今月20日の拙ブログでは、元内閣総理大臣・吉田茂氏を取り上げました。(↓)
https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12222049503.html
その吉田氏の
国 葬
が日本武道館で執り行われたのが、50年前の今日・1967(昭和42)年10月31日のことでした。
吉田氏は同年10月20日に89歳で逝去され、東京カテドラルで葬儀が行われましたが、戦後復興の道筋をつけた功績を慮り、改めて国葬が執り行われたのです。
当時私は小学生でしたが、この日は午後から学校が休みになったことと、「とにかく偉い人が亡くなったんだ」 と思ったことを、朧げながら憶えています。
(明治以降は勅令により、また1926年に公布された 「国葬令」 に基づき) 戦前は天皇陛下らの皇族については 『大喪の礼』 として執り行われ、伊藤博文・大山巌・松方正義・東郷平八郎・山本五十六各氏の国葬が執り行われました。
しかし戦後はその 『国葬令』 が失効しており、法律上の規定は存在していません。
吉田氏の国葬に関しては閣議で特別に決定されたものであり、故に現在に至るまで戦後唯一の国葬なのです。
(※昭和天皇の葬儀については、皇室主宰の儀式と捉えられ、国葬扱いにはならないそうな。)
上記の通り、日本では過去政治家・軍人に限って執り行われてきた国葬ですが、外国ではお国柄によって様々。
アメリカは歴代大統領・・・特にケネディ大統領の葬儀では、幼いジュニアの敬礼シーンが印象的でした。
またイギリスでは国王・英国王室が原則ですが、過去にはネルソン提督やチャーチル首相など。
多くの国は国家に多大なる貢献・功績を残した方を対象としているようですが、変わった(?)ところではマザー・テレサ(インド)、テレサ・テン(台湾)、そしてアイルトン・セナ(ブラジル)などが国民的英雄として国葬が執り行われました。
ではここで、クイズをひとつ。
我が国で国葬を執り行う場合、どんな葬儀形式になるでしょう。
一般的な仏式葬で執り行うのでしょうか?
それとも日本古来の神道?
正解は・・・政教分離の原則に則り、〝無宗教葬〟となるそうです。
さて将来、全国民がその死を悼むような〝偉大なる政治家〟は、果たして我が国に出現するのでしょうか?
そういう人物が出ない方が、日本は平和なのかもしれませんが・・・。
ネット上で魔訶不思議なメニューを発見しました。
爆笑必至。 電車内で読んではいけません。
それにしても、「申し訳ないが吠えることしない安全ごす」 な〝土えもの付属うーメン〟って、何?
それに 「婦女寄り添うササビス無、すぐ帰れ」 って、どんな中華料理店なんだか・・・。
今月初め、福岡県の中学で、注意されたことに逆ギレした中学生が教師に暴力を振るい、その教師に〝常人逮捕〟されるという事件がありました。
私の中学生時代には、教師に生徒が暴力を振るうとか、教師が生徒を〝常人逮捕〟するなんて有り得なかったし、考えられない話。
またその事件の直前、運動会の練習で教師が 「起立!」 と5回も言わなければ立たない小学生を目撃して呆れ果てた私は、学校教育はもとより親の躾はどうなっているのか? またこの子供らがどんな大人になるのか?・・・と、大きな不安を覚えます。
今年4月、安倍内閣が 「憲法や教育基本法に反しない形で教材として使用を認める」 という閣議決定をしたことで話題になったものの、最近は北朝鮮のミサイルや衆院解散等々ですっかり忘れ去られた感がありますが、私はそんな時だからこそ、その閣議決定通り学校教育の中で是非とも復活させるべきだと強く思っています。 その
教 育 勅 語
正式名称・『教育ニ関スル勅語』 が発表されたのが、今から127年前の今日・1890(明治23)年10月30日のことでした。
これは山縣有朋内閣時代、地方長官会議に於いて
「知識に偏る学校教育を修正し、道徳心の育成を重視する」
ことを求め、また明治天皇ご自身が道徳教育に関心を寄せられていたことと合わせ、井上毅・内閣法制局長官が原案を作成し、これを加筆修正したものを明治天皇の名の許に発表されたもの。
それから太平洋戦争の終戦頃まで我が国道徳教育の規範と捉えられていましたが、1947年に施行された教育基本法および翌年の国会決議により、教育勅語は学校教育から排除されました。
皆さんは、この『教育勅語』について、どのような認識をお持ちでしょうか?
戦後教育の影響等で、この勅語は〝天皇制を強制するもの、あるいは偏った戦前の思想教育の根本〟 と思われている方もいらっしゃると思いますが・・・。
しかし冒頭の 「朕惟フニ・・・」 はご存知だとしても、全てを読んだことのある方は意外と少ないのではないでしょうか?
以下に勅語全文(※原文には句読点・濁点・改行なし)を掲載致します。 まずは一度目を通してみて下さい。
◆ ◆ ◆ ◆
朕(ちん)惟(おも)フニ、我ガ皇祖皇宗(こうそこうそう)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ、德ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ。
我ガ臣民克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ、億兆心ヲ一(いつ)ニシテ世々(よよ)厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ、此レ我ガ國體(こくたい)ノ精華ニシテ、教育ノ淵源(えんげん)亦(また)實(じつ)ニ此ニ存ス。
爾(なんじ)臣民父母ニ孝ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相(あい)和シ、朋友相信ジ、恭儉(きょうけん)己レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、學ヲ修メ、業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ、德器(とっき)ヲ成就シ、進(すすん)デ公益ヲ廣(ひろ)メ、世務(せいむ)ヲ開キ、常ニ國憲(こっけん)ヲ重(おもん)ジ、國法(こくほう)ニ遵(したが)ヒ、一旦緩急アレバ義勇公ニ奉(ほう)ジ、以テ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)ヲ扶翼(ふよく)スベシ。
是(かく)ノ如キハ獨(ひと)リ朕ガ忠良(ちゅうりょう)ノ臣民タルノミナラズ、又以テ爾(なんじ)祖先ノ遺風ヲ顯彰(けんしょう)スルニ足(た)ラン。
斯(こ)ノ道ハ實(じつ)ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守スベキ所、之ヲ古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ、之ヲ中外(ちゅうがい)ニ施シテ悖(もと)ラズ。
朕爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ拳々服膺(けんけんふくよう)シテ、咸(みな)其(その)德ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ。
明治二十三年十月三十日
御名御璽(ぎょめいぎょじ)
いやはや、読むだけでも一苦労・・・お疲れさまでした。
しかしこれだけでは意味がお分かりいただけないと思いますので、以下に(私なりの意訳を含めた)現代語訳を記してみます。
私の思うには、我が皇室の祖先が国をお始めになったのは遙か遠い昔のことで、お築きになった徳は深く厚きものでした。
日本国民は忠と孝の道をもって心を一つにし、今までその美をなしてきましたが、これこそ我が国の優れた点であり、教育の根本もまたこの中にあります。
国民は皆父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の心で接し、学問を行い、手に職をつけ、知能を啓発し、徳と才能を磨き、進んで世のため人のために尽くし、憲法を重んじ法律に従い、もし有事となれば公のため勇敢に仕え、天下に比類なき皇国の繁栄に尽くすべきです。
これらは、ただ国民が我が忠実で良き臣民であるというだけのことではなく、あなた方の祖先の遺した良き伝統を継承していくものでもあります。
この道は実に我が皇室の祖先がお遺しになった教訓であり、国民の共に守るべきもので、昔も今も変わらず国内外問わず間違いなき道です。
私は国民と共にこれらを肝に銘じて守っていきますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことを願うものです。
◆ ◆ ◆ ◆
・・・如何でしょうか?
確かに一部現在では受け入れにくい文言もありますが、主旨は親孝行・家族や友人との人間関係・勤勉・奉仕等々、まさに道徳の基本を説いているのです。
この勅語が発表された動機である 「知識偏重教育を是正し、道徳心を育成」 しなければならないのは、当時の人々よりむしろ一世紀以上経った現代に生きる私たち・・・だと私は思うのですが。
安倍政権では学校教育現場における 『道徳』 の教科化・充実を掲げていますが、たとえ使う文言や名称を変えても〝教育勅語の精神〟を子供達に教える授業を実施させて欲しいもの。
時代は変われど、〝人として生きるべき道〟は不変ですから。
今や私たちの日常生活に欠かせない、コンビニ。
しかし業界の競争は厳しく、店の経営・維持は大変であることは、以前拙ブログでも書籍の紹介などを通じて記事にしてきました。(↓)
https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12147701774.html
サークルKサンクスの看板がファミリーマートに変わり、そのサンクスが664店舗閉鎖なんて報道が最近ありましたから、業界再編も急速に進んでいるようです。
それ自体は私たち消費者にとって悪い事ではないと思うのですが・・・そんな中で最近、首を傾げたくなる2つのコンビニ新装開店が、弊社近くでほぼ同時にありました。
まずは、幹線道路の交差点脇に出来た店舗。
確かに交通量の多い道沿いなのですが・・・駐車場がないんです。
あるのは小さなスペースの駐輪場が奥にあるだけ。(↓)
しかも地下鉄の駅からは遠く、近くに高層マンションや学校もないですから、通勤・通学路でもなし。
これでどうやって集客できるのか? 素人の私にはよく分かりません。
実際オープン初日には派手に記念セールを行っていましたが、それほどお客さんが集まっていなかった様子。
そしてもうひとつの店も、幹線道路沿いにオープンしたのですが・・・その場所が、立体交差点そばの本道と側道の合流地点脇なんです。(※下図・赤ポチ地点)
さすがに駐車場はあるのですが、本線が下り坂でスピードが上がるため、側道から合流してくる車も加速する地点に出入口が。
実は私、この側道をほぼ毎日通っているんですが、今までは本線を下ってくる車を注意するべく右後方だけバックミラーで見ていれば良かったのに、このコンビニが出来たおかげで左前方からの車の飛び出しも気にしなければならず、非常に迷惑。
運転する方はお分かりいただけると思いますが、車の出入りの際に追突したり出合いがしらの衝突など、事故が起きやすい状況なんです。
まして駐車場から本線に出るのは非常に危険。
ですから私自身このコンビニを利用しませんし、他のドライバーも同様かと。
実際、いつ通っても駐車場には殆ど車が停まっていません。
しかも、道の真向かいには既に昨年から別のコンビニが営業中。
土地所有者が、駐車場にしておくよりは・・・と思ってコンビニ経営に乗り出したのかもしれませんが、私にはなぜこういう場所に店を出すのか、実に不思議。
コンビニ本部は今までのノウハウから採算が取れるかどうか予想が立てられるはずでしょうが、そのガイドラインに乗っているのかどうか?
それとも採算に合わないと分かっていても、本部には損がないから希望者がいればどんどん開店させているのか?
実態は、どうなんでしょうネ。
少なくとも私には、この2つの店のオーナーさんにビジネス感覚があるとは思えないのですが・・・。
ちなみにこの2つの新店舗、400m程しか離れてません。
双方のオーナーさん、すぐそばにもう1店同時オーブンすること、知っていたのかなァ?
ニューリーダーと言われた政治家は数あれど、総理大臣の椅子に座れたのはごく一部。
多くは志半ばにして政界を引退して行ったのですが・・・今日は、個人的にはその実力を高く評価していたものの、結局はその大勢の仲間入りをしてしまった
藤波 孝生 氏
の命日・没後10周年にあたります。
藤波氏は1932(昭和7)年に現在の伊勢市に生まれました。
早稲田大学在学中は多くの政治家を輩出した雄弁会で活躍したものの、卒業後は実家の老舗和菓子店に戻り、毎日菓子作りに精を出していたとか。
しかし政界に出る意思があったのでしょう・・・彼は自ら伊勢青年会議所を組織して副理事長に就任すると、これを選挙母体として1963年に三重県議会議員に当選。
その3年後に勲一等瑞宝章を受章した三重県の重鎮・浜地文平氏の引退に際し後継に指名され、1967年の衆院選で自民党から立候補し初当選。
温厚な性格と卓越した知識を買われて中曽根康弘氏の側近として重用されると、科学技術庁・文部政務次官、自民党文教部会長、労働大臣、官房長官、党国対委員長などを歴任し、ニューリーダーの一人として頭角を現しました。
しかし、ここで大きな躓きが・・・それは、リクルート事件。
中曽根前首相・竹下首相ら自民党の実力者が軒並みリクルートコスモスの未公開株を受領していたことが発覚し、政界に大激震を引き起こした同事件ですが、逆に未公開株の譲渡対象が広範で職務権限との関連性が薄かったため、大物政治家の立件ができませんでした。
しかし藤波氏は公務員採用時期を民間企業の就職協定の時期に合わせる旨の請託をリクルート社から受けたとして、自民党議員としてはただ1人だけ受託収賄罪で起訴されてしまいます。
その後自民党を離党し、落選 → 一審無罪 → 復党 → 当選 → 二審有罪 → 再離党 → 最高裁で有罪確定、と法廷闘争に労力を使い果たす形で、2003年に政界を引退。
2007年10月28日、肺炎による呼吸不全により、本懐を遂げられぬまま74歳でこの世を去りました。
タラレバを言っても詮無いですが、もしリクルート事件がなければ首相候補の最有力だったはず。
スポーツの世界もそうですが、頂点に立つためには実力に運が重ならないとダメですネ。
もうひとつ、藤波氏を私が高く評価したのは、親分の中曽根氏を守るために一切口をつぐんだこと。
その義理と口の堅さが、周囲から信頼された要因なのでしょうが、結局は彼自身が泥をかぶる形になってしまいました。
親分に忠義を立てた彼は、果たしてそれで満足だったのかどうかは分かりませんが。
それにしても、部下を身代わり(?)にした大勲位が99歳にして未だ存命中・・・トップに君臨するには、実力と運だけではなく、健康と図太い神経が必要のようです。
生産者と消費者、教師と生徒・保護者、医師と患者・・・これら双方の力関係を見る時、現在は昔と比べて後者の(発言)力がかなり強くなっているように感じます。
それも度が過ぎると、クレーマーとかモンスターペアレント・モンスターペイシェントや昨日ご紹介したようなモンスター老人となり、それが教師や医師・介護士不足の遠因に繋がってくると言えましょう。
何事も偏りすぎず、バランスが大切では?・・・と、私は思うのですが。
そんな話に関連して、今日・10月27日と↓のインスタント・ラーメンには、ちょっとした因縁(?)があるんです。
「こんなラーメン見たことない」っていう方が多いかもしれませんネ。
それもそのはず、とっくに販売が中止されている商品ですから。
でも今から42年前の1975(昭和50)年に、このラーメンは非常に注目を集めたんです。
ただし、有名になったのはこの商品のテレビCMでした。
ではまず、そのCMをご覧ください。(↓)
〝ワタシ作る人、ボク食べる人〟
このキャッチコピー、結構ウケたのですが・・・お茶の間に流れ始めて1ヶ月程経った頃、『国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会』 なる団体のメンバーがハウス食品の東京本社を訪れ、
「男は仕事、女は家事や育児という性別役割分業を定着させる」
と抗議してCM放映の中止を申し入れた結果、とうとう10月27日に放映自粛となったのです。
この他にも、今まで抗議や圧力を受けて放映中止や差し替えになったテレビCMは、結構ありました。
◆ 1991年、エーザイ「チョコラBBドリンク」のCMで、桃井かおりが「世の中、バカが多くて疲れません?」というセリフにクレームがつき、「世の中、お利口が多くて疲れません?」に変更。
◆ 1995年、サントリーのCMで矢沢永吉のセリフ「夏だからってどこか行くのやめません?」というセリフが、レジャー気運に水を差すと旅館経営者から抗議を受け放映中止。
◆ 1996年、日産自動車「スカイライン」のCMで牧瀬里穂の「男だったら乗ってみな!」というセリフが男女差別だと抗議を受け、「キメたかったら、乗ってみな!」に変更。
◆ 1999年、ハウス食品のシチューCMで、母親が「犬と一緒に遊んじゃダメよ」というセリフに、動物愛好家からのペットを捨てるよう奨励しているという抗議で「暗くなるまで遊んじゃダメよ」に変更。
◆ 2007年、日本コカ・コーラの〝からだ巡茶〟CMで、広末涼子が「ブラジャーが透けるほど汗をかいた最後っていつだろう」というセリフに、ブラジャーは性的表現であり不快というクレームがあり、「こんなに汗をかいた最後っていつだろう」に変更。
なんてことがありました。
それぞれに時代背景があったかもしれませんが、皆さんは、これらのクレーム・・・どう思います?
私に言わせれば、(何もそこまで・・・) っていうのが多いように思えるんですけれどネ。
そしてここ数年では、クレームによってCM放映が中止に追い込まれるケースが以前より増えてきたように感じます。
確かに中には致し方ないと思われる内容のものもありますが、今年に入って、こんなCMが放映中止になったことをご存知でしょうか?
ではまず、ご覧ください。
これ、どの部分が問題になっと思いますか?
◆「トランペットの練習中に友人2人が笑顔で駆け寄ってきて後ろから軽くドンと当たる」シーンが危険だとして、専門家らがツイッターなどで抗議した。
からなんですって。
専門家ってどんな専門家か知りませんが、私は理解不能。
だんだん世の中が縮こまる・・・というか、世知辛くなってきている気がしてなりません。
こういう風潮、変えた方が良いと私は思うんですが、皆さんはいかがでしょうか?
では、もし冒頭ご紹介したシャンメンのキャッチ・コピーを
〝あなた作る人、私食べる人〟
って女性に言わせたら・・・クレームつくのかなァ?

ここ数年、高齢者の我儘・暴走ぶりがメディアで報じられたり、その目撃情報がネット上で数多くアップされています。
以前バスの中で運転手に怒鳴り散らして乗客とトラブルを起こしたおじいさんの動画がアップされましたが、その言動はちょっと信じ難いものでした。
※その動画は、こちら。(↓)
https://www.youtube.com/watch?v=qImKEkSmdUM
またつい先日行われた衆院選の開票特別番組で、「野党が酷すぎる。」 という視聴者の声を聞いた評論家の田原総一朗(敢えて敬称略)が、突然
「ちょっと待って! 野党が酷すぎるってどういうことなんだよ!」
と激怒し、周囲を凍り付かせました。
こういった〝モンスター老人〟の増加は、私たちの日常生活に余分なストレスをかける要因になりますが・・・実は私自身も昨日立ち寄った牛丼店で、モンスター老人を目撃してしまいました。
しかも2人。
店内に入ると、カウンターはほぼ満席。
たまたまひとつ開いていた席に座ると、右隣りには70歳代と思しき男性が。
茶碗を手にした彼が、私が食券を渡した若い女性バイト店員に、
「おい、お茶。 熱いっ!」
って、いきなり怒鳴ったんです。
横にいた私がビックリするような大声で。
皆さんがこう言われたら、どう思います?
普通は、出したお茶が熱いからもっとぬるいのをくれ・・・って意味だと思いますょネ。
当然言われた彼女もそう思ったんでしょう。
「そうですか、すぐお取替えします。」
と言って、茶碗を預かると、少し水を足して出し直したんです。
まぁそのやり方もどうかと思いますが、それを男性客の目の前に置いた途端、今度はこう怒鳴ったんです。
「バカッ、もっと熱いお茶を持ってこいって言ったんだ。
お前、日本語分からないのか~!」
いやいや、日本語知らないのはアンタの方でしょうが。
私は横にいて不快になったので、これ以上怒鳴るようならもっと大きな声で 「うるせぇゾ!」 と恫喝してやろう・・・と思ったのですが、彼女が平謝りで
「すみません、今お持ちします。」
と、別の入れたてのお茶と交換。
それに満足したのか、それ以降は小声で 「最近の店員は、なっとらん」 などとブツブツ言いながら箸を動かしてました。
(ホッ、静かになってくれて良かった。)
と思っていたところに私の注文した定食が出てきたので、私は箸を取って食べ始めた途端・・・今度は反対のカウンターに座っていた60歳代くらいの男性客が、また怒鳴り始めたのです。
「おい、小鉢が違うゾ。 オレが頼んだのはとろろだ!」
すると先程の女性スタッフが飛んできて、「あっ、すみません。」 と言いながら半券を確認すると、そのまま厨房へ・・・。
「ったく、しっかりしてくれョ。 こっちは忙しいんだから!」
とブツブツ言っていた客のところに、店長らしき男性スタッフがやってきて、小声で話しかけました。
するとその男性客は、
「なんだ、オレが買い間違えてたのか。」
「えぇ、そのようです。」
「ったく、自販機のボタンが分かりにくいんだョ。
しょうがねぇなァ。 じゃあ、取り換えてョ。」
と全く謝罪もせず悪びれる様子もなし。
しょうがねぇのは、アンタだっての。
バイトの若い女性、もう辞めたくなったかも・・・。
私が店内にいた約15分の間にモンスター老人のトラブルが2件って、凄い確率ですょネ。
いや、高齢化がますます進む今後は、こういうトラブルをそこかしこで目撃することになるのでしょう。
気が重くなるばかりですが、自分がああならないように気を付けなくっちゃ。
今でこそ我々日本国民は思想・宗教の自由を憲法で保障されていますが、昔はそうではありませんでした。
その象徴と言える出来事が、今からちょうど380年前に起きた
島原の乱
と言えましょう。
かつての島原藩は、キリシタン大名・有馬晴信が統治していたためキリスト教信仰が盛んでしたが、1614(慶長19)年に有馬氏が転封。
しかし後任として領主となった松倉重政・勝家親子は江戸城改築の公儀普請役を引き受けるなど幕府に良い顔をする反面領民から年貢を過重に取り立てました。
またキリシタンに対する弾圧を開始し、改宗を拒んだ者に拷問を加えたり処刑を行うように。
この暴君ともいえる領主に対し、圧政に苦しんできた領民たちは一揆を計画。
首謀者たちが総大将として祭り上げたのが、当時キリシタンの間で人気のあったキリシタン大名・小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として天草諸島(※現・熊本県上天草市)で生まれたとされる、当時16歳の天草四郎(本名:益田四郎時貞)でした。
彼の出自等については詳しく分かっていませんが、生まれながらにして頭脳明晰・容姿端麗でカリスマ性があったとのこと。
ジャンヌ・ダルクの日本男子版ともいえる彼を押し頂いた領民たちは勢いづき、1637(寛永14)年10月25日に有馬村のキリシタンが中心となって代官所を急襲して代官・林兵左衛門を殺害したのです。
これに呼応する形で周辺各地でも一揆が起こり、藩の兵力では対抗できない程の勢いに。
島原の乱図屏風(秋月郷土史館蔵)
そこで反乱を鎮圧すべく幕府が軍を派遣。
それを知った反乱軍・37,000名はかつての有馬家居城址に篭城し抵抗を続けたものの、総勢12万を超える討伐軍の圧倒的な兵力の前に武器・食糧が尽き、翌年2月27日から始まった総攻撃により落城。
天草四郎は城中で自害した、と伝えられます。
私は学校で 〝島原の乱=キリシタン弾圧に抵抗した宗教戦争〟というニュアンスで教わりましたが、上記の通りこの反乱はむしろ圧政に苦しんだ農民一揆と言った方が正確でしょう。
しかし時の幕府は、松倉勝家の申し立て通りこれをキリシタンの反乱と位置づけ、領内のキリシタンを悉く処罰。
またこの反乱を利用する形で後にポルトガルとの交易を禁止し、より鎖国を先鋭化していきました。
そして一方の圧政者・松倉勝家も過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いた責任を問われて改易処分となり、後に斬首。
江戸時代に名誉を重んじた切腹を許されず、首だけをはねられた大名は、彼ただ一人だったそうな。
殺された領民にとって、これが唯一の救いだったのかも・・・。
【余 談】
島原の乱の後キリスト教徒らを強制的に改宗させるため、幕府が全国各地の寺院を 〝菩提寺〟とし、周辺住民を仏教の 〝壇信徒〟にとなることを強制。
彼らが旅行や転居で移動する際には証文を出させるなどと定めたのが、1664(寛文4)年に発令され現代に至るまで続いている 『寺請(檀家)制度』 なのです。
・・・といっても、音楽の話ではありません。
今日は、20世紀のファッション業界をリードした名デザイナー、
クリスチャン・ディオール
Christian Dior
の命日・没後60周年にあたります。
ディオールは1905年に、第二次世界大戦の連合軍上陸作戦で有名なフランス北西部のノルマンディーで生まれました。
肥料製造で成功した父親のおかげで裕福だった彼は、外交官になって欲しいという両親の願いに反し、芸術の道へ。
父親から資金を提供してもらって1928年にアートギャラリーを持ち、ピカソらの絵画を扱ったものの、世界恐慌によって父親が資産を失ったことでギャラリーは閉鎖。
しかし1937年にスイス生まれのデザイナー、ロベール・ピゲに雇われたディオールは、彼からデザインの基礎を学びます。
(同時期に、ビエール・バルマンもピゲの下で学んでいたとか。)
徴兵で一旦は兵役に就いたものの、1942年に除隊した彼はリュシアル・ルロンのファッションハウスに参加。
不本意ながらも生きるためにナチス高官夫人のドレスなどをデザインしていましたが、終戦後の1946年にマルセル・ブサックの後援を得て自身のクチュールメゾンをパリに立ち上げます。
その翌年に発表したコレクションは 〝ニュールック〟 と言われましたが、これは戦後まもなくの物資不足の中でふんだんに生地を使ったデザインだったため、女性からも抗議を受けました。
しかし時が経つにつれて物資不足が解消すると共に反感は薄れ、逆に女性のボディラインを強調したデザインは受け入れられるように。
彼の〝ニュールック〟はパリを再びファッションの中心地にすると共に、彼自身も1947年から10年間にわたりオートクチュール界の頂点に君臨。
しかし、その絶頂期であった1957年10月23日に休暇先のイタリアで心臓麻痺により急逝・・・まだ52歳の若さでした。
今や服飾だけでなく化粧品・バッグ・宝石などあらゆる分野にディオール・ブランドは進出していますが、そんな世界とは無縁の私にも、ディオールには忘れられない思い出が。
それは、若かりし頃に取引先からプレゼントされた、ネクタイ。
柄が、まさにディオールそのもの・・・こんな感じでした。
金融業界のサラリーマンにはちょっと派手なため、1,2回しか締めたことがありませんでしたが、結婚直後にこのネクタイを見つけた女王様が、
「こんな派手なネクタイ、ごっついアンタには似合わないワ。」
と、ゴミ箱にポイ。
もちろん、反論は許されませんでした。
この日以降、私の持ち物からCDブランドは消えたのです・・・。
改めて20世紀を代表するデザイナーの冥福を祈ると共に、あっさり捨てられたネクタイの供養もしようかと。
午前3時頃に超大型台風21号が静岡県に上陸し、今後関東地方や東・北日本に上陸もしくは近くを通過する見込み。
東京も時折強い風が吹きつけています。
既に各地で被害が出ていますが、今後台風が通過する地域の皆さんは外出を避け、各自治体の出す警報に注意し早めに避難するなど、十分警戒してください。
さて、昨日行われた
第48回衆議院議員総選挙
の大勢が判明しました。
自民党が単独過半数を大きく上回り、公明党と合わせ300議席を超え、与党の勝利。
一方の野党は当初注目された希望の党が失速し、立憲民主党が野党第一党に。
※画像は23日午前6時現在
個人的には、今回の解散総選挙は北朝鮮から発射されたミサイルが一度ならず日本列島上空を通過し、国際的な圧力にも拘わらず更なる脅威が高まったことによる〝国防解散〟だと捉えていました。
即ちアメリカとの安保条約に頼らず、日本単独で国民の安全を確立する体制確立を問う選挙だと・・・。
結果的に与党と日本維新・希望の党ら野党の改憲勢力を加えて2/3を上回る議席を確保したことで、憲法改正に大きく一歩を踏み出したことは大いに評価できます。
安倍総理には今後速やかに改憲など外的から日本を守る体制作りに励んでいただきましょう。
それはそれとして、今回の選挙戦では野党政治家の本性が露見し、またこれまでにない変化が見られました。
まずは、野党のだらしなさとレベルの低さ。
もともと昨年の都知事選で大勝し人気を集めた小池都知事が、今年7月に国政進出を視野に入れた 『日本ファーストの会』 を設立していましたが、安倍総理が解散会見を行った9月25日に新党立ち上げを表明。
その 『希望の党』 に、解散直前女性議員の不倫疑惑などでガタガタになっていた民進党が全会一致で同党への合流(というか移籍)を決定。
ところが希望の党が改憲容認などの踏み絵を用意し、過去の幹部議員を〝排除〟したことに反発した勢力が枝野氏を中心として 『立憲民主党』 を設立。
その間、彼らの言動には国政よりも自分の議席確保優先という姿勢が透けて見えました。
更に当初は期待された希望の党も、思ったように議員が集まらないことで焦ったのでしょう。
いつの間にやら踏み絵が有名無実化したばかりか、保守系を標榜していた同党の姿勢が反原発など徐々に左傾化し、挙句の果てには小池党首自らがモリ・カケなどの安倍批判を口にするように。
更に発表した公約が、〝電柱ゼロ・満員電車ゼロ・スギ花粉ゼロ〟など、ひとつも実現できていない都知事選の公約から更に風呂敷を広げた、およそ実現不可能な項目ばかり。
更に〝リセット〟〝アウフヘーベン〟など空虚な横文字を連発したことで、期待が大きかった分失望も大きく支持率は一気に急降下。
選挙戦の最中は都知事の公務をキャンセルして応援演説のため全国を行脚したのに、敗北濃厚の投票日には公務としてパリに出張・・・党首としてあるまじき敵前逃亡であり、政治家としての限界を露呈しました。
結局は彼女を含め左翼系野党は安倍批判を繰り返しただけで具体的な対案を示せず、北朝鮮の脅威に関して殆ど口をつぐんだことが致命的だったと言えましょう。
そして選挙戦の変化とは、これまで〝サイレント・マジョリティー〟だった保守支持層が、〝ノイジー・マイノリティー〟の左翼勢力に対しカウンター(反撃)行動に出たこと。
3ヶ月前の都議選の際、投票日前日に秋葉原で演説を行った安倍総理に対し、ごく一部の左翼勢力が 「安倍辞めろ」 などと大声を上げて演説を妨害。
テレ朝・TBSなどの反日左翼メディアがその連中だけを拡大撮影し、さもそれが多くの支持を集めていたかのような偏向報道を行いました。
青〇が報道陣で、赤〇が左翼グループ(プロ市民)・・・もう出来レースというかヤラセなのは明白。
しかもプロ市民の周囲には日の丸を振っている人が大勢いるのに、それらは全部カットされていましたから、テレビニュースしか見ない人は、安倍総理批判の声が凄く多かったと誤解したはず。
でも今回の選挙戦では、今まで沈黙していた保守層が各地でアクションを起こしたのです。
遊説先での反安部シュプレヒコールに対し、女性が 「うるさい!」 と声を上げて制止したり、遊説する安倍総理の後ろにプラカードを出して偏向報道を批判。
私は謙虚で奥ゆかしいのが日本人の素晴らしい品格・徳性であるとは思っていますが、相手が特亜のように違法・理不尽な攻撃を加えてくる場合は、力でそれを突っぱねる必要があると思っていましたから、こういうカウンターは嬉しい限り。
実際、21日に安倍総理が因縁の地・秋葉原で行った最終演説の際は、支持者が日の丸を手に大挙応援に駆け付け、熱狂的な安倍晋三コールが巻き起こりました。
しかし報道陣のブースを日の丸で取り囲んだせいもあってか、その後のニュースではこの演説の模様は殆ど報道されませんでした。
ごく少数の左翼による選挙妨害や反日メディアの偏向報道を、一般国民の力で制圧できたと言って良いでしょう。
安倍総理自身も、テレビでの公開討論会や記者会見ではっきり左翼ディアの偏向報道を批判するようになりましたし、この流れは是非今後とも続いて欲しいところ。
◆新聞・テレビの報道は観ない・読まない・信じない。
◆ 「憲法守れ」 と言いながら平気で選挙違反を犯す左翼(プロ市民)の横暴は、毅然とした行動で抑止する。
・・・これが、日本の進路を誤らせない第一歩です。
8年前の政権交代という悪夢を、二度と繰り返さないために。
選挙戦だけでなく、国防においても沈黙・忍耐は敗北を招くだけ。
〝反撃〟することが、勝利のために必要不可欠なのです。