S・スピルバーグ氏がメガホンを取った映画 『シンドラーのリスト』 に因み〝東洋のシンドラー〟と呼ばれる人物といえば、
ち う ね
杉原 千畝 氏
今日は第二次大戦中に多くのユダヤ人の命を救った、この元外交官の命日・三十三回忌にあたります。
杉原氏は、1900年元旦という、実にキリのいい日に岐阜県賀茂郡で生まれました。
税務署職員だった父は、幼少から頭脳明晰・成績優秀だった息子を医者にしようと、自ら京城医学専門学校の受験手続をします。
しかし英語に関わる仕事をしたかった本人は受験会場には行ったものの答案を白紙で提出。
母親が作ってくれた弁当を食べて素知らぬ顔で帰宅したそうですから、反骨精神は生来持ち合わせていたのでしょう。
しかしそれを知った父親は大激怒。
結局一浪して早稲田大学高等師範部・英語学科に入学したものの、仕送りを止められたため、アルバイトで学費・生活費を稼がねばなりませんでした。
そんな苦しい生活が続く大学2年生の時、図書館で外務省の官費留学生の募集広告を見たことが、彼の人生を大きく変えることに。
「アルバイトしなくても勉強できる」 と一念発起した彼は、受験まで僅か1ヶ月しかなかったものの、猛勉強の末に見事合格。
1919年、外務省のロシア語留学生としてハルピンに渡った杉原氏は、4ヶ月後には日常会話ができる程に上達したといいます。
(※杉原氏の語学力は相当なものだったようで、ロシア語は殆どネイティブ、その他英語・フランス語・ドイツ語にも堪能だったとか。)
そして1924年に外務省書記生として採用され、ハルピンの日本領事館ロシア係に。 (この年、白系ロシア人クラウディアと結婚。)
1932年に満州外交部に派遣され満鉄の譲渡交渉などで歴史的な成果を残しますが、この時に日本軍人の横暴を目にし、軍部に対する不信感を強めたようです。
1935年に免官を願い出て一旦帰国した杉原氏は、同年末にクラウディアと離婚後、翌年に幸子さんと再婚すると、1939年にリトアニアの首都カウナスの日本領事館に領事代理として赴任。
ここで後世に語り継がれる、ビザ発給を行うことに。
カナウスの位置
彼が赴任したのは、ちょうどナチス・ドイツによるユダヤ人迫害が激しくなった時期でした。
彼らユダヤ人の難民をどう扱うか、各国は対応に苦慮。
日本外務省の方針は、(ユダヤ人に限らず)避難先の入国許可がなく、かつ必要な旅費を所持していない外国人に対して日本への入国ビザは発行しない・・・というもの。
1940年7月中旬までに、その条件を満たしたユダヤ人には既にビザを発行していた杉原氏でしたが・・・7月18日早朝、領事館に大挙押しかけたユダヤ人ら難民を見て、外務省の指令を無視し独断でビザを発行することを決意。
各国の大使館が閉鎖されていく中、彼自身が本省からの異動命令でカウナスを去るまでの約1ヶ月間、延べ2,000通以上の〝命のビザ〟を発行したのです。
更にはカナウス大使館閉鎖後の新任地・プラハに赴任してからも発給を続けたとか。
当時は一家に1枚のピザで事足りたため、彼によって救われたユダヤ人は6~8,000人とも推測されています。
しかし人道的見地から独断でビザを発給した彼を、外務省は許しませんでした。
その後ドイツ・チェコ等の領事館に勤務し、収容所生活を経て1947年4月にようやく帰国した杉原一家を待っていたのは、突然の〝退官通告書〟でした。
結局彼は47歳で外務省を去り、その後民間企業などを転々。
三男を病気で失う等の不幸もあり、決して恵まれた後半生ではなかったようです。
貿易会社のモスクワ事務所長として再度ロシアに渡った彼が日本に戻ってきたのは、75歳になってから。
そして1986年7月31日、86歳でひっそりとこの世を去りました。
多くの同胞を救った恩人に対し、イスラエル政府は彼の亡くなる前年の1985年に〝ヤド・バシェム賞〟を授与し杉原氏の功績を称えました。
しかし日本の外務省は長らく彼の存在すら認めようとせず、正式に名誉回復を認めたのは彼の生誕100周年にあたる2000年になってからのこと。
日米開戦の際に宣戦布告を遅らせてしまった外交官は出世させたのに、杉原氏の存在すら認めようとしなかった外務省のダブスタ・いい加減さが腹立たしく思うのは、私だけではないでしょう。
その杉原氏について詳しく知りたい方には、この書籍のご一読をお勧めします。
『杉原千畝 情報に賭けた外交官』
(白石 仁章・著 新潮文庫・刊)
同書では、命のビザを発給しただけでなく、類稀なるインテリジェント・オフィサーであった彼の実像を、浮き彫りにしています。
今宵は久しぶりに同書を読み返しつつ、情け深き外交官の冥福を祈りたいと存じます。
かつて豊臣秀吉が墨俣城を一夜にして築いた・・・という逸話がありますが、その真偽のほどは分かりません。
しかし近代に於いて、我が国にはそれに匹敵する、いやそれ以上といえる転換事業が一夜というか一瞬にして行われたことがありました。
それは、今からちょうど40年前の今日・・・沖縄県における自動車の対面交通を右側通行から左側通行に変更したこと。
地元では、この混乱をできるだけ抑制しようと、事前に
730(ナナサンマル)運動
と呼ばれるキャンペーンが行われていました。
キャンペーンのシンボルマーク
戦前の沖縄は本土と同じく左側通行でしたが、沖縄戦でアメリカが占領したことで1945年11月から右側通行に変更。
これは1972年の本土復帰後も続きましたが、国際的な道路交通に関する条約の〝一国一交通制度〟を遵守するため、1975年以降に左側通行への切り替えを実施することに。
ただ海洋博の開催などを優先したため時期はズレ込み、最終的に1975年6月の閣議で、1978年7月30日を以って県内全域を左側通行に戻すことを決定。
沖縄県は、当時人気ボクサーだった具志堅用高選手をCMに起用したり、美人モデルにシンボルマークを染め抜いたタンクトップを着せたポスターを作製するなどして、懸命に県民にアピール。
個人的には、このポスターは相当効果的だったと思いますネ。
もちろん交通標識などは一晩で交換できるわけはなく、信号や標識・車線レーンのペイントなどは事前に設置してそれをカバーで覆うなどの準備作業が19億円もの費用を投下して行われました。
そして前日の7月29日午後10時から緊急車両を除く全ての自動車を通行止めにして、翌30日午前6時までの僅か8時間で標識のカバーを取り外すなどして切り替え準備を完了。
そしてどうやって左右を切り替えたか・・・は、私がご説明するより、こちらの映像を見ていただいた方がよく分かると思います。
お急ぎの方は、23分過ぎからご覧ください。(↓)
しかしいくら準備万態整えたとは言え、肝心の県民はそう簡単に切り替えられるわけはなし。
私自身、以前渡米した際に現地で運転しましたが、つい左右を間違えそうになってビビッた経験がありますから、当時の県民の混乱ぶりは想像に難くありません。
警視庁はじめ全国から警察官3,000人が沖縄県入りし、沖縄県警1,400人と共に約1ヶ月間交通整理を行いましたが、ドライバーが不慣れのため各地で大渋滞が起き、交通事故も頻発。
プロのドライバーが運転する路線バスが崖下に転落したこともあったとか。
その路線バスが、一番の問題でした。
というのは、自家用車は左右どちらのハンドルでも運転できましたが、路線バスはそれまでの左ハンドル・右ドアでは路線変更に対応できず、右ハンドル・左ドア車に交換しなければなりませんでした。
とはいえ、一斉に車両入替するのはバス会社にとって無理な相談。
ということで、経営者らが県知事や国に陳情し、約155億円以上の国庫補助金や財政投融資を引き出し、当時県内を走るバス1,295台のうち1,019台を右ハンドルの新車、3台を中古で購入し、167台を右ハンドルに改造したそうな。
してみると、この交通ルール転換で一番ほくそ笑んだのは自動車メーカーだったのかもしれません。
バス自体の交換はスムーズに行きましたが、お客さんがいつものバス停でやってきたスに乗ったら、反対方向に行ってしまった・・・なんて笑うに笑えない話もあったそうです。
一夜(一日)にして、こういう大規模なルール変更をキッチリ遂行するところが、いかにも真面目かつ几帳面な日本人らしい・・・と私には思えるのですが、実際にこの日を経験した沖縄の中高年の方々にとって、これは良き思い出なのでしょうか?
それとも・・・。
今日は、私たち日本人にとって実に忌まわしい出来事に関して、皆さんにお伝えしたいと思います。
それは、今から81年前の今日起きた
通州事件
について。
1937(昭和12)年7月7日、演習中だった日本軍に対し中国が実弾を撃ち込む 『盧溝橋事件』 が勃発し、これが支那事変の端緒となりました。
世情が不安定になったため、在留邦人は比較的安全と言われていた通州城内に流れ込み、旅館は満杯に。
〝通州〟とは、現在の北京市の東約30kmに位置する通州区北部の中心都市で、当時は日本に留学経験があり日本女性と結婚していた親日派(と目されていた)・殷汝耕が南京政府から離脱して(日本主導で)設立した冀東(きとう)防共自治政府が統治していた場所。
盧溝橋と通州区の位置関係
ゆえに自治政府の保安隊は日本軍によって訓練されており、日本側としては治安面においてさしたる不安を抱かず主力部隊を他の前線に送り出したため、事件直前の通州には小隊40名・自動車部隊50名ら合計120名の留守部隊のみが駐留。
その状況下で同年7月29日未明、自治政府保安隊及び国民革命軍ら約3,300名の支那人が蜂起。
城門を閉め電線・電話線を遮断した上で日本軍の留守部隊及び在留邦人を襲撃したのです。
この裏切り攻撃によって日本の留守部隊は全滅。
支那兵は日本人居住区を1軒ずつしらみつぶしに襲い、在留日本人385名のうち223名を虐殺。
その殺害方法は、まさに凄惨の一言。
子供を逆さまに持ち上げて地面に頭を叩きつけ、女性は皆凌辱され中には陰部を銃剣で抉られたり、鼻には針金を通されて牛のように引っ張られた跡が。
また男性の死体は殆どが首に縄をつけて引き回した跡があり、中には腹を裂かれて内臓を切り刻まれた者も。
※事件現場の写真は何枚も現存していますが、あまりに凄惨なため拙ブログでは掲載を控えました。
『通州事件』で検索して画像をご覧いただければ、支那人がいかに残虐非道の限りを尽くしたのかがお分かりいただけます。
また当該事件に関して詳しく知りたい方には、写真や証言を集めて昨年出版された
のご一読をお勧めします。
表紙に選ばれた、結婚式を挙げてまだ半年余りだった石井亨さんと妊娠中の若妻が、またその日城内にいた邦人たちがどんな目に遭ったのか・・・涙と怒りなくしては読めません。
支那人の残虐性は日本人の想像を絶しますし、決して許容できない民族性を有していることがよく分かります。
そしてそれが変わっていないことは、彼らが現在ウィグルやチベットで行っている弾圧・民族浄化の実態を見れば明らか。
当時現地にいたアメリカ人記者をして、
「日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女・子供らの虐殺は、古代から現代までを見渡しても最悪の集団虐殺として歴史に残るだろう」
と言わしめ、また極東軍事裁判では(一部ではあるものの)目撃証言が受理されているこの凄惨な事件に関し、学校で習ったという方はおそらく殆どいらっしゃらないでしょう。
それもそのはず、現在通州事件に関して記述している教科書は、自由社が刊行している 『新版 新しい歴史教科書』(中学生用) ただ一冊のみ。
私を含めた中高年世代が学生だった頃には、どの教科書にも記載されていませんでしたから。
日本人が虐殺された事件を封印し、有りもしない慰安婦問題や南京事件で謝罪する日本政府のヘタレぶりには呆れるばかりですが、その自虐外交にも少しずつ違う流れが・・・。
殆どのメディアは黙殺しましたが、昨年この通州事件に関して有志がユネスコ記憶遺産に登録申請したのです。
残念ながらこの申請は除外されてしまいましたが、この凄惨な事件を世界に知らしめるためにも、まずは私たち日本人がこの史実を知り後世に語り継がねばなりません。
犠牲となった日本人の無念を晴らすためにも・・・。