今年2月から17年ぶりにゴルフを再開してから、5ヶ月が経過。
夕食抜きダイエットを続けて現在14kg減、おかげで身体のキレも戻ってきました。(とは言え、筋力の衰えは否めませんが・・・。)
そしてグリップも変えたことも、いい結果に繋がっています。
ということで、今月中旬からリハビリの最終段階に。
それは、バック・ティーを使用すること。
ゴルフをされる方に説明は不要でしょうが、通常アマチュア・ゴルファーは白マークすなわちフロント・ティーからプレーします。
ただし月例などクラブの公式戦では、その白ティーより後方にある青マーク=バック・ティーを使用するのが一般的。
コースによってフロントとバック・ティーの距離差は違いますが、私の所属するクラブはその差が比較的大きいんです。
例えばスタートの1番ホール・やや右ドッグレッグのPar4は、バック・ティーだと長い方で448ヤード。
フロント・ティーは30ヤード前ですから、右の斜面上を狙ってショートカット出来ますが、バックティーだとそれが出来ず。
ナイスショットしてもグリーンまで200ヤード前後残りますから、2打目がアイアンでは届かない、出だしからタフなホールに。
バック・ティーからコースを見ていただくと、距離の違いがお分かりいただけると思います。
白→がフロント・ティー。
その前にある黄→はグランド・シニア・ティーで70歳以上の方が使用する金玉・・・いや金色マークですが、ウチの女王様はレディース・ティーより後ろにあるこのティーでプレーしています。
バック・ティーとの差は、約80ヤード。
また途中のパー5では、フロント・ティーからナイスショットすれば超えるフェアウェー真ん中の木(下写真緑〇)が、50ヤード後方のバック・ティーからは超えられず、前方を遮る障害物に・・・。
ちなみにここの金色マークは、バック・ティーより100ヤード以上前。
そして総トータルではフロントとバック・テイーの差が769ヤードで、1ホール平均42.7ヤード。
200ヤード前後のショートホールも2つありますから、ゴルフをなさる方なら如何にタフなコースに変身するか、想像いただけると思います。
故にセカンドショットはフェアウェイ・ウッドやユーティリティー、ミドルアイアンなどを多用せざるを得ず、しかも2グリーンで小さいため私のレベルではパー5以外殆どパーオンできません。
ですから、スコアメイクの決め手はアブローチ。
先日は運よく37・38の75でラウンドできましたが、ご覧の通り(赤↓の)パット数が10・11。
つまり殆どのホールを寄せワンで凌ぐという、我慢の連続でした。
まさに我が人生そのもの(?)のようなプレーでしたが、これも修行の一環ですネ。
おかげでアプローチだけは上達しそうですが、バック・ティーでバーディー取れるようになったら、リハビリ完了宣言・・・かナ?
(10年後に70歳になりますが、金色ティーでは意地でもプレーしたくないですワ。)
【おまけ】
そんな私を、小鹿のバンビがお出迎えしてくれました~。
って、近づいたら怯えるようにピョンピョン逃げちゃいましたけど・・・。
今日は、私を含めた昭和世代のアニメ・ファンがお世話になった声優、
しゅうせい
仲村 秀生 さん
の命日・没後5周年にあたります。
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仲村(本名:中村 秀男)さんは、1935(昭和10)年に東京で生まれました。
戦時中に両親の故郷・長野県上田市に疎開した彼は、地元の長野県立上田高校から信州大学へと進学。
卒業後は演出家・竹中荘吉さんが主宰する『劇団くるみ座』(京都)入りして、俳優を目指しました。
1956年には新劇演出家を目指すため上京、舞台芸術学院に入校後、翌年には『新演劇研究所』へ。
そして同所の発展的解消に伴い、劇団『新演』創立に参加。
1960年代前半まで何本かの邦画やテレビドラマに俳優として出演していましたが、同じ劇団に所属していた寺島幹夫さんが 『アンタッチャプル』 で声優の仕事をしていたことがキッカケとなり、1961年に 『ローハイド』 の吹き替えをしたのが、声優デビューとなりました。
ちょうど民放テレビ局が続々と開局し、また所属劇団の解散が重なり、仲村さんはバリトンの美声を生かして外国映画やドラマ、アニメ、CMナレーションなどの声優業へと仕事の重心を移すことに。
『鬼警部アイアンサイド』や『外科医ギャノン』にも出演しましたが、個人的に中村さんの吹き替えに記憶が残るのは、1970年から始まったアニメ『あしたのジョー』の力石徹役。
あの低くシブい声は、強さと不気味さを併せ持つ力石に凄くマッチしていました。
そして最も親しみがあるのは、1974年から始まった『宇宙戦艦ヤマト』登場する、準主役の島大介役。
ただ私自身、最初にその声を聞いた時は、あの力石徹と同じ声優さんだとは思えず、後になって両方とも仲村さんだったと知って、ビックリ。
それくらい声質を見事に変えられてましたネ。 さすが、プロ。
その他『ど根性ガエル』や『空手バカ一代』などにも出演した仲村さんは1990年代後半、劇団魚座を旗揚げして再び演劇活動に注力。
また東京アナウンス学院や代々木アニメーション学院の講師として後進の育成にも尽力しました。
しかしその一方で、私生活ではアルコール依存症や躁うつ病を発症、統合失調症も併発させて闘病生活を余儀なくされ、2000年初頭には、実質的に声優業から引退していたそうな。
2012年にCSで放映された『宇宙戦艦ヤマト2199』公開記念番組でナレーションを務めたのが最後の仕事となり、2014年6月には再び体調を崩して療養生活に入った仲村さんが79歳で急逝されたのは、2014年7月30日・・・当時は伏せられましたが、入院先の風呂場での溺死でした。
残念な亡くなり方でしたが、私たちアニメ・ファンとしては、いつまでも力石徹や島大介の声を懐かしみたいと思います。
今日は、私たち日本人にとって実に忌まわしい出来事に関して、皆さんにお伝えしたいと思います。
それは、今から82年前の今日起きた
通州事件
について。
1937(昭和12)年7月7日、演習中だった日本軍に対し中国が実弾を撃ち込む 『盧溝橋事件』 が勃発し、これが支那事変の端緒となりました。
世情が不安定になったため、在留邦人は比較的安全と言われていた通州城内に流れ込み、旅館は満杯に。
〝通州〟とは、現在の北京市の東約30kmに位置する通州区北部の中心都市で、当時は日本に留学経験があり日本女性と結婚していた親日派(と目されていた)・殷汝耕が南京政府から離脱して(日本主導で)設立した冀東(きとう)防共自治政府が統治していた場所。
盧溝橋と通州区の位置関係
ゆえに自治政府の保安隊は日本軍によって訓練されており、日本側としては治安面においてさしたる不安を抱かず主力部隊を他の前線に送り出したため、事件直前の通州には小隊40名・自動車部隊50名ら合計120名の留守部隊のみが駐留。
その状況下で同年7月29日未明、自治政府保安隊及び国民革命軍ら約3,300名の支那人が蜂起。
城門を閉め電線・電話線を遮断した上で日本軍の留守部隊及び在留邦人を襲撃したのです。
この裏切り攻撃によって日本の留守部隊は全滅。
支那兵は日本人居住区を1軒ずつしらみつぶしに襲い、在留日本人385名のうち223名を虐殺。
その殺害方法は、まさに凄惨の一言。
子供を逆さまに持ち上げて地面に頭を叩きつけて殺害、女性は皆凌辱され中には陰部を銃剣で抉られたり、鼻には針金を入れて牛のように引っ張られた跡が。
また男性の死体は殆どが首に縄をつけて引き回した跡があり、中には腹を裂かれて内臓を切り刻まれた者も。
※事件現場の写真は何枚も現存していますが、あまりに凄惨なため拙ブログでは掲載を控えました。
『通州事件』で検索して画像をご覧いただければ、支那人がいかに残虐非道の限りを尽くしたのかがお分かりいただけます。
また当該事件に関して詳しく知りたい方には、写真や証言を集めて昨年出版された
のご一読をお勧めします。
表紙に選ばれた、結婚式を挙げてまだ半年余りだった石井亨さんと妊娠中の若妻が、またその日城内にいた邦人たちがどんな目に遭ったのか・・・涙と怒りなくしては読めません。
支那人の残虐性は日本人の想像を絶しますし、決して許容できない民族性を有していることがよく分かります。
そしてそれが変わっていないことは、彼らが現在ウィグルやチベットで行っている弾圧・民族浄化の実態を見れば明らか。
当時現地にいたアメリカ人記者をして、
「日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女・子供らの虐殺は、古代から現代までを見渡しても最悪の集団虐殺として歴史に残るだろう」
と言わしめ、また極東軍事裁判では(一部ではあるものの)目撃証言が受理されているこの凄惨な事件に関し、学校で習ったという方はおそらく殆どいらっしゃらないでしょう。
それもそのはず、現在通州事件に関して記述している教科書は、自由社が刊行している 『新版 新しい歴史教科書』(中学生用) ただ一冊のみ。
私を含めた中高年世代が学生だった頃には、どの教科書にも記載されていませんでしたから。
日本人が虐殺された事件を封印し、有りもしない慰安婦問題や南京事件で謝罪する日本政府のヘタレぶりには呆れるばかりですが、その自虐外交にも少しずつ違う流れが・・・。
殆どのメディアは黙殺しましたが、昨年この通州事件に関して有志がユネスコ記憶遺産に登録申請したのです。
皆さんには犠牲となった日本人の冥福を祈りつつ、是非この事件を知り次世代に語り継いでいただきたく・・・。