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半導体

今からちょうど70年前の今日、電子工学の歴史上画期的な発明が発表されました。 それは

 トランジスタ

  transistor


増幅またはスイッチ動作をさせる半導体素子のことで、“transfer ”(伝達)と “resistor ”(抵抗)を組み合わせた造語。

私のような昭和世代の方なら、まずトランジスタラジオを思い出すことでしょう。

発売されていた当時、よく〝4石ラジオ〟とか〝6石ラジオ〟という言い方をしていましたが、その石がトランジスタのこと。

この数が多いほど高かった記憶があります。


1947年にベル研究所に籍を置く理論物理学者ジョン・バーディーンと実験物理学者ウォルター・ブラッテンが、高純度ゲルマニウム単結晶の至近距離に立てた2本の針の片側に電流を流すと、もう片方に大きな電流が流れる現象を発見。

これが最初のトランジスタ〝点接触型トランジスタ〟の誕生につながります。


       

そして同研究所の固体物理学部門のリーダーだったウィリアム・ショックレーは、更にこの現象を増幅できることに気づいて研究を重ねた末、1948年6月30日に3人の連名でトランジスタ発明を発表。

この功績により、3人は1956年にノーベル物理学賞を受賞しました。


          

       John Bardeen, William Shockley and Walter Brattain 


この発明に触発された日本でも研究が進み、1954年頃に東京通信工業(現ソニー)が量産を開始。
翌年には日本初のトランジスタラジオ〝TR-55〟を発売。

その後も他の家電メーカーが続々と参入しましたが、当時同社の主任研究員だった江崎玲於奈氏が固体におけるトンネル効果を実証する現象を発見し、それを応用してエサキダイオードを発明。

これが評価され、1973年にノーベル物理学賞を受賞しています。

もっともその発見のキッカケは、ソニーが製造してしたゲルマニウムトランジスタの不良品を解析していた時だったそうですから、世の中いつ何が役に立つか分かりません。

その後各メーカーで改良が進むと同時にトランジスタは急速に小型化・量産化が進行。


       

やがてはLSI(大規模集積回路)の開発へと繋がっていきました。

今やどんな電子機器にも利用されているトランジスタですが、ここで問題です。

皆さんがお使いのスマホには、一体いくつのトランジスタが内臓されていると思いますか?

 ① 4万個   ② 40万個  ③ 400万個  ④ 4億個


正解は・・・なんと、④なんですって。

更に最新のマイクロプセッサー(超小型処理装置)には、10億以上も使われているとか。

文系の私にはピンときませんが、発明から70年でここまで利用されていることを発明した3人が知ったら、それこそ椅子から転げ落ちんばかりに驚くでしょうネ。


 


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散 歩

どちらかというと悪役が多かったながらも、その笑顔が何とも魅力的・・・今日は、私も好きだったその俳優

 地井武男 さん

の命日、早いもので七回忌にあたります。


       


地井(※本名同じ)さんは戦時中の1942(昭和17)年、現在の千葉県匝瑳(そうさ)市に8人兄弟の末っ子として生まれました。

県立高校卒業後、石原裕次郎や赤木圭一郎に憧れた彼は、1963年に俳優座養成所に第15期生として入所。

同期には、原田芳雄・林隆三・太地喜和子・前田吟・夏八木勲・村井邦夫・栗原小巻など、錚々たるメンバーが。

3年後に卒業すると、創立メンバーとして加わったオンシアター自由劇場で活躍。

その後テレビや映画にも出演するようになりましたが、主演から脇役、悪役からマイホームパパ役まで、実に広い役柄をこなし演技に磨きをかけました。


『ザ・ガードマン』や『キイハンター』にも出演したそうですが、残念ながら私の記憶にはナシ。

やはり地井さんを初めて認識したのは、『太陽にほえろ!』。
1982~86年まで井川巡査部長役で出演した時でしょう。

       

実は地井さん、このレギュラー出演の前に犯人役としても同番組に出演した珍しい経歴の持ち主。

もっとも、その回は本物のライフル銃を小道具で使ったため、警察から厳重指導を受けてお蔵入り・・・う~ん、残念。


その後は自然体というか普通の中年男性役が多くなったそうな。

1974年に元女優の真木沙織さんと結婚し一女をもうけたものの、彼女は2001年に乳がんで他界。

その真木さん本人の勧めもあって、彼女の知り合いだった元モデルと2004年に再婚。

『北の国から2002・遺言』では、妻がガンにより余命宣告を受けたことを地井さんが伝えるシーンがあったそうな。

この撮影の2ヶ月前に地井さんは真木さんを亡くしていたため、それを思い出して涙が止まらずNGを出した・・・という悲しいエピソードも。


その後ドラマや映画だけでなく、バラエティー番組にも出演するようになった地井さんの名を全国区にしたのが、『ちい散歩』。

2006年から放送開始以来1,518回も続いた長寿番組は、そのタイトル通り地井さんが全国各地を徒歩で回り、その風情を伝えるほのぼのとした内容。

訪問地は累計833ヶ所、歩いた総距離2.600km近く・・・おかげで全国に散歩ブームが巻き起こり、彼自身〝散歩の達人〟と言われるように。

       

1995年に狭心症を患ってから健康に気を遣うようになっていたという地井さんですが、それでも病を避けることはできませんでした。

2012年1月、視野狭窄に襲われた彼は緊急入院し精密検査を受けたところ心臓疾患が発見されたため、大事を取って芸能活動を休止。

これにより 『ちい散歩』 などのレギュラー番組を降板し、治療に専念。


入退院を繰り返しましたが、2012(平成24)年6月29日・・・心不全により70歳で天に召されました。

青山葬儀所で行われたお別れ会には、著名人ら友人・知人800人、一般会葬者が1,500人も参列。

大スターではなくとも、その人気ぶりが伺えますネ。

彼が作った散歩ブーム・・・今後は誰が引き継ぐのでしょう?

あらためて〝散歩の達人〟のご冥福をお祈り致します。笑3


 


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銃 撃

国家間の戦争は、そう簡単に起こるものではありません・・・が、時としてそれはたった2発の銃弾がキッカケとなる場合も。

今から104年前の今日起きた

 サラエボ事件

が、まさにそれでした。

ボスニア・ヘルツェゴビナは1878年のベルリン会議でオーストリアの占領下となり、1908年には正式にオーストリア領に併合。

これにセルビアや南スラヴ諸国との統合を望むボスニア住民は不満を募らせます。


そんな中、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国は同国皇帝の継承者・フェルディナンド大公夫妻のサラエボ訪問を決定。


 

しかしこの日はセルビアにとって 『聖ヴィトゥスの日』 という重要な祝日であり、かつセルビアがオスマン帝国に敗れたコソボの戦いが繰り広げられた日でもあったため、セルビア人の神経を逆なでることに。

セルビア民族主義者が結成した〝黒手組〟が大公夫妻の暗殺を企てているという情報は事前にオーストリア・サラエボ両政府とも把握していたものの、オーストリアは何らの対応もせず。

またサラエボ政府も国境で彼らを捕縛するよう命令を出しましたが、なんと国境警備兵も黒手組のメンバーだったため、まんまとテロリストの入国を許してしまいます。

そして当日、テロリストの1人が大公らの車列に爆弾を投げつけましたが、爆発まで時間差があったため後続車に乗った12名が負傷。

大公夫妻は予定を変更して負傷者を見舞うため病院へ行くことに。

ところが予定にない移動となったためか、運転手が道を間違えて交差点で車を止め、方向転換。

たまたまその交差点に面した店で食事をしていた犯行グループの1人、ガブリロ・プリンツィープ(当時19)がその車に大公夫妻が乗っているのを目撃。

彼はピストルを手に車へ駆け寄り、1発目を妊娠中の妃ゾフィーの腹部に、そして2発目を大公の首に撃ち込み、2人は死亡。

暗殺に成功した彼は服毒自殺を図りましたが、拒否反応で毒を吐いてしまい、ピストルを押収の上逮捕されました。

(※未成年のため終身刑となった彼は1918年4月、結核で病死。)


   

     事件を報じるNYタイムズ紙     狙撃犯ガブリロ・プリンツィープ


当然のごとく、皇太子夫妻を暗殺されたオーストリア=ハンガリー帝国は大激怒。

セルビア政府を非難した上で、帝国を非難する出版物の発禁や公教育からの削除など、到底受け入れがたい内政干渉10項目を要求。 (オーストリア最後通牒)

まるで開戦前にアメリカが日本にハル・ノートを突き付けたようなやり口ですが、セルビアは2項目の受け入れを拒否したためオーストリア=ハンガリー帝国は事件から1ヶ月後の7月28日に宣戦布告。

これが第一次世界大戦への口火となりました。

1918年まで続いた同大戦での戦死者は、500万人以上。


大公夫妻を殺害したプリンツィープは、自ら撃った僅か2発の銃弾によって世界大戦にまで戦火が拡大したことを、獄中からどんな思いで眺めていたのやら・・・? うー


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怨 恨

今から35年前の今日、私が住む東京都練馬区・・・と言っても自宅からはかなり離れた大泉学園町で

 練馬一家5人惨殺事件 

が起きたことを、ご記憶の方はいらっしゃるでしょうか?

犯人のAは、1935(昭和10)年秋田市に生まれました。


        


Aの父は会社々長で、日本大学を卒業した彼は父の会社に就職しましたが、24歳の時に父親が死亡。

その遺産相続で揉めた挙句、実弟を包丁で切り付けて失明させ、殺人未遂で懲役3年の刑を受けた前科が。

出所後Aは上京し、40歳にして不動産鑑定士の資格を取得すると6年後に独立。

そして1983(昭和58)年2月に、彼は練馬区大泉学園町にあった競売物件の2階建て住宅を1億600万円で取得。

当時の立ち退き料相場500万円を支払っても転売すれば1,000万円以上の利ザヤが稼げると踏んで、銀行から自宅を担保に1億6,000万円を借金して勝負に出ましたが、思わぬ誤算が彼を待ち受けていました。

それは、その買収物件に住んでいたSさんが立ち退きを拒んだこと。

実はSさんにも容易に立ち退けない事情がありました。


彼の義父がその建物の所有者だったのですが、その義父が事業に失敗して競売にかけられたため、少しでも立ち退き料を吊り上げようと画策していたのです。

そんな事情を知らないAはSさんに立ち退きを迫るべく日参したものの、毎回門前払い。


一度は 「訴訟を取り下げれば立ち退く」 というSさんの言葉を信じ取り下げたものの、それもSさんの引き延ばし作戦に過ぎませんでした。

そのままずるずると時は流れ、Aは逆に転売先に違約金3,000万円


を支払う羽目になり破産の危機に。

その引き渡し期限だった6月30日を目前に控えたAは、引き渡しに同意しなかったSさんに強い恨みを抱き、殺害を決意。

6月27日午後3時前、金づち2本と着替え用のジャージを入れたバッグを手にした彼はSさん宅へ。

応対した奥さんに 「主人は不在です」 と素っ気なく言われたSは、奥さんを追って室内に侵入。

6歳の三女と1歳の長男の目の前で奥さんを金づちで撲殺すると、泣き叫ぶ2人の子供も殺害。

更に学校から帰宅した9歳の次女を、そして午後9時過ぎに帰宅したSさんをも殺害。

遺体を浴室に運んだAは犯行現場で仮眠を取った後、遺体をバラバラに・・・その後の犯行はあまりに凄惨なので、ここで書くことは控えさせていただきます。
うー

そして翌日午前9時頃、電話が通じないことを不審に思ったSさんの義母から頼まれた隣家の主婦が勝手口から中を覗いて様子がおかしいことに気づき、報告を受けた義母が通報。

かけつけた警官によって、Aはあっさり逮捕されました。

Sさんの長女だけはたまたま当日林間学校に行っていたため難を逃れましたが、果たしてただ一人残された彼女にとって不幸中の幸いと言えるかどうか・・・。


「自分は正常です。 Sの奴は、骨まで粉々にしてやりたかった。

妻と子供を殺したのは、可哀想だったと思います。」

と供述したAに下された判決は、当然死刑。


最高裁で判決が確定してから5年後の2001年12月に、刑が執行されました。

もちろんAに同情の余地はありませんが、最愛の娘や孫3人を失ったSさんの義父にも責任が無かったとはいえない、まさに欲をかいた末の悲劇でした。

大泉学園町の犯行現場はその後区画整理され地番が変わりましたが、当該物件が立っていた地番は欠番になっているとのこと


                   

なお、この事件を基に書かれたベストセラー小説が、こちら。


 『理 由』 (宮部みゆき・著 朝日新聞社・刊)


       


まだ手に取っていらっしゃらない方は、この事件を念頭にお読みいただきたいと思います。

唯一人生き残った長女は、現在45歳。
幸せな人生を送っていてくれれば良いのですが・・・。



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開 花 < 後 >

★それからスピードスケートで金・銀のメダルを獲得した小平奈緒選手は、今回出場した選手の中で最も日本人らしいアスリートだったと思います。

彼女は昔、本番に弱くて、ソチ五輪でも本来の力を出せず負けてしまった。

自分には何が必要かと考え、強豪のオランダにスケート留学をしたんですが、そこで 「勝つためには相手を殺すくらい競争心を持て」 と教わったそうです。

普通だったら分かりましたと言って、その通りやると思うんですが、彼女は違いました。

私は人を殺してまで勝ちたいとは思わない。  だったら、自分に克つ方法を徹底的に研究しようと決意したんです。

そこで目を付けたのが、コーナリング。


直線はバワーのあるオランダが強いけれども、カーブでは技術を磨けば自分の武器に出来る・・・そこから日本独特の古武術を学んでいったんです。

日本には古き良きのがたくさんあるのに、それを見ようとせず、欧米から学んできたもので良しとするのは実に勿体ない。

日本人には日本人らしい考え方、身体の鍛え方、戦い方があるわけで、それを証明してくれたのが小平選手です。


          ◆     ◆     ◆     ◆


これらの選手の取材や指導を通し、松岡さんが感じる世界の頂点に立つ選手の共通点は、〝挫折〟した経験があること、しかもとてつもない挫折を・・・それが最終的には一番の力になる、挫折を愛している人ほど強い、ということだそうです。


       


あれ、道場さんの話は? と思われますょネ。

実はこの対談に出てくる道場さんのお話は、以前拙ブログで取り上げた道場さんの言葉とほぼ重複していますので、こちらをお読みになってください。


https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12167807806.html


さて最後に、この過去記事にはない道場さんの後継者指導に関する言葉をご紹介しましょう。


          ◆     ◆     ◆     ◆


「昨年あたりから僕のテーマは〝許す〟なんですけどね、時代背景が違うから今と昔じゃ全く違いますから、相手を許す気持ちが凄く大事だと思います。

近頃は注意したり叱ったりすると、すぐに辞める子がいるんですよ。
そうすると、上の人間はとにかく注意することを恐れる。

しかし、若い衆に正しいと思うことを注意できなくなったら、上司や先輩としての資格・値打ちは全くありません。

だから僕は長々と叱らない。 しつこく言うと若い衆は耐えられない。


注意する時は、2,3秒なんですよ。 

もし分からなかったら、後で聞きに来いと。

(松岡さんがジュニアを指導する際、叱るのは7秒以内だそうな。)
あせあせ

僕は今年87歳になりましたけど、一生の内に一品でも五十年、百年と受け継がれるような料理を作れば、それが自分の花かなと思うんです。

そのためには何が必要かと言えば、仕事三昧になること。
僕は今でもどうしたらお客様を喜ばせられるおもてなしができるか、いつも考えています。

それが人間の花を咲かせる秘訣かもしれません。」


          ◆     ◆     ◆     ◆


・・・和食の鉄人、やはり流石でございます。


 


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開 花 < 前 >

我が愛読誌・月刊 『致知』 7月号に、料理の鉄人・道場六三郎さんとスポーツキャスター・松岡修造さんの対談が掲載されていました。

一見異色の組み合わせですが、そこはそれぞれの世界でトップに立った同志・・・なかなか濃い内容でしたので、以下に抜粋・編集にてご紹介致します。

          ◆     ◆     ◆     ◆

まずは、松岡さんの言葉から・・・。

錦織圭選手は11歳で修造チャレンジのトップジュニアキャンプに参加しましたが、その時僕は彼にテニスを教えてはいけない、と思いました。 ぼくの想像をはるかに超えるプレーをしていたからです。

ただ、人前で自分が思ったことをうまくアピールできないという弱い面もありました。 英語なんか一言も喋れない。

でも世界で戦うには海外で年間10ヶ月間、ホテルを探したり練習相手を見つけたり、すべて自分でしないといけません。

自ら行動する・・・これは日本人が不得意とするところです。

僕はそこを変えない限り、テニスはうまくならないと言い続けました。

その後彼か13歳で渡米する時に僕のところへ来て、

修造さん、僕は一番苦手な表現力を絶対つけて、アメリカで頑張ります。」

と言ったんです。 そして18歳で初めて国際選手権に優勝しました。

その時の優勝スピーチは堂々たるもので、もう別人のようでした。

僕はその優勝スピーチと11歳の時のスピーチをいつもトップジュニアキャンプで選手に見せているんです。

★平昌五輪で目を引いたのは、銅メダルを獲得したスキージャンプの高梨沙羅選手。

前回のソチ五輪の時に取材させていただいた時、彼女は「プレッシャーと言う言葉を知りません」 と言ったんです。

でも本番で結果を出せなかった。

その時、「皆さんの期待に応えられませんでした」 と謝られたので、僕は謝らないでくれと。

いつも通りの実力が出せない、これがオリンピックなんですよネ。


そして誰に負けたのかといえば、他ならぬ自分に負けたわけですよ。


よくオリンピックに魔物がいると言いますが、魔物は自分なんです。

その2年後、彼女は 「必ずオリンビックの舞台で失速する夢を見るんです」 とおっしゃった。

そこから彼女は風が吹こうが体調が悪かろうが、どんな時でも絶対に自分のベストが出せるように、とてつもない努力を積み重ねました。

平昌五輪の1年前に 「まだあの夢を見ますか?」 と聞いたら、「見ます」 と。「でも、夢を受け入れられるようになりました」 と答えたんです。

そして今回銅メダルを獲得した後にもう一度あの夢について伺ってみると、

あの夢を見てよかった。 あの夢がなかったら今の私はいない。
 あの夢が私を強くさせてくれた、変えてくれた。」


と答えてくれたんです。


       


★また平昌五輪で特に凄いと感じたのは、男子フィギュアで連覇を達成した羽生結弦選手。

どこが凄いかというと、一番は自分の心をきちんと言語化できるところです。

ただ単に 「頑張ります」 ではなくて、どのように頑張るかを具体的にチ絶えることができる。 ひと言ひと言に駆け引きがあって、そこに学びがあるんです。

そして優勝直後に 「どんなオリンピックでしたか?」 と尋ねると、彼は

「とにかく捨てて捨てて、捨てる作業をしたオリンピックでした。」

と。 ひとつは勝つために〝技〟を捨てたわけです。


羽生選手は世界で初めて4回転ループという大技を習得したんですが、それを封印しました。

もう一つは、自分の〝欲〟を捨てたと。

彼はゲームが好きなんですが、ケガをしてからそれも一切やめた。

あと、彼は〝幸せ〟も捨てたと言ったんです。


そして最後に、それではこのオリンピックで何を得たのか伺うと、「幸せを得ました」って。


          ◆     ◆     ◆     ◆

羽生選手、さすが国民栄誉賞を授与されるに相応しい若者ですネ。

・・・以下、後半に続きます。

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四 民

今からちょうど150年前、明治維新を迎えた新政府は、江戸幕府からの体制移行を着々と進めていました。

そのひとつが翌1869年6月17日から始めた 『版籍奉還』 ですが、その約1週間後の6月25日から着手したのが、〝四民平等〟といわれる身分制度の再編。

とは言え、大名・公卿を〝華族〟、武士を〝士〟・〝卒〟、農・工・商を〝平民〟にするというもので、厳密には四民平等と言えないものでしたが・・・。
これは後の戸籍法の制定にも繋がるもので、要は身分に差をつけず富国強兵を目指す布石だったと考えられます。

ところで身分制度といえば・・・皆さんは昔、学校で


 士農工商

ってどういう意味合いだと教えられましたか? 私は

「江戸時代の身分制度で、上から士→農→工→商の順番だった」

と教えられました。 
でも子供心に、

(いつも奉行と悪だくみしているのは商人で、苦しめられた末に一揆とか起こしているのは農民なのに・・・順番がおかしいんじゃないの?)

って思ったものです。


       

そしたら、やっぱり意味合いが違っていたことが、平成時代に入って分かってきたそうですネ。

つまり〝士農工商〟は身分の序列ではなく、大枠での職業の違いを表したもの・・・つまり、現在で言う第1~3次産業というか、もっと言えば〝老若男女〟という、国民全体を表す表現だったというのです。

私は、この単語の後ろに穢多・非人を加えて教えられた記憶も。

これは共産党系(日教組・全教)の教員が、共産主義に基づく階級闘争史観を江戸時代に嵌め込み、共産党に有利な歴史を教えていたからだという意見が。

ですから最近では教科書には〝士農工商〟とか〝四民平等〟という単語は載っていないそうですし、穢多・非人は部落差別を助長するという理由で放送禁止用語になっているそうな。

ただ現在でも〝四民〟を士農工商ではなく〝皇族・華族・士族・町民〟だと教えているトンデモ教師がいるとのこと。

例え教科書に載っておらずとも、小・中学生のお子さんをお持ちの親御さんは、是非とも

「士農工商とか四民平等って、知ってる?」

と直接お子さんに確認してみてください。

変な教え方をされていたら、すぐ学校や教育委員会に報告・抗議をお願いします。

余談ですが、私が損保勤務時代に某自動車ディーラーを担当していた時、自分たちを〝士農工商損保信販〟と自嘲気味に言ってました。

その意味合いは・・・ご想像にお任せします。うー


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権 勢

今日は、江戸時代中期・・・九代将軍・家重、十代将軍・家治の時代に権勢を振るった老中、


 田沼 意次


の命日・没後230周年にあたります。


意次は1719(享保4)年、元紀州藩の足軽でありながら後に八代将軍となる藩主・吉宗に長く仕えた田沼意行の長男として、江戸で生まれました。


父親が将軍となった吉宗の小姓を務め、後に旗本に引き立てられたことが、意次にとって大きなアドバンテージに。

14歳の時に吉宗にお目見えした意次は、吉宗の長男・家重の小姓となり、家重が九代将軍となるや加増に加増を重ねて順調に出世、40歳頃には1万石の大名に。


仕えた将軍が変われば、辞職もしくはお役御免になるのが通常なのに、意次は家重死去後に十代将軍となった徳川家治にも重用されるという、異例の厚遇人事。

更に出世を重ね、53歳の時には老中兼任で5万7千石の大名・相良藩 (現在の静岡県牧ノ原市) 藩主に。

側用人(秘書役)と老中を兼任し、他の老中に娘を嫁がせて姻戚関係を結ぶことで、盤石の権力体制を整えました。 


       田沼意次


彼が実権を握る前から逼迫していた幕府の財政を再建すべく、意次は積極的な経済政策を推進。

朝鮮人参・白砂糖を国産化するなど国内産業の振興や、銀や鉄の生産に力を入れました。

そのための鉱山開発に関わったのがエレキテルの発明で知られる平賀源内であり、彼のスポンサーだったのが実は意次でした。

彼は蘭学を単なる学問としてではなくビシネスチャンスに生かそうとしたのです。


しかし栄枯盛衰は、世の習い。

栄華を誇る意次の転落のきっかけとなったのが、自身同様に異例の出世をさせ後継者として若年寄にした嫡男・意知が1784年に35歳で斬殺されたこと。

※斬りかかったのは、知行500石の旗本・佐野善左衛門(28)。

  その動機は私怨・公憤・乱心説があり、はっきりしません。


通常なら同情を買うところですが、田沼父子の権勢に不満を持つ人々は意次を憐れまなかったばかりでなく、切腹されられた佐野善左衛門の墓には供養の花が林立したとか。

印旛沼の干拓事業は洪水によって、またロシアとの交易を兼ねた蝦夷地開拓も目論見倒れに終わった意次は、
1786年に家治が逝去するや、そのわずか2日後に反対勢力(一橋派)によって老中を辞任させられ、降格。

その直後、それまで築いてきた水野家・松平家との縁戚関係を離縁によって次々と絶たれると、辞任の2ヶ月後には家治時代に加増された2万石や大阪蔵屋敷に保存していた財産を没収され江戸屋敷からも退去命令が。

更に蟄居を命じられた彼に追い打ちをかけるように相良城は打ち壊され、城内の財産も没収。

山高ければ谷深し・・・といいますが、まさに一時の栄華からは考えられないような没落ぶり。


意次は失意の中、1788(天明8)年6月24日に69歳でこの世を去ったのです。


かつて私は学校の授業で、

田沼意次=賄賂を受け取った悪徳政治家の見本】

の如く教えられた記憶があります。


ところが近年では、彼の政治手腕は再評価されているのだそうな。

悪徳政治家のイメージは松平定信ら反田沼派が後年広めたものであり、
賄賂は既に元禄時代からはびこっていました。


吉宗時代の質素倹約・農民に対する増税政策の失敗から幕府の財政は逼迫しており、市場主義経済政策を通して貨幣の流通を活性化し、商人に課税して幕府の財政再建を狙ったことは画期的・・・また地元・相良藩での治世も至極真っ当なものだったとの事。


       
         『田沼意次』 (藤田覚・著 ミネルヴァ書房・刊)


そんな意次の政治活動を見た時、私はあの田中角栄氏と姿が重なるのです。


一介の農民の出で学歴もないところから這い上がり、総理大臣就任も54歳と意次の老中就任とほぼ同年代。


『日本列島改造論』 を引っ提げて経済成長を目指したものの、金権政治を批判されて退陣・・・ロッキード事件の公判中に淋しい最期を迎えた等々。

また部下や周囲の人々に常時気配りを怠らなかった点も同じ。


意次も単なる悪徳政治家ではなかったことは、想像に難くないところ。


政治家の評価をたったの一言二言で済ますのは、あまりに短絡的かつ失礼と言うべきでしょうか。


田沼時代が去った直後、人々は


〝田や沼や 汚れた御世を改めて 清くぞ住める 白河の水〟


と詠みましたが、やがて松平定信の改革による締め付けが厳しくなると一転、


〝白河の 清きに魚も 住みかねて 元の濁りの 田沼恋しき〟


に変わったとか。


・・・一番勝手気ままなのは、実は庶民なのかも知れません。うー


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五 衰

今日は、我が愛読誌・月刊 『致知』 7月号より、編集発行人・藤尾秀昭氏の巻頭エッセーを以下に編集・抜粋にてご紹介致します。

          ◆     ◆     ◆     ◆


木が弱り衰えていくのには5つの段階がある、と安岡正篤師が言っている。

〝木の五衰〟である。

その第1は〝懐の蒸れ〟。 枝葉が繁り過ぎると日当たりも風通しも悪くなり、木の根幹が弱ってくる。

この状態が続くと、根が上がってくる。
これを〝裾上がり〟という。

そうなると、木は頭から枯れてくる。 〝末(うら)枯れ〟である。
末とは梢(こずえ)のことである。

梢が枯れてくると、〝末止まり〟となる。
成長が止まるのである。


この頃になると、いろいろな害虫がつき始める。 〝虫喰い〟である。

この木の五衰を避けるには、枝葉が繁ってきた段階で刈り取ること、即ち省くことだと安岡師は説き、人間もまた同じだと言う。


       

                  安岡正篤 師


人間も貪欲・多欲になって修養しない、つまり省かなくなると風通しが悪くなり、真理や教えが耳に入らなくなり、善語善言を学ぼうとしなくなる。

これは〝裾上がり〟で、そうなると〝末枯れ〟が起こり〝末止まり〟となる。

人間が軽薄・オッチョコチョイになり、進歩が止まってしまう。
挙句はつまらない人や事に関わり、取り憑かれて没落する。

〝虫喰い〟である。

これを〝人間の五衰〟と言う、と安岡師は人間の通弊を突いているが、こういう人に花が咲かないのは自明の理であろう。

では、人間の花はどういう人に咲くのだろうか。
あるいは人間の花を咲かせるために大事なことは何だろうか。

安岡師の言葉に見る通り、雑念・妄念を心に茂らせている人に花は咲かない。

心の雑草を取り去り、よく手入れし、調和させている人、心の力を良く知る人のみが、人間の花を咲かせるのだろう。

『易経』にこういう言葉がある。
「性を尽くして命に至る」

自分が天から授かったもの、持って生まれた能力をすべて発揮していくことで天命に至る、というのである。

天命に至る道は、そのまま人間の花を咲かせる道である。
このことを深く肝に銘じたい。

最後に、花はすぐには咲かない。


凡事の徹底と長い歳月の掛け算の上に咲くものであることを忘れてはならない。


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再 建

奈良の古刹・薬師寺


天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を願って680年に発願され、持統天皇によって697年に本尊開眼がなされ、平城遷都に伴って718年に現在の地に移された、法相宗の大本山です。


修学旅行などで訪れた方も多いと思いますが、かつて見学者に分かりやすくた面白い法話をされることで有名な管主がいらっしゃいました。 


今日は、薬師寺再建に生涯を捧げた名僧、


        こういん

高田 好胤 師


の命日・没後20周年にあたります。


         高田好胤


高田師は大正13(1924)年の大阪生まれ。 


11歳の時に証券会社勤務のサラリーマンだった父を亡くした高田少年は、母親の実家だった東大寺龍蔵院に身を寄せた後、当時の薬師寺管主・橋本凝胤師の弟子として引き取られました。


橋本師は大変に厳しい方で、時には火箸で叩くこともあったそうですが、反面運動会の時は自ら弁当を作ってくれる優しさもあったそうな。


やはり教育には、愛のある厳しさが必要なんでしょうネ。


その頃の薬師寺は火災による焼失などで金堂と東塔しか残存しておせらず、しかもかなり荒れた状態だったとか。

昭和24(1949)年、副住職に就任した高田師は修学旅行生ら見学者への法話に力を入れ、そのユーモア溢れる話しぶりで全国的にその名を知られることとなりました。


私自身も、中学生時代に修学旅行で薬師寺を訪れた際、高田管主の法話を聴きました。 内容はさすがに忘れましたが、にこやかにお話しをされる管主のお顔は記憶しています。 今にして思えば、もっと真剣に聴けば良かった・・・まさに〝後悔先に立たず〟。

       

          東塔をバックに 右から3人目がナベちゃん


TVなどにも出演し、また多くの著作を出版した高田師は、仏教の普及活動とともに薬師寺の再建に力を注ぎます。


檀家制度のない薬師寺で如何にして莫大な再建費用を捻出するか?


この難問解決のため、昭和43(1967)年に管主になられた高田師が考え出したのは、一人千円の〝写経勧進〟 でした。


私が前述の修学旅行で訪れた時は西塔がまだなく、金堂は工事中で作業シートで覆われていましたが、写経部屋には多数の希望者がおられた記憶があります。)


当初は風呂敷に包んだお経を手に全国を講演行脚したもののあまり集まらなかったそうですが、やがて高田師が有名になるにつれ希望者が増え始め、1976年には念願の100万巻が達成され、同年金堂が再建されました。


そして1997年には、何と600万巻を突破。 

しかし高田師は集まった写経料はもちろん、講演料や出演料、本の印税全てを薬師寺の再建費用に充てたそうで、ご長女曰く自宅の畳はガムテープで補修し天井の隙間からは星が見えたとか・・・。


そして見事、西塔・中門・金堂を再建した高田管主でしたが・・・1998(平成10)年6月22日に、胆嚢ガンにより74歳にて遷化されました。 


しかし亡くなられた年に薬師寺がユネスコの世界遺産に登録されるなど、高田師の再建悲願は見事に達成されたのです。

※日本一の宮大工・西岡常一棟梁が手掛けた大講堂が完成したのは、その5年後・2003年のことでした。


    


人々の心に残る法話と立派な寺院を遺された20世紀の名僧・高田好胤師のご冥福を、あらためてお祈り致します。 笑3


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