近年は医療技術の進歩により、日本人の平均寿命は世界トップクラスを維持しています。
それ自体は大変良いことだとは思いますが、反面高齢者の介護・ケアに関しては公的援助の整備は遅れていると言わざるを得ない状況。
私は仕事柄、数多くの方の最期に接しておりますが、長年介護に携わっていたご遺族から
「社長、こういう事言うとオヤジに叱られるかもしれないが・・・もし、あと1,2ヶ月オヤジに頑張られたら、オレや女房が倒れていたかもしれなかったですョ。」
という本音をお聞きする毎に、何ともやり切れない気持ちになります。
こういった問題に大きく関わってくる、というより避けて通れないのが
安 楽 死
でしょう。
1976(昭和51)年8月には東京で安楽死国際会議が開催され、
〝我々は、すべての人びとが、権利と自由を持つことを信ずる。 このことは、われわれに、品位ある死を選ぶ権利、すなわち安らかに苦しまないで死ぬ権利を確認するに至った。〟
などと嘔った 『東京宣言』 が採択されました。
そして今から25年前の今日・1993年11月30日に、オランダで世界初の安楽死を容認する法律が議会で可決されました。
(※翌年から施行)
安楽死は、大別して2種類に分けられます。
◆ 積極的安楽死=本人の自発的意志を前提として一定の条件を満たした場合、医師が自殺幇助を行うこと。
◆ 消極的安楽死=必要以上の延命治療を控え死に至らしめること。
消極的安楽死(自殺幇助)に関しては、我が国では 『尊厳死』 を同義語として用いています。
積極的安楽死に関しては、アメリカ(オレゴン州他3州)・オランダ・ベルギー・フランス・スイスで既に法制化し認可しているようです。
(※認可要件・条文はそれぞれ微妙に違っていますが・・・。)
安楽死を求める人の中には、わざわざスイスなどに行って思いを遂げる方もいるとか・・・。
一方、日本ではどうでしょうか。
過去には、病気で苦しむ父親を見かねて毒殺した息子に対する名古屋高裁の判決(1962年)で示された 【安楽死の6要件】 が知られています。
1.病者が現代医学の知識と技術からみて不治の病に冒され、しかも
その死が目前に迫っていること
2.病者の苦痛が甚だしく、何人も真にこれを見るに忍びない程度の
ものなること
3.もっぱら病者の死苦の緩和の目的でなされたこと
4.病者の意識がなお明瞭であって意思を表明できる場合には、本人
の真摯な承諾のあること
5.医師の手によることを本則とし、これにより得ない場合には医師に
より得ないと首肯するに足る特別な事情があること
6.その方法が倫理的にも妥当なものとして認容しうるものなること
また近年、日本で安楽死についての議論が高まるきっかけとなった、『東海大学安楽死事件』(ガン末期で昏睡状態の続く男性に対し、長男に 「楽にしてやってほしい」 と執拗に懇願され、担当内科医が塩化カリウムを投与して死に至らしめ、殺人罪に問われた事件。 判決は執行猶予付きの有罪) に関して、1995年に横浜地裁が示した許容条件は以下の4点でした。
1.患者に耐え難い激しい肉体的苦痛に苦しんでいること
2.患者は死が避けられず、その死期が迫っていること
3.患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替
手段がないこと
4.生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること
とは言え、現在の日本では積極的安楽死に関して未だ法制化されていません。
しかし一方で、重病患者を抱えるご家族が肉体的・精神的・経済的に苦しんでいらっしゃる現状があります。
法制化されなければ、冒頭ご紹介したご家族以上の悲劇が至る所で起きる可能性が・・・。
過去の事例を見れば〝本人の意思表示〟があるかどうかが重要なポイントだと言えましょう。
自分はどんな最期を迎えたいのか?
それとも、どんなことをしても生き抜きたいのか?
これは誰にとっても決して避けて通れない問題であり、私は既に明確な意志を女房に伝えてありますが・・・皆さんはどうお考えになるでしょうか?
今日は、中国・明代に登場した儒学者・思想家で官僚・武将でもあった『陽明学』の始祖、
王 陽 明
の命日・没後490周年にあたります。
陽明は1472年、浙江省紹興府で生まれました。
父・王華は科挙を首席で合格した秀才で、陽明もその血を継いだ才能豊かな子供だったとか。
青年時代にはありきたりな勉学に飽き足らず武術に熱中。
同時に兵法を修めた彼は、28歳の時に3度目の受験で父同様に科挙に合格。
官吏になるも、儒学の勉強は怠りませんでした。
そして35歳の時、政治を批判する上奏文を皇帝・武宗に提出するも受け入れられず。
逆に宦官・劉瑾の恨みを買って僻地・貴州省に左遷されてしまいます。
言葉も違う見知らぬ土地で自炊生活を送りながらも彼は思索を続け、遂に〝龍場の大悟〟といわれる陽明学を誕生させるに至ります。
やがて劉瑾の横暴が暴かれ移封されると、陽明は県知事に任命され復帰。
江西巡撫や南京兵部尚書などの高官を歴任、その時代に軍人として〝三征〟と呼ばれる業績を挙げました。
しかし1527年、その3つ目となる広西の反乱鎮圧を病をおして指揮したことで体調を崩し、岐路の船中で翌1528年11月29日に57歳で亡くなりました。
生涯を振り返ればお分かりのように、彼は単なる学者ではなく官僚・軍人としての業績を挙げた実践の人でありました。
故に、彼の主張する〝致良知〟(天地に通じる理は自己の中にある判断力=良知にある)、また〝知行合一〟(知と行を切り離して考えるべきでない)には説得力があるのです。
彼が編み出した陽明学は、江戸時代に日本に伝えられ、多くの陽明学者を生むに至り世の中を動かしました。 拙ブログでも過去に、
日本陽明学の始祖で〝聖人〟と言われた
中江藤樹。
https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10889730397.html
庶民の生活救済のために立ち上がり、『大塩の乱』を起こした
大塩平八郎
https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12248855920.html
藩政をV字回復させ、佐久間象山・河井継之助、渋沢栄一にまで影響を与えた
山田方谷
https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10198787379.html
らをご紹介しています。
この陽明学に興味をお持ちになった方に、私の蔵書の中からいくつかご紹介させていただきます。
まず私が最初に触れた、陽明学の入門書といえる『伝習録』(これは陽明の自著ではなく、弟子たちが王陽明の手紙や言行などをまとめたもの)を優しく解説した
『伝習録講話』 (山田準・著 明徳出版社・刊)
更に現在における陽明学研究の第一人者・林田明大氏の著作、
『真説「陽明学」入門』 『真説「伝習録」入門』
(三五館・刊)

そしてちょっと毛色の変わったところでは、同じく林田氏が無敵の雀士・桜井章一氏を取り上げた
『雀鬼と陽明』 (三五館・刊)
が、面白いですョ。
これは麻雀を知らない方にも面白く読めますので、オススメです。
最近は他人を批判するばかりで何もできない政治家が多いですが、彼らにこそ知行合一を目指す実践学問の陽明学を学んでほしい・・・きっと、王陽明もそう思っていることでしょう。

寺院数・約21,000、信者数1,150万人を有する浄土真宗。
(といっても本願寺派・大谷派等、10派程に分派していますが。)
今日は、この日本国内で最大規模を誇る仏教宗派の宗祖である
親 鸞
親鸞は1173(承安3)年に皇太后宮大進・日野有範の長男として、現在の京都市伏見区で生まれました。
9歳の時に、後に天台座主となる慈円のもとで得度し範宴と称した彼は、その後20年にわたって比叡山に入り厳しい修行を積んだものの、自力修行の限界を感じ29歳で下山。
そして聖徳太子の建立した六角堂に百日参籠を行っていた際、夢に聖徳太子が現れ、そのお告げにより浄土宗の開祖・法然の下へ。
やがて法然の高弟となった彼は、法然が1207年に後鳥羽上皇の逆鱗に触れて四国流罪になった際に自らも越後流罪となったものの、生涯を通じて浄土往生を説く法然の教えを継承し、更にそれを高め真実の教えを展開することに傾注。
「南無阿弥陀仏」 と一心に唱え、阿弥陀如来の本願力を信じることで往生するという教えを基に、親鸞の死後弟子たちによって浄土真宗を教団として発展させました。
※ただし浄土真宗の立教開宗は、親鸞が 『顕浄土真宗教行証文類』(略称・教行信証[きょうぎょうしんしょう])の草稿本完成させた1224(元仁元)年4月15日とされています。
流罪後、主として関東で布教活動を行い晩年京都に戻った彼が、当時としては超長寿といえる89歳で入滅されたのは、今から756年前の今日・1262(弘長2)年11月28日のことでした。
浄土真宗は、一口に言うと他宗派の仏教に比べて戒律がなく教えがシンプルであることが特徴で、それ故に信者数が多いと言えます。
葬儀場で剃髪していない僧侶を見かけたら、浄土真宗の僧侶だと思ってまず間違いありません。
また(親鸞自身にも妻がいたように)妻帯や肉食を許している点でも他宗派と大きな違いがあります。
もうひとつ、皆さんがよく勘違いしている〝他力本願〟という言葉について・・・。
これは浄土真宗の根幹に関わる重要なキーワードにも関わらず、ともすると 「他人の力を当てにする」 という意味で使われますが、本来は違うんです。
親鸞の説く〝他力〟とは、他人の力を当てにすることではなく、〝阿弥陀如来の力〟を表す言葉。
そして〝本願〟とは、私たちの欲望を満たすような願いではなく、
「あらゆる人々に南無阿弥陀仏を信じ称えさせて、浄土に往生せしめよう」
という阿弥陀如来の願いのこと。
この本願の通りに人々を浄土に往生させ、仏に成らしめようとするはたらきを〝本願力〟と言うのだそうな。
浄土真宗についてより深く知りたい方には、『歎異抄』 のご一読をオススメします。

これは親鸞自身が著したものではなく、親鸞の没後その教えに背く様々な異説が発生し、信者を混乱に陥れた状況を歎いた弟子の唯円が、師・親鸞の教えを正しく伝えるべく、直接見聞した親鸞の言葉と行動を思い出しながら書き綴ったもの。
親鸞自身の筆による 『教行信証』 は非常に難解で、私のような凡人には理解できないプロ仕様(?)の書ですが、こちらはその教えを分かりやすく解説してくれます。
とはいえ宗教書ですから、漫画や小説のようにパラパラとは読めませんけどネ。
久しぶりに同書のページをめくりつつ、あらためて親鸞上人のご冥福をお祈り申し上げます。


日本を代表するベースボールプレーヤーである、イチロー選手。
彼が愛工大名電高からプロ野球入りした時は、1991年に行われた日本プロ野球ドラフト会議で指名されてのことでしたが・・・皆さんは何位指名だったかご存知でしょうか?
なんと、4位だったんです。

今では信じられないことですが、当時の彼は身体の線が細く、地元中日ドラゴンズでさえ注目していませんでした。
そんな彼の打撃センスと強肩・俊足に目をつけて球団に再三指名を進言し、結局は現在のイチローの活躍を引き出した名スカウトがいました。 その方の名は
三輪田 勝利 さん
今日は、このイチロー選手の恩人の命日・没後20周年にあたります。
三輪田さんは1945(昭和20)年に愛知県で生まれ、名門・中京商に入学して甲子園に出場。
早稲田大学に進学すると東京六大学リーグで23勝を挙げ、エースとして活躍。
卒業後は近鉄からのドラフト指名を蹴ってノンプロ大昭和製紙へ。
その後1969年にドラフト1位指名を受けて阪急ブレーブス入り。
しかし当時の阪急は選手層が厚く、1971年にウェスタン・リーグで最多勝を挙げたものの1軍での登板機会は少なく、結局1970~72年の3シーズンで4勝0敗の戦績にとどまり、現役を引退。
他チーム関係者も認める人柄の良さは、上田監督からも〝誠意のかたまり〟と高く評価され、球団スカウトに転身。
しかし結果的に、その人の良さが彼を苦しめる事になろうとは・・・。
快速球投手・山口和夫選手も発掘(1999年ドラフト1位指名)したことでも知られていますが、何といっても有名なのが冒頭のイチロー選手。
愛工大名電で当時トピッチャーをやっていた鈴木一朗選手を見た三輪田スカウトはその素質に惚れ込み、何度も球団の上司を球場に呼び出し視察させたそうな。
「体が細くてプロでは無理」 と断られても食い下がり、その熱意に負けた球団は殆どの他球団がノーマークだった彼を、前述の通り4位で指名。
その後の大活躍は、あらためて書く必要はないでしょう。
もし三輪田さんのスカウト眼がなかったら、イチローという逸材はプロ球界に存在しなかったかもしれないのです。
その後球団のスカウト兼編成部長となった彼を悲劇が襲ったのは、1998(平成10)年のことでした。
オリックス球団は当時沖縄水産高に在籍した新垣投手の指名権を獲得したものの、「ダイエー以外には行かない」 と明言していた彼は三輪田さんとの面会を拒否。
球団側から厳しく叱責された彼は、11月27日・・・まだ53歳の若さで沖縄のマンションから飛び降り自殺して果てたのです。
誠実な性格ゆえに、球団と選手側の板挟みになって交渉難航に悩んだ末の悲劇と伝えられました。
しかし事はそんな単純なものではなかったようです。
アマ球界にはスカウトに絡む裏金のやり取りが囁かれており、三輪田さんはその渦に巻き込まれ騙された・・・という話が一部マスコミで報じられたことも。
この辺のウラ事情について、三輪田氏と早大時代のチームメイトだった毎日新聞社の六車護さんが
『名スカウトはなぜ死んだか』 (講談社・刊)

という著書で言及しています。
コアな野球ファンには、お勧めの一冊。
中古書籍市場で手に入ります。
イチロー選手は三輪田さんの死に大きなショックを受け、告別式に参列して棺に自らのバットを入れ、メジャー入りした後も帰国のたびに墓参を欠かさないとか。
球界を影で支えた名スカウトの無念に思いを馳せつつ、あらためてご冥福をお祈り致します。

毎年のように世界各国で同様の事件が起きているので、日本人の多くはもう記憶に残っていないかもしれませんが・・・今からちょうど10年前の今日、インドで大事件が発生しました。 それは
ムンバイ同時多発テロ
死者172(もしくは174)名以上、負傷者は239(内外国人34)名にのぼり、出張中だった日本人1名が死亡、1名が負傷した大規模テロでした。
もともとムンバイ(旧称・ボンベイ)を含むインド国内では、それ以前から隣国パキスタンとの関係や宗教・民族問題に絡んてテロが起きており、この大規模テロが起きる前にもホテルのオーナーやインド沿岸警備隊に警告が届いていました。
更にアメリカもインドに対し海路を利用したテロ攻撃に備えるよう警告していたのですが・・・実際、テロリストたちの多くは港の外に停泊していた船舶からボートに乗り移って上陸したものと推測されています。
2008年11月26日午後9時過ぎ、市内に潜入した10~25名(不確定)のテロリストたちは、手分けして乗客で混雑するターミナル駅や2ヶ所の五つ星ホテル・人気レストラン・映画館など9ヶ所をほぼ同時に急襲。
銃撃や手榴弾、爆弾で無差別に攻撃し、また病院などで人質を取って立てこもり、犯人の一人はテレビを通じて人質解放の条件としてインド国内で拘束されているムジャヒディーン(イスラム系民兵)全員の解放を要求したとか。
ムンバイ警察やインド軍特殊部隊・治安部隊などが出動・・・しかし完全に制圧したのはテロ発生から3日後の11月29日になってから。
犯行声明がデカン・ムジャヒディーンと名乗る組織から出されましたが、現在に至るまで犯行グループは特定されていません。
ただ規模の大きさと綿密な計画性から、パキスタンなど海外に拠点を持つグループと連携して行われたものだと思われます。
このテロの恐ろしさは、欧米人を人質に取ろうとしたことにあります。
おそらく犯行グループは、自分たちの要求・目的を果たす確率をより高めるためにそれを狙ったのでしょうが、逆に言えば欧米人が大勢いる場所ならどこでもテロの標的になるということ。
つまり、2年後の東京五輪も狙われる可能性が十分あるのです。
事前に警告があり、軍隊があるインドでさえ事前に犯行を防げなかったのですから、スパイ防止法もなく自動小銃を手に警戒する軍人もいないノーガード状態の日本で、同時多発テロを防げるのか?
既に不法入国も含め何百・何千人ものイスラム教徒が国内にいますし・・・。
では私たちがテロから身を守るためには、どうしたらいいのか?
正直、欧米人を含め多くの人が集まる繁華街やイベントには極力行かない・・・現時点では、これくらいしか予防策はないかも。

今日・11月25日は
OLの日
なんだそうです。
昔は働く女性のことを BG (business girl ) と呼んでいたそうですが、東京オリンピック前年・・・今から55年前の1963(昭和38)年に、
「BGは、隠語で〝Bar Girl 〟=売春婦の意味」
という噂話が広まったそうな。
実際にそんな意味などなかったのですが、それを真に受けたNHKが9月に〝BG〟を放送禁止用語に。
そこで 「オリンピックで来日する外国人に誤解されないように」 と、『女性自身』 誌が別称を公募した結果、投票総数26,481のうち、
4,256票を獲得し第1位となったOL(office lady )の採用が決定。
同年11月25日発売号から使い始めたことを記念しているそうな。
※実は実際の第1位はOG (office girl ) で、OLは第7位でした。
しかし当時の編集長が、これだと 『職場の女の子』 というイメージが強く、個人的に気に入らない・・・ということで、『自立した働く女性』 に相応しい(?)OLを第1位にしたんだそうです。
つまり発表されたアンケート結果は捏造・・・メディアの世論調査がいい加減だってことが、こんなことからも分かります。
-size: 1em;">まぁそれはともかく、皆さんは〝OL〟という言葉にどんなイメージをお持ちでしょうか?
中には、この言葉に何となくエロチックな響きを感じる男性がいるらしいですが。 (わ、私は違いますョ!)
私が社会人になった1980年代初頭にはOLという言葉が定着していましたが、入社5年目の春から 『男女雇用機会均等法』 なるものが改正され、女性の総合職が誕生。
職場にも私服を着た女性社員が何人か在籍するようになると、男性社員は彼女たちに対してこの言葉を使わず、〝キャリアウーマン〟なんて言葉を使うようになりましたょネ。
どうも 【OL=一般職の制服組】 という意識を持っていたようですが・・・これ、ある意味差別だったかもしれません。
制服といえば昔、某金融機関では女性事務職が高給・好待遇ゆえになかなか退職しないため、制服のスカートを短くした・・・という話がありましたが、実際はどうだったんでしょう?
現在では多くの職場で制服が廃止され、女性社員は私服着用となっているようですが・・・そういう環境において、このOLという言葉はまだ使われているんでしょうか?
最近では、男女間で職種の呼称差別がなくなっていますょネ。
看護婦 → 看護師
スチュワーデス → キャビン・アテンダント
等々。 ということは、〝OL〟も最早死語・・・いや逆に、これからは女性に〝OB〟(オフィス・ボーイ)なんて言われて、かわいがられる草食系男性社員が増殖するのかも?

嘗てはどのスポーツ種目にも〝鬼〟と呼ばれる指導者がいたものですが、おそらくその元祖はこの方でしょう。
大松 博文 監督
今日は、〝東洋の魔女〟 と呼ばれた全日本(というかニチボー貝塚)チームを率い、1964年の東京五輪・女子バレーボールで見事金メダルを獲得した、この名監督の命日・没後40周年にあたります。
大松氏は、1921(大正10)年に香川県で生まれました。
関西学院大学を卒業後、ニチボー(現・ユニチカ)に入社したものの、1941年に陸軍に召集され支那や南方戦線を転戦。
インパール作戦に従軍しながらも、数少ない生還者として復員。
※インパール作戦に関する過去記事は、こちら。(↓)
この時に中隊指揮官を務めた経験が、彼の性格や考え方を大きく変えたのだそうな。
1954年にニチボー貝塚女子バレーボールチームの監督に就任。
1日8時間以上という、女性虐待とまで言われる程の凄まじい猛練習を選手に課し、4年後には日本四大タイトルを全て制覇。
オリンピック前の国際大会でもヨーロッパ遠征で22戦全勝するなど無敵を誇り、あの有名な〝回転レシーブ〟を武器に東京五輪でもニチボー貝塚を主体とした全日本代表チームが期待どおりの金メダルを獲得したのです。
今でもスポーツ中継の最高視聴率 ・ 66.8%を叩き出したソ連との決勝戦・・・相手選手のオーバーネットで金メダルを手にした瞬間、コート内で涙ながらに喜ぶ選手たちを静かに微笑みながら見つめる大松氏の姿が印象的でした。
「金メダルを獲る!」、「おれについてこい!」 という言葉だけで、果たして選手たちは猛練習についていくのだろうか?
そんな疑問を感じてしまいますが・・・実は大松監督、オリンピック前の合宿中に最愛の母親を亡くしたにもかかわらず、葬儀に参列せずコートに立ったのだとか。
それを知った選手たちは、
「母親を亡くしても、私たちのために練習をしてくれた。
その恩は金メダルで返すしかない。」
と心に誓ったのだそうです。
後年、金メダリストたちに当時の大松監督をどう思っていたか聞くと、「厳しい」・「辛かった」 という人はおらず、「先生はカッコ良かった」・「結婚するんだったら先生のような人がいい。」 という言葉が異口同音に出たとか。
やみくもに猛練習を課したのではなく、実際には選手の健康状態を木目細かくチェックしながら指導していたという大松監督・・・ただの鬼はなく、〝仏心を持った鬼〟だったのでしょう。
一時期参議院議員も務めたものの、その前後で周恩来に招かれ代表チームを指導したり、イトーヨーカ堂のバレーボール部の創設に関わるなど、生涯の殆どをバレーボールに捧げた大松氏が心筋梗塞で突然この世を去ったのは、1978(昭和53)年11月24日・・・まだ57歳の若さでした。
今やムリヘンにゲンコツの相撲界でも、師匠が弟子に気を使う時代。
大松氏のような〝愛あるスパルタ鬼監督〟は、もはや出現しないのでしょうか?
そんなことを思いつつ、国際バレーボール連盟(FIVB)から女子部門の 『20世紀の最優秀賞』 に選ばれた〝東洋の魔女〟を育て上げ、自らも女子最優秀監督特別賞に選出された〝鬼の大松〟のご冥福を、日本バレー復活を願いつつお祈り致します。

今でこそ、ネットなどを通じて世界中のニュースがリアルタイム映像で見られる時代ですが、今から55年前の今日初めて成功した、日米間における
テレビ衛星中継
は、当時としては画期的な出来事でした。
それは翌年開催される東京オリンピックの映像を全世界に向けて発信し、日本の戦後復興をアピールするという、明確な目標をもって開発が急がれたもの。
日本では茨城県多賀郡にある国際電信電話会社宇宙通信実験所(現・KDDI茨城衛星通信センター)に1963(昭和38)年11月、直径20mのカセグレンアンテナを完成させ、同月19日には日米政府間で衛星中継(※当時は宇宙中継と言っていました)実験に関する合意が成立。
その4日後の11月23日に実験が行われたのです。
左上がカセグレンアンテナ 右下は直径6mの追尾アンテナ
アメリカが打ち上げた通信衛星リレー1号を利用しての実験は、同衛星が約3時間で地球を1周する低軌道衛星だったため、日米双方から見える20分程度が中継の限度だった中、日本時間の同日午前5時27分過ぎ、アメリカからの送信を日本側で受信することに成功。
当初の予定では、上写真・右のNASA静止画像に続き、予め録画されていたケネディ大統領のメッセージが送られてくる予定でした。
しかし、送られてきたのは・・・なんと砂漠の映像。

実はこの2時間半前、ダラスでケネディ大統領が暗殺されたために、急遽差し替えられたのでした。
※ケネディ大統領暗殺に関する過去記事は、こちら。(↓)
ですから、よく〝日米初の衛星中継で流されたのは、ケネディ大統領暗殺のニュース〟と言われますが、実は砂漠とサボテンの画像だった・・・というのが、正しいのです。
この第1回目の実験は午前5時27分42秒~48分まで約20分間行われ、2回目の実験は同日午前8時58分から約17分間・・・この時に、ケネディ大統領暗殺の一報が送られてきました。
この時送られてきたのは、アメリカ側が制作した画像・・・ですが、音声は日本語でした。
ナレーターを務めたのは、毎日放送ニューヨーク特派員だった、前田治郎さん。(当時35)
取材先に向かう途中ケネディ暗殺を知った彼は、ABC国際部門のオフィスに取って返し、日本に送る資料を集めていたのですが、その時ABCの広報担当者から
「(現地時間の)午後7時から2回目の宇宙中継実験が行われる。
君が日本語でこの大事件のニュースを送ってみないか?」
と打診されたのです。
それを彼が快諾したことを受け、ABC国際部門のコイル社長が実験担当だったNBCに電話をかけ、テレビ画像と音声の回線を設定。
その約1時間後、日本時間の午前9時から2回目の実験が開始され、そのNBCのケネディ暗殺ニュース映像にかぶせて、前田さんのほぼアドリブによる日本語ナレーションが流されました。
「これは輝かしい日米テレビ中継の2回目のテストであります。」
「この電波に乗せて、誠に悲しむべきニュースをお送りしなければなりません。 既にニュースでご存知とは思いますが、アメリカ合衆国ケネディ大統領は11月22日、日本時間23日午前4時、テキサス州ダラス市において銃弾に撃たれ死亡しました。この電波に、このような悲しいニュースをお送りしなければならないのは、誠に残念に思います。」
コイル社長のデスクに座って行われたこの前田さんの13分余りにわたるナレーションは日本のテレビニュースで流れ、人々に大きな衝撃を与えたことは言うまでもありません。
その後コイル社長がABCの東京事務所に当時12回線しかなかった国際電話をかけ、日本のテレビで放映されたことを確認。
前田さんと社長はウイスキーで乾杯し、中継の成功を祝ったとか。
おそらく前田さんにとっては、生涯で最も美味いウィスキーだったことでしょう。
この歴史的な出来事は後にNHKのブロジェクトXでも取り上げられましたが、実際の実験映像をこちらでご覧いただけます。(↓)
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030052_00000

今日は、国民の祝日に関する法律により 「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう日」 と定められ、1948年から公布・施行されている祝日・『勤労感謝の日』。
ですが、1947(昭和22)年までは数ある神事の中で最も重要とされる
にい なめ さい
新 嘗 祭
が執り行われる、同名の祝日でした。
これは宮中祭祀のひとつで、天皇陛下が五穀の新穀や新酒を神々に供え、またご自身もそれを食して収穫に感謝する儀式であり、全国の神社でも同様の儀式が執り行われます。
新嘗祭は古くから行なわれており、1872(明治5)年までは旧暦11月の2回目の卯の日に行われていました。
それが太陽暦の導入と共に新暦11月の2回目の卯の日に行うこととなり、その最初が11月23日だったため、そのままこの日に固定され現在に至っています。
宮中での式典は午後6時~8時の『夕(よい)の儀』、午後11時~翌日午前1時の 『暁(あかつき)の儀』
の2回、神嘉殿において催されるとのこと。
多くの人々が祝日の楽しいひと時を過ごしたり寝入っている本日の昼夜、農耕民族たる日本人の代表としてその祭祀を司る天皇陛下自らが神々に感謝の祷りを捧げられていることを、国民はしっかりと認識すべきでしょう。
嘗て10年半にわたり侍従長を務められた現・宮内庁参与の渡邉 允(まこと)氏が以前月刊 『致知』 で天皇陛下の祭祀に臨まれる姿勢について語られていましたので、以下に抜粋・編集にてご紹介させていただきます。
◆ ◆ ◆ ◆
両陛下は毎朝6時にはお目覚めになり、お二方で吹上御苑の森の中を散歩なさっています。 驚くべきことに、ご病気の時を除いて、この6時起床を変えられたことはありません。
普通はその日の予定に合わせて起床時間を決めたり、休みの日は遅くまで寝ていたくなるものでしょう。
しかし1年を通じて時間を変えないという規律を自らに課しておられる・・・そこに私は陛下の一貫した強靭な意志力を垣間見る思いがします。
そんな陛下の1日は、本当にお忙しいものです。
例えばまず午前中、宮中三殿で宮中祭祀を執り行われた後、午後は宮殿において社会福祉関係者の拝謁や認証官任命式 (※国務大臣その他の官吏を任命し、辞令を交付する儀式)がある。
その後新しく着任した外国大使夫妻のためにお茶会をなさり、夜は御所で近く訪問予定の国の歴史について、学者の話をお聴きになる。
通常、夜10時半が御格子 【※みこうし=陛下が御寝(おしずまり)になること】ですが、大抵両陛下はそれ以後も翌日の行事のための資料や式典で読まれるお言葉の原稿に目を通したり、外国の国王・王妃にお手紙を書かれたりされているようです。
このように朝から晩まで次々と性質の異なるお仕事に取り組まれており、それが1年を通じて続くことになります。
両陛下がお出ましになる大きな行事や式典は休日・祝日に行われることが多いため、5日働いて2日休むという生活のリズムもないのです。
そこまでしてご公務に邁進される陛下の根底にあるもの・・・それは、「国民のために」 という思いにほかなりません。
陛下のその思いが一つの形として具現化される場が
『宮中祭祀』 です。
これは陛下が国家国民の安寧と繁栄をお祈りになる儀式のこと。
陛下の一年は、元旦朝5時半から執り行われる 『四方拝』 で始まります。
外は真っ暗、しんしんと冷えている中、白い装束に身をまとい神嘉殿の前に敷かれた畳の上に正座され、伊勢神宮をはじめ四方の神々に拝礼される。
その後宮中三殿に移られて 『歳旦祭』 を執り行われ、五穀豊穣や国民の幸福をお祈りになるのです。
このように陛下が執り行われる宮中祭祀は年間20回程度ありますが、この中で最も重要とされるのが11月23日の 『新嘗祭』 です。
夜6時から8時までと、夜11時から翌午前1時までの2回、計4時間にわたって執り行われる間、陛下はずっと正座で儀式に臨まれます。
我々も陛下がいらっしゃるお部屋の外で同じように2時間正座を続けるのですが、これは慣れている人でも難儀なことです。
私は毎年夏を過ぎると正座の練習を始めていました。
ある時、陛下の元に伺うと、居間で正座をされながらテレビをご覧になっていたことがありました。
やはり陛下も練習をなさっていると思ったのですが、後でお聞きしてみると陛下はこうおっしゃったのです。
「足が痺れるとか痛いと思うことは一種の雑念であって神様と向き合っている時に雑念が入るのは良くない。
澄んだ心で神様にお祈りするために、普段から正座で過ごしている。」
その取り組み方ひとつとっても、専ら肉体的苦痛を避けたいと思っていた私とはまるで次元が違うと感服した一瞬でした。
これらさまざまな宮中祭祀の多くは国民の祝日に行なわれています。
つまり私たちが休んでいる時に、陛下は国民の幸福をお祈りされているのです。
そのことを私たちは忘れてはなりません。
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その他、大きな地震や災害が起きた際にも狼狽えず即座にテレビをつけて情報を収集し、ご自身よりも国民の安全を気にかけておられたエピソードなどが記されておりました。
〝国民が第一、自分は二の次〟・・・普段からのこうしたお考えや姿勢が両陛下から滲み出ているからこそ、東日本大震災や水害の被災地をお見舞いされた際、多くの被災者に希望と勇気を与えて下さったのでしょう。
逃げるように現場を離れようとして被災者から厳しい言葉を浴びせられた某総理大臣とは、比べることすら憚られます。
日々私たちのために祈りを捧げられている両陛下に感謝し、その思いに応えられるような国民にならねば!と、改めて気を引き締める次第。
そして敗戦後GHQによって葬り去られた伝統ある祭祀の歴史や由来を次世代に語り継ぐことも、私たち大人の義務と言えましょう。
〝日本を取り戻す〟ためには、まず 『勤労感謝の日』 という意味不明の呼称を 『新嘗祭』 に戻すべきだと、私は考えます。
今日は厳粛な気持ちで、国旗を掲揚しましょう!
