私も大好きな人気アクション映画 『ジェイソン・ボーン』 シリーズ。
その第1作 『ボーン・アイデンティティー』(2002年米公開)で、主人公のCIAエージェント・ボーンが失った記憶を辿る過程で、自分の命を狙うかつての上司・コンクリンをパリに呼び出すシーンがあります。
指定した場所が、
ポンヌフ
Pont Neuf
映画をご覧になった方は、この建物の屋上からボーンが橋の上で上着を脱ぐコンクリンの姿を確認するシーンを憶えていらっしゃるでしょう。
ボーンはコンクリンをやり過ごし、路上に待機していたCIAの車に発信機を取り付け、彼らのアジトを突き止めるのですが・・・この舞台となったポンヌフはパリ最古の橋として有名なのだそうな。
(ポンヌフは、フランス語で〝新しい橋〟という意味だそうですが、今となっては何とも皮肉な名前ですネ。)
その橋が起工したのが、今からちょうど440年前の今日・1578年5月31日のことだったそうです。
日本では織田信長が天下統一に野心を燃やしていた、『本能寺の変』が起きる約4年前のこと。
ポンヌフは、パリ市内を悠然と流れるセーヌ川に、シテ島の先端を横切る形で架けられた、全長238m・幅22mの橋。
アンリ3世によって建設が決定され、完成まで29年を要しました。
以来400年以上経過しましたが、2つの世界大戦をくぐり抜け、何度も修理を施されてきたものの、基本構造は当初のままだとか。
橋脚上の歩道に半円形の膨らみか作られ、そこで人々が憩う光景が、いかにもパリ・・・って感じるのは、私だけでしょうか?
さて冒頭で映画の話を持ち出しましたが、この橋が舞台となる映画があります。 タイトルもズバリ、
『ポンヌフの恋人』(Les Amants du Pont-Neuf)
これは、ボーン・シリーズが始まる10年以上前の1991年に公開されたフランス映画。
変わり者で有名(失礼!)な奇才レオス・カラックス監督がメガホンを取った、アレックス3部作の3作目にあたります。
ポンヌフで暮らす天涯孤独のホームレスの青年アレックスは、ある日自動車に片足を轢かれてしまいます。
そこにたまたま通りかかったのが、失恋と失明の危機から家出をした女画学生ミシェル。
二人は惹かれ合い、生活を共にし始めるのですが・・・実に甘く切ない顛末は、是非作品をご覧いただきたく。
同作は、監督の拘りから製作費が当初の予算8億円から32億円以上に膨らんでしまい、資金難で制作会社が2度倒産するなど、完成まで3年もかかったという労作。
その遅れのため肝心のポンヌフが修繕に入ってしまってロケが出来ず、パリ市内にポンヌフの4/5スケールのセットを造って撮影したとのこと。
(映画は、その改修中の橋から物語が始まるのですが・・・。)
映像美・・・ポンヌフの頭上で繰り広げられる花火シーンは見事ですし、ラストにはあの名作 『タイタニック』 がパクッたといわれる有名なシーンが出てきますョ。
余談ですが、作られた巨大なセットは資金ショートのため解体できず、今でもそのまま残されているとか。
フランス観光に行かれる方は、本物のポンヌフとセットのポンヌフ双方に是非足を延ばしてくださいまし。
ちょっとパリからは遠いですけど・・・。

・・・と言っても、反社会勢力の話じゃありません。
今日は、あの新選組の花形・一番隊の組長を務めた天才剣士、
沖田 総司
の命日・没後150周年にあたります。
新選組の中でも特に人気の高い彼ですが、実は出生に関しては明らかになっていません。
生年に関しては1842年と44年の2説があり、陸奥国白川藩士・沖田勝次郎の子として江戸藩屋敷で生まれたとされていますが、父の名を伝える確かな資料はなく、母の名や実家についても不詳。
9歳の頃、江戸・市谷にあった天然理心流・試衛館の内弟子となり、近藤勇や土方歳三と同門になった事が、彼の運命を決したと言えます。
※この肖像画は、彼に似ているという総司の姉・ミツの長男・芳次郎の次男・沖田要氏をモデルにして昭和4年に描かれたもの。 本人の写真は現存していないそうな。
剣術について天性の才があった彼は、若くして試衛館の塾頭を務めた彼は、1863年の浪士組結成に参加し、上洛。
同組が分裂すると、彼は近藤・土方らに従って新撰組を結成し、主力の一番隊組長に。
芹沢鴨や内山彦次郎の暗殺に関わり、更に1864(元治元)年6月の池田屋騒動では真っ先に踏み込むなど、切り込み隊長としての役割を果たします。
※池田屋騒動に関する過去記事は、こちら。(↓)
この時、沖田は喀血したという説があるのですが、彼は早くから病に侵されていたようです。
翌年2月には、脱走した総長の山南敬助を追って近江草津で捕らえ、切腹した彼を介錯しましたが、その2年後の1867年からは体調を崩して第一線を退きます。
同年12月には、報復として元御陵衛士3名に療養先の妾宅を襲撃されましたが、たまたま出かけていて難を逃れます。
鳥羽伏見の戦いには参戦できぬまま江戸に戻り、甲陽鎮撫隊に参加するも、やはり体調不良で脱落。
以後は幕府御典医・松本良順により匿われたものの、近藤勇が斬首されてから2ヶ月後の1868(慶應4)年5月30日に、盟友・近藤の死を知らぬままこの世を去りました。
(生年不詳ですが、沖田家の墓碑には24歳と刻まれています。)
潜伏先の庭に、毎日のように現れては沖田を見つめる黒猫がいたそうですが、彼が愛刀を抜いて斬ろうとしても失敗の連続。
これで自分の剣気が無くなったことを知り、死期が近いことを悟った・・・という剣士らしい逸話が残されています。
若くして病に倒れた美男の天才剣士という、いかにも人気が出そうなキャラの持ち主ですが、実際の剣はかなり荒っぽかったとか。
そんな沖田総司の〝終焉の地〟という碑が、浅草寺の裏手・台東区今戸にある、今戸神社にあります。
ここは、猫招きの発祥地で縁結びの神社としても知られているとか。
浅草寺のすぐ裏手(?)にありますので、スカイツリー等に観光で訪れる方は是非足を延ばしていただき、招き猫グッズを手に入れると共に若くしてこの世を去った天才剣士の碑にお参りしてください。
季節は初夏。 ビールが美味しい季節になりました。
このビール・・・文献として我が国で最初に確認できるのは、1724(享保9)年にオランダの商船使節団が江戸に入府した際、8代将軍・徳川吉宗に献上された時のこと。
ちなみに国内で最初に醸造されたのは1812(文化9)年に長崎・出島でオランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフによる自家醸造。
日本人で初めて醸造したのは蘭学者・川本幸民で、1853(嘉永6)年で、いずれも江戸時代のこと。
そして、初めて商品としてのビールが国内で醸造され、発売されたのが、今からちょうど130年前の今日のことでした。
その銘柄は、
麒麟ビール
言わずと知れた、現在のキリンビールの前身。
当時の麒麟ビールのラベル
しかし、この発売に至るまでには紆余曲折がありました。
1859(安政6)年、日米修好通商条約によって開港した横浜港には多くの外国人が居留し、その生活用品や食糧の殆どは輸入に頼っていました。
その中にビールがあったのですが、これが日本人にも人気となったため、各国が競ってビールを輸入を開始。
そして当然の成り行きながら、より安く供給するためにビールを日本で醸造しようとする動きが出始めました。
ここで登場するのが、ウィリアム・コープランド(1834-1902)というノルウェー系アメリカ人。
william copeland
来日して牧場や運送会社の経営などで財を成した彼は、この流れを見てビール醸造に目を付け、1870(明治3)年に横浜で 『スプリング・バレー・ブルワリー(日本名:清水谷醸造所)』 を創業。
当時としては最新鋭の低温殺菌法を取り入れて、大量醸造・販売を開始します。
1875年後には工場に隣接した自宅を改装して、日本初のビアガーデン 『スプリング・バレー・ビヤ・ガーデン』 も開設。
その翌年に、コープランドより早く日本で初のビール醸造所 『ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー』 を造ったドイツ人技師E・ヴィーガントと商事組合を結成。
品質の良さが評判となり、横浜のみならず東京・長崎・神戸・函館・上海・サイゴンへと販路を拡大。
しかし、好事魔多し・・・1880年に2人は経営の主導権を巡って対立し、組合は解散。
競売でコープランドは自らの醸造所を買い取り生産を続けましたが、この時の買収資金を借金で賄ったことが負担となり、1884年に倒産。
これを受けて、トーマス・グラバーが日本国内外に再建のための投資を呼びかけ、これに三菱財閥の岩崎弥之助らが発起人として加わり、『ジャパン・ブルワリー』 を設立。
『スプリング・バレー・ビヤ・ガーデン』 を買収して技師らを引き取り、生産を開始。
そして1888(明治21)年5月29日・・・明治屋と一手販売契約を締結した上で発売されたのが、麒麟ビールだったのです。
当時の価格は1本18銭、現在の貨幣価値だと4~500円だったとか。
※商品名を〝麒麟〟にしようと提案したのは三菱の荘田平五郎という人物で、当時西洋から輸入されていたビールの絵柄が動物だったことから、東洋の想像上の動物〝麒麟〟を採用したのだそうな。
上記の経緯から、キリンビールが三菱財閥系であることがご理解いただけるかと。
その後キリンビールが日本最大のビール会社に成長したのはご存知の通りですが、一方の貢献者コープランドの後半生はというと・・・。
倒産後もビール業界で再起を図るも果たせず、55歳だった1889年に箱根の旅館経営者・勝俣清左衛門の次女・ウメ(当時20歳)と再婚。(前妻とは死別)
左から、コープランド・ウメ・ウメの両親
2人は1893(明治26)年ハワイに渡り、更に2ヶ月後には中米グァテマラのサンホセに行ってビジネスを始めるも失敗に終わり、彼は持病のリュウマチや心臓病にも悩まされるように。
1902(明治35)年1月、妻に支えられながら日本に帰国したものの、その翌月、68歳で亡くなっています。
ジャパン・ブルワリー社は葬儀費用として約200円を負担し、未亡人には慰労金を贈ったそうな。
今日ビールを飲まれる方は、横浜の外国人墓地に眠るコープランド夫妻に献杯を!
現在メジャーリーグ・エンゼルスで活躍中の大谷翔平選手。
二刀流でここまで大活躍するとは、アメリカならず日本のファンも驚いている方が多いでしょうが、実は日本プロ野球界では過去にも二刀流で活躍した選手がいました。
それが誰かは、中高年プロ野球ファンならブログタイトルだけでお分かりでしょう。そう、それは
藤村 富美男 選手
今日は初代ミスター・タイガースと謳われた、この伝説的名選手の命日・二十七回忌にあたります。
藤村選手は1916(大正5)年、海軍工廠の工員だった父の8人の子の7番目(三男)として広島・呉で生まれました。
大正中学2年生・16歳の時に早くもチームのエースとなった彼は、野球王国・広島県内の強豪を退け甲子園に春・夏通算6回の出場を果たし、京都商業の沢村栄治投手らと名勝負を繰り広げ、甲子園の申し子と呼ばれたそうな。
そして藤村選手の運命を大きく変えたのは、彼が卒業した1936年に、プロ野球リーグ(日本職業野球連盟)が結成されたこと。
※日本プロ野球発足に関する過去記事は、こちら。(↓)
当初藤村選手自身は法政大学進学の意向を固めていたのですが、大阪タイガース支配人・中川政人が藤村選手の父と兄を説き伏せ、殆ど騙すような形で契約書に捺印させて入団が決定。
東京六大学野球全盛だった当時、まだ職業野球は海のものとも山のものとも分からぬ存在。
藤村選手のタイガース入団に関し、地元野球ファンの反応は冷淡。
1934年の夏の甲子園では決勝戦で後の〝打撃の神様〟川上哲治選手を3打席3三振に切って取り、熊本工業を破って優勝した時は地元ファンが熱狂的に出迎えたのに、入団のため同じ呉駅を出発した時の見送りは、家族と僅かな友人だけだったそうですから・・・。
それに発奮してか、藤村選手は入団早々から大活躍。
同年4月28日の第1戦・対名古屋金鯱軍戦に開幕投手として先発すると、1安打の初登板初完封で勝利を収めると、先発・リリーフを務める傍ら選手不足から内野手としても試合に出場する、まさに元祖・二刀流。
※同時期にタイガース入りした〝闘将〟景浦 將(まさる)選手も、二刀流でした。 彼も投打で活躍しましたが、1944年にフィリピンで戦死してしまい、実働は5シーズン余り・・・沢村投手同様、戦争が多くの選手の命を奪ってしまいました。
同年秋のシーズンでは、規定打席に達しないのに本塁打王を獲得するという快(怪?)挙を達成。(と言っても、2本だけでしたが。)
1939~43年まで4年半応召で兵役を務めまたためブランクがありましたが、復帰後は4番打者としてチームを牽引、サードにコンバートされた1944年には打点王を獲得しチームの優勝に貢献。
1958年に引退するまで実働17シーズン(投手は1951年まで)で、1,694安打・224本塁打・通算打率.300をマーク。
首位打者1回、本塁打王3回、打点王5回、そしてMVPを1回獲得。
投手としては34勝11敗、防御率2.35という戦績を残しました。
そして藤村選手のトレード・マークといえば、やはり冒頭の〝物干し竿〟。
赤バットの川上哲治や青バットの大下弘に対抗すべく、1948年からゴルフのドライバーからヒントを得て特注で作らせた37インチ(※約94cm 通常は33インチ=84cm前後)の長尺バットを振り回し、翌1949年にはプロ野球史上初めてシーズン40本を超える46本塁打をマーク。
豪快なだけでなく器用だった藤村選手は、チームが最下位だったにもかかわらずMVPを獲得するという〝壮挙〟を達成しています。
そして他の主力選手が次々とトレードでチームを去る中タイガースに留まり、1946、1955~57年と監督を兼務。
優勝こそなかったもののAクラスに踏みとどまった藤村選手がミスター・タイガースであることに、異論のある方はいないでしょう。
現役最後のホームランが代打逆転満塁ホームランだったという藤村選手が引退した際、つけていた背番号10はタイガースの永久欠番となりましたが、これはチーム創成期からつけていたもの。
つまり各チームに数ある永久欠番の内、過去1人しかつけていなかった唯一の背番号なのだとか。
しかし引退後は請われて国鉄・東映で一時期コーチを務めたものの、元来口が重く怒りっぽい性格だったため解説者としてはお呼びがかからず、1968年からは野球界から完全に離れてサラリーマンの道に。
そんな藤村さんのユニホーム姿は、彼が現役引退した1958年生まれの私は残念ながら全く知りません。
しかし 「おっ、これが噂のミスター・タイガースか・・・。」 とテレビに釘付けになったことが。
それは野球殿堂入りを果たしてから3年後の1977年、藤村さんが俳優として人気テレビ時代劇 『新・必殺仕置人』 で元締の〝虎〟役で出演された時。
素人とは思えぬ存在感と迫力に、思わず唸ったものです。
しかしそんな藤村さんも病には勝てず・・・1988年以降は病院や介護施設で闘病生活を送った後、1992年5月26日、甘党だったという藤村さんらしく、糖尿病による腎不全のため75歳でこの世を去りました。
ミスター・タイガースの逝去を悼み、甲子園球場にはこの日半旗が掲げられたと言います。
阪神だけに関わらず、プロ野球創成期を支えた名選手について詳しく知りたい方には、こちらのご一読をオススメします。
『ミスター・タイガース 藤村富美男伝』
(十条院潤一・著 データハウス・刊)
元旦からオーブン戦をやったり、9イニングではなく20イニングの試合をやったり、はたまた戦時中では空襲警報が鳴ったら即試合中断・・・等々、藤村選手の活躍ぶりだけでなく、職業野球黎明期の苦労話を知ることができます。
今宵は久しぶりにこの本のページをめくりつつ、〝ミスター・ジャイアンツ〟長嶋茂雄選手が憧れて三塁手になったという、プロ野球発展の功労者のご冥福をお祈りしたいと存じます。
先日エネゴリ君の店に行った時のこと。
いつになくカウンター内でニヤニヤしている彼に、
「なんだか今日はやけに機嫌良さそうだナ。
何か良い事でもあったの? 彼女が出来たとか。」
「いやァ、彼女なんていないっスょ。
出来たら真っ先に報告しますって。」
「それもそうだナ。 聞かれる前に言うだろうし・・・。」
その後も他愛ない話に終始し私が席を立ってレジに向かうと、彼が急ぎ足でカウンターから出てくると、
「渡辺さん、コレ食べてくださいョ~!」
と言ってレジの下から出してきたのが、こちら。(↓)
「なぁんだ、コレを渡したくてウズウズしてたのか。
これをオレが完食できるかどうか、試したいんだろ?」
そう言われた彼は、満面の笑みで
「ウッホッホ!」
実は彼、以前私にトムヤムラーメンをプレゼントしてくれたことがあったんです。
※その時の記事が、こちら。
この時が拙ブログにおけるエネゴリ君の初登場でした。(↓)
しかしこのカップ麺、私には全然辛くなく、後日店に行った時に、
「どうせなら、もっと辛いのくれョ。」
と言ったものですから、以来ず~っと探していたんでしょうネ。
でコレを見つけて、試しに激辛好きの友達に食べさせてみたら、「こんな辛いもん、食えるか!」と言われ、自信を持って準備していたそうな。
ってことで、早速試食してみました。
敢えて裏面を読まず、予備知識なしで・・・。
見た目は、こんな感じ。

とかく激辛カレーというと焦げ茶色系が多いのですが、これは赤・・・というか少し橙色がかっています。
見た目は少々拍子抜けでしたが、食べてみると確かに辛いです。
と言っても、食べられないという程ではなく、水なしで一気に完食。
少しだけ汗はかきましたけどネ。
比較は難しいですが、以前ご紹介したLEE×30(45)倍が重い辛さだとすれば、こちらは鋭い辛さって感じ。
食べ終わってからパッケージの裏面を読んでみると、メーカーはベル食品工業。
そう言えば大昔、私が小学生の頃オフクロに
「バーモントみたいな甘いカレーはイヤだ。もっと辛くして!」
と頼んだら、ベルカレーってのを買ってきてくれて、それが結構辛かったことを思い出しました。
そしてこのカレーは、アメリカで人気の 『ブレアーズ サドンデスソース』 を使用しているとのこと。
だから〝デスカレー〟なんですネ。
調べたら、原料が世界一辛い唐辛子とされるジョロキアやハバネロだそうですから、なるほど食べている途中からカレーよりも唐辛子の味がしたわけです。
LEEで物足りない方は、一度お試しあれ。
さてと・・・私は死ななかったので、これを通販で仕入れてエネゴリ君に食べさせ、死ぬかどうか確かめてみようっと。
「日本の俳優で、最も総理大臣に適役なのは?」 と問われたら、皆さんは誰の名を挙げられるでしょうか?
年代によって答えは様々でしょうが、私にとってはこの方がNo.1。
そう
山村 聰 さん
今日は、私と同年代以上の方にはお馴染みの、この名優の命日にあたります。
1910年に奈良県天理市に生まれた山村(本名:古賀寛定)さんは、一高 → 東京帝国大学文学部という秀才コースを歩みましたが、大学卒業後はなぜか研究劇団に入団して役者の道に。
戦後1946年に映画に初出演し、1950年には小津安二郎監督作品 『宗方姉妹』 に主演、第1回ブルーリボン賞・主演男優賞を受賞。
また自らプロダクションを立ち上げて映画監督も務めました。
私が山村さんを初めて画面で見たのは、おそらくTVドラマ 『ただいま11人』 だったと思います。
さすがにストーリーは憶えていませんが、(現在では殆ど見られないような)大家族の中で悠然と構えた家長たる父親役・・・という姿がうっすらと脳裏に残っています。
そして山村氏は父親役もさることながら、大物役も板についていました。
中でも印象的なのは、日米合作映画 『 トラ トラ トラ!』 における山本五十六元帥役。(↓)
その知性と威厳溢れる立ち居振る舞いは大将役の風格十分、本物の山本元帥もかくあらん・・・という名演でした。
また時代劇では 『あゝ忠臣蔵』(1969年)の大石内蔵助役、『必殺仕掛人』(1972~73年)での元締・音羽屋役や 『柳生一族の陰謀』 (1978~79年)での柳生宗矩役が見事にハマッてましたネ。
また映画・ドラマで通算4度も総理大臣役を演じ、トヨタ・クラウンのCMにも長く起用されたのも頷ける、風格ある俳優でした。
まもなく60歳にならんとする私ですが、今でもああいう威厳のある男になりたい・・・そう思わせる山村さんが急性心筋梗塞で90歳の生涯に幕を閉じたのは、2000年5月26日のこと。
日本を代表する大物俳優のご冥福を、あらためてお祈り致します。
靴底のつま先と踵に金属板をつけて、リズミカルに床を踏み鳴らす・・・今日・5月25日は、その
タップダンスの日
National Tap Dance Day
なのだそうです。
由来は、〝タップの神様〟といわれたアメリカの黒人ダンサー、ビル・ボージャングル・ロビンソン(1878-1949)の誕生日だから。
Bill "Bojangles" Robinson
まずは、その彼の名人芸をご覧ください。(↓)
う~ん、さすが神様と言われるだけのことはありますネ。
このタップダンスは、18世紀にアメリカ南部の黒人奴隷によって生み出されました。
もともと彼らは労働後にダンスを踊る習慣があり、その際にはドラムを打ち鳴らしていたとか。
ところが1739年にサウスカロライナ州で暴動が発生して以降、白人がそのドラムを禁止に。
そこで黒人たちがドラムの代わりに足を踏み鳴らして音を出したことが、そのルーツ。
20世紀に入り、映画や音楽と共に世界に広まりました。
〝タップ〟は、靴底につける金属板をタップスと呼んだことから。
昭和世代の私としては、タップダンスでまず頭に浮かぶのは、サミー・デービス・ジュニア。
でも最近では、黒人だけでなく日本人でも国際的に活躍するタップダンサーが何人もいます。
個人的には、2003年に公開された北野武監督作品『座頭市』のラストシーンで演じられた団体タップダンスが強く印象に残っています。
しかし、何で時代劇にタップダンスが出てきたのか、今だに不思議ではありますが・・・。
それでは最後に、記念日に相応しい(?)壮観なタップダンスをご覧ください。
ここ2,3年、若い世代にも注目されているという、落語。
『笑点』 は相変わらず高視聴率を誇り、テレビには人気落語家が何人も出演していますから、その人気の底堅さが伺えます。
が、今からちょうど40年前・・・その落語界を揺るがす〝事変〟が勃発しました。 それは、
落語協会分裂騒動
それまで、真打昇進は師匠・会長・席亭全員の承認を得て決まる・・・という建前はあったものの、実質的には会長の専断で決められていました。
1965~72年まで(江戸落語の団体である)落語協会の会長を務めた三遊亭圓生師匠は、真打昇進について
「真打になるだけの能力がある者がなるべきであって、2つ目で終わる者は終わっても構わない」
という厳しい考え方の持ち主でした。
それ故、圓生師匠の弟子ですら真打になれず、若手落語家の間では不満がくすぶっていました。
そして柳家小さん師匠が圓生師匠の跡を継いで5代目会長に就任すると、三遊亭圓楽・立川談志らを新理事に登用し、理事会に合議制を導入。
10年以上2つ目で留まっていた若手の声に応える形で、協会最高顧問だった圓生師匠は反対したものの、理事会の多数決により同年3月と10月にそれぞれ10人ずつ、20人もの真打を誕生させたのです。
そしてしばらく沈静化した後、1978年5月8日に再び10名の真打昇進が理事会の多数決により決定したことに、圓生師匠が反発。
同年5月24日に、圓生師匠は意を同じくする直弟子の圓楽・志ん朝・圓蔵らと共に赤坂プリンスホテルで記者会見を開き、真打乱造による落語の低質化を問題視し、新たに 『落語三遊協会』 の立ち上げを発表したのです。
三遊亭圓生 柳家小さん
当初は圓生師匠の憂いに共感するファンも多く、小さん師匠ら落語協会幹部に批判が集まりました。
しかしそれまで組織の頂点に君臨し独断専行だった圓生師匠の根回し下手が影響してか、当初移籍を期待していた金原亭馬生・林家三平・立川談志の各一門らが合流せず、また直弟子だった三遊亭さん生・好生も同調しないなど、結局三遊協会に加盟したのは圓生・志ん朝・圓蔵一門だけ。
その様子を見ていた落語芸術協会も反発し、また寄席を仕切る席亭も「三遊協会の出演は認めない」 ことを翌25日に決定。
プロ野球に例えるなら、新リーグを立ち上げたものの東京ドームや甲子園で試合をさせてもらえないってこと。
落語三遊協会の命運は、旗揚げ後僅か1日でほぼ決してしまいました。
席亭の決定を受け、圓蔵・志ん朝一門はすぐさま小さん会長に頭を下げて落語協会に復帰。
言い出しっぺの圓生師匠は意地で新団体を存続させようとしたものの、席亭から締め出されたために地方公演や公民館などでの小規模な寄席しか活躍の場がなくなってしまいました。
新協会存続のため働き詰めとなった圓生師匠は、旗揚げから1年4ヶ月後の1979年9月3日、習志野文化ホールで開かれた落語三遊協会後援会発足式の席上で一席演じた直後、楽屋で心筋梗塞を起こし昏倒・・・そのまま帰らぬ人に。
奇しくもその日は、圓生師匠79歳の誕生日でありました。
誕生日に弟子たちが贈ったイタリア製の靴を玄関で履いたら、
「こりゃ、重いねェ。 うん、重すぎるょ。 悪いけど換えてきておくれ。」
と言った数時間後に息を引き取ったそうな・・・もう身体は疲れ切っていたんでしょうネ。
大黒柱を失った三遊協会は、事実上崩壊。
傘下の落語家たちは協会を解散し、1980年2月に落語協会に復帰し、一連の騒動は収まりました。
しかし多くの落語家の運命はこの騒動に巻き込まれる形で変わりましたし、5代目・圓楽師匠は復帰を拒み独自路線を歩むことに。
※その圓楽師匠に関する過去記事は、こちら。 (↓)
結局、この分裂騒動ではお互いに得るものはなく、ギクシャクした人間関係だけが残った形。
この騒動に関して詳しく知りたい方には、その渦中にいた圓生師匠の弟子・三遊亭円丈師匠が綴ったノンフィクション小説
『御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち』 (主婦の友社・刊)
のご一読をお勧めします。
登場人物は全て実名であり、著者本人が 「95%は事実、残り4%は細かい言い回しの違い、1%はギャグ」 と述べている本書は、落語ファンでなくとも読み応え十分。
(ただし、この円丈師匠がかなり圓楽師匠を嫌っていたことを割り引いて読んだ方がいいかもしれませんが・・・。)
この本を読むと、何やら以前政界で起きた〝加藤の乱〟を彷彿とさせます。
大騒ぎした割には尻すぼみってところが、ソックリ!?
古今東西の歴史を顧みると、国家間の戦争は些細な出来事から始まることが少なくありません。
皇太子が暗殺されたサラエボ事件をキッカケにヨーロッバ全土はおろかアメリカや日本まで巻き込む第一次世界大戦になったことは、その典型。
そこまで大事にはならずとも、今からちょうど400年前の今日、国家間戦争の火種となる出来事が起きました。 それは
そうがいとうてき
プラハ窓外投擲事件
その前年・1617年にカトリック教徒で対プロスタント強硬派だったハプスブルグ家のフェルディナンド(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)がボヘミア王に即位。
すぐにプロテスタントを迫害しようとしたことにボヘミア貴族は反発。
フェルディナントの即位を認めず、対立が深まっていきました。
そして1618年5月23日、ボヘミアの民衆がプラハ城を襲撃。
中にいた国王の顧問官2名と書記1名の計3名を、3階の窓から放り投げてしまったのです。
現在でもプラハ城には多くの観光客が訪れているそうですが、実際に放り投げたのが、下の画像左の×印がついた窓。
これだけだとあまり高くなさそうですが、別角度からみると・・・
高さは約20mもあるそうですから、普通なら命を落とすか半身不随になってもおかしくないですょネ。
ところが当日は幸い(市民にとっては不幸?)にも地面に干し草が積んであったそうで、3人はケガをしただけ・・・命からがらフェルディナントのいるウィーンに逃げ帰って事の次第を報告。
この事件直後、ボヘミア貴族たちは新たにプロテスタント教徒のプファルツ選帝侯フリードリヒ5世をボヘミア王に迎えましたが、そんなことをフェルディナントが認めるわけはなし。
ハプスブルグ家は即座に鎮圧軍を派兵し、1620年の白山の戦いで撃破。
ボヘミア貴族らは財産没収の上、国外追放に。
この厳しい処断にプロテスタント教徒が激しく反発し、その後双方の戦争が長期化したそうな。
そして同地では、窓から人を放り投げたのはこれが最初ではありませんでした。
この事件から遡る事約200年前の1419年に、やはり宗教問題でローマ教会と対立したボヘミア王ヴァーツラフ4世が和解案としてローマ教会派だけの参事会を組織したところ、旧勢力のフス派が激怒。
プラハ市庁舎を襲撃し、ドイツ人市長と参事会員を窓から放り投げ、これを聴いたヴァーツラフ4世がショック死し、その後フス戦争が勃発し20年近く民族運動が続いたとか。
民族性は様々ですが、ボヘミアンは窓から人を放り投げるのが好きなんでしょうか?
今後もしヨーロッパに旅行してチェコ辺りに行かれる方は、窓に近づかない方がいいかも・・・。
『太閤記』 などに、豊臣秀吉の家臣としてその名が出てくる
蜂須賀 小六(正勝)
彼は歴とした実在の人物であり、今日が彼の命日にあたります。
秀吉が生まれる11年前の1526(大永6)年に蜂須賀正利の長男として生まれた小六は、時代小説などで野盗や野武士のように描かれ、とかく秀吉とは偶然に出会ったような設定になっています。
しかし実際は尾張の蜂須賀郷を拠点とした領主の子孫であり、1553年に父が亡くなった後は齋藤道三に、その後織田家に仕えたことがあるものの、基本的には木曽川中洲を本拠地にしていた武装集団・川波衆を束ねる独立系の武将だったとか。
また秀吉の父・木下弥右衛門が蜂須賀正利に仕えていたとされ、その縁で秀吉は少年時代から小六とも面識があったと思われます。
そして彼は〝顔中髭だらけの荒くれ男〟というイメージで時代劇に登場しがちですが、実際にはこんなスッキリした方だったようです。(↓)
小六の名が一躍表舞台に躍り出たのは、木下藤吉郎(秀吉)が信長の命を受け、佐久間信盛・柴田勝家が果たせなかった 〝墨俣一夜城〟 の築城に、大きく貢献してからのこと。
齋藤道三の攻撃を凌ぎつつ軟弱な土壌に短期間で築城することは、地元の人脈・地理・河川事情に通じた川並衆を差配できた彼の存在なくしては成しえなかったといわれています。
その後も秀吉の毛利征伐に同道するなどして軍功を挙げましたが、その恩賞として与えられた阿波一国を息子・家政に譲り、さらに自分よりも後から秀吉に仕えた武将を立てて、ひたすら年下の主君・秀吉のそばに仕え続け、
「秀吉の動くところ正勝のあらざるなく」
とまで言われたという蜂須賀小六。
こんな忠臣が1人でもいてくれたら・・・そう思う経営トップも多いのではないでしょうか?
秀吉が世を去る12年前・1586(天正14)年5月22日に彼は60歳の生涯を閉じますが、息子・家政も秀吉に仕えて小田原征伐や文禄・慶長の役に従軍し、徳島城主として君臨。
その家政の子・至鎮は家康の養女を妻に迎えたことから東軍に属し、以後蜂須賀氏は徳川大名として明治維新まで家を継いだそうです。
秀吉の〝腹心〟は豪放磊落というより、あたかも〝ミニ家康〟。
己の分を弁え、年下でも有能な上司・秀吉に尽くして一族を守った、深慮遠謀の智将だったようです。
さて、この蜂須賀小六の子孫が現在芸能界で活躍しているのをご存知でしょうか?
それは、この方・・・。
そう、女優・タレントの釈由美子さん。
彼女の本姓は〝釋〟であり、これは蜂須賀小六の末裔が出家して四国に渡った際に改名したものだとか。
もっとも、これは釈さん本人が仰っていることなんですけどネ。
信じるか信じないかは、貴方次第ですが・・・。