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転 向
先日、女王様共々N響 『第九』 コンサートに行ってきました。

毎年のことながら前回聴いたのがついこの間のように思われ、加齢の焦りを感じる我ら夫婦ですが、これを聴かないと年を越せません。

       

さて、今年私が注目というか楽しみにしていたのが、指揮者が

クリストフ・エッシェンバッハ

 Christoph Eschenbach


だったこと。

1940年にドイツ・シレジアの地方都市ブレスラウに生まれた彼・・・私が中学生の頃クラシック音楽を聴き始めた当時は、カラヤン/ベルリン・フィルとも協演する程、人気の二枚目ピアニストでした。

       

2005年にも、やはり以前世界一流のピアニストだったヴラディミール・アシュケナージが指揮者に転身しN響で 『第九』 を振り、見事な演奏だったことを憶えているだけに、同じ元(?)ピアニストである彼がどんな指揮をするのか、興味があったのです。

故に敢えて下調べもせず、またコンサート会場で配布されたバンスレットも一切見ずに先入観なしで開演を迎えた私の前に姿を現したエッシェンパッハは・・・かつての〝鍵盤の貴公子〟の面影はなく、スキンヘッドのおじいさんでした。

そりゃ40年以上経ってれば当たり前・・・とは言え指揮台からピョンと飛び降りるなど、77歳とは思えぬほど動きは軽やかでしたが。


     


あまりの変貌ぶりにちょっと驚いた私は、演奏が始まると更にビックリ。

N響の弦の響き、特に高音部の弱音が実に整っていて澄んだ音色を奏でたから。

団員の努力でレベルアップしたのか、はたまたエッシェンバッハの指導効果なのかは分かりませんが、昨年とは響きが違って聴こえました。


※女王様も楽章の合間に、「N響の音楽性、上がったわネェ~」なんて偉そう(?)に呟いてました。


4人の日本人独唱歌手の声も伸びやかで、昨年に引き続き音大の学生ではなくプロ歌手で組んだ合唱団〝東京オペラシンガーズ〟の声量も圧倒的。

テンポも程よくメリハリも効いていて、素晴らしい演奏でした。

おそらく過去に聴いたナマ 『第九』 の中でも3本指に入る名演だったと思います。

それが証拠に、演奏直後は 「ブラボー!」 の声があちこちからかかり(私も2回ほど・・・
あせあせ)、会場から出る、おそらく毎年聴きに来ている聴衆の、

「今日の演奏は、良かった!」
「素晴らしかったわょねェ~。」

という声が通路のあちこちで聞かれましたから・・・。


帰宅して調べてみたら、エッシェンバッハは世界各国の一流オーケストラを指揮し、最近ではウィーン・フィルとも関係が深くミラノ・スカラ座でも定期演奏している、超一流指揮者なんですネ。

しかも本人は11歳の時既に、ベルリン・フィルを指揮するフルトヴェングラーを見て指揮者になる決意をしていたそうな。

してみると、ピアニストからの
華麗なる転身と言うよりは元々志望していた道であり、むしろ指揮者としての天分に恵まれていた音楽家だと言えるかも。

その素晴らしい演奏が今夜・午後8時~9時20分、NHK・Eテレで放映されます。

紅白にちょっと飽きた方は、是非日本最高峰の第九サウンドにチャンネルを合わせてみてください。
(但し収録は、サントリーホールではなくNHKホールでの演奏です。)



私も今宵、コンサート当日の感動を今一度味わうつもりです。


それでは皆さん、良いお年をお迎えください!扇子


 


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橙 色

さて、いよいよ年末も押し迫ってきましたネ。


今日あたり、上野のアメヤ横丁へ買出しに行かれる方もいらっしゃることでしょう。

その買物客の多くが利用するであろう、日本・・・いや、東洋最古の地下鉄

 銀 座 線

が開通したのが、今からちょうど90年前の今日・1927(昭和2)年12月30日のことでした。


  
               開業当時の旧1000形車両


同線開通の立役者は、後に〝地下鉄の父〟と呼ばれた

 早川 徳次 氏  (1881-1942)

 (※シャープ創業者の早川徳次氏とは別人物)


       


満鉄から鉄道院に入った後、東武鉄道の2代目社長・根津嘉一郎氏に見いだされ赤字路線の立て直しに辣腕を振るった早川氏は、1914(大正3)年に西洋視察旅行をした際にロンドンの地下鉄を見て感動。

東京にも地下鉄が必要だと確信した彼は、「地盤が軟弱な東京では無理」 などという反対意見を押しのけ、1920年に 『東京地下鉄道』 を創業。

当初は浅草~新橋間を一挙に開通させる予定でしたが、関東大震災の呷りを受けて資金不足となり、やむなく(当時日本一の繁華街だった)上野~浅草間の開通を先行させたそうです。


当時は現在のような土木機械はありませんから、トンネルは地上から人力で掘り返し、後から天井部分を埋め戻すやり方。


       


地下を走行することから、使用された旧1000形の車体は木材が多く使用されていた当時としては画期的な全鋼製。

不燃材料を積極的に使用し、保安装置としてATS(自動列車停止装置)を搭載した最新鋭の車両でした。


また当時の電車はこげ茶色が当たり前でしたが、彼はドイツのベルリン地下鉄で採用されていたオレンジ色の塗装を採用。


この派手な色と〝東洋唯一の地下鉄道〟というキャッチフレーズで、開通当初は物珍しさで距離僅か2.2km・乗車時間約5分の地下鉄に乗るために、2時間待ちの行列ができたといいますから、まさにディズニーランド状態。


 

        当時のホームの様子           現存する旧1000形車両


徐々に区間が延長され、現在の渋谷~浅草間が全通したのは1934(昭和9)年。

後発の地下鉄と違い銀座線は車両も一回り小さく、トンネルの壁も窓からギリギリのところを通る感覚が独特でした。


また各駅に到着する直前必ず車内灯が〝パッ〟と一瞬消えるところが、何となくレトロっぽくて私は好きでした。


しかし反面なかなか冷房が付かなかったことが、社会人になってすぐ銀座営業所に配属され、同線をよく利用した私には懐かしくも辛かった思い出です。あせあせ

その私が銀座営業所を離れた後の1984年から導入が始まった営団01系は、ジュラルミン・シルバーが主体。

       


そして現在は、2012年から導入が始まり今年3月に入れ替えが終了した、かつての橙色ボディーを復活させた東京メトロ1000系が走っています。


        

ところで地下鉄といえば・・・あの春日三球・照代の夫婦漫才。


「地下鉄の電車はどこから入れたの? 

ワタシャそれを考えると、一晩中寝られないの!」


1970年代後半に一世を風靡したこの名文句、懐かしいです。


現在のように電鉄の各路線が相互乗り入れしている時代ならそこから入れられますけど、たった2.2kmの路線のみで東京のど真ん中に開通した最初の銀座線・・・一体どこからどうやって車両をトンネルに入れたんでしょ?


う~ん、それを考え出すと今晩は寝られないかも? あせあせ



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奇 才

この方を一言で表現するなら、〝歩く百科事典〟でしょうか?

今日は日本を代表する天才にして奇人でもあった生物学者・民族学者、


   みなかた くまぐす
 南方 熊楠


の命日にあたります。


        


熊楠は、明治改元直前の1867(慶応3)年に現在の和歌山市で金物・雑貨商を営む弥兵衛の次男として生まれました。

※熊楠という珍しい名前は、彼が特に虚弱体質だったため、健康長寿を願って地元の風習に倣い熊野の〝熊〟と大楠の〝楠〟の2文字を授けられたものだそうな。


子供の頃から猛烈な読書家として、また抜群の記憶力を持つ神童として知られた彼は、蔵書家に100冊以上もある 『和漢三才図会』 という大書を読ませてもらい、それを記憶しては帰宅後書写を繰り返し、とうとう5年後に完成させてしまったという逸話を残しています。


他にもおびただしい冊数の本を書写したことで、彼の頭の中に百科事典並みの知識が詰め込まれたのですが、彼は癇癪持ちで好きなことだけを徹底的になる性質。

学校の勉強はそっちのけで動植物を観察すべく野山を歩き回っていたため、成績はあまり良くなかったのだそうな。


何ともったいない・・・と思うのは、私のような凡人だけ?
あせあせ


1879年に和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高校)に入学し、後に行進曲 『軍艦』 を作詞した鳥山啓先生に薫陶を受け博物学に目覚めた彼は、中学卒業後上京。

共立学校(現・開成高校)で高橋是清に英語を習い、1884年に大学予備門(現・東京大学)に入学。

同窓生には夏目漱石・正岡子規・秋山好古など錚々たるメンバーがいましたが、彼は学業そっちのけで高校時代に興味を持った菌類の標本採集や遺跡発掘などの考古学に没頭。

それがために中間試験で落第してしまった熊楠は、予備門を中退し1886年暮れに(懲役逃れもあって)アメリカへ渡ります。

翌年夏にミシガン州農業大学に入学するも、飲酒禁止の校則を破って自主退学した彼は、動植物の観察と読書に没頭。


       

               アメリカ留学時代の熊楠


フロリダ州に移って中国人の経営する店で住み込みで働きながら生物調査を続けた彼は、キューバにも渡るなどして新たに発見した緑藻についての研究論文を科学雑誌 『ネイチャー』 で発表し注目を集めます。

※その後彼の寄稿論文は世界的に注目を集めた『東洋の星座』など延べ51本も同誌に掲載されており、単独寄稿としては歴代最多記録だそうな。


その後渡英して亡命中の孫文とも親交を深めるなどした彼は1990年、14年ぶりに帰国。

熊野で植物採集を続けた彼は、40歳の時に12歳年下だった宮司の娘・松枝と結婚。


その翌年には明治政府が発布した神社合祀令の反対運動を起こしました。

その後も新種の粘菌発見などをした彼の研究に興味を持った昭和天皇が1929(昭和4)年6月に自ら和歌山に出向き、戦艦『長門』艦上で熊楠から御進講を受けられましたから、その研究レベルは相当に高かったと言えます。


       
                  
晩年の熊楠


日米開戦直後の1941(昭和16)年12月29日、萎縮腎により74歳の生涯を閉じた熊楠については、その学問上の功績とは別に、様々な奇行も伝えられています。

例えば、ロンドン滞在中に大英博物館で人種差別を受けたとして相手に頭突きを食らわせて出入り禁止になったり、
教育会主催の講習会場に酩酊状態で押し入り、翌日家宅侵入で逮捕されたりと、逸話に事欠きません。

『十二支考』などの著作や多数の論文・書簡を残した彼の人物像にもっと触れたい方には、こちらの書籍をオススメします。


 『縛られた巨人 南方熊楠の生涯』 

                              (神坂次郎・著 新潮文庫・刊)


       


また細かい字を読むのが辛い・・・と言う方には、『ゲゲゲの鬼太郎』でお馴染みの水木しげる先生がマンガで描いた

 『猫楠 南方熊楠の生涯』 (角川文庫ソフィア・刊)


       


をオススメします。

猫好きだった彼の姿が、表紙からしっかり描かれていますョ。

学問の内容はともかく、彼の奇人ぶりはよく分かります。
あせあせ

〝馬鹿と天才は紙一重〟と言いますが、20年前に会った人の名前はおろか同席者の名前や会話の内容を再現できたという並外れた記憶力と、英・仏・伊・独・ラテン語など18ヶ国語を操り漢文の読解力に秀でていながらも奇行を繰り返した彼は、果たしてそのどちらだったのか?

その答えは、これらの書を読んだ皆さんの判断にお任せします。


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魔術師

今日は、私の大好きな20世紀前半を代表するフランス人作曲家、


 ジョセフ=モーリス・ラヴェル

    Joseph-Maurice Ravel

の命日・没後80周年にあたります。


       


ラヴェルは1875年、スペインにほど近いバスク地方・シブールで生まれました。

発明家で音楽好きな父親の影響で7歳からピアノを始め、12歳で作曲の基礎を学んだラヴェルの才能を見抜いた両親は、彼をパリ音楽院に入学させます。

在学中にフォーレら著名な音楽家から多くを学んだ彼は、1898年に行われた国民音楽協会主催の第266回演奏会において作曲家としてデビュー。

1900年から作曲家の登竜門ともいえる『ローマ大賞』に5年連続挑戦するも、大賞は獲得できませんでした。

しかし彼が受賞しなかったことに、恩師フォーレやロマン・ロランらが猛烈に抗議。

本選通過者全員が、審査員だったパリ音楽院の作曲家教授ルヌヴーの教え子だったことで公平性が問題視され、この〝ラヴェル事件〟によって同音楽院長が辞任に追い込まれ、フォーレが後任院長の座に。

この事件後、彼は『スペイン狂詩曲』(1907年)、『亡き乙女のためのハヴァーヌ』(1910年)、『ダフニスとクロエ』(~1912年)など数々の名曲を発表。

1914年から始まった第一次世界大戦にはトラック輸送兵として従軍した彼の身に1917年、衝撃的な出来事が降りかかります。

それは、最愛の母・マリーの死。

生涯独身だったラヴェルはマザコンだったのかもしれませんが、この深い悲しみは彼の創作意欲を大きく削いでしまいます。

1920年に 『レジオンドヌール勲章』 叙勲を拒否した彼は、1928年にはアメリカで
4ヶ月にわたる演奏旅行を敢行。

ニューヨークでは満員の聴衆から喝采を浴びるなど、このツアーによって名声を博しますが、同地でジャズなどに大きな影響を受けたものの帰国後は数える程しか作品を残せませんでした。

※帰国直後に完成した名曲『ボレロ』に関する過去記事は、こちら。
  http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10987869341.html

その理由としてもうひとつあげられるのが、体調不良。

アメリカ旅行の前年から軽度の記憶障害・言語症に悩まされ始めていた彼は、1932年にパリ市内でタクシー搭乗中に交通事故に遭い、その症状は手が震えて楽譜を書くことはおろかサインすらできなくなるまでに悪化。

脳内出血を疑った弟らによって開頭手術を受けたものの出血などは見られず、術後意識が回復せぬまま、その翌日・1937年12月28日に62歳で逝去。

ムソログスキーの代表作 『展覧会の絵』 のオーケストラ編曲などで〝管弦楽の魔術師〟と呼ばれた彼は、その才能を十分に発揮できぬまま、この世を去ってしまったのです。


そんな彼の作品の中で、私が最も好きな曲は、『弦楽四重奏曲』。

多くの作曲家が円熟期に作曲するこのクァルテットを、彼は27,8歳という若さで完成させましたが、その出来栄えは彼が尊敬していた(辛口批評で有名な)ドビュッシーが

「音楽の神々の名とわが我が名にかけて、あなたの四重奏曲を1音符たりともいじってはいけません。」

と絶賛するほど。

そうは言われたものの、ラヴェルは後に手直ししちゃいましたが。あせあせ

その絶賛したドビュッシーの弦楽四重奏曲とカップリングでCDが発売されることが多い同作品で、私がオススメするのは以下の3枚。


       


これは私が最初に聴いたジュリアード弦楽四重奏団の演奏。

中学生時代にレコードで聴いた思い出が懐かしい1枚。

名盤と言われましたが、録音が1959年と古いのが唯一残念。


       

ラサール弦楽四重奏団の演奏で、あまりクセのない標準的な演奏。
最初に聴くには、オススメです。 録音は1971年。


       

これは2枚目と同じくラサール弦楽四重奏団なのですが、違いはライヴ録音であること。(1976年)。

スタジオ録音にはない、一発勝負の緊張感が聴き手にも伝わってくる迫真の演奏・・・個人的にはこの演奏がイチ推し。

ただ残念なのは、カップリングがドビュッシーではないこと。
ですので、2枚目以降にお買い求めいただくのがよろしいかと・・・。

今宵は、久々にこの3枚を聴き比べつつ、ラヴェルの冥福を祈りたいと思います。笑3


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破 門

先月、大相撲では日馬富士の暴行事件や白鵬の物言い事件など、モンゴル人横綱の不祥事が立て続けに起き、相撲ファンを落胆、あるいは激怒させました。

それ以前にも朝青龍の不祥事がありましたが、そういったトラブルは何も外国人力士だけが起こしていたわけではありません。

とんでもない騒動を起こした日本人横綱もいました。

その際たる例が、今からちょうど30年前の今日、

第60代横綱
 双羽黒 光司

が起こした、〝部屋脱走・廃業事件〟と言えましょう。

1963(昭和38)年に三重県津市で生まれた双羽黒(本名:北尾光司)は、いわゆる〝花のサンパチ組〟の一人。

身長199cmという日本人離れした体格の持ち主で早くから注目・期待を集めた逸材でした。


       


しかし父親が建設会社の役員を務めていた裕福な家庭の一人っ子だった彼は甘やかされて育ったせいか、立浪親方(元関脇・羽黒山)に少し厳しい稽古をさせられると 「故郷へ帰らせてもらいます」 と口走って反抗。

時には本当に帰ってしまい、怒った父親に追い返されたこともあったそうな。

それでも持ち前の体力を生かして順調に出世した北尾(当初の四股名)は、1986年1月に大関昇進。

そして大関在位僅か4場所で、同年7月には横綱にスピード出世。

ただこの昇進には、多くのファンが首を傾げました。


というのは、同年5月場所は12勝3敗で準優勝、7月場所も14勝1敗で本割では横綱・千代の富士に勝ったものの、優勝決定戦では破れていたから。

横綱に推挙する条件としては、〝大関で2場所連続優勝もしくはそれに準じる成績〟が求められているのに、彼は1場所も優勝していなかったのです。

それでも将来性を買って横綱に昇進できたのは、千代の富士が長らく1人横綱だったことが大きな要因・・・つまり大相撲のバランス感覚が強く働いたと言えましょう。

横綱審議委員の一部からは、彼の精神的な甘さ・未熟さを指摘する声が上がっていたのですが、残念ながらその懸念は当たってしまいました。

横綱昇進後、双葉山と羽黒山の名を合わせた〝双羽黒〟と四股名を変えたものの、直後に食中毒と虫垂炎で入院したり、3月場所は頚椎捻挫で3勝3敗から休場。

7・9月場所は一桁の勝ち星に留まり、11月1月場所では連続して優勝決定戦で敗れ、周囲の期待を裏切ります。


それでも次の1月場所こそは・・・というファンの願いを、双羽黒自身の愚行で絶ってしましました。

1987(昭和62)年12月27日、「不味くてちゃんこが食えない」と言って激怒、引き止めようとした女将さんを突き飛ばし部屋を飛び出してしまったのです。

もちろんそれ以前に親方との確執があったことが伏線となっており、その時の状況に関しては親方・双羽黒双方の言い分が違っていますから一方的に双羽黒に非があるとは言えません。


が、いずれにせよ角界の最高位である横綱として許される行為ではないでしょう。

結局、部屋近くのマンションに引きこもって出てこない双羽黒の廃業届を親方が協会に提出し、大晦日に承認されました。

有体にいえば、相撲界から〝破門〟されたということ。


       

結局は、規定を無視する形で無理やり横綱にした相撲協会の甘い判断が、とんでもない結果を招いたと言えましょう。

その後はスポーツ冒険家、プロレス、異種格闘技など転々とし、そのいずれでも周囲との軋轢を起こして長続きしなかった北尾さんは、2003年には立浪部屋のアドバイザーにもなりましたが、現在はどうしているのやら?


       


記録が明確に残っている中では、史上唯一幕内優勝経験がない横綱としてその名を残すこととなった彼が相撲界に残した功績(?)は・・・と言えば、協会がそれ以降横綱昇進に関してより厳格な運用をするようになったことくらい?

しかし2014年5月の鶴竜と2017年1月の稀勢の里の2力士は、またしても2場所連続優勝なしで横綱に昇進。

その後2人の戦績を見れば、やはり相撲協会の見通しと体質の甘さは変わっていないようです。
うー

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球 審

「オレが投げなきゃ、試合は始まらない。」

よくピッチャーのプライドを示す言葉ですが、たとえ投げても彼がいなければ試合になりません。

それが、アンパイア。

今日は、その中でも日本プロ野球史にその名を残す


 島 秀之助 さん

の命日・二十三回忌にあたります。


         


島さんは、1908(明治41)年に兵庫県神戸市に生まれました。

神戸市立第一神港商業高校時代に外野手として4年連続甲子園に出場、法制大学時代には盗塁王を2度獲得。

卒業後は逓信省・簡易保険局に入り、そこの野球チームで選手兼任監督として3年間活躍し、その間東京六大学の専属審判も務めました。

そして1935年に、高校の7年先輩で、後に 「俺がルールブックだ」 の名セリフで有名になった二出川延明さんに誘われて、職業野球の名古屋金鯱に入団。

日本初のプロ野球試合となった巨人-金鯱戦に1番打者として出場しています。

※この試合に関する過去記事は、こちら。(↓)
 http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11881772607.html

その二出川さんが1936年に金鯱軍を退団すると、その翌年に肩を痛めた島さんも引退。

するとまたしても、審判になった二出川さんに誘われて1938年3月に8人目のプロ野球審判員に。

※二出川審判に関する過去記事は、こちら。(↓)
 http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10328032079.html

1941年の阪神-阪急戦では、1度アウトをコールしながら阪急の抗議を受けてセーフに判定を変え、ノーゲームにしてしまう苦い経験も。

しかし島さんは、その後日本プロ野球の歴史に残る試合で、何度も球審を務めることに。

まずは1942年5月24日、史上最長の延長28回まで続いた大洋-名古屋戦。

実はこの試合、春季リーグ戦の最終日だったため、表彰式を行う都合もあって連盟から試合を終わらせるよう島球審に指示が出されたため、止む無く終了になったのだそうな。

もしそうでなければ、もっと世界記録は伸びていたんですって。驚き顔


1949(昭和24)年に2リーグ制に移行すると、セ・リーグの初代審判部長に就任した島さんは、翌年に行われた初の日本シリーズ及び翌年に開催された初のオールスターゲームでも球審を務めました。

そして最高の晴れ舞台と言えるのが、1959年6月25日に行われたプロ野球初の天覧試合・巨人-阪神戦の球審を務めたことでしょう。

          

(↑)は、長嶋選手がサヨナラ・ホームランを放った瞬間を捉えた有名な写真ですが、打球を目で追う球審が、島さんだったのです。


※天覧試合に関する過去記事は、こちら。(↓)
 http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11715321410.html 


この試合の球審を任された時、島さんは

「試合中は陛下にお尻を向けてしまう形になるので、横に立った方がいいのだろうか?」


と真剣に悩み、またこの時頂戴した菊の御紋入りの煙草を長い間吸わずに大切に保管していたとか。


本当に真面目な方だったんですネ。


1983年12月に引退した島さんが、自宅の風呂場で亡くなったのは、1995年12月26日・・・87歳でした。

四半世紀に及ぶ審判生活で出場した公式戦は通算2,605試合。
その他オールスターゲーム12回、日本シリーズ10回、日米野球などを含めると3,000試合以上。

現役引退後も後進の指導にあたった島さんが審判に関わった期間は43年間に及びますから、1989年に野球殿堂入りしたのは当然。

戦後黎明期からマスク越しにプロ野球を見つめ続けてきた島さんに、こんな著書があります。

 『プロ野球審判の目』 (岩波新書)


   

酒もギャンブルもやらない謹厳実直な人物だったという島さんが記した球界の裏話・・・昭和世代のプロ野球ファンにオススメします。

特に戦前・戦中の経験談は、私たち戦後世代にとって貴重な証言であり、野球ファンならば知っておきたい歴史の1ページと言えましょう。



今宵は同書を久々に読み返しつつ、あらためて日本プロ野球黎明期を支えた名審判のご冥福をお祈り致します。野球ボール


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天ぷら男
今日は、クリスマス。

世界中の人々がキリスト生誕を祝う日ですが・・・同時に、映画史にその名を永遠に残す20世紀の喜劇王、


 チャールズ・チャップリン


の命日・没後40周年にあたります。


       


1889年、イギリス・ロンドンに俳優だった両親の間に生まれたチャップリンですが、その両親が1歳の時に離婚し、母親に育てられました。

span style="font-size: 1em;">その母親に行き交う人々の様子をパントマイムで特徴を捉えることによる、人間観察の大切さを幼い時から教えられたとか・・・。


これが終生にわたり〝パントマイムこそが世界共通語〟という彼の信念となり、彼の出演作品の殆どがサイレント映画になったバックボーンとなったようです。


しかし彼が7歳の時に母親が精神病で施設に入れられたため、10歳の時には木靴ダンス専門の一座に加わり、更に12歳の時に父親がアルコール依存症で亡くなったため、彼は異父兄シドニーと2人で孤児院等を転々としながらアルバイトで生活を支えたといいます。

※1952年に公開された『ライムライト』の撮影時、子役の見事な演技を見た彼は自らの辛い幼少時代を思い出し号泣・・・しばらく撮影ができなかったそうな。


19歳の時フレッド・カーノー劇団に入って酔っ払いの演技で頭角を現し、同劇団のアメリカ巡業時に映画プロデューサーに見出され喜劇俳優としてデビューする機会に恵まれたことで、大きく彼の運命が変わります。


1914年に34本もの映画に出演すると、翌年にはエッサネイ社、更に翌年ミューチュアル・フィルム社に好条件で移籍。 


数多くの秀作を世に出したチャップリンは、1918年にファースト・ナショナル社と年間100万ドル以上という破格の契約を結び、世界的な大スターに。


彼自身2作目で演じた「小さな放浪者(The Little Tramp)」スタイル・・・【窮屈な上着・ダボダボのズボンに大きな靴、山高帽にステッキでちょび髭にガニ股歩き】・・・これが本人すら予想もしなかったチャップリンのトレードマークとなりました。

       


しかし彼が活躍したのは2度の世界大戦があった政情不安な時代であり、極右・極左両派から批判されたり、1952年には赤狩りの影響を受けてアメリカ政府から事実上の国外退去処分を下されてしまいます。


彼が再びアメリカの地を踏むことが出来たのはそれから20年後、アカデミー特別名誉賞を手にした時でした。


1975年、生まれ故郷イギリスのエリザベス2世よりナイトに叙されサー・チャールズとなったチャップリンは、その2年後の1977年12月25日、88歳でこの世を去ったのです。


チャップリンは運転手として採用した高野虎市という日本人の誠実な仕事ぶりを高く評価し、一時は全ての自宅使用人を日本人にするほどの親日家に。


あのステッキも滋賀県産の竹で作られており、4回も来日しています。 


初来日した1932年5月14日の翌日に五・一五事件が勃発。 


この時彼は首謀者らに命を狙われたのですが、犬養首相との面談をキャンセルして相撲見物に行ったおかげで難を逃れました。


そしてその直後に日本橋 『花長』 で海老天36尾を平らげて以来、すっかり天ぷらに魅入られたチャップリン。


その後も連日のように食べ続け、〝天ぷら男〟というあだ名がついた程だったとか・・・。


そんなチャップリンの作品の中で、私が最もお気に入りなのは、1936年に公開された 『モダンタイムズ (Modern Times )』


       


80年以上前の音楽付きサイレント・ムービーながら、機械文明に振り回される彼の姿は今観ても大いに笑え、また考えさせられる名作だと思います。


年末年始には様々な新作映画が上映されますが、チャップリン映画を楽しみつつ新年を迎えるのもしよろしいかと・・・。

あらためて20世紀・激動の時代を生き抜いた、天ぷら男 
ジャナカッタ  喜劇王のご冥福をお祈り致します。笑3


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伴 奏

私のブロ友さんで、素敵な音楽を紹介してくださっている元オーケストラ団員の〝よはなさん〟が、先日こんな記事をアップされました。(↓)


https://ameblo.jp/yohana60/entry-12335955639.html


私はこれを見た瞬間、思わず 「な、懐かしい~!」 と声を上げて、聴き入ってしまったのまです。

 流浪の民

は、ドイツの作曲家ロベルト・シューマン(1810-1856)が1840年に発表した歌曲で、一般的には合唱で歌われる作品。

ヨーロッパの街を彷徨うジプシー(ロマ)の悲哀を表現した曲だそうですが・・・何で懐かしいかと言うと、この曲を中学3年生の時に全校合唱大会でクラス全員で歌ったから。

(もちろん、日本語で・・・。)
あせあせ


当時3学年で30クラス近くあった全校の大トリでステージに上がった我がクラスは、この難曲を見事に歌い上げて皆から大歓声を浴び、終了後校長先生の総評でも激賞されたのですが、私はその時伴奏で一役買ったのです。

曲の映像を観ながら、自然に机を鍵盤代わりにして指を動かし始めたのですが、弾いたのは40年以上前なのに、ほぼ憶えていたことに自分でビックリ。

いやぁ、歳を取ると昔のことはよく思い出すって言いますけど、ホントみたいですネ。

で、私は改めてちゃんとピアノで弾いてみようと思い立ったのです。

当時音楽の先生から渡された楽譜は青インクの謄写版で藁半紙に印刷されたペラペラのもの。

もしかしたら、まだ保管してあるかも・・・と自宅の楽譜棚を探したんですが、残念ながら見当たらず。

それでは、と通販サイトで楽譜を探したのですが、結構高いんですワ。

で、もしかしたら・・・と、ネットで無料ダウンロードできないか (セコいっ!) と探したら、あったんですョ。

但し、ドイツ語版ですけど。
あせあせ


    

まぁ今回は歌うわけじゃないので、伴奏部分だけを切り貼りしてピアノ版の楽譜を作成。

A4判だと音符が小さいのでそれをB4に拡大コピーし、ダンボールに貼りつけて完成したのが、こちら。(↓)


     

どうです、このいささか粗っぽい手作り感。

これが、自分へのささやかな今年のクリスマス・プレゼント。

イブの今宵、私は中学生時代の思い出に浸るべく、この楽譜でピアノの練習に打ち込むつもりです。

(※結婚当初から女王様とはクリスマス・プレゼントの不交換協定を結んでいます。 故に毎年クリスマス・イブの我が家は平常運転。)あせあせ


もしこの記事をFBなどで見た長野市立東部中学校3年7組の同級生がいたら、皆が還暦を迎える来年同窓会を開催しませんか?


担任の三沢先生と、出来ればあの日指揮をしてくださった音楽の長沢先生もお呼びして、皆で歌いましょうョ。

その時は日本語の楽譜をコピーして (やっぱりセコいっ!) 持ち込みますから~!


それでは、皆さんにとって今日は素晴らしいクリスマス・イプとなりますよう祈りつつ・・・。笑2


      


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テレカ

現在40歳未満の若者には、〝テレカ〟 って何の事だか分からないかもしれないですネ。


中高年世代の方々には懐かしい

 テレホンカード

のことですけど、これが初めて発売されたのが今から35年前の今日・1982(昭和57)年12月23日のことでした。


それまで公衆電話には硬貨を入れていましたが、長距離・長時間電話のために開発された黄色い電話機は100円硬貨が使えたもののお釣りが戻って来ず。


それ故学生時代の私は、田舎に電話する時はジャラジャラと10円玉をポケットに入れて電話ボックスに走ったものでした。


そんな不都合を解消するために誕生したのが、このテレホンカード。


おそらく、これが初めて世に広まった〝プリペイドカード〟だったと思います。


ちょうど私が社会人2年目の時に誕生したこのカードは財布の中で邪魔にならず、いくら使ったのかがパンチ穴や電話機の度数表示で分かることから、爆発的に普及。


そしてデザインも日々充実しプレミアムがつくテレカも登場し、すっかり世間に定着しました。

しかし国際電話にも利用できるようになった頃から偽造カードが出回るようになった影響で高額度数カードが使用できなくなり、更に携帯電話の普及で21世紀に入って
からは殆ど利用することがなくなってしまいました。


今や世の中から姿を消して久しいこのテレカですが・・・こんなデザインの物をプレゼントされた方は、いらっしゃいませんか? (


     テレカ


ゴルフ場のプリントからピンッと来る方も多いでしょうが・・・ホールインワンの記念テレカなんです。


実はコレ、私が20数年前にメンバーコースの公式戦・キャプテン杯の予選ラウンドでホールインワンした時に作ったモノ。


予選会には100名以上の方が参加していたこともあり、アセッて大量に拵えたんですが・・・いざ配ってみたら結構余ってしまい、そのままズルズルと使わぬまま今でも自宅に十数枚が残ったまま。

よくよく考えると、こんな記念テレカは貰った方も使いにくいでしょうし、ゴルファ
ー保険金では足りず自腹を切ってまで作ったことを後悔したものです。

しかし実は今、私はこの残ったテレカを数枚財布の中に入れているんです。
理由は・・・万一大地震に襲われた際、公衆電話が繋がりやすいから。
NTTの公衆電話は、優先電話と同様の扱いなのだそうです。

緊急時に小銭を持っていなくても、これさえあれば最低限の連絡はつけられる可能性がありますから。

皆さんにも、テレカの携行と、自宅や勤務先近くの公衆電話設置場所の確認をオススメします。


もちろん、使わずに済めばそれに越したことはないのですが・・・。うー


※但し、1999年から発売されたICテレホンカードは現在使用不可。
使用できるのは旧テレカに限られるそうですので、ご注意を。


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奉 祝

今日は、祝日・天皇誕生日・・・『天長節』です。


 


陛下の末永いご健康を祈りつつ、国旗を掲揚してお祝い致しましょう。


   


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