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ゼ ロ

・・・と言っても、零式戦闘機〝ゼロ戦〟の話ではありません。

昭和の、あるいは戦後復興のシンボルといえる


 新幹線〝0系〟電車




が定期旅客走行から完全引退して私たちの目の前から姿を消したのが、今から8年前の今日・2008年11月30日のことでした。


1964年10月1日、東京オリンピック開幕に間に合わせる形で開業した東海道新幹線・・・そのために開発されたのが、後に〝0系〟と呼ばれるようになったこの車両でした。


今主力となっているアヒルやカモノハシの顔を連想(失礼)させる新型車両よりも、私にとって新幹線といえばこの〝0系〟なんです。


飛行機を意識して空と雲をイメージした、アイボリーホワイト&ブルーのツートンカラーは、日本海軍の双発爆撃機『銀河』をモチーフにしたとされる、当時としては斬新なデザインの車両にマッチしていましたネ。


その前年まで碓氷峠をギアを噛ませて急坂を登り降りするアプト式電車が走っており、私の郷里・長野から上野駅までは片道8時間以上もかかった時代。

その長野からはるばる上京して初めて東京駅で新幹線の車両を見たのは、私が小学校1年生の頃・・・その滑らかに走る美しい姿に暫し見とれ、


 プァァァァ~ン!

という、聞いたことのない宇宙的(?)な警笛音にビックリした事を憶えています。

         新幹線 0系


それから数年後、初めて東京~名古屋間を新幹線に乗って旅した時・・・それは、初めて飛行機に乗った時と同じ位の感動がありましたねェ。笑2


動き出したかどうか分からないくらい静かな発進、新横浜を過ぎて徐々にスピード・アップしていく車両が、田舎電車のように〝ガタンゴトン〟ではなく、〝カタカタッ、カタカタッ〟という細かい(横触れ)振動だけで走行。


未体験のスピードに緊張で体を強張らせ、肘掛けの間に大きなお尻をすっぽり埋め、手に汗かきながら・・・スッ飛んでいく窓の景色を見続けていたものです。


一方、大昔のTVクイズ番組で、


「新幹線の先頭にある円形カバーの中にはナニが入っているでしょう?」


という問題が出され、『非常用連結器』という正解に何となく意外というかガッカリ。


更に大学生の頃、実際に連結器をむき出しにして走行する不恰好な新幹線を見て、子供の頃の夢を壊された(?)気持ちになったこともありました。


高度経済成長を支え、多くの日本人の希望を乗せて走った0系車両。


〝夢の超特急〟といわれ、最高時速220kmで走行した初期の新幹線も、現在の新型車両に混じって走るにはスピードが足りないのが引退の理由だったとか・・・時代の流れ・技術革新を否応なく感じさせられます。


しかし自動列車制御装置(ATC)や車内信号システム、踏切のない全線閉鎖軌道など、とにかく安全第一を貫いた設計主任の島秀雄氏が、

「新幹線は事故を起こしません。 そのように作りましたから。」

と豪語した通り、開業から44年間の走行で死亡事故は
〝0〟。

※島秀雄氏に関する過去記事は、こちら。(↓)
 http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11901244332.html

まさに〝0系〟車両の名に相応しい実績を残してくれました。

2007年に機械遺産として認定されたこの歴史的な元祖新幹線に乗って、今一度東京~新大阪間を3
時間かけて旅してみたい・・・そう願うのは、私だけでしょうか?笑2



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ポ ン

・・・と言っても、麻雀の話ではありません。

若者には馴染みがないかもしれませんが、中高年には懐かしいゲーム

 ポン(PONG

が発売されたのが、今から44年前の今日・1972年11月29日のことでした。

名前で分からなくても、この画面を見れば「ああ、これネ」と思い出す方は多いはず。

      


画面上を飛び回る〝点〟を交互にバーで打ち合う・・・そう、昔温泉旅館に置いてあったプラスチックの円盤をカチャカチャ打ち返す 『エアホッケー』 みたいなテレビゲームです。


販売を手掛けたのは、ノーラン・ブッシュネル(Nolan Bushnell )という当時30歳の実業家。

子供の頃からパズルや電気工作が得意だった理系少年だった彼は、ユタ州立大学在学時に近所の遊園地でアルバイトをした経験から、将来はゲームビジネスで儲けようと内心決意したそうな。

大学卒業後、テープレコーダー会社・アムベックスに就職した彼は、1972年春にカリフォルニア州で実演展示されていたマグナボックス社が開発した卓上ゲーム機 『オデッセイ』 をプレーしたことが大きな転機に。

これをアーケードゲーム(大型の業務用ゲーム機)に応用することを思いついた彼は、アムベックス社から数人のエンジニアを引き抜いて、アタリ(ATARI )社を設立。

同年11月29日に卓球のピンポン(Ping Pong )から〝ポン〟と名付けて発表したのです。

          

               初期のゲーム機とブッシュネル

今から見れば、実に緩慢な動きと言うか単純なゲームなのですが、日立製の家庭用テレビをそのまま嵌め込んだテスト機は、デモンストレーションで置いた店で大ウケ。

その反響を見てブッシュネルは自社生産を決断。

2年間で約1万台された同機は欧米に拡散して大人気を博し、ゲーム市場を大きく開拓。

1976年にはブロックくずしゲームの 『ブレイクアウト』 を発売するなどアタリ社を一気に大会社へと急成長させたブッシュネルは、当然のことながらアイデア元のマグナボックス社から訴訟を起こされましたが、巨額の賠償金を支払ってもなお億万長者になり〝ビデオ
ゲームの父〟と呼ばれるように。

一時期、アタリ社は日本でもテレビCMを流す程絶好調。
その後彼は会社を売却しましたが、まさに一攫千金、アメリカン・ドリームの体現者となりました。

その後アーケードゲームはテーブル型へと発展。
その最たる例が、1978年にタイトーから発売された『スペースインベーダー』。

ちょうど私が大学生の頃で、喫茶店には100円玉を何個も持ったお客が列をなしていましたっけ。

その後パックマン(1980年)、テトリス(1988年)とゲームは進化し続け、現在に至っています。

個人的には社会人になって以降この種のゲームとはすっかり疎遠になってしまいましたが、もしかしたら今後またお世話になるかもしれません。

だって、手先を使うこのゲームは、ボ〇防止に効果があるそうですから・・・。あせあせ




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解 体

3、40歳代以下の若い方には〝JR〟という言い方が何の違和感もないでしょうが、私を含め50歳代以上の方には〝国鉄〟という呼称が懐かしく感じる人が少なくないかも。

その日本国有鉄道が解体され、〝JR〟と名の付く複数の株式会社に

 分割民営化

されることになった
日本国有鉄道改革法など国鉄改革関連8法案が国会で成立したのが、今からちょうど30年前の今日・1986(昭和61)年11月28日のことでした。

もともと戦争引揚者の雇用対策として国鉄に大量に採用された職員の高齢化に伴う賃金コストの上昇と、自動車・飛行機の普及による鉄道離れにより、東海道新幹線が開業した1964(昭和39)年から赤字に転落した国鉄。


    

               懐かしい国鉄のロゴマーク

1980年以降は毎年1兆円もの巨額な赤字を垂れ流している一方で、組合活動が先鋭化し違法なストが横行。

国鉄内では手に負えず毎年のように運賃が値上げされ、ますます国民から批判を浴びるという悪循環を繰り返す中、1982年に臨時行政調査会(臨調)が全国一元の組織を地域ごとに分割・民営化することを提案。

当然組合側は猛反発、総評を支持母体とする社会党や共産党は反対。

1985年11月には中核派が通信ケーブルを切断するなどの国鉄同時多発ゲリラ事件を起こして首都圏の国電をほぼ1日マヒさせて抵抗しましたが、これが逆に国民の反感を買うことに。

そして翌1986年7月にこの分割民営化を争点にした衆参同時選挙が行われ、自民党が圧勝。

一気に民営化へと勢いがついたところは、小泉内閣が決断した〝郵政民営解散〟と流れが似ています。

上記関連法案が可決され、国鉄は現在のJR各社(北海道・東日本・東海・西日本・四国・九州)と、現在は各社に吸収されましたがJR貨物・新幹線鉄道保有機構など12社に分割され、翌1987年4月1日に民営化が実施されました。

さて、分割民営化されたことで国鉄時代と何が変わったか?

まずは(消費税の増税以外に)運賃の値上げがなくなったこと。(

     



それに利用客に対する対応・サービスの向上。

私自身、小学生の頃に長野駅で賃上げ要求のビラがベタベタ張られた車体にバケツの水をかけて剥がそうとした職員に、制服のボタンを外した半グレのような組合員が多くの乗客の前で掴み掛かるのを目撃した記憶がありますが、今ではそんな醜態を晒すことはまずなくなりました。

更に事故件数も大きく減少。

(1988年度900件だった事故は、2002年度には468件。)

これらは、明らかに活動家たちの排除が功を奏したともの。

それが証拠に、彼らが生き残っている一部JR社では未だに信じられない初歩的なミスによる事故が多発していますから。

当事者のご苦労は想像を絶するものがあったと思いますが、間違いなく中曽根内閣の歴史に残る大事業だったと言えましょう。


また地方にはまだ赤字路線がありますが、今後事業の多角化で利益を出しつつ住民の足としてその役割を全うしてほしいと思います。

しかしここで思うのは、国鉄の分割民営化はそれなりの成果があったのに、郵政民営化に関してはその改革が目に見えないというか実感できないというか・・・。

その違いは、一体何なのでしょう?うー






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極彩色


いきなりですが、皆さんは


 ジェームズ・ロバート・ケード 

    James Robert Cade


という、アメリカの医学・生物学博士をご存知でしょうか?


          


実は今日が彼の命日(2007年11月27日没)なのですが・・・おそらく殆どの方は、彼のことを知らずとも彼が開発した飲み物のことはご存知のはず。

それが何か? ヒントは、上の画像の右下にチラッと見えて・・・そう、それは


  ゲータレード
  Gatorade


いわゆるスポーツ・ドリンクの元祖ですネ。


キッカケは、彼が教鞭を取っていたフロリダ大学のフットボールチーム〝フロリダ・ゲーターズ〟から依頼を受けたこと。

水よりも体内への吸収効率を高める飲料として開発したもので、チーム名のGatorsと、飲料を意味するade の合成したネーミングにしたとか。

あのエルビス・プレスリーが愛飲していて、「これはワニ用の飲物」 だなんて言っていたそうな。


フロリダ・ゲーターズは、1965年から販売が開始されたこの飲料をその2年後から公式に導入、いきなりオレンジボウルに初出場して勝利を収め、一気に注目を集めました。


この爆発的流行のおかげで、ケード教授とフロリダ大学側との間に販売権を巡って訴訟沙汰になった・・・というところがいかにもアメリカらしいですが、紆余曲折の末ペプシコ傘下のブランドに収まっています。

日本ではサントリーフーズが販売しており、現在でもスポーツ・ドリングの販売量は世界一を誇っているとか。


私が高校生の頃にこの商品が出回り、運動部員たちがこぞって水に粉末を溶かして飲んでました。


私自身は、何となく子供の頃飲んでいた 『渡辺のジュースの素』 を思い出したものですが・・・実は、私はどうしてもこの飲料を口に出来ません。

その理由は・・・あの毒々しい派手な色。

         


一説によると、日本人は墨の濃淡で表現する水墨画文化に慣れているため、淡い色合いを好み、油絵文化の欧米人は極彩色を好むとか。

だからかもしれませんが、私にはこの絵の具を溶かしたようなゲータレードはどうしても口にできません。

ポ〇リとかア〇エ〇ア〇
のような、半透明でなければ・・・。あせあせ


ただし、その極彩色が映える場面があるんです。

それが〝ゲータレード・シャワー〟。


アメリカのフットボールなどの試合では、タンクに入った大量のゲータレードを勝った瞬間にヘッドコーチにぶっかけることがあります。

今年2月に行われた第50回スーパーボウルの時も、こんな感じで・・・。

     


これが半透明の液体じゃ盛り上がりませんょネ。

日本でもビールかけをしますけど、秋口でも風邪をひかないように常温のまま。

しかしこのゲータレード・シャワーは真冬の氷点下でも氷入り。

かけられた方はたまったもんじゃないでしょうに・・・って、嬉しければ冷たくないのかナ?

ケード博士には申し訳ないですが、私にとってゲータレードとは飲み物ではなくかける物!? うー




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彼 女


先日、エネゴリ君の店に行った時の事。

カウンター席につくなり、オーナーが話しかけてきました。

「渡辺さん、ニュースですョ。 エネゴリ君に好きな女性が出来たんですって。」

「へぇ~、それは目出度いことじゃない。 


火傷で酷い目にあったけど、人生捨てる神あれば、拾う神アリだネ。」

「な、なんですか、その神様が2人いるのって?」

「あはは、まぁいいや。 それより、お相手はまたキャパ嬢?」

ここでは個人情報の開示になってしまいますので詳しくは書きませんけど、私は彼の女性遍歴(?)を知っているので即座にそう聞いたのですが、 彼は

「いえ、今度は違います!」

と、言下に否定。

「あっ、そう。 そりゃ珍しい・・・で、何をやってる人なの?」

「今は、料理屋でバイトしてます。」

「そんな女性と、どうやって知り合ったのョ?」

「えっ、それは・・・少し前にキャバクラで。」

「なんだょ、やっぱりキャバ嬢なんじゃん。 ウソついたナ~。」 

「いえ、今はもう辞めたんで、キャバ嬢じゃありません!」 怒り顔 キッパリ!


           

「オイラに言わせれば、同じだけどなァ。 
それでキミ、付き合ってるの、その元キャバ嬢と。」

「いえ、まだそこまでは・・・。」

「じゃあ、そのバイトしている店には行ったことあるの?」

「はい、1度。」

「じゃあ、彼女もこの店に来たことはあるの?」

「いえ、まだありません。」

「なんだョ。 前付き合ってたキャバ嬢は、オレの後ろでパスタ食べてたじゃん。」

「あ、彼女はお互いギブアンドテイクで・・・自分が行かなくなったら、彼女も来なくなりました。」

「そりゃ彼女でも何でもない、お互いただのお客だったってことだろうょ。
 で、今の彼女は店に呼ばないの?」

「え、えぇ。 そういう関係じゃないんで。」

「じゃあ、どういう関係なんだョ。」怒

と、ここでオーナーが怒ったように口を挟みますが、そりゃ当然ですょネ。

「で、キミは彼女と今後どういうアプローチをするわけ?」

「う~ん、良く分からないんですょ、自分でも。 
取りあえずその店に通おうと思ってるんですけど・・・渡辺さん、どうすればいいでしょう?」

と目を潤ませて私に聞くんですょ。 まぁ彼の今後は、

 ① ストーカー
 ② 彼女(というか勤務先の)いいカモ
 ③ プラトニックな片思い


のどれかになる気がするんですが・・・私と違って恋愛経験豊富な読者の皆さんには、この恋の結末の予想と、彼へのアドバイスをお願い致します。




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音 読


様々な教材が市場に溢れている現代と違い、私が中・高校生の頃は本格的な英会話を勉強しようとすれば、リンガフォンくらいしかありませんでした。

その高価な教材に手が出ない私のような学生に助けとなったのは、NHKテレビ・ラジオの英会話番組。

毎朝6時にテキスト片手にラジオにかじりついていた頃を懐かしく思い出します。

そんな私の記憶に残っている講師としては、松本亨先生、マーシャ・クラッカワー先生・・・そして、もう一人が

 國弘 正雄 先生

今日は、英語講師でもあり同時通訳の草分け的存在だった彼の、命日・三回忌にあたります。


1930年に東京・北区で生まれた國広先生が英語に興味を持ったのは、中学生時代。

『武士道』の著者・新渡戸稲造の伝記を読んで感銘し、英語の猛勉強を開始すると、父親の転勤で移り住んだ神戸で進駐軍の兵士に手当たり次第に話しかけたとか。

そしてひたすら教科書の音読を繰り返し、これが後に道元禅師の提唱した〝只管打坐〟をもじった〝只管音読〟という彼独自の勉強法につながりました。

1955年にハワイ大学を卒業すると予備校講師を経て日本生産性本部とアメリカ国務省の文化交流計画に参画し、ワシントンDCに常駐して訪米した日本人に随行して全米各地を訪問。

1963年に帰国すると、2年後に通訳エージェント 『サイマル・インターナショナル』 を設立すると共に、NHK教育テレビ 『英会話中級』の講師を務めました。

私が國弘先生を知ったのは、まさにこの番組。

そして彼の名を一躍有名にしたのは、1969年7月のアポロ11号月面着陸の中継を同時通訳したこと。

〝同時通訳の神様〟などと呼ばれ、日本の英会話教育界の第一人者としての地位を確立しました。

           


1971年からはNHK教育テレビの『トークショー』の司会を務め、E・ライシャワー氏やD・キーン氏などの著名人と議論を重ねましたが・・・それでは、ここでその〝神様〟の英語をお聴きください。(

   https://www.youtube.com/watch?v=r1hbnAD-MH4

帰国子女でもなく、非英語圏の日本で学んだとは思えない見事な発音ですょネ。

また文化放送やラジオたんぱで1958~1992年まで放送された老舗英語番組 『百万人の英語』 でも活躍した國弘先生は、1978年から日テレのニュース・キャスターも担当。

この起用にはちょっと驚きましたが・・・もっと驚いたのは1989年、先生が参院選に立候補したこと。

それも日本社会党から。

今でこそ昨年来から盛んに憲法改正に反対する憲法学者がメディアに露出して、いわゆる〝学者バ〇
〟ぶりを発揮する光景は見慣れましたが、当時はちょっと信じられませんでした。

先生自身、神戸で空襲に遭い親友の最期を看取ったことから強い反戦思想を持ったことが社会党から立候補した根拠だったようですが、個人的には残念な出来事。

できれば國弘先生には、英語の先生だけでいて欲しかった気がします。

しかし1995年には落選し、政界を引退。 

その後大学の客員研究員や、個別指導型の英語資格取得専門塾の顧問を務めていた國弘先生が老衰により84歳でこの世を去ったのは、2014年11月25日。


あらためて英語教育界の重鎮のご冥福をお祈り致します。笑3

久々に、ラジオの英会話番組を聴いてみようかナ・・・。




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移 民

日本人には殆ど馴染みはありませんが、アメリカでは毎年11月の第4木曜日が

  感 謝 祭
 Thanksgiving Day


・・・つまり、今年は今日・11月24日がこの祝日にあたります。

感謝祭とは、イギリスからマサチューセッツ州のプリマス植民地に移住したピルグリム・ファーザースの最初の収穫を記念する、昨日ご紹介した我が国の新嘗祭に相当する行事と言えましょうか。

しかしその歴史の裏には、意外な事実が・・・。

この点に関して、上智大学名誉教授の渡部昇一氏がこう解説されています。

          ◆     ◆     ◆     ◆

1620年11月、102人の清教徒、ピルグリム・ファーザースを乗せたメイフラワー号は大西洋を渡り、アメリカ大陸に到着しました。

しかし、信仰の自由を求めて渡った未知の土地は過酷でした。

作物は実らず食料に事欠き、翌年の4月までにほぼ半数が死んでしまったのです。

だが、その悲惨な状態に同情して助ける人たちが現れました。

人間が住んでいるとも思えなかった土地にも、暮らしている人間・・・すなわち未開の原住民、インディアンです。

彼らは見知らぬ移民たちに食料を与え、穀物や野菜の栽培を教えて助けました。

こうしてビルグリム・ファーザーズは苦境から救われたのです。

インディアンに栽培を教えられた作物も見事に実り、感謝祭が行われました。 

それは実った作物への感謝であると同時に、苦境を助けてくれたインディアンへの感謝でもありました。


      

さて、信仰の自由を求めて新大陸に渡った人たちが安らかに暮らしているという話がヨーロッパに伝わると、同じ信仰の人たちのみならず、いろんな人たちが陸続として大西洋を渡ることになります。

その数はたちまち原住民の数を圧倒するようになり、アメリカ建国ということになります。

その過程で原住民のインディアンはどういうことになったか・・・その悲惨さは、今更述べるまでもないでしょう。

アメリカでは今でも感謝祭が盛んです


ですが、そこで実った作物への感謝が語られることはあっても、ピルグリム・ファーザーズを助けたインディアンへの感謝は出てきません。

20世紀後半に出された百科事典には、

「感謝祭は、収穫に対する神への感謝とインディアンとの戦争に勝ったことに対する感謝のお祭りである。」

と書いてあります。 何という変化か!

異なる文化を持った異なる民族が接触して暮らすと何が起きるのか?
この話は端的にそのことを示しています。

          ◆     ◆     ◆     ◆


昨年来、イスラム系移民の流入で混乱するヨーロッパを見れば、渡部氏の話は納得できます。

我が国でも労働力不足を補うために移民の積極的な受け入れを主張する向きがありますが、インディアン同様に親切な日本人が彼らに裏切られたり掻き回されることは、火を見るよりも明らか。

歴史から教訓を学ぶのが、賢明な民族。
歴史を繰り返すのが、愚かな民族。

さて、日本人は・・・どっち?うー




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祭 祀

今日は、『勤労感謝の日』。


国民の祝日に関する法律により 「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう日」 と定められ、1948年から公布・施行されている祝日。


ですが、1947(昭和22)年までは数ある神事の中で最も重要とされる


    にい なめ さい
  新 嘗 祭


が行われる祝日でした。


これは宮中祭祀のひとつで、天皇陛下が五穀の新穀や新酒を神々に供え、またご自身もそれを食して収穫に感謝する儀式であり、全国の神社でも同様の儀式が執り行われます。


新嘗祭は古くから行なわれており、1872(明治5)年までは旧暦11月の2回目の卯の日に行われていました。


それが太陽暦の導入と共に新暦11月の2回目の卯の日に行うこととなり、その最初が11月23日だったため、そのままこの日に固定され現在に至っています。   


宮中での式典は、午後6時~8時の 『夕(よい)の儀』、午後11時から翌日午前1時にかけての 『暁(あかつき)の儀』 の2回、神嘉殿において催されるとのこと。


ここ数年来、マスコミが煽るせいかヨーロッパを起源とする収穫祭である10月31日のハロウィーンが脚光を浴び、カボチャをくり抜いたり仮装行列やバカ騒ぎを楽しむ日本人が増えてきました。


それに関してどうこうは申しませんが、今日、私たちが祝日の楽しいひと時を過ごしたり寝入っている深夜、農耕民族たる日本人の代表としてその祭祀を司る天皇陛下自らが神々に感謝を捧げられていることを、私たちは忘れてはなりません。


嘗て10年半にわたり侍従長を務められた現・宮内庁参与の渡邉 允(まこと)氏が以前月刊 『致知』 にて語られていましたので、以下に抜粋・編集にてご紹介させていただきます。


          ◆     ◆     ◆     ◆


両陛下は毎朝6時にはお目覚めになり、お二方で吹上御苑の森の中を散歩なさっています。 驚くべきことに、ご病気の時を除いて、この6時起床を変えられたことはありません。

普通はその日の予定に合わせて起床時間を決めたり、休みの日は遅くまで寝ていたくなるものでしょう。


しかし1年を通じて時間を変えないという規律を自らに課しておられる・・・そこに私は陛下の一貫した強靭な意志力を垣間見る思いがします。

そんな陛下の1日は、本当にお忙しいものです。

例えばまず午前中、宮中三殿で宮中祭祀を執り行われた後、午後は宮殿において社会福祉関係者の拝謁や認証官任命式 【※国務大臣その他の官吏を任命し、辞令を交付する儀式】がある。 

その後新しく着任した外国大使夫妻のためにお茶会をなさり、夜は御所で近く訪問予定の国の歴史について、学者の話をお聴きになる。

通常、夜10時半が御格子 【※みこうし=陛下が御寝(おしずまり)になること】ですが、大抵両陛下はそれ以後も翌日の行事のための資料や式典で読まれるお言葉の原稿に目を通したり、外国の国王・王妃にお手紙を書かれたりされているようです。

このように朝から晩まで次々と性質の異なるお仕事に取り組まれており、それが1年を通じて続くことになります。


両陛下がお出ましになる大きな行事や式典は休日・祝日に行われることが多いため、5日働いて2日休むという生活のリズムもないのです。


         


そこまでしてご公務に邁進される陛下の根底にあるもの・・・それは、「国民のために」 という思いにほかなりません。

陛下のその思いが一つの形として具現化される場が 『宮中祭祀』 です。

これは、陛下が国家国民の安寧と繁栄をお祈りになる儀式のこと。

陛下の一年は、元旦朝5時半から執り行われる 『四方拝』 で始まります。

外は真っ暗、しんしんと冷えている中、白い装束に身をまとい神嘉殿の前に敷かれた畳の上に正座され、伊勢神宮をはじめ四方の神々に拝礼される。

その後宮中三殿に移られて 『歳旦祭』 を執り行われ、五穀豊穣や国民の幸福をお祈りになるのです。

このように陛下が執り行われる宮中祭祀は年間20回程度ありますが、この中で最も重要とされるのが11月23日の 『新嘗祭』 です。

夜6時から8時までと、夜11時から翌午前1時までの2回、計4時間にわたって執り行われる間、陛下はずっと正座で儀式に臨まれます。


我々も陛下がいらっしゃるお部屋の外で同じように2時間正座を続けるのですが、これは慣れている人でも難儀なことです。 


私は毎年夏を過ぎると正座の練習を始めていました。


ある時、陛下の元に伺うと、居間で正座をされながらテレビをご覧になっていたことがありました。

やはり陛下も練習をなさっているのかと思ったのですが、後でお聴きしてみると陛下はこうおっしゃったのです。

「足がしびれるとか痛いと思うことは一種の雑念であって、神様と向き合っている時に雑念が入るのは良くない。 


澄んだ心で神様にお祈りするために、普段から正座で過ごしている。」

その取り組み方ひとつとっても、専ら肉体的苦痛を避けたいと思っていた私とはまるで次元が違うと感服した一瞬でした。

これらさまざまな宮中祭祀の多くは国民の祝日に行なわれています。
つまり私たちが休んでいる時に、陛下は国民の幸福をお祈りされているのです。

そのことを私たちは忘れてはなりません。


          ◆     ◆     ◆     ◆

その他、大きな地震や災害が起きた際にも狼狽えず直ぐにテレビをつけて情報を収集し、ご自身よりも国民の安全を気にかけておられたエピソードなどが記されておりました。

〝国民が第一、自分は二の次〟・・・普段からのこうしたお考えや姿勢が両陛下から滲み出ているからこそ、東日本大震災や水害被災地をお見舞いされた際、多くの被災者に希望と勇気を与えて下さったのでしょう。

逃げるように現場を離れようとして被災者から厳しい言葉を浴びせられた当時の総理大臣とは、比べることすら憚られます。


日々私たちのために祈りを捧げられている両陛下に感謝し、その思いに応えられるような国民にならねば!・・・と、改めて気を引き締める次第。

そして敗戦後GHQによって葬り去られた伝統ある祭祀の歴史や由来を次世代に語り継ぐことも、私たち大人の義務と言えましょう。


〝日本を取り戻す〟ためには、まず祝日の呼称を元に戻すべきかと。扇子




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夏 季

今からちょうど60年前の今日・1956年11月22日、

 第16回夏季オリンピック メルボルン大会

が開幕しました。

67の国と地域から3,178人の選手が参加し、12月8日までの17日間で17種目・145種目が行われ、日本は体操の小野喬選手ら4人が金メダルを獲得。(銀メダルは10、銅は5)

ただし、スエズ動乱の影響でエジプト・レパノン・イラク、ソ連のハンガリー侵攻に対する抗議でスペイン・イタリア・スイス、更に中華民国が参加したことで中華人民共和国が参加をボイコットしたため、少し寂しい大会になったようです。


   大会ポスター                    開 会 式

さて、この大会に関して、「あれ?」って思った方もいらっしゃると思います。

それは、大会の開催期間。 
夏季大会なのに、なぜ11~12月なのか?

その答えは簡単で、この大会が史上初めて南半球で開催されたから。

ちなみに、このメルボルン大会以降の開催期間を並べてみると・・・


 ローマ     1960年 8月25日~ 9月11日

 東 京     1964年10月10日~10月24日
 メキシコシティ 1968年10月12日~10月27日
 ミュンヘン   1972年 8月26日~ 9月11日
 モントリオール1976年 7月17日~ 8月 1日
 ソウル     1988年 9月17日~10月 2日
 バルセロナ  1992年 7月25日~ 8月 9日
 アトランタ     1996年 7月19日~ 8月 4日
 シドニー     2000年 9月15日~10月 1日
 アテネ      2004年 8月13日~ 8月29日
 北 京      2008年 8月 8日~ 8月24日
 ロンドン     2012年 7月27日~ 8月12日
 リ オ      2016年 8月 5日~ 8月21日
 東 京      2020年 7月24日~ 8月 9日(予定)


1回目の東京やメキシコシティ大会は10月開催であり、ソウルまでは一番暑い時期を避けて開催していますが、バルセロナ以降は、まさに真夏の開催。

しかも同じ南半球なのに、メルボルンと違ってシドニーやリオは8,9月開催・・・つまり夏季というより冬季に近い時期に行われました。

そして2回目の東京大会も、最も暑い時期・・・前回は10月の涼しくなった秋だったのに、なぜ? と不思議に思う方が多いと思います。

実はこれ、国際オリンピック委員会が、「夏季五輪開催日を7月15日~8月31日までの期間内に開催」することを決めているからなんです。

その理由は・・・テレビ局の強い要望。

アメリカNBCが2020年・東京大会までの(冬季を含む)オリンピックの国内テレビ放映権を49億8,000万ドル(約5,500億円)で獲得しており、これがオリンピック全収益の約50%。

(※あとは独占企業からの協賛金収入が約40%、入場料収入で5%等)

アメリカでは、9~10月になるとNFLやNBAという人気プロスポーツが開幕し、またメジャーリーグがプレーオフに入るため高視聴率が見込めないことから、どうしても7~8月に開催してもらいたいのです。

選手の健康より利益優先・・・これはオリンピックの理念と大きく乖離していますが、今やオリンピックは商業主義と決別することは不可能であり、〝筆頭株主〟の意向には逆らえないというわけ。

更に人気種目の決勝戦が行われる時間帯は、アメリカのプライムタイム優先になるでしょうから、東京大会でも午前中に集中するはず。

大会を楽しみにしている日本人も、仕事中や授業中で生中継を観られない事態になる可能性が大。

おそらくこの傾向は、2020年以降も続くことでしょう。

まぁ観戦する方はまだしも、心配なのは選手の健康。

1984年のロス五輪では、猛暑の中行われた史上初の女子マラソンで、アンデルセン選手がフラフラになったシーンが有名。

        


幸いにも彼女は何とかゴールし、その後回復しましたが・・・当時のロス以上に気温が上がる東京で、選手たちは大丈夫なのか?

マラソンに限らず、今から心配です。

逆に言えば、犠牲者が出なければ過度の商業主義は修正されないのかも。うー


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浮 遊

「鳥のように空を飛んでみたい」と思ったことのある方、多いと思います。

実際に人類で初めてそれを飛行機を発明することで実現したのは、ご存じライト兄弟ですが・・・地面から足を離して空中散歩(?)に成功したのは、熱気球。


これを発明したのが


ジョセフ=ミシェル・モンゴルフィエ
ジャック=エティエンヌ・モンゴルフィエ

の兄弟。 彼らが発明した熱気球で初めて有人飛行に成功したのが、今から233年前の今日・1783年11月21日・・・ライト兄弟が空を飛ぶ120年前のことでした。

     

          兄・ジョセフ          弟・ジャック


フランス・リヨン近郊で製紙業を営むモンゴルフィエ家には16人の子供がおり、ジョセフは12番目、ジャックは15番目。


ジョセフは37歳の頃、洗濯物を乾燥させるため焚火にかざした際、その洗濯物が上昇気流にうねる様子を見て熱気球の発想を得たといいます。


そして1872年、当時イギリス軍が陣取り難攻不落といわれていたジブラルタル要塞の攻略法を考えていたジョセフは、兵士を空中に浮かびあがらせることを思いつき、細い木材で作った1㎥強の枠を布生地で覆い、その下で火を焚くことでその枠が浮き上がる実験に成功。

翌1783年6月に更に大きな熱気球を製作して無人での公開実験を行い人々の関心を高めると、同年9月にはベルサイユ宮殿でルイ16世やマリー・アントワネットの見守る中アヒル・ニワトリ・羊を乗せた熱気球飛行に成功。

これでルイ16世からサン・ルイ勲章を受けた兄弟は2ヶ月後の11月21日・・・遂にピラトール・ド・ロジェら2人が乗り、初めて手綱を離した有人飛行に成功したのです。

この初飛行は、高さ90m、飛行距離は8.8kmに達し、浮遊時間は約25分間でした。

(※ちなみに日本で初めて熱気球の有人飛行が成功したのは、戦後の1969年・・・随分と遅かったんですネ。)

         


その後の気球は、熱気球とほぼ同時期に開発された水素気球が主流となります。

ただし皮肉なことに、人類で初めて熱気球で空を浮遊したロジェは、その2年後に自ら開発した水素気球でドーバー海峡横断に挑戦中に引火・爆発を起こして墜落・・・気球史上初の犠牲者にもなってしまいました。ダメだぁ顔


当初は兵器使用を目的に考えられた気球ですが、その後飛行船や飛行機の開発によりその使用目的は第二次世界大戦後はスカイスポーツへと変わっていきました。

現在では色とりどりの気球が空を覆うように浮かぶ姿を見かけることがあります。

スピードアップのご時世ですが、だからこそ風任せで空中をのんびり移動する気球にも、高いところが好きな私は憧れてしまいますが・・・皆さんは一度乗ってみたいと思いませんか?





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