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家 紋

ウチの女王様が私と結婚する気になった要因の一つに、「この人はブランド品を知らない」というのがあったそうな。

これなら女性と浮気なんて出来ない・・・という事らしいんですが、それを結婚後に打ち明けられた私は何だか複雑な気分。 

でも彼女の言う通り、ブランド音痴なのは事実。
その私でさえ知っているブランドといえば、


  ルイ・ヴィトン
   Louis Vuitton


今日は、この一大ブランド・メーカーの創始者であり、氏名も同じルイ・ヴィトンの命日にあたります。


     


                 

ヴィトンは1821年、スイス国境に近いジュラ地方で生まれました。

12人兄弟の真ん中だった彼は職人を志しましたが、14歳の時に母親と仲違いし、殆ど無一文で家出をしてしまいます。

そして目指す400km彼方のパリに2年もの月日をかけて辿り着いた彼は、トランク製造とそのトランクに荷造りをする一流職人の弟子になることに成功。

これが後の一流ブランド 『ルイ・ヴィトン』 誕生の決め手になりました。

そして彼の名を高めたのは、デザインの変更。

当時はトランクを馬車に積み込んでいたため、蓋は雨水が溜まらぬようドーム型の蓋が主流でした。

しかし彼は交通機関の発達に注目・・・これからは汽車や船舶が主力になると予想し、室内に効率的に積み込める平らな蓋のトランクを考案。

更に撥水性の布地やトランク内に間仕切りを作るなどの様々工夫を凝らし、上流階級の注目を集めます。


その評判は、遂にナポレオン3世のユウジェニー妃が旅行用の衣装箱を発注するまでに。

そして1867年のパリ万博で銅メダルを獲得した同社の名は国際的に広まり、エジプトの総督やロシアのニコライ皇太子、更にはスペイン国王からも発注を受けるなど、超一流ブランドとしての地位を確立しました。

1888年にはチェス盤の模様に似た〝ダミエ・ライン〟を発表。

1892年にはハンドバックの制作も開始しましたが、同年2月28日に創業者ルイ・ヴィトンは70歳で天に召されました。

さて、ルイ・ブィトンといえば、このモノグラム・ラインがトレード・マークですょネ。


      


これは、初代ルイ・ヴィトンの時代から、そのシンプルなデザインが災いして多数のコピー商品に悩まされていた同社の2代目・息子のジョルジュ・ヴィトン(Georges Vuitton ) が1896年に考案したもの。

この独特のデザインの元となったのが、日本の〝家紋〟だったのだそうな。

そもそも前述の〝ダミエ・ライン〟も日本の市松模様からヒントを得たといわれており、日本が初めて出店した1867年のパリ万博で起きた〝ジャポニズム〟ブームがルイ・ヴィトンの発展に大きく寄与しているようです。

日本でヴィトン・ブランドが人気なのは、このデザインが日本人の美的感覚に(無意識に)訴えるものがあるのからなのかも。

ヴィトンを愛用されている方は、創業者のご冥福を是非お祈りしてください。


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速 報

衆・参院選が行われると、テレビ各局が放送するのが、

 開 票 速 報

ですが、これを初めて行ったのは、ラジオ。

終戦直後の1946年4月に行われた第22回衆院選からでした。

ただこの時は投票翌日の朝から3日間断続的に得票状況や当選者名を発表するという悠長なもので、NHKが自主取材に基づいて開票速報を行うようになったのは、1952年から。

大都市全ての開票所や小都市の選挙管理委員会などに取材要員を配置し、アルバイトを含め180人ものスタッフを動員して各開票所からの得票数を算盤で集計して当落の判定を行ったとか。


またこの頃から民放ラジオ各局も選挙速報に力を入れ始めました。

そして1953年1月にシャープが国産第一号のテレビを発売し、翌月からNHKがテレビ放送を開始・・・となれば、当然開票速報もテレビに移行するのは、必然的な流れ。

そのテレビによる開票速報が初めて放映されたのが、今から62年前の今日・1955(昭和30)年2月27日に行われた第27回衆院選でのことでした。

     

この時の放送は、投票当日の午後10~12時、翌日の午前8時から午後7時まで、正午の定時ニュースを除いて延々と行われたそうです。

視聴者にも、相当な忍耐力が必要だったでしょうネ。

翌年には証券取引所で株価表示に使われていた回転式数字表示器を応用したり、1967年にはコンピューターを導入するなど、時代とともに見やすくかつスピードもアップ。


更に最近の速報番組は、NHK・民放各社とも自局ニュース番組のキャスターを使い、午後8時の投票締め切りと同時に一斉に予想議席数を発表しています。

それは出口調査を柱として得票を読むのでしょうが・・・黎明期のように1,2日かけてダラダラと放送するより良いとはいえ、味気なさも感じます。

また各局が当確を打つスピードを競う余り、ミスを犯すケースも。
これは候補者はもちろん、支援者にとっては大ショック。
絶対にあってはならない間違いでしょう。

それからいつも思うんですが、各局バラバラに候補者や党幹部にインタビューして同じような質問をする手法は、何とかならないものでしょうか。


開票速報を全局が夜通し何時間も放送する必要はない・・・と思うのは、私だけ? うー

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横 断

幕末の激動期に於いて有名な船・・・といえば、まずアメリカの〝黒船〟が頭に思い浮かびますが、一方日本の所有する船では

 咸 臨 丸

でしょうか? 

この軍艦が浦賀を出港、太平洋を横断してサンフランシスコに到着したのが、今から157年前の今日のことでした。

咸臨(=『易経』から取られた、君臣がお互いに親しみ合う、という意)丸は、黒船来航に危機感を抱いた幕府が、1855年にオランダに発注した軍艦2隻のうちの1隻。(他1隻は朝陽丸。)

洋式軍艦としては同じくオランダから幕府に寄贈された外輪船・観光丸(長崎海軍伝習所・練習艦)に次ぐ幕府2番艦として、同年にオランダ・キンデンダイクにて起工。

2年後の1857年2月に完成した同艦は、喜望峰~インド洋を経て9月に日長崎港に到着し、そのまま長崎海軍伝習所の練習艦に。

全長48.8m、全幅8.74m、排水量620トン。
3本のマストと100馬力の蒸気機関と砲門12を搭載し、最大速度は6ノット(時速10km)という最新鋭艦の建造費は、7万ドル。


現在に換算すると約20~70億円だそうですから、相当思い切った買い物であったことは確か。

   
         
勢古宗昭画伯・筆 海上自衛隊幹部学校・蔵


そして日米修好通商条約の批准書交換のため使節団をアメリカに送る際、白羽の矢が立てられたのが、咸臨丸でした。

艦長・勝海舟、軍艦奉行・木村摂津守喜毅、通訳の中浜(ジョン)万次郎、福澤諭吉らを筆頭に医師・大工・鍛冶屋を含めた総勢94名の日本人と、横浜で座礁・破船したアメリカの測量船フェニモア・クーパー号船長のジョン・ブルック大尉を案内役として、その他10名のアメリカ人船員の加えた総勢105名を乗せ、咸臨丸は1月19日に浦賀を出港。

そして1860(万延元)年2月26日、無事サンフランシスコに到着したのです。

しかし38日の航海の内34日は時化という辛い航海で、日本人はジョン万次郎を除き殆どは船酔いで苦しみ、勝海舟も艦長としての仕事は何もできず寝たきり状態。

その様子を見た福沢諭吉は呆れ果てた・・・なんて裏話もありましたが、今日はその辺に関してはツッコミません。あせあせ


その後咸臨丸はワシントンに向けて旅立った遣米使節団一行と別れ、再びアメリカ人船員を乗せてサンフランシスコを出港、ハワイを経由して同年5月5日に帰国し、日本の船として初めて太平洋往復を果たしました。

しかしここまでが、咸臨丸の絶頂期。

帰国した直後、対馬に停泊したまま退去しないロシア艦を追い払ったり、その2年後には小笠原諸島の父島・母島の探索に出動するなどしましたが、度重なる酷使により故障が頻発したため1866(慶應2)年には蒸気機関を取り外し、帆船に。

その2年後に戊辰戦争が勃発すると、榎本武揚が咸臨丸(ら数隻)を使って江戸を脱出。

清水港に入港し修理していた時に新政府軍に追いつかれ、乗員の多くは戦死。

この際、遺体を大親分・清水次郎長が手厚く葬ったことは有名です。

その後新政府に接収された咸臨丸は、北海道開拓のため青森-函館間の輸送船として使用されていましたが、1871(明治4)年9月に片倉氏の旧臣約400名を乗せて北海道・小樽に向かう途中暴風雨に遭遇してサラキ岬沖で座礁し、その数日後に破船・沈没してしまったのです。

1984年に沈没地点で錆びた錨が発見され、後に咸臨丸のものであることが発表されました。

そんな数奇な運命を辿った咸臨丸に関して詳しく知りたい方には、この書籍をお勧めします。

 
『幕末軍艦咸臨丸 上・下』

                (文倉平次郎・著 中公文庫・刊)


 


著者の文倉氏(1868-1945)・・・実は作家でも歴史家でもない、古河鉱業に勤めていた会社員。

20歳の時に渡米し、1898(明治31)年に咸臨丸水夫の墓を発見したことを契機に咸臨丸の研究に没頭し、約40年の歳月をかけて、この書物を仕上げました。


まさにライフワーク・・・同書は軍艦の経歴だけでなく、同艦に関わった人々の歴史もよく分かる秀作。 巻末で司馬遼太郎氏が

「踏まえられている資料の洪さ、精細さは驚嘆すべきものがあり、記述は堅牢で、40年間の努力の集成という悲壮さを少しも感じさせないほどに終始科学的な冷静さを保っている」

と激賞しておられます。 

欧米諸国に負けじと頑張った先人たちの活躍を、お楽しみください。扇子




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履 歴

あらゆる商品がクリックひとつで購入できるネット通販・・・利用したことのない方は、今や殆どいないでしょうネ。

重たいものや嵩張る商品も宅配便で自宅に届きますから、便利なことこの上ないですしネ。

かく言う私も、本やCDなど買いたい商品がはっきりしている場合は、わざわざ店に足を運ばず通販で入手しています。

その通販を数日前に利用した際、こんなことがありました。

それは、あるシャンプーを購入した時の事。

私が10年以上前から愛用しているシャンプーは有名メーカー品ではないため、なかなかドラッグストアで手に入らないものなんです。

そこで以前通販でまとめ買いしたのですが、それが最後の1本になったので、また購入しようとそのシャンプーを検索。

幸いにも在庫があったので早速またまとめ買いしたのですが・・・その際、その商品の表示画面に

【お客様は、201〇年〇月〇日にこの商品を購入されました。】      

と表示されたのです。

今まで購入していた本やCDは再購入することはありませんでしたので、この表示は私にとって初体験。

  

(へぇ~、ってことは、1本使うのに〇ヶ月位かかってたんだ~。)

とその時は思ったんですが、クリック・注文してしばらく経ってから、アレッと思ったんです。

確かにサイト内では購入履歴を見られますが、せいぜい5ページくらい。 それ以前のデータは観ることが出来ません。

私の場合は約半年前までなのですが、今回のシャンプーは数年前の購入データ・・・一体通販会社はどれくらい遡ってそのデータを保存しているのか?

ちょっと調べてみたら、どうも通販会社は顧客の購入データを全て保存しており、仮にその顧客が脱会・利用停止しても削除しないんだそうな。

また顧客からそのデータ削除を要請されても、そのデータを削除・消去して後から問題が起きた場合その証拠がなくなるため、通販会社側としては削除しないし、それは個人情報保護法上違法ではないとのこと。


近年、様々な会社で個人データの流出事件が起きていますが、当然この通販会社でそれが起きれば、過去の購入履歴も漏れるってことになります。

う~ん、そうなると今後はいくら便利だからといっても、通販で買う商品は選別しないといけませんネ。

えっ、他人に知られたら困る商品って、ナニを買ってるんだって?

いや、その、あははは~・・・。あせあせ


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近 道

今でこそ東京から地球上の主要都市にはほぼ24時間以内にジェット旅客機で行ける時代になりましたが、昔はもっと時間がかかりました。


日本からヨーロッパに行く場合、1930年代から戦後しばらくの間は東南アジア-南アジア-中東を経由する 『南回りヨーロッパ線』 を飛行。

しかしこの路線は飛行距離が長く時間がかかり、かつ砂漠上空を通過するなど気象条件が不安定で乗員・乗客には不評。

そこで、この路線とは別に北極圏上空を通過する近道路線


 北極ルート


が開発されたのです。

このルート上を一番機が飛行したのが、今からちょうど60年前の今日・1957(昭和32)年2月24日のことでした。

この路線を開発したのは、日本航空・・・ではなく、北欧のスカンジナビア航空。

1951年に初めて日本に乗り入れた同社は、1954年に世界に先駆けて北極ルートを開発してアメリカとヨーロッパを結んだ同社は、同ルートのパイオニアとして最新型旅客機DC-7C(といってもプロペラ機ですが)を導入した日本-コペンハーゲンの北極ルートをも開いたのです。

  
            
羽田空港で行われた一番機の出発式


同日、羽田空港を飛び立った一番機は、やはりデンマークのアクセル殿下・ハンセン首相を乗せてコペンハーゲンから日本に向けて飛び立った一番機と北極圏上空で交差。

その瞬間、機内では最高級のシャンパンが振舞われ、乗客の大歓声が響いたとか・・・。

この新ルートの開発により、それまでの南回りルートに比べ飛行距離約3,750km、所要時間は約20時間も短縮されたそうですから、その効果は絶大。

とは言え、それでもまだ32時間もかかったそうですが・・・。ダメだぁ顔

当然他の航空会社も従来の南回りから北極ルートにシフト。

1996年には日ソ両政府間で航空協定が結ばれ、翌年4月からアエロフロート・日本航空の共同運航便として、モスクワ経由のシベリアルートが開通。

ジェット旅客機のDC-8の導入により、飛行時間は更に短縮。
同様の航路を飛ぶようになったスカンジナビア航空便では、飛行時間が13時間に。

そして1991年にソビエト連邦が崩壊し、ロシア政府が外貨獲得のためにモスクワを経由しないシベリア上空通過を認めるようになったため、現在は各社ともほぼ一直線にヨーロッパに向けて飛ぶ直通便を就航させています。

その航路の変遷は、スカンジナビア航空が作成した下図を見ると一目瞭然。

  


現在、スカンジナビア航空でのコペンハーゲン-成田間の飛行時間は約11時間。

丸1日以上かかった時代を知る方には、隔世の感があるでしょうネ。

早いに超したことはないのでしょうが、アンカレジなどの経由地でお土産を買ったり食事をした時の方が、旅をしたという実感が味わえた・・・そう思う方は少なくないかも。

私自身、40年近く前にブラジル遠征した時は、成田-ニューヨーク-リオデジャネイロと乗り継いでサンパウロまで27時間(飛行時間は約21時間)かかりました。

当時はもっと早くならないかと思いましたが、今となっては良き思い出ですし。


もっとも、ビジネス利用の方には、そんな旅情に浸っている余裕はないでしょうが・・・。あせあせ


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威風堂々

音楽室に肖像画はないけれど、作品は皆が知っている・・・今日は、そんな作曲家

 エドワード・ウィリアム・エルガー
     Edward William Elgar


の命日にあたります。

エルガーは1857年、オルガニスト・ピアノ調律師であり楽器商を営む父ウィリアム・ヘンリー・エルガーの7人の子供の4番目としてイングランドのウスター近郊で生まれました。

音楽家の父から8歳までにピアノやヴァイオリンの手ほどきを受けたエルガーですが、20歳過ぎにアドルフ・ポリッツァーに師事して本格的なレッスンを受けるまでは、自ら図書館の本を読んで勉強するなど、殆ど独学で作曲を学んだといいます。


音楽の勉強をすべくドイツのライプチヒ音楽院への留学を望みましたが、経済的な理由から諦め、地元で事務員として働き始めます。

しかし音楽家になる夢は捨てきれず、結局父の経営する楽器店で働く傍ら、ピアノとヴァイオリンのレッスンを開始。

後に妻となる8歳年上のアリスは、彼の生徒でした。 そのアリスが、日記に


「天才の面倒を見るというのは、いかなる女性にとっても生涯の仕事として十分なものです」

と記している如く、彼女は献身的に夫・エルガーを支え励まし、そのおかげで彼は作曲に専念。

アリスと結婚した1899年に発表した『エニグマ変奏曲』で高い評価を受け、一流作曲家としての地位を築いた彼は、その後オラトリオ『使徒たち』(1903年)、オラトリオ『神の国』(1906年)、交響曲第1番(1908年)、ヴァイオリン協奏曲(1910年)、そして交響的習作『フォルスタッフ』(1913年)などを次々に発表し、名声を確固たるものに。                                             

         

その功績を称えられ、1904年にはナイト、そして1931年には准男爵に叙せられ、1924年からは国王の音楽師範を務めました。


しかし1920年にアリスに先立たれると、彼の創作意欲はめっきり減退。
晩年は自ら指揮棒を振って作品の録音などをして過ごし、今から83年前の今日・1934年2月23日・・・大腸がんにより76歳でこの世を去りました。

・・・と、ここまでお読みいただいてもも、「結局、どんな人?」とビンと来ない方が多いことでしょう。

まだ最もポピュラーな彼の作品をご紹介していませんから。

それは、今日のタイトルにした、『威風堂々』。

これは決して小品ではなく、1901~30年までに順次書き上げられた第1~6番からなる作品。(※6番は未完成)

有名なのは、第1番(の中間部)なのですが、これはイギリスの第二国歌として扱われる名曲。

原題はシェイクスピアの戯曲 『オセロ』 から取った“Pomp and Circumstance ”(飾りと立派)ですが、これを 『威風堂々』 と意訳した日本人のセンスは、素晴らしいの一言。

それでは、音楽家としては珍しく良妻に恵まれたイギリスを代表する作曲家の冥福を祈りつつ、この荘厳たる名曲(第1番)を、地元BBC交響楽団の演奏でお聴きください。



国歌は、国民が誇りをもって国旗を振りつつ熱唱する・・・それがどこの国でも当たり前なんですョ、左翼の皆さん。うー


             

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銀 髪

〝奇才〟というと、ピカソや岡本太郎氏が該当すると思いますが、この方も確実にその仲間入りをするでしょう。

今日は、アメリカが生んだ20世紀最高のマルチ・アーティスト・・・画家・版画家・映画制作や音楽プロデュースを手がけたポップアートの旗手、


 アンディ・ウォーホル 

      Andy Warhol


の命日・没後30周年にあたります。


  


1928年にピッツバークで敬虔なカトリック教徒である(チェコ)スロバキア人の両親の間に生まれたウォーホルは虚弱体質だったものの、早くから芸術の才能を発揮。

14歳の時父親を亡くしたものの大学まで進学し広告芸術を学び、卒業後はニューヨークに出て、早くから商業デザイナー・イラストレーターとして活躍。 


しかし1960年からはイラストレーシュンの世界から、ポップアート (※大量生産・大量消費社会をテーマとして表現する芸術活動) へと移行していきます。            


1961年に発表したキャンベル・スープ缶をモチーフにした作品を発表。


以降マリリン・モンローや毛沢東主席などの世界的有名人を題材にした作品を世に出していきます。


同じ絵柄で色違いのものが幾つも並ぶ作品・・・殆どの方が見た経験があると思います。


   ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-モンロー


彼は自らのアトリエ・スタジオを〝ファクトリー〟と呼び、シルクスクリーン技法※版材に絹(現在はナイロン・テトロンなどの素材)を使用した版画・印刷技術のひとつで、昔流行った『プリントごっこ』は同じ原理を利用】を用いたことも大きな特徴でした。


1968年、ファクトリーの常連だったパレリー・ソラナスという女性に拳銃で撃たれ瀕死の重傷を負うものの、奇跡的に一命をとりとめます。 


その後も多くの作品を残しましたが、1987年の2月22日・・・前日の胆嚢手術から容態が急変、58歳で帰らぬ人となりました。


        

「アンディ・ウォーホルについて全てを知りたいなら、僕の絵と映画、僕の表面を見るだけでいい。 そこに僕がいる。 裏には何もない。」


「現代では、人は誰でも15分間は有名でいられる。」


等々、ユニークかつ印象的な語録を残したウォーホルは、公言はしなかったものの同性愛者であり、生涯独身。

トレードマーク(?)の銀髪はカツラでした。


ただひたすら8時間、眠る男を取り続けた映画・『Sleep』 を撮影するなど、独特な感性を持っていた彼の作品は、これから100年・200年先・・・どういう評価を受けるのでしょうか?


皆さんは、彼の作品から何を感じ取るのでしょう?


私は・・・う~ん、よぅ分からん。ダメだぁ顔




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秘蔵っ子

先日、CSのクラシック音楽専門チャンネルをBGM代わりに流しっぱなしにしてPCでブログ記事を書いていたら、大変美しいヴァイオリンの旋律が・・・。

思わずキーボードを打つ手を止めて画面を見たら、この女性が弾いていました。



美しい顔立ちを見て、私はピンッときました。

「あっ、アンネ=ゾフィー・ムターだ。 懐かしい~!」

そう、クラシック音楽ファンならご存じの通り、彼女(Anne-Sophie Mutter)は嘗てあの〝カラヤンの秘蔵っ子〟と言われた天才ヴァイオリニスト。

1963年にドイツのバーデンで生まれた彼女は、5歳からピアノを始めて半年後にヴァイオリンに転向。

その才能を見込まれて学校教育を免除(!)された彼女は、9歳で地元オーケストラと協奏曲を演奏、13歳の時にルツェルン音楽祭でデビュー・リサイタルを行い成功を収めます。

その神童ぶりを耳にしたカラヤンが、彼女をベルリン・フィルのオーディションに招待。

当初彼は長時間聴けないと前もって断っていたそうですが、ムターの奏でるバッハのシャコンヌに心を奪われ、席を立てなかったそうな。

そのカラヤン/ベルリン・フィルと14歳の時にザルツブルグ音楽祭で協演したことで、ムターは彗星のように現れた天才少女として世界にその名を知らしめました。

  

その後もカラヤン/ベルリン・フィルと協演したレコードが発売され、1980年にはアメリカ・デビューを果たしましたが、個人的には1989年にカラヤンが亡くなった後に彼女の演奏を聴く機会はなくなっていました。

ですから先日彼女の姿を目にしたのは、実に20年近くぶり。

あの可愛かった少女時代とは違い、すっかり大人の魅力と貫録を身に着けた彼女の演奏は、女性らしい柔らかな音色の中にも一本鋼の芯が通っているような素晴らしいものでした。

私はこの時流れていたブラームスのヴァイオリン・ソナタ集(写真右)、更にモーツァルトのヴァイオリンソナタ集。(写真中)

更に自ら指揮も務めたモーツァルトのヴァイオリン協奏曲全集(写真左)も購入し、あらためてじっくり聴いてみました。


※彼女が指揮・演奏するモーツァルトのヴァイオリン協奏曲の映像を、こちらでご覧いただけます。(↓)
 https://www.youtube.com/watch?v=ETXPKHPPov8&t=272s


う~ん、イイですねェ~。 
さすが〝ヴァイオリンの女王〟と言われるだけのことはあります。

ムターはカラヤンの強い引きがあってスターダムにのし上がった・・・と私は思っていたのですが、意外にも彼女はカラヤンの素顔を殆ど知らないのだそうな。

「知っているのは、指揮をしている時のカラヤンだけ。

でも徹底的にリハーサルを繰り返す彼からは、 決して妥協しないこと。 そして常に一歩上のレベルを目指すことを教わった。」

と言います。 それを忠実に守ってきたからこそ50歳を過ぎた今でもムターは輝き続け、指揮や現代音楽への挑戦を続けているのでしょう。

2丁所有しているストラディヴァリウスを駆使し、これからも美しい音色で人々を魅了し続けてくれるはず。

元・天才少女、そして現在は2人の子供の母であり、ますます円熟味を増す美貌の名ヴァイオリニストに、再注目したいと思います。笑2


     


 


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倒 壊

世の中では不思議な事件・事故が起きますが、これも間違いなくそのひとつ。


今から19年前の今日・1998(平成10)年2月20日、四国の山中で起きた


 坂出送電塔倒壊事件

香川県坂出市坂出町の聖通寺山の斜面に建てられていた、四国電力所有の高さ73mの鉄塔が、突然根元から折れて山側に倒れるという、信じ難い事件でした。


    

幸い死者・負傷者はいなかったものの、周辺の約17,000世帯が停電し、近くの臨海工業団地等の工場などが操業停止に追い込まれ、信号機約60基も停止。

関連して約9,000戸のガス供給も止まり、更に坂出発電所も発電機が自動停止し、約46時間発電不能に。

更に鉄塔の倒壊により高圧線が垂れ下がり、下を走る瀬戸中央自動車道が6時間近く一部通行止めになるなど、地元は大迷惑を被りました。

この復旧作業に、四国電力は約19億円も要したそうですが・・・警察の捜査により鉄塔の台座部分のボルト80本の内76本が人為的に抜き取られたことが原因と判明。

       
                 
※画像はイメージ

しかし当初この倒壊は落雷などの自然災害か施工ミスと考えられ、四国電力の作業員が現場の保存をせず即刻復旧作業に取り掛かるなどしたため、証拠が殆ど残っておらず、県警に本部が設置されたのが事件から3日後と後手に回り、捜査は難航。

結局犯人の特定には至らず、電気事業法違反・威力病務妨害罪・器物損壊罪等全てに関して5年後に公訴時効を迎え、事件は実質的に〝お宮入り〟。

この事件後資源エネルギー庁が各電力会社に防止策を指示し、その後ボルトの溶接やコンクリートで固めるなどの対策が為されました。

さて、こんな大それたことを仕出かした犯人は誰か? そして、その動機は?

これについては、諸説あります。

 ① 国際テロリスト犯行説
 ② 四国電力の施工ミス隠蔽策謀説
 ③ 愉快犯
 ④ 四国電力に対する怨恨説


なんで①が・・・と不思議に思いますが、実はこの事件の1週間前に、アメリカ・ニューヨーク州で同様の手口で高圧電線の鉄塔倒壊事件が起きており、これに関連して出た説。

しかしアメリカはともかくも、国際テロリストが日本のしかも四国の山中まで来るのか? 個人的には疑問。

また②に関しては、もしそうだとしたら利用客に迷惑をかける偽装工作をするとは考えられず。

③についても、罪の重さと被害の大きさからは、ちょっと考えにくい。

・・・ということで、個人的には④の怨恨説を支持します。

ただ、ちよっと気になる事件が、この5年後の2003(平成15)年5月に、やはり香川県内で起きているのです。

それは高松市で防災行政無線中継局の鉄塔のボルトが抜き取られた、『五色台電波塔倒壊未遂事件』。

この事件に関しては、ある団体の報道を中止しろという警告文が朝日新聞高松支局に届き、その警告文に従って鉄塔を捜索したところ、実際にボルトが抜き取られていたというもの。

幸い倒壊は免れましたが、この事件に関しても犯人は特定・逮捕されず仕舞い。
2つの事件に関連性はあるのかどうかも、分かっていません。

しかし鉄塔の強度・構造を熟知し、あと少しの風で倒壊するような微妙なボルト抜き取りができる人間など限られると思うのですが・・・なぜ犯人の特定ができなかったのか?


動機も捜査過程も謎の多い、不思議な事件ではありました。

最近政府与党は『
共謀罪』の成立を目指し、左翼政党・メディアは盛んに反対を唱えていますが、私はこのようなテロ行為が起きる前にその犯人を取り押さえる法律は絶対に必要だと思います。

皆さんは、どう思いますか?



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義 憤
民間人からは、とかく評判の良くない公務員。

しかし過去には、その民間人のために命がけで反乱を起こした(元)役人もいたのです。

その人物が、今からちょうど180年前の今日・1837(天保8)年2月19日に大阪で起こしたのが


 大塩平八郎の乱


日本史で習った記憶がある方も、多いと思います。


大塩平八郎は1793(寛政5)年生まれ。 

大塩家は代々与力を務めた役人一家で、彼自身も8代目の与力となります。


陽明学を学ぶ儒学者であった彼は、非常に謹厳実直かつストイックな性格の持ち主だったようで、奉行所内の不正・汚職を数々内部告発し市民から尊敬される存在だったとか。


しかし (当然のことながら) 奉行所内で煙たがられていた彼は1830年、理解ある上司であった東町奉行・高井実徳が辞任すると後ろ盾がいなくなったことで与力の職を辞し、かねてより自宅で開いていた私塾の経営に専念します。


それから数年後に日本中を襲った天保の大飢饉によって庶民が日々の食糧に困窮する中、大塩は人々の救済を奉行所や豪商に訴えるも無視されたため、彼は自らの蔵書数万冊を全て売り払って600両以上の資金を作り、救援資金に充てたといいます。


    大塩平八郎


しかし当時の東町奉行・跡部良弼 (老中・水野忠邦の実弟) が、買い上げた米を庶民のために使わず新将軍の座に就いた徳川家慶に献呈するに及び、遂に武装蜂起を決意。


(迷惑がかからぬよう)妻と離縁し、銃器を買い付けるなど着々と準備にかかります。


そして江戸幕府に告発状を送り、檄文を市中に撒いて蜂起への参加を促した上で奉行の跡部良弼らを爆死させる計画を立案。


しかし決行予定日の2月19日未明に、内通者が奉行所に通報。


やむなく夕刻に予定していた爆弾テロを諦めた大塩は、同日朝から自宅に火を放ち約300人の町人と共に豪商を襲撃。

しかし所詮は素人集団の悲しさ・・・半日程で幕府軍に鎮圧されてしまいます。


大塩は養子・格之助と共に大阪近郊に潜伏、江戸へ送った訴状の効果を期待しました・・・が、何と肝心の訴状は飛脚によって捨てられ、更にこれを拾った者が箱根の関所に届けたため江戸城にもたらされることはありませんでした。


結局潜伏先も密告により奉行所の知るところとなり、取り囲まれた大塩は自ら爆死。 


遺体は顔の判別すらできない状態だったといいます。


教科書では数行で簡単に扱われていたこの反乱ですが、実は後世に大きな影響を与えました。


彼の書いた檄文はその後密かに書写され全国に出回り、新潟・柏崎での 『生田万の乱』 など〝大塩門弟〟・〝大塩残党〟と名乗る者が各地で騒動を起こすキッカケに。


現代に置きかえると、公務員たる元警察幹部が騒乱罪の首謀者となったこの事件は、幕府にとっては大きな衝撃だったようです。


そして大阪の1/5を火の海にしたにもかかわらず、〝大塩様〟 と人々から圧倒的に支持されていたこともあってか、幕府が残党らを即時に磔などの処罰をしなかったことで大塩生存説など様々な噂が立ち、結果幕府の権威は著しく失墜。


もしこの時代にインターネットやYouTubeがあったら、この騒動は一気に全国に広まり、大きな倒幕運動に発展したことでしょう。


 「公務員が止むに止まれず行動を起こした」 という意味では、かつての尖閣諸島・中国船衝突事件における海上保安官・一色正春氏の〝ビデオ流出騒動〟と似ている気もします。

※一色氏は、現在もFBで情報発信・主張をしておられます。(↓)
  https://www.facebook.com/masaharu.isshiki?fref=ts


江戸幕府はこの反乱から30年後に倒れ、また民主党政権はビデオ流出から2年で崩壊し同党は再び野に下りました。

義憤には、世の中を変える力があるのです。
扇子

 


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