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針小棒大

国会においては、与野党問わず過去に様々な〝不適切発言〟が繰り返されてきましたが、その中でも歴史に残る・・・というか、今でも語り草になっている

〝バカヤロー〟

が吉田茂首相の口から飛び出したのが、今から66年前の今日行われた予算委員会の審議中のことでした。


       

国会でこんな怒鳴り声をあげたら、紛糾は必至。


この後衆院が解散したのも致し方なし・・・と思いがちですが、実は吉田首相、決して怒鳴ったわけではありませんでした。


右派社会党所属で、後に民社党委員長も務めた西村栄一議員との質疑応答の様子を、当日の衆議院予算委員会議事録から拾ってみますと・・・。


西村議員 「私は日本国総理大臣に国際情勢の見通しを承っておる。 イギリス総理大臣の翻訳を承っておるのではない。(中略) やはり日本の総理大臣としての国際情勢の見通しとその対策をお述べになることがと当然ではないか、こう思うのであります。」


吉田総理 「ただいまの私の答弁は、日本の総理大臣として御答弁致したのであります。 私は確信する物であります。」


西村 「総理大臣は興奮しない方がよろしい。 別に興奮する必要はないじゃないか。」


(吉田国務大臣 「無礼なことを言うな」 と呼ぶ)


西村 「何が無礼だ」


(吉田国務大臣 「無礼じゃないか」 と呼ぶ)


西村 「質問しているのに何が無礼だ。 君の言うことが無礼だ。 国際情勢の見通しについて、イギリス・チャーチル首相の言説を引用しないで、翻訳した言葉を述べずに、日本の総理大臣として答弁しなさいということが何が無礼だ。 答弁できないのか、君は・・・。


吉田国務大臣「バカヤロー」と呼ぶ


西村 「何がバカヤローだ。 バカヤローとは何事だ。 これを取り消さない限りは、私はお聞きしない。 議員をつかまえて、国民の代表をつかまえて、バカヤローとは何事だ。 取消しなさい。 (中略)」

       
                   西村栄一氏


・・・以上が実際のやり取りだったのですが、議事録では赤字の無礼・バカヤローは傍線のみで表記されていません。            


議事録でカッコ書きしているように、実は吉田総理は答弁で 「バカヤロー」 と発言したのではなく、イスに腰掛ける時に呟くようにボソッと言ったのですが、それをたまたまマイクが拾ってしまった、というのが真相。


しかし、さすがに拙いと思ったのか、吉田総理はすぐに・・・


吉田 「私の言葉は不適当でありましたから、はっきり取り消します。」


西村 「年七十過ぎて、一国の総理大臣たるものが取り消された上からは、私は追求しません。(後略)」


・・・と西村氏本人も立派、大人の対応をしたようです。


ところが社会党自体が懲罰動議を提出し、一部与党議員も同調して懲罰動議が可決され、そのままの流れで内閣不信任案も可決。


質問者本人が許しているのに、党がこれを利用して政局をかき回し、それを左翼メディアが騒ぎ立てる・・・いやはや、彼らのやり口は昔も今も変わらないようです。うー


ちなみに今日・2月28日は、この発言にちなんでバカヤローの日〟・・・誰にバカヤローって言っても許される日なんですって。


じゃぁ、ウチの女王様に勇気を出して言ってみようかな~。


・・・冗談通じなさそうだから、やっぱり止めとこ。あせあせ


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大番頭

福澤諭吉の娘婿にして〝電力王〟の異名を取った大実業家・福澤桃介が、かつて土佐出身で日本経済界を代表する実業家として2人の名を挙げたことがありました。

ひとりは三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎。

そしてもう一人、その岩崎よりもその人間性やスケールの大きさを高く評価した人物がいるのですが、それが誰かお分かりになるでしょうか?

それは、かつて三菱・三井・住友をも凌ぐ一大財閥として名を馳せた『鈴木商店』の大番頭、


 金子 直吉


今日は、桃介をして〝我が国のナポレオン〟と言わしめ、丁稚奉公から立身出世を果たしたこの人物の命日・没後75周年にあたります。

       


直吉は1866(慶應2)年、土佐藩領内で商家の子として誕生。

一家は彼の幼少期に高知市に移り住みましたが、極貧のため彼は学校に行くことが出来ず、10歳の頃から丁稚奉公に出されました。

日々雑用をやらされながらも独学で経済学や中国の古典を学んだ彼は1886年、20歳の時に当時神戸八大貿易商のひとつに数えられていた 『鈴木商店』 に入社。

それ以降、亡くなった当主・鈴木岩次郎の未亡人・鈴木よねに目をかけられ、日曜日も休まず働き続けて鈴木商店を一大財閥に育て上げるも、大阪朝日新聞のデマ記事によって風評被害に遭い、1927年倒産に至る過程については以前拙ブログで取り上げましたので、そちらをお読みください。



さて、その後の彼はどんな人生を送ったのか?

経営破綻が決定的となった時でも泰然自若としていたという店主の鈴木よねをして、

「たとえ店はこんなになっても、金子が生きていりゃ千人力じゃ」

言わしめた直吉も、


「鈴木を潰したのはワシや、このままでは死に切れない

と残りの人生を鈴木商店再興に捧げました。

彼は鈴木の名を残した鈴木商店そのもので再出発を考えていましたが、大口債権者はそれに同意するどころか、直吉のカムバック自体にも反対。


仕方なく彼は鈴木商店の整理を進める一方、1919年に同社の子会社として発足していた太陽曹達(後の太陽産業→太陽鉱工、2005年に新日本金属化学と合併)を起点にして、国内外に数々の新規事業を計画。


         

                                     太陽産業執務室での直吉


古希(70歳)を過ぎても満州へ視察に出かけたり、北海道留萌に炭鉱開発(羽幌炭鉱)を進めるなど、事業意欲は衰えませんでした。

しかし1944(昭和19)年に入ってすぐに風邪をこじらせて体調を崩してから回復できず、同年2月27日に79歳でその生涯を終えました。


これだけの実業家でありながら、私生活は質素そのもの。

鈴木商店倒産の際、整理にあたった台湾銀行関係者は、そのあまりの質素な生活ぶりに驚き、深く畏敬の念を抱いた程だったとか。

また彼は酒・女・タバコもやらなかったばかりか、常に何人かの書生を養い学費を出していたため、家計は常に赤字。


しかし彼の教え子・弟子の中から、播磨造船所支配人で後に運輸・大蔵大臣を務めた北村徳太郎、また大蔵・商工・運輸大臣を務めた帝人・大屋晋三社長、日商の創業者の一人で後に貿易長官を務めた永井幸太郎など、多くの人材を輩出しています。


「鈴木商店はある宗旨の本山である。 

自分はそこの大和尚で、関係会社は末寺であると考えてやってきた。


鈴木の宗旨を広めるため(店に)金を積む必要はあるが、自分の懐を肥やすのは盗っ人だ。

死んだ後に金(私財)を残した和尚はくわせ者だ。」


と、坊主頭で見るからに修行僧然とした彼が語った通りの人生だったのです。


まさに経営者の鑑と言える直吉の生涯でしたが、その一方で米買い占めのデマ記事により鈴木商店が焼き討ちに遭った際、彼が一切の弁解・反論をしなかったことで疑惑をより深めてしまったことは、経営者だけでなく隣国の横暴から目を背け続ける今時の政治家も反面教師としなければならないでしょう。

そんな直吉の生き様に興味がある方には、このノンフィクション小説のご一読をオススメします。


 『鼠』 (城山三郎・著 文春文庫)

       

鈴木商店は米の買い占めをしたとして悪者扱いされ焼き討ちに遭ったのは、野党と大阪朝日新聞が結託する形で作り上げた印象操作・捏造報道による風評被害だったことが、筆者の克明な取材によって浮き彫りにされています。

昔も今も、彼ら左翼勢力のやり口は変わっていませんネ。うー

今宵久しぶりにこの本のページをめくりつつ、あの大実業家・渋沢栄一をして 「正規な学問はなくとも、天才的な事業家」 と唸らせた大番頭の冥福を祈りたいと思います。


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達 磨

2月26日といえば、日本人ならまず 『二・二六事件』 を思い浮かべるでしょう。


皇道派の影響を受けた一部の陸軍将校らが約1,500名の下士官兵を率いて1936(昭和11)年に起こしたクーデター未遂事件ですが、未遂とは言え4人の重要人物(と5人の警官)が殺害されました。


その中でも、我が国にとって最大の功労者と言えるのは

 高橋 是清 大勲位子爵


〝達磨さん〟という愛称で親しまれた、第20代内閣総理大臣と言えましょう。


       


1854(嘉永7)年、幕府御用絵師・川村庄右衛門と川村家の女中・きんとの間に生まれた是清は、生後すぐに仙台藩・高橋覚治の里子に出されます。


13歳の時、仙台藩の命によりアメリカに留学しますが、ホームステイ先の夫婦に騙されて奴隷契約書にサインさせられ、いくつかの家を奴隷として転々とする・・・という大変な辛酸を舐めました。

今でいえば中学生時代に渡米・奴隷を経験したわけですから、現代人には考えられない青春時代を送ったわけです。


1869年に帰国し、森有礼の世話になりながら放蕩生活を送ったり教員を務めた彼は、32歳で文部省に入省。 

 ※森有礼に関する過去記事は、こちら。(↓)



その後も一時期英語教師や校長なども務めながらも、再び文部省に戻ると、すぐに出来たばかりの農商務省に異動。 


そこで海外視察を経て特許局を設立し初代局長を務め、日本の特許制度を整備。

1889年にはペルーのカラワクラ銀山経営に携わるべく、官職を持して現地入りするも、肝心の銀山が既に廃坑だったことで計画は頓挫。

彼自身も大損して自宅を手放すなど、痛い目に遭いました。

本人は田舎に引きこもる腹を固めていたようですが、彼の才能を惜しんだ西郷従道・松方正義らが口利きをして、日本銀行に入行。 

1911年には56歳で日銀総裁に就任し、日露戦争の戦時外債の公募などで手腕を発揮しました。

 政治家としては1905(明治38)年、貴族院議員に当選した後、原敬の暗殺に伴いその後継として1921年には総理大臣をも務めましたが、やはり彼の業績として最も評価されるのは、通算6度に渡り就任した大蔵大臣としての経済問題の舵取りでしょう。

(※総理就任時も、蔵相兼任でした。)


1927年の恐慌時にはモラトリアム(支払猶予)を宣言。 


また急造紙幣を大量発行して銀行窓口に積み上げ、預金者を安心させて取り付け騒ぎを沈静化。


その後も臨機応変な経済政策を実行し、世界に先駆けて日本経済を復興させた最大の功労者でありました。

戦後の1951年
に発行された50円紙幣(B号券)に彼の肖像画が選ばれたことからも、その評価の高さが分かります。

    


しかしインフレ抑制のために軍事予算を縮小したことで軍部の恨みを買い、『二・二六事件』 の際に自宅2階で暗殺されてしまったのです。 


81歳でこの世を去った彼についてもっと詳しく知りたい方には、この本をお勧めします。


 『高橋是清自伝』 (中公文庫・刊)


     
          ※昨年、新装版が出版されています。


戦前の日本経済の救世主・〝ダルマ宰相〟がもし今の時代に生きていたなら、果たしてどんな政策を取ったのか?


そんなことを想像しながら、彼の波乱万丈の人生を振り返ると面白いでしょうネ。

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襲 来

1941(昭和16)年12月8日の真珠湾奇襲以来、日本軍は各地で英米を中心とした連合軍に連戦連勝。

日本海軍は太平洋のアメリカ沿岸海域において潜水艦による通商破壊戦を行い、アメリカのタンカーや貨物船を10隻以上撃沈。

その勢いを駆ってアメリカ本土攻撃を計画し、実際に1942年2月23日(現地時間)には潜水艦がカリフォルニア州サンタバーバラにある石油製油所を砲撃。

アメリカ国内では、いよいよ日本軍が上陸してくると恐れ、沿岸に機雷を敷設したり防空壕を掘ったり、また市民にガスマスクを配るなど日本軍襲来に備えたといいます。

そんな中、今から77年前の今日・1942年2月25日に起きたのが、

 ロサンゼルスの戦い
   Battle of Los Angeles

でした。

これは同日未明、ロサンゼルス上空に約15機の国籍不明の航空機が突如飛来。

米軍はてっきり日本軍の来襲と思い込み、午前3時過ぎから約1時間1,430発の砲撃を行った・・・というもの。

しかし当該航空機からは爆弾は1発も落とされず、また砲撃も当たらず撃墜もされず、やがて消え去ったというのです。

 
               翌日の地元新聞見出し


ところが現実的に、日本軍の空襲は不可能。

何故なら、当時日本軍の空母は西海岸付近にはいませんでしたから。

実際、日本軍が潜水艦に搭載した航空機を使って米本土を空襲したのは、これから7ヶ月も後であり、しかも1機のみ。

※この空襲に関する過去記事は、こちら。(↓)



そして米軍でも当時同時間にロサンゼルス上空を飛んだ戦闘機等の記録はないとのこと。

では、一体これらの航空機は何だったのか?

  
           地元新聞に掲載されたロス上空の模様


私は、やっぱりUFOじゃないかと・・・。

というのは、この飛行物体は非常に遅いスピードで飛行したかと思えば最高時速200マイル(約320km)を出したり、また高度も9,000~18,000フィート(約2,700~5,500m)と乱高下したとか。

プロペラ戦闘機では、そんな変幻自在な飛行などできるわけがありません。

UFOという概念は第二次世界大戦後に発生したもので、事件発生時はそんな言葉すらありませんでしたからその可能性には誰も言及・想像しなかったでしょうが、そう考えれば納得できるかと。

で、それがUFOであるという仮定でこの事件をモチーフにした映画が、2011年に公開された


 『世界戦略:ロサンゼルス決戦』 

      (原題 Battle: Los Angeles

           


77年前に飛来したUFOはエイリアンが偵察に来ただけ・・・という説があるそうですが、だとしたら映画のように本格的に攻撃してくる日が、いつかやって来る!? うー


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脱 落

地上波のテレビ番組にはロクなものがありませんが、専門チャンネルで放映される番組には、中々の力作・秀作があります。

その中の一つに、カナダのシネフィックスが製作した、過去に世界各地で起きた航空事故を検証するドキュメンタリー・シリーズ『メーデー!航空機事故の真実と真相』(原題 
Mayday: Air Disaster )があります。

現在シーズン15まで製作されており、私もCSのナショナルジオグラフィック・チャンネルで何度も観ていますが、その栄えある(?)第1話に取り上げられた


 ユナイテッド航空811便貨物ドア脱落事故


が起きたのが、今からちょうど30年前の今日・1989年2月24日のことでした。


サンフランシスコからシドニーに向かっていたジャンボジェット(ボーイング747-122型・機体番号:N4713U)機は、途中ハワイ・ホノルル国際空港に立ち寄り、乗員18名・乗客337名を乗せ、1989年2月24日午前1時52分(ハワイ標準時)に同空港を離陸。

 
         
事故を起こしたジャンボジェット N4713U機


そしてその17分後の午前2時9分、同空港付近の太平洋上空22,000フィート(約6,700m)上空で突如ロックが外れ、貨物ドアが脱落したのです。


同時にドア周囲にも大きな穴が開いてしまい、急減圧が発生。

シートベルトをしていなかった乗客9名と固定されていなかった荷物が機外に吸い出されてしまいました。

その乗客数名と貨物を後部の第3・第4エンジンが吸い込んだことで損傷し火を噴いたため、機長は2つのエンジンを停止。

同時に緊急事態を宣言しホノルル国際空港に戻ると、第1・第2エンジンのみで何とか着陸に成功させました。


これにより、死者はこれだけの大事故にも関わらず吸い出された9名のみ、負傷者も35名に留まりました。
(※但し亡くなった方全員の遺体は発見されず。)


    


 ドアロックが外れた原因は、当初この4年前に起きた日航ジャンボ機123便・御巣鷹山墜落事故と同じ金属疲労と思われました。

しかし
実際は、電気システムの不具合によってドアをロックしていたアームが動いてしまったために外れたことが判明。

この原因を突き止めたのは、何と犠牲になった乗客の遺族でした。
まさに、〝執念〟ですネ。


実は、以前からボーイング747ジャンボ機では貨物室ドアの事故が多発していたとか。

にも拘らず、ボーイング社・ユナイテッド航空・アメリカ連邦航空局(FAA)は何ら対策を取りませんでした。

まさに人災だったんですネ。

この事故から私たち一般人の乗客が学ぶべき教訓は、ただひとつ。

〝席を立つ時以外は、必ずシートベルトを締めるべし!〟
うー


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腹 黒

先日エネゴリ君の店に行った時のこと。

メニューを眺めていると、『甲イカ下足のイカスミ煮』 というのを見つけました。

私は普段イカスミ系は口にしないんですが、この日はなぜか珍しく食べる気になって彼に注文。

「渡辺さんがイカスミ食べるなんて、珍しいですネ。」

「あぁ、たまにはいいじゃないの。」

と言いつつ他愛もない話をしていると、カウンター越しに料理が出てきました。

    

受け取って一口、二口食べてみると、思いのほか美味。

「ほぉ~、予想以上にウマいじゃん!」

と話しかけると、彼は私の顔を見た途端、

「は、腹黒~!」

と叫ぶじゃないですか。

「おい、何が腹黒だょ。 確かにそうだけど、キミに言われたくないワ!」

とムッとしたら、彼は、

「いや、腹黒じゃないですョ。 歯が黒いって言ったんですって。」

と言いながら、腹を抱えて笑い出すじゃないですか。

「キミね、お客の顔を見てそこまで笑うこたぁないだろう。
じゃあ、お前さんもこのスープ飲んでみな。」

と言って皿を返すと、

「え~、お客さんにお出しした料理に口はつけられませんョ~。」

「飲まないと、もう追加のオーダーしないゾ!」

と脅したら、しぶしぶスプーンで、2、3口。

「で、こっち見て、ニカッ!」

とさせた顔が、こんな感じ。

       

思わず私も腹を抱えて大笑い。

「だからイヤだって言ったのに~・・・。」

とふくれる彼に

「あはは、悪い悪い。 でもお前さんが大笑いしたのが良く分かったワ。


ウチの女王様が一緒に外食する時にイカスミ食べない理由も分かったョ。 絶対笑いを堪えられないもんナ~。」

デートの時にイカスミ食べるのは、止めましょうネ・・・って、もう皆さんはご存知でしょうけど。
笑


 


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虚 像

1932(昭和7)年1月18日、勤行中の僧侶が支那人に襲撃され1名が死亡、2名が負傷した 『上海日本人僧侶襲撃事件』 などを契機として日本と中華民国との間に緊張が高まり、同月28日~3月3日にかけて両国が交戦状態に入ったのが、〝第一次上海事変〟。


その戦闘の最中・・・今から87年前の今日・2月22日、敵陣に突入するため鉄条網を破壊する作戦が決行されました。

志願兵の中から選ばれた江下 武二 ・ 北川  丞 ・ 作江 伊之助 3名の工兵が点火した破壊筒(爆弾)を手にして敵陣に突入。

3名は爆死したものの見事に鉄条網を破壊し、突破口を開いたのです。 この勇敢な行為を当時の陸軍大臣・荒木貞夫が

 爆弾三勇士

と命名。 この2日後・2月24日の新聞各紙にはこの文字(もしくは肉弾三勇士)が大々的に掲載され、2階級特進で伍長となった彼らは、一躍国民的英雄・・・昭和時代に入って初の軍神に祭り上げられました。


    


      東京・芝の青松寺に建立された三勇士の銅像(戦後撤去)

例えば大阪朝日新聞は、

「自己の身体に点火せる爆弾を結びつけ身をもつて深さ4メートルにわたる鉄条網中に投じ自己もろ共にこれを粉砕して勇壮なる爆死を遂げ歩兵の突撃路をきり開いた3名の勇士がある」

と報じ、更に27日には〝日本精神の極致〟と題する社説の中で、大和民族の特質を称えた上で、

「肉弾三勇士の壮烈なる行動も、実にこの神ながらの民族精神の発露による」


と民意を扇動。 また3名とも貧しい家庭の出だったことも紹介し、25日付 『天声人語』 では

「遺族を衣食に苦しめるな」

と書いて、同社は遺族に弔慰金を贈呈。

他紙も競うように3人を称賛するイベントを催し、それに釣られるように国民はこぞって義捐金を新聞社に送ったとか。


その軍国熱をさらに高めるが如く、映画各社も競うように三勇士の作品を公開。

一番早い作品は彼らの爆死から1週間後に封切られたそうですから、粗製乱造は明らかですが・・・。
うー

更に売上を伸ばしたい新聞社は顕彰歌の歌詞を公募したり、また企業もポスターにちゃっかり三勇士を掲載するなど、便乗商法に必死。


        

国民は、まんまと軍や新聞社・企業の策略に乗せられてしまいました。

しかし、この自爆突撃・・・実際は美談とかなり違っていたようです。

現場に居合わせた兵士の証言等によると、上官が導火線を短く切断して予め導火線に点火して突入させたとか。

更に先頭の兵士が撃たれて3人とも転倒。 戻ろうとしたところそのまま突っ込めと命令されたため突入し、目的地点に到着するかしないかの内に爆弾が炸裂。

つまり彼らは決死隊として覚悟の突撃をしたのではなく、上官の命令に従った末の戦死だったというのです。

この戦闘時には同様に爆死した兵士がいたそうですから、彼らだけが英雄視されるべきではなかったはず。

3人は国内の戦意高揚のために利用された・・・と言えましょう。

この話、C・イーストウッドがメガホンを取り2006年に公開された映画『父親たちの星条旗』 と似ています。

       

硫黄島制圧時にたまたま(2回目に)山頂に星条旗を立てた兵士が、新聞にその写真が掲載されたためにヒーローとして祭り上げられ、軍費獲得のために広告塔として全国行脚をさせられる・・・というストーリーでした。

不幸にもその中にはストレスでアルコールに溺れる兵士が描かれていましたが、もし三勇士も生きていたら同じような・・・って、日本の場合は死んだからこそ軍神になったんでしょうけど。

でも自分たちの思いとは裏腹に散々利用されたことをあの世から眺めていた3人の胸中は、如何ばかりだったのか・・・。

当時国民の情報源といえば、新聞とNHKラジオのみ。

彼等が一斉に褒め称えれば、国民がそれを信じてしまったのは致し方ない・・・とは思いますが、新聞を含めたマスメディアの本質は昔も今も変わりません。

彼らが垂れ流す情報を鵜呑みにしないこと・・・これこそ我々国民が判断を誤らないための第一歩だ、とあらためて思う次第です。

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発 想

2003年に、小惑星25143に名が冠せられたことで、彼の存在を知った若者も多かったと思います。

今日は、我が国の〝宇宙開発の父〟と呼ばれたロケット工学のパイオニア


 糸川 英夫 博士

の命日・没後20周年にあたります。


       


糸川博士は、1912(明治45)年に現在の東京都港区西麻布に生まれました。

小学校教師をしていた秀才好きの父親は、その年の東大の銀時計(首席)卒業者・鳩山秀夫の名に因んで次男に〝英夫〟と付けたのですが、結果的に息子は見事にその父の想いを叶えることになったわけです。

好奇心の固まりのような子供だったという糸川少年は、5歳の時に家で初めて電球が灯った時に感動。

「これは、誰が作ったの?」と 聞かれた父親が翌日 『エジソン伝』 を買い与えたことが、彼の人生を決めたのかもしれません。


国際化の時代を予見した父親は、息子を近くの教会の日曜学校に通わせオルガンまで習わせたそうですが、これが後に彼の音楽との関りの端緒でもありました。

そんな彼が中学3年生の時に、大きなショックを受ける出来事がありました。

それはリンドバーグの大西洋無着陸横断の成功。

多くの人は単純に 「すげぇなぁ」 と感心しただけだったのでしょうが、糸川少年の発想は違っていました。

「なぜ日本人は飛べないのか? お前が太平洋を飛べ、とリンドバーグに言われた気がした」

そうですから、まさに〝栴檀は双葉より芳し〟。


そんな彼は、東大工学部土木科に進学した兄・一郎さんに 「東大で一番入試の難しいところはどこ?」と訊いた時、「そりゃお前、航空学科だよ。  毎年、各高等学校のナンバーワンがやってくるんだ。」

と言われたこともあり、リンドバーグに追随すべく同学科に進学。

そして卒業後は当時日本屈指の航空機メーカーだった中島飛行機に入社。


そこで当時単座軽戦闘機としては世界最高傑作と言われた 『97式戦闘機』、更には戦闘機の 『隼』 や 『鍾馗』 の設計に携わり、本気でアメリカに勝てると信じて日々設計・開発に没頭。


1941年には東京帝大第二工学部助教授に就任し独力でジェット・エンジンの研究にも勤しんでいた彼でしたが、現実には敗戦。

更にGHQに飛行機の製造・研究を禁止された彼は、生きがいを失い一時は自殺まで考えたとか。

しかしそこで終わらないのが、糸川博士。

好きだった音楽、それも科学者らしく音響学に興味を持ち、ヴァイオリンの研究を始めたのです。

理想的なヴァイオリンの製作に熱中したことで精神的危機を乗り越えた彼は、本職(?)であるロケット開発を手掛けることに。


1954年に自ら東大学内に設立したAVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics:航空及び超音速空気力学)研究班を率いてのロケット開発に関しては、過去記事をお読みいただきたく・・・。(↓)



1956年に日本ロケット協会を創立し、自ら代表幹事に就任した彼は、1967年に東大を退官し組織工学研究所を設立するまでロケット開発の第一人者として大きな貢献を果たしました。


        


その後アメリカやフランスの大学で(客員)教授を務めたり、62歳からバレエを始めて舞台にまで立ったという博士は、1999(平成10)年2月21日・・・転居先の長野県丸子町で多発性脳梗塞により86歳で天に召されたのです。

博士の代表的な著作といえば、何と言っても1974年に大ベストセラーになった


 『逆転の発想』 (プレジデント社・刊)


       


でしょう。 私は社会人になってから読みましたが、当時と比べ現代の科学技術はかなり進歩しているとは言え、その斬新な発想は今でも十分通用します。


柔軟かつ凡人とは次元の違う発想力を持つ糸川氏が、実体験に照らして

 ◆アイデア社長は失敗する。
 ◆アイデアは仕事全体の2%


と述べられているのは、実に興味深いところ。 また

 ◆“How are you?”の発想
  ◆感謝の心の大切さ


は、とかくおもてなしや気配りに秀でていると言われる日本人の盲点を突かれた気がしますし、

 ◆幼児教育が次の社会を決める


という主張は、現代社会を的確に予見していると言えましょう。

もしこれが出版された高校生時代に読んでいれば、私も理系に進んだかも・・・って、それはないか。あせあせ

久々に同書のページをめくりつつ、日本が誇るロケット工学者のご冥福をお祈りしたいと思います。笑3


 


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ブランク

先日、17年ぶりのゴルフに行ってきました。

どういう結果になるか分からない故、朝イチ・8時前のトップ・スタートで他の同伴者を入れずに、ウチの女王様とツーサムでのセルフプレー。

朝真っ暗な内から自宅を出て、17年ぶりに東北自動車道を北上。

白々と夜が明ける頃、右側に筑波山のシルエットが浮かぶ、昔と変わらぬ懐かしい光景を見ながら車を走らせて、無事コースに到着。

コーヒー1杯飲んでから快晴の空の下、誰もいない1番ティーに立つと、初めてゴルフをする時と同じかそれ以上に緊張した


       

(いきなり空振りしたり、チョロやOB打つのはイヤだなァ・・・。)


と内心ビビりつつ、エイヤッとドライバーを振ると、意外にもナイス・ショット!

しかしそれで気が緩んだのか残り170ヤードから何と6打を要し、いきなりトリプル・ボギー。


練習場で2回ほど新クラブを打って感触をある程度掴んでいたものの、零下3℃の気温でカチカチのグリーンに乗せるアブローチの感覚が全く分からず、手前・手前から所謂〝尺取虫〟をやらかした結果でした。

一方、同じレギュラー・ティーからプレーした女王様は、ボギー。


この時点では、マジでグロスで負けるかも・・・と言うプレッシャーが、重くのしかかります。

その後も凍結したグリーンと、枯芝からのアプローチに苦しめられましたが、徐々に感覚が蘇ってまともなゴルフに。

とは言え、結局前半は47という平凡というかガックリなスコア。

それでも今年からのルール改正で、グリーン上でもピンを挿したままパッティングOKになったためプレー時間は短縮され、僅か1時間30分余りでハーフを終了。

       


昼食後、アプローチの感覚を取り戻すべく練習を入念にしてからスタートすると、その効果は表れました。

結果的に後半は40で回ることが出来ましたから・・・とは言え、ロングホールでは2打でグリーンエッジに持って来ながらパーディーを取れず、最終ホールもやはりセカンドショットをグリーンエッジにボールを運びながらパーを取れず。

自分としては復帰早々に30台を逃した悔しい上がりでしたが、17年ぶりのラウンドでこのスコアなら上出来でしょう。


〝昔取った杵柄〟という言葉がありますが、頭では忘れていても身体はそこそこ憶えているものですネ。

思ったよりも早く回復できそうで、安心しました。


 
       
注・右隣のブレーヤー名〝J〟は、女王様の〝J〟あせあせ

しかしショックだったのは、昔よりクラブ・ボールとも進化して飛ぶようになったはずなのに、アイアンの番手が以前と変わらなかったこと。

それだけヘッドスビードが落ちたってことですからねェ・・・歳は取りたくないものです。
うー

ところで久々のラウンドで一番驚いたのは・・・ゴルフ・ウェア。

昔は真冬にラウンドする時、厚手のセーターの下に3枚くらい着込んだもの。 しかし女王様から

「今時、そんな着ぶくれしてる人なんて、いないわョ。」

と言われたものですから、生まれて初めてユ〇クロのヒートテックなるものを通販で入手したのですが・・・確かに暖かいです。


そのヒートテックの上に、やはり新調した薄手の新素材でできたゴルフウェア2枚だけ、セーターなしで寒さを全く感じなかったのには、ビックリ!驚き顔

17年のブランクでクラブの大型化・軽量化に驚かされた私ですが、ウェアの進化は更にその上を行ってましたワ。

 

 

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風 俗

皆さんも、一度ならず入ったことがあるのでしょう。

 混浴風呂

私も経験がありますが、忘れられないのは青森の八甲田山系に位置し、よく積雪の多さでニュースに登場する、日本最古の国民温泉・〝酸ヶ湯温泉〟。

中でも千人風呂は有名ですが、ここは入口が男女別で中は混浴。


    


それを内緒で女房を連れて行って、「じゃあ、後で」 と別々に入り、湯船にやってきた彼女に

「あれ、何でお前ここにいるの?」

「それはこっちのセリフょ。 なんでアンタがここにいるの!?」

「だって、ここ混浴だもん。」

それを聞いた瞬間、叫び声をあげて脱衣所に逃げ帰った彼女を見て腹を抱えた笑った私が、後できっちりお仕置きされたのは言うまでもありません。
あせあせ

まぁそれはともかく、この混浴は銭湯が大衆化した江戸時代には当たり前の風習でした。

ところがその銭湯では垢すりや髪すきのサービスを湯女(ゆな)にさせる銭湯が登場し、やがて売春行為に発展したため、松平定信が風紀の乱れを是正すべく〝寛政の改革〟で混浴を禁止。(1791年)

その後も何度か禁止令が出されたのですが、それでも混浴はしぶとく生き残りました。

そしてこの習慣が、ある歴史上の人物を大いに驚かせました。

それは黒船で日本にやってきた、あのペリー提督


        


彼が記した 『日本遠征記』 には、

「男女とも赤裸々な裸体を何とも思わず、互いに入り乱れて混浴しているのを見ると、住民の道徳心に疑いを挟まざるを得ない。

他の東洋国民に比べ道徳心が遥かに優れているにも関わらず、淫蕩な人民である。」

と、挿絵入りで記しています。(↓)


    


昼日中に公衆の面前で平気でキスする彼らに淫蕩などと言われる筋合いはないですが、これも民族性の違いなんでしょう。

ペリーにそう指摘されたから・・・と言うわけではないでしょうが、明治維新直後の今からちょうど150年前の今日・1869(明治2)年2月19日、東京府が男女混浴の禁止令を公布。

そして明治末期には、全国的に男女混浴が禁止になったとか。

現在も
厚生労働省が出している公衆浴場や旅館業における衛生等管理要領では、浴室・更衣室は男女で分けるよう指導され、概ね10歳以上の子供を混浴させないこと、とされています。


(※子供の年齢については、各自治体の公衆浴場条例によって6~9歳と制限に差があります。)

では、なぜ前述の酸ヶ湯温泉など全国に混浴風呂が現存するのか?

それはそれらの法律が出来る前から存在していた故の経過措置。

ですから一旦混浴を止めてしまうと、復活できないのです。

日本全国に現存する混浴風呂には、今後も頑張って営業を続けてもらいたいものですネ。


では最後に質問。

貴方は、混浴風呂に入りたいですか?

私は、風呂は1人でゆっくり入りたいので、パスしますけど。
あせあせ ホントカ?


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