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投 資

大変お待たせを致しました。
本年初、拙ブログのアイドル・エネゴリ君の登場です!


その彼から、先日こんなメールが送られてきました。

「今日はお店が貸し切りになりました。 明日おいでください。」

彼にそう言われたら、そうするしかありません・・・って、お客に来店日を指定するのは、おそらく日本中で彼だけかも。
あせあせ

ご命令(?)通り、翌日店に行った私は、

「はいはい、キミに言われた通りに来ましたョ。」

とイヤミを言うと、

「いやァ、決してそんなつもりじゃ・・・。」

と相変わらずの会話からスタート。

「ところで、昨日の貸し切りってスゴいじゃない。 お客さんは、誰?」

と彼に尋ねたら、意外な答えが。

「リョウ君の友達だったんですょ。」

このリョウ君ってのは、以前エネゴリ君が職質で警官に取り囲まれた際他人のフリをした学生バイト。   


 ※その過去記事は、こちら。 (↓)



「へぇ~、凄いじゃん。 バイトなのにお店に貢献してるじゃないの。
正規社員のキミも友達呼ばないと、示しがつかないじゃん。」

とツッコむと、


「いや~、ボクの友達は西東京市に集中してますから。

練馬区までは来てくれませんョ。」

という後ろ向きな返事。

確かに西東京市から練馬区にあるお店までは直通の公共交通機関がありません。

    

「じゃあオレが葬儀送迎用のマイクロバスを手配してあげるョ。 

それなら友達も安心して沢山飲み食いできるだろう。」

「あっ、なるほど。 ありがとうございます。」

「ありがとうございますって・・・そのバス代金はキミが払うんだゾ。」

「え~っ、なんでボクが払うんですか?」

「何でって、そんなの当たり前だろうョ。」

「ボクにバス代払う余裕ないの、知ってるじゃないですか。
渡辺さん、お願いしますョ。」


「な、何でオレが払うんだョ。」

「ボクに投資すると思って・・・。」

「あのねェ、〝投資〟ってどういう意味か分かってる?
例えばオレがキミに100万円預けて、それが100万円以上になって返ってくることを言うんだゾ。」


「そんなこと出来るわけないじゃないですか。

でも、これからも沢山ブログネタを提供しますから、その分の先行投資だと思って、出してくださいョ~。」


「何じゃ、そりゃ。 

そもそもキミは意識してネタを提供してるわけじゃないだろう。
普通の会話をオレがネタに仕上げてるだけなんだから・・・。」


「ええ、でもそれが天然のイイところでしょ? ウッホッホ!」


って、自分で言うなっての。

相変わらず、ビミョ~にズレてるエネゴリ君・・・今年も楽しませてくれそうです。あせあせ


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バプー

学校の授業では世界の偉人として必ず名前が出るし、図書館には必ずといって良いほど彼の伝記が置いてあるはず。

今日はその、インドを独立に導いた弁護士・政治指導者であった、


 マハトマ・カンジー
   Mahatma Gandhi


の命日・没後70周年にあたります。


        


ガンジーは1869年に現在のインド・グジャラード州の港町ポールバンダルで、パールバンダル藩王国宰相の息子として生まれました。

※マハトマ・ガンジーら
インドの政治家一族として有名なネルー・ガンジー・ファミリーとは血縁関係はありません。

意外にも子供の頃は非常に引っ込み思案で、人づきあいや体操が苦手な大人しい子供だったとか。

12歳でハイスクールに入学し、その翌年に結婚(※インドでは幼年婚の慣習あり)した彼は、その前後には戒律に背いて肉を食べたりタバコを吸うなどしたそうな。

また幼な妻への嫉妬心が強く、彼女の行動を全て把握しないと気が済まなかったそうですから、若い頃は意外と彼は平凡な男性と同じ一面があったようです。

そして18歳の時に法廷弁護人を目指してロンドンのインナー・テンプル法曹院に留学。


卒業後は英領南アフリカ連邦(現・南アフリカ共和国)在住のインド人に請われてに同国に渡り、弁護士事務所を開業。

しかし同地で一等車への乗車を拒否され荷物ごと放り出されるなど厳しい人種差別を体験したことで、同地でのインド系移民の法的擁護を目指す人種差別反対運動に身を置くように。

1908年に初めて逮捕され、5年後には投獄されるも彼の信念は揺るがず。

そして1914年に第一次世界大戦が勃発すると、イギリスは将来の自治を約束する代わりにインド人に参戦を求め、ガンジーはそれを信じてインド人にイギリス植民地軍への支援を呼びかけますが、結局イギリスはその約束を履行せず。

この経験を通して、彼はイギリスに対する不信感を強めます。

戦後、独立運動を推進する 『インド国民会議』 に加わり、不服従運動で世界的に有名に。


またイギリス製品の不買運動も呼びかけるなどの抵抗運動を行ったことで度々投獄されますが、彼の熱意は全く衰えず。


1930年に彼が指導してイギリスによる塩の専売に反対するために約380kmに及ぶ〝塩の行進〟は国内で注目され、インド独立運動の大きな転換点となりました。


       


 そして第二次世界大戦後、日本軍と連携したインド国民軍の将官がイギリスによって反逆罪に問われると、ガンジーは


「インドのために戦った彼らを救わなければならない」


として、インド国民に独立運動の号令を発します。

これによりインド各地に独立運動が広がりましだか、日本軍との戦闘で疲弊していたイギリス軍には、もはやそれを抑える力はなく、1947年8月15日にネルーがインド独立を宣言したのです。

但しガンジーはヒンドゥー教とイスラム教が融合したインドを目指していましたが、その思いは実現せず、イスラム国家・パキスタンとの分離独立となりましたが。

この宗教的な独立前後における両国の対立は深刻で、各地で起きた暴動を憂えた彼は何度も断食をし、身を挺してその争いを鎮めようとしましたが、その願いは届かず・・・。

1948年1月30日、78歳だった彼はニューデリーでヒンドゥー原理主義集団のメンバーによって3発の銃弾を撃ち込まれ、暗殺されてしまったのです。

非暴力を旗印に戦い続けた彼らしい最期だった、と言えましょうか。

葬儀は国葬で営まれ、彼の誕生日・9月2日はインドの休日に。


また国連では 『国際非暴力デー』 に決議されていますが、実は彼自身カースト制度には反対していませんでした。

そんな彼の思想を深く知りたい方には、


 『ガンジー自伝』 (中央公論新社・刊)

       


のご一読をオススメします。

これは彼の 『自叙伝』 と 『南アフリカにおける非服従運動』 の2著作を、彼の死後ガンジー著作編集委員会が1冊にまとめた
もの。

自らの欠点や夫婦喧嘩の様子などが率直に語られており、好感を持ってガンジーの思想や実生活を多面的に知ることが出来ます。

また本を読むのが億劫な方には、1982年に英・印合作にて公開された上映時間3時間を超える長編映画


 『ガンジー』 (原題:Gandhi

をご覧いただきたく。 


       

1983年に開催された第55回アカデミー賞で、作品賞・監督賞・主演男優賞・脚本賞・撮影賞・美術監督装置賞・衣装デザイン賞・編集賞の8部門を獲得した名作は、きっと皆さんに感動をもたらしてくれるはず。

私も久しぶりにこの映画を観ながら、インドの人々に親愛を込めて〝バプー(父親)〟と呼ばれた聖人の冥福を祈りたいと思います。


それにしても、ガンジーが5回もノミネートされながら受賞できなかったのに、まだ何もやっていない就任直後のオバマ大統領が受賞したノーベル平和賞って・・・。うー


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【お知らせ】 ツイッター始めました

読者の皆様、このたびツイッターも始めることにしました。

ブログ記事更新だけでなく、硬軟織り交ぜた情報発信をする予定です。

よろしければ、こちらもフォローしてくださいまし。扇子


     https://twitter.com/nabechan_w


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紛 争

今時の若者にはちょっと考えられない事でしょうが、私を含めた中高年世代には懐かしい響きがある〝学生運動〟。

学生が学帽の代わりにヘルメットを被り、本の代わりに角材を手にキャンパス内で暴れまわった一時期がありました。

そのハシリとなったのが、いわゆる

 東大紛争

ですが、この日本最高学府を舞台に起きた学生と学校側の衝突・・・すなわち学生が無期限ストを決行したのが、今からちょうど50年前の今日・1968(昭和43)年1月29日のことでした。


1960年代後半に入り、全国の大学医学部の学生・インターンによってインターン制度廃止を軸とした研修医の待遇改善運動が起きましたが、その中心となっていたのが、東大医学部でした。

そしてこの日、医学部学生大会が開かれ、登録医制度や研修内容改善を掲げて無期限スト突入を決議。

同大医学部は紛争状態に突入したのです。

まぁ個人的には学生のストって何だかよく分かりませんが、いずれにせよ大学側と学生側が対峙したことは事実。

翌月学生と医局員の衝突事件が起きましたが、この際に大学側が処分した学生・研修医17名の中に無関係の学生が1名いたことで、紛争は激化。

3月に行われるはずの同大卒業式は中止となり、更に6月には安田講堂を占拠した学生排除のため、大河内総長はキャンパス内に機動隊を入れ、彼らを排除。


しかし学生側は東大闘争全学共闘会議(東大全共闘)を結成し、教養学部も無期限ストに突入し、泥沼化。


       

11月には大河内総長・全学部長が辞任し、12月には入試中止が決定・・・大学は完全にマヒ状態。

そして翌1969年1月18~19日に東大紛争の最大のヤマ場・・・学生と機動隊の全面対決となった 『東大安田講堂事件』 が勃発。


一連の東大紛争は、この安田講堂制圧と600人以上の学生が逮捕されたことで急速に収束に向かいました。

ちなみにこの事件で逮捕された学生の内、東大生は警察発表で僅か38人、全共闘側の主張でも100人程度だったとか。

いかに東大以外の左翼分子が入り込んでいたかが分かります。

またこの東大紛争中、学内にあった貴重な書物がストーブ代わりに燃やされ、また貴重な鉱石・化石の標本が投石に使われ大量に紛失するという大きな損失を出しています。


この東大紛争の収束と共に、日大など他大学での闘争も下火に。

彼らを裏で指揮した極左グループはその後地下に潜る形となり、1970年代に入って三菱重工ビル爆破事件やあさま山荘事件などテロ・殺人行為に走ったことで、急速に国民の支持を失っていきました。

現在沖縄で米軍基地移設反対運動などで暴れているプロ市民は、その残党と言えるでしょう。

彼らの多くが沖縄県民ではありませんし・・・。うー

半世紀経って当時の熱病の如き学生運動を顧みると、確かに学費値上げやベトナム戦争反対運動など様々な要素で当時の学生に不安・不満が蓄積されていたのは事実でしょう。

その彼らの不安を煽ったのは、やはり新聞・テレビなどのメディアであったことは確か。

当時は情報収集ルートはそれしかありませんでしたから、彼らがそれに惑わされたのは無理もなし。

しかし現在はネットで様々な情報が入りますから、学生や若者が一方向に流されることはないでしょう。

昨年あたりから反日左翼メディアが盛んにネット批判を繰り返していますが、それは彼らがこの当時のように安易に若者を扇動できなくなった焦りの裏返し。

どう足掻いても、彼らに半世紀前程の影響力はありません。


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氷 河

東京都内では、今週月曜日の午後から本格的に降り出した雪が夜になっても止む気配がなく、翌朝起きた時には私の住む練馬区で25cm程積もりました。

当然道路も真っ白・・・多くの方が車の運転や通勤で苦労されたと思います。

私自身も自宅の車庫から車を出すのに一苦労、おまけに会社の駐車場に入れる時も大変な思いをしました。

そしてそんな私よりもっと苦労したのは、広い駐車場のある飲食店などの店舗だったはず。

弊社事務所近くにあるラーメン店などは、朝から社員総出で雪かきしてましたし。

おそらくどこのお店でも同様だったと思うのですが・・・中には例外も。


昨日ランチを食べに某牛丼チェーン店に行ったところ、駐車場でこんな光景に出くわしました。

 

これ、向こうの幹線道路に向かって水が流れているように見えますが、実はカッチカチに凍結していたんです。

それは駐車場全面から歩道を通り越して一部道路にまではみ出ており、さながらミニ氷河の如し。


おそらく火曜日の朝に雪かきしなかったために、圧雪から凍結に至ったのでしょう。

雪かきしてあったのは、店舗入口付近の1畳ほどのみ。(下の写真下。)

 

私の社用車はスタッドレス・タイヤを装着してますから何とか道路から左折して入れましたけど、それでも車体がツルッと横滑りしましたから、ノーマルタイヤではまず無理。

故に、正午過ぎにも拘わらず駐車場には私の車1台だけ。
店内に入っても、お客は誰もいませんでした。

この出入口の南側には大きな遮蔽物があり1日中陽が当たりませんから、ここまで見事に凍ったら当分溶けないはず。

自動車が入れないんですから、店の売上はガタ落ちでしょう。


と言うより、夜間暗ければ気付かずに入ろうとした車がスリップ事故を起こしたり、歩道で転倒する可能性が・・・。


店長とかエリア・マネージャーは、このミニ氷河をいつまで放置するのか? 私の方が気になってしまいます。

こんなやる気のないお店で席に座ると、「いらしゃいま~せ~」と支那人女性のバイト店員が差し出したお茶は(この寒いのに)ぬるいし、オーダーした牛丼は肉の盛り方が雑で下のご飯が所々見えてました。

こういうのを、一事が万事って言うんでしょうネ。。

本部も店長も知らぬ間に、この店舗は月曜日夜からこの氷がなくなるまで、お客を何十人・・・いや、何百人失うことやら。うー


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野 人

・・・と言っても、元サッカー日本代表・岡野選手の話ではありません。


長年多くの人々に愛されてきた銀幕のヒーローは沢山いますが、その中で最も古株といえば


 ターザン

 Tarzan


でしょうか。   彼が主役として登場する、その名も 『ターザン』 という作品が初めてアメリカで公開されたのが、今からちょうど100年前の今日・1918年1月27日のことでした。

彼が初めて世の中に登場したのは、それより更に6年前のこと。

アメリカの小説家エドガー・ライス・バローズ(Edgar Rice Burroughs 1875-1950) が1912年、オールストーリー誌上に発表した 『類人猿ターザン』 でのこと。

      
       Edgar Rice Burroughs        Tarzan of the Apes


貴族の息子として生まれながら船旅の途中にアフリカの西海岸に置き去りにされたターザンは、動物を含む複数の言語を操る聡明さがある一方、ナイフだけでライオンをも倒せる筋骨隆々の体躯を持った、まさに文武両道のジャングルに君臨する王者。

バローズがこのターザンの映画化を自ら売り込んで実現したのが、1918年の第1作目でした。

エルモ・リンカーンが主演したこのサイレント映画は大ヒットし、彼は一躍映画スターの仲間入り。

       

 ※お時間のある方は、こちらで同作をご覧ください。(↓)

  https://www.youtube.com/watch?v=WajoTuA7AhI

 
しかし原作者のバローズはこの作品に自分の意思が反映されていないとご不満だったようで、自ら映画会社を立ち上げハーマン・ブリックスをターザン役に起用した別作品を制作しました。

とはいえ、やはり日本人を含めターザン役といえば、ジョニー・ワイズミュラーでしょう。

オリンピック水泳競技の金メダリストは、1932~48年まで12作品に出演し、見事に映画スターの座を射止めました。


       

※ワイズミュラーに関する過去記事は、こちら。(↓)

  https://www.youtube.com/watch?v=WajoTuA7AhI


シュワちゃん同様に、プロの俳優でなくたどたどしいセリフ回しが却って野生児のイメージにピッタリだった、というところがちょっと微笑ましいですネ。

ちなみにターザンのトレードマークと言える 「ア~ア、ア~」 という雄叫びは、このワイズミュラー版から始まったそうですが、これは決して彼の地声ではなく、ヒョウなど10種類以上の鳴き声を映画会社の特殊効果部がミックスして作った人工音だそうな。


その後も複数の俳優がターザンを演じ、21世紀に入ってもディズニー・アニメ 『ターザン』 がヒットしましたし、最新では2年前に 『ターザン:REBORN』 が公開されました。

 

やはり逞しくて優しい男性は、女性の憧れ・・・おそらく、今後もターザンは銀幕で活躍し続けるんでしょうネ。

でも歴代のターザンを見比べてみると、20世紀のターザンは野性味たっぷりでしたが、時が経つにつれてだんだんイケメン風に変化しているような・・・。

皆さんは、野人とイケメンどちらがお好みでしょうか?

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冤 罪 ?

今からちょうど70年前の今日、ある意味不名誉な世界記録を打ち立てる契機となった出来事が起きました。 それは世に言う

 帝銀事件

若い方でも、この事件名だけは耳にしたことがあるはず。

1948(昭和23)年1月26日午後3時過ぎ、閉店後の帝国銀行(現・三井住友銀行)椎名町支店に東京都防疫班の腕章をした男性が現れ、厚生省技官の名刺を出して


「近くで集団赤痢が発生し、感染者の一人がこの銀行に来ている。 

予防薬を飲んでもらいたい。」


と偽り、銀行員と用務員一家16名に青酸化合物を飲ませ、12名を殺害し、現金・小切手を奪って逃走しました。

 
       事件直後の帝銀前                現場から運び出される棺


薬物の取扱状況から、当初旧陸軍細菌部隊(731部隊)関係者を中心に捜査が進められました。

しかし何故かGHQからその方面への捜査中止命令が出され、この事件前に起きた類似事件の遺留品である名刺を辿る捜査に切り替えられます。


その結果、捜査線上に浮かび上がったのが過去に銀行で詐欺事件を起こし、事件直後に被害金額とほぼ同額を預金していた画家・平澤貞通容疑者でした。

       


逮捕された彼は、取り調べ段階では一旦犯行を自供。 

しかし公判に入ると一貫して無罪を主張するも、判決は死刑。 


上告は悉く棄却され、1955(昭和30)年には最高裁で死刑が確定しました。


                    
            東京地裁で公判中の平沢貞通容疑者


しかしこの判決には、当時から多くの疑問点が指摘されました。


◆ 本人が一貫して無罪を主張しており、かつ狂犬病予防接種の後遺症・コルサコフ症候群による虚言症があるとされた。

◆ 被害者の面通しでは、犯人と断定した者が1人もいなかった。

◆ 画家であった平澤容疑者には、青酸化合物の知識は全くない。

◆ 戦後まもなくの取調べは拷問に近いもので、自白は強要された可能性が高い。


しかし、現在に至るまで20回近い再審請求と3回の恩赦請求がなされていますが、いずれも受理されていません。

       
             
仙台刑務所内での平澤死刑囚


その一方で、歴代の法務大臣は決して死刑執行命令書を出すことはなく・・・結局平澤死刑囚は、1987(昭和62)年5月10日に肺炎で95歳の生涯を閉じるまで、実に37年間も刑務所で過ごしたのです。

冒頭述べた世界記録・・・実は、この37年間が死刑
確定囚の収監期間の世界最長記録なのです。うー


後に捜査員や協力者の中には 「真犯人は別にいる」 と発言する者もいたこの事件に関しもし平澤死刑囚が無実であったのなら(いや仮に真犯人だとしても)、37年もの長きに渡って毎朝看守の靴音が近づいてくるたびに〝今日が最後の日かもしれない〟と怯え続けさせたことは、死刑執行よりも残酷な人権侵害ではなかったでしょうか?


現代のような科学捜査がなかった時代に起きた凶悪事件ですが、最も悲惨な運命を背負わされたのは平澤死刑囚だったのかも。

別に真犯人がいたとしても99.9%死亡しており事件の完全解明はほぼ不可能でしょうが、今からでもDNA判定など最新の科学技術を駆使して彼の冤罪が晴らせるなら、何よりの供養になると私は思うのですが・・・。


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外 車

プロボクシングでは、1952年に白井義男が初のチャンピオンになって以来、昨年末まで91人もの日本人世界チャンプが誕生しています。


その中で私のような中高年ボクシングファンにとっては懐かしく、また〝史上最強の日本人チャンピオン〟と呼び声の高かったのが、


 大場 政夫  選手


ではないでしょうか。


今日は、この若くして突然この世を去った天才ボクサーの命日・没後45周年にあたります。


       


大場選手は1949(昭和24)年に東京都墨田区で生まれました。


父親がギャンブルに嵌っていたため極貧の少年時代を過ごしましたが、同時にボクシング好きでもあった彼の影響で、「世界チャンピオンになって、両親に家を建ててやろう」 と子供心に決意したといいます。


中学卒業と同時に帝拳ジムに入門し、17歳でプロデビュー。


アメ横の 『二木の菓子』 に勤めながら練習に励み、ノンタイトル戦で日本王者・東洋王者を次々に破ると、1970年にタイのチャンピオン・チャルバンチャイ選手を21歳の誕生日翌日にKOで倒し、WBA世界フライ級チャンピオンとなります。            


その後このタイトルを2年3ヵ月にわたり防衛したのですが、私が今でも鮮烈に憶えているのが、その5回目の防衛戦。


1973(昭和48)年1月2日にタイのチャチャイ・チオノイと対戦した新春タイトルマッチは、おそらく日本ボクシング史上最高のファイトといっても過言ではないでしょう。


1回に挑戦者の右フックを浴びてダウンを喫した大場選手は、その際に右足首を捻挫する大ピンチ。 


しかしそこから足を引きづりながら逆襲、12回にKOで逆転勝利を収めたのです。


当時はもちろん、今VTRを見ても鳥肌が立つほどの壮絶な試合でした。

 ※試合の模様は、こちら。(↓)




しかし、悲劇はそのタイトル防衛戦から僅か3週間余り後に訪れてしまいます。


1月25日午前11時20分過ぎに愛車・シボレーコルベットを駆って帝拳ジムに向かう途中、首都高速5号線・飯田橋付近の大曲カーブでハンドル操作を誤って対向車線に飛び出し、11トン大型トラックと衝突。


       


シボレーは大破し、大場選手は殆ど即死状態だったといいます。 


現在は頑丈なガードレールが設置されていますが、当時の現場は高さが僅か25cmの中央分離帯のみ。


そして下の写真の如く、大破したのは左ハンドル側のみで右側は無傷。 もし彼が国産の右ハンドル車に乗っていれば・・・と、この事故地点を通過するたびに私はついつい思ってしまいます。


       大場政夫


4度目の防衛戦で一度ダウンを奪われながらの逆転勝ちするなど、相手に打たれても打ち返すボクサーファイターだった故に脳にダメージがあったという説や、交際していた女性にふられてムシャクシャしていたという説など、事故原因についてはいろいろ取沙汰されましたが、今となってはその真相を知る術はありません。


ファイトマネーで一軒家を建てて両親にプレゼントし、子供の頃からの夢を実現しながらも、23歳の全盛期にタイトルを手にしたまま首都高で散った〝永遠のチャンピオン〟のご冥福を、1人のボクシング・ファンとして心よりお祈り致します。 笑3


              

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一攫千金

今日のタイトルから、皆さんは何をイメージするでしょうか?

宝くじ? 競馬・競輪? いろいろな答えが返ってくるでしょうが、私はこの言葉か頭に浮かびます。


〝ゴールドラッシュ〟


アメリカでこの一大ブームが起きた発端は、今からちょうど170年前の今日・1848年1月24日のことでした。


この日、現在のカリフォルニア州コロマのサッターズミルで製剤工場の水車の下からいくつかの光り輝く砂粒を発見したJ・W・マーシャルなる人物が、地主のJ・サッターに見せて確認してもらったところ、純度96%の最高級品質の金であることが判明。


     


この一大発見は地元で早くも噂になりましたが、同年8月にニューヨーク・ヘラルド紙が東部地区に報じ、第11代大統領ジエームズ・ポークがこの事実を肯定したことで、金発見のニュースは全米はおろか世界中に拡散。


翌1849年から一山当てようと目論む人々が続々とこの地区に押し寄せました。


(皮肉にも、第一発見者のマーシャル氏は程なくしてその土地を追い出されてしまったそうですが・・・。)


    


因みに、このブームに触発されてカリフォルニアに向かったジョン万次郎は、日本人で唯1人のゴールドラッシュ経験者といわれています。          


当初は個人的に金属製の鍋で少しずつ川砂を洗い流しながら一粒の砂金を探す手法でした。


    


しかし、やがて大掛かりな機械を使用する採掘法に変わり会社組織での金採取が主流になったため、個人で一儲けした人物は残念ながら殆どいなかったとか。


この一大ブームによって、サンフランシスコの人口は爆発的に増え、道路・汽船などの交通機関の整備や学校・協会の建設など都市整備が急激に進み、1950年にはカリフォルニアはアメリカ31番目の州となったのです。


しかしその一方で、静かに暮らしていた地元インディアンが流入してきた白人たちと衝突し、銃を持たなかったがために全滅させられた部族が多数あった、という史実も見逃してはなりません。


アメラグ・ファンならよくご存知の名門チーム、サンフランシスコ・フォーティーナイナーズは、ゴールドラッシュの初期・1849年に入植した人々が“49ers と呼ばれていたことがチーム名の由来。


ヘルメットがチームカラーのゴールドにペイントされていることも頷けますネ。


                  


しかし残念ながら今期の同チームはNFC西地区の最下位に沈み、ゴールドの輝きはすっかり色褪せてしまいましたが・・・。


さて私がゴールドラッシュで思い出すのは、チャップリンの名作


 『黄金狂時代』


1925年に公開されたこのサイレント映画 (※1942年にチャップリン自身がナレーションを吹き込んだバージョン有り) は、金鉱探しにやってきた主人公チャーリーのドタバタ劇を描いたもの。

と言っても、舞台は西海岸ではなくアラスカですが・・・。


飢えに耐えかねて靴を煮て食べたり、パンにフォークを刺して動物の足マネをするシーンは忘れられません。


    黄金狂時代


 CG全盛の現代でも、十分に笑える傑作ですょネ。


この映画はチャーリーが見事金鉱を探し当て、大金持ちになって帰りの船上で恋人と再会を果たすというハッピーエンドなんですが・・・もし実際に砂金探しをして苦労の末に成功しなかった人が見たら、笑えないかも? うー


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一触即発

現在ミサイル発射・核配備を巡ってチキン・レースというか舌戦を繰り広げているアメリカと北朝鮮ですが、朝鮮戦争以降過去にも直接両国が対峙して一触即発の事態に陥ったことがあったことを、皆さんはご存知でしょうか?

それは、今からちょうど50年前の今日起きた


 プエブロ号事件


1968(昭和43)年1月5日、アメリカの情報収集艦プエブロ号が対馬海峡におけるソビエト海軍の潜水艦探知と北朝鮮の通信傍受を行うため、佐世保港を出港。


       

               uss pueblo


そして北朝鮮のゲリラ部隊が韓国の朴正煕大統領暗殺を狙った 『青瓦台襲撃未遂事件』 を起こしてから僅か2日後の同年1月23日、北朝鮮東岸・元山沖で同国の駆潜艇がプエブロ号を発見。


領海侵入したとして停船を命じたものの、同号が逃走したため他の魚雷艇らと共に追跡し、砲撃を加えたことでアメリカ兵1名が死亡。

停船したところに北朝鮮兵が乗り込み、銃撃戦の末に同号を制圧。


  
              
 左上の×印が拿捕地点 


同号は元山港に入港させられ、ロイド・ブッチャー艦長以下船員82名は捕虜収容所に入れられ、拷問を伴う取り調べを受けたといいます。

ブッチャー艦長は 「部下を目の前で処刑する」 と脅され、スパイ行為を自白させられました。


       

             Lloyd Mark "Pete" Bucher


当然アメリカは態度を硬化。

日本海に空母エンタープライズら海軍空母部隊を展開して北朝鮮に圧力をかけ乗組員の開放を要求。

しかし北朝鮮はこれを拒否。

すわ、第二次朝鮮戦争勃発か?・・・と思われましたが、幸いにしてそうはなりませんでした。

当時ベトナム戦争の泥沼に嵌りつつあり、ソ連の介入を恐れたアメリカは、その同盟国(というか子分)である北朝鮮とは正面切って事を構えられませんでした。

結局アメリカは北朝鮮が用意したスパイ活動を認める書面に板門店で署名し、北朝鮮に謝罪。


(※しかし現時点においても、アメリカは領海侵入していないという主張は変えていません。)


同年12月に、乗組員は11ヶ月ぶりに開放されたのです。

しかしプエブロ号は返還されることはなく、現在も平壌市内の大同江で観光名所として一般公開され、反米宣伝に利用されています。


       


お互い威勢よく相手を非難し示威行動を取りはしますが、50年前はアメリカが折れる形で直接対決を回避しました。

しかし4年前に機密指定解除で公開された公文書には、アメリカ軍が有事行動計画をまとめており、核兵器の使用も予定していたことが分かっています。

当時と違い核兵器を所持している北朝鮮に対し、〝強いアメリカ〟を標榜するトランプ政権はどんな対応をするのか?

有事となれば、地政学的に間違いなくトバッチリを受ける日本にとっては、他人事ではありません。
うー


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