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神 童
今日・3月5日は、ショスタコービッチやハチャトゥリアンらと共に20世紀の旧ソビエト連邦を代表する作曲家、

 セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ

       Sergei Sergeevich Prokofiev


の命日にあたります。

・・・といわれても、彼の肖像画はまず音楽室に飾られていないので、知らないと仰る方が多いかも。


        


でも皆さんはおそらく小学校の音楽の授業で彼の作曲した 『ピーターと狼』 という曲を聴いているはず。

えっ、それも記憶にない?

ではこの 『ロミオとジュリエット』 の1分15秒過ぎからのメロディーをお聴きいただければ、グッと親近感が湧くことでしょう。(


https://www.youtube.com/watch?v=MhDb39PfxMA&spfreload=10


これ、某モバイル会社のCMでお馴染みですょネ。

プロコフィエフは1891年に現在クリミア問題で揺れているウクライナ共和国・ドネツク州で農場管理人をする父の許に生まれました。

姉2人が夭折したため大事に育てられたという彼は生まれながらにして音楽の才能を持っていたようで、僅か5歳の時に作曲をし9歳にして最初のオペラ 『巨人』 を作曲をしたという、まさにモーツァルトの再来とも言うべき神童でした。

13歳の時にサンクトペテルスブルク音楽院に入学した際は、その試験会場に4つのオペラ、2つの交響曲と沢山のピアノ曲の作品を持ち込み、試験官を務めた作曲家リムスキー=コルサコフをして

「彼こそが、私が心から願っていた生徒だ!」

と言わしめました。

しかし彼の才能はあまりに図抜けていて、学校の旧態然とした授業からは殆ど吸収するべきものはなく、ビアニストとしても一流だった彼が在学中の18歳の時に作曲したピアノ協奏曲第1番と21歳の時に作曲した第2番はその斬新な曲想から賛否両論を巻き起こしたといいます。

※私が『ピーターと狼』以外で初めて聴いたプロコフィエフの作品は、彼が同じく21歳の時に作曲した 『トッカータ』 というピアノ曲。

中学時代に音楽の先生に聴かせてもらったのですが、その凄まじい演奏がV・ホロヴィッツのものでした。

その際に別のピアニスト(ショパンコンクール優勝者)のレコードと聴き比べさせてくれたのですが、迫力は段違い。

(こんな人間離れした音を出すピアニストって、どんな人なんだ?)

この時から、私のホロヴィッツ信奉が始まったのです。

つまりプロコフィエフは私にとってホロヴィッツとの仲人的存在ってわけ。


その演奏を、こちらでお聴きいただけます。
4分弱ですので、よろしければプロコフィエフの〝前衛的な曲想〟とホロヴィッツの〝破壊的なテクニック〟をお楽しみください。(

     https://www.youtube.com/watch?v=tGlXRW7GLsY
            
 

       
       

しかしこの早熟の天才の運命を狂わせる出来事が起こります。

それは1917年のロシア革命。

翌年に亡命を決意した彼は、シベリア鉄道でモスクワを脱出すると、同年5月末に来日。

東京・京都・軽井沢など各地を巡って2ヶ月程滞在した後、アメリカへ。

同地では作曲家と同時にピアニストとして活躍したのですが・・・生涯欧米に滞在したラフマニノフやストラヴィンスキーと違い、彼はアメリカからフランスに活動の場を移したのち、一度は捨てた祖国・ソビエトに戻ったのです。

その後も作曲活動を続けた彼は 「作曲しない日は1日たりともなかった」 そうで、第二次世界大戦中は疎開先でも作曲を続けたとか。


しかしその作風は社会主義のソビエト政府から厳しく規制され、スターリン賞を授与されたことがある反面、一時は政府から批判の対象にされたことも。

なぜ亡命したのに帰国したのかは定かではありませんが、もし彼がそのまま西側諸国で作曲活動を続けていたら、かなり曲想は違ったものになったことでしょう。

その有り余る才能を政治権力によって制限された時期があったことは、残念至極。

それでも7つの交響曲や7つのピアノ協奏曲、その他バレエ音楽やビアノソナタ。映画音楽まで多くのジャンルに多数の作品を残した彼が突然の脳内出血により61歳でこの世を去ったのは、1953年3月5日・・・奇しくも賞を授与したスターリンが亡くなる僅か3時間前のことでした。

先鋭的な音楽で世間を驚かせながら、革命のうねりに人生を翻弄された早熟の天才の冥福を、あらためてお祈り致します。笑3


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