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超絶技巧


私のようなド素人が言うのはおこがましいのですが、ピアノを弾く者にとって最も憧れる作曲家といえば・・・ショパンと、そしてもう一人、


 フランツ・リスト

  Franz Liszt


ではないでしょうか?


今日は、この人類史上最高のピアニストといわれる天才音楽家の命日・没後130周年にあたります。


1811年にハンガリーで生まれたリストですが、血統的にはゲルマン(ドイツ)民族で、家庭内でもドイツ語を話していたとか。


オーストリア系ハンガリー人の父親の手ほどきにより早くから音楽の才能を発揮したリストは、10歳前には既にリサイタルを開催。

そして11歳頃にはベートーベンの弟子・ツェルニーに学び、12歳の時に開いたウィーンでの演奏会にはベートーベン本人が訪れ、彼の演奏を絶賛したと伝えられています。


15歳で父親を亡くしたため、ピアノ教師として一家を支えたリスト・・・そのテクニックは当代随一と謳われ、(ショパンのエチュード op.10を除いて)全て〝初見〟で弾きこなしたという、信じられない逸話を残しています。


華麗なテクニックを惜しみなく披露した演奏会では、失神する聴衆が続出。


そりゃあ、彼の風貌を見れば超ハンサム・・・この顔立ちで華麗な演奏とくれば、当時の人気がいかに凄まじかったか、容易に想像できます。


         ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-Franz Liszt


当然の如く、女性にはモテモテ・・・恋愛遍歴もなかなかのものだったようです。


教え子であった伯爵令嬢との恋は、身分の違いから破局。


その後マリー・タグー伯爵夫人と不倫関係に陥り、スイスでの10年間の同棲生活の間に3人の子供を設けます。

(※次女は、彼の弟子・ビューロー、そして後にワーグナーの妻となったコージマ。)


彼女と別れた後も、演奏旅行途上で知り合った別の伯爵夫人と同棲生活を送り、結婚を望んだものの結局は果たせず修道院入り・・・以降の彼は演奏会などの公の場には、常に黒衣の神父姿で現れたとか。


芸術家の人生は、恋多き・・・というか、一筋縄ではないですネ。あせあせ


ベルリオーズ、ショパン、シューマンらと親交が深く、またハンス・フォン・ビューローら多くの弟子を育て、ピアノ曲はもちろん 『交響詩』 を創出し作曲家としても活躍。


しかし晩年は気管支炎や虚血性心疾患、鬱病に苦しめられたリスト・・・74歳で心筋梗塞により息を引き取ったのは1886年7月31日。


バイロイト音楽祭で次女・コージマが演出したワーグナーの 『トリスタンとイゾルデ』 を見た数日後だったとのこと。


『超絶技巧練習曲』と名づけられる程、恐ろしく難しいピアノ曲ばかりの彼の作品を1曲でも弾きこなせれば、素人の私は十分満足なのですが・・・とてもその望みは叶えられそうにありません。


CDを聴いて楽しむだけですが、殆ど譜面も鍵盤も見ずに自由自在に即興で弾きこなしたというリストの演奏・・・映像で観られないのが本当に残念。


それでは最後に、我が敬愛するホロヴィッツのウィーン・コンサートから『コンソレーション第3番』を、〝ピアノの魔術師〟の冥福を祈りつつお聴きください。笑3




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投 票

昨夜、エネゴリ君の店に行きました。
話題は当然のことながら、都知事選の話。

「もう投票する人、決めた?」

いつもなら直前まで決めてないのが彼のパターンだったので、これから一講釈たれようかと思って聞いたのですが、彼の答えは


「はい、もう期日前投票しちゃいました。」

想定外の返答に、会話の組み立てを崩された私は若干うろたえつつ

「へぇ~、誰に投票したの?」

と尋ねると、彼の答えはこれまた予想外。

「えっと、M・Aさんです。」

「ふぅ~ん、そうなの。 でもテレビとかじゃ有力3候補しか報道してないけど・・・なんでT・Sさんじゃないの?」

「あっ、あの人はス〇ベですし、高齢ですから。」

「ふぅ~ん。 じゃあ、K・Uさんは? キミは女性好きだろ?」

「確かにそうですけど・・・ボクは若い女性が好きなんですョネ。」

「それはお前さんが付き合いたい女性のことだろうが。
じゃあ、M・Hさんは?」

「誰ですか? それ。 全然知りませんけど。」

「あらら、そうなの。 じゃあ、なんでM・Aさんに投票したワケ?」

「それは、たまたまテレビつけたらこの人の政見放送をしていて、フィーリングがピッタリ合ったんですょ。」

      

                  M・A 候補

そっか~、フィーリングねェ。

こればっかりは本人の感覚だから仕方ないけど、キミとフィーリングが合うってこの候補が聞いたら、喜ぶかどうか・・・。

「じゃあ、M・Aさんが都知事になったら、どんな政治をすると思うの?」

「さぁ、政策とか公約は全然知りませんから・・・だいたい、あの人は当選しないでしょう。」

って、おいおい。うー

もう投票しちゃったら何を言っても無駄ですけど、今まで彼にいろいろ政治に関する教育をしてきた私としては、ドッと力が抜けました。


まぁ知名度で選ばず、政見放送を見て決めたことは評価できますが、それにしても・・・。

過去に青島幸男氏を知事にしたり、めろりんQに66万票も入って参院議員に当選させた東京都ですから、何が起きても不思議ではありません。

が、くれぐれも東京都の有権者には熟慮を重ねた上で、明日清き一票を投じてもらいたいものです。





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海 防

長らく鎖国体制を維持してきた江戸幕府(や日本人)にとって、1853(嘉永6)年のペリー来航は、まさに驚天動地の出来事だったはず。

アメリカはじめ西欧諸国の接近と次々和親条約を締結せざるを得なかったことは、現代人には想像できない程の脅威と不安を当時の日本人に感じさせたことでしょう。

それを払拭すべく、幕府や各藩はかねてより交易を行なっていたオランダから軍事の専門知識を導入し、海外列強からの攻勢・侵略に対抗しようとしました。

その一環として、江戸幕府が海軍力増強・士官養成を目的として

 長崎海軍伝習所

を出島の裏手にあった長崎奉行所の西役所(現・長崎県庁)に開設したのが、今から160年余り前の今日・1855(安政2)年7月29日のことでした。


      

オランダはベルス・ライケンら教官22名を派遣し、また練習艦として蒸気船・スムビング号 (観光丸) を寄贈。

幕府が同国に発注した蒸気船(後の『咸臨丸』・『朝陽丸』)の乗員養成のため、第1期生として幕府から37名、それ以外にも佐賀藩からの47名を筆頭に薩摩・筑前・長州ら各藩から合計128名が伝習生として参加しました。

私がこの存在を初めて知ったのは、NHK大河ドラマ 『勝海舟』(1974年) を観た時。

このドラマのオープニングが大海原を進む帆船のシーンだったこともあり、主人公の勝麟太郎(海舟)がここに入所するシーンと合わせて、〝海軍伝習所〟は私の記憶に残りました。

その勝は総督・永井岩之丞を補佐する学生長を務めて第1期生をまとめます。


1957年には第1期伝習生はスムビング号と共に江戸に回航し、築地に海軍伝習所を設置。


その後長崎の伝習所は第2・3期と伝習生を受け入れますが、徐々にそのメンバーは (オランダ側の進言を受け入れて) 若手主力に。


そして江戸から遠かったことで維持経費がかさむことを理由に、僅か4年後の1859(安政6)年に伝習所は閉鎖されてしまいます。


しかし同伝習所では単に軍艦の操縦等どを学ぶだけでなく、造船・医学・語学などの様々な教育が行われ、これに派生して作られた長崎養生所・長崎英語伝習所は、後の長崎大学の基礎となり、飽浦修船工場・長崎製鉄所は、長崎造船所の前身となりました。


またここで学んだ伝習生たちは、幕府や各藩海軍の主力となり幕末から明治維新以後にかけて大きな役割を果たすと同時に、明治以後の日本海軍の基礎となりました。


さて、この伝習所に関して一冊の本をご紹介します。

 『長崎海軍伝習所の日々』 (平凡社東洋文庫・刊)


       

著者は完成したヤーパン号(後の咸臨丸)を回航すると共に伝習所の第2次教官として来日し、勝海舟や榎本武揚らに航海術・砲術などを伝授したW・H・V・カッテンディーケ


この方、伝習所閉鎖後に帰国し、オランダの海軍大臣・外務大臣を務めた一角の人物。 

2年間滞在した彼の目から見た日本人の姿が率直に記されており、江戸末期の日本(というか長崎)の様子がよく分かります。

また教え子・勝海舟らの評価も客観的であり、従来の彼らの国内評価と対比するのもおもしろいかと。

彼は同書の中で 「こんな美しい国で一生を終わりたいと何度も思った」 と述懐していますが、反面こんなことも書き残しています。


『午後九時、(ヤーパン号は長旅の末)無事に長崎港口に錨を下ろしたが、その際に暗闇の中、船から2発の砲を放ち到着を知らせたものだから、忽ち市民の間に大騒ぎを起こした。

これまで外国船が、夜中に湾内に来て投錨するというようなことはなかった。 


しかるに私が敢えて砲を放ったのは、夜中には何事も起こらないと安心し切った気持ちでいるお人好しの日本人の夢を、多少なりとも醒まさせようとの考えからであった。』

日本人の平和ボケは昔からのことであり諸外国はそれを良く知っていた、ということなのでしょう。

残念ながら、その状態は今も変わらない・・・と、私には思えます。

古い本ですが、幕末に関心のある方にはご一読をお勧めします。笑2 




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四 季

皆さんは 〝バロック音楽〟 というと、どんな作曲家をイメージしますか?


バッハ、ヘンデル辺りの名前が出てくると思うのですが、もう1人日本人にとってポピュラーな方といえば、


 アントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディ

     Antonio Lucio Vivaldi


今日は、音楽家であると同時にカトリック司祭でもあった彼の命日にあたります。


1678年にイタリア・ヴェネツィアで生まれたヴィヴァルディは、理髪師兼ヴァイオリニストであった父親からヴァイオリンの手ほどきを受けたとか。


教会付属学校に入学後25歳で司祭となった彼は、その年にピエタ慈善院付属音楽院でヴァイオリン・ヴィオラを教え始め、同時に多くの器楽曲・宗教曲を音楽院に提供。


やがてオペラ作曲家としての名声が高まり、ヴァイオリニストとして、またオペラ上演のためにヨーロッパ各地を旅行したようです。


          ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-Antonio Lucio Vivaldi

今から275年前の1741年6月28日に63歳で世を去るまで、500以上の協奏曲・52のオペラ・73のソナタ等、多くの作品を残しましたが、後ろ盾であったカール6世亡き後の彼の晩年は不遇であったらしく、詳細は分かっていません。


司祭という聖職者であったにもかかわらず、彼がウィーンの貧民墓地に埋葬されていたことが判明したのは200年以上経過した1936年、しかもその理由は今もって謎のまま。


バッハ・ヘンデルなどの大作曲家に確実に影響を与えたにもかかわらず、彼の存在は近年まで殆ど知られていませんでした。


1926年にイタリアのトリノ大学図書館で膨大な数の自筆譜が発見され、ヴィヴァルディの音楽活動の概略が判明。


初めて音楽史における彼の存在にスポットライトが当たったのです。

私のCDライブラリーには、ヴァイオリン協奏曲やフルート協奏曲、チェロ・ソナタやチェロ協奏曲など何枚かありますが、いずれも就寝前や起床時に聴くと気持ちが休まる曲ばかり。

    


しかし日本で最も有名かつダントツ人気の作品は、『四季』 でしょう。

この曲は、12曲からなるヴァイオリン協奏曲集〝和声と創意への試み〟の第1集(第1~4曲)に、それぞれ春・夏・秋・冬と名付けられたもの。

誰もが一度は耳にしたことのある旋律・・・ストリングスの響きは、聴く者の心を和ませてくれますょネ


以前購入したCD・BOXにはカラヤン指揮・ベルリンフィルという豪華な組み合わせによる演奏が入っていて、私にとっては嬉しい誤算でしたが、やはりこの曲の演奏と言えばイ・ムジチ合奏団でしょう。

1959年、初代コンサート・マスターのフィリックス・アーヨによる録音盤が大評判になったことで、日本におけるバロック音楽ブームの火付け役になりました。


現在まで何回も新録音・発売が繰り返され、累計販売枚数は日本だけで軽く300万枚を超えている、クラシック音楽におけるレコード・CD最高の売り上げを記録。

(ただし、このイ・ムジチ人気は日本独自のものだとか。)


我が家にも、いつ購入したかは定かではありませんが、しっかり2枚あります。


   

左が1982年、右が1988年の録音ですが、3年前には過去6回の録音を全部集めたCDセットも売り出されていますから、『イ・ムジチの四季』ファンの方は、是非お買い求めの上聴き比べてみてください。

さて、皆さんの一番好きな季節は、いつでしょうか?


私はこの〝冬〟の第1楽章がお気に入りなんですが・・・それではイ・ムジチの演奏でお聴きください。(

      https://www.youtube.com/watch?v=IjM4EBgg0io


           


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流 行

・・・といっても、ファッションの話ではありません。

今からちょうど100年前の今日・1916(大正5)年7月27日、神戸から乗船した大阪商船所有・ハワイ丸の三等船客の女性が急に吐き気を催しました。

細菌検査の結果、4日後に真性コレラと判明。

これが我が国における最後の大規模コレラ流行の始まりでした。

30日に1人、翌日には4人の疑似患者が発生し、船客付のボーイが保菌者と判明。

その後同船内から47人の患者が発生し、7人が死亡。

同船は8月10にアメリカに向け出港したものの、湾内に患者の排便が廃棄されたため、その日に横浜市内でも患者が発生。

その後も東京・千葉に患者は拡大。

またこれとは別に、長崎港から各港を経由して8月10日に大阪港に入った新敬真丸の乗組員が発病し、船客13名から疑似コレラ菌が検出されましたが、やはり彼らの便が湾内に投棄されたため、その後大阪市内では1,000名以上の患者が発生。

両船とも長崎港から出ており、長崎市内でも患者が発見されたため、この流行の発生源は長崎市と推定されますが、この流行は翌年2月まで続き、全国の患者数は10,371名、内死者6,260名以上・・・死亡率60%以上という猛威を振るいました。

        

コレラ菌は、1854年にイタリア人医師フィリッポ・パチーニが発見し、その30年後コッホによって病原体として確認されました。

コレラ菌は200種類以上発見されていますが、その中で毒素を発生させ伝染するのはO1型(アジア型・エルトール型)とO139型の2種。

主として河川や海などの水中に生息する菌が、魚介類を介して人間に経口的に感染し腸内で増殖するとのこと。

潜伏期間は早ければ数時間、通常は2~5日以内で発症し、突然1日2~30回の下痢に襲われるそうです。

低体温になり、急速な脱水症状によって皮膚が乾燥し手に老人のような皺が出て、筋肉の痙攣・虚脱を起こし、死に至る恐ろしい病気。

治療しないと、死亡率はアジア型で約80%近く(※エルトール型で10%以下)に上ります。

コレラ菌の伝染力は非常に強く、過去に世界的な大流行は7回に及び、直近では2009年1月にもジンバブエでは死者3,000名以上に達する流行が。

日本でも異国船の往来が頻繁になった1858(安政5)年以降、数回の大流行が記録に残っています。

江戸時代は人の行き来が徒歩か馬だったためにそれ程の広がりはなく、九州・西日本で広がった流行も、箱根の関所で止まったとか。

とは言え、明治時代にコレラによる死者は累計約37万人・・・これは、日清・日露戦争での戦死者を遥かに凌ぎます。

医療技術が進歩したとはいえ、その後も世界各地では中国や東南アジアでは大流行の歴史があり、1992年にはインド・バングラデシュ、2009年にはジンバブエ、2010年にはハイチでも流行が発生しています。

また日本でも、小規模とはいえ1991年には千葉県内で患者が発見され、2000年・2006年とホームレスの患者が発生していますから、油断は禁物。

国内ではまず考えられませんが、やはり海外渡航される方は要注意。

やはり基本は安全な食べ物と(生)水に注意を払い、頻繁に手を洗うことが予防に欠かせません。

もしそれでも強烈な下痢に襲われた方で米の研ぎ汁のような白い便が出たら、要注意ですョ!うー



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山 吹

現在、皇居となっている江戸城。

といっても、天守閣などは残っていませんが・・・今日は、この名城を築いた


 太田 道灌


の命日・没後530周年にあたります。

彼が江戸城を造ったことをご存知の方でも、どんな人物だったのか? と問われると、意外と答えられない方が多いのではないのではないでしょうか。


太田道灌(資長)は、室町時代の1431年、関東管領の一族・扇谷(おおぎがやつ)上杉家の有能な家宰(筆頭家老みたいなもの)であった、源氏の流れを汲む太田家・道真(資清)の子として生まれました。


幼少の頃から非常に優秀だったようで、父親はそのあまりの才気ぶりに、逆に我が子の将来を心配する程だったようです。

ある時、道真が15歳の道灌に〝驕る者は久しからずと対処して読み聞かせ諫めたところ、彼は2文字を加え〝驕らざる者も又久しからず〟と反論したため、道真が怒って扇子で息子を打ったとか・・・。

どうやら傲慢な一面もあったようですネ。


幼少期から少年期にかけての道灌の動向は不詳ですが、25歳にして父から家督を相続すると、傍流だった主家・扇谷上杉家を家臣として支えました。

あの広大な江戸城を築いたとはいえ、彼は〝殿様〟ではなかったのです。


          太田道灌

             太田道灌像 伊勢原市 大慈寺・蔵


道灌は、房総方面の有力な武将であった千葉氏を抑えるため、両者の境界にあたる利根川流域を防護すべく、江戸城を築いたようです。

またそれだけではなく、江戸城の守護として日枝神社など現代でも残る多くの神社を江戸城周辺に造営しています。


江戸城が完成し、道灌が居を構えたのが1457年、弱冠26歳の時だったと伝えられています。


その後彼の活躍により、扇谷上杉家の勢力は増す一方となりましたが、やがて彼のあまりの有能ぶりに〝下克上〟を恐れた主君・上杉定正が企てたのか・・・道灌は文明18年7月26日(1486年8月25日)、招かれた定正の邸宅で風呂場から出たところをかつて父・道真に目をかけられていた曽我兵庫助に斬りつけられ、55歳の生涯を閉じました。 

〝過ぎたるは及ばざるが如し〟と言っては道灌に失礼ですが、優秀過ぎた部下の悲哀を感じざるを得ません。

死に際、彼は〝当方滅亡〟・・・すなわち私がいなくなった扇谷上杉家は滅ぼされる、と言い残したと伝えられます。

その予言(?)通り、同家は1546(天文15)年、北条早雲の孫・氏康の夜襲によって滅亡させられました。




(※この約1世紀後、豊臣秀吉に仕えた名軍師・黒田官兵衛は、主君・秀吉が自分の力量の高さを買い、「ワシの次に天下を取るのは官兵衛よ」と家臣に発言したことを聞くや、44歳で家督を譲り隠居してしまったのだそうな。

もしかしたら官兵衛は、この太田道灌の末路を知っていたのかもしれません。)


        

          【図説】太田道灌 (黒田基樹・著 戎光祥出版・刊)

道灌に関しては様々なエピソードが残されていますが、その中でも印象的なのは、世に言う 『山吹伝説』


ある日道灌が父・資清を訪ねて越生の地に来た際、突然の雨に遭い、農家で蓑を借りようと立ち寄ったところ、その時応対した娘が黙って一輪の山吹の花を差し出しました。


道灌は蓑を借りられず内心腹立たしかったのですが、後日家臣から


「それは後拾遺和歌集の 『七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき』 という兼明天皇の歌に掛けて、家が貧しく蓑(みの)ひとつ持っていないことを奥ゆかしく答えたのでしょう。」


と教わります。


自らの無知を恥じた道灌は、それ以後歌道に励んだとか。


こんな素直な心と謙虚さを身につけ、実のある人間になりたいものです。笑3




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盤 陀

これで、〝はんだ〟と読みます。(※半田とも書きますが・・・)

はんだとは、鉛と錫(すず)を主成分とする合金で、これをコテで熱して溶かし金属・電子部品を接合することを〝はんだ付け〟と言うのは、皆さんご存じのことでしょう。

私を含め、理科の実験などで実際に経験した方も多いと思いますが・・・今日・7月25日はその


 はんだ付けの日


なのだそうです。


はんだがSn(錫)・Pb(鉛)・In(インジウム)・Ag(銀)・Cd(カドミウム)・Bi(ビスマス)・Sb(アンチモン)という7種類の合金であり、はんだ付けに最適な温度が250℃であることから、この日を記念日に制定したとか。


もっとも、最近では鉛害の影響で無鉛はんだもあるそうですが。


さて、このはんだ付け・・・いつ頃から行われていたと思いますか?

なんと、紀元前3,000年前には行われていたというのです。


あのエジプトのピラミッド、ツタンカーメンの陵墓からはんだを使った装飾品が出土しているんですって。驚き顔

人間って、凄いですネ。

その他にもローマ時代の水道管をはんだ付けした記録があり、中国では少なくとも紀元前300年には行われていたとのこと。

そして我が日本でも平安時代に書かれた 『和名類聚抄』 に、その記述が残されているそうです。


     


では、なぜ〝はんだ〟といわれるようになったのか?

これには諸説あるようで・・・

 ① 手作業だからハンド、それが訛った。
 ② スズの産地・マレーシアの盤陀(バンダ)島から。
 ③ 江戸幕府の隠し銀山といわれる福島県の半田山から。
 ④ 鉛と錫の混合比がほぼ半々→半々だ→はんだ


う~ん、どれももっともらしいような、怪しいような・・・。


皆さんは、どの説を支持しますか?


学校の授業でやったはんだ付けは、しっかり付けようと沢山溶かしてコンモリさせた記憶がありますが、当然電子機器の基盤にそんなはんだ付けは無理。

理想的なはんだ付けは、なんと厚さ3~9ミクロンの極薄!

多くは機械が流れ作業で行っているのでしょうが、それでも複雑な作業は人間の手で行うしかない・・・ということで、実はこのはんだ付けの技術向上を目指して 『はんだ付け検定』 があるのだそうな。

主催は日本はんだ付け協会。

世の中には様々な協会があるものですが、ここで1・2・3級の検定試験を実施しています。


手先が器用な検定マニアの方、挑戦してみてはいかが?笑2




道 端

私が子供の頃には自宅の近くにいくつかあったのですが、東京では普段殆ど見かけません。

皆さんのお住まいの近くでは、どうでしょうか?

今日・7月24日(※一部地域では8月24日)は、その縁日である


 地 蔵 盆

なのです。 

(※厳密には、毎月24日が 『地蔵会』 等とよばれる地蔵菩薩の縁日)


地蔵菩薩とはサンスクリット語で〝クシティ・ガルバ〟と言い、お釈迦さまの入滅してから56億7千万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間は現世に仏が不在となるため、その間六道 (地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道) を輪廻し衆生を救う菩薩のこと。

失礼な言い方ですが、超長期のセットアッパーって感じでしょうか?

地蔵菩薩は右手に杖(錫杖)、左手に宝珠を持っています。

          
            地蔵菩薩立像 東大寺知足院
            鎌倉時代  木造  重要文化財


まァこんな立派な仏像はそうそうありませんが、日本全国津々浦々には、〝お地蔵さま〟などと呼ばれる石像がそこかしこに置かれています。

〝お地蔵さま〟は、子供の守り神ともされていますから、皆さんも子供の頃は


「前を通る時は手を合わせなさい」

とか、お菓子などをお供えするよう親やお祖母さんに言われた記憶がある方もいらっしゃるのではないでしょうか?

        

赤い帽子や前掛けがつけられているのは、赤ちゃんが丈夫に育つように・・・というお母さんの願いが込められているとのこと。

また中には一体ではなく、六体のお地蔵さんが墓地の入口などに並んでいるのをご覧になったことがある方もいらっしゃるでしょう。


私の故郷・信州の善光寺には、立派な六地蔵が本堂の脇にあります。(

 

これは仏教において 「全ての生命は6つの世界(前述の地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)に生まれ変わりを繰り返す」 という 『六道輪廻』 の思想に基づき、それぞれの世界におわす地蔵菩薩が人々を救う・・・という説から生まれたとか。


この六地蔵にそれぞれ銭一文を供養することから 『六文銭』 という発想が起こり、これが〝三途の河の渡し賃〟(冥銭) につながったともいわれています。

たとえ毎月24日に限らずとも、子供たちにお地蔵さんの何たるかを教え、いつも手を合わさせることは、道徳心を植え付けるよい習慣になるのではないでしょうか?

もしお近くにお地蔵さんがあれば、是非一度子供や孫を連れてお参りに行ってみてはいかがでしょう?

もちろん、私たち大人が範を垂れることは言うまでもありませんが・・・。笑3


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歴 戦

日露戦争で活躍した軍人というと、一般的には東郷平八郎元帥や乃木希典陸軍大将が有名ですが、この方も忘れてはいけないと思います。

 児玉 源太郎 陸軍大将

今日・7月23日は、司馬遼太郎をして〝天才〟と言わしめたこの軍人・政治家の命日・没後110周年にあたります。


         

源太郎(幼名・百合若)は1852(嘉永5)年に現在の山口県周南市で徳山藩の中級武士の家に長男として生まれたものの、5歳の時に尊王攘夷を唱える父親が藩内の開国派に疎まれ蟄居閉門の末に憤死。

更に13歳の時に養育してくれていた義兄が佐幕派のテロにより自宅玄関で惨殺されるという、過酷な幼少期を過ごしました。

家禄を剥奪され、周囲から冷ややかな目で見られた彼は、それを跳ね返すべく17歳で献効隊の半隊司令士(小隊長)として五稜郭の戦いで初陣を飾り、陸軍に入隊すると6年後の佐賀の乱では大尉として従軍。

更に1876(明治9)年には熊本鎮台准参謀として神風連の乱をほぼ1人で鎮圧し頭角を現すと、翌年には同参謀副長として西南戦争に参戦して薩摩軍の猛攻から熊本城を護り切る軍功を挙げて勇名を馳せ、その後順調に昇進。

1896(明治29)年に陸軍中将に昇進すると、その2年後には台湾総督に。

そこで後藤新平を見出した彼は、1900(明治33)年には台湾総督兼任で第4次伊藤内閣で陸軍大臣、そして1903(明治36)年に第一次桂内閣で内務大臣を拝命。

ところがその僅か3ヶ月後、対露戦を控えた大山巌・参謀総長から請われて大臣の職を辞し参謀本部次長に就任。

これは実質的には降格人事・・・その後日本軍が解体されるまで、降格人事を受け入れたのは彼だけでした。

しかし翌年陸軍大将に昇級し満州軍総参謀長として満州に渡ってからは、遼陽会戦・奉天会戦などで大山元帥を補佐し勝利に貢献。

苦戦していた二百三高地を、僅か着任後4日で攻略したことは有名です。

そして特筆すべきは、奉天会戦勝利に浮かれ
ウラジオストクへの進軍を画策する大本営に、急遽東京に戻って戦争終結を強く進言したこと。

勝利の立役者が自ら戦いを止めさせようとする・・・なかなか出来ないことだと思います。

当然大本営は渋りましたが、やはり日本軍の戦力が限界にきていることを悟っていた山本権兵衛・海軍大臣が賛成し、ようやく日露講和の準備が始められることに。


もし児玉大将の進言がなければ、大東亜戦争同様日本軍はその後泥沼にはまった可能性が大でした。    

冒頭にご紹介した通り、司馬遼太郎は 『坂の上の雲』 の中で彼を天才戦略家として描いていますが、私は(もちろん生まれ持った才能があったにせよ)現代なら高校1,2年生の時から戦場に出て、瀕死の重傷を負いながらも修羅場を生き抜いた歴戦の経験こそが、彼を超一流の軍人に育て上げたのだと思います。

日露戦争後の日本にとって、欠くべからざる逸材だったのですが・・・ロシアとの講和から僅か9ヶ月余りしか経っていない1906(明治39)年7月23日、自宅で就寝中に脳溢血に襲われ急逝。

まだ55歳、これからという時でした。

日露戦争の肉体的・精神的重圧が、寿命を縮めたのかもしれません。

もし彼がその後も存命で陸軍の暴走を抑えられたなら、日本の歴史は少なからず変わっていたはず・・・我が国にとって、大きな損失でした。

そんな児玉大将の実像について知りたい方には、この書籍がお勧め。

 『児玉源太郎 そこから旅順港は見えるか
                  (小林道彦・著 ミネルヴァ書房・刊)


       


同書は小説ではなく、多くの一次資料の収集・分析を基に史実を客観的に掘り下げたもので、児玉大将の人物像を正確に浮き上がらせてくれます。


神風連の乱鎮圧直後、明治政府から現地に打たれた電文の第一報が、「児玉少佐ハ無事ナリヤ」だったという有名なエピソードを否定しているところが、その代表的な例といえましょう。

大山巌・乃木希典・桂太郎ら周辺の人間関係も分かる、秀作です。


この本を読み返しつつ、日本を窮地から救った名参謀のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3



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 匙

先日の3連休中、ランチを某牛丼店で食べた時の事。

注文した牛丼が出てくるまで待つこと暫し、何気なく座ったカウンター越しに窓際のテーブル席へ目をやると、お父さん・お母さんに小学生高学年くらいの男の子の3人家族が牛丼を頬張っていました。

そして彼ら全員が手にしていたのは、
箸・・・ではなく、匙(さじ)。

私はそれを見て、 ちょっと違和感が。

牛丼店をよく利用する方はご存知だと思いますが、現在はどの牛丼チェーン店には箸と共に匙を置いています。

これを最初に置いたのは、ゼンショー社が運営する『すき家』。

同店が躍進した要因の一つに、この匙を置くことで女性客が増えたことが挙げられ、以来吉野家ら他の牛丼チェーン店でも置くようになりました。

          

                    すき家の赤匙

確かに女性は丼物を食べる時、男性のようにかき込むことは中々できませんし、匙を使った方が上品に食べられますから、すき家の戦略がヒットしたことも頷けます。


このスプーンに似た・・・というか同様の食器は、日本でも古くから使われていたようで、古代の埋蔵品から木製の匙が出土しており、『今昔物語』 には貴族が銀の匙を使っていた記述があるとか。

また形状が蓮の花に似ているところから〝蓮華〟という呼称が生まれたとも。

しかし中世にはお椀に直接口をつけて汁を飲む習慣が定着したことから、日常の食事には箸しか使わないようになったといいます。

その結果、匙は医者が薬を計量するときに使う程度となり、このことから医者が患者を見放すことを〝匙を投げる〟と言うように。

大正時代以降、カレーなど洋食が普及したことに伴いスプーンを使うようになり、私の小学生時代の給食には〝先割れスプーン〟という不思議な食器を使わされました。

そんな経緯から、匙を使うことに現代人は抵抗がないのかもしれません。

しかしそのせいもあってか、以前から箸の使い方が下手というか変な持ち方・使い方をする人が増えている気がします。

箸を鷲掴みにする子供がいるのはともかく、いい大人でも見るに忍びない使い方をする人を良く見かけませんか?

テレビのグルメ番組に出演しているイケメンや美女が下手な箸使いをするのを見ると幻滅しますが、おそらく彼らは小さい時に正しい持ち方を親から教わっていない・・・いや、親も知らないのかも。

牛丼店で見かけた親子の場合、お母さんはともかくとしても父親や息子も匙を使っているってことは、普段から家庭でも箸を使っていないのではないか? 

そんな疑念が沸いてきたのです。

日本人は、〝お箸の国の人〟・・・上手な箸使いを教えるのは親の義務ですし、躾のひとつだと私は思うのです。

お子さんが箸をなかなかうまく使えなくても、匙を投げずに粘り強く教えてあげてください。

将来我が子が社会に出て馬鹿にされないように・・・。うー

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