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VHS

今時の若者には、「VHSって、何?」 って言われちゃうかもしれませんネ。

だって、もうビデオテープ・レコーダーがないご家庭も多いでしょうから・・・。

中高年世代なら殆どの方が、その昔家庭用ビデオレコーダーの規格争い・・・いわゆる〝VHS vs β〟戦争があったことをご記憶だと思います。


当初ソニーが各社に規格統一を呼びかけ、先行してベータマックスを開発。 

録画時間60分の小型カセットを開発して1975年に発表・発売。

それに対抗する形で、日本ビクターが今からちょうど40年前の今日・1976(昭和51)年10月31日に発売したのが

 VHSビデオレコーダー HR-3300

でした。(


        


発売当時の価格が256,000円、更に別売の留守録用の専用取り付けタイマーが1万円でしたから、現在なら50万円近い高価な電化製品。


VHS (当初は “Vertical Helical Scanの略称だっものの、後に“Video Home Systemの略称として再定義) の特徴としては、ビデオテープのカセットサイズがβよりも大きかったものの、録画時間が倍の120分だったこと。


当初はソニーが陣頭指揮を執るβ方式が先行していましたが、ビクター・高野鎭雄氏が中心となって(会社上層部に対して秘密裏に)開発を進めたVHS方式が追い上げる展開に。


各メーカーが両陣営に分かれ発売・開発が進められましたが・・・1975年9月3日、〝経営の神様〟・松下幸之助翁が試作品を見て発した


「βは100点満点、しかしVHSは150点満点」


という鶴の一声(?)で、業界最大手の松下電器がVHS方式採用を決定。


それ以降は徐々にVHS陣営が巻き返し、1980年には国内生産比率が逆転、85年にはVHSが実質的な世界基準となったのです。


※幸之助翁がVHSを評価したのは、部品点数が少なく軽かったことが決め手だったといわれています。 

「お客様が買って自分の手で持ち帰り、すぐにビデオを観られなアカン。」・・・さすがは『経営の神様』の発想ですネ。


この家電業界の伝説ともいえる10年間にわたるビデオ競争に関して詳しく知りたい方には、この書籍をお勧めします。

『映像メディアの世紀』 (佐藤正明・著 日経BP社・刊)


        


またビクター・高野氏の開発秘話に関しては、西田敏行さんが同氏を演じた映画 『陽はまた昇る』(2002年公開)があります。

しかし私がこのビデオ戦争に関連して一番感動したのは、NHKのTVドキュメンタリー番組・『プロジェクトX』の中でも傑作のひとつ、


〝窓際族が世界規格を作った ~VHS・執念の逆転劇〟


私は、(当然のことながらVHSで録画した)同番組のビデオテープを今でも大事に保管しています。(


        


同業他社に試作機を無条件で貸し出すという思い切った策に出てVHSを日本初の国際基準に押し上げた高野氏が、副社長退任記念パーティーで


「ぜひ皆さん、何でもいいですから夢中になってください。」


と挨拶する場面。

<そしてその2年後ガンで亡くなられた葬儀当日、社員全員が見送るビクター横浜工場を、高野氏の遺体を乗せた霊柩車がクラクションを鳴らしながら、静かに通り過ぎる場面。


・・・何回観ても、泣けます。

※お時間のある方は、同番組をこちらでご覧ください。(↓)

      https://www.youtube.com/watch?v=2CbfYlHpv0k


しかしそのビデオレコーダーも、今やすっかりDVD・ブルーレイに取って代わられてしまいました。うー

技術開発の進歩は、本当に早いものですネ。

きっと幸之助翁も高野氏も、天国で驚いていることでしょう。




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借 金

古くはアラン・ドロンやジュリアーノ・ジェンマ、そしてアル・パチーノやブルース・ウィルス、ロバート・レッドフォード、ダスティン・ホフマンなどの一流どころや、クリストファー・ウォーケン、ウィレム・デフォーら性格俳優まで幅広く吹き替えをこなした声優・・・といえば、中高年の映画ファンならもうお分かりですょネ。

今日はその、タレント・野沢直子さんの叔父でもある


  の ざ わ  な ち

 野沢 那智 さん

の命日・七回忌にあたります。

野沢 (※本名同じ ただし名前の読みは〝やすとも〟) さんは、1938年に作家・陸(くが) 直次郎 氏の長男として東京都に生まれました。

中学生の頃、自宅近くの芝居劇場に毎日通った野沢さんは、当初舞台芸術家になりたかったとか。


そして國學院大学3年の頃からプロ劇団に出入りし、大道具係りの手伝いをしていたのですが、舞台芸術家から「絵が下手だ」と言われ、今度は演出家に方針を変更。

ところが大学を中退して劇団・七曜会に研修生として入団すると、主催者に「とりあえず役者をやれ」と言われ、3年ほど舞台に立つ羽目に。

その頃、当時始まったばかりだった洋画の吹き替えのアルバイトもしていたそうな。

その後七曜会を退団した彼は、役者仲間を集めて劇団・城を立ち上げたのですが、客の入りは悪くやがて劇団は分裂。

多額の借金だけが残り、アパートを引き払って友人の家を転々としていた極貧の野沢さんを救ったのが、声優業でした。

銀座で偶然出会った七曜会の先輩からアテレコを勧められて、借金返済のためその仕事を引き受けた彼は、まだ黎明期だった業界で重宝がられたそうで、特に転機となったのはTVドラマ『0011ナポレオン・ソロ』のデビット・マッカラムの役を得たこと。

視聴率40%を叩き出したこの人気シリーズを担当したことで業界の第一人者となった野沢さんは、その後吹き替え以外でも劇団・
薔薇座を設立(1963年)してプロデュース・演出を担当したり、深夜放送のパーソナリティーとしても人気を博しました。

アニメ界でも山田康雄さん逝去後の後任として 『ルパン三世』 を担当したり 『コブラ』 で活躍した彼でしたが、2009年から体調を崩し、2010年7月に精密検査の結果肺がんであることが判明。

8月から入院・加療を施したものの効果は得られず、同年10月30日に72歳で天に召されました。


           

野沢さんの吹き替えとしては、映画では 『ゴッド・ファーザー』 シリーズでのアル・パチーノ演じるマイケル・コルレオーネと、『ダイ・ハード』シリーズでのブルース・ウィルス演じるマックレーン刑事役が双璧でしょうか。

また変わったところでは、『スター・ウォーズ』シリーズのC-3PO役。
これは日本にとどまらず世界的に高い評価を受けたのだそうな。

ただ個人的に野沢さんの吹き替えで一番好きなのは、映画ではなくTVドラマシリーズの『刑事ナッシュ・ブリッジス』(1996~2001)におけるドン・ジョンソン演じるナッシュ刑事役。

女性にモテモテのサン・フランシスコ市警の二枚目刑事の声は、野沢さんの甘い声がピッタリ!

普段は字幕版で映画・ドラマを楽しむ私ですが、この番組だけは野沢さんの吹き替えで楽しんでます。

(正直、ドン・ジョンソンって見た目はカッコイイんですけど、声がちょっと・・・ねェ。)あせあせ

そのナッシュ役の懐かしい映像を観つつ、日本を代表する声優のご冥福をお祈り致しましょう。



               ペタしてね

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呼 称

皆さんは、中華人民共和国のことを普段何と呼んでいますか?

おそらく50歳以下の方は、『中国』 と言ったり書いたりしていると思います。

同国に対して、石原慎太郎・元都知事が事ある毎に 『支那』 と表現していたことに、違和感を覚える方も多いかもしれません。

しかし、元々その 『支那』 という表現は一般的だったのです。

むしろ 『中国』 と表現しているのは日本だけ・・・と言っても過言ではありません。

だって、英語表記は“China ” であり、現代の中華人民共和国で最も権威がある国語辞典『漢語大詞典』には、

【 『支那』は 『秦』 の音の訛りであり、古代インド・ギリシャ・ローマ・日本などが我が国を呼ぶ名である】

と明記されており、その呼称は自国がルーツなのですから。

日本でも、名僧・空海が書物の中で 『支那』 と記していますし、
辛亥革命を起こし中国・台湾で〝国父〟といわれている孫文や文学者の魯迅も、日本入国の際に国籍を〝支那〟と表記しています。


 
          孫文とその自筆書面(中央上部に支那の表記) 


そもそも 『中国』 という表記は、日本に於いては山陰・山陽地方の総称として用いられており、その表記は878(元慶2)年2月3日付の官報に記載されていることから、少なくとも1,100年以上前から使用されている単語。

なのに、なぜこれが外国名として使われるようになったか?・・・というと、今から86年前の今日・1930(昭和5)年9月29日に、支那からの要望を受け入れる形で外交文書において 『支那共和国』 を 『中華民国』 に変更する旨閣議決定したことが端緒なのです。

※それ以前の1913年6月には、『支那』に国名を統一する閣議決定がなされています。

しかし日本国内では従来どおり 『支那』 が用いられ続けました。

そして大東亜戦争後、連合国の一員として戦勝国の立場になった中華民国の蒋介石が 「今後は我が国を中華民国と呼び、略称は中国とするよう」 主張。

これを受け、1946(昭和21)年6月に外務省が東京都内の主要マスコミに 『支那』 の使用を止め、『中華民国、中国、民国』 等と表記するように通達したのです。

その理由として、同通達内には

今後は理屈を拔きにして先方の嫌がる文字を使はぬ樣にしたいと考え念のため貴意を得る次第です。

と書かれていました。

つまり 「相手の嫌がることはするな」 という、外務省お得意の〝配慮〟。うー

自国で遥か昔から使用していた地名を、相手の言いなりになって譲った形なのです。 しかも日本に対して全く配慮のない国に対して。


これにより 『支那事変』 は 『日中戦争』 になるなど、国内の表記は変えられていきました。


(その後蒋介石が共産党に敗れ、1949年に中華人民共和国が成立した後は『中国』の呼称を同国に使用し、中華民国を『台湾』と称するように。)

ですから 「支那という表記は差別的だ」 という向きがありますが、それには何の根拠もありません。

現に前述の『漢語大詞典』には蔑称などと書かれておらず、むしろ 「単なる名称であって別段の意味はない」 とも記されているのですから。

石原氏が 『支那』 と呼称したことに違和感がある方は、ある意味弱腰外務省や文科省、更には左翼マスメディアに洗脳されていると言えるかもしれません。

なぜなら、中華人民共和国が 支那の語源である “China ” の呼称を侮蔑的だと国際的に抗議し変更を求めたなんて話は、聞いたことがありませんから。

言い換えれば、日本にのみ中国という呼称を要求するのは逆差別というべきもの。

昨年、ある高校生が試験の答案に 『支那』 と書いたら、担任から 「差別用語だから」 という理由で不正解にされたという話がネットで拡散され論議を呼びましたが、これは明らかにおかしな話。

ならば『支那そば』・『支那竹』・『東(南)シナ海』という表記や、更には “China ” も差別用語になるのでは?


(むしろ個人的には漢語で〝世界の中心の国〟という意味合いとなる 『中国』 という表記を使うこと自体に嫌悪感があります。)

ちなみに、私のPCに 〝シナ〟と打ち込んでも 『支那』 という変換はされません。

何故なんでしょうネ?  皆さんのPCは、いかがですか?




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公 査

皆さんは、〝ABC〟からどんなものをイメージするでしょうか?

一般的にはアルファベットの始まり、またそこから〝イロハ〟と同じ物事の基礎という意味合いでしょうか。

あるいは靴のチェーン店や料理教室、また私のようなゴルフ好きなら昨日から始まっている男子トーナメント・マイナビチャンピオンシップの開催コースが頭に浮かぶ
方もいらっしゃることでしょう。

でも、こんな〝ABC〟もあるんです。

 日本ABC協会

このABCは、 Audit Bureau of Circulationsの略なんですが、和訳すると『部数公査機構』。

つまりこの協会は、新聞・雑誌・フリーペーパー等の部数を監査する機関なのです。



そしてこの組織が誕生したのが、今から64年前の今日・1952(昭和27)年10月28日のことでした。


なぜこんな機関が設立されたかというと・・・その新聞・雑誌等の紙媒体メディアには広告が付き物ですが、その部数を自己申告させるだけでは誇大な数字になりがち。

そこでスポンサーに対して第三者機関が客観的かつ信頼のおける発行部数を公表する必要が生じた、というわけ。

アメリカでは既に1914年に誕生しており日本にもその4年後には紹介されていましたが、戦後の民主主義社会になって、ようやく 『ABC懇談会』 として設立。

3年後に現在の協会名となり、1958年に通産省から一般社団法人に認可され、1961年から新聞発行部数の、そして1965年から雑誌の公査が開始されました。


         

同協会は公平性・客観性を保つため、新聞・雑誌等の発行社とスポンサー、そして仲介する広告会社の3者で構成され、現在の会長は製薬会社の元社長が務めています。

そして公査員が発行社を訪問し、正しい部数を売上と費用を帳簿で確認し、新聞は年に2回、雑誌等は年に1回、発行部数を公表。

その数は、現在新聞74紙・雑誌159誌・専門紙誌12・フリーペーパー208に及んでいます。

発行社側が発表する発行部数よりは正確なのは、間違いないでしょう・・・が、実態通りかというと、そうとは言い切れません。

なぜなら、新聞には公然の秘密たる〝押し紙〟が存在するから。

〝押し紙〟とは、新聞本社から各販売店に押し付けられる新聞のこと。

要するに、実際には国民に読まれていない死神 ジャナカッタ 死に紙といえましょう。

全紙平均で30%は押し紙という説がありますが、いかなABC協会とはいえ帳簿上の調査ではこの実態は把握できないはず。

つまりスポンサーは3割増しの広告料を支払わされている、と言えるかも。

政治家や他社の不正はとことん追求するくせに、自らのデータはグレーのまま・・・これでは国民から信頼されるわけないと私は思うのですが、皆さんはいかがお考えでしょうか?



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読 書

詩人・坂村真民さんの母親は、36歳の時に42歳のご主人に先立たれた。

手元には5人の幼子が残された。 大正6年のことである。

想像を絶する貧しさだった。

にもかかわらず、真民さんのお母さんは苦労を苦労とせず、5人の子供を女手ひとつで育て上げた。

辛くなかったはずはない。 苦しくなかったはずはない。

だが幸い、苦しいと嘆きたくなる時に、愚痴を言う代わりに自分を潤し力づける言葉を、お母さんは持っていた。

〝念ずれば 花開く〟

である。 いつもこの言葉を口癖のように唱えていたという。

        



人生に口ずさむ言葉を持て、と真民さんはよく言われた。

人間はそれほど強いものではない。
苦しいこと、悲しいことに胸塞がれる日もある。 気力が萎えることもある。

そういう時、どういう言葉を口ずさんでいるか。
それが運命を左右することもある。

真民さんの詩が甦ってくる。

 よい本を読め
 よい本によって己をつくれ
 心に美しい火を燃やし
 人生は尊かったと
 叫ばしめよ


よい本はよい言葉、人生を潤す言葉と置き換えてもよいだろう。

よい言葉、人生を潤す言葉に触れ、口ずさみ、心に美しい火を燃やし、尊かったと言える人生を歩みたいものである。


                       ※ 『小さな人生論・4』(致知出版社・刊)より抜粋


          ◆     ◆     ◆     ◆

今日・10月27日から『読書週間』 が始まります。


        

           2016年 読書週間ポスター大賞作品


戦後間もない1947(昭和22)年に、「読書の力によって、平和な文化国家を作ろう」という決意のもと、出版社・取次会社・書店と公共図書館、新聞・放送のマスコミ機関も加わって、第1回『読書週間』が開催されました。 


翌年の第2回からは10月27日~11月9日(文化の日を中心にした2週間)と定められ、以来毎年続けられています。


皆さんもこの2週間で読書を通し、是非人生を潤す言葉を探してください! 笑2



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平 麺

子供の頃の私にとって、名古屋名物といえば2つ・・・まずはオヤジが出張のたびに買ってきてくれた、『青柳ういろう』。

「白・黒・抹茶・小豆・コーヒー・ゆず・さくら」という7つの味を並べたテレビCMは、今でも憶えています。

そしてもうひとつは、それまで蕎麦しか食べたことのなかった信州人の私が家族旅行で名古屋に行った際、駅のスタンドで生まれて初めて食べてビックリした平たい麺・・・そう、今日はその

 きしめんの日

なのだそうです。


食欲の秋と、その特徴的な食感・・・ツ(2)ル(6)ツルの語呂合わせが制定の根拠だとか。

この〝きしめん〟の起源については諸説あるようで、

◆芋川(現在の刈谷市今川)の名物だった平打ち麺が、東海道経由で名古屋に伝わった。

◆御三家・紀州藩の殿様が名古屋を訪れた際に紹介した紀州麺

◆名古屋城築城に駆り出された人夫たちの食事として早く出せるように麺を平たく打った。

また、その名の由来についても

◇紀州麺がきしめんに転じた。

◇元は麺ではなく竹筒で型抜きした碁石型だったために、碁石麺と呼ばれ、それがきしめんに転じた。

◇雉(キジ)肉を具にした雉麺が、やがてきしめんに。 

と、これまたいろいろ。

       

ここで、多くの方が疑問に思うポイントについて・・・きしめんとうどんはどう違うのか?

日本農林規格(JAS)の『乾めん類品質表示基準』では、

◆小麦粉に食塩と水を混ぜてよく練った生地を帯状に細く切って乾燥させる製法で長径が1.7mm以上に成形したものが〝うどん〟

◆幅4.5mm・厚さ2mm未満の帯状に成形したものを〝きしめん〟


と規定しています。

「なぁんだ、形状の違いだけか」 と思えますが、実際には麺の硬さが違うそうな。

その原因は、小麦粉を練る時に使う塩水の量がうどんに比べて1.5倍以上多いから。

また麺を伸ばす際に使う麺棒も、固い生地を早く延ばすためにうどん用より細いものを使うのだとか。

では、同じ平麺といえる〝ほうとう〟とはどう違うのか?

きしめんよりも薄く幅が広いほうとうですが、その形状の違いだけではありません。

実はほうとうの麺には、食塩が全く加えられていないのです。

ゆえにほうとうはうどんやきしめんと違い、汁の中で煮込むことによりデンプン質が溶け出してとろみが出るため、麺のツルツル・シコシコ感を味わうきしめんなどと違い、野菜などの具材と共に味わうのが特徴というわけ。


やはりそれぞれの麺には形状だけでなく成分・調理法に違いがあるんですネ。

さて、せっかくの記念日ですから今日はきしめんを・・・と思ったんですけど、東京で食べられるところ、あるのかナ?あせあせ



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依 頼

「は~い、今度は〇〇市にお住まいの△△さんからいただいたお葉書をご紹介しますネ~。」

パーソナリティーが軽妙な語り口で視聴者からの声を紹介し、リクエストに応えるラジオ番組は今でも数多くあります。

私のようにクルマを運転していたり、あるいは事務所や自宅で毎日のように聴いていて、お気に入りの番組がある方も多いことでしょうが・・・今日は、その

 リクエストの日

なのだそうな。

由来は、今からちょうど80年前の今日・1936年10月25日に、ベルリンのドイツ放送で生演奏ラジオ番組の放送中に、リスナーから演奏して欲しい曲目のリクエストが電話でかかってきたから。

それ以来、リクエスト番組は大ヒットし、それがやがて世界的に広まっていったのです。

ただ流れてくる音楽を聴くよりは、自分が聴きたい曲を流してくれれば嬉しいし、もしかして自分の名前が呼ばれたら・・・という期待感がある視聴者参加型番組がウケるのは、当然と言えましょうか。

我が国で初めてこのリクエスト形式を取り入れた番組は、NHKラジオ第一で戦後間もなくの1949(昭和24)年から毎週日曜日に放送された『お好み投票音楽会』

同番組ではリスナーからのリクエスト葉書を受け付け、その枚数によってランキングを決定し下位の流行歌から紹介・・・あの『ザ・ベストテン』と同じ形式だったようです。

放送開始直後から大変な人気となり、全国からハガキが殺到。(↓)

         

しかしすぐに順位争いが過熱して組織票まで動く事態となり、ランキング形式は撤廃されたとか。

翌年には出演者(歌手)のリクエストを募集した『歌の明星』 という番組と合体して、『今週の明星』 という番組に衣替えし、1964年まで放送は続けられました。

またローカルではありますが、山陰放送(BSSラジオ)では開局した1954年以来、毎日放送されている 『音楽の風車(かざぐるま)』 という、超長寿番組があるそうな。

同番組は、昭和天皇が崩御された日や大喪の礼、東京五輪の開会式の日に休んだだけだそうですから、60年以上皆勤賞と言っていいオバケ番組。

それだけリスナーに愛され、地元ではすっかり定着しているんでしょうネ。

昔はハガキでしたが、やがては電話でリクエストを受け付けるのが一般的に。

※日本では1952年12月24日にラジオ神戸(現・ラジオ関西)がクリスマス特番で〝電リク〟を受け付けたのが最初だとか。

そして現在ではメールでも受け付けるようになっていますネ。

今後もさまざまなツールを使ってこういった視聴者参加型番組は続くことでしょう。

ところで、皆さんは曲のリクエストってしたことはありますか?

私は・・・こんな記事書いているくせに、したことないんですけど。うー
コラコラ



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見殺し

昨年映画が公開されたことで、日本人漁民がトルコ船員を救助した 『エルトゥールル号遭難事件』 について多くの方が知ったことでしょう。

※この事故に関する過去記事は、こちら。(
   http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11970365610.html

この時の恩義を忘れず、今でも学校でこの事件を子供たちに教えてくれているトルコは、世界でも指折りの親日国。

しかし、この事件の4年前・・・つまり今からちょうど130年前の今日、同じ和歌山県沖でそれとは真逆の

 ノルマントン号事件


が起きていたことを、ご存じでしょうか?


1886(明治19)年10月24日午後8時頃、横浜から神戸に向かって太平洋を航行中だったイギリスの貨物船ノルマントン号(240トン)が、暴風雨により和歌山県樫野崎沖で難破・沈没しました。

同船にはイギリス船長J・W・ドレーク船長を始めイギリス・ドイツ・中国・インド人の乗組員39名と日本人乗客25(内女性4)名が乗船していましたが、助かったのはイギリス・ドイツ人乗組員のみ。

彼等は救命ボートで脱出し、漂流していたところを沿岸の漁師らに救助されましたが、日本人乗客は沈みゆく船に取り残され、誰一人救助されぬまま溺死してしまったのです。


   

                紀伊海難船之図(楊洲周延・画)


この遭難事故の一報を聞いた当時の井上馨外相も日本人乗客全員が死亡したことに不信を抱き、調査を命令しました・・・が、ここで大きな障害となったのが、当時西欧諸国と締結していた不平等条約。

すなわち、船長らに対する海難審判権は日本になかったのです。

11月1日、在日英国領事J・ツループは領事裁判権に基づき領事館内で海難審判を行い、ドレーク船長の

「船員は日本人に早くボートに乗り移るよう勧めたが、日本人は英語が分からず、船内に籠もって出ようとしなかったので仕方なく置き去りにしてボートに移った。」

という信じ難い証言を採用し、船長以下乗組員全員に無罪を言い渡したのです。

この理不尽な判決を受けて、当時の新聞は

「船長以下20名以上の水夫が助かったのだから、1人や2人の日本人乗客を助からないはずがない」

「西洋人乗客なら助けたのに日本人なるがゆえに助けなかったのではないか」

などと書き立て、日本国内では人種差別に対する怒りが渦巻きました。

世論の沸騰を受け、井上外相はドレーク船長の出国を認めず、兵庫県知事名で横浜英国領事裁判所に殺人罪で告訴。

翌月N・ハンネン判事は船長に禁固3ヶ月の有罪判決を下します・・・が、遺族に対する賠償金は支払われませんでした。

これはそ、れ以上事を荒立てて日英関係にヒビが入ることを恐れた政府や支援者たちの働きかけにより、遺族が訴えを取り下げたから。

結局遺族は全国から集まった義捐金の分配を受けただけで、半ば泣き寝入りさせられたのです。

不平等条約が改正され領事裁判権が撤廃されたのは、1894年・・・この事件から8年の月日を要しました。

この事件を顧みると、昔も今も日本外交が如何に欧米に対し弱腰であり、無益な配慮を続けていることが分かります。

欧米に阿って自国民を泣かせる政治家や役人は、いつになったら一掃できるのやら・・・。うー





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なさどさゆさ

今日のブログ・タイトル、皆さんには何のことだかチンプンカンプンのはず。

ただし青森出身の方は除いて・・・。

これは道でばったり出会った2人が交わす会話の一例なんです。

「なさ、どさ。」 (あなた、どこに行くんですか?)


「ゆさ。」 (お風呂入りに行くんだょ。)

これだけの会話が、たった平仮名6文字で表現できる・・・今日・10月23日は、この素晴らしき方言

 津軽弁の日


なのです。 


津軽弁を愛した詩人、高木恭造さんの命日に因んで制定されたそうな。

津軽弁は青森県の方言・・・ですが、全県共通というわけではなく、青森市・弘前市などがある津軽地方の言葉であり、八戸市のある南部地方や恐山・むつ市がある下北地方とは一線を画しています。

更に言えば津軽地方の中でも微妙に違う、実に難解な方言。

      


私が東京からこの津軽弁の本場(?)・青森市に転勤したのは、今から30年近く前の事。

道中、同期の仲間が餞別にくれた津軽弁のエンターテイナー・伊奈かっぺいさんのカセットテープを聴きながら、浦和ICから貫通したばかりの東北自動車道を700km近く走って到着した青森IC。

何か食べようと思ってフラリと入った食堂の店員さんの喋る言葉を(8時間近くかっぺいさんの津軽弁を繰り返し聞いたにも関わらず)全く聞き取れなかった衝撃が、今でも忘れられません。ダメだぁ顔


着任当初は支店の女子社員が電話応対で、

「はい、〇〇火災でございます。 ・・・・あはは、なぁ~んもぉ。」

<

と見事に標準語と津軽弁を使い分けるバイリンギャルぶりに感心させられましたが、辛かったのは取引先さん達とランチをご一緒した時。

皆さんが何を喋っているのか全然分からず、時々

「んだな、ナベちゃん。」

と話を振られると、

「え、ええ・・・あははは・・・。」


と笑ってごまかすしかなかった時。 でもそれで鍛えられたおかげで、約2年半の青森生活である程度分かるようにはなりました。

では、第21回津軽弁の日で高木恭造賞を受賞した 『よでっこ』 で、津軽弁をお楽しみください。(

   http://www.youtube.com/watch?v=NELIqW_jN-s


どうですか? 全然分からないでしょう。あせあせ

でも、何となく津軽人の温かさが伝わってきませんか?

皆様も夏のねぶた祭りや秋の紅葉シーズンに青森を訪れて、是非ナマの津軽弁に触れてみてください。

人生一度は青森さ行かねば、まいね!笑2



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余 白
ルノワールやモネに代表される印象派から、ゴッホやゴーギャンに代表されるポスト印象派の時代に活躍し、更にピカソらによって創始された(多角度から見た物の形を1つの画面に収める)キュビズムにも影響を与えたと言われる

 ポール・セザンヌ

  Paul Cézanne


今日は、この〝近代絵画の父〟と称されるフランスを代表する画家の命日・没後110周年にあたります。


          

セザンヌは1839年に南フランスのエクス=アン=プロヴァンスという小さな町に生まれました。

父親は帽子の販売業を営み商売は順調、更に銀行を設立して成功したおかげで家庭は裕福でした。

しかし非常に厳格でもあったようで、長男のセザンヌは逆らえなかったようです。

中等学校時代、後に小説家として活躍するエミール・ゾラと親友になった彼は、詩や絵画の創作に興味を示すように。


10代後半から絵画教室に通い始めた彼は、やがて画家の道を目指そうと決心。

しかし父親の意向でエクス大学の法学部に進学していた彼は中々本心を言い出せず、やっと20歳の時に打ち明けるも理解は得られず・・・2年間の説得の末、半ば家を飛び出す形でパリに移住。

アカデミー・シュイスに入った彼は、ピサロやセザンヌ、モネ、ルノワール、ドガらと知り合いますが、人付き合いが苦手で引っ込み思案だったためパリの都会的な雰囲気が性に合わず、何度も故郷エクスとパリを行き来することに。

元々暗かった画風も、30歳の頃に後に結婚するオルタンス・フィケと交際を始めると明るくなりましたが、印象派展に出品するも落選の連続。

彼の作品が注目されるようになったのは、1895年に画商のヴォラールがパリで個展を開いて以降の晩年になってから。


現在のように高い評価を受けたのは1906年10月22日(23日説あり)、肺炎により67歳でこの世を去った後のことでした。

静物画や風景画が多い彼の作品には、いくつかの特徴があります。

まず建物や樹木が長方形に近い形で塗られており、年代が進むにつれ徐々に正方形に近くなっていくこと。

更に構図としては三角形や円錐・円柱になるよう幾何学的な配置を多用していること。


(これが後にキュビズム誕生の下地になったといわれています。)

そして部分的に敢えて絵の具を塗らずキャンパス地をそのまま残しており、これも年代と共にその面積が増えているのです。

それらの特徴が重なっている代表作として1899年に制作された『リンゴとオレンジ』があります。

どうでしょう・・・私には余白以外については今一つ理解できませんが、皆さんはいかがですか?

      


この余白に関しては、歳を重ねるごとにだんだん面積が増えているそうで、中にはこれを 「手抜きだ」 と批判する向きもあるようですが、果たしてそうなのでしょうか?

例えば雪舟の水墨画などは、その半分以上が紙のままですが、それを手抜きとは言いませんょネ。

かつて文楽の人形遣いで人間国宝に認定された初代・吉田玉男氏は、芸を極めていく程に余分な動きを抑えシンプルな人形遣いに昇華していった、と述懐しておられました。

おそらくセザンヌの余白部分が増えて行ったのも、同じ感覚ではないか? と私は推測するのですが・・・如何でしょう。

今後セザンヌの絵画を鑑賞される際には、幾何学的な配置と余白に注目してみてください。
笑2


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