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品 性

最近になってミサイルを何発も発射し、日本を威嚇し続ける北朝鮮。

国連決議を嘲笑うかのように暴挙を重ねる同国を、人道的と称して支援しようとする韓国と、口では非難しながらも後方から援助し続ける支那。

これら〝特亜〟3国に共通しているのが、反日。

私たち日本人にすれば、とんでもない国が隣に位置しているわけですが・・・その特亜に関する書籍が、今月ワック社から立て続けに出版されましたので、ご紹介します。 まずは、


 『中国・中国人の品性』

      


これは支那ウォッチャーとして著名な評論家・宮崎正弘氏と、北京外国語学院・遼寧師範大学に留学経験があり、支那関連の著書が多いノンフィクション作家・河添恵子氏の対談をまとめたもの。


読み始めてすぐにビックリしたのは、

◆支那には、〝躾〟という漢字が存在しない。
◆支那人に〝忖度〟・〝惻隠の情〟はない。


という事実。 

なるほど、彼らが日本だけでなく世界中で公共マナーの悪さで顰蹙を買っているのも納得です。

本書で語られている、河添氏が新幹線の中でちゅうごく支那人と交わしたコーヒーのエピソードが、如実に日・米・支の民族性を物語っています。

また彼ら(支配層と成金たち)の欲望は果てしなく、多くの日本人が持っている〝そこそこ〟という感覚が欠落しているそうな。

(北海道の水源など)何でも買い占めますから、尖閣・沖縄も手に入れなければ気が済まないのでしょう。


また提携した日本の会社の印鑑を平気で偽造したりするなど、ウソをついているという自覚が希薄なのだとか。

まさに覇権主義民族の面目躍如?


また強壮剤として人間の胎児(!)を平気で食べるという彼らと日本人とでは、根本的に民族性が違うと言えます。

そういう支那人だからこそ、以前拙ブログでご紹介した残虐な 『通化事件』 ①や 『通州事件』 ②を、平気で起こせるのでしょう。

※当該事件の過去記事は、こちら。(↓)
 
https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12029175705.html

 ② https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12208374658.html


そしてもう1冊が、

 『韓国・韓国人の品性』


     

著者の古田博司氏は朝鮮人と約40年交流があり、彼らや東アジア諸国に関する著作を数多く出版している、言ってみればコリアン専門家。


韓国・北朝鮮という国家の特殊性を地理的・歴史的に分かりやすく解説してくれています。


『日韓歴史共同研究』 という、実質的には両国の教科書論争をする場にも参加した方で、その際のやり取りも披露されていますが、まさに朝鮮人気質丸出しの発言には、思わず苦笑いさせられます。

その古田氏曰く、韓国人(朝鮮人)とは

◆嘘つきだけど、嘘をついたという自覚がない。
◆反日のナショナリズムはあっても、愛国のナショナリズムはない。


という民族なのだそうな。 また

◆支那人は、思っている(欲する)モノはこの世になければならないという超実念論者。
◆朝鮮(韓国)人は、無いものが有る、持っていないモノを持っていると錯覚する超実念論者。


日本人が〝ウソはつかないが、本当のことを中々言おうとしない不正直者〟なのに対し、支那・朝鮮人は 〝放埓(※勝手気まま)なるウソつき〟 と、その違いを分析。

なるほど、有りもしない従軍慰安婦問題や南京事件での30万人虐殺などと平気で国際社会に吹聴する彼らに、表立って反論してこなかった日本人の対応が、これで納得できます。


そんな国家・民族に対して、古田氏は「我が国は〝助けず・教えず・関わらず〟の非韓三原則で対処すべし」と説いておられますが、私もこれには完全同意。


私自身、保険会社時代に日本各地を転勤しましたが、行く先々で朝鮮人の悪行を見聞きしてきました。 


「このパチンコ屋は近いうちに燃えるゾ」という噂が立つと必ず火災が発生したり、「引き渡した後に、いろいろと難癖付けては散々値切った挙句に代金を支払わない」と泣かされた建設会社の経営者の話も複数回聞いています。


またつい最近では、来年開催予定の平昌五輪の公式HPに、日本列島を消した地図が掲載されていることが発覚。


 


こういう子供じみた姑息な手段、日本人は到底理解できないでしょう。

著者も述べられていますが、たとえ隣国で顔形が多少似ていても、特亜は全く異質の民族であることを認識すべき。

『敵を知り己を知れば、百戦危うからず』

と孫子は説いています。 してみれば、


『特亜の恐ろしい民族性を知らず、己のお人好し加減を自覚しない日本人・・・河添氏が仰るところの〝唯一無二の楽園・日本〟

に勝ち目はありますまい。うー

ご紹介した2冊ともタイトルに〝品格〟とつけているのは、特亜民族にそれはない・・・という、著者なりの皮肉なのでしょう。

そしてどちらも新聞・テレビは報道しないディープな情報満載。


大陸と半島、更にはロシアとの関係について過去の歴史と今後の展開をも示唆しています。


中華街に足繁く通ったり韓流やらK-POPにハマッている方には、是非ともお読みいただきたく・・・。


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運動靴

野球少年だったのに通った中学校には何故か野球部がなく、仕方なく来るべき高校野球に向けて体力をつけようと、一番練習がハードだったバスケット部に籍を置いた私。


しかし腰掛けのつもりがだんだん熱が入ってきて、いつしか〝中学生活≒バスケット部〟に。

上級生を差し置いて唯一2年生でスタメンに選ばれ、そしてキャプテンになった3年生の時はもう少しで全国大会出場というところまで行ったんですョ。


その時の雄姿(?)が下の写真ですが・・・いや~、痩せてました。あせあせ


          中学バスケ


まぁ、それはともかく・・・写真で注目していただきたいのは、履いているデカいバスケット・シューズなんです。


当時はキャンバス(布)製のシューズが当たり前の時代。


しかし〝幅広・甲高〟の私には、コンバースなどの外国製シューズは欧米人向きの細長い形状で全く合わず。


また目立ちたがりだった故に地味なシューズはイヤ・・・おまけにサイズは29cm(!)という、当時は地元実業団でもいないような〝バ○の大足〟。


満足のいくシューズがなくて困っていたのですが、ちょうどその頃に〝ファブレ〟というブランド名で皮革製の国産製品が発売になったのです。


私の足型にピッタリの履きやすそうなシューズで、たちまち気に入りスポーツ用品店で購入。


以来、メーカーの 『オニツカ・タイガー』 には、トレーニングシューズや野球のスパイク等でズ~ッとお世話になりっ放し。


このシューズ・メーカー(現・アシックス)を一代にして築き上げたのが、


 鬼塚 喜八郎 


今日は、スポーツ界に多大な貢献をされた、この創業社長の命日・没後10周年にあたります。


        鬼塚喜八郎


鬼塚(旧姓・坂口)氏は1918(大正7)年、現在の鳥取市で農家の5人兄弟の末っ子として生まれました。 


中学卒業後は徴兵で陸軍に配属され、大東亜戦争ではビルマへ。

そして大本営守備隊として私の準・地元、長野県松代で終戦を迎えます。


里帰りした後、軍隊時代に尊敬していた上官から頼まれて世話をした鬼塚夫妻と養子縁組し、鬼塚姓を名乗ることに。


そして移り住んだ神戸の惨状を目の当たりして、

「戦友たちは子供のために命を投げうったのに、なんてザマだ。
オレは日本の
将来を担う青少年のために一生を尽くす。」


そう決心した鬼塚氏は、戦友だった兵庫県教委・堀保健体育課長から 「青少年がスポーツに打ち込める良い靴を作って欲しい」 と依頼されて一念発起。


運動靴作りに関して全くの素人だった彼は靴職人に弟子入りして猛特訓を受け、1949年に社員4人の 『鬼塚株式会社』 を設立。


最初に手がけたのが、私がお世話になったバスケットシューズでした。


日々体育館に通ってボール拾いを手伝いながら選手の要望を聞き出し、1951年にタコの足からヒントを得た吸盤型の靴底を開発。 


当初は無名ながら全国の競技大会に売り込むなど積極的な営業活動を展開し、徐々に知名度を上げていきます。


そしてシューズのブランドを、強さと俊敏性をイメージさせる 〝虎〟 とあわせて 『オニツカ・タイガー』 と命名。


一時肺結核を患いながらも病床から部下に指示を出し続け、1956年にはメルボルン五輪・日本選手団のトレーニングシューズとして採用され、更にはマラソンのアベベ選手にシューズを提供するなど、日本のトップブランドとして認知されるように。


1977年には国際競争力をつけるため同業2社と合併して 『アシックス』 と改称。


2007年9月29日に心不全で89歳の生涯に幕を閉じるまで会長として陣頭指揮を取り、同社を総合スポーツ用品の世界トップメーカーへと成長させました。


        
          自著・『転んだら起きればいい!』 (PHP研究所・刊)

自分の持ち株の70%を全社員に分け与え、社員の仲人も積極的に引き受けるなど徹底した家族主義経営を貫いた鬼塚氏の経営の原点は〝私心なき素直な心〟だといいます。


「自分たちだけ儲かればいい」 かの如きドライな欧米型経営がもて持て囃される昨今の財界・経営者は、再度注目すべき理念だと私には思えるのですが、いかがでしょうか?


葬儀にはイチロー選手や高橋尚子さんなど数多くのアスリートが参列した程、スポーツを通した青少年育成のために生涯を捧げた大経営者のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3


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個人情報

昭和の時代は、向こう三軒両隣・・・隣人の名前や家族構成、職業等々を知っているのが当たり前の時代でしたが、現代ではマンションの隣人の名前はおろか顔すら知らないのが当たり前。

ネットの普及も相まってプライバシーの保護が個人・法人問わず重要視される時代になりました。

その大きな転換期になったといえる、日本で初めてプライバシーが争点となった

 『宴のあと』 裁判


の判決が出されたのが、今から53年前の今日・1964(昭和39)年9月28日・・・まさに東京五輪開催直前のことでした。


訴えたのは、元外交官・衆議院議員で外務大臣も務めた有田八郎(1884-1965)氏。

そして被告となったのは、あの三島由紀夫(1925-1970)氏。

彼が1960年に雑誌 『中央公論』 1~10月号に連載した後、同年11月15日に新潮社より刊行した 『宴のあと』 という小説が問題となったのです。


       


この作品は、高級料亭の女将が、高邁な政治理念を掲げた政治家を愛し、彼のために選挙違反をも厭わず支えたものの、結局彼は立候補した都知事選で落選。

その失望感の中で、結局彼とは別離を迎える・・・という筋書きなのですが、有田氏はこの政治家が明らかに自分がモデルでありプライバシーを侵害されたとして、損害賠償100万円と謝罪広告を求め、原作者の三島氏と出版元の新潮社を告訴したのです。


有田氏は前妻を亡くした後、59歳の時に37歳の料亭の女将・畔上輝井(あぜがみ てるい)さんと再婚し、1953年に故郷・新潟から衆院選に出馬し、当選。

この時の選挙資金として2千万円を奥さんが用立てたとか。


しかし1955年に行われた2度目の選挙に落選し、その直後に革新統一候補として東京都知事選に立候補するも敗北。

4年後にも再挑戦して落選しましたが、この時の選挙資金調達のため奥さんが料亭を売り払い、店の収益をも全て選挙準備に投じたものの、約1億円の借金が残ったそうな。


自宅を売却した有田氏と、その後店を再興しようと夫の政敵である吉田茂氏らから資金を提供してもらった奥さんとの間に大きな溝ができた末に離婚していますから、誰がどう見ても主人公のモデルが有田氏であることは明白。

もし当選していれば訴えなかった・・・というか作品にはなっていなかったでしょうが、死人にムチ打つような出版に我慢がならなかったのでしょう。

まぁその心情は分からぬでもありませんが。


   
          有田氏                   三島氏

当時は〝プライバシーの侵害〟という言葉が流行ったそうですが、東京地裁が下した判決は、


「言論・表現の自由は絶対的なものではなく、他の名誉・信用・プライバシー等の法益を侵害しない限りにおいてその自由が保障されているものである」


として、謝罪広告は認めなかったものの80万円の支払いを命じる原告勝訴の判決を下しました。

被告側はこれを不服として控訴しましたが、その翌年に原告の有田氏が死去したため、結局遺族と和解が成立。

しかし三島氏は、後日この東京地裁の判決以降、裁判を信じなくなったとか。


ところで、『宴のあと』 はともするとこの裁判ネタとしてのみ扱われがちですが、文学作品としては非常に評価が高く、諸外国で翻訳・出版されている秀作。

英訳したドナルド・キーン氏も

「この小説で、三島は19世紀フランスの手法で小説を書ける能力を実証したと言える」

と絶賛しています。

政治の裏舞台や男女の機微を描いた同作品、まだお読みでない方は、是非!


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踊り子
<・・・と言っても川端康成氏のお話ではありません。


今日・9月27日はフランスの印象派画家として有名な


 エドガー・ドガ


の命日・没後100周年にあたります。



1834年に裕福な銀行家だった父親の長男としてパリに生まれたドガは、当初法律を学ばされていました。


しかし画家になりたかった彼は18歳で退学、21歳の時に名門のエコール・デ・ボサール(官立美術学校)に入学して新古典主義の巨匠アングル派の流れを受け継ぐ線描の信奉者ルイ・ラモートに師事。


その年であったアングルらの助言により、彼のデッサン重視のスタイルが確立したといいます。


翌年から3年間イタリアに渡り叔母の家に滞在、ルネサンス芸術を研究したドガは、1865年に歴史画でサロン初入選を果たし、1862年には印象派の先駆者マネと出会うと同派の画家・批評家と交流を重ねます。


人物の動きの瞬間を躍動的に切り取る優れた観察眼と、写真技術や浮世絵から影響を受けたといわれる中心がズレていたり人物の顔が端で切れているなどの大胆かつ奇抜な構図で、主に室内風景を描いた作品が多いことで知られています。


これは彼が網膜に疾患があり、太陽が光り輝く屋外に出られなかったことが原因とのこと。


また踊り子などバレエを扱った作品が多いことも特徴ですが、これは銀行家だった父親のおかげでオペラ座の定期会員になっていた彼が、一般人が立ち入れない楽屋や練習風景を見ることが出来たからだそうな。


                   


しかし1874年に莫大な借金を残したまま父親が他界したため、その返済のために家・財産を売却したりパステル画などを大量に製作する羽目に。


気難しく皮肉っぽい性格だったため生涯独身だったという彼は仲間との衝突も絶えず、更にドレフュス事件に関する発言が元で数少ない友人をも失ったとか。


更に晩年は視力が衰えたため踊り子や馬などの彫刻作品も残していますが・・・1917年9月27日、83歳でこの世を去ったドガの晩年は不遇だったといえましょう。


しかし彼の遺した作品の見事さに変わりはなし・・・フランスが生んだ名画家の冥福を祈るばかりです。笑3


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恐 竜

先月、我らがエネゴリ君が合コンでネズミ講に関わる女性からアプローチをかけられたことを、皆さんもご記憶でしょう。(↓)

 https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12304147238.html


その後どうなったか私も気になっていたのですが・・・なんと①~③のいずれにもなりませんでした。

合コン後その女性から連絡がないので、彼から 「是非ご来店下さい」 とメールしたものの、なしのつぶて。

つまり、彼はネズミ女(?)からも敬遠されてしまったのです。


まぁ③のネズミ仲間になるよりは良かったとはいえ、厨房でショボンとしている彼を見ていると、なんとなく可哀想になった私は、

「まぁ、積極的に合コンとか顔を出していれば、そのうち誰かと付き合えるョ。 料理できる男子はモテるっていうし・・・。


ところで、最近また北朝鮮が強気な発言しているの、知ってる?
エネゴリ君ょ、テポドン飛んできたら、どうする?」

と話題を変えようと思って問いかけたんですが、彼は怪訝な顔。

「もしかして、テポドンって知らないの?」


「えぇ。」

「じゃあ、何だと思う?」

「う~ん・・・恐竜ですか?」

北朝鮮と全然関係ないだろ! と言いたいのをグッと堪えて

「なんで恐竜だと思うのョ。」


「だって、プテラノドンとかイグアノドンとかと同じで、最後に〝ドン〟がつくから・・・。」


     

                  Iguanodon


「ほぉ~、ずいぶん恐竜に詳しいネ。」

「えぇ、好きですから。 ジュラシック・パークも観ますし。」

「じゃあ、その映画の中にテポドンって恐竜出てきたかい?」


「いえ、出てこなかったです。」

「そりゃ出てくるわけないだろ。 

 テポドンってのは、北朝鮮のミサイルの名前だョ。」

「へぇ~、そうなんですか。」

「そんなのが飛んできて、東京に落っこちたら困るだろ。」

「困りますョ~。」

と口を尖がらせて怒るエネゴリ君。

「どうして、そんなに困るのョ?」


「だって、そんなの落っことされたら戦争になって、彼女を作れなくなっちゃうじゃないですか~。」

・・・彼の頭の中は、彼女をつくることで一杯みたいです。
あせあせ


 


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出 土

〝古墳〟というと、世界一巨大といわれる仁徳天皇陵や、1972年に極彩色の壁画が発見された高松塚古墳が有名。

※高松塚古墳に関する過去記事は、こちら。(↓)>
  
https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10742376142.html


ですが、サイズはそれ程大きくはないものの、未発掘のまま発見されたことで考古学上非常に貴重な古墳があります。 

今から33年前の今日、石棺が発見された


 藤ノ木古墳

が、それ。


     


直径約40m・高さ9mの同古墳は、奈良県斑鳩町・・・あの法隆寺から歩いて行ける距離に位置しています。


〝藤ノ木〟は所在地の字名に因んでおり、6世紀後半に造成されたとみられる円墳。


       

この古墳について、斑鳩町教育委員会・奈良県立橿原考古学研究所が、1985年7月22日から発掘調査を開始。


そして同年9月25日、全長14.5mの横穴式石室の中から、全長2.35m・全幅1.3m・高さ0.97mの朱に塗られた石棺が未盗掘のまま発見されたのです。


    

その後多くの副葬品が発見され、1988年8月には国内の発掘調査史上初めてファイバースコープを使って石棺の中を調査し、同年10月8日には石棺の蓋が開けられました。

埋葬されている2人が誰か? については諸説あるそうですが、北側の被葬者が聖徳太子の叔父で物部守屋の推した皇位継承者候補でありながら蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子、南側が彼が殺された翌日に暗殺された、宣化天皇の皇子ともいわれる宅部皇子という説が有力とか。


時の政権中枢にいた人物だった故か出土した副葬品は金銅鞍金具をはじめ約12,000点に上り、それらは日本の古墳文化研究上価値の高いものとして、一括して2004年に国宝に指定されています。


       


同古墳から200m程離れたところに『斑鳩町文化財活用センター』があり、出土品のレプリカが多数展示されています。(↓)
   
http://www.town.ikaruga.nara.jp/0000000145.html


    

また古墳の内部も月に2度見学ができるようです。(↓)
   
http://www.town.ikaruga.nara.jp/0000000461.html


法隆寺に行かれる方は、是非藤ノ木古墳まで足を延ばしていただき、古代ロマンに浸ってください。扇子


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問 答

今日・9月24日は、〝石門心学〟の開祖である江戸時代の思想家、

 石田 梅岩

の命日にあたります。

彼に関しては、過去拙ブログで取り上げました。(↓)


  https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11543639500.html


彼の提唱した石門心学には、福澤諭吉・澁澤栄一ら超一流の先人が感化されたそうですし、近年では多くの経営者が信奉する京セラの稲盛和夫氏も折に触れ梅岩の教えを講演の引き合いに出しているとか。


しかし残念ながら、一般的には梅岩の名や教えが広く知られているとは言い難い状況。

その大きな理由として、彼の著作があまり読まれていないことが挙げられると思います。

そこで今日は皆さんに一冊の良書を紹介させていただきます。 それは、彼の主著といえる

  と ひ
『都鄙問答』



これは、梅岩に倣ってPHP研究所を創設した、かの松下幸之助翁が座右の書とし、「経営や仕事に行き詰まったら読みなはれ」 と他の人にも勧めていた名著。

しかし原典は非常に難解で読みにくく、また過去には現代語訳がかなり以前に1冊しか出版されていませんでした。

そんな中、昨年 『五輪書』 などの現代語訳を執筆されている作家・城島明彦氏がこの都鄙門答を出されたのです。

表紙に書かれている通り、文字がびっしり詰まっている原典に小見出し・改行を加えて〝とことん読みやすく〟しています。

〝都鄙〟とは、都会と田舎という意味。


彼が丹波国(現・京都府亀岡市)の片田舎に生まれたことに因むようですが、彼と門弟らとの対話を通して、商道や人としての生き方などを私たちに教えてくれます。

経営者からサラリーマン、また学生に至るまで多くの方に読んでいただきたいですネ。

ドラッガーの経営書もいいですが、それよりもはるか前に日本人が遺した教えに、まずは触れてみて下さい。扇子


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寄 生

「難民って、どういう人たち?」

子供からそう質問されたら、皆さんはどう答えますか?


1951年に制定された 『難民の地位に関する条約』 では、概略

人種・
宗教・国籍・政治的意見やまたは特定の社会集団に属するなどの理由で、自国にいると迫害を受けるかあるいは迫害を受ける恐れがあるために、他国に逃れた人〟

と定義されています。 ちなみに 『移民』 とは、

通常の居住地以外の国に移動し、少なくとも12ヶ月間当該国に居住する人


だそうですから、難民も1年以上逃れた国に居住していると、移民になるわけです。

さて、この難民に関しては、テレビニュース等でヨーロッパに流れ込んだ中東の難民が暴徒化し、地元民に対する強盗・レイプなどの犯罪が増えていることは、皆さんもご存知でしょう。

「それに比べて、日本は難民が少ないから助かる。」

と安心している人、いませんか?

実はそれ、大きな間違いなんです。
法務省入国管理局の統計をご覧ください。(↓)

 

ご覧の通り、ここ数年難民認定申請者数は激増しており、昨年度は遂に年間1万人を超えているのです。

 

 ただしこれはあくまで申請者数であり、実際に認定されたのは平成28年度で28人。

左翼メディアがこの実数だけを取り上げて、日本は難民に冷たいなどと報じていますから、

「なんだ、やっぱり少ないんじゃないか。」

と思う方が多いと思いますが、実はここにとんでもない落とし穴というかカラクリが・・・。

申請者が認定を受けなくても、制度的には不服申し立てをしている間は日本国内に居続けられるんです。

つまりは認定されなくても、実質的には難民と同等の扱い。


いわゆるゴネ得状態ってこと。

日本にしがみついている彼の生活費は、全て我々の血税が投入されているのです。

その日本の難民事情について、今月こんな本が出版されました。


  『寄生難民』  (青林堂・刊)


       

何とも刺激的なタイトルですが、著者の坂東忠信氏は元警視庁の刑事で、北京語通訳として外国人犯罪者と対峙してきた、いわゆる現場を良く知る人物。

私たち日本人に、難民問題に関する警鐘を鳴らしています。 曰く、


「とかく日本人は難民=可哀想という同情心を持ち、人道的な処置を求めがち。」

確かに中には本当に悲惨な難民もいるでしょうが、我が国で難民申請を行う外国人の殆どが空港で手続きを行っているのが実情。


つまり粗末な船に乗って命からがら海岸に辿りついているわけではなく、飛行機で来日しているのです。

そして難民に関して厄介なのは、その中にスパイや破壊工作員が混ざっていても、なかなか見分けがつかないこと。

日本同様に少子化に悩むドイツが安直に難民を受け入れて人口増加を果たしたものの、彼らによるテロ・犯罪行為によって国内の治安が急激に悪化。


メルケル首相が 「時計の針を戻したい」 と嘆き、財務相も難民受け入れ政策の失敗を認める事態となっています。

それは何もイスラム系難民だから、ではありません。

我が国にも、済州島から海を渡って日本に逃げてきたのに、国に帰らずそのまま居座って私たち日本人の血税を搾り取っている民族がいるでしょう。


現在北朝鮮がミサイルを何発も発射しており、今後いつまた朝鮮半島で有事が発生し、海を渡って大量の難民が海を渡ってやってくるかもしれません。

そして環境難民と称する、大量の支那人も・・・。

彼らを安易に受け入れたら、同じ事が繰り返されるのは火を見るよりも明らか。

日本は、難民問題にどう対処すべきなのか?
私たち国民も行政任せにせず、真剣に考えるべきでしょう。

でないと、ある日突然自宅の隣に日本語も英語も全く通じない外国人が何人・何十人とやってきて住み着くかもしれません。

そしてその中に、テロリストや反日分子が紛れ込んでいる可能性が。


安易な人道精神・お人好しは、我が身を滅ぼす・・・日本人は、そう肝に銘じるべきです。

※また同書では、

①旧民主党・共産党ら左翼政党がこの難民問題に絡めて日本の戸籍制度及び国体の破壊を目論む恐ろしい策謀


②偽装旅券を使った〝なりすまし入国者〟の実態

なども明らかにしていますので、その点もお見逃しなく!
うー


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帰 還

昭和世代なら、この方の名前をご記憶のはず。

 横井 庄一 さん


今日は潜伏先のグアム島で発見され、戦後28年目にして祖国に帰還を果たしたこの元日本陸軍軍曹の命日・没後20周年にあたります。


横井さんは1915(大正4)年に現在の愛知県愛西市に生まれました。

小学校卒業後、約5年間洋品店に勤務し、1935年に徴兵検査を受けて召集され陸軍に入隊。

4年後に除隊して洋服の仕立て屋を開きましたが、これが後のサバイバル生活に大いに役立つことに。

1941年に再召集された横井さんは満州に配属された後、所属部隊は1944年2月に釜山から出港し翌月グアムに到着。

同年7月、アメリカ軍の上陸・猛攻で2万人いた日本兵の殆どが戦死し、生き残ったのは僅か1,300名ほど。

母親の手元には戦死の知らせが届いたそうですが、横井軍曹はジャングルの奥地で仲間と共に密かに生き延びていました。

当然1945年8月に日本軍が降伏・終戦したことも知らず、また同島では何度も終戦を知らせ投降するよう放送が流されましたが、横井さんらはそれを信じられず。

その後もジャングル内で生息する動植物を食べながら生き続け、また
木の皮を剥いでアク抜きして繊維を作り、それを手製の機織り機で布にして縫い上げたといいます。


また地元民の食糧を奪わなかったことで存在を気づかれなかったことが、長らくジャングルで生き延びた要因だったとか。

しかし1965年頃、一緒に潜伏していた戦友2人が亡くなり、横井さん唯一人に。

そして1972年1月24日、罠を仕掛けようとしていたところを地元の漁師に発見・保護され、その一報が届いた日本では、大騒ぎに。


       


飛行機で31年ぶりに祖国に帰ってきた横井さんの記者会見での第一声は

恥ずかしながら生き長らえておりましたけど。」

これが〝恥ずかしながら帰ってまいりました〟という、その年の流行語に繋がりました。


       

その後すっかり時の人となった横井さんは帰国したその年に結婚し、郷里の名古屋市に居住。

※結婚した翌年に奥様を連れて新婚旅行でグアム島に行った際、長年暮らした竪穴に案内したそうですが、高温多湿で新妻はすぐに出てきてしまったそうな。
そんなところで、よくもまぁ30年近くも暮らせたものです。
ただし現在その竪穴は崩落しており、近づくことすらできないとか。


その後も全国からサバイバルに関する講演依頼が引きも切らず、忙しく全国を飛び回った横井さんは、何と1974年には参院選に立候補。

さすがに落選しましたが、その後は平穏な生活に戻ったそうな。


       


そしてジャングルでの過酷な生活が祟ってか、ヘルニアや胃癌などを患い病気がちになった横井さんは、1997年9月22日に心臓発作により82歳でこの世を去ったのです。

生前、「(自分が獲って食べた)カエル・カタツムリ・ネズミの慰霊碑を建てて欲しい」と奥様に頼んでいたという、心優しき元日本兵のご冥福を、あらためてお祈り致します。


※横井さんの願い通り、奥様は横井さんのお墓の隣に、慰霊碑を建立されました。


現在、名古屋市中川区富田町にある自宅の一部を、奥様が館長を務める 『横井庄一記念館』 として開放されているそうですので、お近くにお越しの方は是非お立ち寄りください。

無料で見学できますが、開館日は毎週日曜日・午前10時~午後4時30分に限られているそうですので、ご注意を!


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認知症

ますます高齢化が進む我が国において、深刻化が進む問題のひとつが、認知症患者の増加。

その中で多くの方がご存じな病名といえば

 アルツハイマー病

だと思いますが・・・今日は 『世界アルツハイマーデー』 なのだそうな。


これは1994年にスコットランドのエジンバラで第10回国際アルツハイマー病協会国際会議が開催された際、その初日であった9月21日に〝アルツハイマー病等に関する認識を高め、世界の患者と家族に援助と希望をもたらす〟事を目的として 『世界アルツハイマーデー』と宣言したもの。


アルツハイマー病とは、不可逆的な進行性(つまり治癒不能)の脳疾患で、記憶や思考能力がゆっくりと障害され、最終的には日常生活の最も単純な作業を行う能力さえも失われる病気のこと。


殆どの場合60歳以降に初めて症状が現れる、高齢者における認知症の最も一般的な病気。


この病名は、初めてこの病気の症例を発表したドイツの医学者・精神科医、


アロイジウス・"アロイス"・アルツハイマー (1864-1915)

    Aloysius "Alois" Alzheimer


に因んで命名されました。


       


1901年に診断したアウグステ・データーという女性患者に、それまで見られたものとは異なる嫉妬妄想や記憶力低下などの症状を発見したアルツハイマーは、彼女の死後に脳を調べた結果多数の異常な凝集体(老人斑)と線維のもつれを発見。

この研究結果を1906年にテュービンゲンで開催されたドイツ南西医学会で発表したのが発端。


1910年にクレペレリンが著述した精神医学の教科書でこの症例が大きく取り上げられたことから、アルツハイマー病(またはアルツハイマー型認知症)という病名が確立されたのです。

文部科学省・科学技術政策研究所は、2030年までにアルツハイマー病の進行を阻止する技術が開発されると予見しているようですが、残念ながら現在のところ特効薬は未開発。


ということは、私たちとしては罹患を未然に防ぐしかありません。

一般的に言われている予防策としては、


◆ 常に頭脳を使う生活を心がける。
◆ ダイエット(肥満・高血圧症の人が罹患しやすい)。
◆ 適度な運動
◆ カテキンを含む日本茶を多く飲む。
◆ DHAを多く含む青魚を食べる。


などがありますので、常に心掛けておくべきでしょう。

とは言え、私を含めた50歳代以上の方は物忘れなど自覚症状が気にかかることが多少なりともあるはず。

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もし正解率が80%未満だったら、専門医にご相談を・・・。うー


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