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助 手

発明王トーマス・エジソンの名は皆さんご存知でしょうが、彼が新渡戸稲造の 『武士道』 を愛読する程の親日家であったことは、それほど知られていないと思います。

それは、彼が発明(というより改良)した白熱電球のフィラメントに日本の竹を使ったから、というわけではありません。

その発明後の彼を支えた日本人助手の存在があったからなのです。 今日は、その


       よしろう
 岡部 芳郎

の命日にあたります。


       

1884(明治17)年に神戸で生まれた彼は、山口県立大島商船学校を卒業後、海軍予備少尉に任官。


22歳の時にイギリス商船レイキャッスル号に3等機関士として乗船し1904年に渡米した際、ニューヨーク停泊中に急性盲腸炎になり下船を余儀なくされます。


治癒後もそのままアメリカに残った彼は、特許弁理士の下で製図の仕事にありつきます。

その後ウェスティングハウス・エレクトリック社に雇用されると、同社の技術長からエジソン研究所の技師長を紹介されて採用され、以後6年間にわたりエジソンの助手を務めました。 エジソンは、

「自分の子供たちはしょっちゅう自分の周りから金品を勝手に持ち出していくが、この日本の青年はテーブルの上にお金が置いてあっても、手をつけることなど全くない。」

と彼の誠実さと真面目な働きぶりを評価し、またエジソンが暴漢に襲われた際に柔道の技で撃退したり、仲良し3人組だったヘンリー・フォードやハーベイ・ファイヤストーンとのキャンプ旅行の世話を細やかにしたことで岡部助手を大変気に入ったとのこと。


       


研究所ではトーキーの音声を拡大する研究や金粉末密着法の設計製図、電池を用いた自動車モーターの研究に従事したり、時には三井のニューヨーク支店などとの交渉をも担当したとか。


そして1914年に日本キネトフォンの専任技師として帰国し、エジソンのキネトフォンを使って松井須磨子の 『カチューシャの唄』 の映画版を制作し、浅草日本館で上映されました。

エジソン没後の1934年に京都府八幡市男山のエジソン記念碑の除幕式に、エジソンと最も親しかった日本人として参列した彼は、その後神戸で鉄工所を経営。

船舶修理などで財を成したそうですが、彼の未来を奪ったのは戦争でした。

英米との衝突が色濃くなるにつれ事業の縮小を余儀なくされたのですが、その原因として渡米経験があったことで憲兵からスパイ容疑で尋問を受けたことが影響したといわれています。

そして1945年3月17日・・・神戸大空襲によって61歳で戦災死してしまったのです。

残念ながら、エジソンから譲り受けた貴重な品々も同時に焼失してしまいました。


彼の薫陶を受け、アメリカから最新技術の映像技術を持ち帰りながら最後はそのアメリカによって殺された彼の思いは、いかばかりだったのか・・・。

発明王が雇った唯一の日本人助手のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3


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