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正 史

今日は、この連休中に是非お読みいただきたい書籍のご紹介です。

皆さんは、フーヴァー・ダムってお聞きになったことがありますょネ?

1936年にアリゾナとネバダの州境のコロラド川に竣工したダムで、私は
15年程前ラスベガスに行った時に仲間とクルマを飛ばして見物に行ったことがあるのですが・・・この名前の由来になっているのが、アメリカ第31代大統領の

 ハーバート・クラーク・フーヴァー (1874-1964)
      Herbert Clark Hoover


        

ダムの名前以外にはあまり日本人には馴染みのない大統領ですが、それも無理からぬこと。

なぜなら彼が就任したのは1929年3月であり、その約半年後に起きた世界恐慌に対してうまく対処できず支持率が急落。

あのアル・カポネ逮捕に積極的だったものの、2期目の選挙ではF・ルーズベルトに大敗しているから。

しかし彼は大統領就任前後にも閣僚として国政に携わり、1962年のキューバ危機の際にはケネディ大統領の状況説明会にも参加。

また選挙で敗れた相手のF・ルーズベルトをして 「彼の下なら喜んで働いた」 と言わしめた程、政治的手腕・人格ともに優れた人物であり、もし世界恐慌がなければ高い評価を受けたはず。

鉱山技師・経営者としても有能であり、かつ優れた歴史家でもあった彼が、亡くなる直前に完成させたのが、自らの回顧録『裏切られた自由』(Freedom Betrayed )。

通常大統領の回顧録はすぐに出版されるものですが、これが刊行されたのは彼の死後なんと47年も経ってからのこと。

長らく出版されなかった理由は、内容がアメリカ批判・・・特に後任で自分を高く評価してくれていたF・ルーズベルト大統領の失政を厳しく批判し、彼を〝狂人〟とまでこき下ろしているから。

※人種差別主義者だったF・ルーズベルトに関する過去記事は、こちら。
    http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11134428327.html


957ページに及ぶこの大書は未だ邦訳されていないそうですが、同書からルーズベルトが政治家失格であるとする根拠・論点を19に絞り、3人の論客が議論を加える形で出版されたのが、今日皆さんにお勧めする

 『日米戦争を起こしたのは誰か』
       (藤村厳喜・稲村公望・茂木弘道 著  致知出版社・刊)

        


同書の中には、

「(1941年7月の経済制裁は)日本に対する宣戦布告なき戦争だった。」


 誇りある国なら、とても忍耐できるものではない。」


「日米戦争は、戦争をしたい〝狂人〟の欲望から始まった。」

というフーヴァーの言葉があり、その発言を受けたマッカーサーが

「ルーズベルトは近衛 (文麿首相) と和平を達成できたはず。

 そうすれば太平洋と中国・満州の自由を確保するというアメリカの目標をすべて獲得できたはずだ。」

と返しています。 またマッカーサーは、戦後の公聴会でも

「日本には絹産業以外、固有の天然資源は殆ど何もない。  (中 略) もしこれら原材料の供給を断ち切られたら、1,000万から1,200万人の失業者が発生するであろうことを日本人は恐れていた。

従って彼らは戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった。」

と証言・・・つまりアメリカの元最高権力者と占領軍の最高司令長官が、

『大東亜戦争は侵略戦争ではなく自衛のための止むを得ない開戦だった』

ことを認めているのです。

これは明らかに(極東軍事裁判で日本を一方的な戦争犯罪者に仕立て上げた)アメリカの公式見解と違いますから、同国にとって〝不都合な真実〟満載のフーヴァー回顧録が長らく出版差し止めだったことも頷けます。

しかしこれらの証言を我が国の(左翼)メディアは一切報じず、また日教組は自虐教育を未だに続行中。

私たちの子々孫々が母国を愛し彼らに日本人に生まれたことを誇りに思わせるためにも、自虐史観を捨てさせ正しい歴史観を教えなければなりません。

内容は決して難しくなく、また字も大きめで読みやすい本ですので、親御さんには是非ご一読いただき、次世代を担う子供達に〝正史〟を語り継いでもらいたいと思います。扇子





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移 籍

3日前の26日に、飛鳥新社から月刊誌が創刊されました。

その名は

 『月刊 Hanada』


         

非常に珍しい書名ですが、これは編集長の花田紀凱(かずよし)氏の名を冠したもの。

花田氏は1942年の東京生まれ。

東京外大の英米語学科卒業後、1966年文藝春秋に入社。

1988年に今何かと話題の『週刊文春』編集長に就任すると次々にスクープを連発し、発行部数を51万分から76万部に伸ばし、総合週刊誌のトップに押し上げました。

在任中は当時部下だった現フリージャーナリストの勝谷誠彦氏が取材した女子高生コンクリート詰め殺人事件の記事中に少年法に抵触することを承知で加害少年の実名報道を行い議論を巻き起こすなどしました。

そして1994年に『マルコポーロ』の3代目編集長に異動すると、1年で売り上げを5倍に伸ばしたものの、ホロコーストの記事が問題となって辞任。

その1年後に文藝春秋を退社すると、その後複数の雑誌編集長を経て、2004年11月にワック・マガジンズが創刊した『WiLL』の編集長に就任。

この雑誌に関しては以前拙ブログでもご紹介しましたが、保守系の論客が筆を執ったホネのある記事で高い評価を受けていました。


ところが、その花田氏が突然今年2月に同社取締役を解任され、退社。
そして時を待たずして、この新しい月刊誌の編集長に就任したのですから、ビックリ。

しかも、『WiLL』の制作スタッフ全員も辞表を提出して移籍するという、前代未聞のオマケつきで。

花田氏は、出版元の飛鳥新社HPで次のように語っています。

【 これまで 『月刊 WiLL』 を制作していた編集部全員(5人)とDTP担当者がそろって飛鳥新社に「電撃移籍」しました。


新創刊の『月刊Hanada』は一段とパワーアップ。

スクープも含め、内容はさらに充実。低迷する雑誌界に活を入れます。


「21世紀の『文藝春秋』を目指す」 と言ったら、部員に叱られました。


『文藝春秋』 はもう下り坂です、と。


その通り! 取り消し!

『月刊Hanada』 は21世紀の雑誌界をリードする月刊誌を目指します。


 おもしろくて、ためになる。  そして「大人の常識」を! 】




         

まぁ、その意気や良し・・・なぜ突然 『WiLL』 の編集長を辞任し、またそのスタッフ丸ごと移籍したのか? は当然のことながら両者の言い分が食い違っていますので、詮索は致しますまい。

創刊号にはTBSやテロ朝、それに共産党をブッタ斬るという、(左翼)マスメディアでは決して取り上げない、威勢の良い記事が目白押し。

個人的には、これも 『WiLL』 から移籍してきた青山繁晴氏の連載コラム〝澄哲録片片〟(ちょうてつろくへんぺん)が白眉・・・ご一読をお勧めします。

保守系雑誌の旗手となるべく、是非この勢いを続けてほしいもの。

聞くところによれば、『WiLL』 も出版を続けるとのこと。

是非お互いに切磋琢磨して、読者を唸らせる質の高い記事を期待したいところ。

間違っても、左翼のような〝内ゲバ〟はしないように!うー

それから花田編集長・・・自らの名を冠した以上、もう編集長のポストを投げ出すのはご法度ですゾ。

伝 説

「あなたが知っている日本人彫刻師の名前を挙げてください」

そう問われて最も多くの方が口にするのは、おそらく


 左 甚五郎

ではないでしょうか? 今日は江戸時代初期に活躍したとされる、この名人の命日といわれています。

といわれている・・・と断定できないのは、彼の出自や履歴がはっきりしていないから。

中には実在を否定する専門家もいるくらい。

彼の末裔とされる左光挙の著書によれば、1954(文禄3)年に播州明石に生まれた甚五郎は父親の死後飛騨高山に住む叔父の許に引き取られ、1606年に京都の大工棟梁・遊左法橋与平次に弟子入り。

1619年に江戸に下って大工・豊後宗広の娘婿となり、宮大工棟梁として名を上げたとか。

その後再び京都に戻り、師匠の名を継ぎ禁裏(きんり=皇居の意)大工棟梁を拝命、1651(慶安4)年4月27日にこの世を去ったとのこと。


これとは別に、左甚五郎は、1504年に生まれ16歳で多武峯十三塔その他を建立し、「昔より右に出る者なし」と言われたことから左を名乗ったといわれ、66歳で没した岸上甚五郎左義信がモデルという説も。

また左という姓を名乗ったのは、左利きだったからとか腕の良さを妬まれて右手を切り落とされた・・・という説もあり、その存在は伝説化しています。

彼が遺したといわれる作品としては、有名なところではまず国宝に指定されている日光東照宮の眠り猫。

       


更には上野東照宮・唐門の昇り龍・下り龍など、全国には彼の手によるものとされる作品が100近くも点在。

しかしその制作時期が安土桃山~江戸時代後期まで300年近くも開きがあることから、左甚五郎は一人ではない・・・というか、その名を語る彫刻師やその名声にあやかった寺社などが複数あったことは確かでしょう。

逆に言えば、それだけ左甚五郎の技量は群を抜いて素晴らしかったということ。

落語や講談で、更にその伝説に磨きがかかってしまった感もありますが・・・私は個人的に彼を題材にした『ねずみ』という落語が大好き。

甚五郎が旅の途中、奥州で客引きの子供に誘われるまま〝鼠屋〟という宿に泊まります。

しかしそこは非常に貧しい宿で、聞けば妻に先立たれた主が後妻と番頭に〝虎屋〟という大きな旅館を乗っ取られてしまい、仕方なく鼠屋を開業したとのこと。

不憫に思った甚五郎が自らの素性を明かし、屋号になぞってねずみを彫り上げます。

このねずみが本物のように動き回ることが評判を呼び、鼠屋は大繁盛するのですが・・・。

後は当代最高の名人・立川志の輔師匠の語りでお楽しみください。



最後のオチのヒントは・・・眠り猫? 笑2



志半ば
初めてアメリカ大陸を発見した西洋人は・・・と問われれば、大抵の方はコロンブスと答えるはず。

では初めて世界一周を果たしたのは? と聞かれれば、また多くの方は彼の名を口にすることでしょう。 今日は、その

 フェルディナンド・マゼラン

   Ferdinand Magellan

の命日にあたります。


        

とは言え、この世界的に名の知れた冒険家の前半生は、あまりよく分かっていません。

生まれは1480年頃で、ポルトガル北部ミーニョ地方の下級貴族の出といわれています。

1492年にポルトガル王妃レオノール・デ・ヴィゼウの小姓としてポルトガルきゅでんに入った彼は、そこでコロンブスやバスコ・ダ・ガマの活躍を知り、外洋航海に関心を深めたそうな。

そして1505年にポルトガルがインド洋の覇権を握るべく出したアルメイダ艦隊に参加を許され、初の外洋航海に。

そこで実力を認められ副舵手に抜擢されますが、イスラム勢力との闘いで負傷し、半年近く入院する程の重傷を負います。

しかしその後船長の位も授かったマゼランでしたが、何故かポルトガル王宮と決別。

そして西回り航路に関心を寄せていたスペイン王・カルロス1世が、ライバル国・ポルトガル出身のマゼランを香料諸島を目指す艦隊の総責任者に指名。

今でいうなら侍ジャパンの監督を外国人が務めるようなものでしょうが、当時はスペイン・ポルトガル両国から反発があったようです。

しかし国王はそう言った外野の声に耳を貸さず、艦隊は1519年8月にセビリアを出発。

準備不足や寄港先での現地人とのトラプルやスペイン人乗組員の叛乱など様々なピンチを何とか乗り越え、彼は遂に1520年10月、西太平洋に抜けるルートを発見。

(南米大陸南端にある海峡が、マゼラン海峡と名付けられました。)

   



太平洋に出た艦隊は途中補給が出来ず、20人近い乗組員を餓死で失いながらも、1521年3月にフィリピン諸島に到達。

セブ島でマゼランはキリスト教の布教を開始。

それが以外にも成果が上がったため、彼は本来の目的である香料諸島への出帆を遅らせてまで布教活動に執着したのですが、これが裏目に出てしまいました。

徐々に強圧的な態度に出始めたマゼランに地元の王が反発。

同年4月27日、1,500人の兵を動員して艦隊を襲撃し、マゼランを殺害・・・そう、つまり彼は世界一周を果たせぬまま、495年前の今日、この世を去っていたのです。

生き残った乗組員たちが同地を離れ、香料諸島を経てスペインに帰国したのは、翌1522年9月。

3年前に出発した時総勢270名いた乗組員は、僅か18名のみ・・・生還率僅か7%弱という過酷な船旅でした。

ですから歴史上初めて世界一周を果たしたのは、マゼランではなくマゼラン艦隊だったのです。


しかし志半ばとはいえ、前人未到の西回り航路に打って出て、最終的には艦隊がそれを果たしたわけですから、マゼランのリーダーシップは大したもの。

海峡を始め星雲やペンギンにその名を冠せられた大冒険家の冥福をお祈り致します。笑3




神 技


国際的に人気のある日本の武道・・・といえば一般的に柔道・空手、それと合気道でしょうか。

今日は、その合気道の創始者にして〝道祖〟ともいわれる

 植芝 盛平 

の命日にあたります。


        

いかにも武道家然とした貫禄と威厳を感じさせるお顔の植芝氏は、1883(明治13)年に現在の和歌山県田辺市の裕福な農家の長男として生まれました。

父親は村会議員も務める名士であると同時に巨漢・怪力の持ち主だったそうですが、以外にも植芝氏は痩身・病弱。

(実際、大人になっても身長は156cm止まりだったとか。)

田辺中学を中退して税務署に勤務するも、漁民の権利運動に加担したことで退職に追い込まれ、父親の支援を受け東京で文房具卸売業を営むも、身体を壊して郷里に戻り静養することに。

ただ東京で柔術・剣術を学んだことが、後の下地になったようです。

20歳の時には身体は頑健になったものの、徴兵検査では身長が足りずに一旦不合格になったものの嘆願して入隊を果たすと、同時期に柳生心眼流柔術・中井正勝に入門。

行軍遠州屋銃剣術で目覚ましい活躍を見せ、上官の代理で教官を務めたといいます。

その後順調に出世をした彼は職業軍人の道を進もうとしますが、父親の猛反対で断念・・・故郷に戻ったものの、心因的なストレスが溜まったのか夜中に突然起き出しして井戸水を被るなどの奇行が目立つように。

心配した父親が納屋を改造して道場を作り、柔道家を招いて稽古をさせると、めきめき上達。

その後29歳で北海道開拓団に応募し入植。
開墾に携わる中、武術家の大東流・武田惣角と出会い、彼に手もなく捻られたことで弟子入り。

師匠について修行に励み、警察署長や判事に手ほどきをするまでに。

また父親の危篤の報に接して郷里に戻る際に知った宗教団体・大本とも接触を持った彼は、その後入信。

そこで修業を続ける傍ら、1922(大正11)年に独自の武術を編み出し、これを 『合気道』 と名付けたのです。

1930年には講道館の創始者・嘉納治五郎も道場を訪れるほどに知名度・評判が上がると、1940年に 『財団法人 皇武会』 を設立。

戦後これを 『合気会』 と改称し、2代目道主となった三男・吉祥丸をと共に合気道の普及に勤めた盛平氏が85歳で天に召されたのは、今から47年前の今日・1969年4月26日のことでした。

その波乱に満ちた生涯の中には数多の逸話が残されていますが、私が驚くのは銃弾を避けたという話。

なんでも発射された弾丸がスローモーションのようにゆっくり見えたというのですから、かつて川上選手が「ボールが止まって見えた」のと同じ・・・というより、それ以上。

凡人の私には分かり得ぬ境地ですが、その稽古の様子を見ても、ちょっと信じられないような動きの数々・・・。(


      https://www.youtube.com/watch?v=hFM9OViKtAM

素人が見るとヤラセっぽいですが、本物でなければ世界で160万人もの競技人口には到達しないでしょう。


ただこれらの技は合気道を嗜む方にしか分かり得ないものでしょうが、合気道の〝氣〟に関しては誰もが気になるところ。

この点に関して、あの中村天風氏とこの植芝氏ご両人の高弟だったという方が興味深い著作を出されています。


 『中村天風と植芝盛平 氣の確立』 

               (藤平 光一・著 東洋経済新報社・刊)


       

師の技を冷静に分析し、1971年に 『氣の研究会』 を立ち上げた著者によれば、植芝氏の提唱する合気道の真髄は〝リラックス〟つまり力を抜く事だそうな。

確かにご紹介した映像を見ると、全く力が入っていないように見えます。

ただ私のような凡人は、
ここぞという時にどうしても力んでしまうもの。

もし植芝氏がゴルフをやったら、大選手になったかもしれませんネ。あせあせ



転 向

政治を語る時、大きく分けて〝右と左〟に別れます。

「オレはどっちでもない」 と仰る方も多いでしょうが、全くの真ん中というのは政治に無関心でない限り有り得ない話で、多かれ少なかれどちらかに属するはず。

しかし時としてその立ち位置が変わるケースも。

たとえば2009年の衆院選の時には期待を込めて民主党に投票したけれど、あまりの酷さに幻滅してまた自民党に投票した有権者がいたように。

ただ原発や集団的自衛権の反対デモに参加し国会前でシュプレヒコールを上げるようなガチガチの左翼活動家が、右翼に転向する・・・という例は、そうはないはず。

ところが最近、実際にそういう行動に出た有名人がいるんです。

その人の名は、千葉麗子さん

私自身は、正直彼女のことは殆ど存じ上げなかったのですが、この方は通称〝チバレイ〟と呼ばれている元アイドル女優。

20歳で芸能界を引退後、ベンチャー企業を立ち上げて結婚・出産。

その後インドで修行をしたヨーガの普及に務める傍らパソコン関係の著書も多数出版しているという、マルチ・タレントの才女です。

その彼女がパリバリの左翼から保守に転向したプロセスを綴った著書が今月出版されました。 タイトルは、そのままズバリ、

 『さよならパヨク チバレイが見た左翼の実態  (青林堂・刊)


         


〝パヨク〟とは、サヨクと〝ぱよぱよち~ん〟を合成した、いわゆる左翼活動家に対する蔑称。

(※〝ぱよぱよち~ん事件〟とは、昨年ネット関連会社に勤務していた左翼活動家がネット上に特定保守FBサイト賛同者の個人情報を拡散し、逆に身元を特定された騒動のこと。

ちなみにこの男性と一時期不倫関係にあったと、千葉さんはこの本の中で告白しています。)


そもそも左翼団体に関わるキッカケになったのは、彼女が幼少期を過ごした福島で起きた東日本大震災に伴う原発事故。

地元の受けた被害に怒り反原発を叫ぶ左翼グループの国会前デモに参加するようになったのですが・・・やがて彼らの科学的根拠のない主張や一部指導者絶対で反論・議論を許さない雰囲気に違和感を覚えるように。

そして国会前で、ついに 「やってられるか!」 とハンドマイクを叩きつけて左翼活動からの決別を宣言し、逆に保守陣営へ転向。驚き顔

その反動(?)から、逆に左翼活動の内幕・実態を暴露するこの本の出版に及んだようです。

左翼メディアが殆どの我が国では、その活動の実態が殆ど報じられることがないだけに貴重な証言であり、またその中味は実に悍ましいもの。

登場人物の殆どがイニシャルですが、国会議員など公人は実名で書かれていますからその記述に虚偽はないはず。

赤裸々(というより、一部は赤裸々過ぎますが・・・)な中味についてはここでご紹介しませんので、是非本書を購入してご自身の目で確かめていただきたいと思います。

ひとつだけ、さすがの私も驚いたのは左翼活動家の執念・怨念の深さ。

彼女が左翼活動から決別した後、彼女をネット上で誹謗中傷したばかりか、仕事で渡米する際には彼らに 「危険人物だから入国させるな」 とアメリカ入国管理局に通報されたことがあったとか。

私を含め、多くの方は〝来る者は拒まず、去る者は追わず〟だと思いますし、極道の世界でも昔は指詰め、今は手切れ金を支払えば組抜け出来るそうなのに、左翼活動家はそれ以上・・・常軌を逸してます。

実は私自身、大学に入学してすぐの頃にキャンパス内をウロウロしていた時に笑顔で近づいてきた男性から話しかけられたことがありました。

雑談をした後、(今では信じられないことですが)私はその男性に全く警戒感を抱かず自分の下宿先の住所を教えてしまったのです。

数日後、その男性が自室に突然訪ねてきて、ある組織への勧誘を始めたではありませんか。


それは、当時内ゲバで名を馳せた某極左団体。

団体名を聞いた瞬間、私は 「出ていけ、二度と来るなっ!」 と金属バットを手に彼を叩き出し、事無きを得ました。

私も当時は世間知らずの田舎者でしたが、現代はネット社会。

純粋培養の若者は、とかく反社会活動がカッコいいと錯覚しがちですから、親が知らない間にツイッターやLINEで誘われ軽い気持ちでSEALDs等の左翼デモに参加すると、知らぬ間にズルズルとその組織に引きずり込まれかねません。

社会経験もあって頭脳明晰な千葉さんでさえ、一時は取り込まれたのですから。

かつて連合赤軍など極左団体が〝総括〟と称してかつての仲間を殺害したり、内ゲバを繰り返していたことは、中高年代の方ならご記憶でしょう。

10代の若いお子さんをお持ちの親御さんには、是非本書から左翼活動の実態を知っていただき、我が子をその魔の手から守っていただきたいと思います。

もうすぐやってくるGWに、是非ご一読を!

※今朝の段階でAmazon書籍ランキング総合ランキング2位 (政治部門で1位) ですが、発送まで1~3週間かかるようです。

お近くの大手書店の方が早く入手できるかもしれません。

(最後に、個人的な読後感を一言・・・やっぱり女性を怒られたら怖い。)うー


聖 者

古くは釈迦やキリスト、ムハンマドから、近所の怪しげな祈祷師まで・・・宗教家・教祖と呼ばれる人物は何人もいますが、近年最も世界にその名を知られた宗教家といえば、


 サティヤ・サイ・ババ

   Sathya Sai Baba

でしょうか。 


日本でも一時期マスメディアに取り上げられたので、名前に聞き覚えのある方も多いと思いますが、今日4月24日は、彼の命日・没後5周年にあたります。


サイ・ババは1926年にシンドのアーンドラ・プラデーシュ州にあるバッチパルティという村の貧しい家に生まれました。 ところがは14歳の時に突然、


「自分はシルディ・サイババの生まれ変わりで、人々の悩みを取り払うために降臨した」

と宣言し、サイ・ババ(※聖なる父、聖者の意)と名乗るように。

その直後から家を出て説法を始めると、不治の病を直すなど数々の奇跡を起こすことが知られるようになり、その評判はやがてインド全土に拡散。

1960年代にはサイ・ババの名は海外にも広まり、数百冊に上る彼の著書は何ヶ国語にも翻訳されました。

更に1990年代に入るとインドの元首相・大統領が彼を表敬訪問。


その頃日本でも彼の関連書籍が発売され、テレビ番組でも特集が組まれるなどして彼の名は多くの人の知るところとなりました。(


   https://www.youtube.com/watch?v=hJREnxbo7LY


その頃、ウチの女王様も彼に関心を持ち、やれサイ・ババがどうしたの、アガスティアの葉がどうだのと盛んに口走っていたことを憶えています。

一時期はインドに行きたい、なんて騒いで私をゾッとさせましたが・・・幸い、それはやがて鎮静化して事なきを得ていますが。
うー


        

なぜ彼女が冷めたのかというと、彼の起こす奇跡・・・例えば手から灰などを出す〝物質化〟などがトリックや手品だという報道が出始め、また彼の住居が殺人事件の現場となったことなどから、彼に対する信頼度が揺らいだため。

同様に彼の信者は一時期減ったのですが、しかし21世紀に入ると再び彼の病院・学校の設立や水道敷設など無料の奉仕活動は見直されるように。


2008年11月には、人類の幸福と世界平和のための大護摩供養が3万人収容のスタジアムで開催され、インド国内から180名の僧侶が集まって供養を行い、多くの政治家・要人も参列しました。

しかし2011年3月に呼吸器不全のため入院、同年4月24日に84歳でこの世を去りました。

さすがの聖者も、死を免れることは出来まなかったというわけです。

彼が真の宗教家・霊能者だったのか、それとも単なる手品師だったのかは、私には判断できません。

が、彼のおかげで難病が治癒するなど恩恵を授かった方が数多くいるのなら、たとえそれが〝病は気から〟だったとしても、その存在は否定できないでしよう。

現にインド政府は、大統領・首相以外ではマザー・テレサだけだったという国葬を彼のために執り行っていますし。


彼の行いや人生を振り返ると、人間の持つ力の不思議と無限の可能性を信じたくなります。笑3


鱶 鰭

先月末からテレビで始まった日清食品のCMが、すぐに放映中止になりました。

なんでも、この中に登場する不倫・離婚した某女性タレントが 「二兎を追うものは一兎をも得ず」 と学生に説く場面が 「不謹慎だ」 という批判が寄せられたからだとか。

 ※そのCMが、こちら。(
     https://www.youtube.com/watch?v=VEl4UBElSVk

個人的には、皮肉が効いていて面白いと思ったんですが・・・どうも最近の日本は、少々のブラック・ジョークを解せない人が増えているようですネ。

またこういうノイジー・マイノリティーにあっさり屈してしまう企業・団体にも問題があるように思います。

日清食品ともあろうものが、このCMを流せば多少の反発があることは予想していたはず。

覚悟の上で流したのなら、簡単に引っ込めるべきではなかったのでは?

こういう弱腰の対応が、更なるクレーマーの増殖に繋がると危惧するのは、私だけなのでしょうか?

さて、その日清食品から今月11日より全国一斉販売されたのが、

 カップヌードル 贅沢とろみフカヒレスープ

         

パッケージに〝リッチ〟と銘打っているように、おそらくカップ麺でフカヒレスープを導入した商品はこれが初めてのはず。

新し物好きの私は、スーパーで買い物した際に見つけて即ゲット。
そして昨夜、口にすることが出来ました。

(※ちなみにスッポンスープ味も同時発売されていますが、個人的な嗜好によりそちらはパス。)

通常通りの作り方で待つこと3分・・・出来上がりは、こんな感じ。(


         

なんだかカレーラーメンみたいに見えますが、かき混ぜると薄茶色の美味しそうな色に。

さて、肝心のお味は・・・・って、これは皆さんに食べて実感していただいた方が良いでしょう。

フカヒレと思しき数筋の物体(※日清食品のHPによれば、〝フカヒレ風加工品〟あせあせが入っていましたし、トロリとしたスープなのになぜかエネルギーは368Kcal と控えめ。

何よりコラーゲン1000mg配合だそうですから、どちらかと言えば女性向けの商品って感じです。

価格も私が買ったスーパーで189円・・・通常のカップヌードルは138円でしたから、約4割増しのお値段とはいえ、それ程高いとは思えません。

興味のある方は、是非ご試食ください。
決して損した気分にはならないと思いますョ。

さて余談ですが、我が家でフカヒレと名がつく商品で時々口にするのが、ニチレイフーズから出ている

 広東風 ふかひれスープ


         

一袋4人前のレトルト商品なんですが、時々女王様が

「たまには納豆ご飯以外の朝食を食べたいっ!」

と我が儘を仰った時、これに冷や飯とニラやカブを投入・・・〝ふかひれ雑炊〟にしてお出ししています。

簡単にかつスピーディー出来ますし意外とイケますので、是非一度お試しください。

と、ここまで書いてきて急に鱶鰭の姿煮が食べたくなってきました。

・・・嗚呼、もう何年口にしていないんだろう。うー



献 身

特攻隊の出撃拠点として有名な、鹿児島県・知覧。

この地で食堂を構え、多くの特攻隊員のお世話をし見送ったことで有名なのが

  トメ さん

今日は、この〝特攻の母〟の命日にあたります。

トメさんは、1902(明治35)年に知覧から車で40分程の鹿児島県最南端の漁港・坊津町に生まれました。

町全体に収入源がなく貧しかったため、トメさんは小学校に1年しか通うことが出来ず、隣村の枕崎に子守り奉公に通わされ、15歳の時には鹿児島市の警察署長の家に住込みの女中奉公に。

そして3年後には加世田(現・さつま市)の竹田旅館で女中として働き出した彼女は、その旅館の古い棟に住んでいた南薩鉄道でバスの運転手・島濱義勇(よしとし)さんと知り合い結婚、知覧に新居を構えました。

行商を始めたトメさんは色白美人で評判が高く、やがては着物や広告のモデルもして家計を助けたそうですが、その後の彼女の運命を決定づけたのは、1929(昭和4)年・・・27歳の時に始めた富屋食堂でした。

この食堂が1942(昭和17)年に陸軍の指定食堂になり、知覧飛行場学校に通う少年兵らが頻繁に訪れるように。

そしてこの知覧飛行場が本土最南端に位置した故、特攻基地に・・・かつてここで操縦を学び任地へと巣立った少年兵たちが、特攻隊員として再び戻ってきたのです。

トメさんは彼らにいつしか〝おかあさん〟と呼ばれ慕われるようになり、彼女も我が子のように彼らに接し、私財を投げ打って世話をしました。

一度トメさんが時間外営業を咎められ憲兵に逮捕された際は、特攻隊員が憲兵に詰め寄って彼女を釈放させたそうですから、いかに彼女が慕われていたかが分かります。

そして特攻隊員として出撃する彼らから憲兵の検閲から逃れるために手紙を託されると、彼女は我が身の危険を顧みず、〝島濱トミ〟の名で親元に送ったのです。


        

                 トメさんと特攻隊員


そして終戦後は一転、警察署長から進駐軍の世話を頼まれたトメさんは、いったんは固辞したもののやがては生来の世話好きから彼らを迎え入れ、やがて〝ママさん〟と呼ばれるように。

また戦後で生活に窮した人々を住まわせ世話をし、時には自宅に泥棒に入った窃盗犯の身元引受人になって面倒を見たというのですから、頭が下がります。

知覧を訪れる特攻隊員の遺族のため、1952(昭和27)年に食堂を旅館に改築して人知れず特攻隊員の供養を続けていたトメさんの願いが叶い、1955(昭和30)年に旧・知覧飛行場の一角に特攻平和観音堂が建立されました。

※ この隣接地に1985年、『知覧特攻平和会館』が建てられました。

ここに所蔵されている特攻隊員の手紙や遺品の多くは、元特攻隊員で初代館長となった板津忠正さんが収集されたものだそうです。

その収集を始めたキッカケは、生き残ったことを苦にしていた彼に
トメさんが

「生き残ったということは、神様があんたをこの世に残したということだよ。 

あんたに〝やりなさい〟と仰っている仕事があるはずなんだょ。」

と諭したことだったそうな。 


        

                特攻平和観音堂とトメさん


この観音堂へのお参りがライフワークとなったトメさんが89歳でこの世を去ったのは、今から24年前の今日・1992(平成4)年4月22日のことでした。

彼女の生涯や特攻隊員の様子に関して知りたい方には、この書籍をお勧めします。

知覧いのちの物語 「特攻の母」と呼ばれた鳥濱トメの生涯

                       (鳥濱明久・著 きずな出版・刊)


        

著者は、かつての食堂を復元し特攻隊員の記念館となっている 『ホタル館 富屋食堂』 を経営しているトメさんのお孫さん。

彼が子供の頃から見聞きしてきた祖母の姿を、この本で語り継いでいます。

このホタル館には、トメさん直筆のこんな言葉が展示されているそうな。


「命より大切なことがある。 それは徳を貫くことである。」


私は全国の教師や親御さんにお願いしたいのです。
修学旅行や家族旅行には、是非一度知覧を行先にすることを。


そして同年代の若者がどんな思いで短い人生を散らして行ったのか、またトメさんがどんな思いで彼らを送り出したのかを、子供たちに知らしめて欲しいのです。

日本人なら、反日国にわざわざ出かける前に、お国に尽くした先人に敬意を払うべきでしょう。扇子

あらためて〝知覧のマザー・テレサ〟のご冥福をお祈り致します。



商 人

〝しょうにん〟ではなく、〝あきんど〟。

このイメージに最も当てはまる日本人経営者・・・私はこの方だと思います。


 藤 田 田  


皆さんもご存じの通り、日本マクドナルドの初代社長としてハンバーガーを日本に普及させた功労者ですネ。

(とは言え、私は個人的に日本人に歩き食いの習慣を定着させてしまった負の部分もあると思っていますが・・・。)


今日は、このファーストフード産業の大立者の命日・十三回忌にあたります。


          

藤田氏は1926(大正15)年、大阪市淀川区に生まれました。


田(でん)という珍しい名前をつけたのは、クリスチャンだった母親。

「口で十字架のメッセージを伝えられるように」 という願いが込められているとか。


その思いを知ってか知らずか・・・藤田氏は東京大学法学部に進学、通訳のアルバイトを通じたユダヤ系米兵との交流からビジネスに目覚め、在学中に輸入雑貨を扱う 『藤田商店』 を設立。


まさに学生ベンチャーのハシリといえましょう。


そして 『日本マクドナルド』 を設立したのがそれから21年後の1971(昭和46)年。


後に社長になって〝天皇〟ともいわれた当時の三越銀座支店長・岡田茂氏と交渉の末に同店1階に第1号店を出店して大成功を収め、それから僅か10年余りで同社を外食産業売上高国内トップの座に引き上げます。


英語では「マッダナ」 と発音する〝McDonald's 〟を、「マクドナルド」 という日本人に発音しやすいカタカナに変換するアイデアを出し、アメリカ本社の反対を押し切って採用したのも彼自身でした。


藤田氏は、毎週土・日になると日本全国どこかのマクドナルドの店に顔を出してハンバーガーを食べながら、お客さんの反応を自分の目で確かめたといいます。


またそれが慣例化して従業員に面が割れると、今度は競合店に顔を出して根掘り葉掘り聞いたとか・・・。あせあせ


そしてマクドナルドだけにとどまらず、1989年には 『日本トイザらス』 を設立するなど、常に事業拡張を目指す貪欲さはさすが。


そんな藤田氏には数多くの著書がありますが、私のお気に入りはこの一冊。


         ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-勝てば官軍

題名からしてストレートですが、中身はもっと辛辣。


 ◆ 「女」 と 「口」 を狙え

 ◆ 金に 「きれい」 「汚い」 はない


等々、20年以上前に上梓されたにもかかわらず、今でも十分通用する〝商売の基本〟が、藤田氏独自のポリシーに則して説かれています。


そして、いかにもユダヤ商法を標榜する藤田氏らしい台詞も。


 ◆ 金銭感覚は子供の時から養うべし


この章で、氏は


フリーターとは昔の無職、遊民である。 なのにそれがれっきとした職業であるように思い込んでいるのは、若者が小さい時から過保護で、「一銭を笑うものは一銭に泣く」 というシビアな金銭感覚を誰からも教えられていないことの表れなのだ 』


と述べています。 


学校の教師や親に、じっくりと噛みしめてもらいたい言葉です。

創業から40年以上を経過した日本マクドナルド社は、異物混入事件続発以来、業績低下に喘ぎ迷走を続けています。

もし藤田氏が存命だったら、果たしてどんな挽回策を打つのでしょう?

いや、常に現場を視察していた彼が社長だったら、こんな事態には陥らなかったでしょうけど。

そんなことを考えつつ、
2004年4月21日に心不全により78歳でこの世を去った〝カリスマ商人〟のご冥福をお祈り致します。笑3