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おしどり
今日は、日本映画界を代表する俳優のお一人、

 長門 裕之 さん

の命日・・・早いもので、没後5周年にあたります。


長門(本名 : 加藤 晃夫)さんは、1934(昭和9)年に京都市で生まれました。

父親が戦前の映画スター・沢村国太郎、母親も女優のマキノ智子。

弟が俳優・津川雅彦、叔父も俳優の加藤大介、叔母が女優・沢村貞子、更に祖父は〝日本映画の父〟と謳われた映画監督・牧野省三という、まさに芸能一家に生まれた長門さん。

銀幕デビューは僅か6歳の時に子役として出演した 『続清水港』(1940年公開)。

立命館大学を中退して日活入りした彼は、『太陽の季節』の主役を務め、デビューしたばかりの石原裕次郎さんと共演するなど活躍。

しかしその後は、弟の津川雅彦さんらに人気を奪われがちに。

私自身、正直なところコレといって長門さんの印象が強く残る作品が浮かんできません。

ただ逆に言えば、それくらい出演した映画やドラマが多かった、とも言えますが。

むしろ記憶に残っているのは、スキャンダルと私生活の方。あせあせ


         

ひとつは30年程前に長門さんが出版した 『洋子へ』 という暴露本。

熱烈な猛アタックでハートを射止め結婚した女優・南田洋子さんに捧げる形で書き下ろされたこの本は、長門さんの女性遍歴を実名で告白したもの。

当然名指された女性は猛反発。
結局長門さんは初版を回収し、改訂版を出した上で新聞に謝罪広告を出す羽目に。

結局これが響いて、南田さん共々芸能界から長期にわたり干されてしまいます。

そしてもうひとつは、その南田さんの認知症。
だんだん衰えていく妻を、老々介護で支える長門さんの姿をテレビのデキュメンタリー番組で観た事でした。

一部には金儲けのためだという批判もあったようですが、私は敢えて実態を曝け出したことはこれからの高齢化社会を予見させ、介護が他人事でないことを多くの国民に〝認知〟させた意義は大きかった、と評価します。

仕事柄、奥さんに先立たれたご主人が急に萎れてしまう話をよく聞きますが・・・症状が悪化した愛妻の南田さんが2009年10月に他界すると、その僅か1年半後の2011年5月21日、長門さんも後を追うように肺炎の合併症により77年の生涯に幕を下ろしました。

おしどり夫婦として有名だった長門・南田夫妻の愛情に、ウソはなかった・・・介護の様子や最期の迎え方から、私はそう信じます。


きっとあの世でも、お二人は仲睦まじく暮らしていることでしょう。

あらためてご両人のご冥福をお祈りしたいと思います。笑3

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勘違い

今日・5月20日は、おそらく世界的に最も有名なイタリア人探検家・・・一般的にキリスト教世界の白人として、初めてアメリカ大陸を発見したといわれる


 クリストファー・コロンブス

   Christopher Colombus


の命日・没後510周年にあたります。


         

彼は1451年にイタリアのジェノヴァで生まれたとされていますが、実はその出生地を含め前半生の詳細が殆ど分かっていない、謎多き人物。


若い頃から航海に関わり、地球は丸いということを自身の経験から薄々感じていたらしく、

「大西洋をひたすら西進すれば、アジア大陸に行き着く」


と考えた彼は、運よくスペイン王室の援助を受けることに成功し、自らの仮説を立証すべく1492年に出航しました。


約2ヶ月後、苦難の末に探検隊一行は現在のバハマ諸島・キューバに上陸。


以降10年間に4回の航海を行い、最後の航海途中に偶然ベネズエラ付近に上陸し、南米大陸を発見します。




しかしその後は入植がうまく進まず、やがてイザベル女王の死によって大きな後ろ盾を失ったコロンブスは、スペインに帰国したのち病を患い・・・1506年5月20日、50代半ばにしてその生涯を終えました。


ところでコロンブスは、上陸した新大陸を最後までインドだと信じていたのだとか 

それ故に新大陸で出会った先住民族は、インドの先住民族であるとして 〝インディアン〟 と呼んだわけです。


その後この新大陸がインドではないと判明してから、アメリカ大陸を探検したアメリゴ・ヴェスプッチというイタリアの探検家が、「コロンブスより先にアメリカ大陸を発見していた」 と発表。


そのため、新大陸の名前はインドではなく 〝アメリゴ〟 と付けられ、後に女性名のアメリゴ=アメリカに修正されました。


の名前が定着した後で、コロンブスの方が早く新大陸に辿り着いたことが証明されたのですが、時既に遅く・・・呼称はそのまま変更されませんでした。


本人の勘違いがあったとはいえ、ちょっと可哀想な気もしますネ。


そしてコロンブスといえば、誰もが あの逸話をご存知のはず。            


コロンブスの業績を批判した者に、「では、この卵を立ててみたまえ」 と手渡し、結局立てられなかった彼から卵を奪い取ると、机に強く打ち付け底を割って立ててみせた・・・いわゆる〝コロンブスの卵〟。


残念ながら、これは後世の作り話・・・というより、彼の生きた時代以前に同様の話が存在しているのだそうな。

しかし十分な科学的裏付けもなく、また植民地開拓・香辛料の取得などの野心があったとしても、自分の信念のみで未知の大海に船出した勇気は、この逸話を抜きにしても称賛に値します。

ただし、入植後各地で行った(一説では5万人以上もの)原住民の虐殺を帳消しにはできませんが。うー





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無制限

スピード狂なら、一度は走ってみたい・・・そんな道路が、ドイツにあります。

そう、制限速度のないことで有名な


  

 アウトバーン
  Autobahn 


この世界的に有名な高速道路がフランクフルト~ダルムシュタット間で初めて開通したのが、今から81年前の今日・1935年5月19日のことでした。


                    

                Autobahn の交通標識

日本初の高速自動車道である名神高速道路が一部開通したのが1963年ですから、それより30年近く前・・・まさにヒトラー率いるナチスが台頭した時期と重なっているのです。

1929年に世界恐慌が起き、ドイツにも不景気・失業の波が押し寄せました。

そんな中、ナチス党のヒトラーは国民に職とパンを与えることを約束し、急速に勢力を伸ばしました。
        

そして1933年に首相の座についた彼は、「休日には低所得者層も自動車でピクニックに行ける」暮らしが必要だ」唱え、国際自動車オートバイショーの会場で自動車道路網の構築を約束。

同年5月に行われた『国民労働記念日』の式典で、全長7,000kmに及ぶ〝帝国アウトバーン〟の計画を発表し、翌月には『帝国アウトバーン会社の設立に関する法律』を発布。


9月にはヒトラー自ら鍬入れを行い、建設が始まりました。

雇用対策のため、敢えて機械化を避け、力での施工をしたため効率は上がらなかったものの、コンクリートの厚みが他国の高速道に比べ2倍と耐久性に優れた道路になったといいます。


そしてヒトラーからドイツ道路総監に抜擢されたトートというエンジニアの優れた発想により、クロソイド曲線を取り入れた緩やかな曲線や近代的なデザインの橋梁が架けられ、またトイレなどを備えたパーキングエリアも導入。

まさに現代の高速道路建設の基礎となる構想が盛り込まれた、ドイツを自動車大国に押し上げる原動力になりました。

また万一の際、航空機が着陸できる設計もなされており、現実に今まで何度も実際に軍用機などが発着しています。


        


ドイツのアウトバーンは、国土面積約35万7千㎢で約13,000km。
日本は国土面積約37万7千㎢で高速道路の総延長は9,300km。

隣国と陸地で接しており、アウトバーンを含めあらゆる道路の接続がなされていますから、歴史を含めて考えても我が国より進んでいることは否めません。 

ただ、アウトバーン=速度無制限というイメージがありますが、実際には現在では全線の約50%には速度制限が設けられており、日本ではお馴染み(?)のスピード違反取締カメラも設置されているとか。

また速度無制限区間でも、一応〝推奨速度〟が設定されています・・・といっても。日本の制限速度より高い時速130kmだそうですが。

個人的には、日本の高速道も速度無制限とまではいいませんが、時速120~130
kmまで上げるべきだと思います。

リミッターがついていながら時速180kmまで楽々出せる自動車が殆どなのに、80~100kmに制限するのは、もったいないし時間の無駄。

制限速度を上げないのは、警察の取り締まり効率が落ちるから・・・と考えるのは、ひねくれてますかねェ。

それでは最後に、日本では実現不可能な時速300km近いポルシェ911によるアウトバーンでの走りを、スピード・メーターに注目しつつお楽しみください。

嗚呼、一度でいいからハンドル握ってこのスピード出してみたい!驚き顔




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局 所

昨年、弁護士が不倫のもつれから元ボクサーに殴り倒された末に局部を切り取られるという事件がありました。


それを報道したマスメディアが、こぞって〝平成の~〟と引き合いに出したのが


  あ べ さだ
 阿部定事件


この本家・本元の猟奇殺人事件が起きたのが、今からちょうど80年前の今日・1936(昭和11)年5月18日のことでした。


この事件の犯人・阿部定は1905(明治38)年に現在の東京都千代田区神田多町で生まれました。

芸者や娼婦として各地を転々としていた彼女が、女中として働き始めた東京・中野の鰻料理店の店主が、後に被害者となる石田吉蔵さんでした。

2人はやがて惹かれあい、男女の仲に。
そして遂に駆け落ち・・・2人は宿泊場所を転々としながら情事に耽ったそうな。

どうも彼はいわゆる窒息プレイが好きで、よく彼女に首を絞めさせたそうですが、5月18日午前2時頃・・・彼女は逆に眠っている彼の首を絞めて殺害。

包丁で彼の性器を切除し、流れ出た血液でシーツと彼の太ももに

〝定、石田の吉 二人キリ〟

と書き、更に彼の左腕に〝定〟と刻みました。

彼女は「具合が悪く寝ているので、午後まで起こさないで」と従業員に言い残して宿を出ましたが、やがて遺体が発見されるに至り、その猟奇殺人事件は新聞によって報じられ世間は大騒ぎに。


そして事件から2日後・・・偽名で品川の宿に泊まっていた彼女は警察に発見され、御用。

その際 「あたしがお探しの阿部定ですょ」 とあっさり認めたことに、逆に刑事が驚いたとか。

           

彼女は、切除した彼の性器を雑誌の表紙に包み、バッグに入れて持ち歩いていました。

(※ちなみにその性器は東京医科大学の病理学博物館で保管され、戦後は一般に公開されたことがあったとか。)

また殺害の動機については、

「私は彼を非常に愛していたので、彼の全てが欲しかった。
 彼を殺せば他の女性が2度と彼に触ることができないと思って殺した。」

「私は彼の頭か体と一緒にいたかった。 

いつも彼のそばにいるためにそれを持っていたかった。」

などと供述。 


彼女は支配欲・独占欲が強いものの普通の女性と変わらないと判断した裁判官は、痴情の縺れからの犯行と判断し、懲役6年の判決を出しました。

彼女は服役後、1941年に〝紀元二千六百年〟の恩赦で釈放。

その後は名前を変えて未入籍ながら事実婚をしたそうですが・・・戦後、現代でいう〝あの人は、今〟のようなマスコミの取材に晒され、同棲していた男性に素性がばれてしまい、破局したとか。

身から出た錆とはいえ、ちょっと可哀想な気もします。

この事件は、その後 『四畳半襖の下張り』 や 『愛のコリーダ』 など様々な小説や映画の題材になりましたが、冒頭に述べた昨年の事件以前にも1
953年・1972年と同様の事件が起きています。

人間の愛憎の深さや怖さは、当事者にしか分からないものですネ。

ところで、この事件を報じる際、新聞各社は随分困ったようです。
それは、彼女が切り取ったモノを何と表現するか?

まさかチ〇ボとかチ〇チ〇とは書けないし、さりとて〇根とか男性器ではダイレクト過ぎる・・・ということで編み出された単語が〝局所〟とか〝下半身〟。

そういう表現は今でも一般的に使われますから、阿部定事件は現代の世にも影響を及ぼしている、といっても過言ではないかも。あせあせ


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サラサラ

・・・という音から、皆さんは何を連想しますか?

女性の長い黒髪、小川のせせらぎ、笹の葉等々いろいろあると思いますが・・・私の場合は血液と、コレ。

今日・5月17日は、その

 お茶漬けの日

なのだそうです。
制定したのは当然(?)のことながら、永谷園。

同社創業者・永谷嘉男氏のご先祖であり、江戸時代にお茶の製法を発明したことから煎茶の創始者として京都で〝茶宗明神〟として祀られている永谷宗七郎氏の命日・5月17日を記念日にしたとか。


そもそもお茶漬けのルーツは、平安時代の文献に登場する〝水飯〟・〝湯漬け〟・・・つまり、ご飯に水やお湯をかけたもの。


これがお茶をかけるようになったのは、庶民にお茶が広まった室町時代後期だそうな。

ただ当時のお茶は赤黒い色で味も薄かったそうで、現在のような緑色の美味しいお茶になったのは、前述の永谷宗七郎の発明以降。

当時は電子レンジなどありませんでしたから、江戸庶民は朝ご飯を炊いて食べると、夜はお茶を沸かして冷や飯にかけて食べるのが一般的だったとか。

その庶民が日常的に食べていたお茶漬けを、「もっと美味しく、手軽に家庭で楽しめたら・・・」という思いで父・武蔵氏と二人三脚で開発したのが、永谷嘉男氏。

抹茶・塩・砂糖などの調味料にあられ・海苔を加えたシンプルなこの商品が発売されたのは、今から64年前の1952(昭和27)年。


          

               1952年発売当初のパッケージ

ご覧の通り、当初は〝江戸風味〟と銘打ち、その江戸の情緒をイメージして、歌舞伎の定式幕を真似た縞模様を採用。

発売当初は自転車の後ろにリアカーを引いて、お茶屋を一軒一軒回って納品したそうですが、カラフルなパッケージが店頭で目を引き予想を上回るヒットに。

発売翌年に株式会社永谷園を創業したのですが・・・その人気に目を付けた同業他社が類似品を発売してピンチに。

そこで1956年に〝永谷園のお茶づけ海苔〟を商標登録をして〝江戸風味〟を〝永谷園〟に変更・・・以来そのデザインは殆ど変らずに現在に至っています。

私が生まれる前からありましたから、私にとっては物心ついた時からお茶漬けといえば永谷園。

お腹が空くと自分でご飯をよそってはサラサラやってました。

一度、(ホントのお茶かけたら、美味しいのかナ?) と永谷園のお茶づけを使わず急須に残っていた番茶をかけて食べたら物凄く不味くて、以来一度もお茶をかけて食べたことはなし。

現在、我が家に非常食として常備しているお茶漬けは、コレ。(


        

1970年に〝さけ茶づけ〟発売以来バリエーションがかなり広がっていますので、私としてもいろいろな味を楽しみたいですからネ。

普通のお茶づけに、さけ、梅、たらこ、わさびの中で、皆さんがお好きなのはどれでしょう?

私が一番好きなのは、信州生まれだけに、野沢菜茶づけ。

これ、永谷園さんが信州限定で出しているんです・・・と言いつつ、上の4種類の中にはしっかり入っているんですけどネ。

今晩の夜食には、永谷園さんに敬意を表してお茶漬けはいかが?

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読書家

今日は、中高年の方には懐かしい俳優・タレント、


 児玉 清 さん

の命日・・・早いもので、没後5周年になります。

児玉(本名:北川)清さんは、1934(昭和9)年に現在の東京都北区滝野川で生まれました。

都立工芸高等学校から学習院大学文学部に進学した彼は、演劇部に入部。

当初は裏方の道具係だったそうですが、当時としては長身(179cm)だったため無理やり舞台に上げさせられたとのこと。

そんな彼に目をつけてフランス語劇の主役に抜擢したのが、児玉さんの1年先輩で後に学習院大学教授の肩書でクイズダービーの名物回答者としてお茶の間の人気を博した、篠沢秀夫氏だったとか。

しかし児玉さん自身は元々学者志向で大学院進学を目指していたそうですが、何と卒業式当時に母親が亡くなってしまい、就職せざるを得なくなってしまいます。

とは言え就活など全くしていなかったので当てはなし・・・仕方なく、友人が勝手に応募した東宝のニューフェイスの面接試験に臨みます。

当日は水着審査があったのですが彼はそれを知らず、なんと下着のパンツ姿で審査員の前に出るという暴挙(?)に。 

しかし当意即妙の受け答えが審査員の目に留まり、見事合格。


とは言え、当分エキストラとして通行人役などをこなす毎日。

黒澤監督の 『悪い奴ほどよく眠る』 (1960年公開) に出演した時は、目立とうとしてオーバーな演技や余分なフレーム・インを繰り返し御大を激怒させ、現場では相当苛められたとか。

(但し黒澤監督自身は、「あの血気盛んさを10年続ければものになる」 と評価していたそうな。)

1964年に東宝の女優・北川町子さんと結婚。

その3年後にフリーとなり、テレビドラマの世界に進出し、水前寺清子さん主演の 『ありがとう』 (1970~75年)に出演。

このドラマの放送時間帯は銭湯に人がいなくなる、と言われるほど大ヒットしたことで、児玉さんの顔も全国区に。

おそらく私自身も児玉さんを知ったのは、この番組だったと思います。


しかし児玉さんといえば、やはりこの番組に止めを刺すでしょう。

それは、『ありがとう』 シリーズが終了した1975年4月から始まったクイズ番組 『パネルクイズ アタック25』 の司会。


           

2011年まで36年間の放映で、休んだのは虫垂炎による入院で2回だけ・・・総出演回数は1,973回に上ったといいますから、まさにライフワークと言って良いでしょう。

私より若い方だと、児玉さん=司会者だと思っている方が殆どかもしれません。

問題に正解すると、「正解」ではなく、「結構」 とか 「その通り!」 と言うのが児玉さんのスタイルでしたが、これを博多華丸さんが物真似をするようになって、若年層に児玉さんの名が知られるようになった感も。

しかしお嬢さんの命を36歳で奪ったのと同じ胃癌を発症し、2011年5月16日・・・77歳でこの世を去りました。


児玉さんが稀代の読書家であったことを私が知ったのは、訃報を聞いた時の事。

洋書を原書で読み、また1万冊を超えるという蔵書の重みで家が傾いたと聞いてビックリ。

新聞に書評を連載し、更には文学賞の審査委員も務めていたそうですから、もう文藝評論家と言っても過言ではないでしょう。

なるほど言われてみれば、単なるタレントという域を出た教養を感じさせる司会ぶりだったことも頷けます。


それではあらためてご冥福をお祈りしつつ、博多華丸さんと共に天国に声をかけようではありませんか。

 「アタック・チャンス!」 笑2




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プリンス

今はよく〝〇○王子〟と言いますが、昔は次代を担うと期待されるヒーローを〝プリンス〟と呼んでいました。

角界なら先代・貴乃花関、プロ野球界なら原辰徳選手・・・そして今日は、政界のプリンスと言われた安倍晋三・現総理大臣の岳父、


 安倍 晋太郎 

の命日・没後25周年にあたります。

衆議院議員・安倍寛氏の長男として1924(大正13)年に東京で生まれた晋太郎氏は、生後間もなく父親の郷里・山口県に転居し幼少期を過ごします。
(※母親は彼の生後80日で離婚。)

山口中学校から岡山県・第六高等学校から東京帝大に推薦入学すると同時に海軍滋賀航空隊に予備学生として入隊。

終戦後は東大法学部に復学し、卒業後は毎日新聞社に入社した彼の運命を決定づけたのは、1951年に岸信介氏の長女・洋子さんとの結婚。

岸氏が石橋内閣の外相に任命されたのを機に新聞社を退職し外相秘書官になった安倍氏は、義父が首相になると同時に総理秘書官に。

そして岸・佐藤兄弟が時期尚早と判断する中、「義父に迷惑がかかるなら離婚してでも」という不退転の決意で1958年の衆院選に立候補し、見事2位で初当選。

この時の当選同期には金丸信氏や、後に盟友・ライバルとなる竹下登氏がいました。


しかし一転して1963年の総選挙で落選。

将来を危ぶんだ岸・佐藤兄弟が腰を上げて、それまで同じ選挙区で当選を重ねていた吉田派の大物・周東英雄氏の後援会長・藤本万次郎氏を安倍氏の後援会長に迎え、1967年の総選挙で復活。

(※周東氏は1969年に政界を引退。)

その後岸派を継承した福田派に入りすると、1974年の三木内閣で農林大臣として初入閣。

1977年には福田改造内閣の内閣官房長官に。

そして1979年から政調会長、中曽根内閣では4期連続外相を務め、その経歴・後ろ盾から〝政界のプリンス〟と呼ばれ、竹下登氏・宮沢喜一氏と並ぶニュー・リーダーとして将来を嘱望されました。

         

             外相時代に国連で演説する安倍氏

しかし彼には、時の運がありませんでした。


安倍氏を重用した中曽根氏でしたが、3人のニュー・リーダーの中から後継者に選んだのは、竹下氏。

その竹下内閣で党幹事長に就任し、今度こそ次期総裁・・・と目された彼を襲ったのは、病魔でした。

リクルート事件が世間を騒がせた1988年に膀胱がんで緊急入院。

その後派閥内から大量の若手議員を当選させ足場を固めたものの、1990年9月に再入院。

翌1991年5月15日に67歳でこの世を去りました。

政治家としては、まだこれからという年齢・・・あと10年、いや5年寿命が延びていれば、総理のイスに座れていたかもしれないだけに、ご本人はさぞ無念だったことでしょう。

惜しむらくは、竹下氏のような強かさがあればもっと早くイスに座れていたかも。
個人的には所属した派閥、田中派と福田派の差が明暗を分けた気がします。

でも次男の晋三氏が2度総理の座に就いたのですから、「最初はオレの分だ」と天国でご満悦なのかもしれませんが・・・。

あらためて〝政界のプリンス〟のご冥福をお祈り致します。笑3


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一日一死

突然ですが、皆さんはサーカスをご覧になったことがあるでしょうか?

残念ながら、私はまだナマで観たことはありませんが・・・以前、日本三大サーカスのひとつ、『木下サーカス』 を拙ブログで取り上げたことがありました。(


     http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10128673708.html

この過去記事にも登場した4代目社長、

 木下 唯志 

のインタビュー記事が、月刊 『致知』 に掲載されていました。

唯志氏は1950(昭和25)年生まれで、2代目・光三氏の次男。

3代目社長だった兄・三宜氏が病に倒れ、44歳の若さでこの世を去ったため急遽4代目に就任した時、会社には10億円もの負債があったとか。

それ以前には舞台を盛り上げようと自ら空中ブランコに挑戦したものの、練習中に落下して頸椎を痛め、それが元で高熱を出すなど長く後遺症に苦しめられたことも。

先々代に仕えていた古参の社員もいる中、如何にして会社をまとめて行くか?・・・それを考える中で、彼が心の支えとした言葉が〝一日一死〟だったといいます。

            



これは、彼が明治大学在学中に所属していた剣道部の先輩が教えてくれた言葉。 


日々厳しい稽古に明け暮れていた彼に、

「とにかく道場に一歩足を踏み入れたら、今日一日で自分は死ぬんだ」

と覚悟を決めろ、と。

それまでの木下氏は、明日も明後日もこんな苦しい日が続くのかと気が滅入っていたそうですが、この一言で心が救われたといいます。

そんな木下氏が社長に就任して心がけたのは、率先垂範。

社長自らが夏の暑い中でも若手社員と一緒にテントを設営したり客席の組み立てをすることで、立場や理屈抜きで社内の一体感醸成に成功。

先代の兄が気に病んだ負債10億円も、社長就任10年で完済したそうです。

もちろんそれだけでなく、団員のレベル向上のため毎年ラスベガスなどに出かけ、世界最先端のショーを視察することも怠っていないそうな。

そんな日々の努力が実り、今では休日の1日3公演全てで2,000席がすべて埋まるほどの盛況だとか。


一時は次々と解散を余儀なくされたサーカスは今、再び活気を取り戻したようです。

現在木下サーカスは(6月13日まで)大阪花博公演を開催中。

大人3,200円、子供2,200円、指定席はプラス2,000円前後で約2時間のショーを楽しめます。

※詳しくは木下サーカスのHPをご覧ください。(

        http://www.kinoshita-circus.co.jp/


ディズニーランドやUSJに行くよりは割安ですから、ご家族連れで是非〝一日一死〟のパフォーマンスをお楽しみください。

私も東京近郊で公演があれば、一度行ってみたいと思います。




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襲 撃

戦後直後の日本は、食糧難と混乱の極みで治安が乱れていました。

そんな中人々が生活のために食料や衣料品を手に入れた場所が、闇市。

その最大規模のものが、東京・上野の〝アメヤ横丁〟ですが、もちろんそれは当時全国あらゆる場所に立ち上げられていました。

 
※アメ横に関する過去記事は、こちら。(↓)
   
http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11292285265.html


その闇市に絡み、ちょうど今から70年前の今日・1946(昭和21)年5月13日に九州で起きたのが、

 長崎警察署襲撃事件

でした。 当時長崎市西浜町にあった長崎自由市場ではご多分に漏れず違反のヤミ物資が公然と売られており、トラブルも頻発していました。

市民からの苦情もあり、長崎警察部は不正一掃を決断。

5月13日午前10時半に警官隊280人が市場に立ち入って一斉取り締まりを挙行し、日本人150人・朝鮮人26人・中国人6人を検挙。

彼らをトラックに乗せて警察署に連行しました。

しかしその直後、在日本朝鮮人連盟や中国人団体が警察署に押しかけ、即時釈放を要求。

これに対し警察署長が 「取調べ前に釈放することはできない」 と拒否。

それは当然のこと・・・なのですが、約100名はそれに納得せず、同日午後2時半頃から警察署に石やレンガを投げ込んだりバットや鉄棒を手に署内に乱入し、居合わせた警察官に襲い掛かったのです。

結果、23歳の花岡寅吉巡査が死亡。 
頭蓋骨骨折の重傷を含め負傷者10名を出しました。

               

                     殉職した花岡巡査    


何とか騒動は鎮圧。 検挙された主要人物26名が長崎地裁に起訴され、15年~1年の懲役刑や罰金刑が科されました。


この事件、私はいろいろな意味で今後の日本に警鐘を鳴らしている・・・というか多くの示唆に富んでいる、と思うのです。

まず鎮圧に際しては、警察だけで対処できず占領軍(MP)の力を借りたこと。

防衛力の増強と安全保障がなければ、彼らは平気で日本(人)を襲ってくるのです。


それにもまして警戒すべきは、反日国家たる中国・韓国人たちの行動。


彼らは武器を手に徒党を組んで警察署を襲いましたが、皆さんは日本人が同じことをするなんて想像できますか?

暴力団でさえ、そんな無謀なことはしないでしょう。

現にこの時も、日本人は襲撃に加わっていません。

彼らは、日本人には考えられない行動を平気でやるのです。

その背景として、この事件の2ヶ月程前に拳銃が支給されていたのですが、まだ日が浅く実際に実弾を撃ったこともない警官ばかりだったことが挙げられます。

それを見透かされナメられていたことも、襲撃のキッカケになった・・・つまり彼らは、警察官が自分たちに逆らえないと知って襲ってきたということ。

それは数年前の尖閣諸島海域で海上保安庁の巡視船に漁船がぶつかってきたことに通じるものが。


また長野冬季五輪前の聖火リレーの際、我が故郷・長野市内の至る所で突然はためいた大量の五星紅旗も、その一例。


       

彼らはひとたび号令がかかれば、約4,000人の留学生を東京などから動員できる組織力を持っているのです。

そしてこの時の長野県警も、殆ど為されるがままでした。


しかも中国は2010年に『国家動員法』を制定し、国内はおろか国外在住の中国人も指導部の号令一下で行動を起こす義務を課していますから、いつ何が起きても不思議ではない状況。

このことを、どれだけの日本人が認識しているでしょうか?

これ以上彼らの増長させることは、決して日本のためになりません。

長崎同様の事件が今後とも国内、いや外交上でも起こる可能性が十分あることを、我々は心しなければならないでしょう。うー



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親 戚 <下>

重苦しい空気の中、書類を片付け始めて十数秒たったところでしょうか・・・それまで暫く黙っていた一番上のご義兄様がおもむろにお義姉様に向かって口を開きました。


「おいオマエ、いい加減にしろょ。

今から別の葬儀社なんて、オマエに探せるのか? 


それに見積金額だって十分安いし・・・。

だいたいオマエが葬儀代払うわけじゃないだろう。」


「そりゃ、私が払うわけじゃないわョ。 だけど、○▲×■・・・」


と、ここでご次男様が参戦。


「だからな、オマエのそういう◆▽※◎・・・」


「そんなことないわョ! 兄さんだって※●◆△・・・」


(以後数分間にわたり、壮絶(?)な兄姉4人の場外乱闘が繰り広げられましたが、あまりに過激な内容のため、ここで再現することは控えさせていただきます。 どうかご了承下さい。)




             * * * (中 略) * * *


「分かったわョ。 もう兄さん達の好きにすればいいワ!」怒


お義兄様達から思わぬ反旗を翻されたお義姉様は、プイッと横を向いてフクれっ面。


一番上のお義兄様は私の方に向き直り、


「すまんネ、みっともないところをお見せしちゃって。

話は分かりましたから、見積り通りでお願いしますワ。

妹にはワシから後でよく言っときますから。」

とおっしゃって下さいました。 私はそのお言葉を受けて、


「わかりました。 ありがとうございます。

それでは先程ご説明した段取りで、精一杯お手伝いさせていただきます。」


と申し上げ、一旦片付けた書類を再び取り出して奥様に手渡し、その場を失礼しました。


玄関を出ると、奥様が 「ちょっと待って!」 と追いかけてこられたのです。


「本当にありがとうございました。 おかげ様で何とか主人の思い通りの葬儀になりそうです。 よろしくお願いしますね!」


そして、急に小声で


「正直、一時はどうなることかと心配しましたけど・・・さっきお義姉さんに 『他の葬儀社見つければ?』 って言ってくださった時は、ちょっとスッキリしましたワ。」


そう話しかける奥様のお顔は、血の気が戻ったように紅潮していました。


       


翌日の通夜、そして次の日の告別式と、無宗教式での葬儀は滞りなく終了しました。


参列されたご親族約25名の方々からは、それまでの経緯を知ってか知らずか、


「おぉっ、凄いなぁ。 自宅にこんな綺麗なお花の祭壇を飾ってくれるなんて。」


というお褒めのお言葉を口々にいただき、2日前のやり取りなんかはどこへやら、お義兄様達も満足そうでした。


ただ例のお義姉様は2日間、私と一度も会話することなく目も合わせてくれませんでしたが。


(他のスタッフからの報告によると、彼女は私の見ていないところで喪主を務めた奥様に何度も 「ウチの方じゃこうするの!」 とあれこれ口出ししてたみたいです。)うー


告別式の後、ご主人は火葬場で荼毘に付され、(普通の)白瀬戸のお骨壷に収められてご自宅に帰ってこられました。


そして翌日、ご親族が全員帰られたことを電話で確認した私は、ある物を持って再び奥様の元を訪ねました。


「昨日まで本当にお疲れ様でした。 いろいろ大変でしたね。

ところで今日は、これをお届けに伺いました。 


これならきっとご主人がお喜びになると思ったものですから。」


と申し上げて私は奥様に、お見せしたのが、コレ。(


             


そう、キリスト教葬用の『骨覆い』。


奥様はこれを目にするや否や私からひったくるように手に取ると、祭壇に安置されたご主人の白い骨覆いを外し被せました。


暫しお骨壷を抱きしめて遺影写真の前に座り込み、

「あぁっ、アナタ!」

と絶句したまま、奥様の丸まった背中は小刻みに震え続けていたのです。




                          ・・・・・Amen

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