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怪 人

日本プロ野球には、これまで累計1,000人を超える外国人選手が登録されているそうですが、その中でも活躍度・貢献度においてトップクラスと言えるのが、

 グレゴリー・ドウェイン・ウェルズ 選手
    Gregory DeWayne Wells


「えっ、そんな選手いたっけ?」 と首をひねる方もいらっしゃるでしょうが、彼の登録名が〝ブーマー・ウェルズ〟だったと聞けば、「あぁ、あの・・・」 と思い出すことでしょう。

彼が外国人選手として初めて三冠王を獲得したのが、今から32年前の今日・1984(昭和59)年9月30日のことでした。

(※阪神のランディ・バース選手が三冠王を獲得したのは、翌1985年から2年連続。)

1954年にアラバマ州で生まれた彼は元々アメフト選手として活躍し、1975年にはNFLのドラフトでニューヨーク・ジェッツから指名された程でしたが、結局入団はせず。

その後は一転して野球選手としてプロの道に入り、1981年にトロント・ブルージェイズ、翌年ミネソタ・ツインズでプレーした後阪急ブレーブスと契約。

来日前に近鉄のマニエルから日本野球事情を仕入れそうですが、元々練習好きだった彼は日本の長い練習時間にも対応し、初年度も打率.307とそこそこの成績を残します。

そして環境に慣れた翌1984年には大爆発。

482打数171安打で打率.355、37本塁打、130打点で見事三冠王を達成してチームのリーグ優勝に貢献し、MVPも獲得。

〝ブームを呼ぶ男〟という意味合いでつけられたブーマーという登録名に相応しい活躍をしたわけです。

        

ベンチで奇声を上げることや、身長200cm・体重100kgの巨漢から〝怪人〟とも言われた彼ですが、豪快な見かけと違い実は非常に器用かつ心優しい選手だったとか。

イメージからすると、豪快なホームラン王という感じですが、実は柔らかなスイングが持ち味のアベレージ・ヒッター。

確かに推定飛距離162mの特大ホームランを打ったこともあるパワーの持ち主ですが、選球眼が良く三振が少ないのが特徴。

しかも通算打率では、4,000打数以上の歴代ランキングだと

第1位  レロン・リー  .320
 

第2位  若松 勉     .31918 
第3位  張本 勲    .31915
第4位  ブーマー    .317
第5位  川上 哲治   .313


第7位  落合 博満   .311

第12位 長嶋 茂雄    .305

なのですが、1~3位、5位は全て左バッター。
右バッターとしては、あの落合選手よりも上なんです。  

同僚の山田投手は、  


「彼は、タイトルには全く固執しない、フォア・ザ・チームの選手だった。


 ホームランを狙えばもっと打てたけど、チャンスではライト方向に軽くヒットを打つことが多かった。」

と証言していますし、また死球を巡って投手めがけて突進して退場処分を食らった直後は、対戦相手の梨田捕手に謝罪し握手してベンチに帰ったという微笑ましいエピソードも。


また非常な恐妻家で、毎日の小遣いを2,000円しかもらえず、うどんやフライドチキンばかり食べているのを見かねた上田監督が、何度もステーキを御馳走したそうな。

また球場へはマイカーではなく電車で通勤。

頭をぶつけないように身体をかがめて阪急電車に乗るシーンをプロ野球ニュースで見たことが忘れられません。

しかしそんなブーマー選手に関して、非常に残念なことがひとつ。

間違いなく日本プロ野球史に残る名選手なのに、引退から20年となる2012年までの有資格期間中に、野球殿堂入りができなかったこと。

本人も非常に残念がっていたそうですが、三冠王を獲得した選手を落選させるとは・・・。

日本球界の閉鎖性、外人選手に対する敬意の足りなさを感じるのは、私だけでしょうか?うー

 


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大和魂

学校で少しだけ習った記憶が皆さんにもあると思いますが、『国学』 とは蘭学と並び江戸時代を代表する学問のこと。

元禄時代に契沖が創始したと言われ、それまでの儒教や仏教中心とする学問の傾向を批判し、日本古来の古典を研究して独自の精神世界・思想を明らかにしようとするものですが・・・今日・9月29日は、その国学を代表する学者にして医師でもあった


   もとおり のりなが
 本居 宣長

の命日にあたります。

宣長は1730(享保15)年に木綿商を営む父・小津定利の次男として、現在の三重県松坂市で生まれました。

幼少期から習字・漢籍を学んだ宣長は、11歳の時に父を亡くしたため跡を継ぐべく一時期江戸に上って叔父の店を手伝ったり、19歳で紙商を営む今井田家に養子に入って修業。

兄が亡くなったため22歳で小津家を継いだ宣長でしたが、自ら商売向きでないと悟った彼は母親の意向もあって医師になるべく京都に遊学します。


         

京都では医学を学ぶ傍ら儒学、更には漢学・国学などに幅広く接した宣長は、やがて荻生徂徠や契沖の薫陶を受け国学に傾倒していきます。

28歳で帰郷し、地元・松坂で内科・小児科医を開業した宣長は、その傍ら古典講釈塾も開講して町人たちに源氏物語を
教えたり日本書紀の研究をするように。


そんな中、彼に運命的な出会いが訪れます。

かつて彼が購入し影響を受けた『冠辞考』の著者・賀茂真淵が伊勢参りの帰路に松坂を訪れた際、面談の機会を得たのです。

俗にいう〝松坂の一夜〟の対面・・・生涯でたった一度の出会いで感じ入った宣長は、弟子入りを志願。

これぞまさしく〝一期一会〟の見本といえましょう。

約半年後に入門を許された彼は、以後馬淵が亡くなるまでの6年間にわたり手紙のやり取り、つまり通信添削のみで指導を受けました。

師匠から当初万葉集の注釈から始めるよう指導を受けた彼は、やがて古事記の研究に没頭。

有名な44巻に渡る大書・『古事記伝』は、32年かけて1798(寛政10)年に完成。

まさにライフワークと言える大仕事でした。


この古事記伝を含め、生涯に200冊以上の著書、1万首以上の和歌、1,000通以上の書簡を遺し500人近い門人を育てた宣長が71歳でこの世を去ったのは、今から215年前の今日・1801(享和元)年9月29日。


私たちは、明治維新以降どうも欧米に憧れ日本(の文化)を卑下する風潮がありますが、世界一古い国家である母国に誇りを持つと同時に、もっと知るべきだと思うのです。


宣長の著書としては、筑摩書房から全23巻に及ぶ 『本居宣長全集』 が刊行されていますが、学者でもない限り到底読破できない膨大な量。

ということで、比較的容易に彼の功績・学問に触れられる著書をご紹介致しましょう。

  『本居宣長』 (田中康二・著 中公新書・刊)


        

『古事記伝』 を始めとする宣長の著書を通して、彼の人となりや考え方を知ることが出来ます。

著書 『うひ山ぶみ』 の中で、宣長はこう述べています。

〝(件の書どもを早くよまば、)やまとたましひ〔大和魂〕よく堅固(かた)まりて。漢意(漢学のこころ)に陥らぬ衛(まもり)にもよかるべきなり。
道を学ばんと心ざすともがらは、第一に漢意儒意を清く濯ぎ去りて、やまとたましひ〔大和魂〕をかたくすることを要とすべし。〟


【(それらの本を早く読んでおけば、)大和魂の地固めが出来て、漢意に陥らない守りになろう。
道を学ぼうと志を立てる人々は、第一に漢学・儒学をきれいさっぱり洗い流して、大和魂を堅固にすることが必要だ。】


温故知新・・・とかく敬遠しがちな古文の世界を通して日本人の感性・教養の高さに触れ、現代日本人が忘れかけている〝大和魂〟を再認識すべきでしょう。扇子



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制 空

皆さんが海外旅行に出掛ける際に搭乗するジェット旅客機といえば・・・最近はエアバス社製か、ボーイング社製が殆どのはず。

今日は、そのボーイング社の創業者である


 ウィリアム・エドワード・ボーイング

    William Edward Boeing


の命日・没後60周年にあたります。

         

ボーイングは1881年にミシガン州デトロイトで生まれました。

父親は裕福なドイツ系鉱山技師でしたが、スペリオル湖近くの広大な土地を取得して製材業に携わるように。

ボーイングはスイスの大学に学んだ後エール大学に転籍し1903年に卒業すると、当初は父のビジネスを引き継いで製材業の世界に身を投じました。

しかしグリーンウッド製材会社の社長を務めていた1909年、アラスカで開催された大西洋博覧会見物に行ったことが、彼の運命を大きく変えることに。

途中シアトルに向かう際に生まれて初めて飛行機を見た彼は、その魅力と将来性の虜になってしまったのです。


そして彼は1916年、海軍の技師だったジョージ・コンラッド・ウェスターバレットと共に、航空機製造会社を設立。

2人の頭文字を取って〝B&W 〟と命名されたこの会社が、ボーイング社の前身となりました。

同社が制作した1号機は社名と同じ〝B&W 〟と名付けられた双フロート水上機でしたが、1917年には社名をボーイング航空機株式会社に変更。

そして同社にとって幸運だったのは、その当時が第一次世界対戦中だったこと。

米海軍からパイロット養成用の水上機を約700機も受注できたことで、会社の基盤が築けたのですから。

その第一次世界大戦終結後は軍用機に代わって航空郵便事業に進出。

路線を開拓すると同時に専用機の開発も行い、事業を拡大。

しかし急激に巨大化した会社は1934年に独占禁止法によって分割されると、彼自身は航空事業から撤退・・・1956年9月28日に、74歳でこの世を去りました。

しかしボーイング社はその後も拡大を続け、1997年にはライバルだったマクドネル・ダグラス社を吸収合併。

現在は年間売上高7兆円・世界70ヶ国に165,000人の従業員を抱える、世界最大の民間機・軍用機メーカーとして君臨。

それ以外にも防衛システム・ロケットエンジン・人工衛星など幅広い製品を世界90ヶ国に提供する、アメリカ最大の輸出企業に成長しています。

しかし、日本人・・・特に大東亜戦争を経験した高齢者の方にとって、この会社の名はあまり聞きたくないかもしれません。

何故なら、繰り返し上空から焼夷弾を落としたのが、この会社が生産したB-29だったから。

        

ボーイングの〝ボ〟の字を耳にしただけで、当時の悲惨な体験がフラッシュバックする方もいらっしゃるかも・・・。

またベトナム戦争時、北爆に使用されたB-52という機種も昭和世代ならご記憶でしょう。

一方、私を含めた戦後世代にとって、ボーイング=旅客機メーカーというイメージも強いはず。

その中でも、やはり〝ジャンボ〟の愛称で親しまれたボーイング747が最も印象的でしょうか?

        



※ジャンボ・ジェットに関する過去記事は、こちら。(
    http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10420551188.html

ボーイングという名を聞いて、忌まわしい戦争を思い出すか、楽しい海外旅行を思い出すか・・・それは住む国と世代によって違うかもしれません。

願わくば、今後は後者のみに限定されることを願いますが・・・。うー





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捏 造

KY珊瑚礁事件、慰安婦問題、福島第一原発事故における虚偽報道等々、朝日新聞の捏造・誤報は枚挙にいとまがありません。

その事実が露見するたびに同社は謝罪会見を開いては殊勝に反省の弁を述べますが、その体質が改まったと思っている国民は、一体どれ程いるのでしょう?

少なくとも私は、朝日新聞および同グループの捏造体質は企業DNAとして脈々と受け継がれていると確信しています。

その一例といえる悪質なでっち上げ記事が同紙に掲載されたのが、今から66年前の今日・1950(昭和25)年9月27日のことでした。 いわゆる

 伊藤律 会見捏造事件

と言われているものです。


伊藤 律(1913-1989)とは、共産党の中心人物として活動していた政治家ですが、この記事が出る直前の1950年6月にGHQから出された公職追放令と翌月に出された団体等規正令に基づく出頭命令を拒否したことで逮捕状が出され、地下に潜伏中でした。

その彼に朝日新聞・神戸支局の記者が宝塚市の山林で数分間面談・会見に成功したとして、その模様を一問一答形式の記事を掲載したのです。

        


当然この記事には彼の行方を追っていた捜査当局も重大な関心を寄せ記者から事情を聴取したところ、記者が伊藤律と面会していたと供述した日時に旅館に滞在していたことが判明。

矛盾を追及された記者は、あっさりとでっち上げを自白。
3日後の社告で謝罪する羽目になったのです。

記者は退社し、その後占有目的疎外行為処罰令違反で逮捕・起訴され、執行猶予付きの有罪判決が確定。

同紙神戸支局長は依願退社、大阪本社編集局長は解任されました。

記者はたまたま伊藤律の第一高等学校在学時の同級生の後輩で、伊藤が地元で講演した際に彼の姿を見たことで、人相や仕草などを知っていたとのこと。

特ダネをモノにしたい・・・という功名心で記事を書いたようですが、全くバカなことをしたものです。

同紙の縮刷版では、この記事はすっぽり抜けており、事実無根と書かれていますが、ここでも表題は『お断り』だけで謝罪の言葉はありません。

         

ちなみにこの記事を東京の潜伏先で読んだ伊藤本人は、

「なかなか迫真的なこの大記事を夕刊で見て思わず噴き出した」

そうですが、その気持ちや驚きは想像に難くありません。

実際にインタビューしても、その内容を平気で変えてしまう記者はいくらでもいますが、してもいない会見を記事にするとは呆れるばかり。

反省したはずの朝日新聞が、その後も捏造記事や誤報を乱発してきているのは、前述のとおり。

同社は真実を報道するのではなく、自虐史観や左翼思想を国民に刷り込もうという明確な意図を持って捏造記事を垂れ流していると言えましょう。

この反日左翼プロパガンダ広報紙が存続する限り、同様の事件・事例は今後も起き続けることは確実・・・だと、私は思います。うー




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老 害

昨夜、会社から帰宅して夕食を食べ始めたら、珍しく女房が興奮気味に話し始めました。

「ちょっと、聞いてョ。 今日の昼間、久しぶりにホット・ヨガに行ったんだけど、クラスが終わってシャワー浴びに行ったら、一番手前のシャワールームの入口に誰かの荷物が置いてあったの。」

「それで?」

「私は別のシャワーを使って出て来たらネ、その荷物を置いてあるところに、70歳代の女性が仁王立ちしていたのョ。

その時は何でだか分からなかったんだけど、私が化粧室でドライヤーかけてたら、外からものすごい怒鳴り声が聞こえてきたの。」

「怒鳴ってたのが、そのおばあちゃんだったってこと?」

「そうなの。 どうやら本人は荷物を置いてそのシャワールームを使おうと思ったら、その前に別の人が入ったらしくて、その人が出てくるのを待って『何で先に使ってんのョ!』ってキレたみたいなのョ。」

「荷物を先に置いた人が使っていいルールでもあるのかい?」

「そんなのあるわけないじゃない。 その人が勝手に思い込んだだけョ。」

「ふぅ~ん。 それで、そのヨガ教室のスタッフは仲裁に入らなかったの?」

「いえ、さすがに飛んできたみたい。」

「それで、どうなったの?」

「巻き込まれたくないから、私は目の前を通り過ぎてそのまま出てきちゃったから顛末は知らないけど、5分以上怒鳴りっ放し・・・キレる老人って凄いわァ。 私、初めて見てビックリしちゃったワ。」

・・・さて、皆さんがもし老人から理不尽にキレられたら、どうしますか?

    

私が同じ質問を女房にしたら、彼女の答えは

「そんなの、とりあえず『すみません』って謝って、逃げちゃうわョ。」

それを聞いた時、私は日本の外交と同じだナ~、と思いました。

自分が悪くないのに謝る姿勢が、南京事件や慰安婦問題と同じ。
でもそれで相手の怒りが鎮まるどころか、かさにかかって謝罪や金銭を要求されているのが現実。

1週間程前に、ネット上でバスの中でキレる老人の動画が公開され、話題になりました。

何でも、定刻通りにバスが来なかったことに腹を立てた老人が、運転中の運転手にしつこく詰め寄っていたそうですが・・・その動画が、こちら。(↓)

   https://www.youtube.com/watch?v=BmTmccXtEUo

ご覧のとおり、当初は「運転手さん、無視して」と穏やかに声をかける乗客もいましたが、それでも食い下がる老人に対し、最後は「降りろ、こらァ」と他の乗客が逆ギレ。

結局この老人は乗客らによってバスから引きずり降ろされたとか。

終始運転手が冷静だったのが妙に印象的ですが・・・私は理不尽な言いがかりには、たとえ老人が相手でも毅然と対処すべきだと思います。

黙っていれば、隣国のようにますます増長するでしょうし。

言い方に問題はないとは言いませんが、このバスの事案でもし乗客が見て見ぬふりをしていたら、この老人は運転手につかみかかった可能性がありますし、そうなったら重大な交通事故に繋がったかも。

シャワールームのようなトラブルにもし私が巻き込まれたら、相手の2倍デカい声を出して言い返すでしょうネ。

えっ、奥さんに謝らずに言い返すよう説教しろって?

じょ、冗談じゃありません。

そんなこと言ったら、どんな反撃食うか・・・それこそ、キレる老人なんか比較にならないくらい怖いんですから、ウチの女王様は。うー


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咖喱味

今日は、久々に〝衝動買い〟レポートです。

数日前コンビニに立ち寄った際、ちょうど私の目の高さに『新発売!』・『極辛!』 という手書きのポップが。

まるで私に買って! と言っているかのようなその商品は、

 明星 カシミールカレー焼きそば

  

拙ブログの読者の皆様はご記憶かと存じますが、私は常時辛いカップ麺・焼きそばを探しています。

焼きそばではペヤングが主流で、明星製品としては3年半前に 『すこびる麺』 をご紹介しましたが、宣伝文句や商品名ほど辛くはなし。

結論としては、私が辛くて食べられないような市販品は出ない・・・と半ば諦めています。

ではなぜこの新商品に惹かれたかというと、それは(銀座の老舗カレー店)〝デリー〟監修とパッケージに記載されていたから。

カレー好きとしては、スルー出来ませぬ。
早速買い求め、やっと昨日食べることができました。

今月19日から発売されたこの焼きそばは、メーカーの説明によれば

〝銀座デリーで不動の人気を誇るカシミールカレーのおいしさを焼そばにアレンジ。 クミン、ターメリック、コリアンダーなどの香辛料が麺に絡み、スパイシーな刺激と風味が楽しる〟

との事。

パッケージには極辛と書いてありますが、正直そちらよりも今までにない〝カレーの風味〟に期待しました。


通常のカップ焼きそば同様に熱湯を入れて3分後に湯切りして、ソースを絡めふりかけをかけると、こんな感じ。

   

ソース焼きそばより、少々黄色っぽい感じですネ・・・って、当たり前か。

早速食べてみると、やはり私には殆ど辛味は感じられませんでした。
極辛というより、微辛・・・『すこびる麺』の方が明らかに辛いです。

が、唐辛子のビリッとする鋭角的な辛さではなく、スパイスのじんわりした辛さというか旨味はありました。

これなら、あまり辛さに強くない方でも(多分)大丈夫でしょう。
またこれだけで足りない方は、ライスと一緒に食べられますョ。

今後のカップ麺は、辛さよりも深み・旨味で勝負してくれると嬉しいですネ。

この焼きそばより10日早く 『カシミールカレーラーメン』 が発売されているそうですので、ラーメン党の方はそちらを召しあがれ~!笑2


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カッパ

河童ではありません。 ギリシャ文字の〝κ〟(カッパ)です。


今からちょうど60年前の今日、我が国初の地球観測用ロケット、


 カッパロケット (K-1型)


が打ち上げられました。


開発責任者は、日本ロケット工学の第一人者・糸川英夫博士。


敗戦後の日本はGHQによって徹底的に軍備解体されられ、航空機の研究すら禁止されてしまいました。

そして1952(昭和27)年のサンフランシスコ講和条約によりようやく独立を果たした時、航空機はジェット機の時代に突入し、日本は大きく後れを取っていたのです。 


しかしそんな時代に於いて、

「アメリカでは既にロケットの時代に入っている。 


我が国は空気がない所でも安定して飛べるロケット研究をすべき。」

と主張したのが、半年間アメリカで過ごしていた糸川博士でした。


          

糸川博士の「航空機に代わる超音速で超高層を飛ぶ飛翔体を作る」 という先鋭的な構想に魅せられた若い研究者が集結し、1954年に

Avionics and Supersonic Aerodynamics


つまり航空電子工学と超音速の空気力学を究めようという〝AVSA研究班〟が東京大学生産技術研究所内に立ち上がります。


ちょうど時を同じくして、イタリア・ローマで IGY International Geophysical Year = 国際地球観測年) の準備会議が開催されました。

これは世界各国の科学者が共同観測を行い、地球の全体像を把握しようという目論みだったのですが・・・この時に2つの特別プロジェクトが立ち上がることに。

ひとつは南極大陸観測。

これに日本が参加することになり、南極観測船 『宗谷』 が建造され昭和基地建設や南極越冬隊派遣に結びつきました。

そしてもうひとつがロケットによる上層大気の観測。

「1958年までに高度100kmまで到達できるロケットを作れるか?」

と問われた糸川博士は、「飛ばしましょう」 と即答。

これによって日本は南極観測と同じくロケット観測に加わることになったのです。


当時高度100kmに到達する観測ロケットを保有していたのはアメリカとフランスだけで、いずれも液体燃料を使用。

しかし糸川博士率いる
AVSA研究班は安価な固形燃料使用に拘り、小型のペンシル型ロケットから実験を重ね、ペンシル→ベビー、更にギリシァ文字のアルファ→ベータ→カッパ→オメガと徐々に機体を大きくしていく戦略を採用。

ペンシル、ベビーと実験を重ねつつ大型化を進めたものの、IGY に間に合わせるため開発のピッチを速める必要性が生じ、アルファ・ベータはスキップし、いきなりカッパの開発に着手。


翌1955年10月にカッパロケット打ち上げのため秋田県の道川海岸に実験場を建設。

といっても当時はロケット運搬は馬車、コントロールセンターは屋根もなし・・・という牧歌的な趣きだったそうですが・・・。

そして幾度となく燃焼実験を繰り返した末、直径11cmのマカロニ状の固形燃料を搭載した全長2.7mのK-1ロケットは、1956(昭和31)年9月24日に打ち上げ成功。

上空5kmまで上昇したのです。


        

               K-1型カッパロケット

その後も実験・改良・大型化を続け、IGY 期限前の1968年6月には、ついに上空40kmまで到達できる直径25cmと16cmの二段・全長5.4m・総重量255kgのK-6型ロケットが完成。

結局IGY 期限内に観測用ロケットを完成させたのは、アメリカ・ソ連・イギリスと日本の4ヶ国だけでした。


その後1963年に発射場を種子島・内之浦に移してロケット開発・実験は続けられ、カッパロケットは1988年まで打ち上げられました。

(最も多かったK-9M型が1961年から28年間で累計81機。)


アメリカのNASAのように莫大な予算がつかないこともあり、未だ有人ロケットは打ち上げられていませんが、『ハヤブサ』 帰還成功という金字塔も打ち立てた日本。

日本人特有の努力と知恵で、JAXA 宇宙航空研究開発機構)にはこれからも宇宙開発の先陣を切って欲しいものです。扇子



 


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サッポロ

真夏は過ぎましたが、それでも仕事帰りに〝とりあえず〟の生ビールで生き返っている方は多いことでしょう。

そのビール製造に関し、日本で初めての営業用ビール醸造工場である

 北海道開拓使麦酒醸造所

が開業したのが、今からちょうど140年前の今日・1876(明治9)年9月23日のことでした。

ここが、現・サッポロビールの原点でもあります。

この工場建設には、その名の通り北海道開拓が大きく関わっています。

本格的な北海道開拓は1880年代後半から始まりましたが、それ以前のインフラ拠点として工場群の建設が始められたのが、工業用水が豊富で製品や木材の搬出・輸送に適した現在の創成川と豊平川の間に挟まれた広大な土地。


その一角にできたのが、この醸造工場でした。

そして同醸造所を建設したのは、村橋久成という元薩摩藩の上級武士。

         

薩摩藩の第一次英国留学生の一員として選ばれ、ロンドンの大学で1年間学んだ彼は、帰国後戊辰戦争に従軍し、箱館戦争時には榎本武揚と終戦交渉を行うなど活躍。

終戦後は開拓使東京出張所に出仕し、北海道の測量・区分けなどを行った彼は、開拓使が計画中だった麦酒醸造所の建設責任者に任命されました。

開拓使側は一旦東京に工場を建設する予定でしたが、彼はビール醸造の気候条件は北海道の邦画適しているとして現地建設を主張し、1876年5月に職人を連れて北海道入り。

そして4ヶ月後の9月23日に、早くも工場を完成させたのです。

       



当時は木造(※煉瓦造りに改築されたのは1892年)で、開業式の庭先に積まれたビール樽(写真・右)には

〝麦とホップを製す連者(れば)ビイルとゆふ酒に奈る〟

と書かれていました。

翌年夏にはこの工場で作られたビールに開拓使のシンボルである北極星が描かれたラベルを貼り 『冷製札幌麦酒』 と銘打たれて東京で販売され、好評を博したとか。

そして完成から10年後の1886(明治19)年に同醸造所は大倉喜八郎率いる大倉組商会に払下げられ、更に翌年浅野総一郎・渋沢栄一らがこれを買い取って札幌麦酒会社を設立。

これが現在のサッポロビールの前身というわけ。

そして現在この醸造所は 『サツポロファクトリー』 に生まれ変わり、連日多くの観光客が訪れています。

一方、村橋久成はどうなったかというと・・・。

ビールの販売が順調に推移したことで、彼は工場立ち上げの2年後に札幌本庁の民事局副長になったのですが、その翌年病気のため熱海で療養を強いられ、治癒後は東京在勤に。

1880年には東京出張所勧業試験場長に任命されたのですが、黒田清隆主導の醸造所を含めた開拓使施設の民間払下げの動きを知って失望したのか、1881年5月に突然開拓使を辞職。

北海道内の牧畜会社の社長に就任するも、しばらくして家族をも捨て托鉢僧となり、放浪の旅に出て消息不明に。


そして1892年9月下旬に神戸市内の路上で所持品もなく裸同然で行き倒れているところを巡査に発見され病院に運ばれたものの、数日後に肺結核と心臓弁膜症により50歳で寂しくこの世を去りました。

心血を注いで作り上げた醸造所が安価で払い下げられたショックは、私たちの想像以上に大きかったのでしょうネ。

今晩ビールを飲まれる方は、国内初の醸造所の完成記念日を祝うと同時に、村橋氏の冥福を祈りつつ献杯をお願いします。笑3

 


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闇 米

かつて損保会社在籍時、新潟支店に転勤した際、この騒動が起きた場所は担当エリアでした。

それは、今からちょうど70年前の今日、現在の村上市で起きた


 坂町事件

戦時中労働力不足を補うため国内に移入してきた中国人・韓国人らは、戦後の混乱・取り締まりの不備に乗じてその態度を一変させ、元々住みついていた同胞らと手を組んで闇米の流通・販売や酒の密売を行うように。

当時新潟県下越(新潟市以北)では在日本朝鮮人連盟が新発田市に事務所を置き、羽越本線・坂町・平木田の両駅を基地として闇米を関西地方に1日あたり50俵を出荷していました。

公然と経済統制違反を繰り返す彼らを取り締まるべく、1946(昭和21)年9月22日午前1時頃、村上警察署は加藤巡査部長以下署員7名を取り締まりのため坂町駅に派遣。


  

現場に居合わせた約50名の朝鮮人・中国人は警官の姿を見て一旦姿を隠しましたが、彼らがホームに置かれた闇米を押収しようとすると、一転して 「殴れ!」 と叫び声を上げながら襲いかかり,ちょうど到着した列車から更に約20名の朝鮮人が下車して加勢。

警察官に暴行を加えた挙句、発射した列車に飛び乗って逃走。
しかし加藤巡査部長は殴られながらも逃げ遅れた朝鮮人2名を逮捕し、署に連行しました。


更に同日午後、駅近くの駐在所からまたしても闇米運搬の情報が寄せられたため、河津警部補以下10名の警察官が坂町駅近くの旅館に向かい、闇米3俵(180kg)を所持していた中国人男女を見つけ、金屋村の闇米ブローカーの元に。

ところが、そこでまたしても中国人・韓国人約50名に襲われ、更に警官を助けようとした金屋村の自警団も逆に鳶口や木刀を奪われて襲われる始末。

その後進駐軍の係官が現地に赴き、中国人・朝鮮人に対し法を順守するよう申し渡しを行い、警察はようやく中国人11名・朝鮮人1名を逮捕。

しかし村上署から新潟署に身柄を移された彼らは軍政部員の取り調べ後、県外追放と再び新潟県内で闇米を取り扱わない旨の誓約をしただけで釈放されたといいます。


       

          事件を伝える当時の新聞記事

何とも腰の引けた対応ですが、これで中・朝鮮人にナメられたのか、事件はこれで終わりませんでした。

翌23日の夕刊で、『MPも出動、坂町で深夜の乱闘』 と題して事件を伝えた新潟日報社と読売深読売新聞に対し3日後の9月26日、「報道に誤りがあることを認め、ラジオを通じて新潟県民に誤報だったという声明を出せ」 と朝鮮人16名が要求。

(情けないことに)読売新聞はこれに応じたものの、新潟日報は29日に拒否。

これに同社を訪れた朝鮮人16名が怒り、茶碗を投げつけ社内を破壊。
9名が逮捕・起訴され、有罪になったのです。

    

             破壊された新潟日報社内

彼ら在日の中国・朝鮮人は、終戦前後から集団を組んで暴行・犯罪事件を繰り返してきました。

日本人には考えられない警察官・警察署襲撃を平気で行うことからも、いかに凶暴であるかが分かります。

彼らが引き起こした重大事件は、この坂町事件だけでなく相当数に上ります。

特に在日朝鮮人の起こした事件だけでも、こんなに・・・。(

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%83%BB%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E5%B9%B4%E8%A1%A8

また現在でも、日本国内で起きている在日外国人の犯罪件数は、1位・朝鮮人 2位・中国人。

あまりそういう印象がないとすれば、それは朝日・毎日グループなど多くのマスメディアが〝通名報道〟しているから。

政府は労働力不足解消のために移民受け入れを考えているようですが、もしそうすれば戦前の日本と同じ・・・第2の坂町事件が起きることは、ほぼ間違いないでしょうネ。うー



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疑 惑

先日閉幕したリオ五輪の陸上競技では、ボルトの3連覇や日本男子4×100mリレーの銀メダル獲得など、様々なドラマが生まれました。

過去の大会でも同様でしたが・・・中高年のスポーツ・ファンなら、この女性アスリートの名はご記憶のことでしょう。

 フローレンス・グリフィス=ジョイナー

     Florence Griffith Joyner


1988年に開催されたソウル五輪の女子陸上100m・200m・400mリレーで3冠を達成した、アメリカの選手ですが・・・今日は、彼女の命日にあたります。


彼女は1959年にカリフォルニア州ロサンゼルスに生まれました。

当初は目立たない選手だったのですが、1980年代後半から急激に頭角を現し、1988年7月16日には10秒49というそれまでの記録を一気に0秒27上回る驚異的な記録をマーク。

※その時の映像が、こちらでご覧いただけます。(↓)
    https://www.youtube.com/watch?v=UVSmPBLnSXY


この2ヶ月後に開催されたソウル五輪で3冠を達成したのですが・・・なぜかその直後に突然引退を宣言し、トラックから姿を消しました。


そして今から18年前の今日・1998年9月21日に、心臓発作により38歳の若さでこの世を去ったのです。

        

今でも100・200mの世界記録保持者であり、陸上競技界に今でも名を残す名選手・・・のはずですが、彼女には大きな疑惑が付きまといました。

それは〝ドーピング〟、即ち薬物疑惑。

突然記録が伸びたこと、また上の画像のように女子選手とは思えぬ筋肉隆々の体つき、野太い声等々それら全てがステロイド等の薬物接種のものと疑われました。

長く伸ばした爪やマニキュアや派手なユニホームは、その体男性的な格を隠すため、また五輪直後に引退したのも疑惑追及から逃れるためとも言われました。

(因みに、同五輪の男子100mで優勝したベン・ジョンソン(カナダ)はドーピング検査で引っかかり金メダルを剥奪されましたが、これはカール・ルイスが負けた腹いせにアメリカがチクッたからだといわれています。)冷や汗


そして薬物を使用した選手は、副作用により若い時期に突然死するケースがあり、彼女の心臓発作もその影響といわれています。

当時はまだドーピング検査の精度が悪く、すり抜けることが可能だったとか。

従って彼女だけでなく、ソ連など共産圏の選手にも同様の薬物疑惑がかけられていました。

現在でも世界記録として公認されている陸上競技種目の中で、女子100・200・400m、走り幅跳びは、今後も破れない不滅の記録といわれています。

 ◆ 100m  


    世界記録   F・G・ジョイナー      10秒49 1988年
    歴代2位    カーメリタ・ジーター(米) 10秒64 2009年
    (日本記録   福島 千里          11秒21 2010年)

 ◆ 200m


    世界記録   F・G・ジョイナー       21秒34 1988年
    歴代2位    マリオン・ジョーンズ(米) 21秒62 1998年 
    
(日本記録   福島 千里           22秒88 2016年)


 ◆ 400m


    世界記録   マリタ・コッホ(東独)    47秒60 1985年  

    歴代2位    ヤルミラ・クラトフビノバ(チェコ) 49秒99 1982年

    (日本記録   丹野 麻美          51秒75 2008年)


 ◆ 走り幅跳び

    世界記録   ガリナ・チスチャコワ(ソ連) 7m52 1988年
    歴代2位    J・J・カーシー    (米)  7m49 1994年
    
(日本記録   池田 久美子          6m86 2006年)

いずれも過去10年以内に更新されている日本記録はもちろん、歴代2位も大きく引き離していることが一目瞭然ですが、それらの記録全てが1980年代後半に集中しており、記録保持者全てに薬物疑惑が囁かれているのです。

これ以外にも、やはり1980年代に出た世界記録ホルダーにも、同様に疑惑の目が。

当時よりトラックやシューズなどが格段に進歩しているのに、約20年経過した今でも破れないこれらの記録は限りなく黒に近いグレーですが、公認されている以上は致し方なし。


東側諸国は金メダルを獲ればその後の人生は国家が保証してくれましたし、ジョイナー自身も幼少時はスラム街で貧困生活を強いられたそうですから、そこから抜け出すためにどうしても勝ちたかったのでしょうネ。

皆さんは、「もし寿命を半分くれるなら、不滅の世界記録と金メダルを授けよう」 と悪魔に囁かれたら、首を縦に振りますか?うー


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