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おやじギャル

今や、日常的に使われている〝おやじギャル〟という言葉・・・皆さんは、この単語のルーツを憶えていらっしゃるでしょうか?

今日は、この新語の生みの親である、漫画家の

 中尊寺 ゆつこ さん

の命日・十三回忌にあたります。



        

中尊寺さんは、1962年の横浜生まれ。

〝栴檀は双葉より芳し〟と言いますが、彼女は早くも小学生時代に漫画の上手い少女としてテレビに紹介され、更に14歳まで少女モデルとして活躍。

高校在学時から女性ロック歌手ケイト・ブッシュの日本でのファン・クラブ会長を務め、会報の編集・発行を手掛ける一方で、駒澤大学法学部在学中は自らバンドを結成してソノシートを売り出すなど、まさにアクティブな才女でした。

大学卒業後は就職せず、1987(昭和62)年に 『週刊漫画アクション』 と 『ビジネス・ジャンプ』 の新人賞に応募して入選し、漫画家として活動を開始。

ペンネームは、本名(藤原幸子)の姓から奥州藤原氏→平泉→中尊寺で、そして名は幼少時からのニックネームをそのまま転用したもの。

そして1989年から 『SPA!』 誌上で連載が始まった、OLを題材にした漫画 『スイートスポット』 で冒頭の新語が誕生したのです。


            

これがいかに流行ったかは、翌1990年の新語・流行語大賞で新語部門の銅賞を受賞したことで証明されています。

1993年から2年間渡米して英語を勉強し、アフリカなどを外国を題材にした漫画を手掛け、帰国後はテレビでコメンテーターも。

更に2004年には日本総領事の招きでカーター元大統領と会見したり漫画に関する講演を英語で行うなど、精力的に活躍の場を広げた彼女を、突然の病が襲います。

同年8月に激しい腹痛を訴え病院に搬送された彼女に告知された病名は、S字結腸癌。

「そんな病気には負けないワ」と、2度の手術を受けながらも周囲には病名を隠して仕事を続けてていた彼女でしたが、告知から半年も経たない2005年1月31日・・・42歳の若さで天国へと旅立ってしまいました。


音楽ジャーナリストのご主人と、2人の子供を残して・・・。

残念だったのは、その後ご主人と実母の間で遺産・遺骨を巡って裁判沙汰になったこと。

生前彼女はご主人とは横浜の自宅に同居しながら、仕事場は母親の住む実家だったとか。

そしてご主人には「母の言うことは無視して」と言いながら、母親には「実家の墓に入りたい」とも・・・どうしてそんな矛盾したことを言ったのか?

もしかしたら、双方の顔を立てようとする彼女なりの心配りだったのかもしれませんが、それが結果的に骨肉の争いを引き起こしてしまいました。

結果的にご主人側が勝訴したそうですが、お互いにスッキリはしないでしょう。

そして何よりゆつこさん本人が天国で心を痛めたことでしょう・・・が、こういう話は、決して対岸の火事ではないですネ。

〝他山の石〟としなければ。

あらためて、オヤジギャルの生みの親のご冥福をお祈り致します。笑3


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超 訳

皆さんは、アメリカで〝ミスター・ベストセラー〟と呼ばれている作家が誰か、ご存知でしょうか?

おそらく中高年の方なら、名前を聞けば 「あぁ、あの!」 と思い出すはずですが・・・今日はその


 シドニー・シェルダン
    Sidney Sheldon

の命日・没後10周年にあたります。


        

1917年、イリノイ州シカゴでユダヤ系の両親の間に生まれたシェルダンは、17歳の時に躁うつ病で自殺未遂の経験があったとか。

それを乗り越え20歳から数年間ハリウッドの映画産業に関わると、第二次大戦中兵役に就いた後、ブロードウェイで劇作家に。

またテレビ・映画の脚本も手掛け、1947年には『独身者と女学生』でアカデミー脚本賞を受賞しています。

 


その彼が小説を書き始めたのは、1969年から。

第1作目の『顔』(The Naked Face )はいきなりアメリカ探偵作家クラブ主催のエドガー小・処女長編賞のノミネートされるなど数々の賞を受賞。

そして2作目の『真夜中は別の顔』(The Other Side of Midnight ) はニューヨーク・タイムズでベストセラーに選出されるなど、いきなり一流作家の仲間入り。

そして彼の名が日本で一躍有名になったのは、おそらく1982(昭和57)年に『ゲームの達人』(Master of the Game )が出版されてから。

         

この時話題になったのが、本の表紙にも記載されている〝超訳〟でした。

私は初めて聞く単語でしたが、それもそのはず・・・これはこの本の出版元・アカデミー出版の天馬隆行社長が考え出した造語。

これは原作を忠実に翻訳するのではなく、作者の意図を尊重しつつ日本語独特の語感を損なわないような翻訳で、時には文章の順番をも入れ替えるという、かなり大胆な翻訳のこと。

言ってみれば、〝意訳を超えた翻訳〟ということでしょうか?

この造語は登録商標で同社のみが使える言葉だそうですが、この〝超訳〟が功を奏したのか、同書は上・下巻合わせて750万部を売る大ベストセラーに。

一昨年、漫才師の又吉直樹さんが書いて芥川賞を受賞し話題となった『火花』が約240万部だったそうですから、その人気ぶりが分かります。

 

これだけ売れたのですから、おそらく皆さんの中にもお読みになったことがある方が多いはず。

また本を読まずとも、この作品をはじめ 『血族』・『女医』 とテレビドラマ化された作品もありますから、全く彼の作品に触れていない方は少ないでしょうネ。

えっ、オマエは読んだのかって?

はい、もちろん・・・ただ天邪鬼の私は、その超訳ってのに抵抗感があり、原書を取り寄せて読みました。

 

     


しかし如何せん私の拙い英語力では、〝一度表紙に触れたら、手にくっついて離れない〟と言われる程の面白さは実感できず。

読み終わるのに2ヶ月もかかってしまった苦い思い出が・・・。ダメだぁ顔

その後もベストセラー作品を発表し、累計3億冊以上売った彼が90歳の誕生日を直前に控えて肺炎による合併症で天に召されたのは、2007年1月30日のこと。

彼はこの世から去りましたが、彼の作品は永遠に残ります。


もしまだ読んでいない方がいらっしゃいましたら、是非一度お読みになってください。

あらためて20世紀を代表するベストセラー作家のご冥福をお祈り致します。笑3

   
 

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文 豪

〝日本の文豪といえば、誰?〟と問われたら、皆さんはどう答えるでしょうか?

もちろん複数の作家の名が挙がると思いますが、私なら確実にこの方を入れるでしょう。

 井 上  靖 

今日は、この昭和時代を代表する小説家の命日・二十三回忌にあたります。


          


井上氏は1907(明治40)年に現在の北海道旭川市に軍医の長男として生まれました。

翌年父親が朝鮮に派遣されたため、靖氏は母親と共に彼女の郷里・伊豆湯河原に転居し、13歳までそこで過ごすことに。

一旦帰国した父がまた台湾に転勤したため、靖少年は親戚に預けられ両親と離ればなれの生活・・・これが続いたことが影響してか、靖少年は相当なヤンチャに。

寄宿舎生活時には、舎監を追い出す暴挙に出たこともあったとか。

金沢の第四高等学校(現・金沢大学)時代には柔道に打ち込み主将としてチームをインターハイ出場に導きましたが、しかし一方で教師らの影響で文学にも傾倒。

高校卒業後は北陸四県の詩人が拠った誌雑誌 『日本海詩人』 に投稿するなど詩作活動に入った彼は、九州大学英文科から1932年に京都帝国大学・文学部哲学科に転籍するも、授業には殆ど出席せず東京の同人誌や詩人仲間と交流。

その割には京大在学中に、同大教授のお嬢さんとしっかり結婚はしているのですが・・・。

1936年に大学を卒業すると、『サンデー毎日』 の懸賞小説に入選(千葉亀雄賞)したことが縁で毎日新聞大阪本社に入社し学芸部に配属。

召集され出征したものの、脚気により僅か数ヶ月で除隊し学芸部に復帰。

(当時、部下に山崎豊子氏がいたそうな。)

戦後、人の勧めで詩から小説に転向すると、1950(昭和25)年には早くも『闘牛』で芥川賞を受賞し、これを機に新聞社を辞職して作家に専念。

新聞・週刊誌の連載小説ブームに乗って次々とヒット作を連発しました。


1964年に日本芸術院会員、1976年に文化勲章受章、1981年から4年間日本ペンクラブ会長を務めるなど、昭和の日本文学界を牽引した大作家が急性肺炎によりこの世を去ったのは、1991(平成3)年1月29日のことでした。

ただひとつ残念だったのは、井上氏がノーベル文学賞を獲れなかったこと。

ご本人も意識していたようで、ノーベル賞を逃した夜は、「ノーメル賞だ」 と言って知人らに酒をふるまったそうな。


そんな井上文学に私が最初に触れたのは、おそらく中学の教科書に掲載されていた短編小説の『楼蘭』

大国に挟まれた小国の運命を綴ったこの作品から、私はシルクロードへの憧れを募らせたものでした。

そして自ら本を買って読んだのが、『氷壁』

ナイロンザイルがなぜ切断したのか? その謎を追う小説を、ドキドキしながら読んだことも憶えています。

     

残念ながらその後受験勉強に追われ、井上作品とはすっかり縁遠くなりましたが、氏の作品は映画の原作として多く用いられ、『氷壁』をはじめ『天平の甍』・『敦煌』・『風林火山』・『千利休 本覺坊遺文』・『おろしや国粋夢譚』等々多数に上ります。

その映画の複数の作品は海外の映画祭で入賞を果たしていることが、いかに原作がしっかりした作品であるかを立証していると言えましょう。

学生時代に読んだ作品をあらためて読み返してみても、何ら色褪せることはありませんでしたし・・・。

今後井上氏の未読作品に触れることを誓いつつ、昭和の文豪のご冥福をあらためてお祈り致します。笑3


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悪 法

皆さんは、徳川幕府の第五代将軍・徳川綱吉(1646-1709)と聞くと、どんなイメージをお持ちでしょうか?

ちょっと歴史をかじった方なら、あの忠臣蔵で赤穂浪士四十七士に切腹を命じた当事者と仰るかもしれませんが、多くの方は

 生類憐みの令

を命じた将軍として記憶されていることでしょう。

歴史の授業では必ず習うでしょうし、教師によっては人々を苦しめた〝天下の悪法〟と教えるかもしれないこの法令が、なぜ発布されたのか?

この理由については、嫡男・徳松が1683年に僅か5歳で夭折してしまい、以後跡継ぎが出来なかったことに悩んだ母・桂昌院が隆光僧正の勧めで発布したという俗説が。


しかし綱吉はこの隆光僧正との交流が始まる前から殺生嫌いだったといわれ、この説に信憑性はなし。

また綱吉が戌年生まれのため特に犬を保護した・・・等々の諸説がありますが、はっきりしていません。

         徳川 綱吉


また彼自身、後に〝犬公方〟などと呼ばれましたが、決してこの法令は最初から犬を保護するために1回だけ出されたものではありませんでした。


まず最初は1685(貞享2)年2月『みだりに鳥銃を放つことを禁じ、逮捕人・訴人には賞金を与える』という御触れが。

続いて同年7月、『将軍御成りの節、犬や猫を出していてもかまわない、犬猫を繋ぐことは無用とすべし』 という法令が出され、11月には鳥類・貝類・エビなどの料理を禁止に。

そして今からちょうど330年前の今日・1687(貞享4)年1月28日には重病の牛・馬を捨てることを禁止するなど、牛・馬に猫・魚介類にまで保護の範囲を広げたのです。

これを実質的な生類憐みの令の
発布とする学説もありますが、以後綱吉が没するまで23年間にわたり 『犬・猫・鼠に芸を覚えさせて見世物にすることを禁止する』 など、約60回も追加布告がなされたそうな。

当初は 『殺生を慎むべし』 という道徳的な趣旨だったそうですが、これを守らない人々が多かったため徐々に内容が厳しくなり、保護対象(?)が犬はおろか猫・鳥・虫の類までに及び、犬を虐待した者を密告した場合には賞金を出すまでにエスカレート。

その間、実際に禁を咎められ死罪や遠島になったお武家さんもいたそうな。

更に在位中起きた元禄の大飢饉(1695~6年)では、餓死者が続出する中で (現在の中野サンプラザ近くに作った小屋に収容された) 8万匹の犬には十分な食糧を与えるという本末転倒ぶり。


これでは人間様は堪ったものではありません。

※ただしこの法令は全国一律に公布されたものではなく、実際には江戸・大坂および幕府直轄地等一部地域でのみ適用されたようです。


この政令は綱吉の死後、即座(葬儀の2日前)に廃止されたそうですが、江戸ではそれまでの鬱憤を晴らすように犬を蹴飛ばす町民が続出したとか。

まぁ、その気持ちは分からぬでもありまぜん。


生類憐みの令に関して詳しく知りたい方には、こんな本がオススメ。

  『生類憐みの令』 (板倉聖宣・著 仮説社・刊)

        

この本は通常の歴史本とは違い、小・中学生の授業に使用できるよう作られ、歴史を通して子供たちに道徳と政治について考えさせる教材といえるもの。

なかなか良く出来ていますョ。


しかしこの政令・・・よくよく考えてみると、現在の 『動物の愛護及び管理に関する法律(動物愛護法)』 に似ているんですょネ。


同法第27条はには、こう記されています。


① 愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、1年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処する。


② 愛護動物に対し、みだりに給餌又は給水をやめることにより衰弱させる等の虐待を行った者は、30万円以下の罰金に処する。


③ 愛護動物を遺棄した者は、30万円以下の罰金に処する。


④ 前③項において「愛護動物」とは、次の各号に掲げる動物をいう。

 1.牛、馬、豚、めん羊、やぎ、犬、ねこ、いえうさぎ、鶏、家鳩及びアヒル

 2.前号に揚げるものを除くほか、人が占有している動物で哺乳類、

   鳥類又は爬虫類に属するもの


その当時とは違い、さすがに犬を虐待死させたら打ち首なんてことはありませんが、逆に
ペットにはヒレ肉などの上質な餌を与えてブランド物の服を着せ、亭主のお小遣いは1日500円だけ・・・な~んて元禄時代そのままのご家庭、全国に散在しているんでしょうネ。うー


犬公方も、もしペットが大事にされる現世に在りせば〝名君〟と言われたかも・・・彼は生まれるのが、300年ほど早過ぎた?



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犠 牲

中高年世代の方なら、〝アポロ計画〟のことはご存知でしょう。

1969(昭和44)年7月には11号が人類初の月面着陸に成功し、その中継を観ようと日本国内ではカラーテレビが飛ぶように売れjました。

更に翌年開催された大阪万博では、持ち帰られた〝月の石〟が展示され、それを一目見ようとアメリカ館には長蛇の列が出来たものです。

まさに20世紀を代表する宇宙計画でしたが・・・その成功の陰には少なからぬ犠牲が払われていました。

今からちょうど50年前の今日に起きた

 アポロ1号火災事故

が、その最たる事例と言えましょう。

第二次世界大戦後の冷戦下、宇宙開発競争でソ連と鎬を削っていたアメリカは、ケネディ大統領が1961年に

「1960年代中に、人間を月に到達させる」

という演説をぶち、この実現のために練られたのがジェミニ計画を引き継いだアポロ計画。

その第一段階である、G・グリソム船長(写真中央)E・ホワイト副操縦士(同左)、R・チャフィー飛行士(同右)の3人が搭乗するアポロ1号の打ち上げが1967年2月21日に予定されていました。

      

しかし、月到達を大統領の公約通り実現させるために計画はかなり速足で進められ、当然現場では度重なる設計変更など様々な障害が発生していました。

そして発射予定日の約1ヶ月前の1967年1月27日・・・ケネディ宇宙センター34番発射台で行われた予行演習中に、司令船内で火災が発生。

乗り組んでいた3名の宇宙飛行士全員が死亡し、司令船も焼失する事態となりました。

      

NASAは調査委員会を設置し原因の調査に乗り出しましたが、飛行士たちが死亡したのはハッチが内部から開かなかったことが判明したものの、結局複数の要因が重なったものと公表されるに留まりました。

当然アポロ計画に対して懐疑的な世論も噴出しましたが、技術陣や幹部は計画を中止せずそのまま推し進めました。

それは大統領の公約を守るためもあったでしょうが、大きかったのは飛行指揮官ジーン・クランツの熱意と決断力でした。

         

                 Gene Krantz

彼は事故から3日後の1月30日、部下を管制室に集めて檄を飛ばします。

「今日以降、管制室は二つの言葉で知られることになるだろう。

“Tough and Competent. ” (タフかつ有能であれ )だ。


タフとは、自分のしたことや失敗について常に責任を持つということだ。 自分の責任について妥協することは決してあってはならない。

有能であれとは、あらゆるものをそれが当たり前だと思ってはならないということだ。


管制室は完璧でなければならない。 今日、この会議が終わって事務室に帰ったときに君たちがまず第一にしなければならないのは、この言葉を黒板に書くことだ。


書いたら絶対に消すな。


毎日部屋に入るたびに君たちはこの言葉を目にして、グリソム、ホワイト、チャフィー3人の尊い犠牲を思い出すだろう。


この言葉が、管制室の仲間たちへの入場料になるのだ!」

これに奮起した部下たちが、その後11号の月面着陸を成功させ、ケネディ大統領の突拍子もない言葉を現実化させたのです。

ところで、上のクランツ指揮官の名前と写真・・・どこかで見覚えがありませんか?

そう、映画『アポロ13』(1995年公開)でエド・ハリスが演じたのが、このクランツその人。

           


よく似ていますが、この映画の中でもクランツはトラブルで地球に帰還できるかどうかの瀬戸際で、部下に対して

failure is not an option.”


つまり 「失敗することは考えるな!」 と鼓舞していました。

大きな事を成し遂げるためには、トップの求心力と部下を動かす熱意と言葉が不可欠である・・・半世紀前に犠牲となった3人の宇宙飛行士の冥福を祈ると共に、あらためて胸に刻みたい教訓です。笑3


                  

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善 戦

中高年世代の相撲ファンならご記憶でしょう。

端正な顔立ちと188cmの長身と140kgという立派な体躯を持ち合わせた人気力士、


 蔵 間 

のことを。 今日は彼の命日・・・早いもので二十三回忌にあたります。


1952(昭和27)年に現在の滋賀県野洲市に生まれた蔵間竜也(たつや)少年は、小さい時からスポーツ万能。

水泳・ラグビー・柔道と多種目で活躍し、特に大柄な身体を生かした柔道ではそこそこの稽古で2段に。

たまたま地元講道館の支部長が当時の時津風親方(元横綱・双葉山)の知人だった縁で紹介され、彼は八幡高校を中退して角界入り。

(自称)〝双葉山最後の弟子〟となった彼は、1968年九月場所に初土俵を踏むと、順調に番付を上げていき、1975年5月場所で十両入りし関取となると、翌年七月場所に新入幕。

端正な顔立ちで人気を博し、大柄で筋肉質の身体は相撲ファンの期待を集めました。

私自身もちょうど熱心に相撲を観ていた時期で、蔵間関に期待していた一人でしたが、実は彼の大ファンだったのが昭和天皇。

天覧相撲の際、説明役の春日野理事長に 「蔵間は、どうなの?」 とわざわざお尋ねになったそうで、理事長はその際に 「大関になります」 と太鼓判を押したとか。

それだけ期待が大きい逸材だったことは、確かでしょう。

         

しかし彼の幕内時代は、上に北の湖関や千代の富士関など強い力士が目白押し。

加えて彼自身も勝負に淡泊で、粘りながらも勝てない・・・常に勝ち越しギリギリという戦績が続き、ついた渾名が1970年代にテレビで人気となったキャラになぞらえて〝善戦マン〟。

1978年に10勝したのが最高で、あとは鳴かず飛ばず・・・贔屓にしていた昭和天皇が、再び天覧相撲の際

「蔵間、大関にならないね。」

とがっかりされ、それを聞いた春日理事長が

「私は陛下に嘘を申し上げました」


と平身低頭で謝罪した、なんて話も。

その直後蔵間本人を理事長室に呼んで厳しく叱責・・・まぁ蔵間関にすれば、とんだとばっちりだったでしょう。

結局関脇が最高位で、昭和天皇が崩御された1989年に十両で引退。

確かに腰痛という持病に苦しめられたこともありましたが、おそらく生まれながらにして恵まれた運動神経と体躯、そして美男子と三拍子そろっていた彼には、「なにくそ」 と心中期すようなコンプレックスがなかったことが、伸び悩む原因だったのかもしれません。

通算765勝787敗25休、勝率が5割を切る.493。

現役126場所で全勝が1場所もなかったことが、それを端的に表しているといえましょうか?

そして屈曲な体躯の持ち主だった彼を、白血病が襲います。

引退直前の健康診断で慢性骨髄性白血病と診断された彼は、引退後年寄・錣山を襲名したものの病気のため翌年には廃業。

その後はタレントに転身し、大相撲のコメンテーターとしてニュース番組に出演していましたが、なぜか彼の優勝予想は全く当たらず。

現役力士から、「頼むから名指ししないでくれ」 と泣きつかれたといいますから、その外し方の凄さがわかります。あせあせ

しかしその裏で病状は静かに進行し、
骨髄移植を検討し始めた矢先の1995年1月上旬に急性に転化し緊急入院。

そして阪神淡路大震災が起きた9日後の1995年1月26日、多臓器不全でこの世を去ってしまいました。

まだ42歳という若さで・・・。

土俵上では善戦したのに、病気との戦いでは簡単に土俵を割ってしまったことが、何とも皮肉というか残念至極。


しかし亡くなる数日前に録音したという遺言に残された、

「誰からも同情されたくはなかった」

という言葉には、勝負師としての意地が感じ取れます。

あらためて昭和時代を代表する二枚目力士のご冥福をお祈り致します。笑3


                  

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スカーフェイス
皆さんは、アメリカ中西部の大都市・シカゴに縁のある人物は?  と聞かれたら、誰の名前を挙げますか?


私なら、シカゴ・ブルズのスーパー・スター、マイケル・ジョーダンと答えますが、年配のアメリカ人だったら、この名をあげる方が多いかもしれません。


 アルフォンス・ガブリエル・カポネ

    Alphonse Gabriel Capone  


そう、Scarface (顔の向こう傷) というあだ名で恐れられ、20世紀前半のシカゴを仕切ったギャングの大ボス、通称アル・カポネ・・・今日は彼の命日・没後70周年にあたります。


1899年、ニューヨーク・ブルックリンにイタリア移民の子として生まれたカポネは、小学校7年生の頃に担任の女性教師とケンカしてから学校に行かなくなり、タチの悪い店に出入りするように。


地元の顔役に気に入られ、バーテンダーとして雇われたことから本格的(?)なワルの世界に足を踏み入れますが、20歳前後の時にイザコザもあってシカゴへ。


そこでニューヨーク仕込みの手練手管で出世を重ね、26歳の時にボスの引退によりシマを譲り受けて組織のトップに立ちます。


酒の密売などで莫大な利益を手にしたカポネは、政治家・警察を買収・・・1920年代後半は、実質的なシカゴ市長とまでいわれたそうな。


        

しかし ギャングの世界でも、出る杭は打たれる・・・やがてカポネは禁酒法を制定したアメリカ政府から目をつけられ、1931年に脱税で逮捕・起訴。


陪審員を買収したものの、身内の証言によって有罪判決を受け収監されます。


悪名高いアルカトラズ刑務所に入った頃のカポネは、既に神経梅毒に侵されて以前のような威厳はなかったそうで、刑期の最後1年は連邦矯正施設に移送される程に症状が悪化。


1939年に釈放された時は、まるで別人のようにやつれ果てていたそうです。


出所後はフロリダで治療生活を送り、1945年には民間人初のペニシリン投与を受けたものの、症状が重すぎて効果は得られず・・・1947年1月25日、48度目の誕生日を迎えた直後に息を引き取りました。


ギャングのボスだったにも拘わらずTIME誌の表紙に写真が載った男の、まさに太く短い一生でした。


カポネというと、映画 『アンタッチャブル』 を思い出す方も多いでしょう。


ケビン・コスナー演じるエリオット・ネス捜査官はカッコよく描かれていますが、実際は飲酒運転で当て逃げ事故を起こし公安本部長を解任された、女性好きのアルコール依存症だったとか。ダメだぁ顔


一方ロバート・デ・ニーロ演ずる冷酷なボス・カポネ・・・手下が一堂に会する会議の席で裏切り者の頭をバットで何回も殴りつける凄惨なシーンを鮮烈に記憶していますが、一時期シカゴの生活困窮者たちに食事を無料で振る舞う一面もあったとか。


そんな彼の生涯に興味を持った方には、この本をオススメします。


  『カポネ』 (佐藤賢一・著 角川書店・刊)


       

10年以上前に刊行された単行本ですが、現在は同書店から文庫(上・下)も出版されています。

カポネは、生前こんなことを言っていたそうな。


「他人が汗水たらして稼いだ金を価値のない株に換える悪徳銀行家は、家族を養うために盗みを働く気の毒なヤツより、余程刑務所行きの資格がある。


この稼業に入るまでは、世の中には高価な服を着て偉そうな話し方をする政治家などの悪党が、こんなに多いとは知らなかった。」


盗人にも三分の理・・・やった事はともかく、言い分はごもっとも? うー



                       

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特 亜

ここのところ、日本と特亜(支那・韓国)の関係がギクシャクしています。

韓国は一昨年末にいわゆる従軍慰安婦問題で最終決着したと合意し、昨年10億円を受け取ったにもかかわらず、昨年末から慰安婦像(最近マスコミでは少女像と言い方を変えていますが、私に言わせればこれは売春婦像)を撤去するどころか増設を目論み、安倍総理が駐韓大使を帰国させる事態に。

また支那は、APAホテルの室内に南京事件が捏造であるなど、彼らが主張する歴史観と相反する内容の冊子を置いてあることに反発し、信じられないことに国家が日本の一企業を批判する声明を出す始末。

私たち日本人から見れば、ちょっと信じられないというか理解しかねる反応・対応ですが・・・それは致し方ない事なのです。

なぜなら、彼らは隣国であっても似て非なる民族なのですから・・・。

今日は、それが良く分かる書籍を皆さんにご紹介致します。

 『日本人は中国人・韓国人と根本的に違う』 

                             (徳間書店・刊)


  

著者は、台湾に生まれ早大・明大に学び、拓大客員教授を経て現在評論家の黄文雄、韓国・済州島生まれで大東大・東京外大で学び現在は拓大教授の呉善花、そして支那・四川省生まれで北京大・神戸大に学び現在やはり拓大教授の石平の各氏。

お三方に共通するのは、日本に帰化し日本国籍を取得していること。

つまり出身国と日本の双方を良く知る人物なのです。

同書は、元々帰化日本人―だから解る日本人の美点・弱点』(2008年)に加筆・修正を程施して2013年4月に出版されたもの。

今あらためて読み返してみると、やはりお三方の指摘は的確だと言わざるを得ません。


本書は、教育・道徳・食事・夢・マスコミの5章からなり、それぞれについて対談を進める形になっています。

文中には一部納得しかねる箇所もありますが、それは私が日本しか知らないからかもしれません。

でも読み終わった時、彼ら支那・朝鮮人と日本人は全く異なる民族であると認識せざるを得ないでしょう。

その一例として、黄氏はこう仰っています。

「中国語(漢語)は最も原始的な単語音からなるもので、口語の語彙が漢語以外の言語に比べ、不足している。

そのため、大きな声と大げさな身ぶり手ぶりで言語の不足を補わなければならない。

漢語は構造的論理性が欠如しているで、中国人の主張は大抵矛盾だらけでしどろもどろである。

相手に道理を説くよりも問答無用の恫喝しかないのは、主にこの漢語の言語構造からくるもので、話せば分かる人間ではない。

韓国語は漢語とは別語系のツングース語系だが、長い間漢文から影響を受けてきた。

大抵韓国人が喋り出すと、立て板に水というよりも、自己主張ばかりで独唱独演会になるのは韓国語の深層に中華思想が潜んでいるからだ。」


その他教育や宗教観の違い等を合わせて考えると、安易に 「隣同士、仲良くしなければ・・・」 なんて台詞は口にできなくなるでしょう。

日本人が有する〝謙譲の精神〟など、彼らには通用しません。
「すみません」 と謝れば、「いやいや、こちらこそ」 なんて穏便な決着など有り得ないのは、戦後の外交交渉を見れば明らか。

最近移民問題が取り沙汰されていますが、私は完全拒否・鎖国状態にしろとは申しません。

受け入れる民族は選ぶべきと考えます。

左翼メディアは報じませんが、反日を旗印に掲げているのは特亜のみ・・・幼少時から反日教育を叩き込まれている彼らを絶対に受け入れるべきではないですし、むしろ現在不法滞在している連中は強制送還させるべき。

しかし逆に、大東亜戦争時に西洋諸国を追い出し独立を助けた日本に感謝しているその他の親日アジア諸国からは、受け入れても良いと思っています。

対立が深まっているこの時期だからこそ、是非多くの方に読んでいただき隣国に対する認識を深めていただきたいところ。

同書とは別に、やはりお三方の対談構成になっている日本人は中韓との「絶交の覚悟」を持ちなさいという書籍がありますが、私はまさにその通りかと・・・。うー


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彷 徨

3つのサイコロを転がす博打・チンチロリンでは、1・2・3は〝ヒ・フ・ミ〟と言って親の倍払いという最悪の出目。

だからと言うわけではないでしょうが、今から115年前の今日・1902(明治35)年1月23日に冬季訓練のため出発した日本陸軍第8師団・青森歩兵第5連隊は、数日後に我が国史上最悪の冬山遭難事故・・・世に言う


 八甲田山雪中行軍遭難事件


を引き起こしてしまいました。

日清戦争時、冬季寒冷地での戦闘で苦戦を強いられた日本軍は、遠からず衝突が予想された対ロシア戦に於いても同様の状況が想定されることから、雪中での軍事行動・行軍方法・服装 の確認を目的として同訓練を実行した、といわれています。


偶然にもこれに先立つ1月20日に出発し【弘前→十和田湖畔→青森】ルートを取った福島大尉率いる弘前第31連隊の38名は無事帰還できたものの、【青森→田代→八戸】ルートで行軍を開始した神成大尉率いる青森第5連隊の総勢201名が、積雪と猛烈な寒さ(-20℃以下)により立ち往生。


190名が死亡し、運よく生還した11名も全員が凍傷にかかり、大部分が四肢・指の切断を余儀なくされる大惨事となったのです。


  


遭難の原因については様々言われていますが、やはり冬山に対する認識の甘さと軽装備が大きかったのではないでしょうか。


実際、全員生還した弘前隊や生き残った第2連隊員の殆どは、炭焼きや〝またぎ〟など冬山経験の豊富な人々だったそうですから。


またちょうどこの時期に日本には寒波が訪れており、各地で史上最低気温を記録・・・青森でも平年より10℃近く低い気温であったことも災いしたと思われます。


この事故については、新田次郎氏の小説 『八甲田山死の彷徨』、及び同書を原作とした映画 『八甲田山』 (1977年)によって、人々の知るところとなりました。


主人公を演じた北大路欣也の、

「天は我々を見放した・・・。」

という絞り出すような名台詞は、当時流行語になったことをご記憶の方も多いでしょう。


    


私自身も小説を読み映画を観ることによって、その過酷な行軍の実態を知った一人です。 (但し、両作品とも事実と違う脚色がなされてはいますが。)


冬の八甲田山がいかに厳しい自然条件なのか・・・それはこの映画のロケを現地で敢行した際、あまりの過酷さに数人のスタッフが逃げ出した、という逸話でも十分伺えます。


そして神成大尉の命を受けて緊急事態の報告のため本隊に戻る途中の後藤房之助伍長 (※発見直後、凍傷により両手足を切断)が、仮死状態で直立不動だったところを救助されたのが1月27日。


この遭難事故の象徴として、彼の銅像が八甲田山中に立てられており、現在も青森の観光ルートに入っています。


        


私も青森支店勤務時には、酸ヶ湯温泉や十和田湖への往復途上、何回も観光でやってきた友人・知人の案内で行きましたが・・・特に冬場、一面の雪景色の中に立つ後藤伍長の姿を見るにつけ、この寒さと豪雪の中を替えの靴下すら持たずに行軍を続けた兵士たちの苦悩をヒシヒシと感じました。


また、この行軍を発案したとされる山口鋠大隊長が事件後拳銃で自決したとされる点についても不審点が指摘され、事件の真相を伏せるため軍部によって暗殺されたとする説も囁かれるなど、多くの謎も残されています。


今でもこの銅像の周辺では、夜になると 「ザッ、ザッ、ザッ」 という足音を立てて軍隊が彷徨しているという怪談話・目撃談が地元では有名。

また3年ほど前には、八甲田山にある別荘から110番通報があり、警官が行ってみると誰もいなかった・・・なんてことが。

もしかしたら、犠牲となった隊員が電話をかけたのかもしれません。


極寒の地で絶命した、名も無き兵士たちの冥福を祈るばかりですが・・・氷点下にもなっていない気温で 「寒い、寒い」 なんて文句を言っていると、彼らが怒って今晩あたり枕元に立つかも? うー ゾクッ




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一 途

創業社長には個性的な方が多いですが、この方はその中でもトップクラスかもしれません。あせあせ

今日は、その個性派創業者のお話を 『下坐に生きる』(神渡良平・著 致知出版社・刊) から抜粋・編集にてご紹介致します。

          ◆     ◆     ◆     ◆

大阪に靴下を製造販売しているダン(現・タビオ)という会社がある。

靴下業界に限らずアパレル業界は、売れ行きを予測しての見込み生産を行っている。 見込みが当たればいいが、外れると返品の山となってしまう。

またヒット商品が出た場合に備えて過剰在庫を抱えるわけにもいかないから、みすみす勝機を逸することも少なくない業界だった。

この見込み生産打破に挑戦したのが、ダンだった。

同社は全国の販売店の靴下屋、メーカーであるニット業者、そこの意図を供給する糸商、それを染める染色業者を、企業の枠を超えてコンピューター・ネットワークにつなぎ、共同作業するようにしたのだ。

これによって各段階の業者はその情報によって対応でき、売れる商品をうれるだけ供給できるようになったのだ。

そして不況下でも〝ダンの一人勝ち〟と言われる状況を作り上げた。

これを構築した同社の越智直正社長(現・会長)は、中卒で丁稚奉公上がりの経営者である。

      


「ワシは靴下のこと以外は何も知らん!」

と公言する程、靴下にのめり込んでいる人だが、逆に言えば靴下にかけては何から何まで知っている靴下馬鹿のような人である。

この越智社長が、ある夜夢を見た。 
靴下が頭を下げて頼んできたのだ。

「あんたしかいない。 日本の靴下業界を救うのは、あんたを置いてほかにない。」

越智社長は怪訝そうに答えた。

「そんなこと言うたかて、グンゼにも福助にも一流大学出の素晴らしい研究者がいる。 東レでもなんでも、ダンより資本の大きい企業がいっぱいある。 それなのに何でワシなのだ。 ワシ以外にも有能な人材はいっぱいおろうが!」

しかし、靴下は譲らない。

「企業の大小は関係ない。 大学出て、技術的なことを知っているかどうかも関係ない。 要は腹が出来ているかどうかだ。
腹が出来ていなければ、改革などできやせん。 靴下業界の運命は、あんたにかかっとるんや。」

「ワシは中学しか出ていない馬鹿だが、あんたもそれに輪をかけた馬鹿やのう。 靴下業界には立派な肩書の人がようけおるちゅうのに、ワシみたいな者に目をつけやがって。
しかしなぁ、不肖越智直正、頼まれたからにはやりまっせ。
やってやりまくりまんがな。 見ておくんなはれ。」

丁度、小学校の教室で徒歩競争のクラス代表に選ばれ、みんなの前で直立不動で宣誓しているような気分だったという。

越智社長は、寝ても覚めてもただ一筋に靴下に命を捧げてきた人だ。

資本もなけれ学歴もない。 何もなかったが、ただどこよりも素晴らしい靴下を作りたいという信念が今日のダンを作り上げるに至った。

その信念のもとに吸い寄せられるように、多種多様な能力を持っている人々が集まり、他では真似できないものを作っていったのだ。

「ワシは何も知りませんのや。 中学出の丁稚やもん。
でもなぁ、みんなが凄いんですわ。 よってたかっていい物を作りよった。」

という越智社長の言葉に、すべてが表れている。
縁が縁を呼び、類が友を呼んで、自分では思ってもみなかった方に導かれていく・・・。

そんな越智社長でも、「オレは一介の菜切り包丁でしかない」と嘆いた時があった。 学校も出ていなければ、独立しようにも元手がない。

ないない尽くしで諦めそうになる自分を叱り、弱気や腰砕けになることなく、一途に靴下の改良に賭けてきた結果、自分が正宗の名刀の光を放つようになったのだ。

人がある職業を選ぶのは巡り合わせだ。 
巡り合わせには天の深い配慮がある。

それを拒否することなく、そこで花を咲かせようと頑張る時、どんな菜切り包丁でも正宗の名刀に変わっていくのではないだろうか。


          ◆     ◆     ◆     ◆


この越智社長、「良い靴下かどうかは噛めば分かる」そうな。

まさに職人、いや仙人の境地ともいえますが、そんな叩き上げ創業者の自著があります。

 『靴下バカ一代  奇天烈経営者の人生訓 (日経BP社・刊)


    


これを読めば、なぜ靴下を噛むようになったか? また意外にも、越智会長は普段靴下を履かないのだそうですが、その理由も分かります。

寝ても覚めても、考えることは靴下の事ばかり・・・そんな靴下に人生を賭けた創業経営者の熱き想いから、エネルギーをもらえるかも!?

私は本書に記されている越智社長の言葉、

 「バカな大将は敵より怖い」

を、肝に銘じたいと思います。あせあせ


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