940年から。

その際に大日本果汁から日と果を取って〝ニッカウヰスキー〟と命名。


(※社名変更は1952年のことでしたが、なぜウイスキーではなくウヰスキーにしたのか?


それはウイスキーの命は水であることから、当初は井戸の井を取ってニッカウ井スキーで登記申請したのですが、当時は漢字とカタカナを混ぜた名前では登録できず。


仕方なく、発音が英語のウイスキーに近い〝〟のカタカナ〝ヰ〟にしたそうな。)


終戦後、多くのメーカーが物不足の中で低品質のウィスキーを売り出す中、「三流品は作らない」 と頑張り、出資者に説得されて低価格のウィスキーを仕方なく売った際も、アルコール度数をギリギリまで上げるなど、終始ウィスキーの品質に拘った竹鶴氏。


私も損保の営業マン時代、夜の宴席ではよくお客様から 「味はサントリーより、ニッカだネ。」 という言葉を聞きました。

もっとも味オンチの私は、ストレートで飲み比べてもよく分かりませんでしたが。ダメだぁ顔


本物を追求し続け、1969年には勲三等瑞宝章を受章した竹鶴氏が85歳で天に召されたのは、1979(昭和54)年8月29日のこと。


70歳を過ぎても毎日ハイニッカを1本開け、体を気遣った晩年でも3日で2本は飲んだという酒豪でもあった竹鶴氏が、日本のウィスキー業界に大きな足跡を残したことは間違いないでしょう。


更には1941年に余市中学にスキーのジャンプ台を寄贈し、ここで練習を積み後に同社に入社して札幌五輪で金メダルを獲得したのが笠谷幸生選手でしたから、我が国への貢献は計り知れません。


ただ残念なのは製品に対する拘りが強かった反面、営業戦略が後手に回ったために売上は大きくサントリー社に水を開けられたこと。


2001年にニッカ社の全株式をアサヒビール社が買収し、現在は完全子会社としてアサヒホールディングに属す形になっていることを、竹鶴氏は草葉の陰からどんな思いで見ているでしょう?

まさか、ヤケ酒を飲んでいるとは思いませんが・・・。
あせあせ

今晩の晩酌は竹鶴氏の冥福を祈りつつ、敬意を表してニッカウイスキーで献杯を!

もちろん氏の名前がついた、こちらのウヰスキーで!

    


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殿 中

江戸城中における刃傷沙汰として有名なのは、赤穂浪士討入の原因となった浅野内匠頭が吉良上野介を襲った〝刃傷松の廊下〟。

実は江戸時代に起きた江戸城中での刃傷沙汰は、これを含め7回も起きているのですが、その中で最も大物といえる、大老の


 堀田(筑前守)正俊

が襲撃され落命したのは、浅野内匠頭ご乱心から遡る事17年前・・・今から335年前の今日のことでした。


正俊は1634(寛永11)年に、第3代将軍・家光に仕えた老中・堀田正盛の三男として生まれました。

翌年に義理の曾祖母に当たる春日局の養子となって家光の嫡男・竹千代(後の第4代将軍・家綱)の小姓となり、家光の上意にて春日局の孫娘と婚約した、いわばサラブレッド。


1651年に家光が死去した際に父・正盛が殉死したことで、遺領の一部を与えられて守谷城1万3千石の大名となり、その後1670年に若年寄、1679年に老中と順調に昇進。

そして1680年に家綱が逝去した際、お世継ぎとして彼の異母弟にあたる綱吉を推挙。

結果的に綱吉が将軍になったことで、彼は1681年に大老を拝命。


その後牧野成貞と共に 『天和の治』 と呼ばれる政治を行い、財政面で大きな成果を挙げたのですが・・・51歳だった1684(貞享元)年8月28日、自ら若年寄にした従叔父・稲葉生休に突然脇差で一突きされ、駕籠で自邸に搬送された直後絶命してしまいました。  

          

                  堀田正俊の墓


幕府の記録としては、生休のご乱心による犯行とされ、また事件前年に淀川治水工事の役目から外されたことを恨んでいた、とも言われています。

しかし自分を若年寄に引き立ててくれた大老を、それだけの理由でわざわざ江戸城中で襲撃するものでしょうか?


そんな疑念を持つ者は多く、事件発生直後から陰謀説が囁かれていました。

曰く、暗殺を命じたのが他ならぬ綱吉だった、というもの。


        徳川 綱吉

                   徳川 綱吉

綱吉は正俊の後押しで将軍になったことで当初は彼を重用しましたが、自ら考案した 『生類憐みの令』 の発布について正俊が反対したことで、両者の間に溝が生まれた、というのです。

綱吉陰謀説の根拠としては、正俊の死後
『生類憐みの令』の取り締まりが一層厳しくなったこと。


そして襲撃した生休が無抵抗だったにも拘わらず、現場に駆け付けた大久保忠朝・戸田忠昌・安倍正武の老中3人らによって、その場で斬殺されていること。

ケネディ兄弟暗殺もそうですが、犯人(に仕立て上げられた人物)がすぐ殺されるケースは、往々にしてウラがありますからネ。

またこの暗殺後、綱吉は正俊の子を東北に所替えするなど堀田家に非常に辛く当たったり、後年正俊の霊に酷く怯えていた事実も。

正俊に仕えていた新井白石が、後に第6代将軍・家宣の侍講として用いられ 『正徳の治』 を行いましたが、その彼は綱吉の死後 『生類憐みの令』 を即時廃止したことも、正俊の恨みを晴らすためだったのかも。

私もその陰謀説肯定派ですが、更に両人が学問上でも対立していたとする、面白い書籍があります。


 『儒学殺人事件 堀田正俊と徳川綱吉』 

                   (小川 和也・著 講談社・刊)


      


儒学かぶれで講釈好きだった綱吉が、それに賛意を示さない正俊が疎ましくなった、という説に基づいた物語・・・興味のある方には、ご一読をお勧めします。

絶対権力者によって出世を果たしても、ひとたび嫌われると命まで狙われる・・・古今東西を問わず繰り返されている悲劇を見るにつけ、政治の世界・人間の性は変わらないことを痛感させられます。


※綱吉に冷遇された堀田家ですが、その後も家が絶えることはなく、正俊から4代後には幕末に老中首座を務めた堀田正睦(まさよし)が出ています。
しかし、彼もまた井伊直弼との主導権争いに敗れ、失脚してしまうのですが・・・。


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凌 辱

今月の拙ブログでは、これまで終戦直後にソ連兵(ロシア人)によって日本人が攻撃・殺害された

【真岡郵便電信局事件】 

  https://ameblo.jp/warmheart2003/day-20190820.html


【占守島の戦い】

  https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12385054155.html


【三船殉難事件】 
  https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12385053697.html


を取り上げてきましたが、今日も学校では絶対に教えない彼らの蛮行をご紹介致します。

それはやはり今から74年前の今日・・・終戦直後の1945(昭和20)年8月27日に中国大陸で起きた


  と ん か

 敦化事件


と呼ばれる、日本人女性凌辱事件。


敦化とは、満州国吉林省敦化・・・現在の吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市のこと。


     


ここに、王子製紙が1934(昭和9)年に 『日満パルプ製造敦化工場』 を建設。

その工場に隣接する約2万坪の敷地を高さ4.5mの塀で取り囲み、その中に豪華な社宅と福利厚生用のクラブを造り、そこに日本人社員とその家族約260人が暮らしていました。


    

            日満パルプ製造敦化工場(1936年)


また敦化市内には約2,000名の関東軍も常駐。

しかし1945年8月9日、ソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄 (※破棄通告は同年4月になされていたが、その後1年間は有効という規定になっていた) して突然満州に侵攻。 


関東軍と戦闘を繰り広げますが、同月15日に日本が降伏。


19日にソ連軍が敦化市内に進駐すると、関東軍の守備隊は降伏し武装解除。


そして8月22日、ソ連兵は日満パルプ工場内に侵入し1時間以内に社宅の一角を引き渡すよう要求すると、クラブ従業員女性2名を引きずり出し、ジープで連れ去って強姦。

数時間後1人はボロボロになって帰ってきましたが、もう1人は凌辱された後、川に身を投げ行方不明に。


更に8月25日、ソ連軍は日本人男性全員を10km程離れた飛行場に連行すると、残された170人程の日本人女性を独身寮に集め、15人前後に分散して部屋に監禁。


夜になると酒に酔ったソ連兵が独身寮にやってきて機関銃を乱射し彼女たちを威嚇。


そして26日未明に女性たちの部屋に乱入すると気に入った女性を次々に引きずり出して犯し始めたのです。

他の女性たちは丸坊主にしたり顔に墨を塗るなどしましたが効果なく、ソ連兵による強姦は深夜まで続きました。


男性たちが皆殺しにされたと思った一部の女性たちは、相談して自決はすることを決意。

某夫人が隠し持っていた青酸カリを飲んだ28名の内、23名が死亡。

また他の部屋から引きずり出された際に、剃刀で自決を図った女性もいたとか。


27日朝、見回りに来たソ連兵が集団自決現場を発見して将校に報告すると、彼らは他の女性たちに窓から外を見ることを禁じて遺体をどこかに運び去り、事件の責任を問われることを恐れて暴行を中止。


その後生き残った女性たちは飛行場近くに連行されましたが、彼女たちは全ての持ち物を略奪されたそうです。


更に冬の訪れとともに寒さや飢餓、腸チフスによって87名が死亡したとか。

鬼畜の所業とは、まさにこのことでしょう。


この事件を含め終戦間際に突如不可侵条約を破棄して満州に攻め込んできたソ連軍の策謀と、これに対する日本の対応を詳細に語った書籍があります。 

 『ソ連が満州に侵攻した夏』 (半藤一利・著 文春文庫・刊)


       


戦争中ならまだしも、降伏し武装解除した無抵抗の人間に対して非道の限りを尽くし、またポツダム宣言に反して捕虜にした約57万人 (※日本政府発表 但し実際には100万人以上とする説が有力) もの日本人をシベリアに抑留し過酷な状況で強制労働させたソ連軍の実態を通して、同書はロシア人の野獣の如き残虐な民族性を浮き彫りにしています。


私は中学生時代に社会科の担当教師が授業中、

「露助(ろすけ)は絶対に許せないし、信用してはいけない!」


と怒りを込めて言っていたことを憶えています。

当時は何のことか分からなかったのですが・・・歴史を学ぶにつれ、それは正しい教えだったと今は確信しています。


我々日本人は、これらの終戦直後の史実を闇に葬り去ったり眼を瞑ったり、ましてや忘れることなど絶対に許されません。

そして次世代に語り継がなければ、犠牲になった日本人女性に顔向けが出来ないでしょう。


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瘋 癲

随分と難しい漢字のタイトルですが、この言葉の意味は、『定職を持たず、また勉強もせず街中などをふらつくこと、または人』。


さて、何て読むでしょうか?

字を良~く見ると、お分かりいただけるかと・・・。


そう、正解は〝フーテン〟 なんです。 


この言葉で、まずピンとくるものと言えば、


 男はつらいよ


ギネスに世界記録として認定された最多回数・全48作を誇る寅さんシリーズでしょう。


その記念すべき第1作が封切られたのが、今からちょうど50年前の今日・1969(昭和44)年8月27日でした。


実はこの寅さんシリーズ・・・元々はフジテレビ系列で放映されたテレビドラマだったそうで、最終回で寅さんは沖縄でハブに噛まれて死んでしまいます。


でも、それを見た視聴者から 「俺たちの寅さんを、あんなふうに死なすとは何事だ!」 という抗議の電話が殺到。


ファンの熱意に応えるため、山田洋次監督が今度は周囲の反対を押し切って映画化したのだそうです。


しかしさすがの山田監督も、自ら製作した映画が、ギネスに載るほどの超人気シリーズになるとは思わなかったでしょうねェ。笑2


        

                    第一作のポスター


私が初めてこの映画を劇場で観たのは、大学生の時でした。


渋谷で午前0時過ぎまで麻雀に興じていた私は、先輩を見送っているうちに自分の乗るはずだった終電が出てしまい・・・一番安い夜明かし方法は? と友人と考えた末、オールナイトの映画館に2人で入ることに。


そこで上映されていたのが、寅さんシリーズの2本立てだったんです。


元来邦画は観ない方だったので、映画そのものには最初から興味がなく(始発まで寝られればイイや。) と、後方の空席に身体を沈めたのですが・・・結果的に一睡もできませんでした。


最初っから最後まで面白くて面白くて、涙を流しながら午前4時過ぎまで腹を抱えて笑い続け。 


涙目のまま始発に乗って帰宅したことを憶えています。


それからすっかり寅さんファンになった私・・・それ以降のシリーズは殆ど観たはず。


水戸黄門じゃないですが、筋立てはそんなに代わり映えしなくても下町人情に触れてホロッとできるこの映画は、決して飽きることはありませんでした。


寅さん役の渥美清さんが1996年に亡くなったために制作打ち切りとなりましたが、これから先も観る者の心を温め続けてくれることでしょう。笑2

では最後に、半世紀前の第1作(予告編)のHDリマスター版を、こちらでお楽しみください。



「2階の窓から女が見える」(※妹・櫻の名前をもじって)


「結構毛だらけ猫灰だらけ、○ツのまわりは○ソだらけ」


この名(迷?)セリフ、私は生涯忘れないでしょうネ。笑2


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通 訳

安土桃山時代、信長や秀吉ら戦国武将と交流があり、客観的にその当時の日本の様子や書き残したルイス・フロイスという外国人がいました。


※フロイスに関する過去記事は、こちら。(↓) 



そして今日は、そのフロイスの明治維新版とも言えるイギリスの外交官、

 
サー・アーネスト・メイソン・サトウ
      Sir Ernest Mason Satow

の命日・没後90周年にあたります。


        


サトウと言う名前から日英のハーフと思う方が多いと思いますが、実はそうではありません。
綴は“Satoh ” ではなく、“Satow ” ・・・これはスラヴ系の希少姓。

しかしその姓が、彼と日本とも結びつけたといっても過言ではない気がします。

彼は1843年にスウェーデン系ドイツ人の父とイギリス人の母の三男として、ロンドンで生まれました。

父親は三兄弟の中で最も優秀だった彼をケンブリッジ大学に進学させようとしましたが、宗教・家柄の問題でユニバーシティ・カレッジ・ロンドンに入学。

このことが、彼と日本を結びつけるキッカケとなりました。

大学でローレンス・オリファントの著作 『エルギン卿遣日使節録』 を読んで日本に憧れたサトウは、1861年に英外務省に通訳生として入省し、清の北京で漢字学習を行いました。


そして1862(文久2)年、イギリスの駐日公使館の通訳生として横浜に着任すると、アメリカ人宣教師や日本人から日本語を勉強。

途中薩英戦争にも従軍するなどしながら、欧州留学から帰国した伊藤博文と文通を通して交流が始まり、下関戦争時には長州藩との講和交渉に通訳として同席し高杉晋作らと会話を交わしています。

1865年に通訳官に昇進すると、それまで以上に伊藤博文や井上馨との文通が頻繁になり、情報交換をするように。

この頃から薩道愛之助・薩道懇之助という和名を使うようになった彼は、ハリー・パークス駐日公使に同道して神戸や大阪へ。

サトウという名前も相まって、日本語に堪能な外国人として次第に有名に。


その彼が1866年3~5月にかけて横浜で発行されていた週刊英字新聞『ジャパン・タイムス』に匿名で発表した論文は、後に『英国策論』として和訳され、西郷どんも引用するほど大きな話題になったそうな。

その後慶喜が将軍になった際に謁見もした彼は、
1868年(慶応4)年1月に通訳として最高位である日本語書記官に昇進。

幕臣の勝海舟や、新政府軍の後藤象二郎・桂小五郎・大久保利通ら、また岩倉具視などと会談し豊富な人脈を築いた彼は、1869年には明治天皇にも謁見。


       

その後一時賜暇で帰国するも、1870年11月に再来日。


政治活動を続けると同時に関東一円を視察旅行し、またこの頃日本人女性・武田兼を内妻として迎えました。

(彼女との間には後に3人の子をもうけていますが、経済援助はしたものの認知はしませんでした。)


       


その後も日本各地を旅してまわり、1875年に再び賜暇帰国。


1877年に3度目の来日をすると、1884~1895年まではシャム・ウルグアイ・モロッコの駐在領事を務め、1895年に駐日特命全権公使として再来日。

日清戦争の勝利や1899年の治外法権撤廃もその目で見ることに。


1900年から駐清公使として6年間北京に滞在した彼はイギリスに戻り、枢密院顧問官、ハーグ平和会議における英国代表次席公使などを務めて引退。

その後著述に従事した彼が86歳でこの世を去ったのは、大恐慌のあった1929年8月26日のことでした。

サトウは多数の著書を遺しましたが、その中でも私たちにとって貴重なのは、


 『一外交官の見た明治維新』 (上・下 岩波文庫・刊)

 


 


これはサトウが初来日した1862年から1869年に一時帰国するまで7年間の回想録。(執筆したのは、1885~1887年)

その間彼が出会った明治天皇や幕府側・新政府側双方の人物像や当時の日本国内事情、また外国人に対する日本人の反応などを記したもの。

明治維新前後の歴史書の多くはどちらかというと新政府視点で書かれたものが多いですが、これは双方の事情を知る外国人が客観的な目・・・というか、外国人目線で書かれています。

1921年にイギリスで出版されたものの、日本国内では発禁処分となり、それが解禁されたのは戦後の1960年になってから。

だからこそ、歴史的な文献としての価値があるとも言えましょう。

歴史ファン(?)ならずとも、日本近代史を知るうえでは一読する価値がありますョ。


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実用化

皆さんは、自動車のエンジンなどの出力・パワーを示す〝馬力〟という単位をご存知ですょネ。

では、この単位を定めたのが誰か、ご存知でしょうか?

ヒントは、電力の単位にその方の名前がつけられています・・・って言えば、もうお分かりですょネ。 そう、正解は


 ジェームズ・ワット

 James Watt


今日は、蒸気機関の動力化に成功して産業革命の発展に大きく貢献した、このエンジニアの命日・没後200周年にあたります。

       


ワットは1736年にスコットランドの港町・グリーノックで、船大工で貿易商も営んでいた父と、数学教師の母の間に生まれました。

エジソン同様、彼もあまり学校に通わず、母親に自宅で教わっていたそうですが、彼女の血を色濃く引いたのか、数学が得意で語学は好きではなかったとか。

そのワットは、母親が亡くなり父親が病気がちになった18歳の時に、計測機器の製造技術を学ぶためロンドンへ。

そして通常4年かかるカリキュラムをたった1年の履修で終え、スコットランド・グラスゴーで機械製造事業を興そうとしました。

しかし彼が最低7年の徒弟修業をしていないことを理由に、ギルド(職業組合)は彼の開業申請を拒否。

この苦境を救ったのは、グラスゴー大学でした。


彼が大学の要請に応えて天文学機器の調整を行ったことで、3人の教授が大学内に小さな工房を設けることを提案。

アダム・スミスの助力もあって、彼は1757年にそれを実現。
1764年にはマーガレット・ミラーと結婚し、5児をもうけました。


(但し成人したのは2人だけで、マーガレットも産褥で1772年に死亡。 1777年にアン・マクレガーと再婚し2児をもうけました。しかしその2人の子もワットの生前に亡くなっています。)


工房を開設した4年後、彼は友人のジョン・ロビソン教授を通じて蒸気機関の存在を知ると興味を持ち、設計や実験を重ねます。

※ボイラーで発生させた蒸気を利用する蒸気機関自体は、古代アレクサンドリアの工学者・数学者だったヘロン(10年頃~70年頃)が考案した〝ヘロンの蒸気機関〟が最古とされています。


そして1765年に、実際に作動する模型を製作。

更に実業家マシュー・ポールトンの資金援助を受け1775年にポールトン・アンド・ワット商会を設立すると、その翌年に業務用として実働する動力機関の組み立てに成功したのです。


       


その蒸気機関は、鉱山から揚水用として受注が殺到し、ワットはその組み立てに大わらわとなり、特許使用料も得るように。


もっともご多分に漏れず、ワットもライバルたちとの特許を巡る訴訟に巻き込まれ、(最終的には有利な判決を勝ち取ったものの)長年争う事にもなりましたが。

※さて冒頭の〝馬力〟についてですが、これは彼が
蒸気機関を発明した際、仕事量を数値的に表せる単位を決める必要があったことから、彼が馬に33,000ポンド(約15トン)の荷物を1分間に1フィート(約30cm)引ける能力を1馬力と定め、動力の単位を設けたのが始まり。 ですから単純に馬1頭の牽引パワーという意味ではありません。

実際、全力疾走しているサラブレッドは数十馬力もの脚力を出しており、人間でも100m走などにおける瞬間的な最大出力では、1馬力程度の力を出すことができるそうな。


1794年に商会から蒸気機関製造会社ポールトン・アンド・ワット社に改組すると、1824年までに通算1,164台もの蒸気機関を製造し、2人は一財産を築きました。


また彼らは、手紙や絵などを転写できる複写機を発明して、ジェームズ・ワット・アンド・カンパニーという別会社を立ち上げて製造を行い、同社は2人の息子たちに引き継がれ20世紀まで利用されたといいます。


     


漂白技術の研究なども行ったものの、特許が切れる1800年に引退し息子に事業を引き継いだワットは、その後も屋根裏部屋に工房を作って研究を続け、1819年8月25日に83歳でこの世を去りました。


       

                 復元された工房


ワットは科学分野において豊富な知識と才能に恵まれた人物でしたが、残念ながら事業展開の才能まではなかったようです。

それを補ってくれたポールトンとの出会いが、世に画期的な蒸気機関を出させ、産業革命の発展に寄与したと言えましょうか。


       

                 Matthew Boulton


まさに本田技研における本田宗一郎氏と藤沢武夫氏のコンビのように・・・。笑2


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埋 没

世界遺産にも指定されている、嘗てローマ時代に栄えた古代都市


 ポンペイ

   Pompei

イタリア・ナポリ近くに位置するこの街のすぐ北に位置するのが、ヴェスヴィオ火山。

 

            ヴェスヴィオ火山とポンペイの位置


同火山が大噴火を起こし、ポンペイが僅か1日足らずで約5mに達する噴出物で埋もれてしまったのが、今から1940年前の今日・紀元79年8月24日のことでした。


 

           1944年に噴火したヴェスヴィオ火山


紀元前にローマによって征服され植民都市となったポンペイは、ローマへの物資を陸揚げする重要な商業都市・保養地として栄えたそうですが、紀元62年に大地震に見舞われ甚大な被害を被りました。

その復興作業により、以前より立派に再建されつつあった時に、前述の大噴火が起こったのです。


それから25年後に書き記した小プリニウス(当時18歳)の書簡によると、当日午後1時過ぎから始まった(約10km離れた)ヴェスヴィオ山の噴火と同時に地震に見舞われたポンペイには噴石や灰が降り注ぐと同時に猛烈な火砕流がなだれ込み、また海水がみるみる引いた直後に津波が襲ってきたとのこと。


推定人口1万人といわれる市民の殆どが噴火当初は避難しなかったようで、その多くがこの災害から逃げられずに街もろとも埋没したそうです。


1991年に長崎の雲仙普賢岳で起きた大火砕流の規模でも40数名の死者を出す大惨事でしたから、街全体を覆い尽くすほどの降灰・火砕流とは一体どれ程凄まじいものだったのか・・・ちょっと想像できません。



もしかしたら市民の多くは、あまりの恐怖にただ呆然とするしかなかったのかも。


一瞬にして土砂に封じ込められた古代都市は1748年から始まった本格的な発掘作業により、あたかもでタイムカプセルを開けたかの如く私たちに当時の人々の生活ぶりや文化を伝えてくれます。


堆積した土砂の中には埋もれた人々の空洞が残り、そこに石膏を流し込んで作った〝人型〟が現地で展示され、その日の悲劇を再現しているそうな。


    


鮮やかな色彩の絵画や整備された都市構造からは2,000年近く前に生きた人々の能力の高さを示していますが、同時にそれを一瞬にして地上から消滅させてしまう自然の恐ろしさに、私はただ畏敬の念を抱くのみです。

    

               現在のヴェスヴィオ火山


少なくとも私が生きている間に、富士山は噴火して欲しくない・・・。


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マスク

エネゴリ君の店に行く時、私はその日の朝に「今日〇時頃行くからネ」と彼にメールをするんです。

通常は昼の開店前に「お待ちしてます」とか「了解しました」って返事が来るんですが、先日は送信した直後に返信が。

通常は寝てるはずなのに、珍しい事もあるもんだ・・・と、その日入店してカウンターに座るなり、そのことを尋ねると、

「いや、たまたま家に帰った直後だったんスょ。」

「ってことは、午前様かい。40歳過ぎて徹夜で飲むとはサスガだネ。」

「いや、もうそんなことできないっス。 友達と池袋で飲んで西武池袋線の練馬駅まで送った後、電車の中で寝過ごして小手指まで行っちゃったんですョ。」 (※下の地図参照)


 

「えっ、だってお前さんの家は東武東上線沿線じゃん。 わざわざ違う路線に乗って送ったってことは・・・ははぁ~ん、相手は女性だろ。」

それを聞いてギクッとエネゴリ君が狼狽えたのを、私が見逃すはずはありません。

「じゃあ、久々に彼女が出来たわけだ。 良かったじゃん!
んで、昨日のデートは何回目?」

「2回目っス。」

「何だょ、全然嬉しくなさそうじゃん。」

「えぇ、あんまり顔がカワイくない子なんですョ。」

「ジャガイモみたいな顔してるくせに、相手のことをよく言えるナ。」

(ここでバイトの女性が、思わず頷きました。)

「だったら、なんでもう一度デートしたんだョ。」

「最初の時は、彼女マスクしてたんですょ。

目が綺麗だったんでまた誘ったんですが・・・。」


「で、昨夜はマスクしてない彼女を見て、ガッカリ?」

「そうなんスョ。 それで思わず飲み過ぎて寝過ごしたんです。」

「でもさぁ、キミ練馬で降りたんだろ?」

「えぇ、家まで送ってから池袋行きに乗ったんですが・・・そこから寝入ってしまって、池袋で起きられず目を覚ましたのが折り返しの小手指駅だったんです。」

「慌てて降りて、それからどうしたの?」

「上り電車がもうなかったんで、公園のベンチで寝て午前5時台の電車で帰ってきたら、渡辺さんからのメールが届いたってワケです。」

「なんて言っていいのやら・・・それで、彼女とは付き合い続けるつもりなの?」

「どうでしょうネェ・・・。」


「彼女から今日メール来てないの?」

「来ましたョ。 送ってくれてありがとうって・・・でも、また飲みましょうとは書いてなかったッス。」

「そりゃあ、相手の女性にお前の心中を見透かされたんだろうョ。
しかし40歳過ぎた独身男が、まだ女性を顔で選んでるようじゃ、当分結婚は無理だわナ。」

バイトの女の子がここでも大きく頷いているのを、エネゴリ君は見ていたかどうか・・・。


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