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また逢う日まで

私のような昭和世代の方なら、タイトルだけで今日の主役が誰かはお分かりでしょう。


そう、1972(昭和47)年に日本レコード大賞を受賞した実力派歌手

 尾崎 紀世彦 さん

今日は、彼の命日・没後5周年にあたります。

        


映画『ウルブァリン』の主役を演じるヒュー・ジャックマンばりのもみあげがトレード・マークだった尾崎(本名同じ)さんは、父方の祖父がイギリス人というクォーター。

1943(昭和18)年、父親がクラシック・ダンサーで母親が日劇ダンシング・チームの一期生という家庭に3人兄弟の次男として生まれました。

子供の頃からFENでジャズやカントリー・ミュージックに慣れ親しんでいた尾崎さんは、13歳の時にウクレレを買ってもらうと、同級生6人とハワイアンバンドを結成。

我流の練習だったものの、箱根のホテル小涌園のオーディションに合格。

そのバンドはメンバーの学業の関係で止む無く解散したものの、16歳でザ・ワンダースを結成するとNHKやTBSの歌番組に出演。

『ウルトラセブン』の主題歌や挿入歌も担当。
歌の中の「セブン」の一部は、尾崎さんの声なのだとか。

そして彼の歌唱力に目を付けた日音の村上司プロデューサー(※後に同社々長・会長)に口説かれて、1970(昭和45)年にソロデビュー。

その直後交通事故に巻き込まれて4ヶ月の入院生活を送ったものの、翌年にリリースした『また逢う日まで』が大ヒット!

同年のレコード大賞と日本歌謡大賞をダブル受賞し、一気に一流歌手の仲間入り。

その後も『二人は若かった』、あるいは映画音楽『ゴッドファーザー・愛のテーマ』のカバー曲で更に人気を博しました。

レパートリーの広さは、まさに歌唱力の証・・・美声を維持するために、30年以上禁煙するほどストイックだったとか。


1987年には、アサヒビールのイメージソング『サマー・ラブ』がヒットし、21世紀に入っても定期的にコンサートを行うなど、息の長い活動を続けていた尾崎さんを胃がんが襲ったのが、2010年の事。

        

公演をキャンセルし、マネージャーも解雇して所在が分からなくなり、女性誌が失踪したと報じて騒ぎになったことも。

本人はその報道をテレビで見ながら、「オレはここにいるョ」と苦笑いしていたそうですが・・・。

やがてがん細胞は肝臓・肺にも転移し、2012年5月31日・・・尾崎さんは69歳で帰らぬ人となりました。


迎合することが嫌いで時には先輩歌手にも意見したという、圧倒的な声量を誇った一流歌手のご冥福を、あの永遠のヒット曲を聴きながらお祈り致しましょう。笑3



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牛 乳

今日は、クイズからスタートです。

世界中で行われる周回コースで争われる自動車レースの中で、平均速度が時速220km、最高時速380kmを超えるというF1レースをも凌ぐ世界最速のカーレースとは、何でしょう?

正解は・・・F1モナコ・グランプリ、ル・マン24時間レースと並び、世界3大レースのひとつに数えられる、


 インディアナポリス500マイルレース

         Indianapolis 500


通称・インディ500と呼ばれているこのレースの記念すべき第1回大会(決勝)が行われたのが、今から106年前の今日・1911年5月30日のことでした。

シカゴの南に位置するインディアナ州インディアナポリス市近郊にある、1周2.5マイルの長方形の角を丸くしたようなインディアナポリス・モーター・スピードウェイを200周、つまり500マイル(804.672km)で争われるのが、このレース。



毎年5月・最終月曜日のメモリアル・デー前日・日曜日に決勝レースが開催されています。


予選を通過した33台のレーシング・カーが、予選タイム順に縦3列×横11台に整然と並びスタートしますが、前述の通りの超高速かつテール・トゥー・ノーズを多用し車同士が異常接近するため、ドライバーには高度なテクニックが要求されると同時に、非常に危険なレース。

それゆえ、過去に何回も死亡事故が起きています。

      


しかも同レースは、5月初旬にプラクティスが始まり、実質的に3週間にわたるドライバーにもスタッフにも過酷なレース。

しかしその分、レース期間中の地元はいやが上にも盛り上がり、最終日には(公表されていませんが)30~40万人の観客が集まるというのですから、ちょっと日本では想像できないスケールです。

     


ところで、この同一場所でのカーレースとしては世界最古の歴史を誇る大会には、おもしろい伝統があります。

それは、優勝者が必ず牛乳を飲むこと。

     

これは1933年に2度目、1936年に3度目の優勝を果たしたルイス・メイヤー選手がボトルでミルクを飲んだことに牛乳メーカーが目をつけ、一時期を除いて常にミルクを提供するようになったから。

従って、優勝してもミルクを飲まなかったら、このメーカーからは優勝賞金が支払われないのだそうな。

インディ500に出場するには、ミルクを飲めることが第一条件かもしれません。
あせあせ

残念ながら、今まで同大会で優勝した日本人選手は皆無。

過去最高は、高木虎之介選手の5位(2003年)。

直近では、佐藤琢磨選手が2015年に13位、昨年が26位。

ちょっと表彰台に手が届かない状況ですが、いつの日か日本人が牛乳を飲む姿を見たいものです。

・・・と思っていたら、なんと昨日行われた第101回大会で、佐藤琢磨選手が見事日本人初の優勝を飾ってくれました!
扇子

     

※その映像を、こちらでご覧ください。(↓)
    https://www.youtube.com/watch?v=i8yoTZ2pHWk


来年からは、この伝統のレースの注目度が、日本でもグンとアップしそうですネ。


 


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スローカーブを、もう一球

表題だけで今日の主人公がピンと来た方は、間違いなくスポーツファンでしょうネ。


現在では、マスメディアにおいて1つの(職業)分野として定着している、〝スポーツライター〟。


今日は、その先駆者とい言える


 山際 淳司 


の命日・二十三回忌にあたります。


         


山際 (本名:犬塚 進)氏は戦後間もない1948年に神奈川県逗子市に生まれました。


中央大学法学部在学中から 〝山際淳司〟 のペンネームで雑誌にルポを発表し、また週刊誌に本名で人物ルポを掲載。

その独特な切り口と詳細な描写で、一定の評価を得ていたそうな。


山際氏は取材対象者に直接会って徹底的に話を聞き、その上で客観的かつ冷静な目で文章を構成することが特徴といわれました。


それが端的に顕われたのが、私が彼の作品に初めて触れることにもなった、〝Sports Graphic Number 〟創刊号に掲載された 『江夏の21球』


         山際淳司


1980年に創刊されたこの雑誌は、おそらく本格的に定期刊行された日本初の総合スポーツ専門誌でした。


その前年・1979年に行われた日本シリーズ・広島 vs 近鉄の第7戦。


広島の守護神・江夏豊投手が9回ウラに迎えた絶体絶命のピンチを切り抜けたシーンはあまりに有名ですが、その時の全投球を関わった選手の証言や事実を克明に追ったルポは、当時大学で現役のピッチャーだった私に野球の奥深さと醍醐味を存分に味あわせてくれました。


(ただ、個人的に江夏投手がスクイズを外した一球・・・あれはピッチドアウトではなく、たまたまカーブがすっぽ抜けただけだと今でも思っていますが。)


このルポで山際氏の存在を知ることとなった私は、その後も氏の著作は殆ど手に取りました。


また山際氏本人も、このルポも掲載した表題の著書・ 『スローカーブを、もう一球』 で日本ノンフィクション賞を受賞し一躍有名に。


        


そしてNHKがこのルポを元にドキュメンタリー番組を制作・・・それが縁となったのか、同局の〝サンデースポーツ〟のメインキャスターを務めるまでになりました。


ところが、1年程経ったところで突然の降板。


あれっ? と思ったら、その約2ヶ月後・・・既に胃癌に侵されていたという山際氏の訃報をテレビで知った時の衝撃は、今でもよく憶えています。


1995年5月29日、46歳の若すぎる旅立ちでした。


トップ・アスリートだけでなく、無名の選手にも焦点を当てた地道かつ広範囲な取材姿勢と文章は、その後のスポーツジャーナリズムに大きな影響を及ぼしたことは間違いないでしょう


今宵は久しぶりに 『スローカープ・・・』 を読み返して名勝負の数々を振り返りつつ、スポーツ・ジャーナリズムの先駆者の冥福を改めて祈りたいと思います。笑3

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日本一

我が国のゴルフ界に於いて最も権威があり、プロなら一度は優勝を、アマなら一度は出場を夢見るトーナメントといえば、

 日本オープンゴルフ選手権競技

現在は毎年10月に開催されているこの大会の第一回が開催されたのが、今からちょうど90年前の今日・1927(昭和2)年5月28日のことでした。

アマ12名・プロ5名が参加して神奈川県の名門・程ヶ谷カントリークラブ(6,170ヤード・パー72)で1日36ホール、翌29日と2日間・計72ホールのストロークブレーで行われ、同クラブ所属のアマ・赤星六郎選手が通算21オーバーの309ストロークで、2位に10ストロークの大差をつけて優勝しました。

※程ヶ谷CCの設計は六郎選手の実兄・赤星四郎氏が手掛けており、本人もこの第一回大会に参加し4位に入っています。

賞金は優勝が300円、準優勝が150円、3位が100円だったとか。

当時の公務員初任給が50円だったそうですから、プロにとっては魅力的な金額だったでしょう。

ただ、優勝者の赤星選手はアマチュアでしたから、賞金はもらえなかったはずでずか・・・。


        
    
 
左写真及び右写真の左側が赤星選手ですが、かなり立派な体格の持ち主だったようですネ。


この赤星選手はプリンストン大学に留学経験があり、しかも1924年にはパインハーストゴルフクラブのスプリングトーナメントに優勝した、当時の第一人者。

日本人プロを教えていた人物であり、その後兄の四郎氏と共に我孫子ゴルフ倶楽部の設計もした日本ゴルフ界の貢献者ですから、勝って当然だったともいえます。

その後1942~49年まで戦争のため中止された以外は、毎年開催されているこの大会は、様々なドラマを生み出してきました。

その方の年代によって印象に残る場面は違うと思いますが、昭和世代の私にとって忘れられないのは、戦後最多・5勝を挙げたジャンボ尾崎選手が1988・89年と連覇した時のプレー。



まずは、東京ゴルフ倶楽部で開催された1988年大会。

同クラブでは大会前にグリーン芝の養生に失敗し、砂を入れてローラーをかけるという劣悪な状況の中で行われました。

最終組で回るジャンボは、青木・中島両選手を1打差でリード。

最終ホールの1mのパーパットを決めれば優勝と言う場面。
(※その場面は11分過ぎから)



グリーンが荒れていたこともあったのでしょうが、ジャンボがアドレスを2度も解いて手のシビレを振り払う仕草をするのを初めて観ました。

ジャンボも人の子・・・と思ったものですが、実はこれが彼のイップスの始まりだったんだそうですねェ。

そして劇的だったのが、名古屋の名門・名古屋ゴルフ倶楽部・和合コースで行われた翌1989年の第54回大会。

今度は首位B・ジョーンズに一打リードされた17番パー3で、左奥のバンカーに入れてしまう絶体絶命のピンチ。

しかしそこからチップイン・バーディーのミラクルショット! 
(※その場面は2分過ぎから)


生中継を観ていた私は、カップにボールが吸い込まれた瞬間に鳥肌が立ったのをはっきり憶えています。

最終ホールでジョーンズ選手が第2打をOBで万事休す。

試合の流れがたった1打で変わるゴルフの面白さと怖さを見せつけられました。


今年の第82回大会は、10月12~15日まで岐阜関カントリー倶楽部・東コースで開催されます。

一体どんなドラマやミラクル・ショットが飛び出すか、今から楽しみです。笑2



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海産物

(地域によっては違うかもしれませんが)毎週日曜日の午後6時30分から、『サザエさん』 をご覧になりながら食卓を囲むご家庭は多いはず。

この超長寿・超人気アニメの原作者は、皆さんもよくご存じの


 長谷川 町子 さん

今日は、彼女の命日・没後25周年にあたります。


        


1920(大正9)年に三人姉妹の次女として現在の佐賀県多久市に生まれた長谷川さんは、三菱炭鉱の技師だった父親の仕事の関係で、程なく福岡市に転居。


その父親が死去したため一家は1934(昭和9)年に上京し、彼女は現在の山脇高等学校に転校。

そして2歳頃から暇さえあれば絵を描いていたという町子さん本人の希望により、高校在学中から田河水泡に住み込みで弟子入り。


「女の子の弟子は、珍しいでしょう?」

と事ある毎に編集者に売り込んでくれた師匠の計らいによって、早くも15歳で少女倶楽部10月号に処女作品の 『狸の面』 が掲載され、漫画家デビュー。

       
              
 田河水泡師匠と長谷川さん        


しかしホームシックにかかって僅か1年足らずで出戻り、その後一家は福岡に疎開。

福岡でいくつか作品を発表し少女倶楽部に連載をしましたが、やかり長谷川さんといえば、『サザエさん』。


終戦後の1946年4月22日に、福岡の地方紙・夕刊フクニチに4コマ漫画 『サザエさん』 の連載を開始

連載開始に先立ち妹さんと海岸を散歩しながら構想を練ったため、登場人物が海産物の名前ばかりになったのだとか・・・。


その後東京への転居もあり掲載紙が変わったり、また途中休載期間もあったものの、1974年2月21日の朝日新聞の掲載をもって終了となるまで、その間の連載は実に6,477回に及びました。


             

                 サザエさん 第1巻


テレビでの放映は、1969年10月5日にフジテレビで第1回の放送を行って以来、現在に至るまで50年近く続いており、最高視聴率は39.4%、今でも昔に比べて落ちたとはいえコンスタントに2桁を叩き出すオバケ番組です。


一方で長谷川さんは著作権(知的財産権)の保護にも先駆者として活動され、1970年には無断でキャラクターを使用したバス会社を提訴したこともあったとか。

もっともその厳しい著作権管理のおかげで、フジテレビはドル箱の同番組の再放送ができず、また今もってDVD化されていませんが・・・。


1992(平成4)年5月27日、心不全により72歳で亡くなられた2ヵ月後、〝家庭漫画を通じて戦後の我が国社会に潤いと安らぎを与えた功〟により、国民栄誉賞を受賞されました。


また同年12月には、東京サザエさん学会から 『磯野家の謎』 という本が出版され、いわゆる〝謎本〟の元祖として、かなり売れましたネ。


          


これ程までに老若男女を問わず、国民に愛され続けるマンガは 『サザエさん』 の他には見当たらないといっていいでしょう。

だって、原作者が亡くなられた後も放映が続くアニメなんて、そうそうありませんから。

そんな 『サザエさん』 の誕生秘話を知りたい方には、長谷川さん自身が筆を執ったこの本というかマンガをオススメします。


 
『サザエさん うちあけ話』 (朝日新聞出版・刊)


         


これを読めば、より一層サザエさんに愛着が湧くこと請け合い。

私も今日、久しぶりにこの本をめくりつつ女流漫画家の草分けのご冥福を祈りたいと思います。笑3


 


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吸血鬼

昼間は石棺の中で眠り、夜になると活動を開始。

ネズミやコウモリなどの動物を自在に操り、黒づくめの衣装で神出鬼没、人々の生き血を吸うが十字架とニンニクが苦手・・・。

皆さんもよくご存じであろう吸血鬼のイメージですが、これを確立(?)したホラー小説


 吸血鬼ドラキュラ

がアイルランド人作家ブラム・ストーカーによって書かれ出版されたのが、今からちょうど120年前の今日・1897年5月26日のことでした。


       
Abraham "Bram" Stoker              初版本 

とかく 【吸血鬼=ドラキュラ】 と思っている方が多いかもしれませんが、ドラキュラはあくまでも同小説に出てくるキャラクターの固有名詞。

普通名詞としての吸血鬼は、ヴァンパイア(Vampire )ですので、お間違いのなきよう。

で、ドラキュラは、ルーマニア語で〝竜(悪魔)の息子〟という意味だそうな。


そしてこのキャラクターには実在のモデルが・・・それは、現在のルーマニア南部・ワラキア公ヴラド3世(1431-1476)。


       

                  Vlad III


 彼の父親ヴラド2世が、神聖ローマ帝国より竜騎士団の騎士に任じられたことでドラクル(Dracul = 竜公)と呼ばれたことから、次男として生まれた彼が〝竜の息子〟と呼ばれたのは自然の成り行きであり、本人も自らドラキュラと名乗っていたそうな。

彼自身は何度もオスマントルコと戦争を繰り返し、時には幽閉された末に殺されてしまいますが、時に敵兵を串刺しにして場内に晒すなどかなり残虐な面もあったそうですから、その辺がモデルにされた所以なのかもしれません。


小説では、トランシルヴァニアの山中にある荒れ果てた城の主であり、夜な夜な人の生き血を求めて徘徊するドラキュラ伯爵がロンドンに来襲。

その彼を退治すべく立ち上がったヴァン・ヘルシング教授とその仲間たちの奮戦ぶりを描いています。

そのドラキュラの風体といえば、真っ黒な衣装に身を包み髪の毛はオールバック、充血した赤い目に鋭い牙といったところでしょうか。

       

でも実際のところ小説にはここまで細かいキャラ設定は為されておらず、これは映画によって作られたイメージ。

例えば、お馴染みの牙。

最古の映画ではあったものの、それから第二次世界大戦後暫くの間製作された作品では、牙なしのドラキュラだったとか。

それが1958年に公開されたイギリス映画 『吸血鬼ドラキュラ』 から牙が生え(?)、以後それが定着したんですって。


今後新たなドラキュラ映画が公開されてそれがヒットすれば、ドラキュラのイメージは変わるかもしれませんネ。


余談ですが、ヴラド3世には子孫がおり、現在でもその家系は途絶えていません。

5年前イギリスのチャールズ皇太子自身が、彼の子孫だと言明していますし。

もしかしたら、ダイアナ妃が彼の許を離れたのは、彼が夜な夜な城内を徘徊していたから?

ちなみに、我が家にも女吸血鬼が約1名います。
もっとも彼女が毎日吸うのは血ではなく、私の生気ですが。

困ったことに、彼女は夜だけでなく昼も活発に活動し、十字架もへっちゃらだしニンニクは大好物。
彼女が元気であればあるほど、私は弱っていくのです。

そんな恐ろしい吸血鬼の弱点といえば・・・ゴ〇ブリだけ。うー


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有楽町

今日の記事は、中高年限定になるかもしれません。あせあせ

今からちょうど60年前の今日・1957(昭和32)年5月25日、

 有楽町そごう

が開店しました。


十合伊兵衛(そごう いへえ)が1830(天保元)年に大阪で興した古着屋 『大和屋』 をルーツとして、1933(昭和8)年に神戸・三宮駅ビルに百貨店としてオープンした 『そごう』 。


その2年後には大阪・心斎橋に地上8階・地下3階の近代的ビルの本店を建てた同社は、終戦後に東京進出を計画。

いくつかの候補地の中から、最終的に読売新聞が有楽町駅隣に建設した読売開館にテナントとして入り営業することに。

そして開店当日は雨だったにもかかわらず、30万人以上が来店。
建物内に入りきれないお客さんが傘をさして周囲を取り囲みました。

       

いくら東京発進出の関西系百貨店のオープンとは言え、なぜここまで注目を集めたのか?

そこには、周到なコマーシャル戦略がありました。


当時のそごう宣伝部長だった豊原英典氏は、開店前に〝有楽町高級化キャンペーン〟を企画。


アメリカの映画 『ラスベガスで逢いましょう』(1955年製作) をパクッた〝有楽町で逢いましょう〟というキャッチフレーズを採用。

読売グループの日テレとタイアップして、そごう単独提供の歌番組 『有楽町で逢いましょう』 が開店前月から放送開始。

そのおかげてこのキャッチフレーズは当時の流行語となり、有楽町界隈に人が押し寄せるようになったといいますから、オープン時にお客さんが殺到するのは当然ですネ。

そして〝有楽町で逢いましょう〟といえば外すことができないのが、同名の歌謡曲。

そごう開店から半年後の11月にリリースされた、佐伯孝夫・作詞/吉田正・作曲のこの唄・・・実は有楽町そごうのCMソングでした。

歌ったのは、吉田正氏が強力に推薦したフランク永井(1932-2008)さん。

同曲は発表後半年でレコード約50万枚を売り上げる大ヒット。
当時まだ売れない新人だった彼は、これ一曲でメジャー歌手の仲間入りを果たしました。


       

その後有楽町そごうは巨人の優勝セールなどで話題を振りまきましたが、1990年代に入ると東京都庁の新宿移転やバブル崩壊等マイナス材料が増えて売り上げ不振に。

そして2000年にそごう本体が大企業としては初めて民事再生法の適用を申請して実質的に倒産し、有楽町店も撤退。

その後には、ビックカメラが入店し、現在に至っています。


それでは昭和世代には懐かしい、フランク永井さんの歌声をお聴きください。(↓)

https://www.youtube.com/watch?v=7Nog3QNmCq4&spfreload=10


最近の有楽町は再開発が続き、ビックカメラや有楽町イトシアに多くの人が訪れています。

ですから、この〝有楽町で逢いましょう〟も誰か別の歌手がカバーすれば再ヒットする可能性があるのでは?

だって、そごうのCMソングなのに歌詞には〝そごう〟って1箇所も入っていませんから・・・。笑2


 


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エネゴリ・ワールド
4月に我らがエネゴリ君の店へ行った時のこと。 オーナーが

「渡辺さん、こんなの作ったんですょ。」

と一斗缶を手に店の奥から出てきました。

「何ですか、それ?」

「燻製器なんです。 これがあれば、いろんなものを燻製に出来るんですョ。」

「おぉ、そうですか~。 じゃあエネゴリ君得意の手羽元の燻製もコレで作れるわけだ。」

※手羽元の燻製に関する過去記事は、こちら。(↓) 

  http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12161122668.html


そう水を向けたら、エネゴリ君は苦笑い。

「えぇ、これを室外で使えば店内が煙たくならないですからネ。」

「じゃあ、近々食べられるわけだ。 楽しみにしているョ。」

と、上記手羽元の記事以来1年近く口にしていない私は喜んだのですが・・・それから数回店に行ったのに、手羽元の燻製はメニューに載らず仕舞い。

5月中旬になって、痺れを切らせた私は彼に聞きました。

「あれからもう1ヶ月以上経つけど、手羽元の燻製作らないのは、どういうワケょ。」

返ってきた彼の答えは、こうでした。

「だって渡辺さん、ピカピカの燻製器なんですもん。
 使ったら煙で汚れちゃうじゃないですか。」


「それじゃオーナーが燻製器を作った意味、ないだろうが!」怒


とツッコミを入れた私ですが、彼が作らない本当の理由が燻製は手間がかかって面倒くさいからだってことを、知っているんですけどネ。あせあせ


        

              ピカピカのままの燻製器


気を取り直して、今度は時事問題。

「最近北朝鮮がやたらとミサイル発射してるの、知ってる?」

「ええ、まぁ。」

「もしキミの家の近くに落ちたら大変だろうナ。」

「そんなこと、あるんですかねェ?」

「確率はゼロじゃないないゾ。 だって、過去に本州上空を通過したことがあるんだから。」

「えっ、ホントですか?」

「あぁ、ウソじゃないョ。 でも日本にミサイル落ちるより、韓国と戦争になる確率の方が高いだろうナ。

ところで、エネゴリ君ょ。 北朝鮮と韓国って、朝鮮戦争以来まだ戦争状態のままだって知ってるかい?」

「もちろん、知ってますとも。」

「え~っ、ホントかょ。」

「えぇ。 だって、仲悪いんでしょ。」

・・・・・いや、そういうレベルの話じゃないんだが。うー

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大富豪

メロン財閥・デュポン財閥と共にアメリカ三大財閥のひとつであり、かつロスチァイルド家と並んで世界2大財閥のひとつである財閥とは・・・もう、皆さんはお分かりですょネ。

今日は、嘗てアメリカの〝石油王〟といわれたスタンダード・オイル社の創業者にして、毎年クリスマス・ツリーの点灯式で話題になるビルに名を残す財閥の創始者、


 ジョン・デイヴィジョン・ロックフェラー・シニア

         John Davision Rockefeller Sr.


の命日・没後80周年にあたります。


       


ロックフェラーは、1839年にニューヨーク州リッチフォードで6人兄弟の2番目として生まれ、クリーヴランドに転居後16歳で働き始めます。


山師的な父親を見て育ちながらも幼少時から真面目だったという彼は、16歳で簿記助手の仕事を得て経理や会社経営の基礎を学ぶと早くから石油事業に関わりを持ち、1870年に数人の仲間とスタンダード・オイル社を設立し、社長の座に。


狡猾なビジネス手法を駆使して急成長を遂げた同社は、やがてアメリカ国内における原油生産・石油精製・販売に関する支配権を手中に収め、市場の殆どを押さえるまでになりました。


あまりの独占ぶりに最高裁から分社化命令を出され、37の新会社に分割。


それらがエクソン・モービル社やシェブロン社の前身となりましたが、彼は1911年まで社長に君臨し続け、アメリカ人で初めて10億ドル以上の資産家すなわち〝ビリオネア〟となり、現代の貨幣価値にして20兆円以上(!)の資産を手にしたといわれています。


ロックフェラーのビジネスは、ライバル会社に十分な買収価格を提示して売却を迫り、条件を飲まなければ倒産に追い込むという強引な手法を駆使して急速に会社を大きくしたため、決して世間の評判は良くありませんでした。 


それ故でしょうか、58歳で事業からの引退を表明した後は慈善活動に没頭・・・1913年にロックフェラー財団を創設し、医学界を始め各方面に総計約5億ドルもの個人資産を投じたといわれています。 

(強いバプチスト信仰に基づいた慈善活動だといわれていますが、相続税対策も兼ねていたことは否定できません。)


一方で、自らのファミリーには莫大な生前贈与も行い、その資産はしっかりと子孫に受け継がれているようです。


万全(?)の資産管理を行った末に、彼は1937年5月23日に97歳でこの世を去りました。

一代でアメリカ最大の財閥を築いた彼の蓄財術や生き方に興味のある方には、彼の名言・至言を集めた、この本をオススメします。


『ロックフェラー お金の教え』 

             (中島早苗・訳 サンマーク出版・刊)


       


彼の息子・ロックフェラー2世は、ロックフェラー・センタービルの建設に関わるなど投資家・慈善家として有名。 


そして孫のネルソン・ロックフェラーはフォード大統領政権下で副大統領を務め、もう一人の孫もアーカンソー州知事。


さらに曾孫・ロックフェラー4世は現職の上院議員・・・その勢力はアメリカ政財界に深く、そして静かに根を張っているようです。


現在の世界は、米ロックフェラー財閥と欧州ロスチャイルド一族が動かしている・・・そう言っても過言ではないでしょう。

とすれば、アメリカの大統領は単なる操り人形? うー

最後に彼の遺した言葉を、いくつかご紹介します。

「ビジネスの世界では、忍耐こそ何にも勝る美徳なのである。」


「金持ちになることが君の唯一の目標なら、君は絶対に金持ちになれない。」


「いつまでも自分の役に立つのは、自力でしたことだけだ。」


「若者にとって最も大事なのは、信用(名声と人格)を確立することだ。」

若者には是非耳を傾けていただきたい、至言ですネ。


 


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良 心

好景気の頃と比べ、現在ではその発言権・影響力が落ちたといわれる、日本経済団体連合会・・・いわゆる、経団連。


歴代の会長職には何人もの重鎮が就きましたが、その中でも〝日本財界の良心〟といわれ尊敬を集めた人格者がいらっしゃいました。 今日は、その

 平岩 外四 

の命日・没後10周年にあたります。


1914(大正3)年に愛知県常滑市で生まれ、後に財界のトップに立った平岩氏ですが、その前半生は実に過酷なものでした。


彼が6歳の時に町役場の収入役をしていた父親が亡くなり、母親の手で育てられた彼は聡明な子供でした。

生活苦を理由に親族から進学を反対されながらも、彼の才能を信じた母親がそれを押し切って旧制第八高等学校に進学させ、更に東京帝大・法学部へ。

1939(昭和14)年に卒業御、東京電灯(現・東京電力)に就職。

わざわざ民間会社に就職したのは、役人より給与が高く家に仕送りができるのが理由だったとか。


しかし間もなく大東亜戦争が始まると、彼も陸軍に召集されニューギニアへ。

熱帯の過酷な戦場で敗走を余儀なくされた兵士たちは飢餓と熱病に苦しめられ、彼のいた部隊107名の内、生存者は僅か7名。

その中の1人として母国に帰ることができた平岩氏は、もしかしたら神様に選ばれし人だったのかもしれません。


復員後、会社に戻った彼にとって幸運だったのは、後に東京電力の社長となり〝東電中興の祖〟といわれ、経済同友会の代表幹事も務めた木川田一隆氏に目をかけられたこと。

そのキッカケは復職して1年後秘書課に配属された際、当時常務だった木川田氏が秘書室で電気料金の体系に関する本を読んで勉強している平岩氏の姿を見て褒めたこと。


日々の努力を、見る人はちゃんと見ているってことですネ。

平岩氏自身、その木川田氏を 「経営についても人生についても終生の師」 と仰ぎ仕え、彼の引きによって1971年に同社常務、1974年に副社長、そして遂に1976(昭和51)年に社長に就任。

そして8年務めた後に会長、1993年相談役に退きました。

       

しかし彼の名が世間に知られたのは、やはり財界活動。

1978年の社長在任時から経団連の副会長に就任した彼は、早くから将来の会長と嘱望されていました。

その人気ぶりは、1986年に新日本製鐵会長の斎藤英四郎氏に会長の座を先に譲る形になった際、その無欲さが賞賛されたと同時に彼のシンパから不満が出たことでも伺えます。

そして彼が会長に就任した1990(平成2)年から1期4年務めた後一旦名誉会長に退き2002年まで在職。

2006(平成18)年に、再び名誉会長に復帰。

会長在任時はベルリンの壁崩壊やバブル崩壊や、また券金融スキャンダルが起きた財界にとって受難の時代。

しかし平岩氏は輸出入に関すネる緊急提言を行ったり、経団連企業行動憲章を制定し企業モラルの確立を図るなど、積極的に活動。

また1993年には政・財・官の癒着構造を断ち切るため、戦後38年続いた自民党への政治献金の斡旋を廃止するという、画期的というか歴史的な決断を下しました。

1980年の電気料金大幅値上げの際は、電気事業連合会会長として時の大平総理や田中角栄氏らとサシで交渉し認めさせた胆力は、戦争時に九死に一生を得た死生観の為せる業だったのかもしれません。

〝財界の良心〟とまで言われた平岩氏の温厚な性格や豊かな知識の源泉は、読書でした。

学生時代から晩年まで、論語などの古典や名著、文芸作品から少年ジャンプ(!)まで毎月5,60冊を読み続け、自宅の蔵書は実に3万冊以上だったそうですから、まさに〝平岩図書館〟。

その膨大な読書量に培われた知識・教養は、他の追随を許しませんでした。

そんな平岩氏の名言が、こちらの本で味わえます。

 『人間 平岩外四の魅力』 (大野 誠治・著 中経出版・刊)


          


平岩氏の人生を顧みると、やはり人の上に立つ者には、徳と教養が求められる・・・と、つくづく思います。

また彼が木川田氏に引き上げられたと前述しましたが、目をかけた平岩氏を如何に厳しく鍛えたかを窺い知ることができます。


そんな同書の中で、印象深い平岩氏の言葉をひとつご紹介すると、

【企業も人生も、負けたら絶対にダメだが、6対4で勝つのが一番良い】

「喧嘩ならパーフェクトに勝てれば気持ちがいいものだが、相手がもう2度と立ち上がれないくらい完膚なきまで叩きのめすのは、その時は良くても相手には怨みが残る。

そういうやり方は良くない。

怨みが残らないような勝ち方が一番良いのだが、それは6対4で勝つこと・・・できれば勝ったのか負けたのか分からない、相手が負けたと思わないくらいの勝ち方が理想だ。」


なるほど、生臭い財界の中で平岩氏に敵がいないのは、こういう考え方だからなのでしょう。

でもご本人は勝ち負けがハッキリするボクシングが大好きっだったってのが面白いですが。

昨今増えてきた 「短期間に稼げばそれで良い」 という若い経営者に、平岩氏ならどうアドバイスするのか? ちょっと聞いてみたい気がします。

同書を再びめくりつつ、亡くなる1週間ほど前に 「お先に逝かせていただきますょ」 と言って、2007年5月22日に92歳で大往生を遂げた、偉大なる財界人のご冥福をお祈り致します。


 


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