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独 断

S・スピルバーグ氏がメガホンを取った映画 『シンドラーのリスト』 に因み〝東洋のシンドラー〟と呼ばれる人物といえば、


        ち う ね

 杉原 千畝 


今日は第二次大戦中に多くのユダヤ人の命を救った、この元外交官の命日・三十三回忌にあたります。


       


杉原氏は、1900年元旦という、実にキリのいい日に岐阜県賀茂郡で生まれました。


税務署職員だった父は、幼少から頭脳明晰・成績優秀だった息子を医者にしようと、自ら京城医学専門学校の受験手続をします。

しかし英語に関わる仕事をしたかった本人は受験会場には行ったものの答案を白紙で提出。

母親が作ってくれた弁当を食べて素知らぬ顔で帰宅したそうですから、反骨精神は生来持ち合わせていたのでしょう。

しかしそれを知った父親は大激怒。


結局一浪して早稲田大学高等師範部・英語学科に入学したものの、仕送りを止められたため、アルバイトで学費・生活費を稼がねばなりませんでした。


そんな苦しい生活が続く大学2年生の時、図書館で外務省の官費留学生の募集広告を見たことが、彼の人生を大きく変えることに。


「アルバイトしなくても勉強できる」 と一念発起した彼は、受験まで僅か1ヶ月しかなかったものの、猛勉強の末に見事合格。


1919年、外務省のロシア語留学生としてハルピンに渡った杉原氏は、4ヶ月後には日常会話ができる程に上達したといいます。


(※杉原氏の語学力は相当なものだったようで、ロシア語は殆どネイティブ、その他英語・フランス語・ドイツ語にも堪能だったとか。)


そして1924年に外務省書記生として採用され、ハルピンの日本領事館ロシア係に。 (この年、白系ロシア人クラウディアと結婚。)


1932年に満州外交部に派遣され満鉄の譲渡交渉などで歴史的な成果を残しますが、この時に日本軍人の横暴を目にし、軍部に対する不信感を強めたようです。


1935年に免官を願い出て一旦帰国した杉原氏は、同年末にクラウディアと離婚後、翌年に幸子さんと再婚すると、1939年にリトアニアの首都カウナスの日本領事館に領事代理として赴任。 


ここで後世に語り継がれる、ビザ発給を行うことに。


 

                  カナウスの位置


 彼が赴任したのは、ちょうどナチス・ドイツによるユダヤ人迫害が激しくなった時期でした。


彼らユダヤ人の難民をどう扱うか、各国は対応に苦慮。 


日本外務省の方針は、(ユダヤ人に限らず)避難先の入国許可がなく、かつ必要な旅費を所持していない外国人に対して日本への入国ビザは発行しない・・・というもの。


1940年7月中旬までに、その条件を満たしたユダヤ人には既にビザを発行していた杉原氏でしたが・・・7月18日早朝、領事館に大挙押しかけたユダヤ人ら難民を見て、外務省の指令を無視し独断でビザを発行することを決意。


各国の大使館が閉鎖されていく中、彼自身が本省からの異動命令でカウナスを去るまでの約1ヶ月間、延べ2,000通以上の〝命のビザ〟を発行したのです。

更にはカナウス大使館閉鎖後の新任地・プラハに赴任してからも発給を続けたとか。


当時は一家に1枚のピザで事足りたため、彼によって救われたユダヤ人は6~8,000人とも推測されています。


しかし人道的見地から独断でビザを発給した彼を、外務省は許しませんでした。


その後ドイツ・チェコ等の領事館に勤務し、収容所生活を経て1947年4月にようやく帰国した杉原一家を待っていたのは、突然の〝退官通告書〟でした。


結局彼は47歳で外務省を去り、その後民間企業などを転々。


三男を病気で失う等の不幸もあり、決して恵まれた後半生ではなかったようです。


貿易会社のモスクワ事務所長として再度ロシアに渡った彼が日本に戻ってきたのは、75歳になってから。


そして1986年7月31日、86歳でひっそりとこの世を去りました。


多くの同胞を救った恩人に対し、イスラエル政府は彼の亡くなる前年の1985年に〝ヤド・バシェム賞〟を授与し杉原氏の功績を称えました。

しかし日本の外務省は長らく彼の存在すら認めようとせず、正式に名誉回復を認めたのは彼の生誕100周年にあたる2000年になってからのこと。


日米開戦の際に宣戦布告を遅らせてしまった外交官は出世させたのに、杉原氏の存在すら認めようとしなかった外務省のダブスタ・いい加減さが腹立たしく思うのは、私だけではないでしょう。

その杉原氏について詳しく知りたい方には、この書籍のご一読をお勧めします。


  『杉原千畝 情報に賭けた外交官  

                (白石 仁章・著 新潮文庫・刊)


 


        

同書では、命のビザを発給しただけでなく、類稀なるインテリジェント・オフィサーであった彼の実像を、浮き彫りにしています。


今宵は久しぶりに同書を読み返しつつ、情け深き外交官の冥福を祈りたいと存じます。笑3


 


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ナナサンマル

かつて豊臣秀吉が墨俣城を一夜にして築いた・・・という逸話がありますが、その真偽のほどは分かりません。

しかし近代に於いて、我が国にはそれに匹敵する、いやそれ以上といえる転換事業が一夜というか一瞬にして行われたことがありました。

それは、今からちょうど40年前の今日・・・沖縄県における自動車の対面交通を右側通行から左側通行に変更したこと。

地元では、この混乱をできるだけ抑制しようと、事前に

 730(ナナサンマル)運動

と呼ばれるキャンペーンが行われていました。

        

             キャンペーンのシンボルマーク


戦前の沖縄は本土と同じく左側通行でしたが、沖縄戦でアメリカが占領したことで1945年11月から右側通行に変更。


これは1972年の本土復帰後も続きましたが、国際的な道路交通に関する条約の〝一国一交通制度〟を遵守するため、1975年以降に左側通行への切り替えを実施することに。

ただ海洋博の開催などを優先したため時期はズレ込み、最終的に1975年6月の閣議で、1978年7月30日を以って県内全域を左側通行に戻すことを決定。

沖縄県は、当時人気ボクサーだった具志堅用高選手をCMに起用したり、美人モデルにシンボルマークを染め抜いたタンクトップを着せたポスターを作製するなどして、懸命に県民にアピール。


        


個人的には、このポスターは相当効果的だったと思いますネ。あせあせ


もちろん交通標識などは一晩で交換できるわけはなく、信号や標識・車線レーンのペイントなどは事前に設置してそれをカバーで覆うなどの準備作業が19億円もの費用を投下して行われました。

そして前日の7月29日午後10時から緊急車両を除く全ての自動車を通行止めにして、翌30日午前6時までの僅か8時間で標識のカバーを取り外すなどして切り替え準備を完了。

そしてどうやって左右を切り替えたか・・・は、私がご説明するより、こちらの映像を見ていただいた方がよく分かると思います。

お急ぎの方は、23分過ぎからご覧ください。(↓)




しかしいくら準備万態整えたとは言え、肝心の県民はそう簡単に切り替えられるわけはなし。

私自身、以前渡米した際に現地で運転しましたが、つい左右を間違えそうになってビビッた経験がありますから、当時の県民の混乱ぶりは想像に難くありません。

警視庁はじめ全国から警察官3,000人が沖縄県入りし、沖縄県警1,400人と共に約1ヶ月間交通整理を行いましたが、ドライバーが不慣れのため各地で大渋滞が起き、交通事故も頻発。

プロのドライバーが運転する路線バスが崖下に転落したこともあったとか。

その路線バスが、一番の問題でした。

というのは、自家用車は左右どちらのハンドルでも運転できましたが、路線バスはそれまでの左ハンドル・右ドアでは路線変更に対応できず、右ハンドル・左ドア車に交換しなければなりませんでした。

とはいえ、一斉に車両入替するのはバス会社にとって無理な相談。

ということで、経営者らが県知事や国に陳情し、約155億円以上の国庫補助金や財政投融資を引き出し、当時県内を走るバス1,295台のうち1,019台を右ハンドルの新車、3台を中古で購入し、167台を右ハンドルに改造したそうな。

してみると、この交通ルール転換で一番ほくそ笑んだのは自動車メーカーだったのかもしれません。

バス自体の交換はスムーズに行きましたが、お客さんがいつものバス停でやってきたスに乗ったら、反対方向に行ってしまった・・・なんて笑うに笑えない話もあったそうです。あせあせ


 



         変更前                     変更後


一夜(一日)にして、こういう大規模なルール変更をキッチリ遂行するところが、いかにも真面目かつ几帳面な日本人らしい・・・と私には思えるのですが、実際にこの日を経験した沖縄の中高年の方々にとって、これは良き思い出なのでしょうか?

それとも・・・。


 


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【拡散希望】 凄 惨

今日は、私たち日本人にとって実に忌まわしい出来事に関して、皆さんにお伝えしたいと思います。

それは、今から81年前の今日起きた

 通州事件

について。 

1937(昭和12)年7月7日、演習中だった日本軍に対し中国が実弾を撃ち込む 『盧溝橋事件』 が勃発し、これが支那事変の端緒となりました。


世情が不安定になったため、在留邦人は比較的安全と言われていた通州城内に流れ込み、旅館は満杯に。

〝通州〟とは、現在の北京市の東約30kmに位置する通州区北部の中心都市で、当時は日本に留学経験があり日本女性と結婚していた親日派(と目されていた)・殷汝耕が南京政府から離脱して(日本主導で)設立した冀東(きとう)防共自治政府が統治していた場所。


      

               盧溝橋と通州区の位置関係


ゆえに自治政府の保安隊は日本軍によって訓練されており、日本側としては治安面においてさしたる不安を抱かず主力部隊を他の前線に送り出したため、事件直前の通州には小隊40名・自動車部隊50名ら合計120名の留守部隊のみが駐留。

その状況下で同年7月29日未明、自治政府保安隊及び国民革命軍ら約3,300名の支那人が蜂起。


城門を閉め電線・電話線を遮断した上で日本軍の留守部隊及び在留邦人を襲撃したのです。

この裏切り攻撃によって日本の留守部隊は全滅。

支那兵は日本人居住区を1軒ずつしらみつぶしに襲い、在留日本人385名のうち223名を虐殺。


   

その殺害方法は、まさに凄惨の一言。

子供を逆さまに持ち上げて地面に頭を叩きつけ、女性は皆凌辱され中には陰部を銃剣で抉られたり、鼻には針金を通されて牛のように引っ張られた跡が。

また男性の死体は殆どが首に縄をつけて引き回した跡があり、中には腹を裂かれて内臓を切り刻まれた者も。

※事件現場の写真は何枚も現存していますが、あまりに凄惨なため拙ブログでは掲載を控えました。  

『通州事件』で検索して画像をご覧いただければ、支那人がいかに残虐非道の限りを尽くしたのかがお分かりいただけます。


また当該事件に関して詳しく知りたい方には、写真や証言を集めて昨年出版された


  『慟哭の通州  昭和十二年夏の虐殺事件
                    (加藤康男・著 飛鳥出版・刊)

       


のご一読をお勧めします。 

表紙に選ばれた、結婚式を挙げてまだ半年余りだった石井亨さんと妊娠中の若妻が、またその日城内にいた邦人たちがどんな目に遭ったのか・・・涙と怒りなくしては読めません。

支那人の残虐性は日本人の想像を絶しますし、決して許容できない民族性を有していることがよく分かります。

そしてそれが変わっていないことは、彼らが現在ウィグルやチベットで行っている弾圧・民族浄化の実態を見れば明らか。

当時現地にいたアメリカ人記者をして、

「日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女・子供らの虐殺は、古代から現代までを見渡しても最悪の集団虐殺として歴史に残るだろう」


と言わしめ、また極東軍事裁判では(一部ではあるものの)目撃証言が受理されているこの凄惨な事件に関し、学校で習ったという方はおそらく殆どいらっしゃらないでしょう。

それもそのはず、現在通州事件に関して記述している教科書は、自由社が刊行している 『新版 新しい歴史教科書』(中学生用) ただ一冊のみ。

私を含めた中高年世代が学生だった頃には、どの教科書にも記載されていませんでしたから。

日本人が虐殺された事件を封印し、有りもしない慰安婦問題や南京事件で謝罪する日本政府のヘタレぶりには呆れるばかりですが、その自虐外交にも少しずつ違う流れが・・・。

殆どのメディアは黙殺しましたが、昨年この通州事件に関して有志がユネスコ記憶遺産に登録申請したのです。

残念ながらこの申請は除外されてしまいましたが、この凄惨な事件を世界に知らしめるためにも、まずは私たち日本人がこの史実を知り後世に語り継がねばなりません。

犠牲となった日本人の無念を晴らすためにも・・・。


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衝撃的

『巨人の星』などいわゆるスポ根マンガばかり観て育った野球少年の私にとって、それは全く違うジャンルの野球漫画でした。

ちょうど私が社会人になった1981年から5年間に渡って『少年サンデー』に連載された、


 『タッチ』

作者・あだち充さんの週刊連載デビューとなったこの作品は、野球漫画というよりは双子の上杉達也・和也と幼馴染のヒロイン・浅倉南の3人の巡る人間関係の描写が何とも微笑ましいラブ・コメディーといった内容。

          


硬派を自認する私も、ついつい毎週駅のスタンドで買っては電車の中で読んでいましたが・・・その衝撃的な出来事は、連載2年目にやってきました。

1982年7月29日、弟・和也が地区予選決勝に向かう途中、子供を助けようとして自動車にはねられ死亡。

そう、今日は16歳でこの世を去った彼の命日・三十七回忌なのです・・・って、架空の人物なんですが。

彼が亡くなった直後から、編集部には抗議の電話が殺到したそうですが、それも当然でしょう。

私もこのストーリー展開には意表を突かれ驚きましたが、実はこれ、サンデーの編集長は知らなかったとか。

(ただし作者自身は連載開始前から和也が亡くなることは決めていたそうですが。)

その前の週の内容から、編集長は

「まさか死ぬんじゃねぇだろうな。 死んだら載せねえからナ。」

と言っていたそうですが、あだちセンセは死んだ原稿を編集長の机に置いて2日間雲隠れ・・・変更できないようにして、強行掲載(?)させたとか。

       

『あしたのジョー』の力石徹や『北斗の拳』のラオウ同様、彼の葬儀も営まれたそうですが、そのファンに及ぼした影響の大きさからすれば、当然のことだったでしょう。

その後、ボクシングをやっていた兄・達也が弟の弔い合戦よろしく野球部に移籍して甲子園を目指し、南は新体操の道へ・・・とストーリーは展開したようですが、私自身は和也が亡くなった後しばらくしてからは、読まなくなりました。

さすがに社会人3年目になってからは、少年漫画誌を電車の中で読むのが恥ずかしくなりまして・・・。あせあせ


しかし単行本全26巻、文庫版・ワイド版等々合わせて、総売り上げが1億部以上というのですから、マンガ史上に輝く名作である事は間違いないでしょう。

時間があれば、是非一度マンガ喫茶にでも足を運んで通しでじっくり読み直してみたいものです。

あなたは、天才型の兄・達也と、控えめながら努力家の弟・和也・・・どちらが好きでしたか?

私は・・・やっぱり、南ちゃんかナ。笑2


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YAWARA

来たる2020年の東京五輪でメダルラッシュが期待される、柔道。

男女共に有望選手が目白押しですが、女子の柔道競技は当然のことながら男子よりかなり遅れてのスタートでした。

そして意外にも当初は日本より海外の方が女子柔道が盛んで、日本選手が勝てない時代が続いていたのだそうな。

これでは柔道の本家としては拙いと思ったのでしょう、我が国で初の女子柔道の公式戦

 第1回全日本女子柔道体重別選手権大会

が講道館で開催されたのが、今からちょうど40年前の今日・1978(昭和53)年7月28日のことでした。

この時50kg以下級で優勝したのが、当時中学2年生だった山口 香(かおり)選手

6歳の時にTVドラマ 『姿三四郎』 を観て柔道に興味を持った彼女は、近所の道場に通い始め、唯一の女性ながら男の子を投げ飛ばしていたといいます。

ところが中学生になって体格差が出てきて男子に勝てなくなった山口さんは、中学を卒業したら柔道を辞めるつもりだったそうな。

そんな時、幸いにもこの大会が開催され、出場したら優勝。


以後(途中階級が52kg以下に変更になったものの)大会10連覇を飾り、〝女三四郎〟の異名を取ることに。

       

           1980年 3連覇を達成した山口選手

ただやっと大会が開催されたとはいえ、当時はまだ女子柔道は世間から奇異の目で見られていたそうな。

記者らから聞かれる質問は、かけた技のことよりも 「柔道着の下に何を着ているのか?」 とか 「男の人と組むとどんな気持ちがするんですか?」 なんて、くだらないものばかり。

また男子の場合は中学を卒業すれば強豪高校・大学の柔道部で活躍できましたが、当時は女子を受け入れる高校・大学はなく、山口選手は仕方なくそれまで通っていた道場で稽古を続けたのです。

そんな恵まれない環境の中でも、彼女は1980年に開催された第1回女子柔道世界選手権から出場し、1984年の第3回大会では見事日本人選手初の金メダルを獲得。

更に1988年のソウル五輪で銅メダルを獲得した彼女は、日本女子柔道界のシンボル・立役者として長年活躍されました。

※1986~1993年までビッグコミックスピリッツに連載された人気コミック 『YAWARA!』 ・・・中高年の方ならご存知でしょう。

同作の主人公・猪熊柔のモデルは、この山口選手なんです。

谷(田村)亮子選手が〝やわらちゃん〟と言われていましたが、それは彼女が自分のことを 「福岡のやわらちゃんで~す」 と言ったのが発端・・・ですから彼女は同作のモデルではありません。


現在の日本女子柔道があるのは、まさに山口選手あったればこそ。


その山口さん(現・六段)は1989年に引退後も女子柔道のために貢献を続け、現在は筑波大学体育系教授・全日本柔道連盟女子強化委員として活躍されています。


       


数年前に起きた柔道指導者によるセクハラ事件でも、女子選手のバックアップをしたことで注目されました。

現在現役の女子柔道選手はもちろん、柔道を応援する私たちファンも、黎明期に頑張った山口さんの存在を忘れてはなりませんネ。


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再作曲

明日・7月28日は、バロック時代の作曲家・ヴィヴァルディの命日にあたります。

彼に関しては過去記事をお読みいただくとして・・・(↓)




今日は、彼の代表作である


四  季


について、皆さんにひとつ情報を提供させていただきます。

過去記事に書いた通り、存命中はかなり有名で作品も盛んに演奏されたようですが、没後は徐々に人々の記憶から消えてしまい、演奏会でも取り上げられなくなりました。


ところが1926年にイタリアのトリノ大学図書館で膨大な量の自筆譜が発見され、ヴィヴァルディの音楽活動の概略が判明。


初めて音楽史における彼の存在にスポットライトが当たったのです。

そして 『四季』 を始めて録音したのは、
ルイス・カウフマンLouis Kaufman 1905-1994)というヴァイオリニストでした。


彼は1929年にニューヨーク・タウンホールでヴァイオリンのソリストとしてデビューした演奏家でしたが、1934年にロサンゼルスに移り、ハリウッド大作映画のスタジオ・オーケストラで活躍失礼た人物。

あの不朽の名作 『風と共に去りぬ』 でヴァイオリンの独奏も務めた、業界の第一人者でした。

その彼が、『四季』 の楽譜に触れ、録音を決意したのです。


       

これが思いの外好評を博し、やがてイ・ムジチ合奏団が録音して日本で大ヒットしたことは、過去記事の通り。

 ※イ・ムジチ合奏団の演奏を、こちらでお聴きいただけます。

   お好きな季節を頭出しできますょ。




ヨーロッパではなくハリウッドが発祥となったのは意外ですが、今日はその定番の四季ではなく、リコンポーズ・・・つまり編曲ではなく〝再作曲〟された、21世紀の新しい四季。

手掛けたのは、1966年にドイツ・ハーメルンで生まれた作曲家

 
マックス・リヒター

    Max Richter

        


20世紀の代表的なバロック音楽演奏家カール・リヒターと血縁関係はないそうですが、イングランド・ベッドフォードで育ちエディンバラ大学と英国王立音楽院でピアノと作曲を学んだ彼は、在学中からビアノユニットを結成してアルバム・デビューを果たし絶賛を博した、才能豊かな音楽家。

携帯電話の着信音を変奏曲形式で作曲するなど、ポスト・クラシカル作曲家として注目を集めています。

その彼が 『四季』 全曲をリコンポーズした 『25%のヴィヴァルディ』 を2012年にリリースしすると、イギリス・アメリカ・ドイツの
iTunes クラシック・チャートで第1位を獲得。


       

            CD+DVD ドイツグラモフォン輸入盤


メロディーは似ていますが、アクセントやテンポが少なからず違うこの曲、お時間のある方は聴いてみてください。



どうでしょう、新旧どちらがお好みでしょうか?

個人的には、意外とリコンポーズ版が気に入ってるんですが。

もしリヒターに興味が湧きましたら、他にも彼のアルバムが発売されていますので是非お聴きいただきたく・・・。
笑2


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先 見

今日は、我が国のSF作家の草分けとして名高い


  小松 左京 さん


の命日・没後7周年にあたります。


        


小松 (本名:小松 実) さんは、1931(昭和6)年に金属加工々場を営んでいた父の次男として大阪市西区で生まれました。


長兄が京都大学で冶金工学を学び三洋電機のエンジニアとなったように、小松家は理系の血筋であったようです。

その中にあって実少年は体が病弱だったためスポーツには見向きもせず、歌や漫画・映画・読書に熱中。

大東亜戦争終戦時14歳だった彼は、「生き残ってしまった者の責任」を考え、将来文学、それもSF小説の道に進むことは考えたそうな。


第三高等学校から京都大学文学部イタリア文学科に進学した小松さんは、在学中 『京大作家軍団』 の活動に参加。

反戦の思いから一時期共産党に入党した時期もありましたが離党し、この時期様々なペンネームで漫画作品を『漫画王』などに掲載。


大学卒業後マスコミへの就職活動に失敗し、経済誌の記者や父親の工場の手伝い、更にはアマチュア劇団の台本などを書いて生活を凌いでいた小松さんの運命を変えたのは、1959年12月に早川書房が創刊した 『SFマガジン』。


同誌に掲載されていたロバート・シェクイの作品に衝撃を受けた彼は、地震もアメリカ流のSF作品を書こうと決意。

同書房主催の第1回空想科学小説コンテストに小松左京のペンネームで応募した 『地には平和を』 が努力賞に入選。 

更に第2回のコンテストでは『お茶漬けの味』が第三席に選ばれ、福島正実編集長から高い評価を受けた小松さんは、同誌からSF作家としてデビュー。


※ちなみにペンネームの〝左京〟は、姓名判断に凝っていた兄から「五画と八画の文字を使えば売れる」と言われたことと、「左がかっていた京大生だったから」ということで、選んだそうな。


その後さまざまな作品を発表し、直木賞候補にもなった小松さんの作品・・・実は私、SF小説はあまり読まなかったため、殆ど読んでいません。

しかしそんな私でも読んだのが、1964年から執筆を開始し9年の歳月をかけ1973年に光文社から刊行された大作、


 『日本沈没』

    


地殻変動によって日本列島が沈む・・・という当時においては荒唐無稽なストーリーで、出版社が 「長過ぎて売れない」 と尻込みしたものの、蓋を開けてみれば発売直後から話題集中。



上・下巻で380万部以上を売り上げて〝空前の大ベストセラー〟といわれ、当時の実力政治家・田中角栄氏や福田赳夫氏も読んだとか。

この作品を書くにあたり、小松氏は当時発売されたばかりのキャノン社製の電卓(12万6千円)を買い込み、それを駆使して計算を積み重ねながらストーリーを組み立てたのだそうな。


       


阪神淡路大震災や東日本大震災を経た今あらためて読み返すと、当時は認知されていなかったプレート理論を導入しているところ、また映画 『2012』 のような民族移動のような壮大な構想・先見性には舌を巻くばかり。

というか、当時は荒唐無稽なフィクションとして読んでいたのに、あながち在り得ないことではない、という恐怖すら感じます。

同作が、映画化・漫画化2回、テレビ・ラジオのドラマ化もされたのも、十分納得できます。

同作品で日本推理作家協会賞を、また1985年に 『首都消失』 で日本SF大賞を受賞した小松さんは、日本におけるSF作家の第一人者として、押しも押されもせぬ存在に。


また原作は読んでいませんが、角川映画 『復活の日』 は楽しませてもらいました。

長編小説から短編まで数多くかつ幅広い作品を残し、『日本SF大賞』や 『小松左京賞』 を創設して日本のSF小説の裾野を広げ、新惑星にまで名前が冠せられた小松さんが肺炎で80歳の人生に幕を下ろしたのは、2011(平成23)年7月26日のことでした。

1970年の大阪万博ではテーマ館のサブ・プロデューサーを、また1990年の国際花と緑の博覧会では総合プロデューサーを務めるなど文学界以外でも活躍し、『日本沈没』 なんて作品を残しながら日本の発展に大きく貢献したマルチタレントのご冥福を、改めてお祈り致します。
笑3


 


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IVF

皆さんは、今日のタイトルのアルファベットが何のことか、お分かりになりますでしょうか?

不妊治療をなさった方なら、ご存じかもしれませんが・・・これは、


 In Vitro Fertilizationの頭文字を取ったもの。 日本語でいうと

 体外受精 

今からちょうど40年前の今日、この〝IVF 〟によって世界初の 『試験管ベビー』 が誕生しました。

イギリス人のジョン&レズリー夫妻は、9年間子供を授かろうと頑張ったものの、奥さんの卵管異常のために自然妊娠ができませんでした。

そこでケンブリッジ大学のロバート・エドワーズ教授と婦人科医パトリック・ステップトーが12年の研究の末に開発した体外受精にすがることに。

妻の母体から採取された卵子に体外受精させ、その2日半後に受精卵を子宮に移し、以降は通常妊娠と同じ経過を辿り、1978年7月25日に体重2,608gの女の子が生まれました。

この世界初の試みと成功についてはセンセーショナルに報道され、注目を浴びると同時に賛否両論が巻き起こりました。

       


家族に対して嫌がらせの手紙が送られてくる一方で、子宝に恵まれない夫婦たちからルイーズちゃんの誕生に希望を見出したという手紙が何百通も届いたといいます。

中には体外受精で生まれた彼女には何か欠陥あるとか、魂がないとか・・・また逆にスーパーマンだとか超能力があるかのように言う人も。


しかし両親から依頼されたステップトー医師が 「今後、全世界の人々と喜びを分かち合う」ように、という願いを込めてミドルネームを “JOY ” とつけられたルイーズ(Louise Joy Brown )ちゃんは、すくすく成長。


    


看護師となった彼女は2004年に結婚し、自然妊娠して2006年に男の子を出産。

「体
外受精で生まれた女性は将来、健康な子供を産むことができない」という懸念を払拭しました。

ジョン&レズリー夫妻の間には、ルイーズちゃん誕生後も再び体外受精でもう一人女の子が生まれ、彼女もめでたく結婚。

ジョンさんは2007年に亡くなりましたが、妻レズリーさんは2012年に亡くなるまで5人の孫に囲まれ、幸せな晩年を過ごしたとのこと。

そして現在は、姉ルイーズさんは3人、妹ナタリーさんは4人の子宝に恵まれています。(※下の画像は2013年当時)

    

体外受精は、多くの不妊症で苦しむ方々に福音をもたらし、現在まで既に500万人以上がこの方法で誕生しているといいます。

ただルイーズさんが誕生した当時と違い、現在は科学技術の進歩や法律の改定により、夫以外から精子の提供を受けたり、また同性婚カップルが子供を持てるようになっています。

更には、クローン人間も?

果たしてどこまで認めるべきなのか・・・その線引きは、科学の進歩とは一線を画して設定しなければならない、と私は思います。

あなたは、どこまでなら許容できますか?


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桃 豹

「警部といえば、誰を思い出しますか?」

そう聞かれれば、多くの方は銭形のとっつぁんを思い出すことでしょう。

しかし昭和世代である私の場合はもう一人、クルーゾー警部を外せません。

今日は映画 『ピンク・パンサー』 シリーズで世界的な人気者だったそのクルーゾー警部を演じたイギリスの人気俳優、


 ピーター・セラーズ
     Peter Sellers


の命日にあたります。


       


セラーズ(本名:Richard Henry Sellers )は1925年にハンブシャーで生まれました。

両親共に芸人だったそうで、2人からいつも(死産だった兄の名前だった)ピーターと呼ばれていた彼は、早くも2歳で初舞台を踏んだとか。

ダンスばかりでなくウクレレなどの楽器もこなし、ジャズバンドのドラマーとして巡業もしたそうですから、まさにカエルの子はカエル。

第一次大戦中は英空軍に入隊し、終戦まで各地を慰問し芝居をしたり、また上官の物真似をした経験が、後々俳優業で役立ったとか。

1955年に 『マダムと泥棒』 でスクリーン・デビューを果たした彼は、以降の作品で1人3役をこなしたり、1974年の 『マダム・グルニエのパリ解放大作戦』 ではナレーターを含め1人7役、しかもフランス人・イタリア人から日本人などすべて違う人種を演じ分ける離れ業を披露。

4人を演じ分ける国際麻雀をネタにするタモリさんも、ビックリ!?

そんなセラーズの代表作は、やはり 『ピンクパンサー』 シリーズ。

1963年に公開された 『ピンクの豹』 でのクルーゾー警部は脇役だったものの、主役を食ってしまう程の抱腹絶倒の演技は注目を集め、翌年公開された 『暗闇でドッキリ』 では主役に昇格。

そして1967年の 『007 カジノ・ロワイヤル』 出演を挟んで1978年の 『ピンク・パンサー4』 で、セラーズのクルーゾー警部は世界的な人気を博しました。


       

しかしその2年後の1980年7月24日・・・彼は心臓発作により、54歳の若さで急逝してしまったのです。

味わいのあるコメディー俳優としてもっと活躍できたでしょうに、残念。

そんな彼の作品で、私が皆さんに是非お勧めしたいのが、彼の遺作となった1979年公開の

 『チャンス』 (原題:Being There


       


純粋無垢な庭師・チャンスが、主人が亡くなったため邸宅を出てから、周囲の人々の勘違いなどで大統領候補になってしまうという、サクセス(?)ストーリー。

その庭師のトボケっぷりが、まさにセラーズならでは。

今宵は天性の喜劇役者の冥福を祈りつつ、久しぶりに彼の演技を楽しみたいと思います。笑3


 


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決 起

「食い物の恨みは怖い」といいますが、それを象徴する事件が、今からちょうど100年前の今日、日本で起きました。 

それは、皆さんも日本史の授業で習ったご記憶があるであろう、


米 騒 動


1914年から始まった第一次世界大戦の長期化によって、日本はヨーロッパからの工業製品受注増加に寄って〝大戦景気〟といわれる好景気に沸いていました。

工業が発達したこと自体は悪い事ではなかったのですが、人員不足解消のため農村から大量に人々が工場へと移動し、コメの生産量が低下してしまいます。

更に賃金上昇に伴う物価上昇が重なり米価は上昇。


これに目を付けた商人が、買い占めに走り、更に農家も売り惜しみ・・・となれば、米価が高騰するのは目に見えています。


政府は1917年9月に 『暴利取締令』 を出したものの、殆ど効果なし。

※ちなみに、「ぼる」「ぼったくる」という言葉がありますが、これはこの〝暴利〟が語源。

1918(大正7)年1月には1石(100升=約180リットル)15円だったのが、6月には20円以上、7月17日には30円以上と、主食が半年間で2倍以上になったのですから、庶民はたまりません。
(当時の一般社会人の月収は18~25円、大卒銀行員で約40円)


これに不満を持った富山県沿岸に住む海運・荷役業者らが、同年7月上旬から米の積み出し停止を要求するようになり、同月23日朝には同県魚津市の主婦40名以上が集まって米の県外移出阻止を訴えた・・・これがいわゆる〝米騒動〟の始まりとされています。


 
          魚津の騒動を報じる富山日報(7月25日付)


新聞がこの騒動を報じたことで世情はますます不安に包まれましたが、政府は8月2日にシベリア出兵を決定したことが商人らの売り惜しみを更に加速させ、米価はますます上昇。


そして決定的だったのは、8月12日に朝日新聞が「鈴木商店が米の買い占めをしている」と報じたこと。

実はコレ、完全な捏造・デマ記事・・・鈴木商店は全く買い占めなどしておらず、逆に安価で手持ちの米を放出しようとしていたのです。

しかし同社は新聞記事を読んで怒った群衆に襲撃・放火され、これが後の倒産に結びついてしまいました。

※鈴木商店に関する過去記事は、こちら。(↓)



同事件をキッカケに、暴動や襲撃は全国に飛び火。

この襲撃を報じた新聞記事が出てから1週間以内に、東京を始め全国の主要都市で騒動・暴動が起きました。


       

             岡山の精米所を襲撃する群衆


暴動が起きるたびに新聞が報じ、それを読んで怒った人々がまた暴動を起こすという悪循環が続き、この動きは更に炭鉱にも飛び火。

治安悪化のため、高校野球の甲子園大会も、中止に。

(※これは長い歴史の中で、戦争以外で中止になった唯一の事例)


こうなると警察ではとても抑えられず、軍隊から約10万人が投入されて、ようやく鎮圧。

9月12日に三池炭鉱の暴動が鎮圧されるまでの約50日間の全国的な〝米騒動〟によって検挙者は25,000人以上。

うち8,523人が検事処分を受け7,786名が起訴され、和歌山県では民衆を扇動した罪で2名が死刑判決を受けたのをはじめ、無期懲役12名、10年以上の有期刑が59名に言い渡されました


しかし結果的にこの騒動は、政界に大きな変革をもたらしました。

シベリア出兵を決め米騒動を拡大させた寺内正毅内閣は総辞職し、代わりに登場したのが、日本憲政史上初の平民宰相・原 敬。


       


マスコミの煽動によって誕生したところは、2009年の民主党内閣と同じ・・・おっと、そんなことを言ったら、原首相に

「おい、宇宙人と一緒にするな!」

なんて、怒られそう。
あせあせ


 


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