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鉄 骨

「フランスのシンボルといえば?」

そう聞かれたら、多くの日本人はこう答えることでしょう。


 エッフェル塔

  La tour Eiffel


このパリの中心部に立つ鉄塔が完成したのが、今からちょうど130年前の今日・1889年3月31日のことでした。


       


フランス革命100周年を記念し、この年にパリで開催される第4回万国博覧会のシンボルとして建設が決まったこの塔は、1886年に行われたコンペの結果


〝決定的な特徴を持ち、金属産業の独創的な傑作〟


という理由で、フランス・ディジョン生まれのエンジニア

 アレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェル (1832-1923)


が代表を務めるエッフェル社の案が採用され、そのまま塔名にもなりました。


       

              Alexandre Gustave Eiffel


ただ実際の設計は、同社建築部長ステファン・ソーヴェストルと構造担当技師モーリス・ケクランだったとか。

しかしエッフェルはアメリカの象徴である『自由の女神』建造に際し骨格設計に携わるなど、その功績は大。

※自由の女神に関する過去記事は、こちら。(↓)



高さ312.3m (※現在は放送用アンテナがつけられたため324m)、3つの展望台を有するこの塔は建設開始から2年2ヶ月という当時としては驚異的なスピードで建設され、にもかかわらず工事関係者の死者ゼロという見事な手際でした。


  

(※東京タワーは工期が1年3ヶ月ながら、鳶職人が1人転落死)


今では信じ難いことですが、当時はその鉄骨剝き出しの奇抜なデザインに賛否両論、芸術家たちが建設反対の陳情書を出したとか。


おまけに万博後には来場者が減少したこともあり、10年後には解体の危機に晒されました。


しかし軍事用の無線電波塔として利用することとなり、国防上の重要建築物として生き長らえたことで現在に至っており、2017年には累計来場者数が3億人を突破(2016年の来場者数は約580万人)したという、世界一有料集客数の多い建物となりました。

(※東京タワーの累計入場者数は、開業60周年を迎えた昨年で1億8千万人。 最近では年間約250万人。)


しかし反面残念なのは、エッフェル塔が〝自殺の名所〟でもあること。


今まで数百名が飛び降りたそうで、今でも防止ネットをかいくぐって年間数名が自ら命を絶っているとか。


それなら厳重な防止対策を取ればいいように思うのですが、そこはお国柄の違いなんでしょうか?


(※東京タワーでは、2002年に展望台のガラスを突き破って飛び降りた男性1人のみだそうな。)


1985年に公開された映画 『007 美しき獲物たち』で、メイデイがエッフェル塔からパラシュートで飛び降りるシーンがありましたが、実はここで亡くなった最初の男性は自作パラシュートでのダイビング実験に失敗した発明家。


あっ、そうそう・・・2009年に世界遺産に指定されたこの塔に関して、もうひとつ注意事項が。


現在ライトアップされたエッフェル塔の著作権をパリ市が所有しており、昼間は問題ありませんが照明に浮き上がる夜景の映像を無許可で公表すると、著作権侵害に問われ罰金を科される可能性があるのだそうな。驚き顔


フランス旅行に行かれる方、夜間に撮影した画像をブログやインスタにアップするのはお控え下さいませ。


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合 体

今時の学生さんや若者は知らないかもしれませんが、私のような昭和世代の方なら一度は使ったことがあるはず。

これが何か、お分かりですょネ? (↓)

         

そう、〝消しゴム付き鉛筆〟なんですが・・・実はこの鉛筆と消しゴムをくっつける特許がアメリカで認められたのが、今から161年前の今日・1858年3月30日のことだったそうな。 

取得したのは、


 ハイマン・L・リップマン (1817-1893)

Hymen L. Lipman


という、ジャマイカ・キングストン生まれのアメリカ人画家。


          


12歳の時に家族と共にフィラデルフィアに渡ってきた彼は、デッサン中によく手元の消しゴムがどこかに行ってしまい、探すのが面倒くさかったことから、鉛筆と消しゴムをくっつけることを思いついたとか。

そして両方をニカワで接着して一体化させることに成功し、この特許を申請したというわけ。


    


まさに〝必要は発明の母〟の典型例ですが、彼はこの特許を取得してから数年後に10万ドル(現在の約1億円前後)で売却し、一躍大金持ちに。

その後、このように2つの商品を合体させるアイデア手法が〝ハイマン法〟と呼ばれるようになりました。

しかし彼が特許を取得するより前、後にエバーハード・ファーバー社という文具メーカーの創業者となる
ジョン・エバーハード・ファーバーが、金属片で鉛筆と消しゴムを装着する方式で特許を取得しており、両者の間で特許紛争が勃発。

アメリカではよくある話・・・ですが、結局連邦最高裁は 「消しゴム付き鉛筆自体に新規性が認められない」 として双方の特許を取り消してしまったとか。

ご両人にとっては、まさに〝藪蛇〟というか、骨折り損のくたびれもうけに終わってしまいました。


いうことで、今私たちが利用しているシャープペンシルに消しゴムが装着されていますが、当然特許は出願すらされていないようです。

ハイマン法という名は有れど、柳の下にそうそうドジョウはいないようです。
あせあせ


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鬼 畜

その事件は当時の日本を震撼させましたから、未だにご記憶の方も多いでしょう。

史上最悪の少年犯罪と言われた


 女子高生コンクリート詰め殺人事件

の被害者の遺体が犯人らの自供により江東区・若洲の埋め立て地に投棄されたドラム缶から発見され事件が発覚したのが、今からちょうど30年前の今日・1989(平成元)年3月29日のことでした。 


    


事件の発端は、その5ヶ月前の1988(昭和63)年11月25日に埼玉県三郷市で起きました。

女子高生・Fさん(当時17歳)がアルバイト先から自転車で帰宅する途中、折悪しくひったくりや強姦を狙う少年グループに目をつけられてしまいます。

少年C(当時16歳)が、主犯格の少年A(当時18歳)に命じられ、彼女の自転車を蹴飛ばして転倒させるとそのまま逃走。

そこにAが近づき「今の奴はさっきオレも襲ってきた暴力団関係者だ。危ないから送ってやる」とウソを言い、それを信じてついてきた彼女をホテルに連れ込み強姦。

その後Aは少年B(当時17歳)とC、それに少年D(当時16歳)を呼び出すと、そのままFさんをCの自宅2階に連れて行き、監禁。

その後他に2人の少年をも呼び出し、輪姦。

監禁中に1度隙を見てFさんが1階の電話で警察に電話したものの、繋がる前にAに満ち勝ってしまい、この時から日常的な暴力が続きました。

そして驚くべきは、このC宅にはCの両親が同居しており、女性が監禁されていた事実を知っていた事。

一度は母親が「帰りなさい」と逃がしたものの、逃亡に気づいたCが連れ戻した後は、見て見ふり。 

※ちなみにこのCの両親は共産党員でした。


        


その暴行たるやすさまじく、局部に異物を挿入したり、顔一面にろうそくを垂らしたり、顔が変形する程殴ったり・・・もうこれ以上は気分を害する方がいらっしゃると思うので書くのは控えます。

日々衰弱していったFさんが亡くなったのが、年が明けた1989年1月4日。

少年らはFさんの遺体を毛布でくるみ旅行カバンに入れてクルマで江東区若洲の埋めた土地に運び、ドラム缶に入れてセメントを流し込み、遺棄したのです。

その時点ではFさんは失踪扱いになっていただけでしたが、AとBが別件のひったくりと婦女暴行事件で取り調べを受けている最中、警察から余罪を追及された際、「殺しちゃいかんょ」 とカマをかけられた際に、つい自供したことから事件が発覚した・・・というわけ。

発見された遺体は、目の位置が判別できない程殴られて歯もなくなっており、両親がFさんと確認できない程で、局部にはオロナミンCのビンが2つ差し込まれたままだったとか。

これを鬼畜の所業と言わず、何と申しましょうか。

この事件の報道では、その残虐性・重大性から一部週刊誌が実名報道をするなど世論も二分されましたが、少年の裁判さしては異例の注目を浴びました。

結局判決は、検察が無期懲役を求刑した主犯格Aに対し懲役20年。

懲役13年を求刑されたBは、5~10年の不定期刑。


懲役5~10年の不定期刑を求刑されたC・Dは、それぞれ5~9年と5~7年の不定期刑に。

これだけの重罪を犯しながら、子分たちは10年未満で娑婆に出られるのは軽すぎる・・・という批判が当時からありましたが、それは当たっていたと言えます。

まず仮釈放なしで刑期の20年を過ごし釈放されたAは、2009年に出所後養子縁組で改名しましたが、2013年に振り込め詐欺グループの1人として逮捕。(その後完全黙秘により不起訴処分。)

Bは1999年に釈放後、彼も養子縁組で改名しましたが、暴力団の構成員となり2004年に三郷市逮捕監禁致傷事件を起こし、実刑判決を受けて再入所。

Cは昨年8月に男性の首をナイフで刺すなどして殺人未遂容疑で逮捕されるなど、とても更生したとは言えない状況。

唯一Dだけは再犯歴がないようですが、自宅に引きこもりだとの事。

彼等の行状を見ても、もはや少年だからという理由で減刑したり手心を加える必要はない・・・そう思う国民は多いのではないでしょうか?

Aの両親が自宅を売却し被害者の両親に賠償金として5千万円支払ったそうですが、それで済む話じゃありません。


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弾 圧

今から10年前の2009年、チベット自治区第9期人民代表大会第2回会議において、今日・3月28日を


チベット(100万人)農奴開放記念日


とする案を、全員一致で可決しました。


これは今から60年前の今日・1959年3月28日、当時の周恩来首相がチベット地方政府の解散を宣言し、同地方政府の職権をチベット自治区委員会が行使することを発表したことを祝うもの。

それまでのチベットは人口5%足らずの官僚・貴族・高位の僧侶らが農奴主となり、チベットの殆どの耕地・牧場・家畜を所有し私有財産として支配しており、それを中共の指導の下に農奴が立ち上って解放された、同国人権史上の偉大な出来事でした。

・・・というのは、あくまで中共の公式見解。

当然のことながら、チベット側はこれに猛反発しています。


       


1959年3月28日は、ダライ・ラマがインド脱出直後に侵攻した共産勢力によりチベット政府が解散に追い込まれた日であり、解放という名のもと、中共が軍事力をもってチベットを侵攻したのは明白である・・・と。


チベットは来年チベット暦2150年を迎える古い歴史を持ち、7世紀に国王ソンツェン・ガンポが国家の統一を果たした当時は、286万人もの軍隊を持つ中央アジアで最も強大な国家だったとか。


       

                   チベット国旗


その後モンゴルや明・清朝、インドとの関係で紆余曲折があったものの、1935年に生まれたダライ・ラマ14世が1940年に即位。


しかし1949年、内戦で勝利した中共の人民解放軍が自国内を掌握すると同時に、隣国のチベットに侵攻。

1954年にダライ・ラマ14世が北京に赴き和平交渉を行うも、圧倒的軍事力を有する人民解放軍の侵攻は止められず。

そして1959年3月10日、ダライ・ラマ14世の身を案じた首都ラサの市民が一斉蜂起。

しかし人民解放軍が容赦無き弾圧を加え、約87,000人を殺害。

ダライ・ラマ14世は止む無く約8万人の国民と共にインドに亡命し、チベット亡命政府を樹立。

そして前述の通り、周恩来首相がチベット政府の解散を宣言したのです。

その後ダライ・ラマ14世は世界各国を回りチベットの現状を訴え、1989年にはノーベル平和賞を受賞。


       


また国連も何度もチベットに関する決議を行っていますが、中共はどこ吹く風で厳しい取材制限・情報統制を敷くと共に、自治区での弾圧・民族浄化を進めているのです。

支那のやり口は変わりませんから、もし尖閣諸島を獲れば次は間違いなく沖縄を狙ってきます。

今、琉球王国独立などという主張に同調している沖縄県民は、このチベットの歴史と現状をよく見極めて欲しいもの。

相手は絶対にあなた方とは共存しない、するつもりもない民族であることを知るべきです。
うー

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【拡散希望】 武 人 

今日は、かつて文部省唱歌にまでなったにもかかわらず、戦後教育では全く教科書に記載されなくなった大日本帝国海軍軍人、


 広瀬 武夫 中佐


の命日・没後115周年にあたります。


司馬遼太郎氏の 『坂の上の雲』 に登場する人物ですので、小説・TVドラマをご覧になった方ならご存じのことと思います。

       


1868(慶応4)年に現在の大分県竹田市に武家の次男として生まれた武夫少年は、母と7歳の時に死別・・・祖母に厳しくサムライ教育を施されました。


9歳の時に西南戦争で生家は消失し、かつて坂本龍馬と盟友であった父親が裁判官として単身赴任していた飛騨高山に転居。

同地の小学校を卒業後そこで代用教員となりましたが、退職後海軍兵学校に入校し講道館で柔道を学び4段の腕前に。


        

                                   16歳の広瀬青年


兵学校卒業後は海軍少尉に任官され、海門・比叡・筑波・扶桑 に乗船して太平洋での遠洋航海を体験、その間清水港では豪傑ぶりで鳴らした清水次郎長との交友エピソードも残しています。


日清戦争に従軍後、1985(明治28)年には海軍大尉に昇進。


必ずやロシアと戦う時期が来ると考えた彼は、敵国を熟知する必要性を痛感し独学でロシア語を学び始めます。


その努力を評価され2年後にロシア留学生に抜擢されると、ロシア語を学ぶ傍ら軍事施設を見学するなどして同国の情報を収集。


1899(明治32)年には駐留武官となってドイツ・フランス・イギリスを視察。


3年後の帰国時わざわざイルツークまで鉄道に乗って輸送能力を調べ、更にそこからは酷寒のシベリアを馬ゾリで横断し実情を探索。


ちょうどその頃、日本ではあの八甲田山の陸軍遭難事故があったのですから、それよりも過酷な条件の中16日で約2,000kmを走破したことは、実に驚くべき離れ業です。


そして彼の予想通り、やがて日露戦争が勃発。


戦艦 ・朝日の水雷長として出撃した広瀬大尉は、1904(明治37)年3月27日・・・ロシア艦隊の停泊する旅順港の入口に船を自沈させて動きを封じる決死の作戦実行部隊に志願。


第2回目の閉塞作戦は4隻の船を沈める計画であり、その中の一隻・福井丸の指揮官となって出撃。


そして一旦船を離れたものの、行方不明となった杉野孫七上等兵曹捜索のため帰船。


3度も船内を捜索したものの見つからず、仕方なくボートで離船した際に敵砲弾の直撃を受け戦死・・・まだ35歳という若さでした。


生涯独身で、部下への体面から女性とデートしても一切手を出さなかったという超硬派。


次郎長との付き合いや横綱・常陸山と義兄弟の契りを交わしたことからも、気骨ある人柄が偲ばれます。


その生真面目で職務に忠実な性格、そして我が身の危険を顧みず部下を探し回ったということで、彼は2階級特進で中佐となり日本軍初の〝軍神〟として崇め奉られました。


彼の壮絶な戦死はヨーロッパにも軍人の鑑として伝えられ、イギリス・ドイツでは絵葉書にもなり海軍士官教育の模範になったといいます。


また亡くなった後にロシア海軍軍人の娘・アリアズナ嬢との文通が明らかになりましたが・・・彼女は愛する異国人の悲報を聞きその場で卒倒、しかも以後生涯にわたって胸につけた喪章を外さなかったとか。


         


敵国の白人女性をそこまで惚れ込ませた広瀬中佐の人間的魅力は、その言動や逸話の数々から容易に想像できますが、その彼の生涯については、この本によって詳細を知ることが出来ます。(


  『 広瀬武夫  旅順に散った「海のサムライ」   
                     (櫻田 啓・著 PHP研究所・刊)


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草


私は常々不思議というか、不満があるのですが・・・なぜ現代の学校教育では、ケネディ大統領やチャーチル首相などの外国人や信長・秀吉・家康など中世の有名人・天下人を扱っても、広瀬中佐のように国の行く末を案じ部下を救うために自らの命を散らした素晴らしい日本人を取り上げないのでしょう?


ただ軍人だから、と言う理由で除外するのはおかしいと思うのです。


伝説に近い有名人だけでなく人の道を貫いた私たちと同じ世紀を生き抜いた人物とその生き様をこそ、未来を担う子供たちに教えるべきではないでしょうか? 


以前拙ブログでご紹介した、400名以上の溺れかかった敵兵を救助した工藤俊作中佐など、学校で教えない誇るべき先達の逸話を、私たちは子々孫々に語り継がねばなりません。(↓)


いい加減自虐教育から逸脱しなければ、子供たちが自分の国に誇りを持てなくなってしまいます。


最後に、お祖母様が広瀬少年に叩き込んだ 〝八か条〟 をご紹介致しましょう。


 ◆ 他人の悪口を言ってはなりません
 ◆ 嘘をついてはなりません
 ◆ 弱い者いじめをしてはなりません
 ◆ 人を軽蔑してはなりません
 ◆ 愚痴をこぼしてはなりません

 ◆ 人をねたんではなりません
 ◆ 約束は守らねばなりません
 ◆ 口にしたことは実行しなければなりません


・・・嗚呼、耳が痛い。ダメだぁ顔


同郷の作曲家・滝廉太郎にとっても憧れだったという武人・広瀬中佐のご冥福を、尊敬の念と共に衷心よりお祈り申し上げます。


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機 密

皆さんは、

 高橋 景保

という人物を、ご存知でしょうか?


現代人でなく、以前、拙ブログでもチラッと登場した江戸時代後期の天文学者なのですが・・・。


その記事は、こちら。(↓)



景保は1785(天明5)年に天文学者・高橋至時(よしとき)の長男として大阪に生まれました。

19歳で父親の跡を継いで江戸幕府天文方となり、天体観測や測量、また天文関連書籍の翻訳に実績を残し、特に伊能忠敬の全国測量事業の監督・援助を行い、彼の没後その測量を基に 『
大日本沿海輿地全図』 を完成させたことで知られています。

しかし優秀どはあったものの、ある意味学者バカでもあったようで・・・景保はシーボルトが所持していたロシアのクルーゼンシュテルノン提督が書いた 『世界周航記』 という本とオランダ領東インドの地図9枚と、彼が欲しがっていた
大日本沿海輿地全図』 の縮図を交換してしまったのです。


おそらく彼自身はそま世界地図が手に入れば大いに役立つと思ったのでしょうが、当然日本の地図を外国人に渡すのはご法度。

彼は1828年10月10日に捕らえられ、伝馬町牢屋敷に投獄されてしまいます。

そして過酷な尋問が続いた末、約4ヶ月後の1829(文政13)年2月16日に45歳で獄死。

病死と伝えられていますが、果たして額面通りに受け取っていいかどうか・・・。

現代なら通常刑事被告人が死亡した場合、その公判は中止されます・・・が、彼の場合は違いました。 


なんと遺体は埋葬されるどころか塩漬けにされ、そのまま事件の吟味が終了するまで亀の中で保管されたとか。

シーボルト事件の顛末やその様子を詳細に書き記した 『蛮蕪子』 という書物も現存しています。


     


そして今からちょうど190年前の今日・1829年3月26日に出された評決は

『存命ニ候ヘバ死罪』



ということで、保存されていた遺体は引き出され、罪状申し渡しの上斬首刑に処せられるという、非常に厳しいものでした。

「いくら何でも、そこまでやることは・・・」

と現代人の感覚では思えますが、逆に言えばそれだけ国防に関する機密漏洩に対して、江戸幕府は非常に神経を尖らせていた証左と言えましょう。

翻って、現在の日本はどうか?

前掲の 『シーボルト事件』 記事でも書いた通り、未だにスパイ防止法すらない脇がガラ空き状態であり、かつ支那の軍部要人に自衛隊の資料を平気で見せる元防衛相までいる始末。

景保は草葉の陰で、

「嗚呼、拙者も平成の世に生まれていれば・・・」

と臍を噛んでいることでしょう。

そんな国防意識の希薄な日本、この先も生き残れるのでしょうか?
うー

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ミカンと板チョコと同級生 <下>

「それじゃ、お先に~。」


そう言うと、バッジテスト1級所持者・S君は、サッサと軽快なスキー捌きで滑り降りていってしまいました。


(おいおいっ、そりゃないだろう。) そう思っても後の祭り。


残された3人は、ただ呆然。


「おい、どうするョ。」 

「どうするって・・・行くしかないだろう。」


覚悟を決めた私は斜滑降でゲレンデの反対側めがけて滑り出しました。


〝ダウンヒルのナベちゃん〟もすっかり形無し・・・コースの両端を行ったり来たり、ジクザクに急斜面を降りるしかありません。


もう1人も私に続いて無事下まで降りたのですが、問題は最後に残ったN君。


実は彼、スキーは初心者だったんです。 


我々3人が下まで降りてきた時も、スタート地点で固まったまま。


「お~い、早く降りてこいょ~。 一番いいスキー履いてんだろ~!」


S君は開業医の息子。 

金持ちの父親から、当時一番高かった小賀坂のメタル・スキーをこの日のために買ってもらっていたんです。


確か当時で10万円くらいした最高級品・・・我々はその事を知っていて、冷やかし半分・嫉妬半分で声をかけたのでした。あせあせ


そして意を決したS君は、ヘッピリ腰のままソ~ッとボーゲンで滑り始めます。


          

                ジャイアント・コースの急斜面         


でもスキーって、腰を引くと一層スピードが出ちゃうんですょネ。


みるみるスピードアップしたS君、「あっ、そのまま行ったら林にツッコむゾ!」 と思った瞬間、斜面下に向かって転倒!


何回かゴロゴロッと転がった後、ズルズルと落ちてきました。


これまたスキー経験者ならお分かりだと思いますが、30度を超える急斜面だと転倒したらエッジをうまく立て踏ん張らないと、止まらないんですょネ。


捕まって棒に吊るされたイノシシのような恰好のまま滑り落ちてくるN君の情けない姿を見て必死に笑いを堪える我々の足元に、ミカンが何個か転がってくるではありませんか。


(どうして、ゲレンデにミカンが?)


不思議に思っていると、今度は明治の板チョコが一枚、スルスルと・・・。


そして最後にN君本体(?)が我々の足元に滑り落ちてきました。


その彼の背中には、パックリと蓋の開いたリュックが。


そうなんです。 

ミカンと板チョコは、彼が持ってきたおやつだったのです。


あまりの可笑しさに、とうとう声を上げて大笑いしてしまった私ですが、次の瞬間ピタッと笑いが止まりました。


それは、N君の右足に装着されていたスキー板の後ろ半分が、ポッキリと折れて無くなっていたから・・・。


フッと斜面を見上げると、彼が転倒した辺りの純白のゲレンデに、鈍く光る黒いメタル・スキー板が、あたかも墓標の如く刺さっているではありませんか!


初心者の彼は転び方も知らなかったため、転倒した際にスキー板をゲレンデに突き刺して転がってしまったわけです。


10万円もする新品のメタルスキーは、たった20m滑っただけでお陀仏。


休憩所に連れて行くと、イスに座ったN君は、「パパに買ってもらったばかりなのに・・・」 と、シクシクと泣き止みません。


さすがに悪いと思ったのか、S君は動き出したリフトに乗ってゲレンデに刺さった残骸を引き抜き、再び滑り降りてきました。


私はN君用にレンタルスキーを借りてきて


「泣いてもしようがないだろ。 蓮池のやさしいコースで滑ろうぜ!」


と励まし、我々は半ベソの彼を抱えて休憩所を出たのです。


・・・その後どこでどう滑ったのか、今は全く記憶なし。


しかし白銀の斜面を転がってきたミカンの鮮やかな橙色と板チョコの茶色、そして急斜面に刺さっていたメタル・スキーの破片が朝日に黒く光っていた光景は、今もって忘れることができません。


※このジャイアント・コースを滑った方自ら撮影した動画がありました。
ご覧いただきながら、ミカンや板チョコが落ちてきた光景をイメージしてください。

1分過ぎから急斜面に入ります。




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【今週の至言】 唯 一

超一流選手が語る、成功への道とは・・・。



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ミカンと板チョコと同級生 <上>

スキーシーズンも、まもなく終わり・・・皆さん、今年は滑りましたか?


長野に生まれ育った私にとって、スキーは身近なスポーツ・・・というより、冬はそれしかやることがなかった、とも言えますが。あせあせ


自宅からリフトが見えるスキー場があり、シーズン中の日曜日はよくスキー靴を履いたまま(!)電車やバスに乗って通ったものです。


着替えや昼食のおにぎりを入れたリュックサックを休憩所の机の上に置きっぱなしでゲレンデに向かい、1日乗り放題リフト券をお守りのように首から下げて、朝から暗くなるまで滑りまくり。


(当時は村営で、リフトが3本しかなかったその 『飯綱高原スキー場』 が約30年後にはオリンピックのモーグル競技会場となり、里谷多英選手がそこで金メダルを獲得するとは・・・私にはまさに隔世の感というか、感慨深いものがありましたが。)笑2


小学生の頃から一応ウェーデルンくらいは出来ましたが、私は生まれながらのスピード狂(?)・・・スキーでもダウンヒル(直滑降)が大好き。


中学生になると、親にせがんで憧れのメーカー・〝小賀坂〟から発売されたグラスファイバー・スキーを買ってもらったのですが、できるだけスピードが出るようにと長さはなんと2m。


まるでジャンプ競技に使うようなロングスキーに当時最先端・HEAD社のビンディングを装着して、ブイブイ飛ばしたものです。


そんな私がスキーをしたのは高校生の時まで。


大学に進学して上京すると、周囲がスキーに行くのは女の子をナンパするアフタースキーが目的。


背中に入れたバスタオルがグッショリ濡れるほど身体を張って滑っていた体育会系スキーヤーだった私には、とてもそんな軟弱スキーなどに付き合う気が起きませんでした。


結局大学時代、そして社会人になってもケガをして周囲に迷惑をかけたくないので、一度もスキーに行くことはなく現在に至っています。


そんな私が最後に滑ったのは高校2年生の時でしたが、このラスト・スキーで生涯忘れられない出来事に遭遇したのです。


来年は大学受験、とてもスキーどころではないってことで仲良しの同級生3人と〝滑り納め〟 に行くことに。


その中で最も上手だったS君の発案で、ゲレンデは志賀高原に決定。


当日、長野電鉄の始発電車に乗って終点・湯田中駅へ。 


そしてS君に案内されるままバスに乗って暫し・・・降りたバス停は、ちょうどゲレンデの中腹あたり。


「ここでスキー履いて、下の休憩所まで行こう。」


そう言うS君についていった我々はゲレンデの端に立った瞬間、思わず絶句。


遥か下に見えるロッジの手前は、ゾッとするような急斜面だったのです。(


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-志賀高原


なんとそこは、スキーヤーなら知る人ぞ知る

 ジャイアント・コース


国内の公式競技はもちろん、後にワールドカップも開催された超上級者用のゲレンデだったのです。


スキー経験者はご存知だと思いますが、傾斜が30度以上になると、絶壁を滑り落ちるような感覚。

ところが当時のジャイアント・コースの最大斜度は、それを遥かに凌ぐ約41度!ダメだぁ顔


朝8時前でリフトも動いておらず、まだ誰も滑っていないギャップだらけのゴツゴツしたアイスバーン・・・殆ど垂直に落ちていくような絶壁にいきなり立たされた私のビビリ具合、想像いただけますでしょうか?


さすがのダウンヒル男も、この急斜面を真っ逆さまに滑り降りる勇気はなし。


(オ、オレ・・・無事に下まで行けるんだろうか?)


緊張で心臓バクバクの私、そして同様に顔面蒼白の仲間たちの運命やいかに?


                 ・・・・・To be continued!


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V 2

それは、日本中を熱狂させる出来事でした。

今からちょうど10年前にアメリカで開催されていた

 第2回ワールド・ベースボール・クラシック

で、原辰徳監督率いるサムライジャパンが、見事同大会2連覇を成し遂げました。


       


2006年の第1回大会で優勝していただけに、日本国内ではこの大会でもサムライジャパンに対する期待が大きく膨らんでいましたが、北京五輪後だったこともあって中日が選手の拠出を辞退するなど、人選が難航。

それを引きずった訳でもないでしょうが、第1・第2ラウンドでは韓国に敗れるなど、決して順調な勝ち上がりとは言えませんでした。

それでも第2ラウンドで強敵のキューバ、そして準決勝でアメリカを破ったサムライジャパンは、2009年3月23日(現地時間)、ドジャースタジアムで行われた決勝で宿敵・韓国と激突。


日本がリードし韓国が追いかける展開で進んだこの試合は、9回表を終わって日本が1点リード。 

マウンドにエースのダルビッシュ投手が上がった時は、誰もが勝利を確信したはず・・・ですが、何と2つの四球とタイムリーヒットで同点に追いつかれ、まさかの延長戦。


そして10回表、クライマックスが訪れます。

2死2・3塁のチャンスで迎えるバッターはイチロー。

日の丸を背負ったイチローの気迫と、当時ヤクルトの守護神として活躍していた林昌勇投手のプライドのぶつかり合いは、まさに固唾を飲む名勝負でした。


その約6分に及ぶ打席を、是非とも動画でご覧ください。




メジャーリーグでもまず敬遠と思われるこの場面で、林投手は真っ向勝負。


ファウルで粘った後の8球目、勝負球のシンカーを真芯で捉えたイチローの打球は2走者を返すセンター前タイムリーヒット!


強烈なピッチャー返し・・・〝糸を引く打球〟とは、まさにコレ。


ヒット1本で体中の毛穴が開くほど感動したのは、この瞬間以外に私は記憶がありません。


その裏、ダルビッシュ投手は四球を出したものの今度は後続を抑え、日本が5-3で韓国を下し見事にV2を達成したのです。


試合後、敢えて勝負した林投手を非難する声が韓国で上がったようですが、逃げずに日本最高のバッターに挑んだ姿勢はまさに勝負師・・・立派だったと思います。


またイチロー本人も、それまで不調で日本国内からは心配や非難の声も上がりましたが、ここぞという場面でキッチリ仕事をするところは、さすが。

その後体調を崩してメジャー開幕後しばらく試合に出られなかった程のプレッシャーがかかる中、よくぞタイムリーを放ったもの・・・お見事としか言いようがありません。


こんな展開をアニメやドラマで見たら、「そんなワザとらしいこと、有り得ないだろう」 と言われそうな試合が現実に起こるのですから、やはり〝野球は筋書きのないドラマ〟です。


球春到来。


今日から選抜高校野球が始まり、まもなくプロ野球も開幕しますが、あの感動と肩を並べるような試合を是非ファンに見せて欲しいものです。

そして、この時のヒーロー・イチロー選手は、先日日本で行われたマリナーズ対巨人のオープン戦で、45歳とは思えぬレーザー・ビームを披露してくれました。



20日の開幕戦でスタメン出場した彼が、今年再びメジャー・リーグで選手として活躍してくれるのか?

そう期待したのも束の間、一昨日現役引退を表明したのは実に残念!!

さて、彼の代わりにメジャー・リーグで注目を集める日本人選手は、誰?

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