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徹底抗戦

多くの国民は、日本の外交が諸外国に対してはっきり主張をしない及び腰であることに、不満をお持ちのはず。

しかし明治時代の日本は、堂々と西欧諸国と渡り合っていたのです。

そんな格好の事例となる

 千島艦事件

が起きたのが、今から125年前の今日でした。

1892(明治25)年、日本海軍がフランスの発注していた水雷砲艦(通報艦) 『千島』 が完成し、日本に回航されました。

しかし同年11月30日午前5時前・・・長崎港から神戸港に向かう途中の瀬戸内海上・愛媛県和気郡沖の釣島海峡で、イギリスの大型商船・ラヴェンナ号と衝突。

ラヴェンナ号は破損のみでしたが、『千島』 は沈没。
乗員90名のうち74名が溺死・殉職してしまいました。

     

                    千   島


こういう国際的な海難事故が今起きたら、現在の外務省や政府はどう対応するでしょうか?

おそらく毎度の〝遺憾砲〟を発射するのみで、穏便に事を収めようとするはず・・・ですが、明治政府は違いました。

当時はまだ幕末の不平等条約が締結されたままの治外法権下にあったのですが、それでも明治政府はラヴェンナ号に過失有りとして、同船を所有していたイギリスのピーオー汽船会社に85万円(※現在の14億円前後)の損害賠償請求裁判を起こしたのです。

この裁判に関して、日本政府の訴訟代理人を務めたのが、

 岡村 輝彦 弁護士


      


岡村氏は1854(安政元)年頃に浜松藩士・岡村義昌の子として生まれた彼は、早くから海外事情に関心を持っていたようで、大学南校(旧・開成学校)から1876年に文部省留学生として渡英した秀才。

1881年に帰国後東京控訴院判事となり、2年後には大審院へ。


1885年には横浜始審裁判所長を務める傍ら後進の指導を行い、1891年に退官すると代言人(弁護士)となり事務所を開設。

まさにその翌年、国際経験豊かな彼に伊藤博文内閣が白羽の矢を立てた・・・というわけ。

第一審は横浜のイギリス領事館で開廷されましたが、この時ピーオー汽船会社は日本政府を相手に10万円の賠償を求め逆提訴。

判決はピーオー社の反訴のみ却下となり、双方がこれを不服として上海の英国高等領事裁判所に上訴し、今度はピーオー社の全面勝訴。

国内でもこの結果に不満が沸き起こり、条約改正を求める声が強くなりました。

そんな中、政府はイギリスの最高裁判所にあたる枢密院に上訴を敢行。

一任された岡村弁護士はイギリスに乗り込んで東アジアにおける領事裁判の実情について説明を尽くし、1895年7月に横浜領事館への差し戻し判決を引き出すことに成功したのです。


彼が実質勝訴を収めて帰国した際、新橋駅で真っ先に彼を出迎えたのは当時の海軍大臣・西郷従道海軍大将だったとか。


西郷大将は岡村氏に向かって薩摩弁で 「冷水にて顔を洗ひたるか如き快感」 と、心からの謝辞を述べたといいます。

単身敵地に乗り込んで勝利を収めたのですから、当然でしょうネ。


※結局その後双方の和解が成立し、ピーオー社が1万ポンド(現在で約2億円)の和解金と日本側の訴訟費用全額を負担することに。


2年程前に安保法制改定が行われた際、盛んに政府の足を引っ張る言動を繰り返した大学教授や弁護士らがいましたが、彼らは口先ばかりで何らの行動実績もなし。

後に中央大学の学長を務めた岡村氏のように、持てる知識と行動力をフルに発揮して母国の貢献する気骨ある学者は、現在どこにもいないのでしょうか?うー


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なりすまし

大韓航空機の事故というと、多くの方は1983年にソ連の領空に侵入し、ミグ機に撃墜された事件を思い出す方が多いと思います。

が、その撃墜事件よりもいろいろな意味で日本に関りが深い


 大韓航空機爆破事件


が、今からちょうど30年前の今日起きたことを、ご記憶でしょうか?

ピンとこない方でも、後述する犯人の名を聞けば 「あぁ、あの・・・」 と思い出されることでしょう。


1987年11月29日、大韓航空858便(ボーイング707)は、アラブ首長国連邦・アブダビ空港、タイ・ドンムアン空港を経由して韓国・ソウルを目指し、イラク・バグダット空港を離陸しました。

    

                     大韓航空858便 


しかし同日午前11時22分、バンコクに到着前のビルマ・ラングーンから約220km南海上々空で爆発し、空中分解。

乗員11名・乗客104名全員が死亡しました。

当初原因は機体の欠陥と思われましたが、後に爆弾テロであることが判明。

途中アブダビで降りた乗客15名の中に日本のパスポートを所持した怪しい男女がおり、旅券番号を紹介したところ偽造であることを確認。

12月1日に2人がバーレーンからローマ行きの飛行機に乗り換える寸前に身柄を拘束。


しかし蜂谷真一と名乗る男は青酸カリ入りのカプセルを口に入れて自殺。 


そして蜂谷真由美と名乗った女も同様に自殺を図りましたが、警察官がカプセルを吐き出させて一命を取り留めたのですが・・・この女こそ、あの金賢姫(キム・ヒョンヒ)だったのです。

3日後に意識を回復した彼女は韓国に護送されましたが、この際に自殺を防ぐため口を塞がれた姿は、衝撃的でした。


    

彼女は1962年に平壌で生まれ、9歳で映画に出演したという美人。

平壌外国語大学日本語科に在籍してした時に工作員としてスカウトされ、訓練を受けたといいます。

韓国に移送された当初は中国人であるなど虚偽の証言をしたようですが、捜査員に朝鮮人であることを見破られ、更にソウルの街並みが北朝鮮で聞いていた話と全く違うことなどに衝撃を受けた彼女は、機内に時限爆弾を仕掛けたことを自供。

その犯行動機は、(金正日の指示による)翌年に開催されたソウル五輪の妨害だったといわれています。

彼女の証言によって事件の全貌が明らかになると、韓国の信用失墜を狙ったはずの北朝鮮が逆に世界中から犯罪国家として非難され、国際的に孤立する結果を招きました。

そして日本にとって(死刑判決を受けながら恩赦を受け執行を免れた)彼女の存在が大きかったのは、彼女がスパイ教育を受けた際、日本語を教えてくれた李恩恵が北朝鮮に拉致された田口八重子さんであったことや、「横田めぐみさんが自殺したとは考えられない」などと、貴重な証言をしたこと。

2009年に釜山で一部の拉致被害者家族と面会したり、その翌年には来日して横田夫妻らと面会するなど、彼女の存在は拉致問題に関して非常に貴重といえます。

       
            飯塚耕一郎さんと抱き合う金賢姫


しかしながら、現在に至るまで日本政府・外務省が彼女のもたらした情報を有効に活用しているとは言えません。

それどころか、むしろ時間切れを狙っているとしか私には思えませんが・・・。うー

それにしても、南北に分断されているとはいえ同胞に対して平気でテロを仕掛け、都合が悪いことは全部日本に擦り付けようとする朝鮮民族のやることは、理解不能です。

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慧 眼

今日は、殆どの日本人がお世話になった事のあるヒット商品を連発した名経営者・・・大塚製薬の元代表取締役社長にして150社余りを傘下に収める大塚ホールディングの初代会長だった

  大塚 明彦  

の命日・没後3周年にあたります。

       


彼を一代で大塚グループを築き上げた創業者と思われている方も多いかもしれませんが、実は3代目なんです。


よく〝3代目が身上を潰す〟なんて言われますが、大塚氏はその;例外というか、真逆。


大塚製薬のルーツは、1921年に明彦氏の祖父・大塚武三郎氏が徳島県鳴門市に創業した大塚製薬工業部。


武三郎氏の長男・正士氏が中学卒業後同社に入社し、1947年に2代目社長に就任。

1973年に発売された、皆さんもよくご存知の同社ヒット商品 『ごきぶりホイホイ』 の名付け親なんです。

その正士氏の長男として
1937(昭和12)年に徳島県鳴門市に生まれたのが、明彦氏。

1960年に中央大学工学部を卒業した彼は、大塚製薬に入社。


取締役・常務・副社長を経て、1976(昭和51)年に38歳の若さで社長就任。

そして翌年には大塚食品の社長、1982年からは大鵬薬品工業・アース製薬の会長も兼務。

その間、同社は1965年にオロナミンCドリンク、1968年にボンカレー、1983年にカロリーメイト、1980年にはポカリスエット、1985年にはファイブミニなど、ヒット商品を連発しました。


       


ボンカレーファイブミニに関しては、過去記事をご参照

  https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10718973840.html

 https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12275111401.html


しかし好事魔多し、1998年には新薬開発に関わる汚職事件で名古屋大学医学部の教授に対する贈賄の疑いで逮捕され、大塚製薬の社長を辞任する辛酸も舐めています。


(判決は懲役1年8ヶ月、執行猶予3年の有罪で確定。


それでも2000年には取締役に復帰。 

2008年に大塚ホールディングが設立されると会長に就任。

2年後には同社を東証一部上場に導きました。

2014(平成26)年11月28日に77歳で亡くなられたこの大経営者には、その実力を伺わせる若かりし頃のエピソードがあります。

1970年頃、
グループの経営会議で新たな投資先の議論が行われた際、当時流行していたボウリング場建設の話が進んでいたそうな。

そんな中、当時徳島工場長だった明彦氏が、

「ボウリング場は将来製薬会社を支えるに足る事業となりますか?」

と2代目社長の父親に疑問を投げかけ、代わりに新薬開発のための研究所設立を提案したそうな。


        

                徳島工場長時代の明彦氏


          
結局父親は長男の意見を取り入れて新薬研究に投資し、結果的に会社躍進の基礎となりました。


並の3代目だったら、簡単に流行を追って失敗したでしょう。

普段同社の食品・薬品にお世話になっている方は、明彦氏の慧眼に感謝しつつ、改めてご冥福をお祈りしてください。笑3


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一 言

お酒を飲む量や時間を自分でコントロールできなくなるのが、

 アルコール依存症

この病気の恐ろしいところは、自分がアルコール依存症を患っていることに気が付かず、家庭や周囲の人も単に酒癖が悪いと見做してしまい、治療が遅れること。

事実、内閣府の発表によれば、アルコール依存症患者は全国で約109万人もいるとされていますが、そのうち専門的な治療を受けている人は5%にも満たないとか。

そのうちに酒のために仕事が出来なくなり無断欠勤が続いて会社を解雇され、最悪の場合自殺に至るケースも多いそうな。

Mさんは、かつて重度のアルコール依存症に苦しみ、断酒例会に参加することで命を救われた一人。

彼は母親に大切に育てられた良い子でスクスク育ちましたが、その彼が最初に酒でつまずいたのは、大学寮の新入生歓迎会で大量に飲酒したこと。

泥酔状態でバイクを運転し、タクシーと衝突事故を起こしてしまったのです。

就職してからも毎晩のみ歩くようになり、目を覚ませばいつも裸に近い状態で駅前や公園でひっくり返っていたとか。

その間の記憶はなく、そのたびに自責の念に駆られるものの、結局はまた飲んでしまう日々。

給料は全て酒代に消え、借金が200万円以上になり、両親に借金を返済してもらう羽目に。

それでも酒を断つことは出来ないどころかますます症状は酷くなり、更に借金を重ねて自暴自棄になり、飛び降り自殺しようと覚悟を決めてホテルに泊まるもまたそこで痛飲。

意識を取り戻したのは数日後でした。

それでも飲酒は止められず、遂には会社の金に手を付けて逃亡生活に。


「金が亡くなったら死のう」と決心し、睡眠薬と酒を飲んで自殺を図ったものの、気がつけば警察に保護されていたという情けなさ。


       

そんなMさんがアルコール依存症の治療専門病院に入院し、そこで相部屋になった患者さんに断酒会の存在を教えてもらい、一緒に参加することに。

そして初めてその断酒会に参加したMさんに、当時の会長さんがかけた言葉が、たった一言。

「よう来たね。」

飲酒のことで虐げられることはあっても、「よう来た」 と褒められた経験のなかったMさんは、会長さんの言葉が嬉しくて 「来週も来よう、断酒をやり遂げよう」 と決意。

見事立ち直ったMさんは今、自らの経験を生かして断酒会の会長を務めているそうな。


                         (月刊『致知』12月号より、抜粋・編集にて)

          ◆     ◆     ◆     ◆

たった一言でも、相手を思いやる言葉には人を立ち直らせる力がある
・・・そんなことを教えてくれるエピソードですネ。笑2


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挑 発

今から76年前の今日・1941(昭和16)年11月26日(日本時間・27日)・・・その11日後に行われた真珠湾攻撃から日米開戦に至る決定的な出来事がありました。

それは、当時の米国務長官コーデル・ハルが野村吉三郎駐米大使・来栖三郎特命大使に、 いわゆる

 ハル・ノート
   Hull note


正式名称 『合衆国及日本国間協定ノ基礎概略』 を提示したのです。


      


                Cordell Hull


それまでの我が国は、国際連盟を脱退後に軍部の独走で満州など中国大陸進出を進め国際社会から孤立を深め、その制裁措置としてABCD包囲網を敷かれ、石油調達の道を閉ざされていました。

エネルギーという生命線を絶たれた日本は、その制措置解除を目指してアメリカと交渉を重ね、甲・乙案などを提示し最大限の譲歩を表明。

しかしこの日提示されたハル・ノートには、過去の交渉をひっくり返す無茶な要求が列記されていました。 その主たる内容は、


1. 日本軍の支那、仏印からの無条件撤退
2. 支那における重慶政府(蒋介石政権)以外の政府、

    政権の否定(日本が支援する南京国民政府の否定)
3. 日独伊三国同盟の死文化(同盟の一方的解消)


これは日露戦争・第一次世界大戦以降、日本が多くの犠牲を払って手に入れてきた権利・権益をほぼ全て手放せ・・・という高圧的なもの。

この文書に関しては、極東軍事裁判で判事を務めたパール氏が、


「アメリカが日本に送ったのと同一の文書を他国に送れば非力なモナコ公国やルクセンブルク公国でさえ必ずアメリカに対して武力をもって立ちあがっただろう」


と言明し、また

「ハル公文はアメリカ当局の予想によれば、交渉が決裂して戦争になるとして万事を準備したのち、日本側の受諾せざることを予期したものであって、日本に全面降伏か戦争かを選択せしめんもの」

と当時の東郷茂徳外相の手記に書かれている如く、実質的には最後通牒・・・いや、戦争に追い込むための挑発だったと言えます。


       

               ハル・ノートの1ページ目


我が国としては、供給を絶たれた石油資源を植民地化されていた東南アジアに求める他なく、同地域の国々から支配している欧米諸国を駆逐し独立させるため、戦争に突入せざるを得ませんでした。

しかし既に暗号を傍受していたアメリカは連合艦隊が真珠湾を急襲することを予め察知していながら、国威高揚と開戦の大義名分作りのため敢えて攻撃させた、といわれています。

つまり、日本はアメリカの術中に見事ハマッた・・・と言えましょう。

そして近年、驚くべき事実が明らかになりました。


それは・・・ハル・ノートはハル国務長官ではなく、財務次官補ハリー・D・ホワイトが書いた、ということ。

        

                     Harry Dexter White


しかも、このハリーなる人物はソ連のスパイだったのです。

(彼は告発を受けた数日後に服毒自殺。)

つまり日米開戦はソ連のスパイによって仕組まれた・・・というわけ。

これらの史実を通じて言えるのは、〝外交では資源と情報を掌握した国が勝つ〟ということ。

残念ながら、現在の日本はその双方とも心許ない限りですが・・・。
うー

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三 矢

皆さんも、戦国時代に様々な権謀術数を駆使して中国地方一帯を支配した毛利元就という武将をご存じだと思います。

その彼が、3人の息子(長男・隆元、次男・元春、三男・隆景)らに宛てて、一致協力して毛利家の隆興存続させることを願った

 三子教訓状

を現在の山口県周南市にある勝栄寺で認めたのが、今から460年前の今日・1557(弘治3)年11月25日のことでした。


元就は、1546年に長男・毛利隆元に家督相続をしようとしたものの、隆元自身が「広大な領国を治めるには、まだ父上の後見が必要」と強く反対したため、元就は隠居できずにいました。

隆元は温厚な性格ではあったものの、父・元就からは 「優柔不断で武将としての資質に欠ける」 とみられていました。

強烈な個性とリーダーシップのある創業社長の2代目がおとなしいお坊ちゃま・・・という、よくありがちなパターンそのものだったようですネ。


 


      父・毛利元就                 長男・毛利隆元

また隆元も、「自分は生来、無才覚無器量である」 などと自身を卑下したり、優秀な弟たちに嫉妬するようなところもあり、家督を継ぐ長男としてはいささか心許なかった様子。

〝出来の悪い子ほど可愛い〟と言いますが、おそらく元就の心境も同じ・・・毛利家の行く末をかなり心配して、書状を認めたのでしょう。

14条からなるこの三子教訓状には、

◆毛利の苗字を末代まで廃れぬよう心掛けよ。
◆(兄弟)3人の間柄が少しでも分け隔てがあってはならぬ。

  そんなことがあれば3人とも滅亡すると思え。
◆隆元は元春・隆景を力にして、全てを指図せよ。
◆私同様、皆々も厳島神社を信仰することが肝心。


等々、子供たちが仲良く力を合わせて毛利家を存続させるよう訴えています。

戦国時代の猛将も、家庭では普通の父親・・・子供たちがあまり仲が良くなかったことを案じていたことが、行間から伺えます。


 

         毛利博物館(山口県防府市)・蔵 重要文化財 


さて、毛利元就といえば〝三矢の教え〟が有名ですょネ。

死に際に元就が3人の息子を枕元に呼び寄せ、1本の矢は簡単に折れても3本束ねたら簡単に折れない、だから仲良く力を合わせろ、と言って息子たちを諭した・・・という逸話は、皆さんもご存知でしょう。

確かに教訓状には 「兄弟仲良く」 とは書いてあります。
が、実はこの三本の矢の例えは記されてはいません。

実際は長男・隆元の方が元就より7年余り早く亡くなっていますので、このエピソードは有り得ないのです。

この3本の矢と同様の教訓は、モンゴルや中国などのアジアで以前からあり、またイソップ童話にも似た話が出てくるそうな。

家族が力を合わせることの大切さは、古今東西を通じて人間が生きていく上での基本ということなのでしょう。

たまたま3人の息子を案じた三子教訓状の内容とシチュエーションが、人々の心に深く沁み込む教訓話として仕立てやすかったため、後世に創作されたと考えられます。


元就が遺したのは、〝三矢〟ではなく〝三子〟教訓状・・・お間違えなきよう。注意


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廃 業

当時損保マンだった私にとって同じ金融機関に関わるそのニュースは、入社していた大学の同期がいたこともあり、少なからずショックでした。

それは、今からちょうど20年前の今日・1997(平成9)年11月24日に

 山一證券

が臨時取締役会で自主廃業を正式に決定した、というもの。

当日は月曜日でしたが、『勤労感謝の日』 の振替休日・・・市場の混乱を抑えるために敢えてこの日に発表したと思われますが、夜のテレビニュースはどの局も同社の記者会見の模様を伝え、翌日の新聞一面はこのニュースで埋め尽くされました。

当時の野澤正平社長が、泣きながら

「みんな私ら(経営陣)が悪いんであって、社員は悪くありませんから!」

と絶叫したシーンは、今でも鮮明に憶えています。


       

同社は1897(明治30)年創業で、野村・大和・日興各証券とともに〝日本四大証券〟の一角を占めていた大手社。

しかし同社は1965(昭和40)年に経営危機に陥り、当時の田中角栄蔵相の発した日銀特融発動により救済された過去がありました。

これが 「いざとなったら、また政府が救ってくれる・・・」 という甘えに繋がったのでしょうか。


〝法人の山一〟といわれ多くの企業を顧客としていた同社は、バブル崩壊と同時に一任勘定(証券会社等が顧客の同意なしで売買内容を定めた契約を締結する取引行為)によって発生した損失につき取引先企業から補填を迫られることに。

こういった一任勘定や損失補填は1991年に法律で禁じられていましたが、同社では引き続き行われ続け含み損は膨らむ一方。

これを歴代経営陣は貸借対照表上に記載せず
(※飛ばし)、ペーパーカンパニーを利用するなどして粉飾決算で隠蔽し続けました。

しかしいつまでも隠し通せるわけもなく、1997年4月に経済週刊誌に同社の不正告発記事が連載されたことで、疑惑が噴出。

同月末に発表された同社の決算では約1,647億円という過去最大の当期損失を計上。

それまで同社の〝天皇〟として君臨していた行平次雄会長、子飼いの三木淳夫社長ら経営陣が逃げるように辞任した後、専務取締役大阪支店長だった野澤正平氏が
いきなり本社に呼ばれて 「お前、社長になれ」 。

就任後に初めて前述の飛ばしや2,600億円もの巨額な簿外債務があることを知らされ、真っ青になったとか。


ですから野澤氏もむしろ被害者と言えましょうし、号泣会見は海外から批判されたとはいえ、私は同じ長野県人である彼の誠実な人柄が滲み出ていた、と思います。

むしろ許せないのは、彼に後始末を押し付けて逃げようとした行平・三木コンビ。

しかし正義は彼らを許さず、2人とも証券取引法違反で逮捕・起訴され、後に有罪判決が確定しました。


       


厳密に同社が解散したのは2005年ですが、中央区新川にあるかつての本社ビルは残っており、現在は茅場町タワーという名称で複数の企業がテナントとして入り、当時の名残を留めています。

たまにこのビルの近くを通ると、あの倒産劇と野澤社長の号泣会見を思い出してしまう私。


「山一證券に在籍した7,700人の従業員、関連グループ会社を含めて1万人、更に彼らの家族を含めた3万人がこれで路頭に迷ってしまう。 なんとか助けてもらいたい。」

という思いを発露し部下の就職活動に奔走した彼は、その後も証券業界等ビジネス界に身を置き、79歳になられた今も存命の由。

行平・三木両名は既に泉下に没していますが、野澤氏にはこれからも当時の語り部としてその経験を後進に伝えていただきたいものです。

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祝い飯

先程アップした記事の通り、今日は 『新嘗祭』。


それに因んで、今日はこんな記念日が制定されています。 

 お赤飯の日

なるほど、いかにもおめでたいって感じですネ。


       

もともと縄文時代に中国大陸から伝来した米はインディカ種で、炊くと赤い色になったそうな。

日本では古来から赤という色には災いを避ける力があると信じられていたため、室町時代以降には魔除けの意味を込めて祝いの席でふるまわれたり神に供える風習があったようです。

江戸時代に入ると、稲作技術の発展により現在の白米(ジャポニカ種)を食すようになりましたが、赤い色のご飯を供える風習が残っていたため小豆の煮汁で炊く赤飯(小豆飯)が広まり、今に至っているとのこと。


私の記憶だと、入学式の日とか誕生日にオフクロが炊いてくれた記憶があります。

ゴマ塩をかけてたらふく食べたものですが、地域によっては砂糖をたたっぷり入れた赤飯もあるそうな。

皆さんのご家庭ではどんな時に、どんなお赤飯を食べますか?

男性の私が言うのも何ですが、よく女の子のいるご家庭では初潮を迎えるとお赤飯を炊くっていう話を聞きます。

人気コミック 『課長 島耕作』 でも、空港で突然娘が初潮を迎えてしまい、オロオロする島耕作を助けたパーサーが、機内で偶然彼にお赤飯を出す、なんてエピソードが出てきます。

 

しかし最近では、お赤飯を炊かないご家庭が結構あるとか。

子供の頃お赤飯を炊かれたことがあまり良い思い出として残っていない女性もいるからだそうですが・・・男性には分からない、複雑な女心ってヤツでしょうか?

さてこの赤飯、最近はコンビニでおにぎりとしてかなり以前から定番として売られてますし、冷凍食品も店頭に並んでいます。


それ自体は便利だと思いますし、たまに気分を変えてランチ等で食べるのも結構・・・だとは思います。

でもご家庭での祝い飯として食べるなら、ぜひご自宅で炊いて欲しいですネ。

買ってきたりレンジでチンする赤飯じゃ、気持ちがこもっていない気がしますから。

そもそも、おめでたいことがあった時には〝赤飯を炊く〟とは言っても、〝赤飯を買う〟とは言いませんもの。あせあせ<
かく言う我が家も、ここしばらく赤飯を炊いてません・・・ということで、今日もしラグビーの慶早戦で母校・慶應が勝ったら、炊こうかナ。扇子

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【拡散希望】 新嘗祭

今日は、『勤労感謝の日』。


国民の祝日に関する法律により 「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう日」 と定められ、1948年から公布・施行されている祝日。


ですが、1947(昭和22)年までは数ある神事の中で最も重要とされる


   にい  なめ  さい
   新 嘗 祭


が行われる、同名の祝日でした。


これは宮中祭祀のひとつで、天皇陛下が五穀の新穀や新酒を神々に供え、またご自身もそれを食して収穫に感謝する儀式であり、全国の神社でも同様の儀式が執り行われます。


新嘗祭は古くから行なわれており、1872(明治5)年までは旧暦11月の2回目の卯の日に行われていました。


それが太陽暦の導入と共に新暦11月の2回目の卯の日に行うこととなり、その最初が11月23日だったため、そのままこの日に固定され現在に至っています。   


宮中での式典は午後6時~8時の『夕(よい)の儀』、午後11時~翌日午前1時の 『暁(あかつき)の儀の2回、神嘉殿において催されるとのこと。


       
 
         夕の儀』のご様子


多くの人々が祝日の楽しいひと時を過ごしたり寝入っている本日の昼夜、農耕民族たる日本人の代表としてその祭祀を司る天皇陛下自らが神々に感謝の祷りを捧げられていることを、国民はしっかりと認識すべきでしょう。


嘗て10年半にわたり侍従長を務められた現・宮内庁参与の渡邉 允(まこと)氏が以前月刊 『致知』 で天皇陛下の祭祀に臨まれる姿勢について語られていましたので、以下に抜粋・編集にてご紹介させていただきます。


       ◆    ◆    ◆    ◆


両陛下は毎朝6時にはお目覚めになり、お二方で吹上御苑の森の中を散歩なさっています。 驚くべきことに、ご病気の時を除いて、この6時起床を変えられたことはありません。

普通はその日の予定に合わせて起床時間を決めたり、休みの日は遅くまで寝ていたくなるものでしょう。


しかし1年を通じて時間を変えないという規律を自らに課しておられる・・・そこに私は陛下の一貫した強靭な意志力を垣間見る思いがします。

そんな陛下の1日は、本当にお忙しいものです。

例えばまず午前中、宮中三殿で宮中祭祀を執り行われた後、午後は宮殿において社会福祉関係者の拝謁や認証官任命式
※国務大臣その他の官吏を任命し、辞令を交付する儀式)がある。 


その後新しく着任した外国大使夫妻のためにお茶会をなさり、夜は御所で近く訪問予定の国の歴史について、学者の話をお聴きになる。

通常、夜10時半が御格子
【※みこうし=陛下が御寝(おしずまり)になること】ですが、大抵両陛下はそれ以後も翌日の行事のための資料や式典で読まれるお言葉の原稿に目を通したり、外国の国王・王妃にお手紙を書かれたりされているようです。

このように朝から晩まで次々と性質の異なるお仕事に取り組まれており、それが1年を通じて続くことになります。


両陛下がお出ましになる大きな行事や式典は休日・祝日に行われることが多いため、5日働いて2日休むという生活のリズムもないのです。


        


そこまでしてご公務に邁進される陛下の根底にあるもの

・・・それは、「国民のために」 という思いにほかなりません。


陛下のその思いが一つの形として具現化される場が


『宮中祭祀』 です。 


これは陛下が国家国民の安寧と繁栄をお祈りになる儀式のこと。

陛下の一年は、元旦朝5時半から執り行われる 『四方拝』 で始まります。


外は真っ暗、しんしんと冷えている中、白い装束に身をまとい神嘉殿の前に敷かれた畳の上に正座され、伊勢神宮をはじめ四方の神々に拝礼される。

その後宮中三殿に移られて 『歳旦祭』 を執り行われ、五穀豊穣や国民の幸福をお祈りになるのです。

このように陛下が執り行われる宮中祭祀は年間20回程度ありますが、この中で最も重要とされるのが11月23日の 『新嘗祭』 です。


夜6時から8時までと、夜11時から翌午前1時までの2回、計4時間にわたって執り行われる間、陛下はずっと正座で儀式に臨まれます。


我々も陛下がいらっしゃるお部屋の外で同じように2時間正座を続けるのですが、これは慣れている人でも難儀なことです。 


私は毎年夏を過ぎると正座の練習を始めていました。


ある時、陛下の元に伺うと、居間で正座をされながらテレビをご覧になっていたことがありました。

やはり陛下も練習をなさっていると思ったのですが
、後でお聞きしてみると陛下はこうおっしゃったのです。

「足が痺れるとか痛いと思うことは一種の雑念であって神様と向き合っている時に雑念が入るのは良くない。 


澄んだ心で神様にお祈りするために、普段から正座で過ごしている。」

その取り組み方ひとつとっても、専ら肉体的苦痛を避けたいと思っていた私とはまるで次元が違うと感服した一瞬でした。

これらさまざまな宮中祭祀の多くは国民の祝日に行なわれています。


つまり私たちが休んでいる時に、陛下は国民の幸福をお祈りされているのです。

そのことを私たちは忘れてはなりません。


     ◆    ◆    ◆    ◆

その他、大きな地震や災害が起きた際にも狼狽えず即座にテレビをつけて情報を収集し、ご自身よりも国民の安全を気にかけておられたエピソードなどが記されておりました。

〝国民が第一、自分は二の次〟・・・普段からのこうしたお考えや姿勢が両陛下から滲み出ているからこそ、東日本大震災や水害被災地をお見舞いされた際、多くの被災者に希望と勇気を与えて下さったのでしょう。

逃げるように現場を離れようとして被災者から厳しい言葉を浴びせられた当時の総理大臣とは、比べることすら憚られます。


日々私たちのために祈りを捧げられている両陛下に感謝し、その思いに応えられるような国民にならねば!と、改めて気を引き締める次第。

そして敗戦後GHQによって葬り去られた伝統ある祭祀の歴史や由来を次世代に語り継ぐことも、私たち大人の義務と言えましょう。

〝日本を取り戻す〟ためには、まず 『勤労感謝の日』 という意味不明の呼称を 『新嘗祭』 に戻すべきだと、私は考えます。

今日は厳粛な気持ちで、国旗を掲揚しましょう!


    


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最 後

今日は、徳川幕府最後の将軍にして、また日本史上最後の征夷大将軍でもあった

 

徳川 慶喜

の命日にあたります。

       


慶喜は1837(天保8)年に第9代水戸藩主・徳川斉昭の七男として江戸・小石川の水戸藩邸で生まれました。

生後7ヶ月目で水戸に移され、以後9年間同地で過ごした彼は非常に英明だったそうで、1847年に第12代将軍・家慶から一橋家の家督を継ぐよう命じられ江戸へ出府し、一橋慶喜と名乗るように。

1853年にその家慶が病死し、次の将軍となった家定が病弱で男子を作れる見込みがなかったため、幕府内で将軍継嗣問題が浮上。

しかし一橋派だった阿部正弘・島津斉彬が相次いで亡くなったため、井伊直弼の裁定で家茂に決着。

慶喜は井伊大老による〝安政の大獄〟で隠居謹慎の処分を受けますが、大老が桜田門外の変で暗殺されたことで謹慎は解除。

島津久光らの介入により将軍後見職に就くと、朝廷との交渉役として上洛。

しかし交渉は上手くいかず、更に開国派だった慶喜は島津久光らと対立して将軍後見職を辞任し、禁裏御守衛総督に就任して長州藩と対立する一方、諸外国から強く要求された安政五ヵ国条約の許諾を得るため奔走し、勅許取得に成功。

ところが1866年に家茂が大阪城で亡くなると、第15代将軍の座に。

※ただし本人は将軍になりたくなかったようで、しぶしぶその座に就いたのは家茂の死後5か月近く経ってからでした。

将軍になってからの慶喜は、フランスからの援助を受けて横須賀製鉄所や造船所を建設したり、軍制改革を実施。

また老中の月番制を廃止して陸・海軍総裁や会計総裁を置くなど、組織の近代化に着手。

そして薩長が武力による討幕運動に進むことを予期した彼は、内乱を防ぐため1867年10月14日に京都・二条城にて大政奉還を行いました。

       

※この絵は教科書に掲載されるほど有名ですが、最近公表された越後新発田藩家臣の記録によれば、大広間で慶喜と面会したのは薩摩藩の小松帯刀、土佐藩の後藤象二郎ら6人が残っただけで、大勢の前で宣言したわけではなかったそうな。

しかし薩長はそれに満足せず、朝廷を制圧すると同時に慶喜の排除や幕府領地の返納を要求して新政府樹立を宣言。(王政復古)


これに反発した慶喜は、謹慎していた大阪城から会津・桑名藩兵とともに京都に向け進軍し、薩摩藩兵らと武力衝突。

1867年1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗退した際、自ら指揮する旧幕府軍の兵に


「千兵が最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ」


と厳命しておきながら、自身は陣中に伴った側近や妾、老中の板倉勝静ら数名の取り巻きと共に開陽丸に乗り込み、江戸に逃げ帰ってしまったのです。

衆院選の開票日に自分だけパリ出張で日本を離れた某新党代表を彷彿とさせますが、こんなトップが率いる組織が勝てるわけはなし。

これにより薩長には慶喜を朝敵とした追討令が下り、新政府軍が東征を開始、旧幕府軍は制圧されるにいたり至ります。

※この辺りの経緯については、こちらの過去記事をご参照ください。


  
https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11856545383.html


その後水戸で謹慎した後、同年7月に徳川家が駿府に入封されると、慶喜も駿河の宝台院で謹慎。


これによって、遂に徳川政権は終焉の時を迎えたのです。


戊辰戦争後に謹慎を解除され、以後静岡に居を構えた慶喜は、写真や狩猟、囲碁などの趣味に没頭し、旧幕臣とは会おうとしなかったそうな。

まぁ、会えないでしょうネ。


       


1897年には東京に転居し、1902年には侯爵に叙せられ、貴族院議員も務めた彼が76歳でこの世を去ったのは、1913(大正2)年11月22日・・・奇しくもケネディー大統領と同じ命日となりました。

慶喜は徳川の歴代将軍の中で最も長命でしたが、彼のために戦い命を落とした数多くの旧幕府軍の兵士たちとあの世で出会ったら、果たして何と声をかけるのでしょう?

個人的にはこういうトップの部下にはなりたくないです・・・が、反面もし慶喜が薩長軍と徹底抗戦していたら国内は焦土化し、諸外国から漬け込まれて日本も植民地化されていたかもしれません。

ところで、私たちが学校で習ったりする明治維新前後の近代史は、ともすると薩長に都合の良い解釈がなされがち。

別の角度から近代史を見つめ直したいという方には、こちらの書籍をオススメします。


 『明治維新の正体 徳川慶喜の魁、西郷隆盛のテロ
                  (鈴木壮一・著 毎日ワンズ・刊)

       


同書は、当時の日本を狙う諸外国の事情も併せて書かれており、世界史的な見地から幕末~明治維新の歴史がよく分かります。

坂本龍馬や西郷隆盛ファンの方が読むと、目を剥くかもしれませんが・・・。
うー

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