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転 覆

東京五輪開催直後の1964年12月に開業し、1969年に現在の東京・中野駅~千葉県・西船橋駅間30.8kmの全線開通・営業を開始した、

 東京メトロ・東西線

その名の通り首都圏を東西に横断し、サラリーマンや学生が数多く利用する地下鉄・・・損保マンだった私も、日本橋にある本店勤務時代には何年か通勤で利用していました。


実はこの東西線、地下鉄とは言いながら全線の半分近く、約14kmが地上を走るという、他に類を見ない路線。

これは経路の地盤が軟弱なことと、建設当時はまだ用地買収が容易かつ地下を掘るより高架の方がコストが1/10だったことがその要因だったそうな。

この東西線を現在利用されている方の殆どがご存知ないと思いますが、今からちょうど40年前の今日・1978(昭和53)年2月28日・・・その地上を走っている時に脱線転覆事故が起きました。

事故地点は、南砂町駅~西葛西駅間に架かる、荒川中川橋梁。


    

全長1,236mで、事故当時は私鉄で最も長い鉄道橋でした。

ここを同日午後9時30分過ぎに中野行き快速列車(10両編成)が走行中、強風を受けて後部2両が脱線・転覆したのです。

夜遅い時間帯だったため乗客がそれほど多くなかったことと、橋の構造が両側に三角形状に鉄骨を組んだトラス構造で車両が川に転落しなかったため死者はなく、ケガ人23人だけで済んだことは不幸中の幸いでした。


    


当該事故に関し、当初一部のテレビ・新聞では、アルミ製の車輛が軽量だったが故に強風に煽られ転覆したと報じたようですが、これは誤報。

車輛はステンレス製で決して軽量ではなく、また当時営団地下鉄では地上の要所に風速計を設置し、風速15m/sで警告ブザーが鳴り、20m/sで運転を見合わせることになっていましたが、この時はブザーすら鳴りませんでした。

では、何故転覆したのか?

その原因は・・・なんと〝竜巻〟でした。

この事故が起きる10分ほど前、神奈川県川崎市から約30km離れた千葉県市川市に向かって幅3~500mの範囲内で約30分の時間内に突風により民家8戸が全壊し、60戸の屋根が飛ぶという被害がありました。

地図で見ると、事故現場の橋梁(赤矢印先)が、その時速80~100


kmで移動したと思わる竜巻のルート上にあることが分かります。

    

その後の調査で、
走行中の列車を竜巻が直撃する確率は50~100年に1回と計算され、不可抗力という結論になったとか。

まさに宝くじの1等賞に当たるかそれ以下の確率・・・ですが、当時に比べ熱帯化が進みゲリラ豪雨が頻発する首都圏では、竜巻が起きる確率は上がっているはず。

突発的に起きるため事前に回避することは殆ど不可能な事故ですが、

「乗用車ならともかく、何十人も乗ってる重い電車なら安全」

なんて甘い考えは、大自然の驚異には通用しないことを認識すべきでしょう。
うー



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実 況

現在、偏向報道や不祥事で多くの批判を浴びているNHK・・・私も今は殆ど視聴していませんが、例外的に観るのはスポーツ中継。

メジャー・リーグや日本のプロ野球、またサッカーやバスケット・ゴルフなど各種競技の日本選手権など国内最高峰の中継は、ほぼNHKの独占中継ですからネ。

その子供の頃から観ていたNHKのスポーツ中継で私がお世話になったというか、忘れられないアナウンサーがお2人いらっしゃいます。

1人はオリンピック11回、そして1969年・夏の甲子園決勝・三沢 vs 松山商 〝延長18回の死闘〟を
実況した羽佐間正雄アナ(1931- )。

そしてもう1人が


西田 善夫 アナ


今日は、身長184cmの大柄な体格で細い目に黒縁のメガネをかけ、いつも笑顔を絶やさなかったこの名物スポーツ・アナの命日・三回忌にあたります。

       


西田アナは羽佐間アナより5歳年下・・・1936(昭和11)年に東京で生まれました。

私の生まれた年・1958年に早稲田大学法学部を卒業し、NHKにアナウンサーとして入局し室蘭放送局に配属。

そして1964年の東京オリンピックでは最年少アナとしてバレーボールの実況を担当。

あの〝東洋の魔女〟を率いて金メダルを獲得した大松監督にソ連を破った直後の優勝インタビューをしたのが、西田アナでした。


以後オリンピック実況は羽佐間アナに続く10回にのぼり、1976年のモントリオール五輪では、女子バレーボールの決勝戦を実況し、山田重雄監督率いる日本チームの優勝を

「笑顔の優勝です。 泣かない優勝です。」

と実況したことは有名。

実は西田アナ自身、東京オリンピック開催前の札幌放送局時代、ちょうど9人制から6人制に移行する時期に体育の先生らに混じって講習会に参加し、日本バレーボール協会のB級地方公認審判員の資格を取得。

学生試合の審判を務めたことがあるそうですから、まさに〝好きこそものの上手なれ〟。


そして1980年のレークプラシッド冬季五輪では、〝ミラクル・オン・アイス〟と言われた、当時世界最強を誇ったソ連アイスホッケー・チームを学生選手で固めた若いアメリカチームが撃破した歴史的な試合も実況。

※西田アナにとっても最も思い出に残っていたという、この伝説の試合に関する過去記事は、こちら。(↓)



アイスホッケーと言えば、西田アナの実況でこんなことが・・・。

私が中学生時代、世界選手権の実況中継でフィンランドのチームを紹介した時に、

「背番号〇〇番の選手はアホカイネン。 

日本人が一度聞いたら忘れられない名前です。」

と大真面目で仰ったこと。

確かに、40年以上経った今でも私はしっかり憶えています。
あせあせ


       
               若かりし頃の西田アナ

その後もあらゆる競技のスポーツ実況を始め、『スポーツアワー』 や『サタデースポーツ』 のキャスターなどを務めました。

1991年にはスポーツアナ出身として初めてNHK解説委員を務め、1996年に定年退職した後は鹿屋体育大学・立教大学などの教授を歴任。

1998年には新設された横浜国際総合競技場の初代場長を務め2002年のサッカーW杯成功に尽力。

その後スポーツ評論家の傍ら、
総務省 『スポーツ拠点つくり推進委員会』 委員や野球殿堂特別表彰委員も務められた西田さんでしたが、2016年2月27日・・・心不全により80歳で天に召されました。

まさにスポーツ一筋の人生・・・体育会系の私には羨ましい限りですが、同時に西田さんは複数の著作も残しています。

今日は、その中の1冊をご紹介しましょう。


 『オリンピックと放送』 (丸善ライブラリー)


       


西田アナの豊富なオリンピック実況中継の経験談を通して、スポーツ中継黎明期からの技術の進歩や実況アナの苦労がよく分かります。

私のような昭和世代の方が読めば、それぞれのオリンピックの名場面が脳内スクリーンに蘇ることでしょう。


平昌五輪は終わりましたが、来る2020年の東京五輪のテレビ中継をより楽しみたい方には、オススメですョ。

今宵は久しぶりに同書のページをめくりながら西田アナの笑顔を思い出しつつ、改めてご冥福をお祈りしたいと思います。


 


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逆輸入

日本画壇に於いて、最高峰に君臨する画家は?・・・そう問われたら、皆さんは誰の名を挙げるでしょうか。 私なら、


 横山 大観 


の名がまず浮かぶのですが・・・今日・2月26日は、この巨匠の命日・没後60周年にあたります。


       横山大観


1868(明治元)年に水戸市に生まれた大観(本名:酒井秀麿)は、当初東京英語学校に入学したものの在学中に絵画に興味を持ち始め、洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学びます。


20歳の時に母方の遠戚・横山家の養子となり狩野派・狩野芳崖氏に師事した後、1889年に東京美術学校(※東京藝大の前身)第一期生として入学。


卒業後は京都私立美術工芸学校教員を経て、28歳で東京芸術学校の助教授に就任。

       
          
『無我』 1897年 東京国立美術館・蔵


しかしその2年後、排斥運動により尊敬する同校校長・岡倉天心氏が失脚したことで彼自身も辞職し、日本美術院創設に参画することに。


その活動を通して、彼は菱田春草と共に西洋画の画法を取り入れた先鋭的な 〝没線画法〟 を用いた作品を発表したものの、国内では全くと言っていいほど評価されなかったそうな。


そこで彼は海外に目を向けインド・アメリカで展覧会を開いたのですが、これが大成功。


   
重要文化財 『生々流転』 ※一部 1923年 東京国立近代美術館・蔵


引き続きヨーロッパ各地にも作品を持ち込み高い評価を受けたことで、やっと日本国内でも名声を博することとなりました。

海外の
高い評価が、国内での名声を高めるという、まさに逆輸入型。
北野武監督の映画と同じパターンですネ。


 

            『夜桜』 1929年 大倉財団美術館・蔵


1935年に帝国美術院会員となり、2年後には新設された文化勲章の第1回受賞者となります。


1958年2月26日に89歳で大往生を遂げ、その直後に勲一等旭日大綬章を授与された画伯は、まさに日本画壇の最高峰に立つ人物と申せましょう。


また画伯は、無類の酒飲みとしても有名。


毎朝6時に起床すると朝食に2合、昼食に3合。


夕食で飲み始めたら夜9時前後に就寝するまで飲み続けたそうで、しかも 「酒は米のジュースなのだから、米食しなくても同じこと」 という独自の理論(?)に基づいて、米はもちろん殆ど固形物を口にしなかったとのこと。


それで90年近く生き、しかも (現在も東大医学部に保管されているという) 画伯の脳は一般人よりも重く、しかもしっかりとしているそうですから、まさに〝酒は百薬の長〟?    


   

                              『日出処日本』  


ところで、私はかねてより不思議に思っていたことがありました。


それは 『なんでも鑑定団』 を観ていると、実に多数の横山大観・作と銘打った作品が登場し、その殆どが贋作と鑑定されること。


専門家に言わせると横山画伯の画風は模倣しやすいのだそうで、戦前には彼の名を語って各地の名家に出没し、食客となっては絵画を描き残すニセ大観が何人も現れたのが原因だとか。


現在のようにネットですぐ情報を得られる時代ではありませんでしたから、コロッと騙されても致し方なかったのかもしれませんが、それ故に贋作が代を重ねるに従って〝家宝の真作〟として受け継がれているのでしょう。


それらの贋作を〝田舎大観〟と称するのだそうですが・・・もし貴方の周囲に 「我が家には大観の絵がある」 と豪語する方がいらっしゃるならば、一度 『なんでも鑑定団』 へのエントリーをお勧めした方がいいかもしれません。あせあせ

日本を代表する巨匠の生涯に触れたい方は、是非上野・不忍池の畔にある 『横山大観記念館』 に足をお運び下さい。


 ※同館のHPは、こちら (↓)
    http://museum.tachikawaonline.jp/15_yokoyama/


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内 紛

昨年10月に、横綱・日馬富士が飲食中に同じモンゴル人力士の十両・貴ノ岩を殴ってケガをさせ、横綱を引退。

また被害者・貴ノ岩の師匠である貴乃花親方が八角理事長ら相撲協会側と衝突し、先月初めに行われた理事選で落選。

と、ここまでの経緯は皆さんも十分ご承知だと思いますが、その後平昌冬季五輪が開催されたこともあり、この話題は一段落した感が無きにしも非ず。

拙ブログ読者は既にご承知の通り、私はここ10年以上大相撲は観ておらず、この内部抗争劇は一歩引いて〝組織運営〟という観点から眺めていました・・・が、今月22日にこんな書籍が発売されることを偶然知り、早速取り寄せました。


 『貴の乱』 (宝島社・刊)


        


別冊宝島特別取材班らによって執筆された同書・・・もともと宝島社は昔から大相撲の取材に力を入れている出版社。

私自身もこれまで同社が出版した大相撲関連書籍を読んでおり、その突っ込んだ取材姿勢を評価していましたので、今回の騒動についてどう伝えているか非常に興味があり、一気に読み終えました。


これまでメディアの論調では、ガチンコ相撲の貴乃花親方が八百長相撲に走るモンゴル勢とそれを放任する相撲協会に対し憤り、改革を目指しているという感じでしたが、どうもそれだけではないようです。

本書では、2年程前の2015年12月に行われた理事会の模様を(録音を聞いて)書き起こし、そこから黒幕とも言える人物の存在を浮き上がらせ、理事たちがその住所すら知らない外部の人間がいかに相撲協会に食い込んでいったかを殆ど実名を挙げて明らかにしています。


そして八角理事長と貴乃花親方の確執は、昨年の暴行事件より遥か前からその重要人物・K氏(同書内では実名)を巡って敵味方に分かれた抗争劇だったというのです。


  


これまで、テレビ・新聞などメディアの多くは協会を支持し貴乃花親方を批判する報道が目立ち、一方でネット上では貴乃花親方を相撲界改革の旗手として期待する声が多かったように感じました。

しかし、事はどうもそんな単純な話ではないようです。
言い方を変えれば、もっと醜い利権争いがあったと・・・。

具体的な内容は拙ブログでは差し控えますので、お知りになりたい方には同書をお買い求めいただきたく存じますが、読んで来月11日から始まる三月場所を観戦する気が失せたとしても、当方では責任は持ちませんので、念のため。
あせあせ

特に貴乃花支持者には辛い内容かも。

とは言え、モンゴル勢力を制御できず現在の混乱を招いた八角理事長を擁護する気にもなりませんが。

個人的には、日本相撲協会は一旦公益社団法人格を返上し、理事長に部外者を据えて根本的に組織を作り変えないと、もうこの泥沼からは這い上がれない気がしますが・・・果たして?うー


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低予算

〝どこの誰かは 知らないけれど  誰もがみんな 知っている
   〇〇〇〇の おじさんは  正義の味方よ よい人よ~〟
音譜


この歌詞の〇〇〇〇に入る、漢字4文字は何でしょう?

おそらく私と同年代以上の中高年世代の方なら、すぐお分かりでしょう。そう、正解は


 月光仮面


今や伝説と言っていい、この人気連続テレビ映画の第1回がKRテレビ(現・TBS)で放映されたのが、今からちょうど60年前の1958(昭和33)年2月24日のことでした。


    

日本初のTVヒーローと言っていい月光仮面誕生の裏側には、当時制作に関わった人々の涙ぐましい努力と工夫が詰まっていました。

この番組が始まる前、同じ時間枠で放映されていた時代劇の連続ドラマが低視聴率に喘ぎ、KRテレビは武田薬品がスポンサーを降りる危機に晒されます。

同社と関係が深かった広告会社・宣弘社は、降板を阻止すべく宣弘社プロダクションを設立して自ら番組制作に乗り出すことに。

小林利雄・宣弘社々長(1921-2007)は、当時の相場の10~20%の低予算で制作する必要に迫られたためカネのかかる時代劇ではなく、スーパーマンのようなヒーローを登場させる現代劇の制作を決意。

原作を、後に『骨まで愛して』『伊勢佐木町ブルース』など数々のヒット曲を世に送り出した作詞家・劇作家の川内康範氏(1920-2008)に依頼。

実はこの小林社長・・・東京駅の巨大クリスマス・デコレーションや銀座のネオンサイなど繁華街の斬新な屋外広告を次々に設置し〝銀座の夜を支配する男〟などと異名を取ったアイデアマン。

その想像力・企画力は、この番組制作でも遺憾なく発揮されました。

        

               小林社長と月光仮面


ヒーローは人々の苦難を救済することから菩薩をイメージし、当初は日光菩薩の名を借りた〝日光仮面〟というネーミングが考案されましたが、更にこれを月光菩薩から〝月光仮面〟とし、これが最終決定に。

モデルは、極真空手の大山倍達館長だったそうな。

製作費を切り詰める関係から、監督は弱冠26歳の船床定男さん、主役・祝十郎役を当時まだ東映の大部屋俳優だった大瀬康一さん(後に『隠密剣士』などの主役として活躍)を抜擢。

その他の撮影スタッフも無名の新人を各所から集め、時には宣弘社の社員が演じたことも。

更には撮影場所も小林社長の自宅が使われ、撮影中は小林夫人が邪魔にならぬようホテル住まいをしたとか。

またロケも小林社長宅周辺、カメラはゼンマイ式の小型カメラを使用。

バイクはホンダから借り受け、効果音は東映から無断借用するなど、コスト削減は徹底されました。

当時の常識を覆す超低予算番組でしたが、いざ放映されるとたちまち大反響を巻き起こし、平均視聴率は40%・最高視聴率67.8%を記録。

川内氏が作詞した冒頭ご紹介の主題歌『月光仮面は誰でしょう』は子供たちの間で大流行し、子供向けとしては異例のレコード10万枚以上を売り上げました。

大ヒットを受けて番組は当初予定の3ヶ月から大幅に延長され、放送時間も10分から30分に、そして予算も15万円から70万円にアップ。

小林社長にしてみれば、してやったり・・・だったのですが、これだけ反響が大きいと必ず足を引っ張られるのが、世の常。

月光仮面の真似をして屋根から飛び降りた子供がケガをしたり亡くなる事故が起き、新聞・週刊誌から〝有害番組〟と批判され、川内氏が週刊新潮を訴える事態に発展。

結局、翌1959年7月に番組は打ち切り・・・その最終回の視聴率は42.2%だったそうですから、何とももったいない限り。

しかし月光仮面は、その後も劇場映画化やアニメ化されるなど多くの人々に親しまれました。

私自身はこのテレビ映画シリーズは知りませんが、アニメにはお世話になりました。

      

有害番組と名指されましたが、同番組のコンセプトは


「憎むな、殺すな、ゆるしましょう」

であり、悪人といえども懲らしめるだけで過剰に傷つけることはなく、銃を撃っても威嚇するだけで人命は決して奪わなかったとか。

そういう意味でいえば、昨今のドラマやアニメの方が余程有害だと思うんですけどネ。

それでは最後に、昔懐かしい月光仮面のオープニングを、こちらでお楽しみください。

昭和の香り、プンプンですョ!笑2




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抗 戦

明治維新前後には新政府軍と幕府軍の衝突により様々な悲劇が日本各地で起きましたが、彼らもそんな激動の荒波に揉まれ散った集団でした。


1868(慶應4)年1月早々に勃発した鳥羽・伏見の戦いの最中、第15代将軍・徳川慶喜は突如ごく一部の取り巻きと共に軍艦・開陽丸に乗って江戸に逃走。

※戊辰戦争(
鳥羽・伏見の戦い)に関する過去記事は、こちら。(↓)



そして慶喜は主戦論を唱える小栗上野介を退け、新政府軍に対し恭順の意を示すため、2月12日に上野・寛永寺に蟄居。


        

                  徳川 慶喜 


これを不満とした一部の幕臣が一橋家所縁の者ら同志を募り慶喜の復権を目指して3回ほど会合を開くと、そのたびに参加人数が増加。

そして今からちょうど150年前の今日・1868年2月23日に浅草・本願寺で、慶喜の警護を目的として
血誓状を認め結成されたのが、


 彰 義 隊


でした。


〝大義を彰(あきら)かにする〟という意味から命名された同隊の頭取には一橋家々臣で渋沢栄一の従兄の渋沢成一郎が、副頭取には幕臣・天野八郎が投票により就任。


  

              渋沢成一郎            天野八郎


恭順を示す旧幕府は、同隊が新政府に抵抗する軍隊と捉えられるのを恐れ、彼らに江戸市中の取り締まりを委託する警護・守備隊として公式に認定。


4月3日には慶喜が謹慎している上野・寛永寺に本拠を移しますが、肝心の慶喜が江戸城無血開城の当日・4月11日未明に寛永寺を出て水戸へ退去。

彰義隊メンバーは千住から松戸まで慶喜を護衛しましたが、これによって隊の存在意義・名目は失なわれてしまいます。

※ただし数名の隊士は水戸まで同行したのですが、その中の一人・佐久間禎一はそのおかげで後の上野戦争に巻き込まれることなく生き残り、後に印刷会社・秀英舎を創業・・・これが現在業界トップの大日本印刷の前身。


慶喜が水戸に帰ったことで日光に退くべしと主張する渋沢頭取と、日光輪王寺門跡公現入道親王を擁して徳川家霊廟守護を名目に寛永寺に留まるべきと主張する天野副頭取の対立が鮮明化。

天野一派から命を狙われたため、渋沢頭取は隊を離脱。

その後天野副頭取が身分・出自を問わず希望者を入隊させたため、
各地から新政府打倒に燃える脱藩兵や浪人・町民、果ては僧侶まで集まり、彰義隊は最盛期で3,000人以上に膨れ上がりました。

そしてその中には新政府軍のスパイも複数紛れ込んでいたとか・・・。


組織が急に膨張したため統制が取れず、江戸入りした新政府軍兵士に対する隊士の暴行殺害事件が繰り返されたため、勝海舟が解散を勧告したものの彼らは聞く耳を持たず。

結局新政府軍が同年5月1日に彰義隊に対し武装解除を勧告し、更に14日には彰義隊討伐を布告。

翌15日、新政府軍から討伐を嘱託された大村益次郎がガトリング砲などの最新兵器を導入して彰義隊と寛永寺周辺で交戦。(上野戦争)


    


混成軍の彰義隊は、前日の戦闘予告に怖気づいて逃亡者が相次ぎ、更に軍備の差は歴然・・・戦いは僅か1日足らずで新政府軍の圧倒的勝利にて終結。

260名余の彰義隊士が戦死し、残りは散り散りに敗走。
同隊は結成後僅か3ヶ月で消滅しました。


江戸市中に潜んで再起を図ろうとした天野は密告により捕らえられ、その5ヶ月後に38歳で獄死。

一方の渋沢は自ら
率いる振武軍を指揮して彰義隊の援護に赴きましたが、途中で敗北を知り敗兵の一部と合流して退却。

その後彼は従兄・栄一の紹介で大蔵省入りし、実業家として成功しましたから、天野副頭取とはまさに天と地の差・・・人間の運命は分からないものです。

この彰義隊について詳しく知りたい方には、この書籍をお勧めします。


 『真説 上野彰義隊』 (加来耕三・著 中公文庫・刊)

       


新政府軍に抵抗しながらも呆気なく散った彰義隊々士の墓が、上野公園にある西郷さんの銅像の裏手に、ひっそりと建てられています。


                


但し新政府にとっての逆賊だからなのか、墓石には彰義隊の文字は彫られていませんが・・・。

       

上野にお越しの際は、西郷さんの銅像だけでなく新政府軍に征伐された彼ら彰義隊のお墓も、是非お参りしていただきたく・・・。
笑3


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磁 力

小学生時代、〝N〟・〝S〟と書かれた棒状・U字型の磁石で釘などをくっつけて遊んだり授業で実験した記憶があると思います。

この磁石、実は我々の日常生活には不可欠のもの。

特に
外部からエネルギーを加えることなく、自発的かつ定常的に磁場を外部に発生させる


永久磁石

は、自動車やPC・家電製品に数多く利用されていますが・・・実はこの磁石の発明・開発が日本のお家芸・得意分野であることをご存知でしょうか?


永久磁石そのものの歴史は古く、落雷などにより着磁された天然の磁鉄鉱は紀元前より世界各地で用いられていたことが知られているそうですが、人工的な永久磁石材料の発明・開発は100年余りの歴史しかありません。

その端緒となる、従来のタングステン鋼に比べ3倍の耐久力と1.5倍の磁力を持つ 『KS鋼』 の特許(第32234号)が認められたのが、今からちょうど100年前の今日・1918(大正7)年2月22日のことでした。


 
                KS鋼各種 と 日本特許


この画期的な永久磁石を発明したのは、後に〝鐵の神様〟〝鐵鋼の父〟等と呼ばれた、金属材料研究所初代所長にして第6代東北帝国大学総長も務めた物理学者の

 
本多 光太郎  博士 (1870-1954)

       


現在の愛知県岡崎市に生まれ、尋常小学校の頃は〝鼻たらしの光さん〟と呼ばれ勉強嫌いだったという彼は、1897年に東京帝国大学理学大学物理学科を卒業すると鉄族元素の磁気ひずみや分子磁石説を展開し、36歳で理学博士の学位を取得。

その後ドイツ・フランス・イギリスに留学、1911年に帰国後東北帝国大学理学大学が開設されると教授に就任した彼は、1914年に第一次世界大戦が勃発したことにより磁石鋼の輸入が途絶えたことで自給する必要に迫られます。

そして46歳だった1916年にコバルト・タングステン・クロム・炭素を含む磁石鋼・『KS鋼』の開発に成功し、特許を取得したのです。


※『KS鋼』の名称は、この研究のスポンサーだった住友グループの前身である住友総本店々主・住友吉左エ門のイニシャルから付けられました。


この本多博士、まさに〝実験魔〟と言える程の実験好きだったそうな。


結婚式当日、新郎である彼が式場に姿を現さなかったため、よもやと思った友人が大学の研究室に行ったら、そこで実験していた・・・という逸話が残っている程。

1931年に東京帝大の三島徳七助教授(当時)が 『KS鋼』 の2倍の磁力を持つ 『MK鋼』 (名称の由来は同氏が養子入りした三島家と実家・
喜住家のイニシャル) を開発すると、更にそれ以上の磁力(『KS鋼』の4倍近くの保磁力)を持つ 『新KS鋼』 を開発できたのも、実験魔の為せる業と言えましょう。


※但し実際に発明したのは、本多氏が所長を務めていた鉄鋼研究所に所属する増本量・白川勇紀という2人の教え子であり、彼らの希望により特許出願は本多氏の名前で行われました。

1932年に日本人で初めてノーベル物理学賞の候補者となり、1937年には第1回文化勲章の受章者になったのも、頷けます。

ちなみに、現在世界最強と言われる永久磁石・『ネオジム磁石』を開発しノーベル物理学賞の候補にも名前が挙がった佐川眞人(1943- 現・大同特殊鋼顧問)氏も、東北大学大学院出身で富士通に入社後、自ら発見したネオジム磁石の研究に打ち込むためわざわざ住友特殊金属に転籍した方。


       

本多氏の教えは、脈々と同大学に息づいているようです。

その 『ネオジム磁石』、PCのハードディスクや携帯電話のマナーモードなど多分野で利用されていますが、通販などで簡単かつ安価で手に入ります。

購入して、童心に帰って子供さんと遊んでみてはいかがでしょう。
但し相当強い磁力ですから、ケガしないように気を付けて・・・。

  

そしてこの(永久)磁石に興味の湧いた方には、この本のご一読をオススメします。


 『磁石の発明特許物語 六人の先覚者』 
           
(鈴木雄一・著 アグネ技術センター・刊

        


やや専門的な理系向きの本ですが、磁石業界をリードしてきた本多・佐川両氏を含め日本人科学者6名の奮闘ぶりや国際特許出願の実態が分かりますョ。扇子


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【提 言】 竹 島

今日・2月22日は、

 竹島の日

島根県壱岐郡隠岐の島町・・・北緯37度14分30秒、東経131度52分に浮かぶ2つの島・竹島については、1905(明治38)年1月28日に島根県への編入を閣議決定し、同年2月22日に島根県知事が所属所管を明らかにする告示を行いました。


 

この記念日は、その告示から100周年にあたる2005(平成17)年に、島根県議会が県条例で制定したもの。

しかしご存知の通り、竹島は我が国固有の領土であるにもかかわらず、韓国が李承晩大統領政権時代の1952(昭和27)年から実効支配(不法占拠)しており、日本政府が彼らを排除できぬまま現在に至っています。

上記の通り今日は〝国民の祝日〟ではありませんが、私は日本政府の弱腰対応に対する抗議・叱咤激励、そして今日が竹島の日であることを周囲の方々に知っていただくために、敢えて国旗を掲揚しました。


   


ご賛同いただける方は、是非とも国旗掲揚をお願い致します。

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一 覧

どこのご家庭でも、固定電話を設置していれば無料で配布される

 電 話 帳

これが世界で初めてアメリカのコネチカット州ニューヘブンで発行されたのが、今からちょうど140年前の今日・1878年2月21日・・・あのグラハム・ベルが電話を発明してから、僅か2年後のことでした。


前月に電話局が開局してすぐに作られたものですが、その時点での電話加入者は僅か50人。

その殆どは電話会社の社員と支配人の支援者だけ・・・ということで、ご覧の通り電話帳と言っても紙1枚でした。(


        


一方、日本で最初に電話帳が発行されたのは、アメリカに遅れること12年の1890年。

名称は 『電話加入者人名表』。


電話交換業務が始まった時点で開通していた東京・横浜の加入者を番号順に並べた、やはり一枚の紙でした。(

       


これは電話番号1~269番まで記載されていましたが、当時の番号は申し込み順で割り当てられたため、1番が東京府庁、2番が逓信庁事務局・・・という具合。

それら官公庁や銀行・新聞社などの民間企業に混じって、158番に渋沢栄一、177番に大隈重信、248番に前島密などVIPの名も。

いくら住所なしで電話番号だけの記載とはいえ、個人情報にうるさい現代では考えられない大らかさですネ。

もっとも殆ど個人で電話契約できる人はいませんでしたし、かけそば一杯5厘の時代に東京~横浜間の通話料が5分で15銭(=150厘)

現代の貨幣価値だと、5分で15,000円前後ですから、とてもイタ電などできなかったでしょう。あせあせ


現在のように横書きのアイウエオ順に掲載されるようになったのは、1926(昭和元)年。(東京のみ1925年。)


そして電話帳に広告の掲載が始まったのが、1931(昭和6)年から。


職業別電話帳の登場が1951(昭和26)年で、50音別電話帳を『ハローページ』、職業別電話帳を『タウンページ』と名称変更したのが、1983(昭和58)年のことでした。


さて皆さんは、最近この電話帳を利用されていますでしょうか?

私はもう何年も開いてませんが・・・。

昔は電話帳の前に名前を掲載させたくて、ア行の社名をつけた・・・なんて話も聞きました(例:アート引越センター)が、最近はどうなんでしょう?

自分の体験を通して、弊社の広告は電話帳に一切掲載してませんが、皆さんは?

携帯電話しか持っていない方や電話帳への番号掲載を拒否する方が増えている中、この歴史ある電話帳は果たして今後も存続するや否や?うー


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籠 城

若い方はご存知ないかもしれませんが、今からちょうど50年前の今日・1968(昭和43)年2月20日に、日本の犯罪史上に残る大きな事件が起こりました。 それは、 

金嬉老事件


金嬉老という在日2世が金銭(手形)トラブルから暴力団員2名を猟銃で射殺し、逃亡の末静岡県・寸又峡温泉の旅館に押し入って経営者・宿泊客13名を人質にして篭城。


逮捕されるまでの人質監禁が88時間という、単独犯として我が国犯罪史上最長時間を記録したこの立て籠もり事件は、その経過も特異なものでした。


         


 犯人の金は、1928(昭和3)年生まれ。 

3歳の時に父親が死亡して家の生活は苦しく、15歳の時に窃盗で捕まって以降20年間のうち15年は刑務所暮らし(前科7犯)という、筋金入りのワルでした。


しかも彼は非常に狡猾で、籠城した後テレビ・ラジオ・新聞の記者らと接触し、


「自分がこうなったのは在日朝鮮人に対する差別が原因である」


という持論を展開。 


    


暴言を吐いたと名指しされた刑事がテレビで謝罪するなどエスカレート・・・犯人を支援する団体まで立ち上がるという事態にまで発展。


籠城中に所持していたダイナマイトを爆発させたり、取材ヘリに向かって発砲するなどしましたが、これに関してはメディアからの要請によるものだったという説もあり、いわゆる〝劇場型犯罪〟の元祖ともいわれています。


しかし自らが開いた会見の席で記者に扮装した刑事数名に取り押さえられるという、メディアを巧みに利用した犯人としては何とも皮肉な結末でした。


                 


連日のように報道されていたこの事件・・・当時9歳だった私も、白黒テレビに映し出される猟銃を持った犯人の映像を、朧げながら憶えています。


その後、金は無期懲役を言い渡され服役。 


しかし刑務所内では施錠もされず部屋の出入りは自由(!)、しかも出刃包丁やナイフまでフリーパスで差し入れられるなどの特別待遇だったことが発覚し、看守1人が自殺するという悲劇まで起きました。


1999年に、韓国へ強制送還することを条件に釈放された犯人は、同国で差別に反抗した英雄として迎えられたといいます。

この辺り、伊藤博文公の暗殺犯・安重根や、先月拙ブログで取り上げた大逆事件の犯人・李奉昌と同じ。

さすがは反日無罪、〝怨〟の国。(↓)




確かに当該事件をキッカケにして、在日朝鮮人に対する差別の実態が明らかになったのは事実でしょう。


しかし彼は本当にそれを動機として事件を起こしたのか?


その答えは・・・事件前の彼の経歴と、釈放された2000年に71歳の彼自身が韓国で愛人問題を起こし、女性の夫に対する殺人未遂容疑で逮捕・収監されたことを見れば、自ずと出てくるでしょう。


この事件により韓国における人気が地に落ちた彼は、2010年3月に前立腺がんにより82歳でこの世を去りました。


それにしても我先に犯人に接触しようと試み、その言い分を大々的に取り上げて、殺人事件を起こした凶悪犯をあたかも差別問題提起のヒーローのように扱うメディアの反日左翼ぶりと、在日朝鮮人に弱腰な日本の姿勢も昔から何ら変っていないことを、この事件は如実に示している・・・私には、そう思えてなりません。うー


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