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後 方

今年2月から17年ぶりにゴルフを再開してから、5ヶ月が経過。

夕食抜きダイエットを続けて現在14kg減、おかげで身体のキレも戻ってきました。(とは言え、筋力の衰えは否めませんが・・・。)

そしてグリップも変えたことも、いい結果に繋がっています。



ということで、今月中旬からリハビリの最終段階に。

それは、バック・ティーを使用すること。

ゴルフをされる方に説明は不要でしょうが、通常アマチュア・ゴルファーは白マークすなわちフロント・ティーからプレーします。

ただし月例などクラブの公式戦では、その白ティーより後方にある青マーク=バック・ティーを使用するのが一般的。

コースによってフロントとバック・ティーの距離差は違いますが、私の所属するクラブはその差が比較的大きいんです。

例えばスタートの1番ホール・やや右ドッグレッグのPar4は、バック・ティーだと長い方で448ヤード。

    

フロント・ティーは30ヤード前ですから、右の斜面上を狙ってショートカット出来ますが、バックティーだとそれが出来ず。

ナイスショットしてもグリーンまで200ヤード前後残りますから、2打目がアイアンでは届かない、出だしからタフなホールに。


バック・ティーからコースを見ていただくと、距離の違いがお分かりいただけると思います。



白→がフロント・ティー。 


その前にある黄→はグランド・シニア・ティーで70歳以上の方が使用する金玉・・・いや金色マークですが、ウチの女王様はレディース・ティーより後ろにあるこのティーでプレーしています。

バック・ティーとの差は、約80ヤード。

また途中のパー5では、フロント・ティーからナイスショットすれば超えるフェアウェー真ん中の木(下写真緑〇)が、50ヤード後方のバック・ティーからは超えられず、前方を遮る障害物に・・・。



ちなみにここの金色マークは、バック・ティーより100ヤード以上前。

そして総トータルではフロントとバック・テイーの差が769ヤードで、1ホール平均42.7ヤード。

200ヤード前後のショートホールも2つありますから、ゴルフをなさる方なら如何にタフなコースに変身するか、想像いただけると思います。

故にセカンドショットはフェアウェイ・ウッドやユーティリティー、ミドルアイアンなどを多用せざるを得ず、しかも2グリーンで小さいため私のレベルではパー5以外殆どパーオンできません。

ですから、スコアメイクの決め手はアブローチ。

先日は運よく37・38の75でラウンドできましたが、ご覧の通り(赤↓の)パット数が10・11。

つまり殆どのホールを寄せワンで凌ぐという、我慢の連続でした。




まさに我が人生そのもの(?)のようなプレーでしたが、これも修行の一環ですネ。

おかげでアプローチだけは上達しそうですが、バック・ティーでバーディー取れるようになったら、リハビリ完了宣言・・・かナ?

(10年後に70歳になりますが、金色ティーでは意地でもプレーしたくないですワ。)

【おまけ】

そんな私を、小鹿のバンビがお出迎えしてくれました~。


      

って、近づいたら怯えるようにピョンピョン逃げちゃいましたけど・・・。


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バリトン

今日は、私を含めた昭和世代のアニメ・ファンがお世話になった声優、

しゅうせい

仲村 秀生 さん


の命日・没後5周年にあたります。


        


 

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仲村(本名:中村 秀男)さんは、1935(昭和10)年に東京で生まれました。

戦時中に両親の故郷・長野県上田市に疎開した彼は、地元の長野県立上田高校から信州大学へと進学。

卒業後は演出家・竹中荘吉さんが主宰する『劇団くるみ座』(京都)入りして、俳優を目指しました。

1956年には新劇演出家を目指すため上京、舞台芸術学院に入校後、翌年には『新演劇研究所』へ。


そして同所の発展的解消に伴い、劇団『新演』創立に参加。

1960年代前半まで何本かの邦画やテレビドラマに俳優として出演していましたが、同じ劇団に所属していた寺島幹夫さんが 『アンタッチャプル』 で声優の仕事をしていたことがキッカケとなり、1961年に 『ローハイド』 の吹き替えをしたのが、声優デビューとなりました。

ちょうど民放テレビ局が続々と開局し、また所属劇団の解散が重なり、仲村さんはバリトンの美声を生かして外国映画やドラマ、アニメ、CMナレーションなどの声優業へと仕事の重心を移すことに。

『鬼警部アイアンサイド』や『外科医ギャノン』にも出演しましたが、個人的に中村さんの吹き替えに記憶が残るのは、1970年から始まったアニメ『あしたのジョー』の力石徹役。


       力石徹

あの低くシブい声は、強さと不気味さを併せ持つ力石に凄くマッチしていました。

そして最も親しみがあるのは、1974年から始まった『宇宙戦艦ヤマト』登場する、準主役の島大介役。


       

ただ私自身、最初にその声を聞いた時は、あの力石徹と同じ声優さんだとは思えず、後になって両方とも仲村さんだったと知って、ビックリ。

それくらい声質を見事に変えられてましたネ。 さすが、プロ。


その他『ど根性ガエル』や『空手バカ一代』などにも出演した仲村さんは1990年代後半、劇団魚座を旗揚げして再び演劇活動に注力。

また東京アナウンス学院や代々木アニメーション学院の講師として後進の育成にも尽力しました。

しかしその一方で、私生活ではアルコール依存症や躁うつ病を発症、統合失調症も併発させて闘病生活を余儀なくされ、2000年初頭には、実質的に声優業から引退していたそうな。


2012年にCSで放映された『宇宙戦艦ヤマト2199』公開記念番組でナレーションを務めたのが最後の仕事となり、2014年6月には再び体調を崩して療養生活に入った仲村さんが79歳で急逝されたのは、2014年7月30日・・・当時は伏せられましたが、入院先の風呂場での溺死でした。


残念な亡くなり方でしたが、私たちアニメ・ファンとしては、いつまでも力石徹や島大介の声を懐かしみたいと思います。


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【本日増刊・拡散希望】 凄 惨

今日は、私たち日本人にとって実に忌まわしい出来事に関して、皆さんにお伝えしたいと思います。

それは、今から82年前の今日起きた


 通州事件

について。 

1937(昭和12)年7月7日、演習中だった日本軍に対し中国が実弾を撃ち込む 『盧溝橋事件』 が勃発し、これが支那事変の端緒となりました。


世情が不安定になったため、在留邦人は比較的安全と言われていた通州城内に流れ込み、旅館は満杯に。

〝通州〟とは、現在の北京市の東約30kmに位置する通州区北部の中心都市で、当時は日本に留学経験があり日本女性と結婚していた親日派(と目されていた)・殷汝耕が南京政府から離脱して(日本主導で)設立した冀東(きとう)防共自治政府が統治していた場所。


      

              盧溝橋と通州区の位置関係


ゆえに自治政府の保安隊は日本軍によって訓練されており、日本側としては治安面においてさしたる不安を抱かず主力部隊を他の前線に送り出したため、事件直前の通州には小隊40名・自動車部隊50名ら合計120名の留守部隊のみが駐留。

その状況下で同年7月29日未明、自治政府保安隊及び国民革命軍ら約3,300名の支那人が蜂起。


城門を閉め電線・電話線を遮断した上で日本軍の留守部隊及び在留邦人を襲撃したのです。

この裏切り攻撃によって日本の留守部隊は全滅。

支那兵は日本人居住区を1軒ずつしらみつぶしに襲い、在留日本人385名のうち223名を虐殺。


   

その殺害方法は、まさに凄惨の一言。

子供を逆さまに持ち上げて地面に頭を叩きつけて殺害、女性は皆凌辱され中には陰部を銃剣で抉られたり、鼻には針金を入れて牛のように引っ張られた跡が。

また男性の死体は殆どが首に縄をつけて引き回した跡があり、中には腹を裂かれて内臓を切り刻まれた者も。

※事件現場の写真は何枚も現存していますが、あまりに凄惨なため拙ブログでは掲載を控えました。  

『通州事件』で検索して画像をご覧いただければ、支那人がいかに残虐非道の限りを尽くしたのかがお分かりいただけます。


また当該事件に関して詳しく知りたい方には、写真や証言を集めて昨年出版された


  『慟哭の通州 昭和十二年夏の虐殺事件
                     (加藤康男・著 飛鳥出版・刊)

 

       


のご一読をお勧めします。 

表紙に選ばれた、結婚式を挙げてまだ半年余りだった石井亨さんと妊娠中の若妻が、またその日城内にいた邦人たちがどんな目に遭ったのか・・・涙と怒りなくしては読めません。

支那人の残虐性は日本人の想像を絶しますし、決して許容できない民族性を有していることがよく分かります。

そしてそれが変わっていないことは、彼らが現在ウィグルやチベットで行っている弾圧・民族浄化の実態を見れば明らか。

当時現地にいたアメリカ人記者をして、

「日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女・子供らの虐殺は、古代から現代までを見渡しても最悪の集団虐殺として歴史に残るだろう」


と言わしめ、また極東軍事裁判では(一部ではあるものの)目撃証言が受理されているこの凄惨な事件に関し、学校で習ったという方はおそらく殆どいらっしゃらないでしょう。

それもそのはず、現在通州事件に関して記述している教科書は、自由社が刊行している 『新版 新しい歴史教科書』(中学生用) ただ一冊のみ。

私を含めた中高年世代が学生だった頃には、どの教科書にも記載されていませんでしたから。

日本人が虐殺された事件を封印し、有りもしない慰安婦問題や南京事件で謝罪する日本政府のヘタレぶりには呆れるばかりですが、その自虐外交にも少しずつ違う流れが・・・。

殆どのメディアは黙殺しましたが、昨年この通州事件に関して有志がユネスコ記憶遺産に登録申請したのです。

皆さんには犠牲となった日本人の冥福を祈りつつ、是非この事件を知り次世代に語り継いでいただきたく・・・。


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金 言

皆さんには、〝心に残る一言〟〝人生を変えた一言〟って、ありますか?

鎌倉円覚寺の管長を務める横田南嶺師には、ちょうど10年前の今日・2009年7月29日に101歳で大往生を遂げられた


 松原 泰道 

からいただいた言葉が、禅道に入るキッカケになったそうな。


      松原泰道師

僧侶である父の許に生まれ、早稲田大学卒業後仏道に入った松原先生は、ある時先師から 「お前は世に広く仏教を広める仕事をしなさい。」 と言われたとか。


その言葉通り、1972年に大ベストセラーとなった 『般若心経入門』 をはじめ多数の著書を世に残され、また講演会やラジオ番組などを通して仏教の普及活動を積極的に続けられた、まさに仏教界のスポークスマン的存在でした。

横田管長は中学生の時にその松原先生が毎月ラジオで行っていた『法句経』 の講義を熱心に聴いており、その放送が終わった直後にたまたま上京する機会があったので、「是非お目にかかりたい」 と直接手紙を出したのだそうな。

当時の松原先生は講演や執筆で多忙を極めていたそうですが、一面識もない中学生からの手紙に返事を出したばかりか面会の約束もしてくれました。  そして初めて会った横田少年に書き記したのが、

〝花が咲いている 精一杯咲いている 


                  私たちも 精いっぱい生きよう〟

という言葉だったそうな。 横田管長は、こう仰っています。

「これは今日に至る私の人生を貫いてきた言葉でもあり、将来もしあなたの一生とはどういうものだったのかを問われ、『中学生の時に泰道先生にお目にかかり、花のように精いっぱい生きよと言われ、その言葉通り精いっぱい生きて死んだ』 と答えられるとしたら、私にとって本望だと思っています。」

まさに横田管長にとって、松原先生の言葉は〝金言〟だったと言えましょう。

実は私にも、松原先生との忘れられない思い出があります。


以前から松原先生の著書は何冊も読んでいましたが、私にとっては雲の上の存在。

     


しかし師が亡くなる3年前、世田谷区にある 『龍雲寺』 という立派なお寺で葬儀のお手伝いをした時、そこで春・秋に月に一度松原先生の法話会が開催されていることを知りました。


逸る気持ちを抑えつつ開催日に訪れてみると、本堂は100人以上の聴講者で熱気ムンムン。


ご年配の方に混じって若い方も何人かいらっしゃいました。


松原先生は、思いの他小さな体をチョコンと車椅子に乗せ、にこやかなお顔で定刻に会場入り。


しかし約1時間半にわたった松原先生のお話は、とても98歳とは思えぬ活舌ぶり。


ユーモアと最新時事を織り交ぜた大変に温かい内容でした。


最近はお布施に関していろいろ言われるご時勢ですが、率直に言って先生が私の葬儀で読経していただけるなら、100万円お納めしても決して高くない・・・そんな気持ちになったものです。


その後何回も法話会に足を運び、法華経の講義などを聴かせていただきましたが、100歳を前に体調を考慮されてこの法話会は中止に・・・。


しかしその後も先生の著書を読むたびに、私の心にはナマで見た松原先生の笑顔と声が常にありました。


今、私の手元には宝物がひとつあります。


それは法話会の後、退席する先生を追いかけていって当時読んでいた松原先生の全集本の一冊にいただいたサイン。       


「ありがたいご法話、ありがとうございます。 


つきましては、是非先生の著書に一筆いただけますでしょうか?」


と図々しくお願いすると、先生はニッコリと微笑まれながら迷いなくサラサラ~ッと一首したためられました。

 仏とは さくらの花に(の) 月夜かな


                 九十八才  泰 道

       


「この意味はね・・・」


と仰りかけたところで、次々と私と同類のミーハー族 あせあせ が先生の車椅子を取り囲み、それ以上の 〝個人講義〟 を受けられなかったことが、今となっては心残りなのですが。


松原先生が江戸時代の俳諧師・宝井其角作であるこの一首を私に授けてくださった真意は、果たして何だったのか?

今となっては、先生からいただいた永遠に解き明かされない〝公案〟 となってしまいましたが、この意味を追い求めることが私に課された〝金言〟なのです。


              ペタしてね



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凄 腕

今から35年前の今日・1984年7月28日、


 第23回夏季オリンピック・ロサンゼルス大会


が開幕しました。 

同大会の開会式は、私にとっては非常に印象深いものでした。


何故なら、映画 『007・サンダーボール作戦』 に出てきた〝ロケットマン〟がいきなり登場し、空中遊泳をしたのですから。

また映画音楽でお馴染みのジョン・ウィリアムスが作曲したファンファーレやメイン・テーマも、歴代オリンピックの中では1964年の東京五輪に次いでお気に入りでしたし・・・。


※開会式の模様を、スタッフ側からの映像でお楽しみください。(↓)




来年開催される東京五輪の開会式では、どんなサプライズ演出が飛び出すのか・・・今から楽しみです。


さて前回・1980年に開催されたモスクワ大でアフガン侵攻に抗議したアメリカや日本をはじめとする多くの西側諸国がボイコットした報復として、ソ連ら東側諸国が不参加だったため若干寂しくなった同大会。

 ※モスクワ五輪ボイコトに関する過去記事は、こちら。(↓)



しかし日本人にとっては、柔道・山下泰裕選手の涙の優勝をはじめ金10・銀8・銅14個と大量のメダル獲得や、カール・ルイスの4冠達成など、大いに楽しめる内容でした。


そして同大会は、オリンピック史上において大きな転機となったことで、歴史にその名を留めました。


それは、一切の税金を使わずに黒字を計上 したこと。


それまでの歴代開催国はいずれも莫大な税金を投入し、しかも大会後は赤字の後遺症に苦しんできました。


その現状に尻込みしてか開催立候補は徐々に減り、1984年の開催地にはロサンゼルスのみという有様。


このオリンピックの窮状を救ったヒーローが、同大会委員長を務めた当時47歳の気鋭


  ピーター・ユベロス 
  Peter Victor Ueberroth


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-ユベロス


同氏は1937年イリノイ州生まれ。


彼自身、水球のオリンピック候補選手になった程のスポーツマンでした。


大学卒業後は大手旅行会社に就職し、20代後半だった1963年に独立して旅行会社を設立。

一代で従業員1,500人を擁する北米第2位の大会社に成長させたやり手。


-orphan;">その経営手腕を買われてロス五輪の大会組織委員長に抜擢された彼は、自らの旅行会社を1,400万ドルで売却して就任するや、斬新な戦略を次々と打ち出します。


テレビ放映権料をアメリカ3大ネットワークのひとつであるABCに破格の約450億円で売却したり、オフィシャル・スポンサーを1業種1社に絞って価値観を高めたのをはじめ、聖火リレー・ランナーを有料化。


一方でメイン・スタジアムは50年以上前のロス五輪で使用したものを改修利用したり、大量の学生ボランティアを動員するなど徹底的なコスト削減も行い、結局終わってみれば約400億円もの黒字を計上し大成功に導きました。 


一躍時の人となったユベロス氏はロス五輪終了直後の1984年10月、大リーグのコミッショナーに就任。


様々なテコ入れを行い、赤字経営の球団が多数あるといわれた大リーグを、4年後に全て黒字化することに成功したといわれています。


但し、そのやり方にはかなり強引な部分もあったようですが・・・。


1人の敏腕実業家によって息を吹き返したオリンピックですが、中には商業化を批判する向きも。


しかし彼の存在がなかりせば、オリンピックの継続開催は困難だったかもしれません。


凄腕・ユベロス氏が安倍総理の後釜に座ってくれたら・・・実際には有り得ないことですが、政治家のレベルの低さを見るにつけ、ついつい無いものねだりをしてしまいたくなる私です。うー


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倍 速

今や旅客機といえば、ジェットが当たり前。

プロペラ機を見かけるのは稀ですが・・・このジェット旅客機が初飛行に成功したのが、今からちょうど70年前の今日でした。 

開発・製造したのは、イギリスのデ・ハビランド社で、機種はその社名を冠した


 デ・ハビランド コメット

de Havilland DH.106 Comet


1930年代のイギリスは、大型飛行機で世界各地の植民地への空輸ルートの開拓を進めていました。

それが第二次世界大戦が勃発したことから、民間長距離航空路の開拓は一旦休止に。


しかし大戦中から、チャーチル政権は戦後を見越して大型旅客機の開発を指示。

そして同国初のジェット戦闘機の開発に成功した老舗航空機メーカーのデ・ハビランド社が、それをより大型化したジェット旅客機の開発を表明。

軍需省や英国海外航空(BOAC)から仮受注を受け、1946年9月から開発を始めました。

しかし開発には幾多の困難やトラブルが。

当初開発した無尾翼高速研究機(DH108)が試験飛行中に墜落し、操縦していた同社創業者サー・ジェフリー・デ・ハビランドの息子ハビランド・ジュニアが36歳の若さで死亡。

       

          Sir Geoffrey de Havilland (1882-1965)


この悲劇により一層開発に執念を燃やした父は、機体を堅実な緩後退翼タイプに変更し、独自に開発したジェットエンジンを主翼付け根に埋め込むことに。(↓)

    

そしてデ・ハビランド社長の誕生日であった、1949年7月27日・・・社長自らが操縦席に座った(※操縦はテスト・パイロットのジョン・カニンガム元空軍大佐)コメットの初号試作機が初飛行に成功したのです。

その後改良が重ねられ、初飛行から3年弱経った1952年5月には、初の商用飛行が英国海外航空に納入されたコメットMkⅠによって、ヒースロー~ヨハネスブルグ間で行われました。(↓)


     


所要時間はそれまでの半分だったそうですから、さぞ当時の人々は驚いたことでしょう。

これを見た各国航空会社はこぞってコメットの導入を進め、路線も拡大・・・しましたが、コトはそう簡単には進みませんでした。

就航から1年以内に離着陸時の事故で3機が失われたのです。

幸い人命を失うことはなかったのですが、1954年1月にイタリア近海を飛行中だった英国海外航空所有のコメットが墜落し、乗員乗客35名が死亡。

空中分解が事故原因とされ、英国海外航空は同機を一旦飛行停止に。

そして改良が加えられた後飛行が再開されましたが、3ヶ月後の同年4月に再びイタリア近海を飛行中だった南アフリカ航空のコメットが墜落し、乗客乗員21名が全員死亡。

墜落原因を徹底的に究明するため、コメット1機を巨大な水槽に沈めろて加圧するという大掛かりな実験を行った結果、主要因が金属疲労だったことが判明。

この調査結果により、それ以降に製造されたジェット旅客機は、窓などの開口部の角を丸くしたり、亀裂が生じてもその延伸を食い止めるフェイルセーフ構造が取り入れられるなど、期待改良に大きく貢献しました。

その後ボーイングやダグラスなど競合他社に押され、英国海外航空でも1960年代に運用が終わり、1964年に112機に達したところで生産中止となりました。

寿命は短かったものの、航空業界発展のために貢献した世界初のジェット旅客機の一風変わった名前、憶えてやってくださいまし。


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Gメン

・・・と聞けば、故・丹波哲郎さんが活躍したテレビドラマ〝Gメン’75〟を思い出す中高年の方は多いでしょう。


この〝Gメン〟とは、1933年・・・禁酒法時代に暗躍したギャングの〝マシンガン〟ケリーが逮捕される際に


「撃つな、Gメン!」 (Don’t shoot, G-Men!


と叫んだ、という逸話から単に「政府の役人(Government Men)」 を指す言葉が、ある組織の捜査官の代名詞になったのですが・・・その組織とは、


  アメリカ連邦捜査局
  Federal Bureau of Investigation


のこと。 その頭文字を取って〝FBI〟と呼ばれる、この泣く子も黙ると恐れられる捜査機関が発足したのが、今から111年前の今日・1908年7月26日のことでした。


        


ただ始めからこの名称だったわけではなく、当初はほんの数人で司法省内に 〝BOI(Bureau of Investigation)=捜査局〟 として静かに発足。


そして1933年には〝DOI (Division of Investigation )=捜査部〟 に改称、現在の 〝FBI〟となったのはその2年後・1935年になってから。


〝BOI〟内の課長に任命されてから、僅か5年・29歳で長官に任命され、〝DOI〟・〝FBI〟の初代長官となって、長らくこの組織を支配したのが、ジョン・エドガー・フーヴァーでした。


※フーヴァーに関する過去記事は、こちら。(↓)



テレビドラマや映画でよく登場する〝FBI〟ですが、日本人には警察とどう違うのか今一つよく分からない組織ですょネ。


その主な職務は、外国のテロリストや諜報機関と闘い、それらの活動および重大犯罪からアメリカ(国民の権利)を守ることとされています。


ここで働く職員は捜査員13,000名を含む約35,000名(※2019年現在) という大組織。 

アメリカ国内56ヶ所のオフィスにとどまらず日本を含めたすべての大使館に人員が配置されているとか。


    


          バージニア州クワンティコにあるFBI本部


日本にはこれと全く同じ組織は存在しませんが、日本の警察庁の職員数が約7,500名、公安調査庁で約1,500名だそうですから、その規模がいかに大きいかが伺えます。


逆にいえば、それだけ扱う重大犯罪件数が日本とは比較にならない程多い・・・ということでしょうが。


ただ個人的に、FBIが持つ職務権限の中で我が国に取り入れてほしいものが一つあります。


それは、州を跨いだ広範囲な犯罪に対する捜査権。


つまり日本に置き換えれば、都道府県を跨いだ広域犯罪に関して捜査権限を持つ組織が必要ではないか・・・と思うのです。


お役所の中でも特に警察は縦割り組織で、縄張り意識が強いといわれます。


時々合同捜査本部が立ち上げられますが、県警同士で手柄の取り合いというかイガミ合いが昔から指摘され、そのおかげで犯人を取り逃がすケースがいくつもありました。


たとえば古くはグリコ森永事件の犯人追跡、あるいは千葉県のストーカーが長崎で殺人を犯した事例など。


もし地方警察を超えて全国的に動ける捜査組織があれば、これらの事件は解決もしくは未然に防げた可能性がありましたから。


タテ割り組織を跨ぐフレキシブルな捜査機関=日本版・FBIの創設、黄門様の如き(?)Gメンの登場が、今後ますます広域化・凶悪化する犯罪への対抗上必要だと思うのですが、いかがでしょう?


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UMAMI

人間が感じる味覚には、甘味・塩味・苦味・酸味がありますが、もうひとつあるのをご存知でしょうか?

それは・・・〝うま味〟。 今日は、その

 うま味調味料の日

なのだそうです。

今から111年前の今日・1908(明治41)年7月25日に、『グルタミン酸塩を主成分とせる調味料製造法』の特許が認定されたことに因むとか。

うま味成分を発見しこの特許を取得したのは、東京帝国大学理学部化学科教授の、池田 菊苗(きくなえ)氏。

       


池田教授は、1864(元治元)年に薩摩藩士の父・池田春苗の次男として京都に生まれました。

1885年に帝国大学理科大学化学科(現・東京大学理学部化学科)に進学し義兄にあたる櫻井錠二教授から化学を学び、卒業。

1896年から同大の助教授となり、1899年から物理化学研究の本場ドイツ・ライプツィヒ大学に2年間留学、後にノーベル化学賞を受賞したオスワルド教授に師事しました。


留学後一時ロンドンに滞在した際、あの夏目漱石と同じ下宿に住み、彼の文学論に影響を与えたという池田氏は、帰国後1901年に教授に昇格。


多くの基礎化学的な研究を行う一方で,実学的な研究にも広く興味をもっていた池田教授・・・実は、幼少の頃より(湯豆腐などの)料理に使われる昆布の出汁に関心をもっていたそうな。

そして1907年に妻が買ってきた昆布を見て、そのうま味成分について研究することを決意。


同年に約38 kgもの大量の昆布から煮汁を取り,うま味の素であるアミノ酸の一種・L-グルタミン酸ナトリウム約30 gの抽出に成功。

       


               池田博士が抽出した〝具留多味酸〟


池田教授は、この製法を1908年4月24日に特許申請し、その3ヶ月後に認可を受けたのです。

この画期的発明を池田教授と契約を締結して翌年工業・製品化したのが、鈴木製薬所の創業者・鈴木三郎助(1868-1931)。

その新調味料の名は、『味の素』。

そう、鈴木製薬所は現在の味の素株式会社の前身なのです。

    

         鈴木三郎助             発売当初の『味の素』

 ※『味の素』に関する過去記事は、こちら。(↓)



昔は化学調味料だったのに、なぜ今はうま味調味料と言うのか?
リブログ記事をお読みいただくと、その辺の事情も分かります。

まァそれはともかく・・・〝日本十大発明〟のひとつとされる、このうま味成分を発見した池田菊苗教授の名を皆さんも是非憶えて下さい。

そして味の素を使う時には、是非感謝の気持ちをお忘れなく!扇子


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美 女

今からちょうど60年前の今日、戦後復興の最中だった日本を大いに元気づける出来事がありました。

アメリカで開催されていた第8回ミス・ユニバース世界大会で、


 児島 明子 さん


が日本人で初めて、いや東洋人で初めて・・・また有色人種として初めて優勝を果たしたのです。


       


児島さんは1936(昭和11)年に東京・世田谷で生まれました。

5歳から水泳を始めた彼女は、疎開で高知市に移住し1950年に父親を亡くし母子家庭で育つ苦労を味わったものの、高知商業高校時代は平泳ぎの選手として活躍。

そんな彼女がミスコンに出場したキッカケは、何と姉のピンチヒッターだったというから驚きます。

1953年、推薦を辞退した姉の代わりに帝国劇場で開催された第2回ミス・ユニバース日本大会に四国代表として出場し、日本代表に選ばれた伊東絹子さん(世界大会では3位)に次ぐ準ミスに。

高校卒業後上京した児島さんは、伊東絹子さんらが所属する芸能事務所と契約してモデルになると、1958年にはミス・ユニバースとミス・ワールドの日本代表を同時に選考する大会に応募し、東京代表に。

しかし日本大会直前のパレードの最中に彼女らが乗った車が追突事故に遭うという信じられないアクシデントに見舞われ、彼女は2ヶ月入院・・・当然、日本大会は棄権せざるを得ず

しかしこの事故のおかけで、彼女は翌年のミス・ユニバース日本大会には予選免除で出場することができ、見事日本代表に。

そしてアメリカのロングビーチで開催された世界大会では、身長170cmでスリーサイズが94-58-97という、現在でも十分通用するダイナマイト・バディーを惜しげもなく披露して最終審査に残ると、アメリカやブラジル、イングランドらの白人代表を抑えて、見事優勝!


       

それから1年間はミス・ユニバースとして世界を飛び回って活躍し、翌年の大会で新女王にその地位を譲り、大役を無事終えました。

その後1960年に俳優の宝田明さんと結婚し二男一女を授かりましたが、1984年に離婚。

子供は全員児島さんが引き取ったそうですから、母子家庭で育った彼女が今度は母子家庭を支える立場になったわけです。

長女の児島未散さんは歌手として活動し、現在はアメリカ在住とのこと。

そして今年83歳になられる明子さんもご健在・・・近影を拝見すると、相変わらずお綺麗なようです。


        

彼女のあと、ミス・ユニバースで優勝した日本人女性は、2007年の森理世さんのみ。

他のミス世界大会では、ミス・インターナショナル2012年大会で優勝した吉松育美さんと、今まで3人だけ。

そろそろ世界大会で栄冠を勝ち取る4人目の日本人女性の雄姿を見たいものです。
扇子

ミスコンについていろいろ批判する向きもありますが、出場者たちはオリンピック代表選手のように日々熾烈なトレーニングを重ねた末に出てくるわけですから、暖かい目で見守りたいものです。

人間にとって、美しいものを見るのは嬉しい事なのですから・・・。
笑2


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布 教

現在の日本では宗教の自由が保証され、様々な宗旨・宗派の信者・信徒がいらっしゃいますが、その中で仏教・神道に次いで信者が多いキリスト教を日本に初めて伝えたのが


 フランシスコ・デ・ザビエル

     Francisco de Xavier


であることは、皆さんもご存じのとおり。


その彼が日本に上陸を果たしたのは、今からちょうど470年前の昨日・1549(天文18)年7月22日のことでした。


          


1506年、スペインで5人兄弟の末っ子として生まれたザビエルは貴族の家系にありましたが、青年時代をスペイン併合など激動の政情の中で過ごしました。


19歳の時にパリ大学に留学し哲学を学んだ彼は、学友・イグナチオの影響を受け聖職者の道へ。


1534年8月に彼らを含めた7人の若者がモンマルトル聖堂に集まって生涯を神に捧げる清貧・貞潔・聖地巡礼の誓いを立てました。


これが、いわゆる〝イエズス会〟の発足となります。


世界布教を目指す同会の趣旨に沿って、ザビエルは3名のイエズス会員と共にインド・ゴアに向けリスボンを出発。


1547年に無事ゴアに到着した一行は、そこを拠点にしてインド各地やマラッカなどで布教活動を行った後、1549年4月に日本へ。


そして同年7月22日、彼らは鹿児島に上陸。 


時にザビエル43歳の時でした。           


薩摩の守護大名・島津貴久から許しを得て布教活動に入ったザビエルは、その後も各地で布教活動を行いつつ、堺の豪商・日比屋了珪の支援により、1551年1月に念願の京都入りを果たします。


しかし残念ながら後奈良天皇や将軍・足利義輝への謁見は叶わず、日本全国への布教の許しは得られませんでした。 


その後山口・大分などで布教活動を行い、同年11月に数人の日本人を連れて出国 (内1人は後にヨーロッパに入った最初の日本人となります) し、ゴアに戻ります。 


そして日本全国布教のためには不可欠との思いで中国への布教を決意し同国・上川島に入ったものの病に倒れ、46歳の若さで天に召されました。

※ザビエルの遺体は現在ゴアのボム・ジーザス教会で保存されており、10年に1度公開されるたびに500万人以上の信者が訪れているとか。(↓は2014年公開時の写真)


    


ところで、ザビエルは日本での布教活動を何語で行ったのか?


いくら聡明な彼でもいきなり日本語が話せたわけではなく、マラッカで出会い洗礼を受けた鹿児島出身の日本人・ヤジロウが同行通訳を務めたとのこと。


とは言え、彼はプロの通訳ではなくキリスト教の知識も浅かったため、キリストを〝大日〟と誤訳してしまい、キリスト教を仏教の分派と勘違いした僧侶が彼ら一行を歓待した・・・という、真言宗関係者が目を剥くような珍プレーもあったとか。あせあせ   


しかしザビエルは 「今まで出会った異教徒の中で、最も優れた民族」 と日本人を高く評価していたといいます。


ただその一方で、宣教師の来日は日本人女性の奴隷貿易の先兵だったという指摘があり、ヨーロッパに50万人も連れ去られたという話があります。

秀吉がキリシタン禁止令を発したのは、それを知って激怒したからだとか。

ザビエルが奴隷貿易に加担していたかどうかは分かりませんが、彼の死後1622年に列聖されたのは、もしかしたらその先陣を切った功績を評価されたからなのかも?
うー


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