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公 募

今日は、4年に1度の〝閏日〟ですネ。

個人的には2月29日になると、(あっ、今年は夏季オリンピックがある!) と気付くのですが、皆さんには何か特別な想いはありますでしょうか?

さて、ここでクイズです。

今から4年前の今日、つまり前回の閏日に有名な建造物が竣工したのですが・・・それは何でしょう?

一般公開日ではないのでピンとこない方が多いと思いますが、正解はあの東京・新名所

 東京スカイツリー

東京タワーに代わる600m級の電波塔建設を求め、2003年12月にNHKと在京民放テレビ局5社がタワー推進プロジェクトを発足。

いくつかの誘致活動を経て2006年3月に建設地が墨田区の東武鉄道所有地に決定され、2008年7月に着工。

東日本大震災の影響で資材調達が滞ったため、計画より約2ヶ月遅れて2012年2月29日に竣工に漕ぎ着けたのです。

五重塔をヒントにした制振構造を採用し、鉄骨がややツイストする形で天高く伸びる鉄塔は、地上29階で高さが634m。

これは独立型電波塔としては世界一の高さとしてギネスブックで認定されていますし、地上から天望デッキ(第一展望台・高さ350m)までを約50秒で結ぶエレベーターは、日本国内屈指のスピードを誇ります。

皆さんは、もう展望台に登りましたか?

私は残念ながら近場の町屋斎場から眺めるに止まっていますが・・・。うー


        


まさに日本の工業・建設技術の粋を集めた傑作・・・ですが、それとは別に私が評価していることがあります。

それは、この新タワーの名前をネットを利用して公募したこと。

2007年10月から1ヶ月間募集したところ、何と約18,600もの応募件数に。

しかしその中で上位を占めた『大東京タワー』・『新東京タワー』などは既にと標登録されていたり、東京タワーと似ているということで除外。

6つの候補名に絞り込み、あらためて2008年4月1日から2ヶ月間一般にネット投票を呼びかけた結果、『東京スカイツリー』に決定しました。

建設計画当初、1年間の来場者数は300万人と民間調査機関が予想しましたが、蓋を開けてみれば想定以上の大人気。

2012年4月26日に天皇・皇后両陛下が展望台に来場された後、同年5月22日に開業したこのタワーには観光客が殺到。

開業して300日に満たない2013年2月末には展望台来場者が500万人を突破。 同年12月には1年半で1,000万人を突破したのです。

雪が積もって落ちて来たとか、強風でエレベーターがストップしたとか、そんなことがニュースで大真面目に取り上げられたのですから、そのフィーバーぶりが分かりますが・・・私はこれだけ注目を集めた一因に、ネーミングの公募があったと思うのです。

老若男女問わず、一生懸命ネーミングを考えた応募者は採用の可否に関わらず親近感が湧きますし、その結果にも一喜一憂したはず。

そういった国民の好意的な思いが、少なからず人気を押し上げたのではないかと。

ですから東京五輪のエンブレムも最初から候補作を絞って公募すれば、全然違った展開になった・・・って、今から言っても遅いですが。

専門家が密室でこっそり決めるのは時代遅れですし、今や国民の理解を得られないでしょう。

ただし、最近政界で新しい党名を公募しようという話がありますが、これは例外。

自分たちの主義主張・政策提言がないことを自認しているようなものですから。うー



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相乗効果


やっぱり黄色って目立ちますネ。

先日コンビニに行ったら、このパッケージがすぐ目に飛び込んできました。

 ペヤング 激辛カレーやきそば

パッケージに印刷されている〝油断ならない辛さ〟というキャッチコビーに釣られて、即購入。


         


帰宅してネットで調べてみたら、今月22日からコンビニで先行販売されているとのこと。

メーカーの『まるか食品』さんが異物混入問題を起こしたため一旦販売を休止していたものを、復活させたものだとか。

とは言え、私自身は初めて見つけたこの商品・・・早速試食してみました。

お湯を入れて3分後に湯切りして、カレー味とは思えない黒いソースをかけ、かき混ぜて出来上がり。

色を見る限りそれ程辛そうには見えませんが、どうか?

        


一口食べてみると・・・う~ん、私には正直あまり辛くありません。

メーカーのHPには、「水なしでは完食が難しいほどの辛さに設定している」 と書いてありましたが、それほどじゃないって感じ。


以前試食した、同社の激辛焼きそば〝辛さレベルMAX!!〟の方が辛いんじゃないでしょうか?

※過去記事は、こちら。(↓)


  http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11178739081.html


ただ、辛さはそれほどでなくても、カレーの味わいはしっかりありましたけどネ。

期待していたほど辛くなかったので、今回はちょっと手を加えてみることに。

先月ブロ友のアッキーセブンさんから激辛カシミールカレーをいただいたことを、拙ブログ読者の皆さんはご記憶のことと思いますが、実はもうひとつ、

 かんずり 『和風激辛ソース雷(赤)』



       


という香辛料もいただいていたんです。

〝かんずり〟とは新潟県妙高市特産の唐辛子を使った香辛料で、これに醤油・ハバネロ等と混ぜた激辛ソース。

ソースと言っても、基本的には和風の醤油味。

カレーにかけると美味しいという体験談をネット上に書かれていたことを、思い出したんです。

早速これを麺にたっぷりふりかけてよく混ぜて、あらためて一口・・・うん、決して辛さが単純に増すわけではありませんが、味が複雑化したことは確か。

【激辛×2=激辛×1.5+味わい0.5】 といった感じでしょうか。

やはり市販品だと激辛といっても限界がありますから、こうやって自分好みのひと手間を加えるのもイイですネ。

皆さんも、是非一度お試しを!・・・って、真似する人なんていないか。あせあせ




条件反射

条件反射とは、動物が訓練や経験によって後天的に獲得される反射行動のこと。


この言葉から多くの方が連想するのは〝パプロフの犬〟ではないでしょうか。


実験中、飼育係の足音で犬が唾液を分泌していることを偶然発見。 


そこで犬にベルを鳴らしてからエサを与える事を繰り返した結果、ベルを鳴らしただけで唾液を出すようになったことから、条件反射の存在が明らかに。

この実験を行なったのが、



 イワン・ペトローヴィチ・パブロフ

     Ivan Petrovich Pavlov


今日は、多くの人々に名を知られているこの化学者の命日・没後80周年にあたります。


(※余談ですが、この唾液の条件付けは長いこと哺乳類等の高等生物にのみ起こると考えられていましたが、10年前には東北大学の研究によりゴキブリにも起こることが判明。)

1849年に帝政ロシアで生まれたパブロフは、父が聖職者であったことから自身も神学校で学びました。


そのせいか、生涯を通じて彼の宗教心・愛国心は揺ぎなかったたとか。


彼の幼年・青年期に関しては詳しく知られておらず、故になぜ生理学者になったのかは不明ですが、1890年に実験医学研究所を設立し、1902年に上記発見・実験を行いました。


この実験は消化管の一部を外科的手術により外に出し、胃や腸に穴を開けるなど、実験に利用された犬にとっては残酷なもの・・・現在なら動物愛護団体から虐待だと指弾されそうな手法でした。


しかしパブロフは、その宗教的背景もあってか非常に実験動物に対し同情的な科学者だったとか。


「痛みや来たるべき死が生体のプロセスに多大な影響を与えるので、科学実験において動物を苦しませることは結果を汚染することに繋がる。」


そう主張する彼は、件の実験犬に対しても麻酔をかけることを頑なに主張し、同時に生体解剖実験を廃絶するよう訴えたという、当時とすれば異色の〝動物愛護科学者〟でした。


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-Ivan Petrovich Pavlov


そして1904年、ロシア人で初めてノーベル(生理学・医学)賞を受賞します。


しかしそれは〝パブロフの犬〟に関してというよりも、それまで長年に渡って研究を続けてきた消化腺の研究が評価されたものでした。


教育者としても数多くの著名な医師・化学者を育成し、1935年には国際会議に於いて 「世界最高の生理学者」 と賞賛されたことからも、彼が条件反射研究のみの〝一発屋〟ではない優秀な科学者であったことを示しています。


厳格な性格と実験態度で知られ、1936年2月27日に89歳で肺炎により亡くなる間際まで秘書に自らの身体変化を記録させたという根っからの科学者であった一方、電話をかけてきた人には


「現在死にゆくところで、取り込み中です。」


と伝言させる茶目ッ気もあったパブロフ・・・世間にその業績と人柄がもっと知られて良い人物だと、私は思います。


ところで、女房から 「ちょっと、アンタ!」 と言われた瞬間に私がギクッ!とするのも、条件反射?うー




奇 譚

今からちょうど80年前の今日・1936(昭和11)年2月26日の東京都内は、あたかも赤穂浪士の討ち入り当夜の如く、雪が積もっていたとか。

その都内で未明の暗闇の中、陸軍・皇道派の影響を受けた一部青年将校が約1,500名の下士官を従え天皇親政を実現すべく決起。


総理官邸や閣僚の自宅、更には警視庁や新聞社などを襲撃し、岡田啓介総理・高橋是清蔵相ら4名を殺害。

更に山の上ホテルに陣取ってクーデターの拡大を目論みましたが、昭和天皇から反乱軍と見做されたことでクーデターは失敗。

3日後の29日には鎮圧され、多くの将校が自決あるいは逮捕・死刑によって命を落としました。


        

未遂の終わったとはいえ、この事件によって軍部の発言力はますます強くなり、やがて日本は軍国主義の道をひた走ることになるのですが・・・当然のことながら、まだ生まれていなかった私は多くを知りません。        

が、そんな私にとって最も印象深いのは事件そのものの背景や経過ではなく、三島由紀夫氏と美輪明宏さんの2人がこの事件に間接的に関わるエピソードなのです。            


美輪さんが 『銀巴里』 で歌っていた頃からの友人であった三島氏に、ある時霊が憑いていることを彼(女)は感じたそうです。


「三島さん、貴方に憲兵隊のような服装の霊が憑いているわょ。」 と言うと、


「名前は何と言う?」 と問う三島氏。


「名前は分からない。でも思い当たる人の名前を言ってごらんなさい。

その霊の名前なら、霊の影が消えるから・・・。」


そう言われた三島氏がそれでは、と何名か名前を挙げていったところ、


「じゃあ磯部か?」


そう言った瞬間にその影がパッと消えたそうな。


三島氏が名を挙げた磯部という男は、二・二六事件の首謀者の一人として捕らえられ、獄中で世を恨む獄中遺書を残して銃殺刑に処せられた、磯部浅一という青年将校その人だったのです。


  
 


三島氏は、磯部将校が同じく獄中で遺した 『行動記』 なる文書を高く評価したそうですが・・・後の1970年11月25日、45歳の三島氏が同志と共に市谷の陸上自衛隊駐屯地内の総監室に立てこもり、演説の後壮絶な自殺を遂げたことを考え合わせると、何とも云えぬ因縁を感じてしまうのです。 

美輪さんは自著 『霊ナァンテコワクナイヨー』 (PARCO出版 ・刊)の中でこう言っています。


        


『(磯部のような)ああいう死に方をしている人というのも、結局感謝が足りないから、呪ったり、恨んだりすることになるのです。


自分で反乱に参加して死んだのだから本望でしょうに、それを思い違って、誰かのせいにしているのです。


バカは死ななきゃ直らないというのは嘘です。


生きている時に、物分りが悪くて、頑固で、反省の色がない人というのは、死んでも同じです。


清く正しく美しい心になれば、そのような世界に住むことになり、心次第ではその逆にもなる。


〝地獄極楽は胸三寸にあり〟ということなのです。』


霊そのものを、また美輪さんの仰ることを信じるかどうかは人それぞれでしょうが、少なくとも私はあの世に恨みつらみを持ち込んで、誰かを引っ張り込む・・・なんてことはしたくありません。


死んでからも他人様に迷惑をかけないよう、現世を〝菩薩の心〟で生きたいと思うのです。笑3


情 報

〝情報を制する者は、世界を制す〟という言葉があります。

現在はネットを通して世界中の情報が瞬時に手に入るようになりましたが、PCが普及していない20世紀までは、その情報を操る最先端は通信社だったといえましょう。


今日は、その通信社の中でも大手としてかつて世界の情報を集めていたロイター通信社の創業者、

    ポール・ロイター

 Paul Julius Baron von Reuter

の命日にあたります。

        


名前から推測できるように、彼はドイツ人。
1816年にカッセルでユダヤ教司祭の息子として生まれました。

しかし30歳になる直前にロンドンに引っ越した彼は、キリスト教に改宗。

結婚後1848年にパリに出た彼は、ユダヤ人アヴァスが1835年に創業した世界最古の通信社・アヴァス通信社(※AFP通信社の前身)に通訳として就職。

同社はそれまで馬車便や飛脚便が一般的だった情報伝達手段を、1840年から伝書鳩を使うことで大幅なスピード・アップを実現し、大きく業績を伸ばします。


ここで通信社の業務を学び儲かることを知った彼は半年も経たない内に同社を辞め、同様に伝書鳩を使った通信事業をアーヘンで行った後、1851年にロンドンに戻ってロイター通信社を創立。

以前知り合った著名な物理学者・数学者のガウスの実験を通して、将来の情報伝達は電信が主流になる・・・・そう確信していたロイターは、ちょうど同時期ドーバー海峡に敷設された英仏間の海底ケーブルを使った電報(電信)通信をいち早く導入したのです。

ロンドンとパリの株式市況を格段に早く配信できるようになったことで、事業は急成長。

1870年にはかつての勤務先・アヴァス社と、やはりロイターと同じくアヴァス社から独立したヴォルフが設立しドイツに拠点を持つヴォルフ社と協定を結び、(AP通信が支配するアメリカを除く)世界の情報を支配する三大通信社として君臨しました。

第一次大戦後、ドイツの政府首脳が 「ドイツはイギリス軍には負けなかったが、ロイター社には完敗した」 とぼやいたそうですから、如何にいち早く正確な情報を握ったロイター社が連合軍の勝利に貢献したかが分かります。


      

      『ニュースの商人 ロイター』 (倉田保雄・著 朝日文庫・刊)

三社協定を結んだ翌年にイギリスから男爵の称号を受けたロイターが82歳で天に召されたのは、1899年2月25日・・・20世紀に入る直前のことでした。

その後ロイター社はいち早く日本にも社員を派遣し、外信を欲する日本の新聞社と次々に契約を交わし、アジアは同社のドル箱エリアに。

昭和時代の新聞に、よく〝ロイター発〟という記事が掲載されたのは、そのため。

しかし生き馬の目を抜く通信業界の流れは早く、同社も2007年にはカナダの情報サービス大手のトムソン社に買収されました。

現在は辛うじて 『トムソン・ロイター』 と社名にその名残がありますが、今後はどうなるのか?・・・きっとロイター男爵は、いつまで自分の名前が残っていられるかドキドキしながら下界を眺めているのかも。

ところで、上記でご紹介した本の冒頭に、こんなくだりがありました。

『エルバ島に流されたナポレオンが、1815年2月再び栄光の座を奪還しようとして脱出した時、高をくくっていたパリの新聞は、そのニュースを〝怪物、流刑地を脱出〟という見出しで報じた。

そして、かつての皇帝を〝コルシカ生まれの怪物〟とか〝食人鬼〟などと、嘲笑の限りを尽くした。

それが僅か数ヶ月の内に、ナポレオンがいよいよパリに近づくや、〝皇帝、あす忠誠なるパリ市にご帰還あそばさる
〟と、打って変わった変身ぶりを見せたのである。

これは当時のジャーナリズムがいかに場当たり的で権力に弱く、かつ迅速正確な情報を欠いていたかを物語るものだろう。』

・・・いえいえ、21世紀のマスメディアも同じですょ、ロイターさん。うー



激 突

今日は、中高年の方には懐かしいアメリカの俳優、


  デニス・ウィーバー

 William Dennis Weaver


の命日・没後10周年にあたります。

1924年にミズーリ州ジョブリンに生まれたウィーバーは、幼い頃から俳優を志していたとか。

オクラホマ大学で演劇を学んだ彼は、第二次大戦中海軍のパイロットとして従軍した後に結婚、3人の子宝に恵まれましたが、友人の俳優ロニー・チャップマンの勧めでニューヨークへ。


そしてブロードウェイで彼の代役として舞台に立つと、俳優になることを決意。

アクターズ・スタジオで演技を学びましたが、大した役にありつくことが出来ず、電気掃除機や三輪車のセールスや日雇いの仕事で家族を養う下積み生活が続きました。

しかしその苦しい時期に掴んだ人気TVドラマ 『ガンスモーク』 のチェスター・グード役で高い評価を受け、1959年にエミー賞・最優秀助演男優賞を受賞したことで、一躍有名に。

私自身が彼を初めて観たのは、1975年から2年間NHKで放送された『警部マクロード』。

大人気だった 『刑事コロンボ』 の後番組として放映されたと記憶していますが、ヨレヨレのコート姿だったコロンボと違い、いかにもアメリカ人らしい颯爽とした姿が印象的でした。

        


但し、ストーリーはコロンボシリーズと違い凡庸だったので殆ど記憶していませんが・・・。

彼の出演作品で最も強烈な印象が残っているのは、なんと言っても

 『激突!』(原題 : “Duel ”=[決闘] 1975年)

当初はTVドラマとして製作されたもののその人気ぶりから後に劇場公開されたという、あのスティーブン・スピルバーグの名を一躍世間に知らしめた出世作。

           


平凡というか気の弱そうなセールスマンが、乗用車で強引に追い越した大型トレーラーから執拗に付き纏われるという単純なストーリーですが、ジワジワと襲ってくる恐怖感がウィーバーの好演で観る者に伝わってきます。

たった16日間で撮り終えた低予算ドラマですが、弱冠25歳でこの作品を製作したスピルバーグの才能の凄さを感じさせます。


出演した作品は少ないですが、多くの日本人はこの2作品で十分彼の名を知ることになったはず。

日本のテレビCMにも出演していましたし。

その後環境保護運動にも傾注した彼がコロラド州の自宅で合併症により
81歳で天に召されたのは、2006年2月24日でした。

今宵は、彼の冥福を祈りつつ久しぶりに『激突!』を鑑賞するつもりです。

       


現在では1,000円以下でDVDが入手できますので、まだご覧になっていない方は是非!笑2




豪放細心

人間には、さして実力もないのにスルスルと出世したり財を成す運の良い人もいれば、実力はあるのになぜか不遇の人生を歩む人もいます。

今日は、(失礼ながら)その後者のタイプだったといえる

      
ともゆき

 山下 泰文 陸軍大将

の命日・没後70周年にあたります。

山下大将は1885(明治18)年に高知県で生まれました。

地元の海南中学校から陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校と進み、卒業後はスイス・ドイツに留学。

帰国後は陸軍省軍事課長・軍事調査部長と順調に昇進。

しかし、1936(昭和11)年に二・二六事件が起きた際、〝武士の情け〟から旧知の青年将校の自決に勅使御差遣を申し出たことが反乱軍に肩入れしたと天皇陛下の不興を買い、一時は軍を辞する覚悟を固めます。

しかし陸軍大臣の慰留によって思い止まり、歩兵第40旅団長として朝鮮に転任・・・つまりは、左遷を甘んじて受けることに。

この一件で、彼は陸軍の主流派から外され、以後参謀本部などのエリートコースに戻ることはありませんでした。

1939(昭和14)年に大阪第4師団長となり、その後一時航空総監として大本営に戻ったのですが、陸軍内で人気が高かったことで前任の東條英機に妬まれ、半年も経たない内に体よくドイツ視察団々長として大本営から出されてしまいます。

この訪独の際、面会したヒトラーから 「日本は即刻英米に宣戦布告すべし」 と迫られた際、「日本はすみやかに支那事変を終結しソ連の侵略に対する準備をせねばならない。 英米に対して戦争を敢行し得る状態ではない」 と突っぱねたとか。


視察から帰った彼は、自国の軍備が時代遅れであることを痛感し、その整備を具申。 


そしてヒトラーに断言した如く、英米との交戦を回避するよう主張しましたが、大本営は聞く耳を持たぬまま大東亜戦争に突入。


開戦直後は、第25軍司令官としてマレー上陸作戦を指揮。

2ヶ月弱で1,100kmを進撃し、イギリスの東洋支配の拠点・シンガポール陥落に成功。

降伏を願い出ながら煮え切らない態度に終始したイギリス・パーシバル中将に、

「イエスか、ノーか!」

と無条件降伏を迫り、一気に交渉をまとめた・・・という逸話は有名。

※しかし実際はもたつく通訳に 「イエスかノーか(※降伏する意思があるかどうか)を聞けばよいのだ」 と声を荒げただけだったとか。 


上記のエピソードは、新聞が国威高揚を図るために捏造(?)されたもの。

大きな声といかつい体格から強面のイメージがありますが、決してイギリス側を恫喝したわけではなかったのです。

         


しかしこの大躍進で国民から英雄扱いされながら、天皇陛下が拝謁の機会を与えることはなく、彼はまたしても東條によって満州に飛ばされてしまいます。

そして1943年大将に昇進したものの、敗色濃厚になった翌年には第16方面軍司令官を任じられフィリピンの防衛戦を指揮。

しかし現場を知らぬ大本営からレイテ決戦を強いられ、思うように戦うことが出来ぬまま消耗。

日本が戦艦ミズーリ甲板上で降伏文書に署名した翌日の1945年9月3日、フィリピンのバギオで降伏・・・食糧難に苦しんでいた日本軍を象徴するかのように、巨漢だった山下大将はすっかりやせ細っていたといいます。

捕虜となりフィリピンで軍事裁判にかけられた彼は、実態の不明確なマニラ大虐殺などの罪まで着せられて死刑判決を受け、1946年2月23日に絞首刑に処せられました。

この時連合軍(アメリカ)は、山下大将(他殆どの将校
)に軍服の着用を許さず囚人服のままで処刑するという屈辱的な扱いをしています。


それだけ連合軍が彼に煮え湯を飲まされた証左といえましょうか・・・。

処刑に先立ち、山下大将が残した遺書では、敗戦の反省から

 ◇倫理的判断に基づいた義務の履行

 ◇科学教育の振興
 ◇女性に対する教育の充実と、母親としての自覚

を後世に託しています。

これらは、21世紀の日本にとっていずれも欠かせない事ばかり・・・山下大将の見識の高さが偲ばれます。

アメリカ人弁護士でさえその人格に魅せられたという山下大将について詳しく知りたい方には、この書籍がお勧め。

山下奉文正伝-「マレーの虎」と畏怖された男の生涯


                  (安岡正隆・著 光人社NF文庫・刊)

       


実はこの本、残念ながら著者が執筆中に亡くなったため完結していませんが、それでも一見豪放磊落な山下大将も実は情が厚く細やかな神経の持ち主であり、それ故に私生活では様々な苦労や葛藤があったことを十分伺わせます。

東南アジアの独立の道筋をつけながら60歳で散った〝マレーの虎〟のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3




妙 訳

ベースボールを野球と訳したのは、誰でしょう?・・・そう問われたら、「正岡子規!」 と答える方が多いかもしれません。

昔は私もそう聞いていました・・・が、実は違うんです。

初めて〝野球〟という言葉が正式に文書として世に登場したのは、今から121年前の今日・1895(明治28)年2月22日に発刊された、『一高(※第一高等学校の略)野球部史』。

同書を執筆し、〝野球〟と翻訳したのは


ちゅうまん  かなえ  
 中 馬  庚 氏 (1870-1932)


という教育家でした。

鹿児島生まれの中馬氏は、1888(明治21)年に第一高等中学校に進学し、2塁手として活躍。

そして同校を卒業する際に前述の部史を発行することになり、その執筆を任されたのです。


その時に、ベースボールを何と訳すか、頭を悩ませることに。

当時はベースを直訳(?)して〝底球〟と呼んでいたそうですが、これでは発音が庭球と同じ。

そこで思案の末、“Ball in the field ” の直訳〝野原でやる球遊び〟から〝野球〟とすることを思いつき、それを部史に採用した・・・というわけ。

その他ショートストップを遊撃手と訳したのも、彼でした。

その2年後、東京帝大に進学した中馬氏は一般向け野球専門書『野球』を出版、その数年後から野球という単語が一般に使用されるようになり、現在に至っているというわけ。

その後教員の道に進み、校長を歴任した後62歳でこの世を去りましたが、この妙訳の功績を称えられ、1970(昭和45)年に野球殿堂入りを果たしています。


            


では、なぜ正岡子規の名が出たのか?

それは彼の弟子が著作の中で 「ベースボールを訳して『野球』としたのは子規が嚆矢(こうし)であった。」 と記しているから。

実際、彼は前述の野球史が出版される5,6年前、既に野球という言葉を使っていたようです。

しかしそれは、彼自身の幼名・升(のぼる)に因んで野球(のぼーる)という雅号として使ったもの。

つまりベースボールの訳語としてではなかったんです。

彼は中馬氏よりも早く第一高等中学校予科に入学し、捕手として活躍した野球好きですが、中馬氏とは入れ違いに卒業しています。

ただ正岡氏の名誉のために申し上げますと、野球こそ中馬氏に譲ったものの、その他現在でも一般的に使われている

 ◇ バッター    → 打 者

 ◇ ランナー    → 走 者 

 ◇ フォアボール → 四 球 

 ◇ ストレート    → 直 球

 

などは、正岡氏が生み出した訳語であり、それらの功績を以って正岡氏も2002年に野球殿堂入りしています。

これら野球草創期の話に興味のある方には、こちらの書籍をお勧めします。
 『〝野球〟の名付け親 中馬庚伝 

         (城井睦夫・著 ベースボールマガジン社・刊)

        


 20年近く前の本ですが、古き良き時代に触れることが出来ますョ。笑2


野球ファン、必読です。



配 給

今日の話題は、中高年の方にとっては懐かしい・・・いや、戦前・戦中派の方にとっては忌まわしい記憶を呼び起こしてしまうかもしれません。

それは今から74年前の今日・1942(昭和17)年2月21日、東條内閣によって制定された

 食糧管理法

俗に〝食管法〟と呼ばれたこの法律は、既に日中戦争に突入していた我が国で米不足が慢性化しており、更に大東亜戦争に突入したことで食糧の生産・流通・消費に関し政府が介入・管理し安定を図る目的で立法化されたものでした。 (※施行は同年7月から)

しかし戦況の悪化により地方の若い農業従事者が徴兵に駆り出されたこともあり、米不足は深刻化。

砂糖・塩・味噌・醤油・肉・野菜・魚など殆どの食料品が配給制になり、戦争末期には米の代わりにイモや大麦が配給される状態に追い込まれました。

戦時中からもそうだったようですが、敗戦直後は国中が食糧不足。

僅かな配給ではとても家族の飢えを凌ぐことが出来ず、違法を承知で地方の農家で配給価格の10倍以上の値でヤミ米を買う人々で列車は超満員。

本来は取り締まるべき警察官も、見て見ぬふりをしていたとか。

         



私が子供の頃、小学校の給食でも残すことは許されませんでしたし、自宅でも茶碗に米粒ひとつ残すと叱られたのは、まさに教師や両親がこの辛い食糧難の時代を知っていたからこそだったのでしょう。


しかし見事に戦後復興を成し遂げ、今や食糧も国民に十分過ぎる程行き渡るようになった我が国ですが・・・この食管法は、いつまで存在していたと思いますか?

実は廃止されたのは1994年・・・なんと平成の時代まで残っていたんです。驚き顔

戦後復興を果たし食糧事情が良くなり、国民にパンやラーメン・パスタなどの麺類が広がって〝コメ余り〟状態になると、政府の米買い取り価格は逆ザヤ状態に。

更にコメ余りによって古米・古々米、更にはそれ以上に古い米までもが在庫化し、困った政府は減反政策という更に我が国農業の足腰を弱める政策を導入。

しかしコメ農家や農協票が欲しい自民党は、この法律を手つかずのまま野放し・・・この過保護政策を止めなかったことが、後に国際競争力の低下を招く一因になったといえましょう。


結局戦中・戦後同様ヤマ米すなわち〝自主流通米〟が出回るようになり、政府の統制は効かなくなり、更にはフィリピン・ピナツボ火山噴火による日照不足から記録的な冷夏に襲われた我が国は深刻な米不足に陥り、それまで米輸入を厳しくしていたコメ輸入を解禁。

大量輸入に伴い、美味しいタイ米の炊き方を紹介するテレビ番組を観た記憶のある方も多いことでしょう。

この流れを受けて、食管法は施行以来半世紀を過ぎてようやく廃止され、翌1995年には従来よ大幅に統制が緩和された『主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律 』・・・いわゆる新食糧管理法が施行されたのです。

農水省に限らずどこのお役所でも自らの強い立場を護るため規制をかけようとしますが、それは民間の活力を削ぎ、ひいては国際競争力の低下を招く・・・この食管法の推移は、まさにその好例といえましょう。



元 帥

もし彼がいなければ、戦史は変わっていただろう・・・今日は、そう思わせるアメリカ軍人、


 チェスター・ウィリアム・ニミッツ

    Chester William Nimitz



の命日・没後50周年にあたります。

ニミッツは1885年にテキサス州でドイツ系移民の家系に生まれました。


誕生前に父親が亡くなったため、母が父の兄弟と再婚。 

祖父と義父が経営するホテルを手伝いながら育った彼は、サービス業を通して人を見る目を養い、それがその後の人生における大きな財産になりました。

1900年にホテルに泊まった陸軍少尉に憧れ陸軍入りを志望しましたが、たまたま陸軍兵学校に入学するために費用だった地元下院議員の推薦枠がなかったため、仕方なく枠の残っていた海軍兵学校に入学したことが、彼の運命を決定づけました。

1905年に114人中7番目の成績で卒業した彼はその後順調に出世。


1910年に大尉に昇格すると潜水艦の艦長を務め、第一次世界大戦では大西洋艦隊潜水艦隊司令ロビンソン少将の参謀とし戦線に赴くと、1927年に大佐、1938年には少将、その翌年には海軍省航海局長に。


そして1941年12月、真珠湾攻撃を許した責任を取らされて辞任したキンメル大将の後任として、海軍出身でニミッツの人物鑑定眼を高く評価していたF・ルーズベルト大統領はニミッツを太平洋艦隊司令長官に任命。

彼は中将を飛び越して大将に昇格しました。

        


副官のみを伴って就任したニミッツは、「真珠湾の悪夢は誰の身にも起こり得た事だ」 として必要以上の処罰をしませんでした。

そればかりか部下は前任の幕僚をほぼ丸々留任させたことで、真珠湾攻撃で意気消沈した将兵を奮い立たませす。

また真珠湾攻撃を検証し航空機の集中攻撃は大艦巨砲よりも有効であると認識すると、空母と航空機の増強を指示。

更にその空母部隊の司令官に、空母艦長経験のないスプルーアンスを抜擢。

結果的に前例に捉われない人材起用が功奏し、1942年6月のミッドウェー海戦で大勝利を収め、その後戦況は一気にアメリカへと傾きました。

彼の力量本位・信賞必罰の適材適所人事に比して、日本軍は年功序列の硬直人事・・・戦力だけでなく、その辺の差も戦況に大きく影響したといえましょう。

1944年に海軍史上3人目の元帥となったニミッツは、1945年8月15日に天皇陛下がポツダム宣言受諾を宣言した翌9月2日に戦艦ミズーリで行なわれた降伏調印式に列席し、アメリカ代表として文書に署名。

同年11月にアメリカ海軍作戦部長に就任し、2年間その職を務めた後引退。

1965年に脳卒中で倒れた後、1966年2月20日に80歳で愛妻に看取られこの世を去りました。

彼くらいの地位に就いた者の多くは自伝を書くものですが、彼は筆を執りませんでした。 そのことに関し、彼は


「歴史というものは専門の歴史家の手で書かれるのが一番良い。


戦時中の指揮官は感情的に深く関わり過ぎていて客観的な姿を描写することができず、自らが抱いた偏見のために、彼に仕えた人を傷つけないとも限らない。」

と語っています。 また彼の伝記を書いた作家ポッターは、

「思いやりが深く人間心理を極めた、しかも謙虚に充ち溢れた楽天主義的人物。」

と彼を激賞していますが、これだけを見てもニミッツがいかに優れた人格者だったかが分かります。

またマッカーサー程有名でなかったものの、通常大統領名しかつけられない、しかもあのエンタープライズより大きな空母にニミッツの名が冠せられていることが、アメリカの彼の功績に対する評価を物語っています。


そしてもう一点、彼を語る上で外せないのが、我が東郷平八郎元帥との関わり。


日露戦争における日本海海戦でバルチック艦隊を撃破した東郷元帥を信奉していたニミッツは、

その戦勝記念式典に招待され、東郷元帥を胴上げして短い時間ながら言葉を交わしており、その時のことを彼は後にこう語っています。

「偉大な提督東郷平八郎の姿を見て、全身が震えるほどの興奮を覚えた。

そして、いつの日かあのような偉大な提督になりたいと思った。

東郷は私の師です。」

東郷元帥の国葬にも参列したニミッツが、かつて連合艦隊の旗艦であった『三笠』が戦後ダンスホールとして使われており、朝鮮戦争後には原型を留めない程荒れ果てていたことを知ると激怒。

〝三笠と私〟という寄稿文を文藝春秋に掲載すると共に自ら修復費として寄付を行ない、これがキッカケとなって戦艦三笠は無事復元されたのです。

また戦時中に東郷神社が全焼したままになっていたことを知るや、1958年に東郷神社再建奉賛会へ10万円を寄付しただけでなく、共著した『太平洋戦争史』の印税をも寄贈。

我が国の連合艦隊を壊滅せしめた憎い敵将ながら、天晴れ・・・というしかありません。

私は軍人としてではなく類まれな人格者として尊敬しつつ、ご冥福を祈りたいと思います。笑3