今日は大晦日。
その大晦日に大ポカ・・・今から32年前の今日・1984(昭和59)年12月31日夜に行なわれた第35回紅白歌合戦の最後に飛び出した〝世紀の大トチリ〟が、いわゆる
ミソラ事件
でした。
主役(?)は、この時の総合司会を担当した、生方恵一アナ。
最大の見せ場は、先にこの紅白を最後に引退を表明していた都はるみさんが大トリを務める場面でした。 その声に応える形で彼女が『好きになった人』を歌い終わった直後、恒例の得点集計に入ろうとした生方アナが この言い間違いについては、 しかし歌合戦のフィナーレ部分で瞬間視聴率が80%近く・・・つまり8千万人以上の国民が注視する中での言い間違いは、翌日以降の新春お笑い番組では恰好のツッコミ・ネタとして使われ、嫌でも世間の注目を集めてしまいました。 「ウブさんったら、私のことホント好きなんだからァ。」 と苦笑いしたとか。 また 実はその生方アナは2014年12月15日に亡くなられており、2週間程前が三回忌でした。 それでは皆さんも、良いお年をお迎えください!
そして彼女が『夫婦坂』を歌い終わると、会場からアンコールの大合唱。
「もっともっと沢山の拍手を、ミソラ・・・」
と、本来ならミヤコと言うべきところを美空ひばりさんと混同してしまい、一瞬絶句。
私もこの瞬間はテレビを観ていて、「えっ!?」 とビックリしたことを記憶しています。
しかし彼はすぐに気を取り直して、
「・・・ミヤコさんに、お送りしたいところですが、何ぶん限られた時間です。 結果の方に移らさせて頂きます。」
と続け、そのまま番組は終了しました。
◆白組司会担当の先輩・鈴木健二アナが、会場の大アンコールに応える形で 「私に1分(の時間を)ください。」と台本にないアドリブを入れて都はるみさんにもう一曲をお願いするという想定外の事態になった。
◆元々台本には〝はるみさん〟と書いてあったが、「ロウソクの炎が燃え尽きたように崩れ落ちていくはるみちゃんの姿を見た時、ここはきちんとフルネームでなければいけない」と咄嗟に思った。
からだと言われています。
更には、それまで大トリを務めるのが当たり前だった美空ひばりさんが家族の不祥事により出場を辞退していたことも、生方アナの混乱に拍車をかけたのかもしれません。
結局生方アナ自身が1月9日に謝罪をする羽目に。
そして彼は、同年7月に大阪局に異動を命ぜられたことでマスコミから〝これが本当の都落ち?〟などと揶揄された挙句、同年中にNHKを退職しました。
ご本人は後年 「大阪局への移動は紅白前に内示を受けていた昇格人事であり、その後すぐに退職したのは夫人のガン治療のため単身赴任を嫌ったから」 だと述べておられますが、これを額面通り受け取る人は、果たしてどれくらいいらっしゃるでしょうネ?
余談ですが、この言い間違いの瞬間を美空さんご本人も浅丘ルリ子さんらと一緒にテレビで観ていたそうで、
「生方アナがアレでNHKをクビになったら、私が一生食べさせてあげなきゃ。」
と言ったとも。 さすが演歌の女王は、太っ腹です。
都はるみさん自身も全く気にしていなかったそうですから、当事者が何とも思っていないことを周囲が騒ぎ立てるという、なんとも後味の悪い出来事ではありました。
しかしそれまでは当意即妙のアドリブで人気を得た生方アナが、他人のアドリブに惑わされて肝心なところでトチるとは、何という皮肉でしょう。
人間はミスをする生き物ですが、どうあってもミスが許されない時もある・・・そんな教訓を残した〝事件〟だったと言えましょうか。
もうご本人が天国で苦笑いして許してくれると思い、敢えて今日記事にさせていただいた次第。
あらためてご冥福を祈りつつ、今は美空さんと天国で昔話に花を咲かせながら、今夜の紅白歌合戦を楽しんでくれると信じましょう。
映画やドラマで最高のクライマックスといえるのが、決闘シーン。
西部劇の 『真昼の決闘』 や 『荒野の決闘』、また邦画でも 『決闘巌流島』 など、タイトルに決闘と銘打たれた名作があります。
しかしこれはあくまで昔の話・・・我が国で
決闘に関する件
としてこれを禁じる法律が布告されたのが、今から127年前の今日・1889(明治22)年12月30日・・・まだ帝国憲法が公布される1年近く前のことでした。
決闘については、西洋もそうであったように我が国でも〝果し合い〟や〝仇討〟という風習があり、かつては犯罪ではありませんでした。
しかし明治維新以降、社会秩序を維持する中で決闘は悪影響を及ぼすと判断され、禁止に至ったというわけ。
直接的には後に首相となった犬養毅氏がこの前年、『朝野新聞』 記者だった時に記事を巡って決闘を申し込まれ、これを犬養氏が拒絶したと報道されて話題となり、それ以降決闘申込事件が続出したことだとか。
※ちなみに仇討に関してはこれより前の1873(明治6)年2月に禁止令が発布されています。
同法は全6条からなり
◆決闘を挑んだ者・応じた者(1条) : 6月以上2年以下の有期懲役
◆決闘を行った者(2条) : 2年以上5年以下の有期懲役
◆決闘立会人または立会の約束をした者(4条1項) : 1ヶ月以上1年以下の有期懲役
◆事情を知って決闘場所を貸与・提供した者(4条2項) : 1ヶ月以上1年以下の有期懲役
◆決闘の結果,人を殺傷した場合は,決闘の罪と刑法の殺人罪・傷害罪とを比較し,重い方で処罰する。(3条)。
と定められました。
なんでそんな古い法律の話を詳しく説明するんだ? と不思議に思った方もいらっしゃるでしょうが、それには理由があります。
実はこれ、明治時代に布告されながら現在でも(刑法の特別法として)改正されぬまま適用されている珍しい法律だから。
ただし〝決闘〟の定義に関しては条文として明確に定義されておらず、判例として
『当事者間の合意により相互に身体又は生命を害すべき暴行をもって争闘する行為』
とされています。 つまり殺し合いにならなくても適用されるというわけ。
しかし何でまたこんな古い法律が残っているのか?
それは現在に至るまで少数ながら適用する事件が起きているから。
特に昭和から平成時代に適用されているのが、暴走族など若者の〝タイマン〟。
ブログで挑戦状を書き込み決闘した少年グループが逮捕されたり、2年前には福岡でLINEに書き込んで決闘したとして13人が書類送検されています。
・・・と、ここまで書いて、私にはひとつの疑問が。
夫婦喧嘩って、この決闘罪が適用されないんですねェ?
夫が妻に負けそうになったら、「おまえ、これ以上やると決闘罪で捕まるゾ!」 って警告すれば・・・って、それで手を止める奥様は、まずいないでしょうけど。
以前外交官職員であり、政治家絡みの事件に連座し失職・・・現在はやたらに本を出版している御仁が、この人物の名をニックネームに冠せられていました。
グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチン
Grigorii Efimovich Rasputin
今日は、ロシアが生んだこの〝怪僧〟の命日・没後100周年にあたります。
彼は1871年にロシア帝国・チュメニ州生まれた・・・とさせていますが、幼少・青年期の様子は定かではありません。
一説では20歳で結婚後、マリアの啓示を受けたとして突然家族に 「巡礼に出る」 と言い残して出奔。
馬泥棒などをしていたとも言われていますが、1904年にサンクトペテルブルクに現れると祈祷を通じて人々の病気治療を施して信者を増やすと、その評判を聞きつけたニコライ・ニコラエヴィチ大公の妻に取り入り、更にアレクセイ皇太子の血友病を治したことで、アレクサンドラ皇后の信頼を得ることに成功。
1905年、ロシア皇帝ニコライ2世に謁見した以後は、アレクセイ皇太子の容体が悪くなるたび宮廷に呼ばれ、祈祷(催眠術?)するたびに病状が改善したことで皇帝夫妻から絶大な信頼を得ると、それを後ろ盾に政治にも関与するように。
宮廷に何度も出入りしたラスプーチンは、その手練手管を通じて多くの貴婦人などの女性から熱烈な支持を集めましたが・・・どうもその原因は、絶倫の精力と巨根にあったとか。
(現在サンストペテルブルクに保管されているラスプーチンのものとされる男性器は、長さがなんと33cm!)

やがて第一次世界大戦が勃発しニコライ2世が戦地に赴くと、宮廷に残った皇后は何かとラスプーチンに相談するように。
やがて愛人説まで囁かれ始めると、国民から憎悪を浴びるように。
彼の増長に危機感を抱いたウスポフ公は1916年12月29日、皇帝の従兄弟・ドミトリー大公と共謀してラスプーチンを夕食に誘い、青酸カリを盛ったのですが・・・さすがは怪僧、ビクともせず。
次に食後の祈りを捧げる彼の後頭部を重い燭台で何度も殴打し、更に拳銃で4発撃った後絨毯で簀巻きにして凍てついたネヴァ川に放り込まれました。
3日後に発見された彼の遺体を検死したところ、肺から水が・・・つまり、彼は川に投げ込まれた際に、まだ息があったのです。
まさに怪僧の面目躍如・・・いや、モンスターというべきか。
その彼は死の直前、それを予期するかのようにニコライ2世にこう言ったそうな。
「私はやがて殺されます。 もし農民が私を殺すなら、ロシアは安泰。 しかし私を殺す者の中に陛下の一族がおられたなら、陛下とご家族は悲惨な最期を遂げることになりましょう。」
その予言通り、ニコライ2世は彼の死から僅か2ヶ月後に勃発したロシア革命で失脚し、その翌年に家族共々惨殺されました。
そしてその殺害命令を下したのが、あのレーニンだったのです。
もしかしたらラスプーチン(の巨根)こそがロシア革命の影の立役者・・・だったのかもしれませんネ。
昨日、年末恒例のN響・第九をサントリーホールで聴きました。
これを聴かないと年を越せませんが、歳を重ねるほどに1年のサイクルが早く感じることに若干の寂しさを拭えません。
しかし毎年、新たな発見があるコンサート・・・期待に違わず、今年もありました。
まず一つ目は、オーケストラの編成・・・というか、配置。
今までは、向かって左から第一ヴァイオリン・第二ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロという並びが多かったのですが、昨日は第一ヴァイオリン・チェロ・ヴィオラ・第二ヴァイオリン・・・つまり、ステージの最前線がヴァイオリンで占められていたのです。
今年は指揮者のすぐ後ろ、ホールのほぼ中央という好位置の席だったこともありましたが、特にヴァイオリンの響きが秀逸でした。
第2楽章の冒頭は、第二ヴァイオリン → ヴィオラ → チェロ → 第一ヴァイオリンと、音がステージ右から左へと移っていくのがはっきり分かりましたし、第3楽章の弦の響きは心を震わせてくれました。
そして2つ目は、合唱団の編成。
昨年までは、団員が後方座席を埋め尽くしていたんです。(↓)
ところが、今年は両サイドと後方に空席が・・・おそらく人数的には昨年の7割程度。
(おいおい、こんなに人数削って大丈夫か?)
と心配したんですが、よく見ると頭髪が薄かったり髭を生やした恰幅の良い団員がチラホラ。
昨年までは国立音大の学生さんだったのに・・・と、パンフレットを開いて確かめたら、今年は『東京オペラシンガーズ』という、1992年に小澤征爾氏の肝入りで創設されたオペラ歌手など現役の声楽家を結集したプロ軍団。
実際に第4楽章の合唱に入ると、人数は少ないながら昨年よりも迫力は上。
プロの力量を感じさせてくれると同時に、もし昨年と同じ人数を揃えていたら逆にオーケストラとの音量のバランスを崩していたはず。
今年の指揮者はアメリカ生まれのスウェーデン人、ヘルベルト・ブロムシュテット氏。
1927年生まれの、何と御年89歳!
さすがに派手なアクションはなかったものの、楽団の配置や合唱団の編成を含めた演奏は、まさに円熟の境地。
これは一緒に聴いた女王様も同意見でしたが、少なくとも過去10年の演奏の中では最も素晴らしい出来だったと思います。
それが証拠に、演奏終了後にはかつてないほど数多くの 「ブラボー!」 の声が聴衆からかかり、私自身も久々に叫んでしまいました。
そして何よりも、アンコールの際にN響の楽団員が足を踏み鳴らして彼に敬意を払ったこと。
今まで約30回第九を聴いてきましたが、初めて目にする光景でした。
それは決して彼が高齢だから、という理由だけではなかったはず。
毎年のように変わる指揮者とオケの配置・編成、そして私が座る席の位置。
ライヴコンサートは、まさに生もの。
同じ曲を同じオケが演奏しても、毎回音が違う・・・これだから、聴くのを止められません。
※大晦日31日の午後8時~9時20分に、Eテレで今年のN響・第九演奏会が放映されます。
21日・NHKホールでの録画ですが、興味のある方は紅白歌合戦の合間にちょっとチャンネルを変えてみて下さい。
皆さんは、〝静脈産業〟という言葉を耳にしたことがあるでしょうか?
これは製品を供給する製造業を動脈に例え、その反対にゴミや産業廃棄物を回収・再利用する業界を指します。
高校卒業後、東京でその静脈産業のひとつである自動車解体業の修業を積み、22歳の時に地元・石川で会社を立ち上げて独立して現在は年間13,000台もの廃棄自動車を解体・処理し、世界80ヶ国に輸出している会宝産業株式会社の創業者にして現・会長である
近藤 典彦 氏
のインタビュー記事が、月刊 『致知』 1月号に掲載されていました。
その中から、特に印象に残った部分を抜粋・編集にてご紹介致します。
◆ ◆ ◆ ◆
私が36歳の時に、日頃から人生の師として慕っていた浄土真宗真実派専修寺の住職・大澤進一先生から、
「近藤さん、あと数年で40歳ですね。 この辺で人生の半分の清算をしたらどうですか?」
と、それだけ言われたんです。 変なことを言うなと思いながらも、3ヶ月くらいずっと考えていたんですょ。
で、行きついたのが酒・タバコ・ゴルフ・麻雀、こういう遊びをやめなさいということかな、と。
結局自分のやっていることの悪さって、全部自分で知っている。
だけど、意志の弱さからどうしてもやめられない。
きっと先生はそれを自分で決断させるために「清算しなさい」と言ったんじゃないかな・・・と、今になって思うんです。
それで私は37歳の誕生日を機に全部やめたんです。
ところが大変なことが起こりました。
無性にストレスが溜まるのか、夕方車を運転しているともイライラして電柱や橋の欄干にぶつかりたくなるんです。
これは死ぬなと思って先生のところに行き、やっぱり無理でしたと泣きを入れたんです。
そうしたら先生は、いつもと変わらない調子で、
「そう・・・近藤さん、水力発電って知ってる? 水力発電っていうのは水の落差が大きければ大きいほど強い電力が出るんでしょう」
って言われた。
私はそれを聞いた瞬間、「ああ、そうか。 今ここが自分の踏ん張りどころなんだ!」 と得心して、禁断症状を乗り越えられたんです。
還暦を迎えるまでやめようと自分で決め、以来23年間、大好きだったお酒は一滴も飲まず、タバコも一本も吸わず、ゴルフも麻雀もしませんでした。
そうすると、面白いことが起きましてネ。
それまでは遊び友達と繋がりがあるので、仕事をしていてもそういうお客さんが多かったんです。
ところが、遊びを断ち切って3年経った時に、それまで付き合っていた友達やお客さんが全員私の周りからいなくなった。
そして、より人間的に素晴らしい人や応援してくれる人たちがどんどん現れて、そこから不思議なことに良い事がいっぱい起きてくるわけです。
要するにステージが変わったんですネ。
誰しも苦しい時って楽な道に逃げたいじゃないですか。
それは皆一緒です。
だけど、そこで逃げたら自分の魂の成長はない。
それを何としてもという一念で乗り越えた時に、あの苦しい時があったから今があることに気づくと思うんです。
◆ ◆ ◆ ◆
〝断捨離〟という言葉がありますが、それに繋がる経験談ではないでしょうか。
皆さんには、今年いっぱいで清算すべきものがありますか?
なんだかんだ言っても、プロ野球選手は高給取り。
皆さんは、現在の日本プロ野球界に〝1億円プレーヤー〟が何人いると思いますか?
昨年の契約更改時点では、広島・黒田投手の6億円を筆頭に保有枠選手840人中99人もいるんです。
ちなみにサッカーのJリーガーだと、ガンバ大阪・遠藤選手の1.6億円が最高で、1億円以上の年俸を稼いでいるのは、支配下選手534人中、たった9人。
(※上記数字は、いずれも推定)
では、ここで皆さんにクイズです。
その日本プロ野球界に於いて、史上初の1億円プレーヤーとなったのは誰でしょう?
・・・正解は、現中日ドラゴンズGMの落合 博満 氏。
彼が夢の大台を達成したのが、今からちょうど30年前の今日でした。

1978年のドラフト3位でロッテ入りした落合選手は、既にその年25歳。
しかし独特の打撃理論と柔軟な手首の使い方で頭角を現し、1980年後半から一軍に定着・・・1982年には史上最年少で三冠王に。
更に1985・86年と2年連続三冠王を獲得し、現時点で史上唯一3回の三冠王を獲得しました。
失礼ながら、もし所属球団がしぶちんのロッテでなければ、とっくに1億円プレーヤーになっていたと思うのですが、ちょうど3度目の三冠王を獲得した1986年のオフに、師と仰ぐ稲尾和久監督が辞任したことで
「稲尾さんがいないロッテに、自分もいる必要はない」
と発言し、結果1対4という異例のトレードで中日に移籍。
同球団と1986(昭和61)年12月26日に年俸1億3千万円で合意し、1億円プレーヤーが誕生した、というわけ。
そして実はこの年のシーズンオフに、もう一人1億円プレーヤーが誕生しています。
それは、西武の東尾 修 投手。
落合選手より後に契約更改交渉に臨んだ東尾選手に、球団が提示した年俸は、9,500万円(一説には9,900万円)。
それを見た東尾選手が、自らの結婚式の仲人でもあった坂井球団社長に
「自分で500(100)万円出すから、契約は1億円にしてくれ」
と懇願し、その熱意にほだされた(?)球団が、大台の契約を認めてくれたのだとか。
いやァ、熱意って通じるものですねェ。
ひとたび大台を突破した前例が出来ると、後は続々・・・という感じですが、今後果たしてメジャー・リーガーのように年俸10億円プレーヤーが出るかどうか、楽しみです。
余談ですが、落合選手が初めての日本人プレーヤーじゃない、と主張している方がいます。
それは、ノムさんこと野村克也氏。
「ホントは、ワシが最初の1億円プレーヤーだったんや。」
ですって。 ・・・ホンマかいな。
ついこの間まで、液晶とかプラズマとか言が話題だったのに、最近では4Kとか8Kとか、更には16Kとか・・・文系の私にはもうついていけなくなっている、テレビ。
最近の若い方は、それら薄型のテレビしかご存じないでしょうが、私を含めた昭和世代では【テレビ=箱型】というイメージが残っている方も多いでしょう。
その箱の中に入っていた 『ブラウン管』 なんて、おそらく平成世代は知らないでしょうネ。
これは1897年にドイツの科学者カール・フェルナンド・ブラウンが発明したことでその名がついた陰極線管のこと。
そしてこのブラウン管を使って世界で初めて日本が画像の電送・受像に成功したのが、今からちょうど90年前の今日のことでした。
その時の静止画像は、たった1文字の『イ』。
これは、イ・ロ・ハ順の最初の文字ということで選ばれたのだそうな。
この画期的な実験を成功されたのは、後に文化勲章を授与され、〝日本のテレビの父〟と謳われた工学者、 高柳氏は現在の静岡県浜松市生まれ。 静岡師範学校から東京高等工業高校(現・東京工業大学)附設工業教員養成所を卒業後、浜松高等工業高校(現・静岡大学工学部)の助教授となり、〝無線遠視法〟すなわちテレビ原理の研究を開始。 そして1926(昭和元)年12月25日に、浜松工高内で『イ』の字の送受像に成功したのです。 そして戦後GHQの指令によりテレビ研究を禁止された彼は1946年に日本ビクターに入社すると、シャープ・東芝など他メーカーと共同研究を重ねて、テレビ受像機を開発。 現在我が国の家電メーカーが苦戦している状況を天国から見ているお二人は、さぞ歯がゆいでしょうネ。
高柳 健次郎 氏 (1899-1990)
走査線は僅か40本と現代のテレビに比べれば粗い画面ですが、当時とすれば画期的な成功だったことでしょう。
しかし、その後高柳氏の研究は中止に追い込まれます。
その原因は・・・戦争。
実験成功後、来たるべき東京五輪でのテレビ放送を目指すべく1937年にNHKに出向したのですが、その翌年に日中戦争が激化し結局オリンピックは中止。
テレビ研究はレーダー開発へと変更を余儀なくされました。
この辺の経緯は、後にホームビデオ戦争でβとの競争に勝った高野鎮雄氏が他メーカーにその技術を公開したことと、相通じるものを感じます。
また〝テレビの父〟と〝VHSの父〟共々、日本ビクターの副社長になられたことも奇遇といえば、奇遇。
しかしそれよりも私が気になるのは、テレビの技術力は日々進歩しているのに、肝心の番組が劣化していること。
このままだと、テレビそのものがパソコン画面としてしか利用されなくなる日が来るかも・・・。
今日は、クリスマス・イヴ。
ご家族や恋人と楽しい一夜を過ごす計画を立てている方も多いことでしょう。
まさか、まだプレゼントを買っていないなんて方は、いないですょネ?
なんて言ってる我が家の場合は、女王様との協定(?)により結婚当初から仕事の関係でクリスマス・イヴはイベントもプレゼントもなし。
でも私は今年、自分のためにささやかな買い物をしました。
それは、このDVD。
CSI:科学捜査班 -最終章-
終わらない街ラスベガス
CSIシリーズについては拙ブログでも何回か取り上げましたが、かつて〝世界で最も見られている〟と言われ、2000~2015年にわたり15シーズンも続いたアメリカの超人気TVドラマ。
私はこのドラマが始まる直前までに3回程舞台となるラスベガスに行ったことがあり、当初はストリップ通りや林立するホテル、そして煌びやかな夜景を懐かしもうと観始めたのですが、すぐにそのレベルの高いストーリーや科学捜査という地味な世界にスポットを当てたこのドラマにハマってしまいました。
※実はCSI(Crime Scene Investigation = 科学捜査班)という名称のセクションは、このドラマ以前には現実には存在していなかったそうで、同作の大ヒットによりそれまで人手不足だった鑑識に就職志望者が殺到したため、各警察署で科学捜査を行うセクションを独立させ、後付けでCSIと命名したのだそうな。
その人気ゆえに、マイアミやニューヨークなどのスピンオフ・シリーズも制作され、私はその全ても観てきましたが・・・これらCSIシリーズを観てからはジャリタレが主役を演じる日本のTVドラマには見向きもしなくなってしまいました。
このシリーズの1話にかける製作費が邦画1本分かそれ以上というのですから、出来が段違いになるのも致し方ないんですけどネ。
この〝最終章〟は、シーズン15が終了した後に特別篇として製作されたもので、日本では昨年11月に放映されたもの。
当然私も観ましたが、それから1年経過してやっと今月このDVDが発売されたのです。
なんでわざわざ購入したかというと、シーズン9で降板した、私が最も好きだったグリッソム主任が再登場するから。
その他にも、番組開始時には小さな女の子だったキャサリンの娘リンジーが美人捜査官として出演するなど、CSIファンにとってはまさにオールスター勢揃い。
(とはいえ、第1話からレギュラーだったニックは残念ながら登場しませんが・・・。)
この最終章を観るだけで、過去のエピソードがいろいろと思い出せるんです。
それにキーパーソンとして、映画 『グリーンマイル』 に出演していた、あの・・・っと、それ以上はネタバレになるので、この辺で。
同シリーズを知らない方が見ても1本のドラマとして成立してはいますが、やはり過去のいきさつを知っている方には、様々な思いが脳裏をよぎるはず。
特にラストシーンは意外でしたが、シーズン1から観ている私は思わず涙してしまいました。
今宵はクリスマス・イヴに相応しい感動的なラスト・エピソードを、しんみりと楽しむつもりです。
えっ、女王様と一緒に観ないのかって?
実は彼女、子供の頃医者になりたかったらしいのですが、カエルの解剖が気持ち悪くて出来ず断念したことがあり、そのトラウマで死体や解剖シーンがダメなんですワ。
明後日開催される、今年最後の重賞レース・・・といえば、競馬ファンには説明不要の
有馬記念
このレースの第1回が〝中山グランプリ〟の名称で開催されたのが、今からちょうど60年前の今日・1956(昭和31)年12月23日のことでした。
国内唯一の競馬施行体であった日本競馬会は、敗戦後の1948年にGHQから独占禁止法に抵触する機関として閉鎖を命じられ、解散。
暫くは農林省・競馬部により〝国営競馬〟として運営されていました。
1951年、サンフランシスコ条約に調印しようやく国権が回復すると競馬も民営化の機運が高まり、1954年に日本中央競馬会が発足。
その翌年に第2代理事長に就任したのが、旧筑後国久留米藩主・有馬家の第15代当主にして、第一次近衛内閣で農相を務めた有馬 頼寧(よりやす)氏でした。
有馬氏は、老朽化が進んでいた中山競馬場のスタンドを補修する費用を捻出するため、河野一郎農相らに働きかけて競馬開催による収益を国庫に収めず改修費用に充てるという、いわゆる『有馬特例法』 を成立させることに成功。
更に当時の中山競馬場では 『中山大障害』 以外にこれといった冠レースがなかったことから、同競馬場で目玉となる大きなレース開催を画策。
同競馬場の大改修を翌年に控えた1955(昭和30)年末に行われた競馬会主催のパーティー席上で、
「ファンが(出走馬を)決めるレースを、中山でやってみたい」
とブチ上げます。
実は彼、1936~40年にかけてプロ野球チーム・東京セネタースのオーナーだったことがあり、その間の1937年にアメリカのメジャーを参考にした『職業野球東西対抗戦』・・・すなわち東西オールスター戦が行われたことをヒントにこのプランを思いついたとか。
4歳クラシック競争と5歳以上が目指す秋の天皇賞が終わった12月に開催することが決まり、投票が出来るという参加型レースにはファンも大きな関心を寄せ、当日は1万人入れば御の字だった中山競馬場に約28,000人が押し掛ける大盛況。
芝・2,600mで行われた同レースでは、過去15勝を誇る1番人気のメイヂヒカリが見事に栄えある初代優勝馬の栄冠を獲得しました。

大成功に終わった同レースですが、その直後に予想しない出来事が・・・。
翌月の1957年1月9日に、有馬氏が肺炎により急逝されてしまったのです。
実は同レースの人気投票の際レース名の公募も実施していたのですが、2年足らずの在任期間でありながらも理事長として競馬会の発展に尽力した彼の功績を称え、同レースの名は 『有馬記念』 に。
これに関しては、他の名称で投票したファンも納得したことでしょう。
現在は年末の風物詩としてすっかり定着したこの重賞レース・・・皆さんは、どの馬に今年最後の夢を託しますか?
えっ、お前はどうするんだって?
実は私、今まで馬券を買ったことがないんですワ~。

一昨日、エネゴリ君にメールしたんです。
「今日と明日、どっちに行けばいい?」
そしたら、返ってきた答えは
「明日からはクリスマス・コースが始まるので、今日だと思います。」
彼の店では、毎年クリスマス前は何日間かメニューがスペシャル・コース限定になるんです。 その期間中はいつものようなア・ラ・カルトのオーダーができないので、
「じゃあ、今日行くワ。」
と送信。 普通なら 「お待ちしています。」 という返信のはず・・・なのですが、さすがエネゴリ君は一味違いました。
「バタバタしているかもしれません。」
はぁっ? 何、それ。
こういう返事だと、ツッコミたくなるのが人情というもの。
「なにそれ、予約が一杯入ってるの?」
「(クリスマス・コース料理の)仕込みです。」
「ふぅ~ん・・・じゃあ、行くのよそうかナ。」
と送信したら、それまですぐ返ってきたメールが来ないんです。
さすがにこの流れはマズいと思ったんでしょうか・・・。
それから小一時間後に来た返信は、
「がんばります。」
さんざん考えた挙句、コレだけかい。 すかさず送信。
「仕込みを?」
そしたら今度は速攻で返信が。
「ちがいます。 おはなしです。」
オールひらがなで漢字変換してないところ、彼の慌てぶりが手に取るように分かります。
もっとも料理より会話を頑張るってところが、実に素直というか何というか・・・可哀想だから
「じゃあ、行ったげる。」
と送信したら、
「ありがとうございます。 お待ちしております。」
ですって。 最初からそう返信すれば、いじられなくて済んだのに。
ホッとしたのか、漢字変換も元通り・・・相変わらず分かりやすいヤツ。
でも、そこが彼のカワイイところなんですけどネ。
店に行く前から、メールだけで十分楽しませてくれるエネゴリ君は、エラいっ!
※店に行ったら、予告(?)通り彼は終始バタバタしてました。