〝勝負は下駄を履くまで分からない〟
よくスポーツ中継で使われる常套句ですが、これは 「(決着がついて)下駄を履いて帰るまで、結果は分からない」・・・という意味合い。
今日・7月22日は、その
下駄の日
なんだそうです。
下駄の寸法を表わすのに 〝七寸七分〟 等と〝7〟がよく使われること、また下駄の跡が 〝二の字二の字〟 に見えることからこの日を記念日としたそうな。
でも、玄関に下駄が置いてあるご家庭・・・今では殆どないんでしょうネ。
せいぜい真夏に浴衣を着てお出かけの時くらいでしょうか? 下駄を履くのは。
この下駄という履物は日本独自のものだそうで、古くは弥生時代の登呂遺跡から (湿田での農作業時に履く) 〝田下駄〟と思われる木製品が出土しているとか。
奈良時代の平安京では子供用の下駄が出土しており、平安時代には 『枕草子』 などの文学作品にも下駄に関する記述があるそうです。
江戸時代に入ると下駄屋が出現し庶民も履くようになったようですが、明治維新以降は西洋文化が流入して洋装が一般化するに従い、下駄の需要は減少の一途を辿っていきます。
それでも以前は和食料理店等の板場で働く料理人さんが履いている姿を目にしたものですが、現在では殆ど見なくなったような・・・。
かく言う私も、子供時代から普段下駄を履いたことはなく、せいぜいトレーニングで鉄下駄を履いたくらい。
下駄を飛ばしてお天気占い・・・なんて、やった経験のある人は果たしてどれくらいいるのでしょう?
〝初雪や 二の字二の字の 下駄の跡〟
そんな日本の風情は、是非残して欲しいものですが・・・「下駄を預ける」、「下駄を履かせる」 など言葉としては使っても、このままだと下駄を履く日本人は 『ゲゲゲの鬼太郎』 だけになってしまうかも?
いや、下駄を見たことも履いたこともない人ばかりになったら、その言葉の意味すら分からず、また使われなくなってしまいそう。
そんなことにならぬよう、女性の皆さんには是非普段から下駄を履いて欲しいもの。
そうすれば外反母趾になりませんから・・・って、無理な相談?
敗戦後の我が国は長らくGHQの占領下にありましたが、1952年のサンフランシスコ講和条約の締結により独立国家として国際的に認知されました。
これに伴い占領下における治安維持の一環として制定された、暴力主義的・反民主主義的と見做された団体の規制を目的とした 『団体等規正令』 に代わり、今から65年前の今日・1952年7月21日に公示・施行されたのが
破壊活動防止法
俗に〝破防法〟と呼ばれる法律です。 同法は第一条に於いて
『団体の活動として暴力主義的破壊活動を行った団体に対する必要な規制措置を定めるとともに、暴力主義的破壊活動に関する刑罰規定を補整し、もって公共の安全の確保に寄与すること』
を目的とする・・・と定めていますが、当時は日本共産党や朝鮮人の武装革命闘争によって引き起こされる警察などへの襲撃やデモ行進の暴徒化に対する対応を念頭に置いて制定されたもの。
具体的には、破壊活動を行った団体に対し解散などを強制するなどの規制措置や刑罰規定を設けています。
また同法の適用に際して、基本的人権を定めた日本国憲法の基本理念に抵触する恐れがあることから、第二条においては
『この法律は、国民の基本的人権に重大な関係を有するものであるから、公共の安全の確保のために必要な最小限度においてのみ適用すべきであって、いやしくもこれを拡張して解釈するようなことがあつてはならない』
と釘を刺す形になっています。
同法規制対象に該当するか否かの調査と処分請求を行う機関は公安調査庁ですが、この第二条に照らしてその処分を審査・決定する機関として公安審査委員会が設置されています。
公安調査庁のロゴマークと、同庁がある中央合同庁舎6号館
初めて同法が適用されたのは、1961年12月に起きた 『三無事件』 (旧日本軍将校らが首謀したクーデター未遂)で、その後の適用例としては1971年の 『渋谷暴動事件』 、また一部の赤軍派ら過激派活動家が同法に基づいて起訴されています。
しかしこの破防法が最も注目されたのは、『オウム真理教事件』 でしょう。
坂本弁護士一家殺害事件や松本・地下鉄両サリン事件を引き起こした同教団に対し、1995年に公安調査庁から解散を視野に入れた破防法の適用が申請されました。
しかし1997年、当時の公安審査委員会(委員長=弁護士・堀田勝二氏)は、適用要件である〝将来の危険性〟を疑問視するとして申請を却下。
個人的には、あれだけの凶悪な大量殺人事件を引き起こした団体に対し適用できない法律など、存在価値がない・・・と呆れたものです。
これを受けて、政府は1997年に 『無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律』 を公示・施行し同教団に対し定期的に立ち入り検査を行っているものの、同法には解散命令条項はありません。
破防法適用による解散を免れた同教団はその後分派・改称して存続しているどころか、最近では当時の事件を知らない若者を取り込み、再び信者数を増やしているとのこと。
一部政治家や所謂〝人権派〟弁護士、更に左翼メディアはこの法律を人権を侵害する憲法違反だと声高に叫びますが、彼等はサリン事件の被害者やその遺族、更には未だ緊張から解かれていない同教団関連拠点の近隣住民らに対し、堂々とそれを主張できるのでしょうか?
人権擁護を主張するのも結構ですが、万一テロなどの凶悪事件が引き起こされた場合、最も擁護されるべきは被害者の人権であることを忘れてもらっては困ります。
最後に、破防法に基づく調査対象団体・・・要は公安・警察がマークしているとされる団体を列記しておきましょう。
◆日本共産党
◆全日本学生自治会総連合(全学連) 代々木系
◆日本共産青年同盟(共青同)
◆共産主義者同盟(共産同)
◆革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)
◆革命的労働者協会(革労協)
◆革命的共産主義者同盟(革共同)
略称では皆さんも聞き覚え・見覚えのある団体があると思いますが、ほぼ共通しているのは〝共産〟・〝革命〟ですネ。
これに大日本愛国党など右翼の8団体と、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)、更に1995年からはオウム真理教が加えられています。
もしかしたら、40代以下の方はあまりご存じないかもしれません。
今日は昭和時代の映画・TVドラマで脇役として活躍した俳優、
有島 一郎 さん
の命日・没後30周年になります。
有島(本名:大島 忠雄) さんは、1916(大正5)年に愛知県名古屋市で生まれました。
旧制名古屋中学在学中から大の芝居好きで、学芸会では花形だったとか。
しかし不幸にも両親を相次いで亡くし自活を余儀なくされた有島さんは、1933年に中学卒業と同時に俳優を目指して当時の人気俳優・田村邦男さんに弟子入り。
3年後に上京して新宿のムーラン・ルージュに入り徐々に頭角を現すと、1940年にまさ子夫人と結婚。
その後一座を立ち上げたもののうまくいかず、劇団を渡り歩いているうちに終戦を迎えました。
そんな彼の名が一躍有名になったのは、NHKラジオ番組 『日曜娯楽版』 に出演してから。
1947年に 『若き日の血は燃えて』 で映画デビューすると、社長シリーズや若大将シリーズに出演し、喜劇役者としての地位を確立。
その後加齢と共にシブい演技で脇を固めるようになり、1966年には『暖春』 でアジア映画祭・最優秀助演男優賞を受賞。
晩年は 『暴れん坊将軍』 で将軍・吉宗の御守り役・加納五郎左衛門を演じて人気を博しました。
その当たり役を演じていた最中の1972年7月20日に、心不全のため71歳の人生に幕を下ろされたのです。
さて、私にはこの有島さんの出演作品で今もって忘れられない作品がひとつあるんです。
それは中学生時代に観た、『祝辞』 というNHKドラマ。
有島さん演じる某会社の課長さんが、部下から結婚披露宴での祝辞を頼まれます。
真面目なことが取り柄の彼は、新郎のエピソードを紹介すべく、帰宅してトイレに入っている時も一生懸命練習を重ね、披露宴当日を迎えました。
ところが、自分の前に祝辞を述べた来賓が、全く同じエピソードを面白おかしく喋ってしまったから、大変。
観ていた私も、ドキドキ・・・皆さんだったら、このピンチをどう乗り切るでしょうか?
名前を呼ばれ、まるで刑場に連れて行かれる死刑囚の如く元気なくマイクの前に進んだものの、しばし絶句。
そして絞り出した祝辞は・・・ 「おめでとう。」 の唯一言でした。
何とか場を取り持とうとする司会者が喋る中を、唖然とする招待客を尻目に自分の席に着く課長。
でも、その万感の思いを込めた 「おめでとう」 という言葉が、なぜか中学生の私の記憶に深く残ったのです。
有島さんの秀でた演技力と人生経験から滲み出た一言だったからなのかも。
そんな有島さんに、私からも一言・・・ 「ありがとうございました。」
皆さんには、(お近くに)新空港が開港して見物に行った・・・なんて経験は、ありますか?
私の郷里・長野市には残念ながらそんな立派な空港は未だにありませんが、子供の頃上京した際初めて羽田空港に連れて行ってもらった時の感動と興奮は、今でもはっきり憶えています。
それと似たような経験をしたのは、社会人になってから。
青森支店に赴任した時、既にYS-11などのプロペラ機が発着していた
青森空港
では滑走路を延長してジェット化工事が進められていました。
それが完成して初めてジェット機が降り立ったのが、今からちょうど30年前の今日・1987(昭和62)年7月19日のこと。
従来あった1,400m滑走路とは別に、新たにジェット機が離着陸できるよう2,000mの滑走路を建設。
新滑走路(左)と旧滑走路(中央下)
その際に隣接していた東奥カントリークラブという民間ゴルフ場の半分・9ホールを潰し、新たに青森県体育協会ゴルフ場というパブリックコースに。
上の画像では、新滑走路の左側によく見るとゴルフコースが見えるのですが…ご覧いただけますでしょうか?
このパブリック・コースは当時1ラウンド2,500円という超破格値でプレーできたこともあり、ちょうどゴルフを本格的に始めた私にとっては実にありがたいゴルフ場。
毎週のようにせっせと通ったものですが・・・このコースの隣が滑走路でしたから、ジェット機の離発着が目の前で見ることができたんです。
上の写真はクラブハウス前にあった同コースの練習場ですが、その先に新滑走路があるのがお分かりいただけるかと。
ですので、7月19日に新空港開港した直後は、ゴルフをしない市民がクラブハウスに殺到。
ジェット機の離発着を見ては歓声を上げていたのです。
・・・なぁんて言ってる私ですが、実はこのコースの1番ホールのグリーンと、8番ホールのティーグラウンドがその滑走路に最も近い位置にあり、そこでプレーしている時に滑走路に飛行機が出てくると、
「おい、離陸するぞっ!」
とパットやティーショットするのを止めて、轟音を立てて離陸する(今はもうない)東亜国内航空のジェット機に手を振ったものです。
※残念ながらこのバブリックコースは、既に閉鎖されています。
そして、もちろん飛行機で東京への行き返りに利用したことも何度かあります・・・が、ここでも忘れられない経験をしたことが。
実はこの青森新空港のウリのひとつに、〝冬期間の離発着率の飛躍的な向上〟がありました。
青森市は人口30万人以上の都市としては世界一の降雪を誇る(?)豪雪地域。
東京ドーム12個分に及ぶ広大な滑走路にも雪は容赦なく降り積もりますが、それを60台のマシンを使い約40分で除雪するという、日本一の除雪力が自慢。
ということで、私も翌1988年の1月に東京本社で行われる研修参加のため飛行機で往復したのですが・・・悲劇(?)はその帰路に起きました。
羽田を飛び立つ時点で青森が雪であることは知っていましたが、青森空港の宣伝文句を信じ切っていた私は、何の心配もなく機内でビールをゴクゴク。
ところがいざ青森空港に着陸しようとすると、着陸するかな~と思ったら急上昇。
更に旋回してもう一度着陸を試みるも、やはり失敗。
もうジェットコースターに乗っている・・・いや、それ以上の〝G〟が体にかかり、さっきまで飲んでいたビールを戻しそうになる始末。
そして運命の3回目。 機長からは 「次に失敗したら三沢空港に行きます。」 というアナウンスがあり、乗客は皆祈るような気持ち。
結果は、見事に着陸成功! タイヤが滑走路に接地した瞬間、機内は歓声に包まれました・・・が、これで話は終わりませんでした。
着陸したはいいものの、機体はスリップして滑走路端でスタック。
自力で動くことができず、そのまま立ち往生。
結局ターミナルから除雪車が何台も来て除雪を懸命にしてくれたものの、ターミナルに戻れたのは、それから1時間半近く立ってから。
結局東京からの飛行時間よりも長く滑走路で立ち往生する羽目になったのです。
いくら離発着率を上げたいからとは言え、こんな強引な運航は、もうコリゴリ・・・そう決心した私は、その後2度と冬期間に飛行機は利用しませんでした。
青森を離任して以降この空港を利用したことはありませんが、それから30年近く経った今、もう一度あの空港に降り立ってみたいと思う私です。
もちろん冬は避けて、ねぶた祭りのある8月か、紅葉シーズンの秋に・・・。
2009年8月末の第45回衆院選で、当時の民主党が自民党を破り与党になった際は、〝政権交代〟と持て囃されました。
その結果がどうだったか・・・は、もうここで述べる必要はないと思いますが、それ以前に〝55年体制〟が崩壊した選挙がありました。
※55年体制・・・1955(昭和30)年秋、右派・左派に分裂していた日本社会党が統一され、これに危機感を抱いた保守陣営の自由党と日本民主党が合併して自由民主党を結成。 以降この2大政党がリードする政界の構図を指します。
それは今から24年前の今日・1993年7月18日に行われた
第40回衆議院議員選挙
この選挙の直前まで、自民党はバブル崩壊と共に、リクルートコスモス社の未公開株に絡む贈収賄で多くの政治家・官僚が逮捕された 『リクルート事件』 の発覚により、国民の信頼を大きく失っていました。
そしてこの前年に行われた参院選で、新たに細川護煕・前熊本県知事らによって結成された 『日本新党』 が注目され、更に自民党から離党した議員らが 『新生党』 や 『新党さきがけ』 が旗揚げして、いわゆる〝新党ブーム〟が起きました。
まぁ実際は沈みゆく船から大量にネズミが逃げ出した格好ですが・・・結果、離党した議員の穴埋めが出来なかった自民党はほぼ現状維持の223議席、新党ブームに押される形で萎んだ社会党は66議席ダウンの70議席と大敗。
その社会党に選挙前から連立協議をしていた新生・公明・民社・社民連を加えても195議席と、自民党共々過半数に達せず、結果的に日本新党と新党さきがけがキャスティングボードを握ることに。
(※現・東京都知事の小池百合子氏は、1992年の参院選に日本新党から立候補して当選、この衆院選で鞍替え立候補して再び当選し、代議士となりました。)
そして両党は、旧野党側と手を握ることとなり、細川氏を首班とする8党派による連立政権が誕生。
自民党は最大の議員数を保持しながら、結党以来初めて野党に転落することに。
新内閣は中庭に出てグラスで乾杯するなど、これまでにない演出を施して国民の注目を集め、船出した時点で内閣支持率は空前の70%以上を記録。
メディアも盛んに持ち上げ期待感を煽りましたが・・・期待が大きいほど失望も深くなるのは世の習い。
所詮は旧野党の寄せ集めである〝野合内閣〟は程なく各党間で軋みが生じ始め、突然深夜に記者会見を開いて国民福祉税の導入を発表するなど混乱の度は増すばかり。
そして自らの佐川急便グループからの借入金疑惑を追及された細川氏は、翌年4月8日に辞職を表明し、同月25日に内閣総辞職。
国民の期待を担った新内閣は、僅か9ヶ月弱で店を畳むことになりました。
その後は短命と分かっていた羽田孜氏が総理に就任し、僅か60日余りで退任。
そして今まで否定していた自衛隊を承認するという政策の大転換をして総理に就任した村山富市・社会党委員長の時代に、あの阪神淡路大震災が起き、自衛隊の投入が遅れて多くの犠牲者を出した挙句、それを国会で追及されて
「なにぶん不慣れなもので・・・」
というトンデモ答弁をして国民を呆れさせたことは、皆さんもご記憶のはず。
やはりメディアに煽られて宇宙人内閣を誕生させてしまった2009年の政権交代も同様ですが、普段耳障りのいいことばかり口走って与党を批判ばかりしている人間に権利を持たせても、ロクなことにはならない・・・ということでしょう。
2度あることは3度あると言いますが、こと私たち国民の生活に直結する政治において、そんなことはあってはならないのです。
最近のメディアは安倍叩きに必死ですが、賢明な国民はそんな世論誘導・印象操作に騙されてはいけません。
同じ過ちを繰り返さないために・・・。
・・・と言っても、缶コーヒーじゃありません。
今日は、映画・TVドラマで一世を風靡し、また歌手としてもヒットを連発した昭和を代表する大スター、
石原 裕次郎 さん
の命日・没後30周年にあたります。
石原(本名同じ)さんは、1934(昭和9)年に山下汽船に勤務する会社員の父の次男として神戸市に生まれました。
その後小樽や逗子で育った彼は、慶應義塾農学校から慶應義塾高校に編入し、慶應義塾大学法学部政治学科に進学。
在学中から俳優を目指し、東映・大映・日活のオーディションを受けるも、全て不合格。
更に父親が他界したことにショックを受けた彼は、家から金目の物を持ち出しては換金して銀座で遊ぶという放蕩生活の毎日。
その自暴自棄ぶりを心配した兄・慎太郎氏が、(裕次郎さんから聞いた友人のエピソードを元に書き上げた小説)『太陽の季節』の映画化の話が持ち上がった際、弟を出演させることを条件に承諾。(1956年公開)
裕次郎さんは脇役での出演となりましたが、大柄な身体(身長178cm)とダイナミックな演技で注目を集め、更に同じく兄の原作を映画化した『狂った果実』(1956年公開)では主役を演じ、後に妻となる北原三枝さんと共演、一躍スターダムにのし上がりました。
私自身が生まれる前の作品なので、その時代の裕次郎さんは殆ど知りませんが、個人的に彼の出演作品として強烈な印象があるのは、1968年に公開された 『黒部の太陽』。
1963(昭和38)年に石原プロモーションを設立した彼が、三船敏郎さん率いる三船プロと共同企画し、当時〝世紀の難工事〟と言われた黒部第四ダムの建設におけるトンネル工事の苦闘を描いたこの映画も、その工事に負けず劣らずの難産でした。
しかし石原・三船両スターのこの映画製作にかける執念は見事に作品に生かされており、まさに昭和の日本映画を代表する大作。
以前は石原さんの「大画面で観てほしい」という意向のためビデオ化できませんでしたが、現在はDVDを入手できますので、是非皆さんにも観ていただきたい秀作です。
そして1970年以降は、TVドラマに活躍の場をシフト。
『太陽にほえろ!』(1972~81年)の藤堂係長、『西部警察シリーズ』(1979~84年)の木暮課長は、まさに頼れる上司・ボスという貫禄・存在感を見せてくれました。
また歌手としても、未だにデュエット曲として根強い人気がある『銀座の恋の物語』(1961年)や『夜霧よ今夜もありがとう』(1967年)などのヒットを飛ばしています・・・が、意外にも紅白歌合戦には(応援参加はあるものの)歌手としては1度も出場していないんです。
その理由は、「歌手は素人だから」だったとか。
なんと謙虚なお言葉・・・。
しかし、タフガイともいわれ頑強な体で幾多のケガを乗り越えてきた石原さんも、病には勝てませんでした。
1984年、ロケ中に背中と胸に激痛が走り、慶応病院に緊急入院。
解離性大動脈瘤と診断され、手術。
生存率3%という難病でしたが、持ち前の体力のおかげで無事退院にこぎつけました。
一時は裸になってその手術跡を見せる余裕も・・・。
※ 『FOCUS』 より
ところが同年、肝臓癌であることが判明。
本人には最後まで癌であることは知らされなかったそうですが、1986年から翌年4月までハワイで静養し帰国後に再び慶応病院に入院。
しかし容体は好転せず・・・7月17日に52歳の若さでこの世を去りました。
1960年に芸能人としては初めて記者会見を開き、また毎年彼が正月をハワイで過ごしたことが、後に〝正月ハワイ=芸能人のステータス〟になったという、まさに昭和の芸能界を代表する大スターのご冥福を、あらためてお祈りしたいと存じます。
あなたにとって、裕次郎さんはどんな存在でしたか?
私の愛読誌・月刊 『致知』 8月号の [巻頭の言葉] は、茶道裏千家前家元・千玄室氏のエッセイ〝日本人はもっと日本を知れ〟でした。
その中で紹介されている書籍に興味を持った私は、すぐに買い求めて読み始めました。 それは
『アメリカの鏡・日本 完全版 』 (角川ソフィア文庫・刊)
原題が “Mirror for Americans: JAPAN ” というこの本の著者は、アメリカ人の東洋学研究者、ヘレン・ミアーズ女史(1900-1989)。
Helen Mears
ニューヨークで生まれ、メリーランド州のガウチャー女子大学を卒業した彼女は、1920年代から日米開戦直前まで東洋史・地政学を研究し、2回の来日経験が。
2度目(1935年)は北海道旅行を含め8ヶ月滞在し、帰国後はジャーナリストとして活躍。
日本専門家として注目された彼女は、戦時中ミシガン大学などで陸軍省の占領地民政講座で講義したり日本に関する論文 『日本国天皇論』 を発表。
そして終戦後はGHQの諮問機関・労働政策11人委員会のメンバーとして再来日し、帰国後の1948年に同書を出版したとのこと。
で、私がなぜこの書籍に興味を持ったかというと、以前拙ブログで紹介した同じアメリカ人による日本に関する著作で有名な 『菊と刀』 の著者ルース・ベネディクト女史は一度も来日していませんから、そのことだけを以てしても、彼女より正しく日本の実像を捉えているという期待感があったから。
※『菊と刀』に関する過去記事は、こちら。(↓)
http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11025834299.html
そしてそれ以上に、同書が出版翌年にアメリカで発禁処分となり、マッカーサー司令長官が
「占領下の日本において本書が翻訳されることは、事実とプロパガンダを区別できない日本人にとって悪影響が考えられる。」
等として、和訳出版を認めなかったから。
つまり戦勝国アメリカにとって都合の悪い事実が書かれているということに他なりません。
同書の和訳本は、サンフランシスコ条約締結の翌年(1953年)にようやく出版されましたが、なぜか殆ど注目されなかったとか。
私自身も、今まで同書の存在を知りませんでした。
皆さんにも是非読んでいただきたいので具体的な中身は敢えてここではご紹介しません・・・というより、中身が濃すぎて要約などできない、というが正直なところ。
日米どちらにも偏ることなく俯瞰的かつ数字を挙げて具体的に両国の力関係や歴史を見つめた、日本近代史・外交史を学ぶには(一部日韓関係などに認識の誤りがあるものの)絶好の参考書だと思います。
戦後直後に、しかもアメリカ人がこういう主張をしたことは驚くべきことだ・・・というのが、私の読後感。
私たちはこの書籍を通して、自分たちが忘れていた日本人像を思い出すべきでしょう。
また同書を補完する意味で、ミアーズ女史が執筆した:理由・経緯や彼女の人生を追った
『忘れられた日米関係 ヘレン・ミアーズの問い』 も併せ読んでいただくと、より理解が深まるかと。
(御厨 貴・小塩 和人 著 ちくま新書・刊)
洞察力が鋭過ぎたせいか、戦前は日本の専門家として脚光を浴びたものの、戦後同書を出版した後のミアーズ女史は先鋭的なアメリカ批判論者と捉えられて出版業界からは疎まれ、後半生は苦しい生活が続いたようです。
勝てば官軍、歴史は勝者が自分たちに都合よく作るもの。
しかしこの2冊は、史実はその勝者が作った歴史の陰にこそ有ることを、私たちに示してくれます。
千玄室氏は、エッセーの最後をこう結んでおられます。
「今日の多様な世の中で国に対する筋の通った観念がなかなか思うようにならないだけに、あまりにもアメリカ一存の民主化がはびこって、自由を基にした自我が民主主義だと思い込まれたことの間違いを、何とか是正しなければならない。
とかく長い歴史の中に伝統と伝承によって受け継がれてきた日本文化や生活のあり方の合理性且つ衛生的、そして清潔さをモットーとしてきたことを確実に知り、身に着けることをしなければ、ミアーズ女史に申し訳ないのである。」
昔ピアノを習った方は、まず例外なく 赤と黄色の 『バイエル教本』 を最初に弾かされたはず。
そして次に弾くよう指定されたのが、この方の作曲した練習曲(エチュード)だったのではないでしょうか?
カール・ツェルニー<
Carl Czerny
今日はピアノ教室の生徒さんなら皆その名を知っている彼の命日・没後160周年にあたります。
1791年ウィーンに生まれたチェルニーは、ピアノ教師だった父親に早くから英才教育を施され、幼くして音楽の才能が開花。
早くも9歳の時にピアニストとしてデビューし、10歳であのベートーベンに弟子入りした頃には殆どの鍵盤楽器を弾きこなしたとか。
彼はその作品を全て暗譜するほど師・ベートーベンに心酔し、その上演奏テクニックも超一流。
ピアノソナタ〝ワルトシュタイン〟を初見で弾きこなすなどして彼から高く評価され、代表的ピアノ協奏曲第5番〝皇帝〟初演のソリストに指名されました。
一方ピアノ教師としても名声を得たツェルニーはリストを教えたことでも知られ、何人もの上流階級の子女を指導し多くの収入を得ていたようです。
しかしあまりに教え子の数が増えてしまい1日12時間も教えなければならなくなったため、体力的限界を感じた彼は45歳で教師を辞め、以後は作曲活動と教材制作に専念。
1857年7月15日、痛風(!)により66歳でこの世を去るまで延べ1,000曲近い作品を残し、後世のピアノ教育に多大な功績を残しました。
生涯独身を通し、非常に真面目かつ内向的な性格だったそうですか、それを反映してか同じ旋律を何回も繰り返させる曲が多数見受けられます。
まぁ、ド素人が言うのも何ですが・・・小学校1年からピアノを習い始めた私が急激にやる気がなくなったのは、ツェルニー30番を弾かされた辺りだったと記憶しています。
だって、つまんなかったんですもん。
例えば、こんな感じ・・・。
ビアノを弾かない方でも、単調な音符の羅列であることがお分かりいただけるかと・・・。 ですから、
【弾いても面白くない → 練習しない → 上達しない → 先生に叱られる → やる気がなくなる】
という〝負のスパイラル〟が続き、とうとう中学3年の夏に教室通いを止めてしまった私。
(ちなみに 「受験勉強が忙しくて練習できない」・・・というのが、親に対する表向きの理由でした。
もっとも、その後もロクに勉強なんてしませんでしたけどネ。)
結局9年近く習ってソナタ止まりの、劣等生でした。
でも皮肉なことに、高校に入ってから自分が弾きたい曲の楽譜 (ピアノピース) を買ってきて練習するようになってから、俄然上手くなったような・・・。
やはりモチベーションを上げるには、やりたいことをやるのが一番ってことかも。
私のピアノ上達を阻んだのは、ツェルニーの練習曲だった!・・・ってことにしておいてください。
あっ、自分の才能の無さを棚に上げて、命日に失礼なことを言ってすみません。
今日は、『ひまわりの日』 なのだそうな。
と言っても、それは花のひまわりではなく、人工衛星のこと。
今からちょうど40年前の今日、気象庁と宇宙開発事業団(NASDA )が開発した静止気象衛星(Geostationary Meteorological Satellite)
ひまわり1号
が打ち上げられたことを記念したもの。
1970年代に入ってから国際的に静止気象衛星 (GMS ) の打ち上げが検討される中、日本でも1972年から開発が本格化。
設計・制作を経て1977年4月までに全ての試験を終了した重量約315㎏・全長約2.7m・直径約2.2mの寸胴なドラム缶の如き形状のひまわり1号は、当時の日本製ロケットでは打ち上げが出来なかったため、初めてアメリカ航空宇宙局(NASA )に打ち上げを依頼。
そして1977(昭和52)年7月14日、ケープカナベラル基地からデルタ2914ロケット132号機によって発射され、計画通り東経140度の赤道上空での静止に成功しました。
名称の由来は、宇宙開発事業団の初代理事長であり、新幹線生みの親で〝ミスター新幹線〟と言われた島秀雄氏の趣味が園芸であったことから、常に太陽に向かって花を咲かせ太陽を追って向きを変えるひまわりの名をつけたのだそうな。
※島秀雄氏に関する過去記事は、こちら。
http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11901244332.html
その後静止体勢の微調整などを経て、約4ヶ月後の11月4日から定常運用を開始し、翌年4月6日から気象庁気象衛星センターによる運用開始がスタート。
現在では台風や前線の動きが刻々と送信され、私たちは当たり前のようにその衛星写真をニュースやネットで観ていますが、当時としては画期的・・・天気予報の確度が格段に向上しました。
ひまわり1号が初めて撮影した地球の画像
その後1981年12月に観測業務をひまわり2号に引き継いで、東経160度に移動。
そして搭載機器の劣化から1989年6月に通常の軌道より高度の高い〝墓場軌道〟に離脱し、運用を停止しました。
現在活躍しているひまわりは、代を重ねて昨年11月に打ち上げられた9号。
これからも私たちの生活に欠かせない正確な天気予報のために、一生懸命働いてもらいましょう。
女性は苦手な方が多いようですが、私を含めコレが好きな男性は多いはず。 今日はその
モツ焼の日
なのだそうです。
〝モツ〟とはご存じの通り内臓のこと・・・すなわち7・1・3だから。
(※ちなみに 『モツ鍋の日』 はイイ鍋で11月7日なんですって。)
日本では7世紀くらいからモツ料理を食べた記録があるそうですが、元々内臓肉は常温では腐敗速度が速いため、一般的には廃棄されていました。
(※肉食動物はそれを知っていて獲物の内臓から食べ始めますし、我々葬儀社がご遺体保存のために腹部を中心にドライアイスをあてます。)
しかし食用にできるモツは全体重の内、牛8.5%・豚8.8%・トリ7%もあるそうですしビタミンA・B、鉄分が多く含まれているので、冷蔵・冷凍技術の進歩した現代では食べるに越したことはありません。
しかもセリを通さないため安価とくれば、尚更。
サラリーマン時代は、安くて美味しいモツ焼には随分とお世話になりました。
ただ独特の部位の名前が、具体的にどの部分なのかは殆ど知らず。
さりとて見栄で先輩には聞けず、また下手に取引先の社長なんかに聞いて知らずに恥をかかせちゃマズい・・・と、長い事その知識はありませんでした。
焼き鳥屋や焼肉屋でデートの最中に傾ける薀蓄ネタとして、以下に主だった部位の呼び名などをご紹介しましょう。
まずモツ自体が関東での呼び名。
ホルモンともいいますが、その語源は大阪弁の〝捨てるもの〟を意味する 『放るもん』 からだそうな。(※他説あり)
◆ ハ ツ ・・・ 心 臓
◆ シビレ ・・・ 膵 臓
◆ ハラミ ・・・ 腹側の横隔膜
◆ サガリ ・・・ 背側の 〃
◆ コブクロ ・・・ 子 宮
◆ テッチャン ・・・ 大 腸
ってことで、コテッチャンは小腸のこと。
更に牛の胃袋については、第一がミノ、第二がハチノス、第三がセンマイ、第四がギアラ。
レバーは、もう説明の必要はないですょネ。
またコリコリした歯応えがたまらない私の大好物・砂肝(砂ズリ)は、牛や豚にはないトリ独自の消化器官なんですって。
皆さんは、どの部位がお好きですか?
記念日の今日、モツ焼き食べに彼女を誘って、蘊蓄を傾ければポイント・アップは確実!?
あっ、もちろん誘う前に好き嫌いのチェックを、お忘れなく~。