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冤 罪

我が国における四大死刑冤罪事件とは、免田事件・財田川事件・松山事件と、もうひとつ

 島田事件

ですが・・・皆さんは、この古い事件と裁判の経過をご存知でしょうか?

 ※最も有名な 『免田事件』 に関する過去記事は、こちら。(↓)




1954(昭和29)年3月10日、静岡県島田市の快林寺内の幼稚園で開催されていた遊戯会の最中に6歳の女児が行方不明になり、その3日後幼稚園から見て大井川の対岸付近の雑木林で遺体が発見されました。


    
                ×
印が遺体発見現場


当時静岡県内では少女暴行事件が頻発していたため警察は威信をかけて捜査に乗り出し、小児性犯罪前歴者・精神病歴者・知的障害者をマーク。

そして事件から1ヶ月半後の5月24日、
岐阜県鵜沼町の町外れを放浪していた住所不のAさん(当時25歳)が職務質問した上で容疑者として逮捕され、島田署に移送されました。

実はこの事件の関して9人の目撃者がおり、そのいずれもが 「若い勤め人風で、頭髪を七・三に分けスーツを着た若い勤め人風の男」 と証言していたのですが、逮捕時のAさんはそれらの証言は真逆・・・黒の学生服に裾の切れたカーキ色のズボンというボロボロの服装でした。

Aさんには3歳の時に罹患した脳症の影響で軽度の知能障害と精神病歴があり、2度の窃盗で少年院と刑務所に服役した前科がありました。

そのため周囲に馬鹿にされるなどして定職に就くことができず、放浪していたとのこと。

証言とは明らかに食い違っているのですが、しかし警察はAさんの名が容疑者リストに挙がっていたため、それを無視。

一旦釈放したものの再選泥棒の別件容疑で再逮捕すると、Aさんに手をねじり上げたりトイレに行かせないなどの拷問を加えて自白を強要。

5月30日、遂にAさんは警察が描いた絵図面通りに犯行を自白してしまいます。

この唯一の証拠を元に、静岡地裁は1958年5月に死刑判決を出し、1960年12月に最高裁が弁護側の上告を棄却し、判決が確定。


しかしその後弁護士や支援者らの尽力により、1983年5月に東京高裁が第4次請求棄却決定を取り消し静岡地裁に差し戻し、1986年年5月に静岡地裁での再審開始が決定。

そして今からちょうど30年前の今日・1989(平成元)年1月31日に静岡地裁は無罪判決を出し、逮捕されてから35年近く経って、ようやくAさんは釈放されたのです。


(※翌2月に検察が控訴を断念し、無罪が確定。)


       

                 釈放されたAさん 


この事件について詳しく知りたい方には、


『島田事件 司法制度の犯罪 (伊佐千尋・著 solaru・刊


        


のご一読をオススメします。

(当時の)警察が、いかに自白偏重の杜撰な捜査により、無実の人間を死刑寸前まで追い込んだかが、よく分かります。

裁判官が検察に近く、起訴された刑事事件の99%に有罪判決が出される日本の司法の現状を鑑みる時、警察のでっち上げや犯罪者捏造を許せば、殆ど逃げることが出来ません。

そして我々が身に覚えのない犯人に仕立て上げられる可能性はゼロではないのです。

冤罪を防止するためには、取り調べの100%可視化は絶対に必要だ・・・と、この著書を読むと痛感します。

余談ですが、無罪放免となって名古屋に在住していたAさんに2012年、名古屋地裁から裁判員裁判の裁判員選任手続きに関する呼び出し状が届いたそうな。

しかし70歳以上の対象者は裁判員を辞退できる規定があり、彼はその権利を行使して辞退。


質問票には辞退する理由として 「裁判所は信用できない」 と記したそうですが・・・その気持ちは、痛いほど分かります。
うー


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元上司

皆さんは、〝2・6・2の法則〟って、ご存知でしょうか?

これは会社など組織内において、有能な人材は2割、無能が2割、そのどちらでもない普通の人が6割いる・・・というもの。

私が損保会社に20年勤務した際、平社員15年間で仕えた課支社長はちょうど10人いましたが、その内訳は見事にこの法則に当て嵌まっており、尊敬できる課支社長は、僅か2人のみでした。

しかもその課長を管理する立場の副部支店長まで有能だったのは、たった1回のみ。


それは私が20代後半の頃、本店営業部に配属されていた時のこと。


しかし転勤のタイミングがズレていたために、お2人と仕事が出来たのは僅か1年8ヶ月間だけでした。

その時のH副部長とS課長とは、転勤した後はもちろん私が転職して葬儀屋を始めた後も交流が続いているのですが、先日わざわざ関東近県にお住いのSさんが上京してくださり、Hさんと私と3人であのエネゴリ君の店で昔話に花を咲かせました。

    

           H元副部長           S元課長

S課長はその後出世して本社の副社長にまで昇りつめ、H副部長も一番大きな子会社の社長を務められました。

自分が尊敬した上司が出世してくれるのは嬉しいもの。


かく言う私はと言えば、20年前に支社長で退職しましたから雲泥の差ですけどネ。あせあせ

それでもこうやって元部下のために上京してくださるのですから、ありがたい限り。

お2人ともかつては会社の中枢にいた方ですから、ここには書けない生臭い裏話も出ましたが、やはり盛り上がったのは一緒に仕事をした本店営業部時代の思い出。

その中でも私が今でも鮮明に憶えているのは、3月初旬のこと。

会社では例年3月初旬の金曜日に4月1日付の人事異動が発表されていたのですが・・・その金曜日の午前中、私はH副部長とS課長を車に乗せて、大口取引先へ挨拶に。


その帰り道、車内でこんな会話が。

「副部長、今日の午後人事異動が発表されますョネ。」

「あぁ、多分出るだろうナ。」

「私、本営に来てからちょうど3年でそろそろ転勤時期ですけど、まだここで一緒に仕事できますかネ?」

「大丈夫だょ、ナベちゃん。 ちゃんと人事には出さないように釘を刺しておいたし、出るようなら事前に電話がくるけど、今回はないから。」

「ほっ、それで安心しました~。」

帰社して昼食を摂り、私がデスクワークをしていた午後1時過ぎ・・・

「S課長、ちょっと部長室に来てくれ。」

とH副部長に呼ばれて部長室に入って暫し、ドアを開けて出てきたS課長が鬼のように真っ赤な顔色で険しい表情を浮かべながら、私と一切視線を合わさずオフィスから出て行ってしまったんです。

それを見た瞬間、私は (あっ、オレの異動が出たんだ)と直感。


案の定、私は青森支店に転勤となりました。

(でもそれは左遷ではなく、当地最大地銀のメイン担当を仰せつかりましたから、実質的には栄転でしたけどネ。)

その時の思い出を私が披露すると、しっかりお2人とも憶えてました。

「Hさん、何であの時は絶対に転勤しないって太鼓判押したんスか?」

「いやぁ、ホントに人事から連絡なかったんだョ。 

オレもビックリしたんだって。」


「オレもビックリしたんだョ。」

とSさんも懐かしそうに仰いましたけど、

「いやいや、一番驚いたのは私ですって。

Hさん、偉そうな事言ってましたけど、ホントに人事部とそんな太いコネあったんスか?」

「あはは、本当の事言うとネ、そんなコネも力もありませんでした~!」

当時だったら大喧嘩になりそうなこの会話も、30年以上経って全員がリタイアした今となっては懐かしいだけ。

エネゴリ君が作った料理を 「美味いな、コレ!」 とパクついてくれたお二人共々大笑いしつつ盛り上がり、気付けば4時間も店にいました。

今年でHさんは80歳、Sさんは74歳。 そして私は今60歳。

あと何回3人揃って食事ができるか分かりませんが、出来る限りこんな〝戦友会〟をしたいものです。
笑2

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月曜日

銃社会のアメリカでは、過去に様々な乱射事件が起きてきました。

しかし事件慣れ(?)したアメリカ人にとっても、今からちょうど40年前の今日起きた銃乱射事件は衝撃的だったといいます。

なぜなら、犯人の


 ブレンダ・アン・スペンサー

    Brenda Ann Spencer


は、高校1年生・・・16歳の少女だったから。


        


ブレンダは1962年にカリフォルニア州サンディエゴで生まれました。

祖父が元市長、父親が州立大学の学長という名家に生まれた彼女ですが、子供の頃から異様な程銃器に興味を示したとか。

そんな娘に、父親が前年のクリスマスに22口径のライフル銃をプレゼントしてしまいます。

それを手に射撃練習を繰り返したという彼女は、翌月の1979年1月29日朝、自宅の道向かいにあったグローバー・クリーブランド小学校に登校してきた生徒に向けてそのライフル銃を20分間にわたって乱射。

校長先生・用務員を射殺し、生徒8名・警官1名が負傷しました。

その後も自宅に約6時間籠城した彼女は自ら新聞社に電話をかけ、その動機について

「私は月曜日が嫌いなの。 銃を撃つとスカッとするワ。」

  “
I don't like MondaysThis livens up the day.”


そう、当日は月曜日だったのです。

    

          自宅を包囲する警官隊(左)とブレンダ(右)


確かに休日明けの月曜日にはブルーな気分になる人はいるでしょうが、だからと言って何の罪もない小学生に向かって銃を乱射するとは・・・。

彼女の弁護士は、犯行時の彼女は酒に酔っていたか薬物中毒だったと主張しましたがね逮捕時には全くその兆候はなし。

「理由なんかなかったわ。面白かったんだもの。」

「池でカモ猟をしているみたい。」

「小学生たちは牛の群れみたいで、簡単に狙えたワ。」

などと供述した彼女は殺人罪・武器を用いた暴行罪で起訴され有罪となり、25年以上の終身刑が言い渡されました。

現在カリフォルニアの女子刑務所に収監されている彼女に反省は見られず、過去4回仮釈放の申請資格が出されたものの、いずれも却下されています。


        

              2017年・55歳のブレンダ


そして今年、5回目の仮釈放申請資格が得られるそうですが、果たして認められるかどうか・・・まぁ常識的には却下されると思いますが。

裕福な家庭で何不自由なく育った女の子が、なぜこんな凶行に走ったのか?

その理由は、本人にも分かっていないのかもしれません。

個人的に、彼女はサイコパス(精神病質者)だと思いますから・・・。

※過酷な生活環境で育ったことを理由に減刑・情状酌量を求める人権派弁護士は、この恵まれた環境で育った犯人についてはどう弁護するんでしょうネ?


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名 匠

17歳で修業に入ってから、杜氏の道一筋に70年。

現代の名工に認定され、4年前に一度引退したものの多くの愛飲家からの声に応えて一昨年から現役復帰した〝酒造りの神様〟、


 農口 尚彦 さん (86歳)

のインタビュー記事が、月刊『致知』2月号に掲載されていました。

現代の教育制度に警鐘を鳴らす非常に読み応えのある記事から、

抜粋・編集にてその一部をご紹介させていただきます。


           ◆     ◆     ◆     ◆

中学を卒業して最初の1年は家におったんですが、次の年の秋から修業に出ました。

他所へ行かなかったら一人前にならんという父の考えのもと、最初にお世話になったのは、静岡県の由緒ある酒屋でした。

そこには4年おったんですけど、最初の3年はとにかく雑用です。

麹係の見習いとして酒造りの基本を覚えながら、休憩所の掃除や暖房用の炭焚き、茶碗洗いや風呂の準備。

それから毎日17時から20時まで杜氏が晩酌するんですけど、その間正座してお酌をしたり、杜氏の下着から作業衣まで全部洗濯したり、一緒に寝泊まりする先輩の肩を揉んだり・・・。

その日の仕事が全て終わるのは夜11時頃で、次の日は朝3時から蒸した米を筵(むしろ)にさらす作業が始まります。

新入りは一番先に起きなきゃいけませんから、寝ている時間は殆どなかったですね。

夜通し働いたこともありますが、当時は何ともありませんでした。

       

私は辛いとか苦しいとか思ったことは全然なく、酷い事をやらされているという不満も一切なかったです。

朝起きるなり、もう夢中になって仕事ら没頭していました。

あの時に下積みの努力を積んだからこそ今があるし、ここまでやってこられたという気持ちしかないですわ。

そういう厳しい修業を通じて人間は鍛えられるのであって、甘やかされて育つと後々苦労をする。

やっばり若い間は、うんと修業すべきやと思うんです。

社会に出て月給のいいところで働こうなんて思ったら、まず間違い。

月給なんかいらないから、仕事を教えてくれというくらいの気迫がなきゃいけない。

仕事とはなんぞやと言ったら、社会のお役に立つことでしょう。

お役にも立たないでブツブツ文句を言いながら下積みを一生続けるのか、それともその中で希望を持って自分の全てを賭して出世していくのか。

自分の生きる道を求めて、そこに向かって努力する者こそトップになれると私は思います。

そして伸びる人と伸びない人の差はどこにあるかと言えば、それはやっぱり持っている夢の大きさでしょうね。

ここで満足と思うか、まだまだと思うか・・・。


           ◆     ◆     ◆     ◆

酒造りの名人といわれる農口さんですが、28歳の若さで杜氏に抜擢された最初の年に作った酒は、「こんな薄い酒は飲めない」 と散々の評価だったそうな。

頭をガーンと殴られたような衝撃を受けた農口さんの修業が本格的に始まったのは、この時からだったそうな。

以来農口さんは、実はご自身が全く飲めない下戸だった故にお客さんが飲んでいるテーブルを回って自分の酒を注ぎ、感想や意見を聞くことに徹したそうな。

また四国や九州など遠方の酒蔵にも、何か自分のやっていない事で目新しい事があれば・・・と周囲の反対を押し切って見学に行ったとか。

やはり道場さんとか名人と言われる方は、謙虚かつ素直な心の持ち主であり、常に探求心が旺盛のようです。



この農口さんの元には、是非杜氏になりたいという熱意を持った7人の若者が弟子入りしているとのこと。

その7人がどう育つのか・・・酒造りの名人が、人造りの名人として名を遺すことを期待して止みません。


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歌 人

今月の拙ブログでは、13日に頼朝、20日に義仲と源氏一族に関して取り上げましたが、またしても1週間間隔で登場するのが、

 源 実 朝


今日は、この鎌倉幕府・第3代征夷大将軍の命日・没後800周年にあたります。


        


実朝は1192(建久3)年に源頼朝と北条政子の第4子として生まれました。

1199年に頼朝が亡くなると、実朝の兄・頼家が18歳で第2代征夷大将軍に。

しかし従来の慣習を無視した独断政治が反発を招き、彼は就任後数ヶ月で権力を奪われ、1203年に起こった 『比企能員の変』 の後幽閉された翌年に暗殺されてしまいます。


兄・頼家が失脚した後、実朝は1203年9月に弱冠12歳で第3代征夷大将軍の座に。


とは言え、実権は北条氏の手に委ねられますが・・・。


その翌年、京都・坊門信清の娘・信子を正室に迎えた実朝は、順調に冠位を上げると同時に政権にも関与するようになり、周辺に起きた謀反の制圧にも成功。

宋への関心も高めた彼は、1218年10月に内大臣、12月には武士として初めて右大臣となりましたが、その異例の出世が彼の命を縮めてしまったのかもしれません。

翌1219(建久7)年1月27日、昇任を祝う鶴岡八幡宮参賀に赴き、神拝を終えて退出する際、大銀杏の陰に隠れていた兄・頼家の息子・公暁に、
「親の敵はかく討つぞ」と叫びながら斬りつけられ、絶命したのです。

       


※大銀杏の陰に隠れていた・・・という有名な逸話は当時はなく江戸時代に出てきたもので、真偽のほどは不明だそうな。
そしてこの大銀杏は2010年3月に強風のため倒壊してしまいました。


公暁はそれ以前に実朝の猶子(兄弟・親類などの子を親子関係を結ぶこと)となっていましたから、実質的には子供に殺された形。

実朝の首を持ち帰って脇に置いて食事をしたと伝えられる公暁ですが、頼った
乳母夫の三浦義村にすぐ殺されました。(生存説あり)

なぜ公暁が義父を襲撃したのか? この動機については

◆公暁本人が実朝から征夷大将軍の座を奪おうとした単独犯。
◆参賀当日、体調不良を理由に太刀持ちを他人に譲った北条義時が、源氏根絶を狙った。
◆三浦義村が北条家打倒を狙い、近かった公暁を利用した。
◆北条・三浦ら鎌倉御家人による、実朝専横を抑える共同クーデター


等々諸説ありますが、それぞれに矛盾点があるため未だ確定はしていません。

まぁ古今東西、犯人が暗殺された場合その真相は闇に葬られるものですが・・・。
うー

しかしこの暗殺によって、源氏将軍の血は絶たれ北条政権へと移行したことは確か。

政治では殆ど実績を残せなかったものの、勅撰和歌集に92首も入集し、小倉百人一首にも選ばれ、また 『金槐和歌集』 を残したことで歌人としての実績を残せたとが、せめてもの慰めと言えましょうか。

源氏の系譜を見ると、血で血を洗う構想劇の繰り返し・・・何となく映画『ゴッドファーザー』 シリーズの武家社会版を観ている気になるのは、私だけ?


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路 駐

都内ではいつの頃からか、ビルを取り壊した跡地にコインパーキングができ始め、今では結構な数になっています。


ドライバーとすれば、そういう時間貸し駐車場が増えることは良いことなんですが、過去に利用した記憶を辿って駐車しに行くと、既に新しいビルの建設現場になっていて呆然・・・なんてことも。


そんな駐車場と比べ都心で駐車料金が一番安いのは〝路上駐車〟、すなわち


パーキングメーター


の利用です。 だいたい民間コインバーキングの半額かそれ以下ですからネ。


このパーキングメーターが発明されたのはアメリカで1935年のことですが、日本で初めて設置されたのは、今からちょうど60年前の今日・1959(昭和34)年1月26日のことでした。


場所は東京の日比谷・丸の内で、当時は15分で10円でした。


       


現在都内では一般的に60分300円ですから、貨幣価値を勘案すると今より3,4割安かったようです。


とは言え車が殆ど走っていないその時代に、律義に有料で駐車する人なんていたんでしょうかねェ?


それでは、ここでクイズを一問。


【このパーキングメーターの料金、どこの収入になっている?】


・・・正解は、交通安全協会。


そう、あの警察OBの天下り・受け皿先となっている組織です。


パーキングメーターは各地の公安委員会が設置し、その管理を交通安全協会に委託・・・即ち警察OBが管理して、警察が取り締まるという構図。


東京都に設置されているバーキングメーター及びチケット発券式パーキングは約15,000台、全国で約30,000台分あるそうで、年間では東京都に50億前後(!)、全国的には推計約80億円の収入が計上されているようですが、そこから交通安全協会へ 〝委託料〟 として8割程が支払われるそうです。


資金使途はメーターの維持管理費等の名目だそうですが、実際にどれだけの費用がそれに使われているのかは不明。うー


そしてもうひとつ、面白い(?)ことが。


私たちがパーキングメーターに支払うのは、駐車料金ではなく、〝手数料〟なんです。 


領収書を見てみると、そう記載されているんですョ。(↓)


        


どうして単純に駐車料金として徴収しないんでしょうネ?


税金の問題なのか、あるいは他に特別な理由があるのか・・・。


さて、このパーキングメーターに関しては、以前 「枠の中に入れておけば、時間オーバーしてもレッカーされることはない」 なんて噂があり、実際私自身も持っていかれた経験はありませんでした。


しかし現在は民間委託の監視員がしょっちゅう巡回していますから、そう甘くはありません。


また日曜・祝日には作動していない場所が多いんですが、その時に止めたら駐車違反になるんでしょうか?


これは、その道路の規制状況によるみたいです。


もしその道路に作動時間以外の 〝駐車禁止〟標識があるとアウトだそうですが、それがなければOKとか。


でも実際はそういう標識が見にくかったり見落とす場合がありますから、駐車するのには勇気が要りますけどネ。


 


 


そして数年前、パーキングスペースに制限時間ギリギリの59分までお金を払わないでクルマを止めたとしても、警察には取り締まりが出来ない・・・という情報がネットで拡散されました。

警察の解答は、「駐車してパーキング・メーターを直ちに作動させない、すなわち手数料を投入しない場合は駐車違反になる。(道路交通法第49条の3 第4項)」とのこと。


       パーキング1


しかしその一方で、監視員の対応マニュアルでは違反切符ではなく警告するに止めているという情報も。

果たして実際はどうなんでしょうネ?
どなたか試しにやってみてください。
あせあせ


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特 撮

私が子供の頃、胸をときめかせながら見ていたTV番組・・・『ウルトラQ』『ウルトラマン』 シリーズ。


これらの制作を一手に引き受けてたいたのが、昭和世代の方ならご存知であろう、


円谷 英二  さん

今日は、世界的にその名を知られた〝特撮の神様〟の命日・五十回忌にあたります。


         


円谷 【本名:圓谷 英一(つむらや えいいち)】 さんは、1901(明治34)年に福島県の須賀川町で糀(こうじ)を扱う商家の長男として生まれました。

(1964年の東京五輪のマラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉選手も、同じ須賀川出身。)

3歳の時に19歳の母親が次男を出産後に亡くなってしまい、婿養子に入った父親が離縁させられたため、彼は祖母に育てられました。

そんな辛い幼少期を過ごしたにもかかわらず学業は大変優秀だったという彼は、飛行機のパイロットに憧れて模型飛行機作りに没頭する傍ら、10歳の時には鑑賞した活動大写真に触発されて手製の巻紙映画を作ったりする器用な子供だったとか。


上京後、飛行機への憧れが絶ち難く家族の反対を押し切って日本飛行機学校に入学したものの、同校が所有していた唯一の飛行機が墜落事故を起こし教官も死亡したことで活動を停止したため、退学を余儀なくされます。


その年神田の電機学校(現・東京電機大学)に入学する傍ら、学費の足しにするため叔父の知り合いが経営する内海玩具製作所の考案係嘱託となった彼は、自動スケートや玩具電話を発明して多額の特許料を手にします。

そしてそのお祝いで職工たちを引き連れて花見に出かけたことが、彼の運命を決定づけました。

酔った職工たちが隣に陣取っていた人々と喧嘩になり、彼が止めたのですが・・・喧嘩相手の天然色活動写真株式会社の枝正義郎社長が、その仲裁ぶりに感心して彼を誘ったのです。


-orphan;">その誘いに乗った彼は映画界に入り、カメラマンとして実績を積んでいきました。


創意工夫を重ね、様々な新しい撮影法を編み出した円谷氏にとって大きな転機が訪れたのは1933年、アメリカ映画 『キングコング』 を観た時の事。


その斬新な撮影技術に衝撃を受け、以来特殊撮影の研究に没頭していく円谷さんは、「戦中に戦意高揚映画を作った」 として公職追放に遭うものの、再び映画界に復帰。

1963年に東宝との専属契約が切れた彼は、自ら『株式会社円谷特技プロダクション』 を立ち上げ、テレビ界に進出して数々の名作を手がけたのです。


1966年に放送が開始された『ウルトラQ』 (※当初は別タイトルでしたが、東京五輪・体操種目の〝ウルトラC〟にヒントを得てこのタイトルに変更) は、TBS幹部の不評とは裏腹に初回から34.4%という高視聴率をマーク、一躍〝怪獣ブーム〟を巻き起こしました。


私もオープニングで渦巻きがグルグル回ってウルトラQのタイトルが出る場面・・・今からすれば単純なんですが、子供の頃に感じたオドロオドロしさと相まって、はっきり記憶しています。(↓)



その翌年から始まった 『ウルトラマン』 も、最高視聴率42.8%を叩き出すなど大ヒット、社会に長らく定着するキャラクターとなりました。


私が通った小学校の運動会では、入場行進曲が、『ウルトラセブン』 でしたし・・・。


当時はCG技術など存在せず作ったセットを壊す形の特撮だったため、現場では失敗が許されるような甘い空気はなく、常に緊張を強いられる過酷な環境だったそうですが、円谷氏は常ににこやかで、よくスタッフを連れて飲み歩き、若手からは〝オヤジ〟と呼ばれ、慕われていたそうです。


    


常に新しいものに興味を失わず、技術革新に精力的だった半面、ゴジラに〝シェー〟をさせるなどのサービス精神、というか茶目っ気もたっぷりだったとか・・・。

そんな円谷さんが気管支喘息の発作に伴う狭心症で亡くなったのは、1970年(昭和45年)1月25日・・・68歳でした。


彼が立ち上げた円谷プロは現在バンダイの子会社となっていますが、創業者の精神を受け継いで、是非また子供に夢を与える作品・キャラクターを生み出してもらいたいものです。


男のお子様・お孫さんをお持ちのお父さん・おじいちゃん・・・円谷さんに敬意を表しつつ、今日は是非スプーン2本を手に、スペシウム光線と〝シュワッチ!〟を伝授しようではありませんか!


また今年、円谷さんの生誕地・須賀川に 『円谷英二ミュージアム』 がオープンするそうですので、特撮ファンの方は是非足をお運び下さい。


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経 営

今月5日、インスタントラーメンの発明者であり、日清食品の創業者・安藤百福氏の記事をアップしました。(↓)



安藤氏が40歳過ぎからこの業界の先駆者となり、インスタントラーメンを世界食に育て上げましたが、それはまさに強烈な信念と執念の持ち主であったから。

経営者の生き様として見本とすべき傑物でいらっしゃいましたが、我が愛読誌・月刊 『致知』 2月号に皆さんもよくご存知であろう大企業の創業者お二人・・・コンビニの王者セブン・イレブンの創業者で、現セブン&アイ・ホールディングス名誉顧問の鈴木敏文と、百均の王者ダイソーの創業者・矢野博丈の対談が掲載されてしましたので、その一部を抜粋・編集にて以下にご紹介致します。


       

                表 紙 ・ 鈴木 敏文  氏


           ◆     ◆     ◆     ◆


[矢野] 20世紀の経営者は効率とか利益を中心にものを考えよったんです。 それが正義でした。

ところが21世紀は変わったんですね。
自分さえ儲かればいいという考え方には共鳴できない。

一所懸命とか優しさとか思いやりとか徳を主題に考える経営者じゃないと生き残れんようになっていると思います。

[鈴木] 利益や効率主義ではなく、徳に基づいた経営と言うのは非常に大事な視点です。

[矢野] もちろん20世紀でも徳は大事でした。

僕のお祖父さんは地元の村長をしていて、家には勲章がいっぱいありました。

昔は国や村に予算がないですから、長老たちがお金を出し合って橋や道路、発電所を作ったりしていたんですね。

親父も医者として沢山の命を救ってきました。
その親父がいろんな患者さんのところに往診していたんですけど、そこでいろんな患者さんの生き様を見て、自分の子供を何とか一人前にしたいものだから、

「手に職をつけろ」「働け」「勤勉であれ」「悪い友達と付き合うな」

ってもいつも必死で叱ってくれました。

       

                     矢野 博丈  氏

[鈴木] 私の実家は長野県の古い地主の家系で、矢野さんのお祖父さんと同じように、父親は郷里の町長や農協組合長などの公職を務めていたんです。

町内の人のお世話や県の仕事に奔走していました。

ですから、父親というのは子供から見たら威厳の対象で、躾は母親が中心でしたね。


私は8人兄弟でしたけども母親が非常に厳しく教育熱心な人でした。

「正直であれ」「働かざる者食うべからず」など、そういうことをずっと言い聞かされて育ちました。

また母親自身も暇さえあれば本を読んだり、子供の勉強を見たりしていましたが、そういう母親の躾や姿勢がいつの間にか植え付けられて、私の生き方のベースになってたいるんだと思います。


           ◆     ◆     ◆     ◆


お2人の言葉からは、やはり経営には目先の利益を追うのではなく徳が大事であることが、またそういう経営者になる素養は、教育・躾に関する親の姿勢によって養われることが分かります。

そんな親であり、また部下を育てる上司になりたいものですネ。

・・・な~んて偉そうなことを言ってる私の会社はちっとも大きくなりませんから、まだまだ徳が足りないってことなんでしょうけど。
あせあせ

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審 査

今からちょうど70年前の今日・1949(昭和24)年1月23日、日本初の出来事がありました。

それは、日本国憲法施行後初めて行われた第24回衆議院議員選挙と同時に


 最高裁判所裁判官国民審査


が行われたこと。

これは日本国憲法第79条第2,3項及び最高裁判所裁判官国民審査法に基づき、衆院選と同時に行うことが義務付けられたため。

最高裁判事は、任命後初めて行われる衆院選の際に国民審査を受け、その後10年経過する毎に再審査を受ける義務があるのです。

皆さんも衆院選の投票所で、名前が数名書かれた投票用紙を渡された経験があると思います。

もし罷免したい裁判官がいたら、その名前の上に×印をつけて投票することになりますが、その×印が投票の過半数を超えたら当該裁判官は罷免されることになります。



・・・とは言え、皆さんはつけたことがあるでしょうか?

正直、私は殆どつけたことがありません。

この国民審査については反対意見もありましたが、「裁判官をして反省させるために必要であり、国民も裁判に関心を持ち裁判の当否を批判する力を持つ必要がある」ということで導入が決定しました。

その趣旨や良し・・・しかし実際には国民にその可否を判断する材料が殆どないのが実情。

マスメディアも衆院選の当落予想ばかりで、この国民審査に関する報道は、審査対象判事の略歴を記すのみ。

それでも直近・2014年の国民審査にかけられた最高裁判事は5名いましたが、そのいずれもが〝罷免を可とする〟投票率が9%前後。

×印をつけた方は、一体どんな根拠でつけたんでしょうネ?

ちなみに県別ではかなりバラつきがあり、過去最も×印が多くついたのは沖縄県で、それに続いて北海道・京都だそうな。

いずれも左翼勢力強い地域ですから、裁判官そのものというより政府に×印をつけている感が無きにしも非ず・・・。うー

しかし現行法上では最高裁判事が70歳定年のため、実際にこの国民審査を2回受けた判事は過去に1人もいません。

もしこの国民審査制度を形骸化せずその趣旨に則って運用するなら、10年スパンでは長過ぎます。

少なくとも5年スパンにするとか改正しないと、私たち国民が最高裁判事に関心を持ち民意を反映できないでしょうし、判事に緊張感を維持させられないでしょう。


以前とは違い、現在はネット社会。


SNS上では最高裁の判決に関する意見や担当判事の名前や過去の判決事例が明確に示されています。

憲法同様、この審査制度も見直す必要有り・・・だと私は思いますが、皆さんは如何お考えでしょうか?

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鬼 畜

凶悪事件が毎年のように起きる現代、今から17年前の今日起きた

 三島女子短大生焼殺事件

をご記憶の方は、殆どいないかもしれません。

しかしこの事件の判決は、当時非常に注目を集めました。


2002(平成14)年1月22日、19歳の女子短大生Yさんは午後11時前にバイト先であるJR三島駅前の居酒屋を出て、自転車に乗って自宅に向かっていました。

その同じ方向を自動車で走行していた犯人の服部純也(当時30歳・以下H)が彼女を見かけ、「若くてかわいい」と思い声をかけますが、Yさんは無視。


                  


しかし彼女と関係を持ちたいと思ったHは自動車で先回りして待ち伏せ、自転車の前に立ちふさがって自転車を止め、抵抗し逃げようとした彼女を車の後部座席に押し込んで「殺すぞ」と脅して強姦。

ぐったりしたYさんを乗せたまま車で三島市内に戻ると、通報を恐れたHは実家に立ち寄って玄関先に置いてあった灯油入りのポリタンクを見て、彼女を焼き殺すことを決意。

三島市内の道路工事現場で、粘着テープで口を塞ぎ両手首を縛った彼女に灯油を書け、火を点けて焼殺したのです。

        

30分後通行人から通報があり、事件が発覚。


指紋から身元が判明すると共に、粘着テープの痕跡が衣服に残っており、灯油やライターなどが現場に残されていないことから、静岡県警は生きたまま火を点けた殺人事件と断定。


捜査の結果、事件から5ヶ月経過した6月23日、DNAが事件現場の遺留物と一致したことから、当時事件から2日後に起こした自動車の当て逃げで有罪判決を受け刑務所に服役していたHを容疑者として逮捕。

Hは事故後に事件で使用した自動車を廃車・解体処分にしていたものの、供述を二転三転させたものの、最終的に犯行を自供。

静岡地検は2002年9月にHを殺人・逮捕・監禁で起訴し、死刑を求刑。

しかし静岡地裁が2004年1月に下した判決は、無期懲役でした。

死刑を回避した理由として、裁判長は


◆ 殺人など人を傷つける前科がない

◆ 周到な計画に基づく犯行ではない

◆ 幼少期の劣悪な生活環境で育った
◆ 反省している


点を挙げました・・・が、これって裁判所や弁護側が死刑回避するための常套句と言えるのでは?


劣悪な環境で生まれ育った人は世の中に沢山いますが、その大半はそれに負けず立派な社会人として暮らしているはず。

それに比べ、Hの幼少期からの犯歴は

◇ 中学3年生の時、窃盗・非行で初等少年院送致
◇ 仮退院後鉄筋工として働くも、17歳の時に再び窃盗等の非行で中 

  等少年院送致
◇ 仮退院後、土木作業員等をするも窃盗で保護監査処分。
◇ 20歳の時に覚せい剤取締法違反・道交法違反で懲役1年6ヶ月・行猶予4年の有罪判決
◇ 執行猶予期間中だった23歳の時に仲間と共謀して自転車に乗っていた男性を脅し、木刀で頭を殴ってケガを負わせ現金5千円を奪う強盗傷害事件を起こし服役。

そして仮釈放から約7ヶ月後に、この凄惨な事件を起こしたのです。

こんな筋金入りの極悪人が反省・更正するしきつね私には到底思えません。

判決を不服とした検察・弁護側双方が上告しましたが、東京高裁は
「被害者には何ら落ち度はなく、犯行の動機は誠に身勝手で、殺害方法も残虐極まりなく、冷酷、非情」だとして死刑判決。


弁護側はこれを不服として控訴したものの、2008年2月に控訴を棄却し、翌月に死刑が確定。

それから4年余り経った2012年8月に死刑が執行されました。

事件から10年を経過して、やっと被害者Yさんとその遺族の無念は晴らされたのです。

さて冒頭この裁判が注目されたと申し上げましたが、それは被害者が1人かつ営利誘拐などの経済的利欲目的でない殺人事件で、過去に殺人を犯したことのない被告に死刑判決が言い渡されたから。

しかし私を含め多くの方は、そんなことが死刑回避の理由になるとは思わないでょう。

人ひとりの命を奪ったなら自らの命を以って償うのは、平等の権利を謳う憲法の理念から考えれば当然のこと。

この事件以降、死刑判決が増加傾向にあると言えますが、執行を待つ死刑確定囚が現在100名以上もいます。

刑事訴訟法では、死刑判決確定後半年以内の執行が義務付けられているのですから、歴代法務大臣の怠慢以外の何物でもありません。

人権云々を言うなら、むしろ毎日 「今日執行されるのか?」 という恐怖感を長期間与え続けることの方が非人道的では?

8割以上の国民が死刑存続を望み、またその理由のひとつとして凶悪犯罪の抑止力を挙げている以上、冤罪の可能性がないならば法に則って粛々と執行すべきだと私は思うのですが、皆さんは如何お考えでしょうか?


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