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金融王

2007年に起きたサブプライム・ローン問題や翌年のリーマン・ショックでもその影響を最小限に止め、現在は従業員26万人・総資産2.3兆ドル、世界に60以上の拠点を有する世界屈指の総合金融機関、J.P.モルガン・チェース(&カンパニー)。

皆さんもニュース等でこの社名をよく目にすると思いますが、今日はこの巨大企業の創業者であり、社名にその名を残した

 ジョン・ピアポント・モルガン

   John Pierpont Morgan


の命日にあたります。 


モルガン一族は、祖父の代から資産家・・・つまりジョンはいわゆる3代目。
よく日本では 「3代目が家を潰す」 などと言われますが、彼は全くその逆。

2代続いたモルガン家を飛躍的に成長させた傑物なのです。

ジョンは1837年のコネチカット州ハートフォード生まれ。

父ジュリアス・スペンサー・モルガンは銀行家 (※ちなみに叔父のジェームズ・ピアポント・モルガンは、有名な〝ジングルベル〟を作詞した音楽家で幼少の頃から息子ジョンに様々な教育を施し、成績優秀だった彼はボストン・ハイスクールに進学。


同校卒業後はフランス語やドイツ語を習得するためスイスやドイツの大学に留学。

その後1857年に父の経営する銀行のロンドン支店に入社すると、翌年にニューヨークに移り父の創業したジョージ・ピーボディ・アンド・カンパニーのアメリカ代理店に勤務。

そして1860年にはJ.P.モルガン・アンド・カンパニーを設立。

当初は父親が経営していたJ.S..モルガン&カンパニーが引き受けたヨーロッパの証券をニューヨークで販売していました。

そして1871年、彼とフィラデルフィアの銀行家アンソニー・ドレクセルが、共同でニューヨークで民間商業銀行ドレクセル・モルガン&カンパニーを設立。

1895年にドレクセルが死去するとモルガンがシニア・パートナー兼会長に就任し、会社を再編してJ.P.モルガン&カンパニーに・・・これが現在の同社の前身となります。

         

彼は本業の金融業で財を成すと、それを元手に鉄道事業にも進出して会社を買収・統合・再編を繰り返して傘下企業を増やし、更に海運・鉄鋼業界にも進出。

またエジソン率いるゼネラル・エレクトリックにも出資して合併に手を貸し、個人住宅としては世界で初めて電気を引かせるなど、様々な分野に進出。


更に実業界だけでなく、政治的にもアメリカか恐慌で財務的に危機的状況に陥った際には大統領の要請で膨大な金を調達してピンチを救うなど、アメリカ政府にも大きな影響を及ぼすほどになりました。


そんな彼の成功の原因は何か?

それは、人を見抜く眼力があったことだと言われています。


次々企業買収を行なう彼は、何よりも取引相手の人間性を重視したとか。

その長所・欠点など性格を見極めてビジネス・パートナーとするかどうかを判断したのだそうです。

「相手が一文無しだと分かっていながら、100万ドルの小切手を切ったことも少なくない」


と豪語したそうですが、コンピューター診断で杓子定規に融資をするかどうか決済する今時の銀行には、とても出来ない芸当でしょう。


また企業買収に関しては

「私が一つの会社を買収し立て直す時、名誉にかけてそうせねばならぬと考える。 その会社を守るという経営者としての道義的責任があるからだ。」

とも。 単に利益追求のためでなく、企業そして従業員を守る決意と責任を重く受け止めていることが伺えます。


このあたり、買収した会社の経営に自ら携わり必ず再建に成功している日本電産の永守重信社長とよく似ている気も。

しかし一代でこれだけ成功した実業家ですから、良い噂だけではありません。

有名なタイタニック号の実質的なオーナーだったために、莫大な保険金目当てに故意に沈没させたという説も根強く残っています。

まぁ真偽の程は分かりませんが・・・。

結婚後僅か1年余りで妻を病気で失うという不幸もありました (※後継者は後妻との間に生まれた長男ジャック・モルガン) が、常に旺盛な事業意欲を維持し、毎日一箱の葉巻を吸い続け食欲も衰えなかったという彼が75歳で亡くなったのは、今から103年前の今日・1913年3月31日・・・旅行先のローマのホテルで就寝中のことでした。

彼の訃報に接したウォール街は半旗を掲揚し、彼の遺体がウォール街を通過した際は2時間半もの間株式市場は閉鎖されたといいますから、いかに彼の評価が高かったかが分かります。


今後、彼のような国家の命運を左右するような実業家は出現するのでしょうか?笑3


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多 弁

何年も住んでいれば、家のそこかしこにガタが来るのは当たり前。

我が家のガスコンロも、15年も経つと天板の汚れも落ちずパッキンのゴムもヨレヨレ。

(掃除をさせられて・・・いや、していたのは私なのに)それを見た女王様からは、「もう、交換したら?」 という鶴の一声が。

ってことで、東京ガスさんに連絡して、ビルトインコンロを入れ替えました。(


  


当たり前といえば当たり前なんでしょうが、ガスコンロも随分と進化しているんですネ。

最近の電化製品が矢鱈と喋ることは皆さんも感じていらっしゃると思います。

安い電気ポットでさえも、「オユガワキマシタ」 なんて言うくらいですから。

しかしガスコンロまで喋るようになったとは、知りませんでした。
それも、うるさいくらい・・・。

まず電源を入れると、「デンゲンガ、ハイリマシタ。」
切ると、「デンゲンヲ、キリマシタ。」

それに各コンロのスイッチを操作するたびに、「ミギコンロ、シヨウチュウデス」 等々、一々喋ること喋ること。

前のコンロは、スイッチを入り切りする際に〝ピッ、ピッ〟という電子音が鳴るだけでしたから、鬱陶しく感じてしまいます。

・・・と言いつつ、「はいはい」とか「分かってるョ!」 って返事している自分に気がつきましたけど。うー

更に驚いたのが、コンロ中央下にあるグリル。

昔のコンロだとトレイに水を入れて魚を焼きましたが、今時のは水を入れないで両面焼きが出来るんですネ~。

今までのクセでうっかり水を注いじゃいそうで、怖いです。

それにスイッチも、実に多種多様。(

        



前のコンロは、単に火加減の〝強〟と〝弱〟だけだったのに、魚も自動で焼き上げる機能までついているんですねェ。

もうガスコンロというより、電子レンジ・・・喋ることと合わせ、やはり高齢化社会を意識した作りになっているようです。

というより、操作が複雑で使いこなせません。

鍋やフライパンを乗せる〝五徳(ごとく)〟もコンパクトで取り外しも簡単。

に表面もガラスコーティングされて格段に掃除もしやすくなった新しいガスコンロですが・・・ひとつだけ、不満が。

これも安全対策なのでしょうが、五徳の上に何も置かないと

「コンロニ、ナベヲオイテクダサイ」

と警告されてしまい、火が点かないんです。

海苔が炙れないじゃないか~!怒




先 生

現在、我が国で最も知名度の高い整形外科医といえば、おそらく高須クリニック院長・高須克弥氏でしょう。

テレビCMをあれだけ流し、政治的な発言をしたり多額な義援金を寄付していますから当然といえば当然でしょうが、この高須クリニック・・・実は彼一人の力で現在の隆盛を築いたわけではありませんでした。

今日は高須院長の奥様であり、同医院の実質経営者であったといわれる、


 高須 シヅ


の命日・七回忌にあたります。


シヅ氏は1944年に愛知県で生まれました。
昭和大学医学部で、同じ愛知県出身の克弥氏とは同級生だったそう。


シヅ氏は成績優秀で、いつも克弥氏にノートを貸していたそうですが、その縁(?)で2人は大学卒業と同時に結婚。

彼女は昭和大学病院産婦人科勤務を経て、1974年に克弥氏と共に高須クリニックを創設。

当時まだ日本国内で認知されていなかった美容外科分野の先駆者として、二人三脚で同医院を成長させました。

「自分を楽しんでいますか? YES 高須クリニック!」


というあの有名なキャッチコピーも、シヅ氏のアイデアだったとか。

        

           高須ご夫妻 (※高須院長ブログより転載)


このご夫妻の凄いところは、お互いの身体を実験台にしたところ。

シヅ氏は、それまで有色人種には不可能とされていた肌の若返り施術〝ハードケミカルピール〟を、夫・克弥氏の顔を使って実験し、見事成功させたのです。

これ、名前だけ聞くとカッコ良さそうですが、劇薬で皮膚にわざと熱傷を作り再生させるという、恐ろしい方法。

もし失敗したら、顔に傷が残る・・・そんな施術に自らの顔を貸した克弥氏の勇気は称賛に値します。

私なら、女房の実験台になるなんて、考えられません。

しかし逆にシヅ氏もご主人の考案した施術の実験台になったといいますから、お互いに信頼し合っていたんでしょうネ。

というか、お互いを尊敬していたのかもしれません。

克弥氏が自らのブログで奥さんのことを〝シヅ先生〟と呼んでいるところからも、それが察せられます。


しかしその優秀な美容外科医であったシヅ氏を、病魔が襲います。

転移性のガンに侵されたシヅ氏は、治療の甲斐なく2010年3月29日に65歳で天に召されてしまいました。

〝戦友〟を失くした高須院長の失望は、いかばかりだったか・・・。

遺言でシヅ氏は


「香典もお花も全部引き受けて。 立派な葬儀をしてね。

地味にしちゃイヤよ。 葬儀はあなたへの評価でもあるんだからね。

それから、香典は全額日赤に寄附すること。」

とご主人に告げ、克弥氏はその通り実行したとか。

奥様を亡くされた後の高須院長のハジけぶりは、その深い悲しみを忘れるがためのように感じるのは、私だけでしょうか?

ご主人と医院を支え、3人の息子さんをいずれも医者に育て上げたシヅ先生のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3




No.2

どの世界でもそうですが、〝副〟がつく肩書は意外と軽いもの。
副社長・副大統領等々、名前すら憶えてもらえない方が殆ど。

もちろん副総理もそんなポストのひとつですが、私には唯一未だに忘れられない強烈な副総理がいます。 それは

 金 丸 信 

今日は〝政界のドン〟とまで言われた、この影の実力者の命日・没後20周年にあたります。


金丸氏は1914(大正3)年に山梨県中巨摩郡今諏訪村(現・南アルプス市)の裕福な造り酒屋の長男として生まれました。

子供の頃は腕白で、旧制甲府中学を素行不良で退学になった程ですが、1933年に東京農大に入学後は柔道に熱中。

1938年には徴兵され満州に渡るも、来る日も来る日も続いた湿気の多い塹壕生活のせいで胸に水がたまる胸膜炎に罹り、新京の病院に入院・内地送還となったおかげで兵役免除に。

静養した後に実家の造り酒屋を継いだ金丸氏は、山梨県酒造組合常務理事に就任すると、戦後は焼酎製造で成功するとともに、知己を得た山梨中央銀行頭取・名取忠彦氏の口利きでワイン製造事業に乗り出します。

これを軌道に乗せたことが、後の山梨県のワイン産業発展の基礎となりました。

しかしこの酒造事業に関わっていた時代、「造り酒屋は酒を密造し、税金を誤魔化している」という税務署の態度に腹を立てたことが、政界進出の動機だったのだそうな。


1958(昭和33)年の衆院選に、自民党公認で山梨全県区から立候補した金丸氏は、トラックの荷台に乗って演説をしたり、知名度を上げるために〝信ちゃんアメ〟や金丸の似顔絵入りの〝信ちゃんネクタイ〟を作って選挙区ばら撒くという、今なら確実に選挙違反になる手法を駆使して事トップ当選を果たし、いきなり国政の世界へ。

(しかしこの直後、奥さんを慣れない選挙応援疲れによる急性心不全で亡くす不幸にも見舞われています。)

この時同期当選した(同じ造り酒屋出身の)竹下登氏と親交を深め共に田中角栄氏の派閥入りすると、総裁選での働きを評価され第二次田中内閣で建設大臣に就任。

その後田中氏が金脈問題で失脚しますが、その後の三木内閣で国土庁長官、福田内閣では防衛庁長官を歴任。

そして自ら大嫌いだと公言していた中曽根内閣では副総理の椅子に座ることに。

それだけ金丸氏が自民党内で発言力が強かったということになりましょう。


        


金丸氏の面白いところは、決してトップ(の座)を狙わなかったこと。

「総理大臣で苦労するよりも、陰で総理大臣を操っていた方が面白い」

とご自身が語っており、竹下氏が田中派から独立し創政会を旗揚げした際も、縁の下の力持ち役に徹するなど実際その通りになりました・・・が、ドンの威光はいつまでも続きませんでした。


1992(平成4)年8月、東京佐川急便から5億円のヤミ献金を受け取っていたことが発覚。

副総裁辞任に追い込まれましたが、なぜか検察は事情聴取すら行わず罰金20万円の略式起訴で手打ち。

しかしこれに国民は納得せず、批判の声は大きくなるばかり。
結局金丸氏は事件発覚から2ヶ月後に衆院議員を辞職、政界から身を引きました。

その後東京国税局が奥さんの遺産相続に絡んで調査に着手、金丸氏は脱税容疑で逮捕されてしまいます。

自宅から金塊が出てきたという報道をご記憶の方もいらっしゃるでしょう。

その逮捕から2年後、糖尿病の進行により体長が悪化。
裁判所が審理停止を決定してから1週間後の1996年3月28日に、81歳でこの世を去りました。


良くも悪くも昭和時代を代表する政治家と言えますが、一方で野党とのパイプが太いばかりか北朝鮮・金日成主席とサシで話が出来るなど人脈の広さは他の追随を許しませんでした。

(しかしその会談が土下座外交と批判され、後に右翼団体員から襲撃されましたが。)

また道路族として中央高速道の整備やリニア・モーターカーの実験設備を山梨に誘致するなど、その政治力量はさすが。

もっとも、本人はリニアのことを〝リビア〟と呼んでいたそうですが・・・。あせあせ

またこれだけの実力者でありながら、「息子は政治家にしない」 と世襲させない事を公言し、実際それを実行したところは高く評価すべきでしょう。

時代が違うとはいえ、もう今後金丸氏のように陰で政界を動かせるような大物政治家は出てこない気がします。

政界の寝業師と言われながらも、「農大時代は、立ち技ばかりで寝技はやらなかった」 と嘯いたという大物のご冥福を、あらためてお祈り致します。


愚 直

どの種目でも、生徒が入れ替わる学生スポーツ界で連覇を続けたり名選手を続けて輩出するのは、至難の業。

それを達成するには、並外れた力量を持つ指導者の存在が欠かせません。

その意味で、高校総体・国体での優勝者を多数輩出し、鬼ノ城をはじめ何人もの力士を大相撲に送り出している鳥取城北高校・相撲部総監督の石浦 外喜義(ときよし)氏と、全国高校定時制通信制体育大会で前人未到の8連覇を成し遂げた兵庫県立飾磨工業高校の柔道部監督・三輪 光氏は、その代表的な方といえましょう。

このお二方の対談が、月刊『致知』4月号に掲載されていましたので、以下にその指導理念を抜粋・編集にてご紹介させていだきます。

          ◆     ◆     ◆     ◆


うちはね、厳しいんですょ。 
日本語を覚えるのが遅かったら、「モンゴルへ帰れ」 と言うんです。

日本語を覚えないと相撲も強くなれないから帰れと言われる。これが一番効くんです。

でもそのモンゴルの子供たちは、親のためにやるって思いが強い。
逆に日本の子供は親のためにやるって言うと、それが言い訳になる。

日本の子供はうまくいかなくなると、親がやれって言ったから相撲をやったんだと言い訳をする。

そういう子供は、わんぱく相撲に出てたまたま勝ってしまったような、小さい頃に強かった子が多い。

しかしモンゴルの子供たちは必ず親を幸せにするんだと思っていますから、親のせいには絶対にしない。

そういう彼らの姿勢を見ている日本人の子は、やがて言い訳をしなくなる。
強くなるためにと監督の言う事を必死になってやるようになる。

そうなった時の稽古はすごいです。

見学しに来た方が 「こんな稽古をいつもやっているんですか?」 と驚くくらいの稽古をするけれど、殆どケガ人が出ない。

やらされた稽古ではケガをするけれど、自分のために集中してやれば、激しくてもケガをしないんです。 (石浦先生・談)

    

        石浦 外喜義 先生          三浦 光 先生 

確かに日本の子たちは誰かのせいにしたがるんですょ。

上手くいっているときは自分が強いとかすごいんだとか思っているけど、そうじゃないときは誰かのせいにしたり言い訳をしようとする。

でも言い訳からは何も生まれないし、本当に自分が惨めになるだけ。

だからそういう子供たちには頑張ることが当たり前だということをずっと言い聞かせて、そういう経験を積ませていくしかない。

ウチの学校では、親御さんたちが積極的に保護者会を作ってくれているので、子供たちの練習を見に来てくださいってお願いしています。

土曜でも日曜でも月に1回でもいいから一所懸命練習している姿を見て、励ましてやってくださいと。

「叱るのは私の仕事ですから、家では褒めてやってください。」 って。

人間っていうのは、やはり自分自身のために頑張るのもあるけど、それでは高が知れている。

人間は人のために凄く頑張れるんです。

子供たちによく言うのは、「言い訳をするな」 ということと、もうひとつ 「嘘をつくな」 ということ。

嘘や言い訳からは何の進歩もありません。
どんなに弱くても、とにかく真っすぐに、人の言う事を聞く力を身につけなさいと。

愚直の一念という言葉がありますが、その思いで一所懸命やっていけば必ず道は開けるんです。 (三浦先生・談)

          ◆     ◆     ◆     ◆

お二人とも、若い時分に素晴らしい恩師に出会ったおかげで挫折を乗り越えた経験があり、その思いに応えるべく教師の道に入ったとか。

良き教師と素直で愚直な子供が出会った時、そこに良い結果が出るようです。笑2



三拍子


野球ファンの私でも、この人の名は2004年の秋まで知りませんでした。
そう、あのイチロー選手が記録を塗り替えようとしていた時までは・・・。

今日は、それまでメジャー・リーグの年間最多安打記録を84年間保持していた、


 ジョージ・ハロルド・シスラー 選手

    George Harold Sisler


の命日にあたります。


           

ジェームズ・ボンド役のダニエル・クレイグにちょっと似ているシブい二枚目の彼は、1893年のオハイオ州生まれ。


1915年にミシガン大学からセントルイス・ブラウンズに投手兼一塁手として入団すると、1年目から活躍。

2年目からは主としてバッターとして活躍、.305 の打率を残すと、3年目からは.350 前後の打率でチームの主軸に。

このシスラー選手、身長180cm・体重77kgとサイズはイチロー選手と偶然にも殆ど同じだったのですが、やはり彼同様俊足で1918年には盗塁王(※現役通算4度)も獲得。


そして1920年には257安打というシーズン最多記録を打ち立てました。

1922年には宿敵タイ・カップと激烈な首位打者争いを繰り広げた結果、.420 という信じられない高打率でタイトルを獲得。

惜しむらくは、その翌年目の病気により1年間シーズンを棒に振ったこと。

しかしそれでも1930年に引退するまでの通算15年で 8,267打数 2,812安打 通算打率.340(※メジャー歴代12位)は立派。(1924~26年は監督兼任)

力が衰えたとはいえ、最終シーズンでも .309 だったのですから、もったいない・・・。

守備もうまく、歴代通算打率第1位の .346 を残したタイ・カップをして

「最も完璧に近い野球選手(the nearest thing to a perfect ballplayer )」

と言わしめたほど。

まさに走・攻・守の三拍子がそろった、イチロー選手と同じバランスの取れた名プレーヤーだったと言えましょう。


ではこれほどの名選手が世間に認知されなかったのか?

その大きな理由は、彼が年間最多安打を記録した同じ年に、あのベーブ・ルースがそれまでの記録を大きく上回る年間本塁打記録54本を叩き出したから。

これにより、メジャーでは単打よりも豪快なホームランに注目が集まるようになったことが、彼にとってはアンラッキーでした。


       

             ベーブ・ルースとジョージ・シスラー


そして彼は、引退後もメジャー・リーグの歴史を大きく変える役目を果たします。

ブルックリン・ドジャースのスカウトを務めていた時、当時の同チーム会長ブランチ・リッキーから

「メジャーでも通用する力を持ち、たとえ周囲からいじめられても耐えうる強い意志を持った黒人選手を探してほしい」

という命を受けてニグロ・リーグから発掘したのが、あのメジャー黒人第1号選手ジャッキー・ロビンソンだったのです。

今から43年前の今日・1973年3月26日に80歳で天に召されたシスラー氏は単に名バットマンだっただけではなかったことを、私を含め野球ファンは冥福を祈りつつ記憶に留めるべきでしょう。野球ボール




白 光

今日は現代人にとって、これなくしては生活できない必需品・・・すなわち

 電気記念日

なのだそうです。

由来は、今から138年前の今日・1878(明治11)年3月25日に、日本で初めて公式の場で電灯が灯されたから。


この直前、富国強兵・西欧化を急ぐ政府(工部省電信局)は、万国電信連合に加盟するために東京・木挽町(現在の銀座)に電信中央局を設置。

その開局祝賀会をこの日に東京・虎ノ門の工部大学校(現・東大工学部の前身)の講堂で開催しました。


大臣・各国公使などのVIP150名以上が集まり、盛大に行われたこの祝賀会の目玉イベントとして工部卿・伊藤博文がイギリス人のエアトン教授に命じたのは、講堂の天井に設置した(1855年にフランスで発明された)ディボスク式アーク灯を点灯することでした。


失敗が許されない大役を引き受けた教授は、グローブ電池50個を使い見事に成功!

           


上の画像は東芝科学館に所蔵されているアーク灯の復元品を点灯したものですが、ガス燈が日本で初めて大阪造幣局周辺で点灯してからまだ7年しか経っていない当時・・・この眩いばかりの白光は人々の眼にはそれこそ太陽のように映ったことでしょう。

更に民間人が初めてこの白光を目にしたのは、この4年後。

東京電灯会社が銀座2丁目にあった大倉組の中に創立仮事務所を置き、事務所の前に設置した宣伝用のアーク灯を灯したのは、それから4年半後の1882年11月。

この時の様子を、新聞は 「見物の群集は市街に満ち」 と報じたそうですから、さぞ物凄い群衆が押し掛け、文明開化の灯を目撃したことでしょう。

ところがこのアーク灯には、多量の電池が必要でかつ調整が難しく、また紫外線を発するので目に悪いという欠点が。

しかし科学は日進月歩。

日本で初めてアーク灯が都心で輝いてからわずか1年後、あのエジソンが白熱電球を発明。

これが日本にも輸入され、アーク灯はその役目を終えることに。

思い起こせば5年前・・・東日本大震災直後に起きた福島第一原発事故により、国内の原発はほぼ全面ストップ。

計画停電が行なわれ、節電がブームになりました。

しかし今、当時のように真剣に日々節電を心掛けている方、どれくらいいるのでしょう。

電気記念日の今日、私達はあらためて〝初心〟に立ち帰るべきではないでしょうか?電球



格 差

ここ数年来、マスメディアは盛んに〝格差〟を問題にします。
曰く、富裕層と貧困層の差が深刻だと。

こういう論調に、いつから我が国は社会主義国になったのか?・・・そんな違和感を持つのは、私だけなのでしょうか?

昨日に引き続き、北野武氏の著書・『超思考』(幻冬舎・刊)から、抜粋・編集にて以下に彼の主張をご紹介します。

          ◆     ◆     ◆     ◆

自由競争という資本主義の原則からすれば、世の中が極端な金持ちと貧乏人に二極化されるのは、お天道さまが東から昇るのと同じくらい当然のことだ。

金持ちは持ってる金の力でますます金持ちになり、貧乏人は反対に金をじゃんじゃん吸い取られる。

インターネットにしても携帯電話にしても、要するに貧乏人から金を吸い取るシステムだ。

ニートだの引きこもりだの、仕事をしない、税金はもちろん払わないというような奴だって、ネットや携帯電話の費用はなんとか工面する。

これほど効率的に金を集めるシステムはない。 

水は高い所から低い所に流れるけれど、鐘は低い所から高い場所に吸い上げられるというわけだ。

一部の金持ちは別にして、一般大衆の世論は当然のことながら二極化には大反対だ。

けれど口先では反対しながら、実際には自分自身の行為で二極化を推進している。

安売りの行列に、平気な顔をしてい3時間でも4時間でも並ぶ。

そうかと思えば、詰め放題名人の主婦とかが登場して、ビニール袋にサンマだのミカンだのをたくさん積める裏技をレクチャーするニュース番組まであったりする。

観ているこっちまで恥ずかしくなるような光景だけれど、本人たちはちっともそういう風には感じていないらしい。

名人なんて呼ばれて嬉しそうな顔をしている。

俺に言わせれば、ただ意地汚いだけの話だ。


        北野武超思考

まぁ、そんなことをテレビで言おうものなら、抗議電話が殺到するのは確実だ。

不況で亭主稼ぎが減ったから、子供たちを必死に喰わせようとしているだけだ。 お前にはその苦労が分からないのか、とかなんとか。

百歩譲ってその通りだとしても、だったら人に知られないようにやれよ、と言いたい。

そもそもそういうバカみたいな安売りが、回り回って自分の亭主の給料を減らし、子供たちの首を締めているのだということを、なぜ考えないのだろう。

安売り合戦でデフレが進んで、200円とか300円でランチが食べられる。 おかげで助かってます・・・なんて笑ってるけれど、薄利多売のしわ寄せは、最終的には働く人間が背負うことになってる。

貧乏人が貧乏人の首を絞め合ってるだけの話なのだ。
それを見世物にして喜んでいる。

背後にいる金持ちは、素知らぬふりで笑っている。
いつの間に、こんな悪趣味な世の中になったのか。

〝襤褸(ぼろ)は着てても心は錦〟という歌の文句があったけれど、今の世の中はその正反対、〝錦は着てても心は襤褸〟というわけだ。

昔の貧乏人は、貧乏人であることを恥じなかった。
それは着ている物が貧乏でも、心の中までは貧乏じゃないというプライドがあったからだ。

ウチの母親は貧乏でさんざん苦労した人だ。
それこそ日雇いの仕事までやりながら、俺たち兄弟を大学にまで通わせてくれた。

1円の金だって惜しかったはずだけど、どれだけ安くても 「持ってけ、泥棒!」 みたいな商売をする店では絶対に買わなかった。

行列に並んで飯を食うなんてあさましい真似を、俺たちにも許さなかった。
金がないのは、金がないという
それだけの話だ。

誰に恥じることもない。 胸を張って堂々と生きていけばいい。
そういうことを俺の母親は教えてくれた。

けれど今の世の中じゃ、そういう話を理解する人間はごく少数派だ。

そういう意味では、不景気のせいで二極化しているのは、人の心だと言った方が正しいのかもしれない。

          ◆     ◆     ◆     ◆


個人的には思わず膝を叩いて、「その通りっ!」 と言いたい箇所がいくつもありますが、皆さんはどう思われるでしょうか?

自由主義・資本主義国家が競争社会になるのは必然。

なのに学校の運動会ではお手々つないでみんな一緒に一等賞を取らせ、マスメディアは格差・格差と騒ぐ…これ自体、私に言わせればナンセンス。

そういうことをする教師やマスメディアは、日本を混乱させ弱体化させるのが目的なのかと疑いたくなります。

そんなに格差がイヤなら、社会主義・共産主義国に移住すればいいのに。
もっともそういう国の方が、格差が酷いのが現実ですが。

我が子を愛し将来の成功を願うなら、その競争社会で強く生き抜く知恵を授け精神力を養わせるのが親の役目でしょう。

襤褸は着てても、心は錦・・・そんな生き方を心がけたいものです。



権 利

最近、「保育所に落ちた、日本死ね」 というツイートが話題になりました。

個人的には母国に「死ね」と公言するまともな日本人はいないと思うし、こんな匿名の発言ひとつでここまで騒ぎになるのは、マスメディアの作為的な報道によるものだと冷めた目で見ていますが・・・。

また生活保護を受けながらパチンコをやっている人に受給を打ち切ろうとする地方自治体を批判する向きがあります。

こういう世の中の動きに違和感を覚える人は、決して少なくないでしょう。

5年前に出版された『超思考』(幻冬舎・刊)で、著者の北野武氏は、こんなことを書いています。(以下抜粋・編集にて)


          ◆     ◆     ◆     ◆


アフリカのペナンから来た、ゾマホンという男がいる。

テレビ番組の『そこがヘンだよ日本人』で知り合ったのだが、こいつがとんでもない奴だった。


ゾマホンは元々中国に留学していた。 大学院まで出たのに、日本人と友達になって日本に呼ばれ旋盤工になった。

日本の町工場が人手不足で困っていた時代のことだ。

昼は大学に行かせてもらって、夜は旋盤工をやっていたのだが、疲れて居眠りしていたのだろう、右手の指を旋盤でドンと落とされてしまう。

それで病院に入るのだけど、病院の待遇がすごく良かった。
寝てるだけで1日3食出たと言って喜んでいる奴なのだ。

夜間労働で労災だなんだと騒いでもおかしくないのだが、彼は日本に世話になったというわけだ。 彼は日本が大好きになってしまった。

そんなことがあって、その番組に出るようになったのだが、あの当時でギャラが1日1万円だったそうだ。
テレビで喋るだけで、1万円も貰える。 なんてすごい国だと思ったらしい。

あんな早口でわけのわからないことを喋っていたら、人気者になった。

本も出さないかと言われて出したら、それも当たって、あいつはくるってかなりの大金を手にした。

狂ったと言っても、ゾマホンの場合は学校づくりに狂った。

自分がこんなになれたのは、母国に中国で教育を受けさせてもらって日本に来られたからだ。

教育が大事なんだと言って、その儲けた金をそっくり出して、ペナンに2つも小学校を作ってしまった。

今でも金を稼いでは、全部国の教育のために注ぎ込んでいる彼自身は、月4万円の風呂なしアパートに住んでいて、ペナンの民族衣装しか着ない。

「オマエ、臭いぞ」というと、百円のコインシャワーを浴びてくる。
自分のためには殆どお金を使わない。

自分の一生は国のためにあると思い込んでいるらしい。
殉教者というか、もう病気みたいなものだ。

病気だけど、本物だなぁと思う。

俺とか所ジョージとか、周りの人間も感化されて、今では学校も6つに増えた。 そこで1,600人の子供たちが勉強している。

         


世の中がいくら不景気でも内定を取り消されても、大したことないのだ。

何をそんなに不安になることがあるのかと思う。
仕事がなかったら喰えないというけれど、食い物がなくて食えないというのとは、わけが違う。

それは要するに、自分のやりたい職業に就けないと言ってるだけのことだろう。

本当に喰えなくなったら、そんなこと言ってはいられなくなる。

生き物はみんな自分の責任で生きている。
獲物がいなくなったと言って、デモをするライオンはいない。

獲物が捕れなければ、死ぬだけのことだ。
それが嫌なら、獲物を探すしかない。

都会で仕事が見つからなければ、田舎へ行けばいいだろう。
人は食わなきゃいきられない。 農業は不滅なのだ。

その農業が、今の日本ではおかしなことになっている。


食料自給率が40%を切ったと言って騒いでいるが、それならその自給率を上げるためにも農家になればいい。

年寄りばかりで田や畑を維持できなくなった村はどんどん増えている。
こんな有意義な仕事は今ないはずだ。

何にせよ食い物を作っていれば、食いっぱぐれることはない。

                           ◆     ◆     ◆     ◆


私たちの祖父母・父母の世代、つまり戦前・戦中生まれの方々は、敗戦の絶望と焦土の中から復興のためにゾマホンさんの如く身を粉にして働き、自分たちはロクなものを食べなくても子供たちにはひもじい思いをさせず、教育も施してくれました。

そのおかげで我が国は戦後僅か19年でオリンピックを開催するまで復興し、高校進学率95%超、大学進学率も55%超という高学歴社会になりました。

しかしそれが当たり前となった今、私たちは戦後復興に汗を流した先人の思いに応えているのでしょうか?

アメリカ主導による戦後教育のおかげか、国民としての義務の履行よりも権利・自己主張ばかりする人間が格段に多くなった気がします。

自国の総理を呼び捨てにして 「叩き斬る」 と公言する大学教授や、「辞めろ」 とデモで叫ぶ学生、それに「日本死ね」と呟く母親(?)・・・仮にそれを実現できたとしても、彼らはその後どうするつもりなのでしょうか?

先人が私たちのためを思って必死に働いてこられたことに感謝し、その思いを次世代に引き継ごうと本気で思うなら、権利主張やデモばかりしていてもダメでしょう。

食べさせてもらえるのは、子供の時だけ。
大人になったら、自分で獲物を探さなければ死ぬだけだし、子孫は途絶えるのですから。

・・・もしかして叫んだりデモしている連中は、それを望んでいる?



男 爵

昨年の3月26日、拙ブログでは我が母校・長野高等学校の大先輩・栗林忠道中将の没後70周年の記事を掲載しました。(↓)

    http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20150326.html

硫黄島を死守すべく、アメリカ軍の猛攻を1ヶ月半にわたって耐え忍んだ中将の指揮は、攻撃側のアメリカ軍から高く評価されましたが、実はこの小島で当時栗林中将より遥かに世界的に有名な日本人が戦死しています。

その人の名は、


 西 竹 一 陸軍大佐

今日3月21日が、彼の命日とされています。


        


駐清公使を務めた際には西太后から義和団の乱の処理を巡って厚い信頼を得たとされ、後に外務大臣も務めた西徳次郎男爵の三男として1902(明治35)年に現在の港区西麻布に生まれた竹一少年は、父親の死去により早くも10歳の時に莫大な遺産と爵位を引き継ぎます。


学習院初等科時代は手の付けられない暴れん坊だったそうですが、外交官ではなく軍人の道を選び広島陸軍地方幼年学校に入校。

そこで乗馬を学んだ西氏は帝国陸軍の花形・騎兵を志し、1927年に陸軍騎兵学校を卒業すると陸軍騎兵中尉に。

その3年後に軍務として欧米出張中だった彼は、イタリアで運命の出会いを果たします。

それは後に〝終生の友〟となる名馬・ウラヌス号。

相当なじゃじゃ馬で現地でも手に余っていたというこの馬を、15円で家一軒が借りられたという当時に2,000円(!)もの大金を自腹で支払って手に入れたそうですから、その惚れ込みようが分かります。

しかしウラヌス号は、その投資に十分見合う大活躍・・・ヨーロッパ各地の馬術大会で優秀な成績を残すと、1932年のロサンゼセルス五輪・大障害飛越競技では見事優勝。

西氏は、現在に至るまで馬術競技で日本が獲得した唯一の金メダルを手中に納めたのです。

        



優勝インタビューで、西氏が “We won.” と答えたことは有名。

この後、彼の出自や明るくさっぱりした性格から、〝Baron (※男爵) Nishi 〟と呼ばれて欧米の社交界で人気を集め、これがまだ人種差別の残っていたアメリカに住む日系人の希望の星となりました。

翌年陸軍大尉に昇進し騎兵学校の教官となった西氏でしたが、時代は騎馬から戦車へと主戦力が移行。


また彼が1936年のベルリン五輪で団体6位・個人12位と成績が振るわなかったことで、元々破天荒な言動で軍から白い目で見られていた彼は、その後左遷の憂き目に。


1943年に中佐に昇進したものの、翌年戦車第26連隊長として満州に赴任。
同連隊が硫黄島に動員されたことが、彼の運命を決しました。


硫黄島での戦闘の際、アメリカ軍はバロン西が当地にいることを把握し、

「君を失うのはあまりに惜しい」


と投降を呼びかけたといいます(※否定説あり)が、彼がこの呼びかけに応えることはなく・・・1945年3月17日を最後に音信を絶ち、3月22日にアメリカ軍の掃射により戦死したといわれます。

これに先立つ約半年前、補給のため一時日本に帰国した西氏は、既に引退し馬事公苑で余生を送っていたウラヌス号に会いに行ったそうですが、その時ウラヌス号は西氏の足音を聞いただけで狂喜し、首を摺り寄せてきたことがあったとか。

そのウラヌス号も、硫黄島で散った主人を追うかの如く、その僅か1週間後に亡くなりました。 生前西氏は、


「自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた。」

と語ったそうですが、まさに〝人馬一体〟というか〝以心伝心〟というか・・・。

今は天国で再会し、雲の上を疾走していることでしょう。

エルメス社製の特注ブーツをこよなく愛したというお洒落な金メダリストのご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3