日本の映画・TVドラマ界には、名脇役と言われる方が何人もおられますが、今日はその中でも私が好きだった
加藤 武 さん
の命日・三回忌にあたります。
加藤(※本名同じ)さんは、1929(昭和4)年に東京・築地で仲卸業を営む家に生まれました。
両親が共に清元節を嗜んでいたせいか幼少の頃より歌舞伎を愛好し、中央区立泰明小学校、麻布中・高校と進学した加藤さんは、学校を早退してまで歌舞伎座に通い、俳優業に憧れていたとか。
また学校の同級生に小沢昭一・フランキー堺・なだいなだ・仲谷昇さんらがいたそうですから、環境的にも演劇・芸能界に近かったのかもしれません。
戦時中は東京大空襲で被災し、焼夷弾が降り注ぐ中で寝たきりの祖母を荷車に乗せて逃げたという加藤さんは、終戦後早稲田大学に進学。
在学時は演劇研究会に入り、そこで今村昌平監督や俳優・北村和夫さんらと知り合いましたが、卒業後は英語教師に。
しかし俳優への夢断ち難く、1952年に辞職して先に北村さんが入団していた文学座研究所に入所し、杉村春子さんら一流の役者さんに鍛えられました。
1954年に公開された映画 『七人の侍』 で通行人(侍役)で出演したのを皮切りに、『悪い奴ほどよく眠る』 (1960年)など8作品に出演。
黒沢監督に可愛がられた加藤さんは、『仁義なき戦い』 シリーズにも出演。
その他数々の映画・TVドラマに出演されましたが、個人的に最も印象深いのは、何といっても大ヒット映画 『犬上家の一族』(1976年公開) での間抜け(?)な警察署長役。
幾度となく 「よ~し、分かった!」 と大袈裟に手を叩いては、迷推理を披露するシーンは、すっかりハマリ役に。
このキャラで、他の横溝正史シリーズにも登場し、更には40年後にリメイクされた 『犬上家の一族』 でも同じ役どころで出演しましたから、その人気ぶりが伺えます。
(※同じく再出演したのは、主役の石坂浩二さんと、神職役の大滝秀治さんのみ。)
また人気映画 『釣りバカ日誌』 シリーズでも秋山専務役を演じていましたから、ご存知の方も多いでしょう。
他にアフレコや朗読、またバラエティー番組出演など長年にわたり活躍してこられ、2015年5月には文学座の代表に就任した加藤さんが86歳で急逝されたのは、それから僅か2ヶ月後の7月31日。
スポーツジムのサウナで心臓麻痺を起こして病院に緊急搬送されたものの、息を吹き返すことはできませんでした。
事件の推理同様、ご自身の最期も 「よ~し、分かった」 とはいかなかったようです。
大きな声でメリハリのある演技を重ねた名脇役のご冥福を、あらためてお祈り致します。
今から72年前の今日、アメリカ海軍のポートランド級巡洋艦
インディアナポリス
USS Indianapolis, CA-35
が日本の潜水艦の魚雷攻撃によって撃沈されました。
これは第二次世界大戦において敵国の攻撃によって沈められたアメリカ海軍最後の水上艦艇となりましたが、実はこの巡洋艦…沈められる直前に、重要極秘任務を遂行していたのです。
それは、翌月に広島・長崎に投下された原爆の運搬。
1930年に起工し翌年に進水、1932年11月に就役した全長186m・全幅20m・排水量9,800トン・乗員1,269名というこの巡洋艦は、1941年の真珠湾攻撃を逃れ、その直後に空母レキシントンを基幹とする第11任務部隊に所属。
1942年のキスカ島砲撃、1943年のアッツ島砲撃、1944年のマリアナ沖海戦などに参戦した後、1945年1月にはオーバーホール後スプルーアンス大将の将旗を掲げ第5艦隊旗艦に。
そして同艦は広島・長崎に投下されることとなる原子爆弾の部品と核材料の運搬を命じられ、7月16日にサンフランシスコを出港し、3日後真珠湾に寄港。
そこから単独で搬送先のテニアン島に向かい、7月26日に到着。
物資の荷降ろしを終えた同艦は、グアムを経由して(上の地図左枠外に位置する)フィリピン群島・レイテ島に向け単独で出港。
そして7月30日深夜0時15分頃、同艦を捕捉した日本海軍の潜水艦『伊58』の魚雷攻撃を受け、6本中3本を被弾。
第二砲塔下の火薬庫が誘爆したため、10分少々で沈没しました。
乗員1,199名の内、約300名が雷撃による火災・爆発により死亡。
残りは海に投げ出されましたが、無線連絡が出来なかったため米軍が哨戒機によって発見し5日後に救助できたのは僅か316名。
残りは体温の低下、疲労、そして中にはサメの襲撃により死亡したといわれています。
同艦々長のチャールズ・B・マクベイ3世は無事救助されましたが、その後彼の人生は茨の道となりました。
Charles Butler McVay III
終戦後の1945年11月、彼は敵の攻撃を避けるジグザグ航行を怠ったとして軍法会議にかけられてしまいます。
※第二次世界大戦で沈められたアメリカ艦艇は約700隻ありましたが、軍法会議にかけられたのは、彼一人のみ。
その後有罪判決を受けて海軍を去った彼は、遺族から責め立てられた挙句、1968年に自殺。
もし沈没しなければ、アメリカの歴史に英雄として名を残せたのに・・・。
そして一方の 『伊58』 艦長の橋本以行少佐(当時、後に中佐)の人生も、この沈没に少なからず影響を受けました。
もちろん彼自身は、撃沈した敵艦が原爆を運搬したことなど当時は知りませんでしたが、戦後それを聞くと、
「もっと早く哨戒海域に着いていれば、広島と長崎への原爆投下を防げたのではないか?」
などと自責の念に駆られ、戦後は神職となって戦没者の鎮魂を祈る日々を送ったとか。
また彼はアメリカに呼ばれ尋問を受けた際、「ジグザグ航行をしても撃沈できた」 と証言し、マクベイ艦長を擁護。
有罪判決を受けた後も、敵将の名誉回復に尽力したといいます。
このあたり、いかにも日本人らしいと言えましょうか。
その甲斐あってか、マクベイ艦長の名誉は2000年に回復されました・・・が、その決定が下されたのは、橋本元艦長が91歳でこの世を去ってから僅か5日後のことだったとか。
嗚呼・・・。
なお、この沈没が映画化され、昨年(※日本では今年1月)公開されました。
『パシフィック・ウォー』
(原題: USS Indianapolis: Men of Courage)
今日は、私たち日本人にとって実に忌まわしい出来事に関して、皆さんにお伝えしたいと思います。
それは、今からちょうど80年前の今日起きた
通州事件
について。
1937(昭和12)年7月7日、演習中だった日本軍に対し中国が実弾を撃ち込む 『盧溝橋事件』 が勃発し、これが支那事変の端緒となりました。
世情が不安定になったため、在留邦人は比較的安全と言われていた通州城内に流れ込み、旅館は満杯に。
〝通州〟とは、現在の北京市の東約30kmに位置する通州区北部の中心都市で、当時は日本に留学経験があり日本女性と結婚していた親日派(と目されていた)・殷汝耕が南京政府から離脱して(日本主導で)設立した冀東(きとう)防共自治政府が統治していた場所。
盧溝橋と通州区の位置関係
ゆえに自治政府の保安隊は日本軍によって訓練されており、日本側としては治安面においてさしたる不安を抱かず主力部隊を他の前線に送り出したため、事件直前の通州には小隊40名・自動車部隊50名ら合計120名の留守部隊のみが駐留。
その状況下で同年7月29日未明、自治政府保安隊及び国民革命軍ら約3,300名の支那人が蜂起。
城門を閉め電線・電話線を遮断した上で日本軍の留守部隊及び在留邦人を襲撃したのです。
この裏切り攻撃によって日本の留守部隊は全滅。
支那兵は日本人居住区を1軒ずつしらみつぶしに襲い、在留日本人385名のうち223名を虐殺。
その殺害方法は、まさに凄惨の一言。
子供を逆さまに持ち上げて地面に頭を叩きつけて殺害、女性は皆凌辱され中には陰部を銃剣で抉られたり、鼻には針金を入れて牛のように引っ張られた跡が。
また男性の死体は殆どが首に縄をつけて引き回した跡があり、中には腹を裂かれて内臓を切り刻まれた者も。
※事件現場の写真は何枚も現存していますが、あまりに凄惨なため拙ブログでは掲載を控えました。
『通州事件』で検索して画像をご覧いただければ、支那人がいかに残虐非道の限りを尽くしたのかがお分かりいただけます。
また当該事件に関して詳しく知りたい方には、写真や証言を集めて昨年出版された
のご一読をお勧めします。
表紙に選ばれた、結婚式を挙げてまだ半年余りだった石井亨さんと妊娠中の若妻が、またその日城内にいた邦人たちがどんな目に遭ったのか・・・涙と怒りなくしては読めません。
支那人の残虐性は日本人の想像を絶しますし、決して許容できない民族性を有していることがよく分かります。
そしてそれが変わっていないことは、彼らが現在ウィグルやチベットで行っている弾圧・民族浄化の実態を見れば明らか。
当時現地にいたアメリカ人記者をして、
「日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女・子供らの虐殺は、古代から現代までを見渡しても最悪の集団虐殺として歴史に残るだろう」
と言わしめ、また極東軍事裁判では(一部ではあるものの)目撃証言が受理されているこの凄惨な事件に関し、学校で習ったという方はおそらく殆どいらっしゃらないでしょう。
それもそのはず、現在通州事件に関して記述している教科書は、自由社が刊行している 『新版 新しい歴史教科書』(中学生用) ただ一冊のみ。
私を含めた中高年世代が学生だった頃には、どの教科書にも記載されていませんでしたから。
日本人が虐殺された事件を封印し、有りもしない慰安婦問題や南京事件で謝罪する日本政府のヘタレぶりには呆れるばかりですが、その自虐外交にも少しずつ違う流れが・・・。
殆どのメディアは黙殺しましたが、昨年この通州事件に関して有志がユネスコ記憶遺産に登録申請したのです。
皆さんには犠牲となった日本人の冥福を祈りつつ、是非この事件を知り次世代に語り継いでいただきたく・・・。
この私の思いにご賛同いただける方には、是非この記事の拡散をお願い致します。
プロレス・ファン・・・特に中高年世代の方なら、このレスラーの名を知らなきゃモグリと言われても仕方ないでしょう。
今日は、〝プロレスの神様〟と言われた
カール・ゴッチ
Karl Gotch
の命日・没後10周年にあたります。
ゴッチ(本名:チャールズ・イスタス)は1924年にベルギーのブリュッセルに生まれ、9歳の時に家族共々ドイツのハンブルグに移住。
グレコローマンおよびフリースタイルのレスリングでそれぞれ7回もベルギー・チャンピオンになった彼は、1948年のロンドン五輪にベルギー代表として出場。
その後1950年にプロ転向し、翌年にはイギリスの〝蛇の穴〟と呼ばれたビリー・ライレー・ジムで修行し、カナダ興業を経てアメリカのマット界で活躍。
プロレス界の〝鉄人〟ルー・テーズをして「私を最も苦しめた挑戦者」と言わしめた彼ですが、テーズの持つNWA世界ヘビー級王座に9回挑戦しながらタイトルを取れず、〝無冠の帝王〟と言われたことも。
1961(昭和36)年に初来日し力道山と引き分けるなど、その実力を世間に知らしめると、1968年には日本プロレスのコーチに就任。
アントニオ猪木に卍固めやジャーマン・スープレックスを伝授するなど若手レスラーを鍛え上げました。
その後国際プロレスのリングに上がったり、新日本プロレス立ち上げに協力。
57歳まで現役としてリングに上がった彼は、引退前後もアメリカ・タンパの自宅ガレージに作った〝ゴッチ道場〟で藤波辰巳・藤原喜明・前田日明ら多くのレスラーを育成。
そして2007年7月28日・・・大動脈瘤破裂により82歳でこの世を去りました。
ゴッチのレスリングスタイルは、当時のショー的な要素の少ない真剣勝負(セメント)スタイルでしたから、観客からするとあまり面白くない地味な試合だったかもしれませんが、実力は折り紙付き。
そして私が彼を尊敬するのは、プロレスに対する真摯な姿勢。
宮本武蔵の 『五輪書』 を愛読し、現役引退後も毎日数時間のトレーニングを欠かさず心身を鍛え、インドのクシュティやロシアのサンボなど様々な格闘技の研究に余念がなかったというのですから、もはやプロレスラーというよりは武術家と言えましょうか。
以前拙ブログでご紹介した木村政彦と親しかったというのも、頷けます。
※木村政彦に関する過去記事は、こちら。(↓)
http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11620068214.html
60歳過ぎて、このボディー!
そして彼自身は、自分が〝神様〟と言われることについて、こう述べています。
「私をゴッドと呼んでくれるな。 私はろくな教育も受けていないただの障害のある老人(crippled old man )だ。」
実は彼、レスラーになる前の船員時代に友人を煙突の倒壊から救った際に手を挟まれ、左手の小指が殆ど欠損していたのです。
そんなハンディキャップをものともせず、長年マット界で活躍し数多くの後進レスラーを育てた彼は、やはり〝神様〟の称号が相応しいかもしれませんネ。
ゴッチの真面目かつストイックな姿勢、見習いたいものです。
近代の医学の進歩は目覚ましく、昔なら助けられなかった多くの患者さんの命が救われるようになりました。
その要因のひとつが外科手術の技術向上であることに、異論のある方はいないでしょう。
今日は、その外科手術のパイオニアであるスイスの外科学者、
エミール・テオドール・コッヘル
Ēmil Theodor Kocher
の命日・没後100周年にあたります。
コッヘルは1841年にスイスのベルンに生まれました。
エンジニアの父を持つ彼は、ベルン大学医学部を1863年に卒業し、2年後に博士号を取得。
その後ベルリンやパリで外科学を修め、ウィーン大学では内臓外科学の世界的権威テオドール・ビルロートに師事。
以後1872年から約40年にわたってベルン大学の外科学教授を務めました。
彼の功績は、1870年に発表した肩甲関節の治療に関する論文発表が始まり。
同時期から甲状腺の腫瘍について研究を開始した彼は、1876年にそれまで困難とされていた甲状腺の全切除に世界で初めて成功。
1882年には 『外科手術学』 を著し、急性骨髄炎や銃創の防腐処理、胆道疾患、脳脊髄生理についても研究を進め、また舌切除や腰部・手首の関節手術の手法を開発。
更には人工肛門手術にも成功し、1909年にはノーベル生理学・医学賞を受賞しました。
その栄誉に驕ることなく、コッヘルは甲状腺手術の術式改良を重ね、それだけで.累計5,000例も手がけ、安全な術式の確立に成功。
それまで18%もあった甲状腺手術の死亡率を、0.5%にまで引き下げたのです。
こんな経歴を見ると、彼はよくテレビで特集される〝ゴッドハンド〟を持つ天才外科医のようですが、実は決してそうではなく、むしろ手先は不器用だったそうな。
彼自身それを熟知していたから慎重に手術を行い、それが成功率を高めたといえましょう。
またそれ故に手術器具の改良にも積極的に取り組み、鋸歯状で先端が曲がっている〝コッヘル鉗子〟を開発。
これは現在でも使われており、医学には素人の私でもその名は知っています。
私が6年前に生死の境をさまよい9時間の手術を施された時も、この鉗子にはお世話になったはず。
1967年にスイスの郵便切手に肖像画が採用されるほどの国家的英雄・コッヘルが75歳でこの世を去ったのは、1917年7月27日。
私だけでなく、数えきれない人々の命を救った医学界の巨人の冥福を、感謝の気持ちを持って祈りましょう。

最近、29連勝というとんでもない記録を打ち立てた天才中学生・藤井四段の登場で、将棋人気が高まっているようです。
実は私も昔から将棋好きで、小・中学生時代は独特の風貌と野性味溢れる升田幸三・実力制第四代名人のファンでした。
拙ブログでもその升田元名人に関して何度か記事にしましたが・・・今日は、彼の終生のライバルにして棋界に一時代を築いた
大山 康晴 永世十五世名人
の命日・没後25周年にあたります。
大山永世は1923(大正12)年、現在の岡山県倉敷市に生まれました。
小学校1年生の時、なかなか病気が治らなかった大山少年は、将棋を指すとなぜか熱が下がったそうな。
それを見た両親が本格的な将棋の修業をさせようと決心し、高学年の時に隣町の将棋大会で全勝優勝し、バケツや洗面器などの商品をもらったことで自信をつけた彼は、12歳の時に大阪へ。
小学2年の時に倉敷で行われた将棋大会を見学に行った際、威厳のある羽織・袴姿で感銘を受けた木見金治郎九段に入門。
1940年に17歳で四段となってプロ棋士に。
1944年に招集されましたが、上官が将棋好きだったおかげで最前線に出ることなく無事復員して順調に昇段を重ね、1948年には早くも名人戦の挑戦権を獲得。
この時は塚田正男名人に敗れたものの、この年A級八段に昇段した彼は、1950年に新設された公式タイトル『九段戦』を制し、初代九段に。
そして1952年には木村義雄名人を下し、29歳で念願の実力制・第三代名人となり、以後5期連続防衛して永世名人の資格を獲得しました。
ここで大山永世の行く手を阻んだのが、木見門下の兄弟子であった、我らが升田幸三でした。
〝新手一生〟を唱え攻撃型の将棋を得意とする彼は、1955年に大山永世から王将位を奪取。
この時、規定で香落ちのハンディ戦となり、升田王将は大山永世に見事に勝利を収め、かねてより公言していた〝名人に香車を引いて勝つ〟ことを実現したのです。
この敗戦を 「ハラワタがちぎれるほど」 悔しがった大山永世は、1957年の名人戦でも敗れ王将・九段・名人のタイトルを全て升田三冠に持っていかれ、無冠に転落。
1957年の名人戦で敗北を喫した大山永世(右)
しかし大山永世は、ここから更に強くなっていきます。
その後同年に王将戦、翌年に九段戦と続けて升田名人を撃破すると、1959年の名人戦でも勝ち、一転して升田氏を無冠に追い込み自らが三冠に。
その後名人戦は1972年に中原誠九段に敗れるまで、12期にわたり防衛。
その間新設された『王位』(1960年)・『棋聖』(1962年)も制し、五冠を独占。
1963~66年にかけて、これらタイトル戦を19連勝という離れ業をやってのけました。
その後中原名人に悉くタイトルを奪われ1973年に無冠になったとはいえ、次々と若手が台頭するプロ棋界にあって50歳直前までタイトルを保持したのは、驚異的。
そして私が驚くのは、無冠となり全盛期を過ぎた後も63歳で名人戦に、そして66歳で棋王戦に挑戦したこと。
また自ら 「A級から陥落したら引退する」 と公言し、幾多の危機を乗り越え、またガンに侵されながらも1992(平成4)年7月26日に69歳で亡くなるまで、一度も休場することなくその地位をキープしたこと。
羽生・元七冠にタイトル獲得回数は抜かれたものの、通算1,433勝は歴代1位。
もう鉄人・・・いや、仙人の域と言っても良いでしょう。
まして対局だけでなく、日本将棋連盟の会長を13年間勤め、また東京・関西の将棋会館建設に建設するなど、棋界の発展にも大きく寄与しました。
将棋界で初めて文化功労者として顕彰されたのも、当然といえましょう。
『勝負の心』 (大山康晴・著 PHP研究所・刊)
大山永世の棋風は、正攻法であり、相手に攻めさせるだけ攻めさせて受け切る・・・いわゆる横綱相撲。
羽生・元七冠をして、「最善手を追求しない」、「まぁこんなところだろうという感じで手が伸びてくるのがピッタリハマる、まさに名人芸と言える指し回し」 と言わしめる、何とも言えぬ奥深さがあったようです。
冒頭申し上げた通り、私は野武士のような独特な雰囲気を持つ織田信長タイプの升田・元名人の大ファンで、反対に牛乳瓶の底のような眼鏡をかけて〝忍〟をモットーとし〝七転び八起き〟を座右の銘とする、地味な徳川家康タイプの大山永世は好きではありませんでした。
しかし大人になり経営者の端くれとなった今、好き嫌いを超越して大山永世の勝負に賭ける執念と忍耐強さに敬服せざるを得ません。
あらためて、〝棋界の巨人〟のご冥福をお祈り致します。
ここで自民党の小野寺五典議員が、この問題の本質を突く素晴らしい質問を行いました。
しかし例によって新聞・テレビは殆ど報じず、相変わらずこの捏造問題を安倍政権叩きに使おうとしています。
そこで7月11日の青山議員の質疑に続き、動画をアップさせていただきます。
是非ご覧いただいた上で、少しでも多くの国民にこの問題の核心を知っていただきたく拡散をお願い致します。
※動画は30分以上ありますが、お時間のない方は29分過ぎからの小野寺議員のまとめ発言をお聞きいただければ主旨をご理解いただけると思います。
この質問に関する産経新聞の記事を下記URLで開いてお読みいただければ、概略をより把握いただけるかと・・・。(↓)
http://www.sankei.com/politics/news/170724/plt1707240064-n1.html
現在、日本の周辺では北朝鮮がミサイルを打ち上げ、支那が東シナ海だけでなく日本海でも領海侵犯を繰り返しています。
いつまでもこんなことで時間を浪費している場合ではないのです。

・・・と言っても、ネット上の話じゃありません。
つい先日コンビニに寄った際、真赤なパッケージが目に留まりました。
拙ブログ読者ならご存知の通り、激辛党の私は普段コンビニに入るとカップラーメンに新しい激辛商品が出ていないかチェックしているのですが、今回はおつまみコーナーで見つけました。
その商品名が、凄いんです。
大炎上唐辛子
これは唐辛子の輪切りを衣付けして揚げたスナックで、後で調べたら今年3月に発売された 『燃えよ唐辛子』 を、ハバネロパウダーをまぶすことで約2倍の辛さにアップし、今月18日からセブンイレブンで先行発売を開始したものだそうな。
『燃えよ唐辛子』 は白いパッケージだったので、私は全く気づきませんでした。
もちろん即購入。 注意事項には
『刺激の強いパウダーが手につくため、その手を目や鼻に触れないようこ注意ください』
と書かれており、これを読むだけで生唾が出てきます。
で、早速試食。
まぁ確かに辛いですが、私にとっては口から火を噴くような辛さではありません。
ただ発売元がアサヒビールの関係会社だけに、ビールのおつまみとしてはイイ感じかも。
でも普通の方には、『燃えよ唐辛子』 の方から試食するのが無難でしょう。
この商品の長所は、カップラーメンと違い食べ切る必要がない事。
パッケージにチャック(?)がついているので、何回かに分けて食べられるのは嬉しいですネ。
それにカロリーも79Kcal ですから、一袋全部食べてもおにぎり半個以下ですから安心。
普段食べ過ぎでカロリー過多が心配な方は、最初にコレを食べるとしたが痺れて食事量を落とせるかも。
あっ、却ってビールをガブ飲みするから逆効果かナ?
これで約半分の量・・・私はイッキ食い。
ちなみに、コレをウチの女王様にも食べさせたら、
「ぶわっ、か、辛っ!」
ですって。 う~ん、料理に混ぜて食べされば良かった・・・。

普通の方には罰ゲームとして食べさせると、ちょうど良いお仕置きになるかも。
お値段も税込138円とお安いですから、是非一度お試しあれ~。
おそらく彼の作品を読んだことがない、または名前を知らないという日本人は殆どいないでしょう。
なぜなら、有名な文学賞にその名が冠されていますから・・・。
今日は、その
芥川 龍之介
の命日・没後90周年にあたります。
龍之介(※本名同じ)は、1892(明治25)年に現在の東京都中央区明石町に牛乳製造販売業を営む新原敏三の長男として生まれました。
生後7ヶ月後に母親が精神異常をきたしたため、母の実家・芥川家に預けられ伯母に育てられた彼は、11歳の時に母が亡くなった後叔父の養子となり、芥川姓を名乗るように。
成績優秀だったため、府立第三中学校から無試験で第一高等学校に入学するほどの秀才だった彼は1913年、1年に数人しか合格できない超難関・東京帝国大学文化大学英文学科に進学。
そして大学在学中に一高で同期だった菊池寛・久米正雄らと同人誌 『新思潮』 を刊行、〝柳川隆之助〟のペンネームで処女小説 『老年』 を発表し、作家活動を開始。
1915年には本名の芥川龍之介の名で 『羅生門』 を発表。
更に翌年に発表した 『鼻』 が夏目漱石から高い評価を受けたことを契機に夏目門下入りした彼は、同年に大学卒業すると夏目の口利きで海軍機関学校の英語教師となり、その傍ら作家業を続けました。
1919年に結婚し、2年後に教職を辞して大阪毎日新聞社の客外社員となって、創作活動に専念。
この頃中国旅行をしたのですが、帰国後に神経衰弱や腸カタルを病むように。
1923年の関東大震災時には病をおして自警団に参加し、この年の前後に3人の息子(長男・比呂志は俳優、三男・也寸志は音楽家)が生まれ、1925年には文化学院の講師になるも、既往症に加えて胃潰瘍や不眠症も発症したため、療養生活に。
そして1927年4月に谷崎潤一郎と文学論争を繰り広げた彼は、自分の秘書だった女性と心中未遂事件を引き起こします。
それから間もなく、『続西方の人』 を書き上げた直後の同年7月24日・・・斉藤茂吉から手に入れた睡眠薬を大量に飲んで自殺。
(服用した薬には他説あり)
まだ35歳の若さでした。 その原因については
◆放火・保険金詐欺の容疑をかけられて自殺した義兄の影響
◆創作活動(長編小説)の限界
◆母親と同じ精神異常や持病に対する恐怖
などが取り沙汰されましたが、彼の遺書には2年前から自死を考えていたこと、また〝僕の将来に対する唯ぼんやりした不安〟という言葉が残されていたそうですから、内面的にはずっと苦しめられていたのでしょう。
その不安は、おそらくひとつだけではなかったとは思いますが・・・。
※自死から8年の後、親友で文藝春秋社主だった菊池寛が新人文学賞 『芥川(龍之介)賞』 を創設し、現在では最も有名な文学賞となりました。
冒頭、殆どの方が彼の作品を読んでいるはず、と申し上げたのは、小学校の教科書に掲載されているから。
私も小学校高学年の時に 『蜘蛛の糸』(1918年発表) を読んだことを憶えています。
昔クモを助けた主人公のカンダタに情けをかけた仏様が彼の頭上に一本のクモの糸を垂らして彼を救おうとしたものの、彼が後から登ってくる人々を蹴落とした瞬間、糸がプツッ・・・。
道徳の教材にできるような話だからなのか、それとも言いようのない無常感からなのか・・・何故か今でも忘れることが出来ません。
おそらくその時に書店で購入したのでしょう、書棚には彼の作品を集めた文庫が残っています。
残念ながら小説それぞれのストーリーについては憶えていませんが、なんとなく暗い内容だったことはうっすらと・・・。
今宵は40年以上ぶりにこの古本を読み返して彼の内面に触れつつ、あらためて〝短編小説の鬼才〟のご冥福をお祈り致します。
それにしても昔の文庫本って、字が小さい・・・。
今日は、クイズからスタートです。
日本人で初めてオリンピックで金メダルを獲得したのは、誰でしょう?
・・・って、ちょっと優しすぎたかもしれませんネ。
正解は、1928(昭和3)年のアムステルダム大会の三段跳びで15m21を記録した、織田幹雄選手。
この記録を記念して、(既に取り壊された)国立競技場のメインポールの高さは15m21だったのですが・・・では、ここでもう1問。
次のロサンゼルス五輪で、その記録を上回る15m72を叩き出して日本人連覇を達成し、その偉業を記念して札幌円山競技場のメインポールの高さになっている〝北海道の星〟といえば、誰?
スポーツに詳しくないと分からないかもしれませんが・・・正解は、
南部 忠平 選手
今日は織田選手とは終生のライバル・親友であった、この日本を代表するアスリートの命日・没後20周年にあたります。
南部選手は、1904(明治37)年に現在の札幌市で生まれました。
北海中学(現・北海高等学校)3年生の時に、抜群の運動神経を見込んだ先輩から短刀をちらつかされて〝徒歩部(陸上部)〟に入部させられたそうな。
しかし持ち前の負けん気から、札幌の百貨店の階段で練習をして店員に叩き出されたり、冬場に運休した札幌市電のレールをコースに見立てて練習したり、また札幌競馬場の競走馬や蒸気機関車の動輪の動きを見て走法の研究をしたりと人一倍かつ独自の努力を重ね、〝北海中に南部あり〟と言われるように。
そして中学卒業後、父親が亡くなったため一旦は札幌鉄道局に就職したもののオリンピック出場の夢を発てなかった彼は、退職して早稲田大学に進学すると、1年先輩の織田幹雄選手(※生まれは南部選手が10ヶ月早い)と共に猛練習を重ねます。
<この時、風呂場で織田先輩の背中を流しながら筋肉の付き方を観察したとか。
その織田選手が金メダルを獲得したアムステルダム五輪・三段跳びでは4位に入賞。
翌年早大を卒業し満鉄に就職した彼は、半年後に大阪の美津濃(現・ミズノ)に移籍。
次のロサンゼルス大会で見事に15m72の世界新記録で優勝し、日本人連覇を達成したのです。
(※更に次の1936年・ベルリン大会でも田島直人選手が優勝し、日本人選手3連覇を達成。 現在では考えられない夢物語ですネ。)
南部選手は、同大会の走り幅跳びでも銅メダルを獲得・・・しかし南部選手にとって、走り幅跳びの方がメイン種目だったんです。
この走り幅跳びでは、ロス五輪前年に7m98という世界新記録を樹立したのですが、この記録は1970年に山田宏臣選手が日本人として初めて大台を突破する8m01を記録するまで、40年近く破られませんでした。
それだけにこの種目で金メダルを期待されていたのですが、結果は3位。
落胆はしたものの、その2日後に行われた三段跳びでは気楽に跳んで見事金メダル・・・勝負とは、分からないものです。
また彼は100m走でも〝暁の超特急〟吉岡隆徳選手と競り合い、日本選手権では2度優勝し、10秒5の日本記録を出したことも。
まさに日本のトップ・アスリート・・・現在のような軽量スパイクと全天候トラックで彼を走らせたり跳躍させたら、一体どれだけの記録が出たんでしょうネ?
金メダル獲得から1ヶ月後に、かねて婚約中だった久子夫人と五輪用ブレザーを着用して挙式。
アキレス腱切断を期に30歳で現役を引退した後は、ロス大会直前に転籍した大阪毎日新聞の運動部長から日本陸上競技連盟の強化部コーチ、1964年東京五輪の陸上チーム監督に。
その後1970年には五種競技で活躍した愛娘の敦子さんを交通事故で亡くす不幸に見舞われながらも、大学教授や学長を歴任。
陸上界の発展や若者の育成に貢献され、1997(平成9)年7月23日に、93歳で大往生を遂げられました。
南部氏の自著 『紺碧の空に仰ぐ感激の日章旗』 (ベースボールマガジン社・刊) を読むと、170センチ足らずの身長で世界記録を出すには、生まれ持った才能に加えて弛まぬ練習と創意工夫の積み重ねがあったからだと痛感させられます。
またそれを為し得た背景には、織田選手というライバルの存在が大きかったのではないでしょうか?
後年、織田選手は兄弟以上に仲の良かった南部選手がロス五輪で金メダルを獲得した姿を見て
「南部君の強さは走り幅跳びだけではなく、三段跳びに本当の力があったのだが、私への遠慮からこれまで走り幅跳びを守ってくれたのだと分かった。」
と述べておられますが、そんなところにも南部選手の美学・友情を感じる次第。
あらためて往年の金メダリストのご冥福をお祈り致します。