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改 悪 ?

数日前、帰宅時にいつも利用しているスーパーマーケットに夕食を買いに行ったところ、入口にこんな張り紙が・・・。




今までここの駐車場は無料開放されていたのですが、今度は有料になるようです。

要は「2,000円分買わないお客様からは1時間300円いただきます」ということですが、この店長の『ご案内』・・・なんとなく木で鼻を括ったというか強気の文体なのが少々〝鼻〟につきます。

確かに都心の駅ビルとかデパートでは2,000円以上のお買い上げがないと30分につき300円+消費税を徴収する駐車場が主流。

でも、それは都心という場所柄仕方がないでしょう。

それよりは1時間300円なら良心的・・・とも考えられますが、私に言わせれば納得できません。

だって帰りがけにちょっと寄って1人分の夕食を買うとなれば、所要時間5~10分で1,000円未満の買い物する毎に300円を払わなければならないのですから。

これまでこのスーパーには数え切れない程行きましたけど、満車で入れなかったことは殆どありませんでした。

ここの駐車場は建物の2階に上げて停めなければいけませんから、買い物以外の目的で駐車する人は殆どいないはず。

なのに何で今になって駐車場を有料化にしたのか、実に不思議。
これでは 「小口客はクルマで来るな」 と言っているようなもの。

以前拙ブログでは、過去に同じような対応をした別のスーパーマーケットについて記事にしました。(↓)

http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10291682046.html

このスーパーは駐車場が道路に面していて買い物客以外でも簡単に停められたため、無断駐車を防止する意味合いがあったようですが・・・結局お客様からのクレームがあったからか、2ヶ月くらいで再び無料に。

しかしこれでケチがついたのか、その後しばらくして閉店してしまいました。

さて、今回有料化に踏み切ったスーパーの将来はどうなるでしょうか?

同店は幹線道路の交差点に位置していますから、来月から路上駐車が増えて渋滞や事故の原因にもなりそうですし・・・。


クルマでここから1,2分の距離に新しくできたスーパーは駐車無料・・・利用客はどう判断するでしょうネ。

少なくとも私は、明日から夕食を買うなら駐車無料の方に行きますけど。うー


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ワイルド

平成の世の中では、草食系というか中性的な男性がモテるようですが、昭和の時代はもっとワイルドな男性が女性のハートを掴んでいた気がします。

今日は、そういう野性的な人気俳優の一人、


 チャールズ・ブロンソン

   Charles Bronson


の命日にあたります。


ブロンソンは1921年に米ペンシルバニア州エーレンフェルドでリトアニア移民の子として15人兄弟の5男として生まれました。

炭鉱夫だった父親がブロンソン10歳の時に亡くなったため、彼は兄たちとともに炭鉱に入って家計を支えたそうですが、家計は苦しく彼は妹の服を借りて学校に通ったといいます。

第二次世界大戦中は陸軍航空隊に志願入隊し、B-29の射撃手として東京大空襲にも参加したという彼は、終戦後の1946年に除隊すると美術学校に入学。

そこで舞台の裏方やエキストラを務めたことで芝居に目覚めたといいます。

ニューヨークに出て、レンガ職人やウェイターをしながら演技を学び、端役を務めるなど苦労を重ねた末、1951年に 『The People Against O'Hara 』 で映画デビュー。

実は彼の本名はチャールズ・デニス・ブチンスキー (Charles Dennis Buchinsky )で、当初はその本名を名乗っていたのですが、ブチンスキーという東欧名が赤狩り旋風の中で不利と判断し、ブロンソンという芸名に変更。

以後、その独特な風貌を生かし、メキシカンやインディアンの混血役を演じつつキャリアを重ね、1951年には『マシンガン・ケリー』で、遂に主役に抜擢されます。

私が彼の姿を初めてスクリーンで観たのは、『荒野の七人』(1960年)。

そして最も印象に残っているのは、『大脱走』(1963年)での〝トンネル王・ダニー〟役。

         

閉所恐怖症に悩まされながら、トンネルを掘り続ける彼の演技は、独特な雰囲気がよく出ていました。

その後も『バルジ大作戦』(1965年)、『戦うパンチョ・ビラ』(1968年)、『雨の訪問者』(1970年)、更に三船敏郎やアラン・ドロンと『レッド・サン』(1971年)で共演を果たし、一流男優の仲間入りを果たしました。

その後も多くの映画に出演したブロンソンでしたが、その後アルツハイマー病を患い、2003年8月30日に81歳でひっそりとこの世を去りました。

個人的にはマフィアを題材にした『バラキ』(1972年)でのバラキ役がシブくて好きでしたが、日本国内で彼の名を一躍有名にしたのは、1970~80年にお茶の間に流れた男性化粧品『マンダム』のテレビCMでしょう。

チックで知られた化粧品メーカー丹頂は、資生堂やライオンの攻勢に晒され経営が悪化する中、起死回生を期して発売したのが、マンダム・シリーズ。

そのイメージ・キャラクターとして男臭いブロンソンを起用したのですが、当初社内では猛反発が起きたとか。

ところがいざ放映が開始されると、これが大好評。

ブロンソンの 「う~ん、マンダム
」という決め台詞は日本中で大流行、マンダムの認知度は98%におよび、丹頂の経営は急回復。

CM開始翌年の1971年に、社名もマンダムに変えてしまいました。

まさに、ブロンソン様々ですネ。

それでは、その懐かCMをご覧いただきつつ、ブロンソンのご冥福をお祈り致しましょう。笑3



              

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回 転

一昔前は高級だったものの、今では家族全員で気軽に楽しめるようになった和食といえば、〝寿司〟。

その最大の要因は、何といっても回転寿司の登場ですが・・・これを考案した方が誰か、皆さんはご存じですか?

正解は、

 白石 義明 

今日は、世界初の回転寿司店を出した、この元禄産業(株)の創業者の命日・没後15周年にあたります。


           

白石氏は1913(大正2)年生まれ。

満州で天ぷら屋を経営していたそうですが、終戦後引き上げて1947年から大坂で小料理屋を始めました。

(※同年に元禄産業を創業。)

その頃〝氷の天ぷら〟を開発し特許を取って売り出したそうですから、もともとアイデアマンだったのでしょう。

その彼が目をつけたのが、寿司。

当時高値の花だった握り寿司を安く提供できるよう、ネタを大量に仕入れ回転率を上げるために立ち食い寿司屋を始めたのです。

ラーメン1杯と同じ値段で寿司4貫が食べられるとあって、店は大繁盛。
しかしあまりの忙しさに従業員が次々と辞めてしまうことが、悩みの種でした。

そんな時に、たまたま仲間とアサヒビールの大阪工場を見学した白石氏は、ベルトコンベヤーでビールか運ばれていく光景を見て、閃きます。

「お寿司をベルトに乗せて回せば、少ない職人でもやっていけるし、好きなネタをお客さんに選んでもらえる!」

         


そう考えた白石氏は、早速仲間に相談して、寿司用のベルトコンベアーの開発に着手。

10年近い歳月をかけて寿司用のコンベアを完成させ、1958(昭和33)年4月に『元祖廻る元禄寿司』1号店を東大阪市布施にオープン。

物珍しさも手伝って、店は大繁盛だったといいます。

         


白石氏は1962(昭和37)年にこの『
コンベア旋回式食事台』の特許を取得。

1970年の大阪万博に出店したことで、回転寿司は全国に知れ渡り、同社は急拡大。

そして特許の切れた1978年以降各社が参入し、回転寿司はすっかり庶民の間に定着・・・年間総売り上げ3,500億円を超える一大産業に成長しました。

この回転寿司、地域ごとに特徴がありますょネ。

東京ではいろいろな皿が混ざって回っていますが、サラリーマン時代関西に赴任した時、マグロやイカなどが数皿ずつ固まって流れていたのを見てビックリしたことが。

そして今まで最も美味しかったのは、やはり転勤で約5年過ごした新潟の回転寿司。

ネタの厚みといい、お値段の安さといい・・・あれを経験したら、東京に戻ってからは女房共々すっかり行く気が失せてしまいました。

しかしそんな回転寿司業界も、今は曲がり角に立っているようです。
なんでも、〝廻らない回転寿司〟が流行り出したというのですから。

2001年8月29日に87歳で天に召された白石氏は、この様子を天国からどんな気持ちで眺めているのでしょう?

いや、もしかしたらまた新しいアイデアが閃いているのかも。

今日回転寿司店に行かれる方は、是非感謝の気持ちを込めて白石氏のご冥福をお祈りしてください。笑3


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決 闘

皆さんは、〝日本の三大仇討ち〟をご存じでしょうか?

まずひとつは、『忠臣蔵』。 そして 『曽我兄弟』。 

こまではスラスラッと言える方は多いと思いますが、3つ目の 『伊賀越えの仇討ち』・・・別名 『鍵屋の辻の決闘』 がパッと出てくる方は、かなりの時代劇ファンでしょう。

今日は、その決闘の主人公である

 荒木又右衛門


の命日にあたります。

剣豪として有名ですが、実は彼の来歴に関してはあまり詳しく分かっていません。

1599(慶長4)年に服部平左衛門の次男として伊賀。荒木村で生まれた彼は、父から中条流、叔父からは神道流の剣術を学んだといわれます。

12歳の時に播磨の大名・本田政朝の家臣・服部平兵衞の養子となるも、28歳頃に養家を離れて郷里に戻り荒木姓を名乗るように。

その後大和郡山藩の松平忠明に剣術師範役として召し抱えられます。

そして父の同僚だった渡辺内蔵助の娘・みのを娶ったことで、彼の運命は大きく変わることに。

           
            又右衛門の錦絵 (歌川国芳・筆 1845年)

1630(寛永7)年、岡山藩主・池田忠雄の小姓で美男子だった内蔵助の息子・源太夫が、同僚の河合又五郎から言い寄られるもこれを拒絶したため、逆上した彼に殺されてしまいます。

げに同性の嫉妬は恐ろしいですが、又五郎は江戸に逃げて旗本の安藤家にかくまわれます。

寵臣を失った藩主・池田忠雄は身柄引き渡しを要求するものの、安藤家がこれを拒否したため旗本と外様大名は緊張状態に。

揉めている最中に忠雄が急死してしまいますが、「又五郎を討て」 という遺言を残したため、源太夫の兄・渡辺数馬は、義弟の荒木又右衛門に助太刀を頼み、仇討ちのため又五郎を追跡。

そして1634(寛永11)年11月7日、2人は伊賀上野・鍵屋の辻で河合又五郎を討ち、本懐を遂げたのです。

講談等では、ここで荒木又右衛門が36人斬り殺したことになっていますが、実際には数馬・又右衛門側が4人、又五郎側が11人。

しかし又右衛門が斬った2人は、又五郎の叔父で上席剣術師範・河合甚左衛門と、槍術師範・櫻井半兵衛。

まさに剣・槍術のプロを切って捨てたのですから、又右衛門の腕前が相当なもの
だったことが伺えます。

その後数馬と又右衛門は鳥取藩主・池田光仲(忠雄の子)の求めに応じて1638(寛永15)年8月12日に鳥取入り。

そして共に妻子を呼び寄せたのですが・・・彼らが到着する前の8月28日に、又右衛門は頓死したといわれます。

これには毒殺説もある一方、河合家による暗殺を恐れての偽装死という説もあり、真相は藪の中。

しかしこの仇討ひとつで、荒木又右衛門の名は後世に語り継がれることになったわけです。

【 余 談 】


前述の通り、この仇討に関しては講談や時代劇で数多く取り上げられていますが、大抵は実話に尾ヒレがついたもの。

しかし、あくまで史実に沿って作られた作られた映画があります。

それは森一生監督がメガホンを取り1952(昭和27)年に公開された

 『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』

同作は、この仇討の予備知識がないと良く分からない内容になっていますが、脚本を手掛けたのが、あの巨匠・黒澤明氏。

そして又右衛門を演じたのが、三船敏郎さんでした。

         


に他の出演者には志村喬さん・千秋実さん・加藤大介さん・・・そう、この2年後に公開された 『七人の侍』 と同じメンバーが起用されているのです。

従来の派手なチャンバラ劇ではなく、あくまでもリアルな斬り合いを描いたこの作品が下地となって、あの不朽の名作が生まれたといっても過言ではないでしょう。

いや、荒木又右衛門がいなければ・・・とも言えるかも。

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最 短


世の中には様々な分野に最高・最低・最長・最短など、必ず世界一というものがありますが・・・ここでクイズです。

過去の歴史において、最も短かった戦争とは何日間だったでしょうか?


正解は・・・なんと、1/6日。 つまりたったの約4時間。

ボクシングでいえば、試合開始わずか3秒、一発のパンチでKOされたような、アッと言う間に勝負が決した超短期決戦だった

 イギリス=ザンジバル戦争


が起きたのが、今からちょうど120年前の今日・1896年8月27日のことでした。


戦場となったのは、アフリカ大陸から約25kmのインド洋上に浮かぶ面積2,650㎢という神奈川県(2,416㎢)より少し広い(諸)島・ザンジバル(Zanzibar )。


       

当時のザンジバル近辺はドイツ帝国とイギリスが凌ぎを削っており、1890年に両国間で結ばれたヘルゴランド=ザンジバル条約によって、イギリスが同島を保護国化していました。

しかし1896年8月25日・・・つまり開戦の2日前、それまでイギリスに協力的だったザンジバルの第5代スルターン(君主)のハマド・ビン・トゥワイニが甥のハリド・ビン・バルガシュにクーデターを起こされ殺害されてしまいます。

バルガシュは叔父を殺害後自らがスルターン就位を宣言するも、親英派で彼に対抗するハムード・ビン・ムハンマドから即時退位の勧告が。

当然バルガシュは勧告を無視し、湾内に武装鑑を湾内に停泊。
するとイギリス海軍はスルターン宮殿に面した湾に隻の軍艦を結集。

結局講和には至らず、最終期限の8月27日午前9時をもってイギリス艦から宮殿に向け一斉に砲撃開始。

するとアッと言う間にスルターン側の武装艦は撃沈され、宮殿も雨あられと降りそそぐ砲弾でほぼ全壊。

バルガシュは這う這うの体で宮殿を脱出しドイツ領事館に逃げ込み、砲撃は僅か40分で終了・・・戦争は呆気なく終結と相成りました。

この戦争による死者は、イギリス軍0、スルターン側500人。 いかに一方的だったかが分かります。

結局バルガスはその後紆余曲折を経てイギリス軍に拘束され、セントヘレナ島に島流しに。

その後ザンジバルは1964年に一時立憲君主国として独立したものの僅か1ヶ月で革命が起きて崩壊。 


その後併合などを経て現在はタンザニア連合共和国の領土となっています。

さてこのザンジバル、白いサンゴ礁やヨーロッパの石造建築遺跡が残る観光地で、2000年にはストーン・タウンが世界文化遺産に指定された実に美しい島。


      

とてもここで戦争があったとは思えぬ美しく静かなリゾート地なんです。


ハワイやグアム・サイパンなど、日本人観光客が多くて海外に来た気がしない・・・とご不満な方は、是非世ネスブック認定の世界一短い戦争が行われたザンジバルを訪れてはいかがでしょうか?

ツアーも組まれていますから、是非・・・ただし、日本からは乗り継ぎを入れて現地到着には丸2日かかるそうですけど。ダメだぁ顔

【※クイズネタとして余談をひとつ。


逆に世界一長い戦争は、オランダとシリー諸島の間で戦われた『三百三十五年戦争』(1651-1986)。

しかし皮肉なことに、一発の銃弾も撃たれず戦死者もゼロという、実に穏やか(?)な戦争だったとか。

でも、それって戦争って言えるんでしょうかネ?】





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ライオン

近年、永田町にはブレる政治家ばかりが目につきますが、この方はブレないことにかけてはトップクラスだったでしょう。

今日は、それ故に国民の人気が高かった


  はまぐち  お さち
 濱口 雄幸 第27代内閣総理大臣

の命日・没後85周年にあたります。

濱口氏は1870(明治3)年に現在の高知市に生まれた土佐っぽ。

林業を営む水口家の3人兄弟の末っ子でしたが、父親が役所に出向いた際酩酊状態で、本来〝幸雄〟と名付けるところを逆さに出生届を書いてしまったというエピソードが。

(これには、男子が続けて生まれた濱口家では次は女の子を願って〝お幸〟と名付けることに決めていたものの、またしても男子だったため当て字で雄幸にした、という説も。)

19歳の時に濱口義立の長女・夏子と結婚し、同家の婿養子となり濱口姓に。

そして旧制高知中学 → 三高 → 帝国大学(現・東京大学)法科とエリートコースを歩んだ彼は、1895年に大蔵省入り。

ところが謹厳実直かつ頑固な彼は、上司と衝突し地方回りの苦汁を味わったとか。

しかし彼の才能を惜しんだ先輩・友人が嘆願して東京に戻した・・・といいますから、その実力はかなりのものだったのでしょう。

専売局長官・逓信次官・大蔵次官を務めた後、1915年に立憲同志会に入党して衆院選に立候補し当選、代議士に。

そして大蔵大臣・内務大臣を経て、立憲民政党の初代総裁だった彼は張作霖爆殺事件の不始末で昭和天皇の逆鱗に触れ総辞職した田中義一内閣の後を受け、1929(昭和4)年7月に内閣総理大臣に就任。

危機感を抱いてたった1日で組閣した彼は、井上準之助・前日銀総裁を蔵相に起用して世界恐慌が起きた直後というタイミングで1930年1月、歴代の内閣が為し得なかった金本位制移行を断行。

また日本の軍事力を熟知していた彼は、英米との対立は避けるべきと判断。

それまでの軍拡から一転軍縮政策に舵を切り、1930(昭和5)年には周囲の反対を押し切ってロンドン海軍軍縮条約を締結。

これによって軍事費の国民負担を軽減した彼は、当時最新のマスメディアだったラジオを通じて所信を表明したことで国民から人気を博し、ヒゲの風貌と相まって〝ライオン宰相〟と呼ばれました。


         

             首相官邸のライオン像と濱口総理

国民の圧倒的支持を受けた彼は、官僚出身でありながら料亭政治や根回しを嫌い、常に正面突破の姿勢を堅持。

「仮令(たとえ)玉砕すとも男子の本懐ならずや」

という言葉通り、その真っ直ぐな姿勢は終始変わりませんでした。


今時のブレブレ政治家には彼の爪の垢でも煎じて飲んでもらいたいくらいですが・・・その一途さ・頑固さは、敵をも作ってしまいます。

1930年11月14日、濱口総理は陸軍の演習視察と天皇陛下の行幸付添いのため岡山県に向かうべく東京駅に来たところを21歳の右翼団体構成員に至近距離から撃たれ、重傷を負います。

その時は東京帝大付属病院に搬送され、腸の1/3を摘出すると言う大手術で一命を取り留めましたが、翌1931年1月まで入院を余儀なくされました。

その後議会に出席したものの容態は思わしくなく、4月4日には再入院して翌日に再手術。

結局総理の激務には耐えられないと判断し、同月13日に辞任を発表。

退院後も回復せず、結局同年8月26日・・・アクチノミコーゼ(放線菌症)のため61歳でこの世を去りました。

逝去の一報を聞きつけ浜口邸に駆け付けた閣僚の中で一人号泣したのが、井上準之助蔵相だったそうですが、その彼も翌1932年7月に血盟団事件の犠牲者の一人となり凶弾に倒れてしまいます。

濱口・井上両氏の政治姿勢に関して知りたい方には、この小説がオススメ。

 『男子の本懐』(城山三郎・著 新潮文庫・刊)


         

また東京駅には、濱口総理の銃撃現場に記念プレートが嵌め込まれています。

同駅にお越しの際は、このプレートを見つけて昭和の歴史の1ページに触れてください。


場所は駅構内中央通りから新幹線の改札に向かって登る、階段の手前ですョ。

        
  
あらためて、正道を貫いたライオン宰相のご冥福をお祈り致します。笑3



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悪魔の囁き

今日は、私の個人的な記念日・・・というか、良くも悪くも忘れられない出来事があった日、というお話ですので悪しからずご了承下さい。

8月25日は、私がゴルフのベストスコア・72(37・35)を出した日なんです。

今から20年近く前、新潟支店勤務時代のことでした。

コースは、当時7月末前後に男子ツアーの 『NST新潟オープン』 が開催されていたフォレストゴルフクラブ(現・フォレストカントリー倶楽部)。

もっとも、トーナメントは東コースで開催され、私がこの日ラウンドしたのは西コースでしたが。あせあせ




よく〝ゴルフは人生そのもの〟と言いますけど・・・お盆過ぎの猛暑の中、取引先の会社経営者らとのラウンドは、まさにその言葉通りのラウンドでした。

OUTスタートの1番で、いきなりボギー発進。

でもゴルフなさる方は経験あると思いますけど、最初にバーディーなんか出すと力が入って後がボロボロになりがち。

かえってボギーくらいのスタートの方が、肩の力が抜けて上がった時のスコアは良いもの・・・まさに、そんな出だしでした。

3番でバーディーを取ってイーブンに戻した後はパーが続き、7番で欲を出した5mのバーディーパットが2mオーバー、返しも外してボギーにしてしまい、結局それが響いて前半は37。

「ああいうところで欲をかくところが、ナベらしいょナ~。」

と同伴の社長さんに冷やかされつつ、昼食の後インコースへ。

ビールを飲んでホロ酔い加減だったのが良かったのか10番からパーが続き、15番のショートホールで7mのスライスラインを一発で決めて通算イーブンパー。

そして次のロングホールでは4番アイアンで2オンに成功。
今度は慎重に2パットで決めて連続バーディーとし、遂に1アンダー。

「おいおい、このまま行っちゃうのかョ。」

と同伴メンバーの顔が緊張で引き攣る中、17番もパーとして最終ホールへ。

18番は距離こそ短いんですが、グリーンまでフェアウェー右が池という、イヤらしいパー4。

      

ドライバーで打つと左に突き抜けたりグリーン近くの中途半端なバンカーに入るので、私は2番アイアンでティーショット。

「なんだョ、セコいなァ~。」

という冷やかしを無視してナイスショット・・・したかったんですが、人生初のアンダーパーを意識した私は体が硬直して、ややヒール気味のヘッピリ・ショット。

〝ペチッ〟という音と共に、ボールは右の池方向。

(い、池ポチャだけは勘弁してェ~!)

という願いが通じたのか、池の淵から1メートル強のセミラフ、上のコースレイアウトでは一番池がせり出した地点に辛うじて止まってくれました。

ここで 「助かった~。」 と神様に感謝して謙虚にパーを取りに行けば良いものを、この時悪魔が私に囁いたのです。

「おっ、ツイてるじゃん。 残り105ヤードで右のグリーンは受けてるから、P/Sのフルスイングでスピンバックさせればペタピン・バーディーで、ハーフ33だゾ!」

実はそれまでのハーフ・ベストは35。 最終ホールをパーで上がっても34でベスト更新だったのですが、私は千載一遇のチャンスに欲が出てしまったのです。


(そうかァ・・・じゃあ、狙ったれ~。)

悪魔の囁きを真に受けて迷いなくP/Sを手にした私は、フルスイング・・・ところがセミラフで少し沈んだボールにスピンをかけようと薄めにクラブを入れようとしたのが仇となりハーフトップ、ボールは130ヤードも飛んでグリーン奥のラフへ。

そこからだと下り傾斜がキツくてボールを止められず、ピンを通り過ぎて反対側のカラーまで転がってしまい、結局寄らず入らずのボギーで35。

ラウンドのベストスコアはマークしたものの、ハーフベスト35の更新はならず。ダメだぁ顔

もし最終ホールの2打目で欲を出さなければ・・・今でも時々思い出す、痛恨のミスショットでした。

ティーショットの〝ペチッ〟と、2打目でハーフトップした時の〝ゴツッ〟という手覚が、今でも手に残っています。

 ◆ 何事も出だしは静かな方が良い。
 ◆ 無欲な時の方が、良い結果につながる。
 ◆ ついてると 思った時から 落ちるツキ

ゴルフも人生も、後悔の積み重ねですワ。

ホールアウトした時、同伴の〝J〟に言われました。

「ホント、最後にコケるところがアンタらしいワ。」

えっ、それ誰だって? 〝J〟は女王様の〝J〟ですがナ。うー



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男 爵
自ら主演しつつ督としてメガホンも取る方は、日本ならたけし師匠、アメリカならウディ・アレンやクリント・イーストウッドなどが有名ですが、俳優・監督それぞれ別に関わって名作を残した方は、あまりいないはず。

今日は、その数少ない方の一人、


 リチャード・サミュエル・アッテンボロー

    Richard Samuel Attenborough


の命日・三回忌にあたります。

若い方にはピンとこない名前かもしれませんが、『ジュラシック・パーク』(1993年)で、実業家ジョン・ハモンド役を演じた老人・・・といえば、お分かりいただけるでしょう。

         



アッテンボローは1923年にイギリス・ケンブリッジで生まれました。

父親が学者というインテリ家庭で育った彼でしたが、ロンドン王立演劇学校に入学し、1942年に俳優としてデビュー。

私が彼の姿を初めてスクリーンで観たのは、S・マックィーン主演の名作『大脱走』(1963年)。

同作で連合軍の捕虜たちをまとめ脱走計画を首謀するロジャー・バートレット少佐役を演じていましたが・・・逃走するも捕まり、最後に機関銃によって殺される場面は衝撃的でした。

         


その後も『砲艦サンパブロ』(1966年)、『ドリトル先生不思議な旅』(1967年)、そして前述の『ジュラシックパーク』1,2作目にも出演。

一方、1972年からは監督・プロデューサーとしても活躍の場を広げます。

彼の監督作品として印象に残っているのは、まず戦争映画の大作『遠すぎた橋』(1977年)。

これはショーン・コネリー、ジーン・ハックマン、ライアン・オニール、ジェームス・カーンなど、錚々たる一流俳優が目白押し。

もっとも、あまりにスターが多過ぎてストーリーが分かりづらいのが玉にキズでしたが・・・。


そして1982年公開の名作『ガンジー』では、アカデミー監督賞を受賞。

また『遠い夜明け』(1987年)は、今超売れっ子のデイゼル・ワシントンがアカデミー助演男優賞にノミネートされ注目されるキッカケになりました。

映画界だけでなく、国際的な教育組織ユナイテッド・ワールド・カレッジ(UWC)の後援も。

その幅広い活動に対し1967年には大英帝国勲章を授与され、1993年には一代貴族・男爵に叙され、貴族院議員に列せられました。

私生活では、女優シーラ・シムと幸せな結婚生活を送り3人の子供に恵まれました・・・が、2004年にタイ・プーケットに旅行中だった長女ジェーンが津波に巻き込まれ、孫娘ルーシーと共に亡くなるという不幸にも見舞われています。

2008年に脳梗塞で自宅の階段から落ちて体調を崩すと、その後夫人と共に介護施設に入り車椅子生活を続けていたそうですが、2014年8月24日に90歳で天に召されました。

きっと今頃は長女と孫娘に再会していることでしょう。

訃報に接し、当時のキャメロン英首相に 「巨人の1人だった」 と言わしめた〝映画界の男爵〟のご冥福をあらためてお祈り致します。

余談ですが、彼は前述の 『遠すぎた橋』 にカメオ出演しているんです。

3時間近い上演時間の中で、彼の一瞬の登場を見つけるのは困難かもしれませんが、今度鑑賞される機会があれば、探してみてください。

ヒントは・・・患者さんですョ。



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死 権

医療技術の進歩等により、日本人の平均寿命は現在世界トップクラスを維持しています。


それ自体は大変良いことだとは思いますが、反面高齢者の介護・ケアに関しては公的援助の整備はかなり遅れていると言わざるを得ないのが現状。


私は仕事柄、数多くの方の最期に接しておりますが、長年介護や看病に携わっていたご遺族から


「こういう事言うと叱られるかもしれないが・・・もし、あと1,2ヶ月オヤジに頑張られたら、私や女房が倒れていたかもしれないんですョ。」


こんなお話をお聞きするたびに、何ともやり切れない気持ちになります。

こういった問題に大きく関わってくる、というより避けて通れないのが

 安 楽 死

今からちょうど40年前の今日・1976(昭和51)年8月23日、
東京で安楽死国際会議が開催され、


〝我々は、すべての人びとが、権利と自由を持つことを信ずる。

このことは、われわれに、品位ある死を選ぶ権利、すなわち安らかに苦しまないで死ぬ権利を確認するに至った。〟


などと嘔った 『東京宣言』 が翌日に採択されました。

安楽死は、大別して2種類に分けられます。


積極的安楽死・・・本人の自発的意志を前提として一定の条件を

  満たした場合、医師が自殺幇助の行為を行うこと。


◆ 消極的安楽死・・・必要以上の延命治療を控えて死に至らしめること。


  (※日本では 『尊厳死』 と同義語として用いています。)


積極的安楽死に関しては、アメリカ(オレゴン州)・オランダ・ベルギー・フランス・スイスで既に法制化し認可しているようです。 


         
    


では、日本の場合はどうでしょうか。


過去においては、病気で苦しむ父親を見かねて毒殺した息子に対する名古屋高裁の判決(1962年)で示された〝安楽死の6要件〟が知られていました。


① 病者が現代医学の知識と技術からみて不治の病に冒され、しかもその死が目前に迫っていること
② 病者の苦痛が甚だしく、何人も真にこれを見るに忍びない程度のものなること
③ もっぱら病者の死苦の緩和の目的でなされたこと
④ 病者の意識がなお明瞭であって意思を表明できる場合には、本人の真摯な承諾のあること
⑤ 医師の手によることを本則とし、これにより得ない場合には医師により得ないと首肯するに足る特別な事情があること

⑥ その方法が倫理的にも妥当なものとして認容しうるものなること

また近年、日本で安楽死についての議論が高まるきっかけとなった、『東海大学安楽死事件』(※ガン末期で昏睡状態の続く男性に対し、長男に「楽にしてほしい」と執拗に懇願され、担当内科医が塩化カリウムを投与して死に至らしめ、殺人罪に問われた事件。 判決は執行猶予付きの有罪) に関して、1995年に横浜地裁が示した許容条件は以下の4点。


① 患者に耐え難い激しい肉体的苦痛に苦しんでいること

② 患者は死が避けられず、その死期が迫っていること

③ 患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替手段がないこと

④ 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること


1993年にはオランダで世界初の安楽死を容認する法律が議会で可決されるなど、国際的には徐々に安楽死に関する理解・法整備が広がっています。

しかし現在の日本では、未だ積極的安楽死に関して法制化されていません。

従って、もしこれを実行した場合、刑法上は殺人罪の対象となってしまいます・・・が、現実には多くのご家族が、重病患者を抱えて肉体的・精神的・経済的に苦しんでいらっしゃいます。


過去の事例を見れば〝本人の意思表示〟があるかどうかが、重要なポイントだと言えましょう。


自分はどんな最期を迎えたいのか?

どんなことをしても生き抜きたいのか、それとも・・・。


私はこの点について既に明確な意志を女房に伝えてありますが、皆さんはどうお考えになるでしょうか?




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破 戒
最近の若者は、もう彼の作品を読む機会はあまりないのかもしれませんが・・・今日は、我が故郷・信州に縁のある作家

 島崎 藤村 

の命日にあたります。


         

島崎(本名:春樹)は、1872(明治5)年に信州・木曽の馬籠村(現在の岐阜県・中津川市)で代々本陣・庄屋を務める名家に生まれました。

国学者だった父・正毅 (後の名作 『夜明け前』 のモデル) から論語などを学んだ藤村は9歳の時に上京し銀座の泰明小学校に通い、明治学院普通部本科(現・明治学院高校の前身)に入学、キリスト教の洗礼を受けます。

学生時代は日本の古典や西洋文学を読み耽る一方で、明治学院の校歌を作詞。


在学中に父を亡くした彼は、卒業後20歳の時に洗礼してくれた木村熊二夫妻が創設した明治女学校の教師として明治女学校高等科の英語教師になりますが、その翌年には北村透谷らが主宰する雑誌 『文学界』 に参画し、随筆などを寄稿。

24歳の時に東北学院の教師になり仙台に1年程赴任し帰京しますが、その時代にいくつかの詩集を発表。

その中の 『落梅集』 に収められた〝椰子の実〟は歌として現在でも親しまれています。


そして3年後に信州・小諸にある小諸義塾の国語・英語教師になり、以後6年間同地で過ごした彼は、その間妻・泰冬子と結婚。  

1905年に小諸義塾を退職し再び上京すると、その翌年に被差別部落出身の小学校教師が自らの出生に苦しんだ末にそれを告白するまでを描いた 『破戒』 を自費出版。


その成功を機に小説家に転身すると、1908年に 『春』 、1910年には 『家』 を発表。

1917年に慶應義塾大学の文学科講師となった翌年には 『新生』 を発表するなど小説家として名を成した藤村は、1929~35年まで代表作の 『夜明け前』 を中央公論に連載します。


そして日本ペンクラブの設立に関わり初代会長に就任。


更に帝国芸術院会員や日本文学報国会の名誉会員になるなど文壇の中心で活躍し、有名な 『戦陣訓』 の作成にも関わった藤村が脳溢血で71歳の生涯を閉じたのは、戦時中の1943(昭和18)年8月22日のことでした。    

        

           中学時代に買った岩波文庫の『破戒』

日本文壇界の重鎮だった藤村ですが、その家庭環境は実に複雑。 


父親と長姉は発狂して亡くなっており、その父親が娘である藤村の妹と肉体関係を持ち、またすぐ上の兄は父親が違っていました。


そして藤村自身の女性関係もドロドロ。


最初に教師になった明治女学校では教え子と恋仲になり、それが原因で辞職。


そして妻が死去した後、42歳の時に家事手伝いに来ていた20歳の姪(次兄の娘)・こま子を妊娠させました。

若かりし頃ハシカ等でで3人の娘を相次いで亡くし、更に四女出産後に妻に先立たれたことに同情はしますが、ちょっと・・・ねェ。

彼の作品には自らの体験を基にしたものが多いですが、もしかしたら彼の人生そのものが〝破戒〟だったのかもしれません。うー



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