自動車を所有していない方にはピンとこない・・・いや、持っていても普段は意識しない方が多いかもしれません。 国税とはいえ、税収の1/4は自動車重量譲与税として市町村の道路整備財源に充てられているこの税金は、自動車税同様自動車所有者に付加されるもの。 この税金は自動車ディーラーや整備工場で書類作成・手続代行をしてくれますので、セルフ車検でもしない限り一般人には支払った実感があまり湧きません。 その原因には、国内自動車販売台数の落ち込みやエコカー減税、軽自動車の台頭などが挙げられますし、今後ともこの税収は上がらないでしょう。 なぜなら肝心の自動車保有台数が伸びるとは思えないから。 まず自動車購入時には自動車取得税と消費税。 日本人はお上に逆らわない民族と言われますが、我々はもう少し税金の見直しに関して声を上げるべきではないでしょうか?
それは、今から45年前の今日・1971(昭和46)年5月31日に公布された
自動車重量税法
1970年から始まった第6次道路整備5箇年計画における約3,000億円の不足分を補う新たな財源としてこの新しい国税を考案したのは、後に 『日本改造列島論』 をぶち上げ日本列島を高速道路や新幹線などの高速交通網で整備し、工業化の促進や人工の過疎・過密化の是正を目指した、当時の自民党幹事長・田中角栄氏でした。
しかし自動車税のように、支払通知書が各家庭に郵送されません。
自動車を購入する際や、車検の時にその費用の一部として徴収されているのです。
見積書や明細書には、当該自動車の重量によってかけられている税金が記載されているはず。
一例ですが、1.5トン以下の自動車で年額12,300円、2トン以下で年額16,400円が徴収されているのです。
(※ただしエコカーの場合は多少安く、また登録13年以上の古い車は割増となります。)
おそらくの殆どの方は、書類に貼付する専用の収入印紙をご覧になったことがないでしょうし。
この自動車重量税の年間徴収額は約3,860億円で、国家予算における歳入総額の0.4%(※平成25年度)ですが、年々減少の一途を辿っており、15年前の半分にまで落ち込んでいます。
その理由のひとつとして、自動車にかけられている多額の税金が挙げられます。
所有していれば、(軽)自動車税と自動車重量税。
そして動かせばガソリン税(揮発油税+地方揮発油税)と消費税。
消費税が10%に上げれば取得税が廃止になるといいますけど、どうなることやら・・・。
これだけの税金の他に駐車料などを支払うことを考えれば、必要な時だけレンタカーを使う方が良いと考える人が多くなるのも頷けます。
それに元々自動車重量税は道路財源として使う事になっていましたが、本四架橋などが完成し負債が完済されたにもかかわらず廃止にならないばかりか、2009年には道路特定財源制度が廃止され現在は一般財源に組み入れられています。
財務省とヤ〇ザは、一度手に入れた金づるは手放さないって感じ?
さすがの角さんも、「おいおい、話が違うだろう」 と呆れているかも。
先日、エネゴリ君の店に行った時の事。 とオーダーすると、 「はいっ、ありがとうございます。」 という返事と共に、早速調理に入るエネゴリ君。 その後ろ姿を見ていると、ついついイジリたくなってしまう私。 「えっ、じゃあナニが焦げたのョ?」
「なにかオススメ料理、ある?」
と彼に尋ねると、
「えぇ、今日は期間限定で、こんなのが・・・」
と言って差し出した一枚の紙に
仔牛のカツレツ カチョカヴァロチーズと生ハムを挟んで
という、やたら長い名前のメニューが。
「見たことない名前のチーズだけど、試しに食べてみようか。」
「ところでさァ、カツレツとトンカツの違いって何だか知ってるかい?」
そう聞かれて、「えっ?」 と振り向いた時の彼の顔は、既に硬直気味。
するとその様子を横で見ていた店主も、ピックリ。
「えっ、オマエそんなことも知らないで料理してたのかョ。」
そう叱責されたエネゴリ君は、額から脂汗流しながらコックリと頷くじゃありませんか。
「あはは、やっぱり知らなかったのか~。
簡単に言えば、カツレツは焼くフランス料理で、とんかつは揚げる日本料理。
現に今、君は焼いてるだろ?」
(でも、厳密に言うとそんな簡単な区分けじゃないんですけどネ。)
と助け舟を出してあげたのに、彼ときたら、
「あっ、それなら知ってます。」
「だったら、そう言えョ!」
と店主に叱られて、墓穴を掘るところが、いかにもです。
そんなエネゴリ君に、私はまた声をかけます。
「分かってると思うけど、油は少なめでネ。」
「はい、分かってます。すみません。」
なんで謝るのか意味が分かりませんが・・・ま、口癖だから深くは考えません。
ところが、それから数分後。
「渡辺さん、焦げちゃいましたょ~。」
「なんで?」
「だって、油少なくしたから。」
「そりゃしょうがないょ、こっちが頼んだんだから気にしなくていいョ。」
「いえ、カツレツの方が大丈夫なんですけど・・・」
「フ、フライパンが・・・」
「それって、何かい? フライバンが焦げたのは、オレのせいだってこと?」
「いえ、そうじゃないですけど。」
「分かったョ、じゃあオレが洗えばいいんだろ?」
「えっ、ホントですか?」
・・・オマエ、そのフライパンで頭殴ったろか?
皆さんは大東亜戦争の中期、日米両軍の間で交戦した
アッツ島の戦い
をご存知でしょうか?
この太平洋上の小島での交戦を敢えて取り上げたのは、大本営が初めて〝玉砕〟という言葉を国民に対して発したから。
一般的に日米間の交戦はハワイ・真珠湾から始まって南方で展開されましたが、このアッツ島は逆に北方・・・アリューシャン列島のひとつなのです。(↓)

なんでこんなところに日本軍が・・・と怪訝に思えますが、これはその前年のミッドウェー開戦に備えた陽動作戦として、このアッツ島(とすぐ近くのキスカ島)を攻略し、守備隊として2,650名を投入して飛行場などを建設したのです。
しかしそのミッドウェー海戦で勝利を収めた米軍がロックウェル少将率いる11,000名もの兵員を率いて同島の奪還を目指し上陸作戦を開始したのは、1943(昭和18)年5月12日のことでした。
迎え撃つ日本軍守備隊の司令官は、同年4月に赴任したばかりの山崎保代(やすよ)大佐(※没後2階級特進で中将)。 開戦直後から圧倒的な兵力・火力を有する米軍を目の当たりにして、山崎大佐は大本営に歩兵1,500名と武器・弾薬・食料の補給を打診。 日本兵は爆発物を巻きつけて、死のうとしていた。 私たちを殺しに来ると同時に、彼らは死にに来たのだ。」 と証言しています。 米軍が撮影した、玉砕した日本兵の遺体 〝玉砕〟は、決して日本兵の潔さや忠誠を誓ったものではなく、大本営の無策・無責任のせいで犠牲になった兵士たちの、無念を象徴した言葉・・・私にはそう思えてなりません。
しかし大本営はキスカ島からの兵の撤退はしたものの無情にもアッツ島は見捨て、一切の補給をしませんでした。
仕方なく山崎大佐は硫黄島の栗林中将と同様、兵を内地・高地に撤退させ米軍を迎え撃つ作戦に出ましたが、兵力と火力の差は如何ともし難く、同月28日にはほとんどの兵力・弾薬を喪失。
翌29日、戦闘に耐えられない重傷者が自決し、山崎司令官は生存者を本部前に集めると、各将兵を労った後に
「機密書類全部焼却、これにて無線機破壊処分す。」
と大本営宛てに最後の打電、約300名の兵と共に米軍本部に向かって突撃し全員が玉砕して果てました。
山崎大佐の遺体は、日本兵の先頭で発見されたといいます。
この戦いに参戦していた米兵は、後に
「あれは、バンザイと叫びながら自殺のための突撃だった。
日本軍の損害は戦死2,638名、捕虜として生き残ったのは僅か27名・・・生存率は僅か1%。
対する米軍は戦死者約600名、負傷約1,200名でした。
実際は〝全滅〟だったのに、なぜ大本営は〝玉砕〟という言葉を使って発表したのか?
それはミッドウェー海戦で大敗を喫して以来、戦況が刻々と不利になる中、それをひた隠しにしてきた大本営が〝全滅〟という国民にとってショックが大きい言葉を使えなかったから。
また部隊を見殺しにした軍幹部に対する責任論を回避するため、とも言われています。
いずれにせよ、大本営の保身を目的としたカムフラージュであることに違いはないでしょう。
73年前の今日、北方の小島に散った山崎中将以下2,600名余りの英霊に、黙祷を捧げたいと思います。
今や隣の大国ら数ヶ国を除き、殆どの国家で重要視される、〝人権〟。
国連の諮問機関であり、難民救済などの人権擁護支援活動を行っているこの非政府組織(NGO )が
アムネスティ・インターナショナル
Amnesty International 皆さんも聞き覚えのあるであろうこの組織が産声を上げたのが、今から55年前の今日のことでした。 アムネスティとは、ギリシャ語で 「忘れ去る」 ことを意味する “amnēstia ” に由来する単語で、日本語で言えば〝大赦〟。 『暗闇を呪うより1本のロウソクに火を点せ』 という聖書の言葉に因んで、有刺鉄線を絡めたロウソクをシンボルマークにしています。 この組織が出来るキッカケとなったのは、1960年。 5月28日付のオブザーバー紙 1970年にはアムネスティ日本支部が立ちあがり、1977年にはアムネスティ・インターナショナルはノーベル平和賞を受賞。 にもかかわらず、なぜ彼らは日本政府を批判し続けるのでしょうか? 実はアムネスティが批判・糾弾した人権問題は、1998年以降日本・韓国が北朝鮮の約6倍・・・私たち日本人からすれば、どう考えても基準が公正中立とは思えません。
イギリスの弁護士ピーター・ベネンソン氏が、当時軍政を敷いていたポルトガルのカフェで、2人の学生が 「自由のために!」 と乾杯しただけで逮捕され懲役7年の刑に処せられた、という新聞記事を読んだこと。
ショックを受けた彼は、1961年5月28日にイギリスの新聞『オブザーバー』紙とフランスの『ル・モンド』紙に〝忘れられた囚人たち〟という記事を投稿。
軍などの国家権力によって自由を奪われ、存在すら消されてしまう人々がいることを訴え、人々に彼らの救済活動を呼びかけたのです。
この記事は欧米各国の新聞に翻訳・掲載され、僅か1ヶ月間に1,000通以上の反響が寄せられたとか。
その賛同者たちがこの年の末に組織として立ち上げたのが、アムネスティ・インターナショナルというわけ。
現在は世界で約700万人以上の参加者・ボランティアに支えられ活動をしているとのこと。
私は個人的にこの組織の活動は必要な事であり評価もしていますが、だからと言って全面的に支持しているわけではありません。
主に2点に於いて。
まず1点は、彼らが死刑廃止を訴え日本を非人道的だと非難していること。
ご存じの通り我が国の刑事訴訟法では死刑制度が定められており、その存続を9割前後の国民が望んでいます。
それをイルカ生け捕り問題同様、西洋文化・基準で推し量り批判するのは内政干渉もいいところ。
死刑判決を受けるのは他人の命を奪った犯罪者であり、ポルトガルのカフェで逮捕された学生とは全く違います。
それからもう1点は、いわゆる従軍慰安婦問題に関して。
彼らはこの問題に関しても人権問題として取り上げ、日本政府の対応を批判しています。
しかしこれもご存じの通り、一昨年朝日新聞が記事の誤り(実質的には捏造)を認め、この問題の根拠となる軍による強制がなかったことがほほ明らかになっています。
それより、中国のウィグルやチベットの迫害を問題にすべきでは?
アムネスティ・インターナショナルの活動が本当に非政府組織として相応しいものなのか、私たちは国連同様に注意深くチェック・検証する必要がありそうです。
18世紀から19世紀にかけて、世界では数多くの高名な音楽家が活躍しましたが、今日はその中の1人であり、ヴァイオリンの超絶技巧奏者・作曲家だった
ニコロ・パガニーニ
Niccolò Paganini
の命日にあたります。
パガニーニは1782年のイタリア生まれ。
同時期に活躍した作曲家としては、ベートーヴェン(1770年生まれ)、ロッシーニ(1792年生まれ)、シューベルト(1797年生まれ)らがいます。
彼がヴァイオリンやギターを弾く父親に手ほどきを受けヴァイオリンを弾き始めたのは5歳の時だそうですが、13歳の時には既に学ぶことがなかったという文字通りの天才。
猛練習により他の追随を許さない特殊技法を体得したと言われていますが、その他の要因として異様に手の指が長くかつ間接の動きが柔らかくなる〝マルファン症候群〟に罹患していたと言われています。
これと同じ症状を患った音楽家と言えば、ビアノの巨人・ラフマニノフ。
やはり彼も巨大な手の持ち主で、ピアノの2オクターヴ近い和音を片手で弾けたといいますから、まさに超人的。
そのしなやかかつ巨大な手を生かした彼の演奏もまた、超人的。 あまりの上手さに
「パガニーニは悪魔に魂を売り渡した」
と噂される程で、コンサートでは彼の身体が宙に浮いているのでは?・・・と足元ばかり見つめていた聴衆もいたとか。
もっとも彼自身も演奏時には上下とも黒ずくめの衣装でステージに立ったそうですから、そういう噂が立っても不思議ではなかったでしょう。
下の画像はドラクロワが描いたパガニーニ像ですが、そんな〝悪魔的〟な雰囲気プンプンですし、ヴァイオリンが子供用に見えるほど手が大きいことも分かります。
彼の鬼才ぶりは、
◆ロッシーニが自作のオペラの公演直前に指揮者が倒れてしまいパガニーニに代役を頼んだところ、彼はスコアを一度見ただけで見事にオーケストラをまとめ上げ、ロッシーニを感嘆させた。
◆ピアノの天才・リストが20歳の時に彼の演奏を聴いて感激し、「自分はピアノのパガニーニになる」と誓った。
など、様々なエピソードが物語っています。
これだけの才能があれば、女性が放っておくわけはなく、18~23歳の時にはフィレンツェの女性ギター奏者と恋仲になって演奏活動を止めてしまったり、またナポレオン皇帝の妹と浮名を流したりと大忙し。
しかし天才には往々にしてありがちなのですが、人間的にはかなり風変わりだった模様。
ギャンブル好きの父親の血を引いたためか、コンサート前日に賭けに負けて肝心のヴァイオリンを取り上げられたり、また金銭欲も強く高額な演奏料金を要求し、ニセ物が出回らないよう自らコンサート会場の入口で観客のチケットを確かめた、なんて逸話も残っています。
冒頭、作曲家でもあった・・・とご紹介しましたが、実は彼の作品はあまり現存していません。
それは、彼が盗作を怖れて自ら楽譜を管理して出版させず、更に生まれつき病弱だったことから服用していた水銀の中毒により気管支炎などを併発して1840年5月27日に57歳で病没する直前、その殆どを自ら焼却してしまったことと、残された楽譜も遺族が売却してしまったため散逸してしまったから。
何とももったいないことですが、それでも残された数少ない作品からは彼の天才ぶりが伺えます。
お時間のある方は、彼の代表作である 『24のカプリース』 を、さわりだけでも聞いていただければ・・・。(↓)
https://www.youtube.com/watch?v=vkUGFcQI9No
それから、もうひとつ。 もし彼に興味を持たれた方には、2014年に公開された彼の伝記映画
『パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』

の鑑賞をオススメします。 特に女性には。
何故なら、この作品で主人公を演じているのはプロのヴァイオリニスト兼モデルの超イケメン、デヴィット・ギャレットだから。
従来の音楽映画と違い、吹き替えではなく本人が演奏をしていますから全く違和感がありません。
しかも演奏に使用しているヴァイオリンは、時価5億円のストラディヴァリウス・・・一見、いや一聴の価値はあるかと。
私も久しぶりにこの作品を観ながら、彼の冥福を祈りたいと思います。
余談ですが、私の携帯の着メロはラフマニノフが彼の作品を基に作曲した 『パガニーニの主題による狂詩曲』 第18番なんですョ。
昨日のランチタイム・・・車で松屋の前を通ったら、見慣れぬ緑色のノボリがはためいており、そこには
チキンと茄子のグリーンカレー
と書かれていました。
もともとカレーは牛丼チェーンの中で松屋が一番美味しいと思っていますし、まして辛いタイカレーは大好き・・・ということで、駐車場へ一直線。
店内に入ると、唐辛子が3つ並ぶポスターが貼ってあり、激辛党の心をくすぐります。
カレーにはフクロタケも入っていて、本格的なタイカレーの趣。
私にすればそんなに辛くはないものの、一般の方には十分な辛さ。
食べた瞬間はそれほどでなくても、後からジワッと汗が出る感じ。
これで650円なら、コスパは高いと思います。
この新商品は24日から発売された期間限定メニューですので、カレー好きの方はお早めに!
暑い時こそ、辛い物が体にイイですからネ。
・・・ところで、このようなスープ・タイプのカレーをライスと別盛りで出された場合、皆さんはどうやって召し上がりますか?
① ライスの上にドバッとかける。
② カレーとライスを交互に口に運ぶ。
③ スプーンにライスを乗せて、それをカレーに浸して食べる。
私の場合、カレーはスープであろうとなかろうと①・・・なんですが、昨日はそれをやろうとした瞬間、なんとなく周囲のお客が私の手元を見ているような〝気〟を感じて断念。
仕方なく②と③を交互にやってみたんですが、いつもと勝手が違ってあまり食べた気がしませんでした。
それに③だと、スプーンから米粒がカレーの中に少しこぼれ落ちるんですょネ。
で、最後にはカレー容器を手に持って口につけ、底に沈んだ米粒共々ズズ~ッ・・・この瞬間はまさに〝カレーは飲み物〟状態。
きれいに飲み干して容器を下に置いた瞬間、隣のおっさん(あ、私もおっさんですが)と目が合いました。
そんなに珍しい、というか下品な食べ方だったかなァ?
いや、きっと他のお客さんもどうやって食べればいいのか、自信ないのかも。
次回からは、自分らしい食べ方を貫こう・・・そう決心をした私です。
今日は、19世紀から20世紀にかけて活躍したイギリスを代表する作曲家、
グスターヴ・ホルスト
Gustav Holst
の命日にあたります。
ホルストは1874年、イギリス・グロスターシャー州にスウェーデン・バルト系移民の子として生まれました。
ロンドンの王立音楽院に学び、卒業後はオーケストラのトロンボーン奏者とをしていた時期もありましたが、30歳頃から終生ロンドン近郊のセント・ポール女学校の音楽教師を務め、その傍ら作曲を行いました。
今から82年前の今日・1934年5月25日に出血性胃潰瘍で59歳でロンドンで没するまで、合唱曲や歌曲を中心に200曲以上の作品を遺しました。
中には日本人からの依頼で作曲した 『日本組曲』 という作品もありますが、日本人でもこれを知っている方は殆どいないでしょう。
作曲家として必ずしも日本ではお馴染みではない彼を取り上げたのは、彼の名前以上に日本人に知られている作品があるから。 それは
組曲 『惑星』 (The Planets )
1914~16年にかけて作曲され、火星-金星-水星-木星-土星-天王星-海王星と7つの曲で構成されています。
(※地球が含まれていないのは、天文学ではな占星術から着想を得たからだとか。 また当時は冥王星の存在は知られておらず、1930年に発見された後に作曲しようとしたものの、果たせぬまま亡くなったそうな。)
近代管弦楽曲としては高い人気を誇り、1997年にはダイアナ元皇太子妃の葬儀や2012年のウィリアム王子とキャサリン妃の結婚式でも演奏され、また日本では2003年に平原綾香さんのデビュー曲〝Jupiter 〟はその名の通り、木星の第4主題に歌詞をつけたものですから、多くの方もこのメロディーに聴き憶えがあるはず。
しかし1920年に初演され好評を博したものの、特殊な楽器の多用や最後の第7曲・海王星では女性コーラスがあることで、その後殆ど演奏されることなく忘れ去られてしまいました。
ところが1961年、あのカラヤンがウィーン・フィルとの協演でリリースしたレコードが大ヒットし、一躍脚光を浴びるように。

上の画像は、それから20年後にカラヤンがベルリン・フィルと共演したデジタル録音盤ですが、その他に様々な指揮者・オーケストラがリリースしていますので、聴き比べてみるのも一興かと。
ただ、私がこの曲を生まれて初めて聴いたのは、オーケストラの演奏ではありませんでした。
それは、私が高校生だった1976年にリリースされた(つい先日亡くなられた)冨田勲氏のシンセサイザーによる編曲盤。
その前年に 『展覧会の絵』 の編曲盤が全米クラシックチャートの第1位を獲得したことで注目を集め、それを手に入れて新しい音楽に触れた私は、同じくチャート1位になったこの 『惑星』 も即購入したというわけ。
出だしに木星のテーマがしばし流れた後、まるでロケットのカウント・ダウンのような電子音に続いて、ロケットの発射音・・・とてもクラシック音楽とは思えぬ構成にビックリ。
深夜受験勉強をしていた時、これをヘッドフォンで聴いては眠気を吹き飛ばしていたことを懐かしく思い出します。

実はホルスト、この曲の出来栄えには相当自信があったようで、楽器編成の厳守や抜粋演奏の禁止など様々な制約を設けていました。
ですから本格的な編曲としては、この冨田盤が初めてであり、この成功によって以後多くの編曲がなされることとなったのです。
もしホルストがこのシンセサイザー盤を聴いたら、どんな顔をするんでしょう? ちょっと見てみたい気もします。
今宵は彼の冥福を祈りつつ、カラヤン盤と富田盤を久しぶりに聴き比べてみるつもりです。
興味のある方は、こちらで第4曲〝木星〟をお聴きください。
◆カラヤン/ベルリン・フィル盤
https://www.youtube.com/watch?v=Ixecvm2Q4oU
◆冨田勲盤
https://www.youtube.com/watch?v=tDFocqYSrfE
子供の頃からプロレス・ファンだった私には、ジャイアント馬場・アントニオ猪木ら記憶に残るレスラーが何人もいますが、その理由はいずれも強かったから。
しかし中には、(決して弱くはなかったのですが)パフォーマンスというか個性で忘れられない選手が。
今日は、その中の1人、
ラッシャー木村 選手
の命日・七回忌にあたります。
木村選手(本名:木村 政雄) は1941(昭和16)年の北海道中川郡生まれ。
小さい時からプロレスラーになるのが夢だったそうで、その基礎体力をつけるため高校を中退して大相撲・宮城野部屋入り。
入門のキッカケは部屋に稽古の見学に行った際、親方から「いい身体してるな。 ウチに入らないか?」と誘われ、ちゃんこをご馳走になったため断れなかったからだとか。
しかし初心貫徹・・・幕下20枚目まで上がったところで「十両に上がったら辞められなくなる」と親方の慰留を振り切って1964年に部屋を飛び出し廃業、その翌月に日本プロレス入り。
その後豊登選手の付き人をしていたことで、彼について東京プロレス→国際プロレスに移籍。
ラッシャー木村のリングネームで活躍し始め、1969年にはサンダー杉山と組んでTWWA世界タッグ王座を獲得。
私がテレビで彼のファイトを初めて観たのは、この時分だったと思います。
そしてアメリカに武者修行に出かけた後帰国した彼の名を一躍有名にしたのは、1970年10月に大阪で行った、日本初の〝金網デスマッチ〟。
以降連勝を続け、彼には〝金網の鬼〟という異名がつけられました。
その後各団体で活躍した木村選手でしたが、何といっても記憶に残るのは、彼の〝マイク・パフォーマンス〟。

全日本プロレスからノア時代にかけて、リング上でマイクを握って相手を挑発(?)するトークは、独特のユーモアというか味が絶品。
1981年に試合開始前に「こんばんは」とKY(?)な挨拶をかましてビートたけし師匠にギャグにされて以降は、試合よりもこの喋りを聞きに会場に足を運んだファンも多かったのではないでしょうか?
その人気ぶりにテレビのバラエティー番組に出演するなど、幅広く活躍。
しかし身長186cmで体重は全盛期で125kgあったという彼も、年齢と共に身体の筋肉は落ち、ジャイアント馬場選手の記録を抜いて現役最年長記録を更新したものの、2004年・63歳で現役引退を表明。
引退後、脳梗塞で倒れたそうですが、プロレスラー仲間の見舞いを頑なに断り続けたのだとか。 やはり車椅子に座る自分の姿を後輩には見せたくなかったんでしょうネが・・・その気持ち、分かる気がします。
そして2010年5月24日、誤嚥性肺炎により68歳でこの世を去りました。
約40年の長きにわたってプロレス界を支えた名物レスラーのご冥福を、伝説のマイクパフォーマンスを観ながらお祈り致しましょう。
朝っぱらから色っぽいお題で失礼しますが、今日は
キスの日
なのだそうです。
その由来は、今からちょうど70年前の今日・・・終戦直後の1946年5月23日に、日本で初めてのキスシーンが描かれた邦画・『はたちの青春』 が封切られたことから。
(※しかし厳密に言うと、日本初のキスシーン映画はこの作品より4ヶ月前に公開された 『ニコニコ大会 追ひつ追はれつ』 。
ただしこの映画は22分の短編映画でした。
ちなみに 『はたちの青春』 は72分。)
実際には、ほんの少し唇を触れ合わせた程度のキスだったそうですが、当時の観客には衝撃的! 演じたのは大坂志郎さんと幾野道子さん。 2人ともそのシーンの直前までガーゼで口をガードし、決死の覚悟で演じたそうな。 ただ個人的には、大坂志郎さんというとTVドラマシリーズ・『大岡越前』 の同心役が印象強く・・・彼が日本初のキスシーンを演じたと聞くと、どうしてもちょんまげ姿の彼が接吻しているシーンが頭に浮かんでしまいます。 ところで、このキスシーン・・・実はGHQが関わっていたんですって。 というのも、この映画の前に公開された作品では恋人同士のキスシーンを傘で隠して撮影したのですが、 「キスを見せないのは不自然だ」 とGHQが映画会社にクレームをつけたために、本作品では晴れて(?)オープンになったというのです。 まぁ、アメリカ文化導入の一端を垣間見る思いがしますネ。 ちなみに、そのアメリカで初めてキスシーンが公開されたのは1896(明治29)年・・・映画の題名もズバリ、『The Kiss 』。 ところが面白い事に、いざキスシーンが銀幕に映し出されると映画館内はざわめき、口笛を吹く者も。 新聞等で 「公序良俗に反する」 と批判され、結局映画史上初の検閲映画として上映禁止になったとか。 キスの本場(?)アメリカにも、そんな黎明期があったんですねェ。 ところで皆さんは、恋人や奥様・ご主人との初キスを憶えていますか? えっ、私? そりゃあ、もう・・・我が女房との初キスは甘酸っぱいとかそういうものではなく、あの衝撃的な一瞬は忘れられません。 あれは、とあるレストランで食事をした後の・・・・っと、危ない危ない。 うっかりバラしたら女王様に殺されますので、ここから先は皆さんの想像にお任せしますネ。
「日本初のキスシーン登場」と宣伝され、映画館は連日超満員。
ヘェ~
男体山の噴火によって堰き止められてできた中禅寺湖の唯一の流出口・大谷川にある、落差97mの
華厳の滝
30年前に滝口の一部が崩落し景観が変わってしまいましたが、現在でも栃木県・日光の観光名所として、外国人を含め多くの観光客が訪れています。
そしてここは観光の他に心霊スポット、また(かつては)自殺の名所として知られていますが、その端緒となったのが、今から113年前の今日・1903(明治19)年5月22日に藤村 操(みさお)という青年が投身自殺をしたことがキッカケでした。
彼は1886(明治19)年に北海道で生まれたましたが、一族は父親が屯田銀行頭取、叔父は歴史学者、そして弟は後に三菱地所の社長になった秀才揃い。
本人も13歳の時に父親が亡くなった後に上京し、開成中学から第一高等学校に入学した秀才でした。
しかしその一高の1年生の時、彼は 『巌頭之感』 という遺書を滝近くの木に書き残して、滝壺に飛び込んでしまったのです。

父親を早くに亡くしたため家族を背負って生きなければならず、また自分に対する周囲の期待が重くのしかかり、反面自由に生きたい、いう欲求との葛藤に悩み続けた末の哲学的な自殺だった・・・というのが通説ですが、失恋説もあります。
確かに、『巌頭之感』 は到底16歳の若者が書いたとは思えぬハイレベルな文章であり、私には理解できない代物ですが、文中に〝不可解〟と記した彼の悩みの深さというか一途さは感じ取ることはできます。
そして彼の投身自殺は、立身出世を是とする当時の社会に大きな影響を与えました。
発売したばかりの哲学書の宣伝のため、出版社が彼の叔父に〝哲学的に悩み厭世観を持った青年が死を選んだ〟という内容の追悼文を書かせたそうですが、他にも多くの知識人がこの自殺に関して言及。
それらに感化された若者が次々と後追いを試み、現地で警察に引き留められた人もいたものの、彼の死後2か月間で15人、4年間で180名以上が自殺したそうな。
しかし、私は自殺という選択は絶対に止めて欲しい、と強く思います。
確かに本人にとっては深く悩み苦しんだ末の決断でしょうし、死ぬことによってその苦しみからは解放されるでしょう。
でも残された家族や友人が受けたショックは、簡単に癒えません。
私は今までに何回か自殺された方の葬儀のお手伝いをさせていただき、ご遺族の苦しみ・悲しみを目の当たりにしていますから、よく分かります。
自殺とは、究極の自己中心的な行動だと言えます。
もし家族や友人を愛しているなら、彼らを未来永劫苦しめるような選択はしないで欲しいのです。
それにしても、華厳の滝では今でも彼の写真や 『巌頭之感』 を印刷したお土産品が売れらているとか。
商魂逞しいというか、何というか・・・。