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未完成

・・・と言っても、シューベルトの交響曲ではありません。

その場所と名前は知らずとも、殆どの方はこの4人の顔には見覚えがあるでしょう。


      

サウスダコタ州の


  ラシュモア山国立記念公園


にあるブラックヒルズの岩山に、左から初代ジョージ・ワシントン、第3代トーマス・ジェファーソン、第26代セオドア・ルーズベルト、第16代エイブラハム・リンカーンと、4人のアメリカ歴代大統領の胸像がお目見えしたのが、今から77年前の今日・1941年10月31日のことでした。


     


このモニュメントは、アメリカ国家の誕生・拡大・保護・発展の象徴として同政府がアイヌダホ州生まれのデンマーク系アメリカ人彫刻家ガッツォン・ボーグラムGutzon Borglum 1867-1941)に制作を依頼したもの。

彼は末永くその作品が残るようにと、約16億年前に出来た非常に硬い花崗岩で形成されたラシュモア山を制作場所に決定。

1927年から作業を開始しましたが、硬い岩盤を選んだために彫刻は困難を極め、ダイナマイトで岩を砕きながら作業を進めたそうな。


    

                ボーグラムと作業風景


400人もの作業員を使い、標高1,745mの高台にワシントンの頭から顎までが18.3m、ジェファーソンの鼻の高さとルーズベルトの口髭の幅が6mという、巨大な彫刻が出来上がりました。


このモニュメントは、『自由の女神』 と並ぶアメリカ民主主義の象徴とされており、1925年に国定記念建造物に指定されています。

そしてこれがアメリカ国内だけでなく世界的に有名になったのは、1959年に公開されたA・ヒッチコック監督の名作映画 『北北西に進路を取れ』(原題 :
North by Northwest ) のクライマックス・シーンのロケ地として使われたから。


     


おかげで交通の便があまり良くないにもかかわらず、現在では年間約25万人が訪れる観光スポットとなりました。

しかし、光あれば影あり。

このラシュモア山一帯は、元々アメリカ・インディアンの聖地だったそうで、かつてはゴールド・ラッシュで入り込んだ白人と激しい戦闘が繰り広げられました。

白人社会にとっては民主主義の象徴であっても、インディアンにとっては侵略された忌まわしい記憶が残る場所。

1968年にアメリカ政府は第二次ララミー砦条約でこの一帯を〝スー族固有の土地〟と認めましたが、数年後にはこれを反故にして政府が没収してしまいました。

それに怒ったアメリカ・インディアン運動家たちが彫刻の頂上に登ってワシントンの頭に小便をかけた・・・なんて騒動も起きています。

これもまた多民族国家アメリカを象徴する事件と言えましょうか。

ところでこのモニュメント・・・実は、未完成なのだそうな。

お披露目の7ヶ月前にポーグラムは亡くなっており、息子のリンカーンが引き継いだものの資金不足のため顔の部分が完成した時点で作業継続を断念。

確かに胸像という割には胸の部分がないのですが・・・まぁ、今後それを作る必要はなさそうですネ。
あせあせ


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【本日増刊・拡散希望】 道 徳

最近は、注意されたことに逆ギレした中学生が教師に暴力を振るってケガを負わせ逮捕されるという事案が全国で起きています。

私の中学生時代には、教師に生徒が暴力を振るうとか、教師が生徒を〝常人逮捕〟するなんて有り得なかったし、考えられない話。


また以前、運動会の練習で教師が 「起立!」 と5回も言わなければ立たない小学生を目撃して呆れ果てた私は、学校教育はもとより親の躾はどうなっているのか? またこの子供らがどんな大人になるのか?・・・と、大きな不安を覚えます。


昨年4月、安倍内閣が 「憲法や教育基本法に反しない形で教材として使用を認める」 という閣議決定をしたことで、また今月初めには新任の柴山文部科学大臣が会見で記者の質問に答えたことで再び注目されたのが、


  教 育 勅 語


この正式名称・『教育ニ関スル勅語』 が発表されたのは、今から128年前の今日・1890(明治23)年10月30日のことでした。


これは山縣有朋内閣時代、地方長官会議に於いて

「知識に偏る学校教育を修正し、道徳心の育成を重視する」


ことを求め、また明治天皇ご自身が道徳教育に関心を寄せられていたことと合わせ、井上毅・内閣法制局長官が原案を作成し、これを加筆修正したものを明治天皇の名の許に発表されたもの。

それから太平洋戦争の終戦頃まで我が国道徳教育の規範と捉えられていましたが、1947年に施行された教育基本法および翌年の国会決議により、教育勅語は学校教育から排除されました。


皆さんは、この『教育勅語』について、どのような認識をお持ちでしょうか?


戦後教育の影響等で、この勅語は〝天皇制を強制するもの、あるいは偏った戦前の思想教育の根本〟 と思われている方もいらっしゃると思いますが・・・。


しかし冒頭の 「朕惟フニ・・・」 はご存知だとしても、全てを読んだことのある方は意外と少ないのではないでしょうか?


以下に勅語全文(※原文には句読点・濁点・改行なし)を掲載致します。 まずは一度目を通してみて下さい。 


          ◆     ◆     ◆     ◆


朕(ちん)惟(おも)フニ、我ガ皇祖皇宗(こうそこうそう)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ、德ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ。


我ガ臣民克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ、億兆心ヲ一(いつ)ニシテ世々(よよ)厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ、此レ我ガ國體(こくたい)ノ精華ニシテ、教育ノ淵源(えんげん)亦(また)實(じつ)ニ此ニ存ス。


爾(なんじ)臣民父母ニ孝ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相(あい)和シ、朋友相信ジ、恭儉(きょうけん)己レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、學ヲ修メ、業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ、德器(とっき)ヲ成就シ、進(すすん)デ公益ヲ廣(ひろ)メ、世務(せいむ)ヲ開キ、常ニ國憲(こっけん)ヲ重(おもん)ジ、國法(こくほう)ニ遵(したが)ヒ、一旦緩急アレバ義勇公ニ奉(ほう)ジ、以テ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)ヲ扶翼(ふよく)スベシ。


是(かく)ノ如キハ獨(ひと)リ朕ガ忠良(ちゅうりょう)ノ臣民タルノミナラズ、又以テ爾(なんじ)祖先ノ遺風ヲ顯彰(けんしょう)スルニ足(た)ラン。


斯(こ)ノ道ハ實(じつ)ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守スベキ所、之ヲ古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ、之ヲ中外(ちゅうがい)ニ施シテ悖(も)ラズ。


朕爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ拳々服膺(けんけんふくよう)シテ、咸(みな)其(その)德ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ。


       明治二十三年十月三十日


              御名御璽(ぎょめいぎょじ)


教育勅語


いやはや、読むだけでも一苦労・・・お疲れさまでした。


しかしこれだけでは意味がお分かりいただけないと思いますので、以下に(私なりの意訳を含めた)現代語訳を記してみます。


私の思うには、我が皇室の祖先が国をお始めになったのは遙か遠い昔のことで、お築きになった徳は深く厚きものでした。


日本国民は忠と孝の道をもって心を一つにし、今までその美をなしてきましたが、これこそ我が国の優れた点であり、教育の根本もまたこの中にあります。


国民は皆父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の心で接し、学問を行い、手に職をつけ、知能を啓発し、徳と才能を磨き、進んで世のため人のために尽くし、憲法を重んじ法律に従い、もし有事となれば公のため勇敢に仕え、天下に比類なき皇国の繁栄に尽くすべきです。


これらは、ただ国民が我が忠実で良き臣民であるというだけのことではなく、あなた方の祖先の遺した良き伝統を継承していくものでもあります。


この道は実に我が皇室の祖先がお遺しになった教訓であり、国民の共に守るべきもので、昔も今も変わらず国内外問わず間違いなき道です。


私は国民と共にこれらを肝に銘じて守っていきますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことを願うものです。


      ◆    ◆    ◆    ◆


・・・如何でしょうか?


確かに一部現在では受け入れにくい文言もありますが、主旨は親孝行・家族や友人との人間関係・勤勉・奉仕等々、まさに道徳の基本を説いているのです。


この勅語が発表された動機である 「知識偏重教育を是正し、道徳心を育成」 しなければならないのは、当時の人々よりむしろ一世紀以上経った現代に生きる私たち・・・だと私は思うのですが。


安倍政権では学校教育現場における 『道徳』 の教科化・充実を掲げていますが、たとえ使う文言や名称を変えても〝教育勅語の精神〟を子供達に教える授業を実施させて欲しいもの。

そうすれば、先週末の渋谷でハロウィンのバカ騒ぎをして軽トラックをひっくり返したりゴミを撒き散らす若者はいなくなるはず。

時代は変われど、〝人として生きるべき道〟は不変ですから。
扇子


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迫 真

地球の外側を回る太陽系第4の惑星で、公転周期は約687日。

地表に酸化鉄(赤サビ)を多量に含むため、地球からは赤く見える星。


以前は生物の存在が否定されていましたが、近年の無人惑星探査機の調査により水や氷の存在が確認され、また微生物生存の可能性も唱えられており、月着陸以降途絶えていた有人探査が期待されている惑星・・・といえば、

 火 星

そして昔から定着している火星人のイメージといえば、大きな頭を何本かの長い足で支える、あのタコの化け物みたいな姿ですが、これはH・G・ウェルズの作品 『宇宙戦争』 の表紙に描かれた火星人の絵が元になっていると言われています。(


       

                   『宇宙戦争』 表紙 


実はこの火星人と今日は、大変に関係が深い日なんです。


今からちょうど80年前の1938年10月30日、ハロウィンの特別番組として流されたラジオ番組によって、多くのアメリカ人がパニックに陥りました。


この『宇宙戦争』を元に、オーソン・ウェルズがプロデュースしたこの放送は、CBSネットワークのマーキュリー劇場という不人気番組で流されました。


       

                   George Orson Welles


 いきなり 「火星人が襲来した」 という臨時ニュースを伝えるが如く始まったこの放送は、途中でフィクションである旨のコメントを挿入したものの、あまりの真に迫った内容にかなりの聴衆が本当の事件だと信じた・・・という、放送業界で今でも引き合いに出される名(迷?)放送だったそうな。


この放送でオーソン・ウェルズの名は一躍全米で有名になりました。


       


(翌年に南米のエクアドルで同様の放送をしたところ、放送後に民衆が暴徒化し出演者6名を含む21名が殺害され、プロデューサーが投獄される・・・という、シャレにならない事態が起きています。)


この原作は、ジョージ・パルの手により1953年に映画化・公開され、同年のアカデミー特殊効果賞を受賞。


1996年にはその内容が似ている 『インデペンデンス・デー』 が公開され、これまた大ヒット。


そして2005年にはS・スピルバーグ監督、T・クルーズ主演で 『宇宙戦争』 がリメイクされました。 


       


このリメイク版、ラストは何となく呆気ない幕切れでしたが、アレが原作に忠実な筋書きなのだそうです。


火星人は本当に存在するのか? 


そしてもし存在したとして、その容姿は本当に 宇宙人 みたいなのか?

私も是非会ってみたいですが・・・いや、ひょっとしてもう既に地球に移住し、人間の姿に変装して何気なく私たちのそばで暮らしているかも?


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営業は辛いょ <下>

私が答えに詰まっていると、社長は更に追い打ちをかけてきます。

「お~い、営業部長。 ナベちゃんが新車買ってくれそうだゾ。」


と店内にいた部長をも手招き。

「お~、さすがはナベちゃん。 お買い上げありがとうございます。

グレード、どれにする?」


と購入申込書を片手に、後ろからパンフレットを覗き込み、私を社長と挟み撃ちに・・・。


        


でも結論から言うと、私は売買契約書にハンコを押すことなく、その場を逃れられました。


え、どうやって切り抜けたの? と不思議に思う方もいらっしゃるでしょうが・・・残念ながらそれを具体的に申し上げることは差し控えさせていただきます。

企業秘密ですので。あせあせ


ひとつだけ言えるのは、ディーラーの社長さんに

「しゃあないナ。 そんなら買わんでもエエワ。」

と言ってもらう、私が1台買う以上のメリットの提案に成功した、ということです。 


納得してもらうまでには、丁々発止の持久戦・・・さすがにその場をたった一言で切り抜けられる〝殺し文句〟などありません。


ついでに申し上げると、社長さんが冒頭口にした 「ライバル社の担当者が買った」 というのはハッタリでした。うー


でも私が買わずにその場を切り抜けて帰った後、何も知らずにやってきたその担当者が社長さんにつかまって

「ナベちゃんは二つ返事で買ったゾ!」

と言われ、彼は 「ナベさんが買ったんじゃしょうがないですね」 と、注文書にサイン しちゃったんだそうな。


後日、その担当者に散々イヤミ言われました・・・が、そんなのは自己責任ってヤツですょネ。

それにしても、ホント食えない社長さんでした。

しかしそんな私でも全て切り抜けられたわけではなく、損保在籍20年の間には何台か新車を買い換え(させられ)ました。

特に本店の自動車営業部で都内某大手ディーラー(15拠点)を担当した時には、私一人の自動車・自賠責の予算が 地方の大型支社全体のそれより大きな数字でしたから、シェア数パーセント落とされただけで大打撃・・・プレッシャーが半端じゃありませんでした。

同業他社も事情は同じですから、各社とも車販協力に必死。
保険屋なのに、私を含め各社の担当者は年中クルマを売ってました。

そんな中、ディーラーから「高値で下取りするから」 と泣きつかれて仕方なく380万で買った新車の翌年の下取り額が180万だった、なんてことも。

しかも本社から指定されて購入した拠点長からは感謝されたものの、その情報を知った他の14拠点長に会うたびに、

「何でウチで買わなかったんだョ!」

と文句を言われる始末・・・もう、たまりませんでした。
うー

この自動車営業部には4年半ほど在籍しましたが、その間に貯金を殆ど使い果たし、女王様から

「あんた、バッカじゃないの!?」

と厳しいお叱りを受ける始末。

(※ちなみに女王様は、営業職とは全くの無縁。)

でも営業マンには、ノルマ(私が在籍していた損保会社では、それを〝予算〟と称していました)が付き物。

歩合制の給料ではありませんでしたが、年間の達成率によって人事評価や昇進に影響がありましたから皆必死に数字を追いましたし、その中で必要とあれば(自社商品以外の)自爆も自己判断でしました。


それはどんな職種の営業マンでも同じはず。

※でも結果的に私はその数年後、会社を辞めて今は葬儀屋・・・先行投資(?)はパーになりましたから、女王様に反論出来ません。

ですから日本郵便の社員さん、年賀状の買取くらいで泣きを入れるのは、ちょっと甘いかと・・・。

         


 


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営業は辛いょ <上>

数年前、日本郵便の社員が

「年賀状のノルマを押し付けられて、5,000枚売らなきゃいけない」

という嘆き節をネット上でつぶやき、話題になったことがありました。


「日本郵便もブラック企業だ」 などというコメントが書き込まれたようですが、その程度の自爆営業で済めばまだマシ・・・そう思った営業マンは少なくないと思います。

だって、郵便ハガキはまだ金券ショップで定価の約9割の値段で引き取ってくれますから。

私自身損保の営業マンを20年やってましたが、その間何度も自社の積立型保険に加入しましたし、その他にも様々なお付き合いの物品購入をしました。

例えば本店営業部にいた時、12月には各部署の大手メーカー担当者から依頼があって、毎年のようにクリスマスケーキ3,4個、ハム詰め合わせ3,4箱、洋酒4,5本等々を買わされ、クリスマス・イブの夜に帰社すると、それらが机の上に山と置かれていたものです。

       


当然ケーキなんて1個で十分ですから、お裾分けを期待して待ち構えていた女子社員にプレゼント。

それ以外にも全国の同期や知り合いから依頼があれば引き受けてましたし、逆に私自身も地方支店勤務時に取引先から依頼されて樽詰め味噌を彼らに300樽以上売ったり・・・ま、社内互助会みたいなものです。

しかし、そんなのはまだ序の口。
最大の自爆といえば・・・自動車でした。

とある地方支店に勤務していた20歳代の時、担当していた某自動車ディーラーを訪問して、いつものように

「毎度様で~す!」

と元気よくドアを開けた瞬間、たまたま部屋の一番奥に座っていた社長さんと目が合ってしまったのです。

「おっ、ナベちゃんかぁ、いいところに来たな~。 


ちょっとこっちにおいでョ!」

と手招きされてしまいました。 直観的に


(ま、まずい!)


と思っても後の祭り。 デスクの前に座ると社長さん、おもむろに引き出しから新車のパンフを出して私の目の前に広げました。


「今度さぁ、いいクルマが出たんだょ。

これ、キミみたいな若者にピッタリなんだょナ。

1台買ってくれないかなぁ~? 

いや正直さぁ、キミのライバル損保の○○クンは、二つ返事で買ってくれたんだょなぁ。  ど・う・す・る~?」


実はこの社長の後ろの壁には、取引損保各社の車販協力台数が棒グラフになっていて、一目瞭然。


私たち担当者に無言の圧力をかけているんです。


      


無碍に断って社長を怒らせたら、シェア落とされちゃうかも・・・とは言え、300万円を超える新車なんか到底買えない金欠社員の私。

絶体絶命のナベちゃん、どうする?


 

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意固地

先日エネゴリ君の店に行ったら、それまでいた女性アルバイトさんの姿が見えません。

「あれ、彼女どうしたの? 今日はお休み?」

と聞いたら、彼の言うには

「いえ、先週辞めたんですョ。 彼女、昼は別の仕事して掛け持ちだったんですョ。 

でも体調崩しちゃって、親に夜のバイト辞めろって言われて・・・。」


「んなこと言って、実はお前さんがイジメたからじゃないの?」

「違いますョ~。 でも渡辺さん、喜んでください。 新しいバイトが見つかったんです。」

「何だか妙に嬉しそうじゃない。」

「えぇ、今度の子は男性なんですれど、〇〇大学に通っていてボクより頭いいんですョ。」

私はその大学名は初耳なんですが、まぁそれはそれとして・・・。

「で、何? 頭がいいから喜んでるの?」


「いえ、違います。 その子が面白いんですョ~。」

「おぉ~、キミが面白いって言うんだから、かなり期待できるナ~。」

「そうでしょ! 彼に会えば、渡辺さんならきっと何か感じるはず。」

「オレは霊能師じゃないっての。 

でもまぁ、会うのを楽しみにしてるワ。」

・・・ということで、彼との初対面が叶ったら皆さんにどれくらい面白い若者なのかレポートする予定です。

もし1,2ヶ月経って報告がなければ、予想よりつまらなかったと思ってください。
あせあせ


          


そんな会話が一段落してから、私は食事をオーダー。


この日は、珍しく酸っぱいものが食べたくて、ピクルスの盛り合わせをチョイスしました。

で、出てきたいろいろな野菜のピクルスを一つずつ口に運んでいたら、何やら見慣れない食材が・・・。


          

コロッと丸くて小さなものを口にして、彼に尋ねました。

「この小さいのは・・・もしかして、タマネギ?」


「いえ、ペコロスっていうんです。」

「えっ、ピクルスじゃなくて、ペコルス?」

「ペ・コ・ロ・ス。 ロサンゼルスの〝ロ〟ですョ。」

「そこまで言わんでも分かるって。 でも食感はタマネギだけどなァ。」

「違いますょ。 小タマネギです。」

「じゃあタマネギじゃん。」

「いえ、〝小〟がつくから違います!」

と、ムキになって否定するエネゴリ君。

「キミ、もしかして先月の〝チョロキア〟の件、根に持ってないか?」



「そんなことないっスょ。 ウッホッホ~!」

・・・い~や、絶対根に持ってる!うー


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国際人

明治維新の時代には様々な人材が登場し活躍しましたが、その中でも特に異色の経歴を持っていたのが

 榎本 武揚


今日は、この明治政府きっての国際人と言える傑物の命日・没後110周年にあたります。


       


 武揚は1836(天保7)年、伊能忠敬の元弟子で将軍・家斉のお気に入りだった幕臣・榎本武規の次男として、現在の東京・台東区浅草橋に生まれました。


14歳で昌平坂学問所に入学しましたが、その2年後に卒業した時の成績は最低の〝丙〟だったとか。

その後函館奉行・堀利煕について蝦夷・箱館(現・函館)に赴き、樺太巡視にも随行。


翌年に長崎海軍伝習所の聴講生となり、1857年に第2期生として(友人の伝手で裏口)入学。


しかし講師だったカッテンディーケからは、高く評価されました。

翌年卒業すると江戸・築地軍艦操練所の教授となり、ジョン万次郎から英語を学びます。

そして1862年6月、武揚は南北戦争勃発によって中止となったアメリカ留学の代わりに、内田正雄・赤松則良らと共にオランダへ留学。


当時同国の海軍大臣に就任していたカッテンディーケの世話になり、船舶運用術・砲術・国際法などを習得。


        
               オランダ留学中の武揚


フランス・イギリスを視察旅行した後、幕府がオランダに発注していた開陽丸に乗って南米大陸を経由し、1867年3月に横浜港に帰着しました。

その2ヶ月後に幕府の軍艦役・開陽丸の艦長に任命され、同年にはオランダ留学仲間だった林研海の妹・たつと結婚。


翌1868年1月初めに敵対していた薩摩藩の平運丸や春日丸を砲撃した彼は、鳥羽・伏見の戦いが始まると大阪城に入城。

しかし肝心の大将・徳川慶喜が自分が乗っていない開陽丸に乗ってとっとと江戸に逃げ帰ったため、大阪城の武器や18万両の大金を別の富士山丸に積み込み、新撰組や旧幕府軍の負傷兵らと共に江戸に戻ると、1月23日には海軍副総裁を拝命。

武揚は徹底抗戦を主張するも、恭順の意を示す慶喜は聞き入れず。

そして同年4月、新政府軍は江戸開城に伴い旧幕府艦隊の引き渡しを要求。


武揚は4隻を明け渡したものの、開陽丸等の主力艦を温存。


8月に徳川家の駿府移封が完了すると、彼は開陽丸・咸臨丸など8隻の軍艦に2,000名余りの旧幕府軍を乗せて江戸を脱出。


途中房総沖で暴風雨に見舞われ咸臨丸・美賀保丸の2隻を失うも北上を続け、仙台を経由して箱館へ。

同年10月に五稜郭を占領し、12月には蝦夷地平定を宣言。

しかし翌年5月に新政府軍の猛攻撃に晒され、18日に降伏。
彼は幹部と共に東京に護送・投獄されました。

通常なら処刑は免れないところですが、敵として相対した黒田清隆がその力量を惜しんで助命を嘆願。

そのおかげで彼は1872年に特赦により出獄、3月には無罪放免に。

そして同年8月、黒田が次官を務めていた北海道開拓使に任官され、同地に赴き各地の資源調査を行って炭田の発見などで功績を残しました。

1874年にはロシアとの領土交渉のため駐露特命全権公使に、併せて日本初の海軍中将に任命されると、同年6月サンクトペテルブノグに着任。

翌年5月に樺太・千島交換条約を締結、翌月には両国の間で争いとなっていたマリア・ルス号事件の訴訟に勝訴。


その後西欧を視察しシベリアを横断して帰国した彼は、外務大輔・海軍卿を務めた後、いったん予備役に退いたものの1882年8月には駐清特命全権公使となって北京へ赴任。

伊藤博文を支えて1884年の天津条約締結に尽力し、帰国後の1885年には第一次伊藤博文内閣の逓信大臣に任命され、1889年の大日本帝国憲法発布式では儀典掛長を務めます。

更に文部大臣・外務大臣・農商務大臣を歴任。


その間にメキシコに殖民団を送ったり東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科や東京地学協会・電気学会など数多くの団体を創設。

これだけの実績がありながら総理大臣の椅子に皺れなかったのは、やはり賊軍出身だったからなのでしょうか?


       

      『人生を二度生きる 小説 榎本武揚』 (童門冬二・著 祥伝社文庫)

その彼が腎臓病により73歳でこの世を去ったのは、1908(明治41)年10月26日のことでした。


明治天皇からも信頼されたという武揚ですが、意外と他の明治政府の要人に比べ評価されていないのが不思議です。

誰よりも日本中、いや世界中を飛び回った国際人にスポットが当たることを願いつつ、あらためて冥福を祈りたいと思います。


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哲学者

〝陸上競技の華〟・・・いや〝オリンピックの華〟といわれるマラソン。


日本でも過去何人ものメダリストを輩出した人気種目ですが、昭和オヤジの私にとって最も印象に残るランナーといえば、


 アベベ・ビキラ 選手

   Abebe Bikila


今日は、マラソン競技で史上初のオリンピック連覇を果たした、このエチオピアの誇る英雄の命日・没後45周年にあたります。

       


1932年生まれのアベベは、家が貧しい小作農だったため小学校に通ったのは僅か1年だけで、その後は家業を手伝っていたとか。


19歳の時に、ハイレ・セラシエ皇帝の親衛隊に入隊。


その訓練の一環としてスポーツが取り入れられており、そこで初めて彼の優れた走力が注目されました。


スウェーデン人コーチ・ニスカネンの指導により頭角を現したアベベ選手でしたが、1960年のローマ五輪には選考会2位の成績で出場資格を得たものの、当時は全くの無名選手。


ところが本番では強豪選手を抑え、殆ど独走状態で優勝。

しかも靴を履かず裸足だったことに、世界中が驚きました。


       


(実はこれ、大会前に履き慣れていたシューズが壊れ、ローマで探したもののフィットするシューズが見つからなかったから・・・今では信じられない話です。)


一躍エチオピアの英雄となったアベベ選手は、皇帝から勲章を授与され、親衛隊でも兵長に昇進。


       


また彼の優勝をキッカケに、陸上界では以後長距離選手の高地トレーニングが主流となります。


そして4年後の東京五輪。


実は彼、この大会6週間前に盲腸の手術を受けていたそうで、関係者からは優勝するのは無理と思われていたのだとか。


にもかかわらず、蓋を開けてみれば前半20km付近から独走。


以前ご紹介した映画 『東京オリンピック』 のマラソン競技では、カメラ1台のみでの撮影を余儀なくされたため、殆ど彼の独演状態・・・あたかも哲学者の如き無表情な走りを続け、2時間12分11秒の世界最高記録(当時)で連覇を達成。


 


ゴール後も体操をする余裕ぶりで、同メダルを獲得した円谷選手が半ば夢遊病患者のようにゴールしたのとは実に対照的でした。


 


しかし連覇を果たしたアベベ選手は、以後次々と不幸に見舞われることに。


前人未到のオレンピック3連覇を期待されたメキシコ五輪は、36歳という年齢もあってかレース前半で途中棄権。


さらにその半年後には自動車事故に遭い、第七頸椎脱臼により下半身不随に。 (この事故には、彼を妬む者による陰謀説あり。)


公の場で車椅子に乗って現れた彼の姿には、少なからず衝撃を受けたものです。


       


その後身体障害者のスポーツ大会に参加したりしたものの、1973年10月25日・・・脳内出血により、41歳の若さでこの世を去ってしまいました。


東京五輪で国家と国民の期待を一身に背負って疾走したアベベ選手と円谷選手が共に若くして最期を迎えたことに、何とも言えぬやり切れなさを感じるのは、私だけでしょうか?


マラソン出場回数通算16回、うち優勝12回・2位1回という、不世出の名ランナーのご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3


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和 算

〝数学〟と聞いただけで、学生時代を思い出して顔をしかめる方もいらっしゃるでしょうネ。


微分・積分、サイン・コサイン・タンジェント・・・もう何の意味だか、私には今やサッパリ分かりません。


おそらく多くの方にとって最も苦手意識が強い学科だったであろう、この数学・・・実は日本人のレベルは大変に高いのだそうです。


「美的感受性に優れた日本人は数学向き」 という数学者もいらっしゃいますし、あの有名な 『フェルマーの最終定理』 の証明においては〝谷村・志村予想〟が多大な貢献をしましたから・・・。


今日は、江戸時代前期に中国の代数(天元術)を改良して筆算による計算法 『点竄術(てんざんじゅつ)』 を確立し、日本が世界に誇る数学 『和算』 の発展に大きく寄与した


 関 孝和


の命日・没後310周年にあたります。


       


しかし日本数学の草分けといえる彼の出生については、生地・年号も含め不明であり、数学の業績以外のプライベートに関しては謎の多い人物。


早くして関家の養子となり、吉田光由の 『塵劫記』 を独学で学んだ彼は、甲斐国甲府藩の徳川綱重・綱豊(後の6代将軍・家宣)に勘定吟味役として仕え、家宣が将軍になると直参として江戸詰めになる傍ら、数学研究に費やしました。

1683年に 『解状題之法』 を利用した行列式理論を発見すると、連立二元一次方程式の解を求める公式を、更にそれを四次・五次の行列式にまで広げたとのこと。

これはライプニッツ (1646-1716) の発見より10年も早い、実質的には世界初の発見と言っても過言ではないものだそうな。


その行列式が何たるかは私にはよく分かりませんが、有名なのは暦の作成上必要だったため取り組んだ〝円周率〟の計算。

彼は正131,072角形を使い、円周率を [3.14159265359微弱]と小数第11位まで計算したそうで、当時の数学レベルとしては世界でもトップクラスだったそうです。


         

      ※ 『括要算法』(↑) は、孝和の没後に弟子たちが刊行したもの


数々の功績をあげた彼は、1708(宝永5)年10月24日に病死しましたが、荒木村英や建部賢弘らの弟子たちが更に関流を発展させ、和算界の絶対的な勢力となりました。


と、ここで数学にまつわるエピソードをひとつご紹介しましょう。

数学界に於いて最も権威ある賞といえば、過去に広中平祐氏をはじめ3人の日本人が受賞したフィールズ賞ですが、なぜか(まもなく表彰式が行われる)ノーベル賞には科学の基礎と言える数学が含まれていません。


実は、それには理由が・・・。


ノーベル本人が恋した相手がソフィア・コワレフスカヤというロシア人の女性数学者で、その恋敵がミッタク・レフラーという、これまた優れた数学者でした。


    

         Alfred  Nobel                Sofia Kovalevskaya


レフラーはストックホルム大学の学長を務め、ソフィアを大学に招聘しロシア人初の大学教授にした人物。

「そんなヤツにノーベル賞を渡すわけにはいかない!」

と、嫉妬に燃えるノーベルが数学賞を創設しなかった・・・という説があるんですって。


彼も、人の子・・・というか、1人の男性だったんですかねェ。あせあせ


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対 立

明治維新以降、日本は一致団結して富国強兵に邁進した・・・と言いたいところですが、実際には明治政府内で様々な権力闘争がありました。

その中でも最も大きい対立と言えるのが、今から145年前の今日起きた


 明治六年政変

と呼ばれる、政府首脳である参議の半分と軍人・官僚約600人が一斉に辞職するという一大事件でした。

この政変が起きた原因・・・それは、〝征韓論〟にありました。


当時李氏朝鮮の政権を掌握した興宣大院君が攘夷を国是とし、「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん」 と、日本との断交を目論んでいました。

この強硬姿勢を知った明治政府内には、日本人の安全を確保するため派兵し武力を以て開国させんという主張が。

その征韓論の推進派だったのが、西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎らでした。


       

※教科書等では西郷がその旗振り役として記述されていますが、実際に派兵を主張したのは板垣退助であり、西郷は決して武闘派ではなく、まずは彼自身が話し合いをするため使節として朝鮮に渡ろうとした、という説があります。

そしてこの征韓論が政府を2分する対立になったのは、たまたまこの征韓論反対派だった岩倉具視・大久保利通・伊藤博文・木戸孝允らが、各国の親善と不平等条約是正の地ならしを目的とした〝岩倉使節団〟のメンバーとして1871年12月~73年9月まで欧米を巡っており、彼らの留守中に推進派が台頭したこと。


つまり、留守中にやってしまおう・・・という魂胆。


 

 岩倉使節団 左から木戸孝允・山口尚芳・岩倉具視・伊藤博文・大久保利通


しかし大久保利通は、西郷が訪韓すれば殺害され、それを契機として戦争が勃発することを恐れて猛然と反対。

更に〝使節団派遣中に重大な政治決定・改革は行わない〟という盟約があり、明治天皇もそれを基に 「使節団が帰国してから再度上奏するように」 と、一度は決まった西郷派遣案を脚下。


岩倉使節団が帰国して10月14・15日に開かれた閣議において採決したところ、そこで西郷が 「征韓論が通らなければ辞任する」 と言明したことで、大量の薩摩出身官僚・軍人が政府から抜けることを恐れたメンバーは、大久保を除いて派遣に賛成。

しかし怒った大久保が辞表を提出し、岩倉もこれに同調。

両派の板挟みになった三条議長は、過度のストレスで同月17日に倒れて意識不明に。


これによって太政大臣代理に就任した岩倉は、派遣上奏を迫る推進派に、「派遣決定と延期双方の意見を上奏する」と主張。

これを不満とした西郷が辞表を提出し、
1873(明治6)年10月23日、最終的に明治天皇が派遣の無期延期を決定したことで、更に推進派の板垣・後藤らが辞表を提出。


それらの辞表が10月25日に受理されたことで、多くの官僚・軍人が同調したのです。

この政府分裂が、翌年2月の西南戦争へと発展したわけですが、一方
ではかつて江藤新平に失脚させられた山縣有朋・井上馨が公職復帰を果たし、結果的に士族反乱や自由民権運動にも繋がりました。

同政変に関して詳しく知りたい方には、少し古いですがこちらの良書をお勧めします。


 『明治六年政変』 (毛利 敏彦・著 中公新書・刊)


       

※同書は 「西郷は決して征韓論急進派ではなかった」 とする立場で書かれています。


しかしこれで朝鮮との縁が切れたわけではなく、1875年9月に起きた『江華島事件』 を発端として日朝修好条約を締結。

その後、1885年3月に、(福沢諭吉が執筆したと言われる)『脱亜
論』が新聞の社説として掲載されました。

※『脱亜論』に関する過去記事は、こちら。(↓)



この警告に耳を貸さず朝鮮併合等で半島と関わり続けたことが、結果的に現在のこじれた日韓関係に繋がっていると言えましょう。

せっかく征韓論を棚上げしたのに、なぜ半島と関わり続けたのか?


その時代の国際情勢や背景があったにせよ、明治時代に関わらなければ・・・と、悔やまれてなりません。


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