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Mr.K

・・・と言っても、奪三振王のことではありません。

若かりし頃、私には憧れのスポーツ・カーがありました。

それは、日産のフェアレディーZ。

そのスピードと美しい流線型のフォルムに、一度乗っただけで惚れこんだものですが・・・今日は、このクルマの生みの親、

 片 山 豊 


の命日・一周忌にあたります。


        


片山氏は、1909(明治42)年に現在の静岡県浜松市に生まれます。

子供の頃父親と一緒に馬に乗って走った爽快感が忘れられなかった片山少年、東大でエンジニアリングを学んでクルマ作りに携わろうとしましたが、残念ながら不合格。

慶應義塾大学を卒業すると、親戚筋の鮎川義介氏が日本産業の自動車部門として2年前に設立した日産自動車に入社し、宣伝部門に配属されました。

大学在学中に渡米経験のあった片山氏は、その経験を活かしてそれまでの車名を連呼するコマーシャルを一変させます。

人気絶頂だった松竹少女歌劇の舞台上に10台のクルマを並べて観客を驚かせたり、CMキャラクターの起用やクルマのある暮らしなどを提案。


更には来たるべき本格的なモータリゼーションの時代を先取りし、1954年には他メーカーを巻き込んで 『第1回全日本自動車ショウ』 ・・・つまりは日本初のモーターショーの開催に尽力。

また本格的な輸出を控え、ダットサン210型でオーストラリア一周ラリーに挑戦し、見事1,000cc以下でクラス優勝。

これにより、“DATSUN ” の名を世界に知らしめました。

そして片山氏の名を一躍世界に轟かせたのは、1960年に渡米してから。


この転勤、実は車内で華やかにスポットライトが当たる片山氏をやっかんだ勢力が彼を飛ばしたのだそうですが、彼はメゲませんでした。

徒手空拳でアメリカでの販売を任された彼は、メンテナンスやアフターサービスを売り物に西海岸のディーラーを一軒一軒回って少しずつ市場を開拓。

そしてその現場感覚を元に、片山氏は新型SOHCエンジンを搭載した中型車・ダットサン510(ブルーバード)を発売。

更にこれをベースにして、アメリカ人のニーズに合わせた流線型のフォルムとイギリスのジャガーの約1/3というリーズナブルな価格設定で1969年に開発したのが、ダットサン240Z・・・日本でフェアレディZと名付けられた名車でした。

       


アメリカで〝Z(ズィー)・カー〟と呼ばれたこのクルマは発売直後から大人気を博し、以後10年間で総販売台数55万台(内日本では8万台)という、当時のスポーツカーとしては驚異的な数字を残しました。

現地で “Mr.K ” と親しまれ初代北米日産の社長を務めた片山氏は、
日本車のアメリカ進出のキッカケとなったこのクルマの開発・販売を評価され、1998年にアメリカの自動車殿堂入りを果たしています。

しかし何故か日産自動車はこれだけの功績を残した片山氏を本社の役員として迎えることはなく、1977年に定年退職。

1996年にはフェアレディZは一旦生産中止になったものの、再建を目指して就任したカルロス・ゴーン社長に請われ、ニューZの開発アドバイザーとして同社相談役に返り咲きました。

そんな片山氏が亡くなられたのは、昨年の2月19日・・・105歳の大往生でした。

クルマと共に人生を歩み、103歳まで運転免許を更新していたという “Mr.K ” のご冥福を、あらためてお祈り致します。

残念ながら今までフェアレディZのオーナーにはなっていない私ですが、60歳過ぎに手に入れて悠然と高速道路を走ってみたいものです。笑2



空 輸

今日は、クイズからスタートです。

古く(失礼!)はユーミンや久保田早紀、最近では初音ミクと巡音ルカが歌っている曲に共通するものは何でしょう?

ヒントはユーミンが青、久保田早紀が橙、ミク&ルカが塔・・・それぞれのファンならすぐ分かっちゃうでしょうネ。 


今日は、その正解の記念日・・・


 エアメールの日

なのだそうです。

今から105年前の今日・1911年2月18日、インドのアラハバードで開催されていた博覧会のアトラクションとして、会場から8km離れたナイニジャンクション駅まで約6,000通の手紙が運ばれたことに因むとか。

※但し飛行機による定期的な郵便の運送は、これから7年後の1918年5月から米国郵政省がワシントンD.C.~ニューヨーク間で始めたのが最初。

皆さんはこのエアメール(航空郵便)、出したり受け取ったことはありますか?

私の場合、出したことはないですが、受け取ったことは何回かあります。

普通の封筒とは違い、派手な縁取りがありましたから記憶に残っています。

       


この床屋さんみたいな赤・青・白の縞模様が採用されたのは何故なのか?

どうもこれは採用当時の国際公用語がフランス語だったため、フランス国旗・トリコロールの3色が選ばれたらしいです。

でも同時に英語圏であるイギリスのユニオン・ジャックやアメリカの星条旗も同じ色ですけどネ。


国際郵便約款第13条第3項には

『縁に色つきのしまがある封筒については、航空扱いとする郵便物にのみ使用すること』

と規定されていますから、まさにエアメール専用といって良いでしょう。

しかし実際は、この縞模様がなくてもエアメールは送れるんです。

封筒にPAR AVION (仏語) またはAIR MAIL (英語) で表に記載すれば、ちゃんと海外に届くそうです。

では逆にこの縞模様封筒は、国際郵便約款の規定がある以上、日本国内の普通郵便に使えないのか?

と思いがちですが、実は使えるんですって。

但しひとつだけ注意点が・・・上の写真の左上に印刷されているような“PAR AVION ” や “AIR MAIL ” という文字を消すか傍線を引くこと。

それを忘れると、航空郵便扱いにされて間違った部署に回され届くのが遅くなる場合があるそうな。

もしお手元にエアメール用封筒がある方は、国内のご友人に出してちょっぴり驚かせてみてはいかがでしょう?

もっとも今時は、国内外問わず電子メールを送る方が大半でしょうけど。ダメだ




異色作

言葉が分からないがために中々馴染めないのが、オペラ。

クラシック・ファンの私でもよく聴くようになったのは40歳過ぎてからですが、そんなオペラの中で最も日本人に受け入れやすい曲は、おそらくコレだと思います。

  蝶 々 夫 人
 Madama Butterfly

何故って、主役が日本人女性であり、舞台が長崎だから。

このイタリア・オペラの名作がミラノ・スカラ座で初演されたのが、今から112年前の今日・1904年2月17日のことでした。


          

               初演時のポスター

作曲は、イタリア・オペラの巨匠ジャコモ・プッチーニ。

※彼に関する過去記事は、こちら。(↓)
   http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11853613908.html


長崎に赴任してきたアメリカ海軍士官のピンカートンは、日本人男性の斡旋により蝶々という芸者と結婚。


しかし3年後任務を終えた彼は、蝶々夫人を残しアメリカに帰国。

彼の帰りをひたすら待ち続けた彼女の目の前に現れたのは、なんと彼がアメリカで結婚した妻でした。

そしてショックを受けた蝶々夫人が最期に取った行動とは・・・。

そんな悲劇の恋を描いたこの作品を、一度も日本に来たことのないプッチーニが、なぜ作曲出来たのか?

そのキッカケは、1900年に彼の作品『トスカ』が初演されるロンドンに赴いた際に戯曲『蝶々夫人』を観た事。

英語での上演だったため内容は分からなかったそうですが、何故かプッチーニはいたく感動し、以後3年の歳月をかけてオペラを書きあげました。


では、西洋人が何故日本女性や長崎の事を知り得たのか?

実は戯曲の原作者であるアメリカ人作家ジョン・ルーサー・ロングの実姉・ジェニーさんが、宣教師として来日し鎮西学館(後の鎮西学院)の第5代校長を務めたアービン・コレルの奥さんだったのです。

そのコレル牧師がアメリカ人船員と日本人女性の恋愛を目撃し、その話を聞いたジェニー夫人が弟に伝えた・・・といわれています。

そして蝶々夫人のモデルとして有力視されているのが、『グラバー邸』でお馴染みのイギリス商人トーマス・ブレーク・グラバー夫人のツルさん。(


           


彼女が蝶々夫人と同じく武家の出身で、蝶の紋付を好んで着たため〝蝶々さん〟と呼ばれており、彼女がご主人と暮らしていたグラバー邸が物語と同じ長崎湾を見下ろす丘の上にあったことなどが、その根拠なのだとか。

更にこのオペラの特徴としては、日本の音楽がちりばめられていること。

『さくらさくら』、『お江戸日本橋』、『かっぽれ』、『宮さん宮さん』そしてなんと『君が代』の旋律まで使われているというんですから、恐れ入ります。

これは当時の在イタリア公使夫人だった大山久子さんから、プッチーニが様々な日本文化について教えてもらった中で、彼女が持っていた日本の音楽の録音・楽譜を提供したおかげ。

まぁパクリといえばパクリですが、日本文化を西洋に紹介したということで大目に見てあげてください。

しかし、初演は大失敗に終わってしまいます。

やはり初めて接する和服などの日本文化を、イタリア人はすんなり受け入れられなかったのかも。

しかしプッチーニはすぐに手を加えて、3ヶ月後の公演では大成功。

その後も改訂が行われ、現在演奏されているのは1906年のパリ公演で使用された第6版だそうです。

それでは、日本の香りが漂うこの名作でも最も有名な『ある晴れた日に』を、20世紀最高の歌姫マリア・カラスの歌声でお聴きください。




実はこのオペラ、主役の女性歌手にとっては殆ど舞台に出ずっぱりで、しかも音程が低いため〝ソプラノ殺し〟と言われているそうな。

それを知って聴くと、一層切なさが増すかも・・・。


             
喚 問

『国会の各議院は、議案等の審査及びその他国政に関する調査のため、証人を喚問し、その証言を求めることができる』


この憲法第62条に定められた〝議院の国政調査権〟に基づき行われ、参考人招致とは違い証言拒否あるいは事実と違う証言を行えば偽証に問われる証人喚問


召喚された証人にとっては、非常に重圧のかかる場です。

過去何人もの政治家や会社役員などが国会に呼ばれ、中には緊張で手が震えて宣誓書にサインが出来なかった方もいましたネ。

数々の珍・迷証言が飛び出した国会の証人喚問ですが、私が今もって忘れられない証言はコレです。


 「記憶にございません。」


日本中を震撼させた〝ロッキード事件〟に絡み、国会に呼び出された国際興業社主・小佐野賢治がこの歴史的迷証言を発したのは、今からちょうど40年前の今日・1976(昭和51)年2月16日のことでした。

         
              

何を聞かれても、殆どこれに類する言葉でのらりくらり・・・当時この台詞は、巷で大流行。


先生から詰問された生徒が、「記憶にありません。」 と返して教室は大爆笑、先生はただ苦笑いするばかり・・・こんな光景は当時、全国の学校で見られたことでしょう。


しかし実はこの言葉、小佐野氏が元祖ではなく・・・アメリカでは既に、

I don't have any recollection about that.

                    (※ recollection = 記憶、回想 )


という言い回しで、議会の証人喚問や裁判でよく使われていたそうです。


戦後間もなくの1950年、〝徳田要請問題〟 に絡んでロシア語通訳を行った菅季治という学生さんが2度にわたって証人喚問を受け、その翌日に自殺を遂げたという悲惨な事例があったとか。


それだけ重い証人喚問の場が、この小佐野氏の発した魔法の言葉によってこれ以降は有名無実化・形骸化した感があります。

※小佐野氏はこの証言に関して翌年に議院証言法違反で起訴され、1981(昭和56)年に懲役1年の実刑判決を受けたものの即控訴。

結局1986年に亡くなったため控訴棄却となり、真相はうやむやのまま。

自宅に訳の分からないカード請求書が届き、奥さんから


「ちょっとアナタ、これ何ョ!」


問い詰められたら、


「記憶にございません。」


では絶対に許してもらえないはず。ダメだぁ顔


なのに国会でこの言い逃れが通用するなんて、釈然としません。


つい先日、あの絶叫元県議が法廷でこの台詞を連発したようですが、これを頻繁に使う証人・被告にはそれだけで何らかのペナルティーを課すことは出来ないものでしょうか?







仏 陀

世界三大宗教のひとつにして、約4億人もの信者を有するとされる 『仏教』。


今日・2月15日は、仏教の始祖であるお釈迦様、すなわち


  ゴータマ・シッダールタ

  Gotama Siddhattha


が入滅された日、といわれています。


お釈迦様は紀元前5世紀頃、シャカ族の王・シュッドーダナの男子として現在のネパール・ルンビニで誕生。


王子として裕福な生活を送っていましたが、人生に悩んだ彼は29歳で出家・・・苦行から瞑想を経て、35歳で悟りを開いたとされます。


そして旅を続けながら自らの覚りを人々に伝道、同時に多くの弟子を育て紀元前386年2月15日に80歳で入滅した、といわれています。(没年に関しては様々な異説あり)


現在、日本における葬儀の9割近くが仏式葬で執り行われていると言われています。

葬祭業に携っている私も、当然ながら仏教とは切っても切れないご縁が。


【仏式葬のミニ知識】

ご遺体を安置する際、〝北枕〟にする場合が多いのですが、これは
お釈迦様が入滅された時に頭を北に向けていたからであり、西でも可とされるのはお顔が西を向いていたから・・・という理由なんです。

しかし、生前のお釈迦様は経典を残すことを許さず口伝(暗記)によってのみ布教しており、入滅後多くの弟子たちが様々な宗派に別れて様々な経典を残しているため、お坊さんでない私がその全ての宗派について深く勉強することは無理なお話。あせあせ


それ故、奥深いこの宗教に関し拙ブログで説明することなど到底できるものではありませんが、日本人には身近である仏教に少しでも興味をもっていただくために、本日は漫画をお勧め致します。


それは、手塚治虫先生の代表作、


 『ブッダ』 (全12巻 潮ビジュアル文庫・刊


               ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-ブッダ


ちなみにこれ、弊社の研修指定図書として、いつでもスタッフが読めるよう会社に常置しています。


物語の中には架空の人物などが登場したりもしますが、お釈迦様の生誕から入滅までが大河ドラマの如く、ゆったりと語られて行きます。


「仏教」 という深遠なる大海の淵に立ち、その奥底を覗くキッカケになる漫画絵巻といえるでしょう。


私は初めてこの本を手に取った時、冒頭の


“一匹のウサギが旅人を助けようと食べ物を探したが見つからず、自らを食べてもらうために火の中に飛び込む(!)”


・・・という逸話を読んでからページをめくる手が止まらなくなりました。


そして一気に12巻の最後まで読み進んだ刹那、何故か涙が頬を伝っていた事を憶えています。


後折りに触れて何回も読み直しておりますが、そのたびに新しい発見や想いを巡らされる、まさしく〝超大作〟だと思いますョ。笑3

「いくら漫画でも、ちょっと分量が・・・」

という方には、もうひとつブッダ関連の書籍をオススメしましょう。

『ブッダとシッタカブッタ』 (小泉吉宏・著 メディアファクトリー・刊)

   

こちらのシリーズでは、かわいい豚さんが主役でブッダはあくまで案内役・・・ですが、何気に仏教のエッセンスを織り込んでいる、非常に読みやすいマンガ本です。


仏教に触れてみたい方、また人生の意義について悩んでいる方、是非一度手にとってみて下さい。


NOKINAWA

バレンタイン・デーなのに、全く甘くない話題で恐縮ですが・・・。

今月4日の拙ブログで、〝沖縄のジャンヌ・ダルク〟我那覇真子さんの著書をご紹介しましたが・・・今日はもう一冊、沖縄の真実を私たちに教えてくれる本をご紹介させていただきます。

タイトルは、ずばり

 『オキナワ論』 (新潮新書)

       


著者は、ロバート・D・エルドリッジ(Robert.D.Eldridge 氏。


彼は1968年生まれの政治学博士で、リンチバーグ大学卒業後、神戸大学大学院で日米関係史を研究するなど、25年以上日本で暮らしている日本通であり、沖縄通。

昨年まで在沖縄アメリカ海兵隊の政治顧問として沖縄問題に深く関わり、東日本大震災が起きた際には米軍の〝トモダチ作戦〟を立案した人物です。

しかし彼は昨年3月、米軍から政務外交部次長の座を追われてしまいました。

その理由は、「参謀長の許可なく、メディア関係者と接触した」というもの。 

これは米軍基地前で抗議活動を続ける沖縄左翼の違法行為を撮影した映像を公開したことが原因とされています。

その映像が、こちら。(



左翼活動家のリーダーが規制線を自ら超えて逮捕されていますが、信じられないことに地元の左翼2紙(琉球新報・沖縄タイムス)はそれを報じないばかりか、この映像を公開した米軍を非難し、結果的にその煽りを食った形。

ちなみに、彼ら左翼活動家が連日早朝から米軍関係者(車両)に向かって行っているヘイト・スピーチの様子は、こちら。(



「マリン、アウト!」などと大音量で日本を守る彼らに暴言を浴びせていますが、地元住民が抗議しても一向に止めようとしないこのヘイト・スピーチを、やはり地元2紙は 〝オール沖縄の声〟 と称し支援しているのです。

また彼らは辺野古で道路に寝そべったり工事現場入口にブロックを積み上げたりして作業を妨害・・・本土で同じ事をすれば即公務執行妨害で逮捕されるのに、なぜか沖縄では野放し。

こんなことを、いつまでも続けさせていて良いのでしょうか?

米軍を非難・威嚇・妨害し続ける日本人を、イザと言う時彼らは真剣に守ってくれるのでしょうか?

エルドリッジ氏は、同書の中でこう述べています。

          ◆     ◆     ◆     ◆

私がしばしば“NOKINAWA ” (※反対しか言わない沖縄、という意味の合成語)と呼ぶのは、沖縄では何かにつけて日本政府やアメリカに「反対」するのが、ひとつの文化になっているからです。

2014年12月に翁長県政がスタートして以降は、ますますその度合いがエスカレートしていて、喧嘩腰というのか、まはや常識では理解不能な領域に入りつつあります。

特に、正確性も中立性も欠いた地元メディアの暴走は、民主主義を支える報道機関としての存在価値まで危ういものにしています。

おそらく本書に関しても、沖縄メディアやその周辺から「沖縄差別だ」「沖縄ヘイトスピーチだ」という声が挙がることでしょう。

私は自らの主張に対して反論があることを拒否しません。

しかし、具体的な事実誤認を指摘するのではなく、感情論や印象論でレッテル貼りをするような言論には価値を認めません。

批判のある方は、あくまで個別の事象に関する事実についてご指摘いただきたいと思います。

          ◆     ◆     ◆     ◆

またアメリカ人(軍)からみれば、普天間基地は〝危険〟ではなく〝貴重〟な存在であり、騒音は飛行機よりセミの鳴き声の方がうるさいくらい・・・という、普天間基地のすぐそばで暮らしている彼の意見は、マスコミから伝わってくる情報とは、かなり乖離しています。

そもそも普天間基地が最初に作られ、その後基地周辺に住民が移り住んできたのですから、「基地は出ていけ」というのはおかしな話。

私たち日本人の中で常識化している〝普天間基地は世界一危険〟というのもその根拠が全くない(マスメディアによる)レッテル貼りだという事実に、驚かされます。

更には辺野古移転が決定する前に〝勝連構想〟と呼ばれる移転案があり、そちらの方が米軍にとっても経費面からみても遥かに有益だということを、私は本書で初めて知りました。

最後にエルドリッジ氏が立案したトモダチ作戦の画像をご覧いただき、またこの書籍をお読みいただいた上で、マスメディアの報道と彼の主張のどちらに真実があるかをご判断ください。

どちらを支持すべきかは、明白だとは思いますが・・・。



※なおご紹介した書籍は、現在アマゾンにて在庫切れの状況です。
お近くの大手書店に在庫をお問い合わせください。

どんぐり

今日は、中高年世代の方なら皆さんご存じであろう、日本を代表する探検家・登山家、

 植村 直己

の命日・三十三回忌にあたります。

但し厳密に言うと、これは推定・・・なぜなら、この日に無線交信が途絶え、何らかの事故に遭遇し行方不明になった、とされているから。

         



1941(昭和16)年に現在の兵庫県豊岡市で農家の末っ子に生まれた植村少年は、地元出身の登山家・加藤文太郎氏に憧れて、早くから但馬の山々に登り始めたといいます。


1960(昭和35)年に明治大学農学部に入学して山岳部に入部すると登山に没頭。

当初はよく転ぶことから〝どんぐり〟と渾名された彼でしたが、黙々と全国の山々に登って修練を積み、最上級生の時にはサブキャプテンを務めます。

どちらかというと主役よりも黒子役が性に合っていた地味で朴訥として性格だったそうですが、結果的にそれが彼に幸運を呼び寄せました。


大学卒業後、就職に失敗した彼は渡米。

不法就労で登山費用を稼ぐという綱渡りの生活を続けながらも、1966年にはマッターホルンやキリマンジャロの登頂に成功。

そして1970年5月、日本山岳会が創立65周年事業として企画したエベレスト登頂隊に参加した植村氏は、当初荷揚げやルート工作要員だったものの、抜群の体力を認められ第一次アタック隊に抜擢。

見事日本人初のエベレスト登頂に成功しました。

その3ヶ月後にはマッキンリーも征服、これにより世界初の五大陸最高峰制覇を達成。 その名を世界に知らしめました。

        


その後国際隊に加わり再度エベレストに挑むも失敗・・・こんな経験の中から、植村氏はチームでの登山に疑問を持ち、次第に単独行動に傾倒していったとか。

そして1974年12月から1年半かけて北極圏12,000kmの犬ぞり探検に成功すると、その4年後には人類初の犬ぞりによる単独北極点到達に成功。

日本人として初めてナショナル・ジオグラフィックの表紙を飾りました。

しかしその後はエベレスト厳冬期登頂や南極点への犬ぞり探検をそれぞれ諸事情により断念。

そして1984(昭和59)年、43歳の誕生日であった2月12日に世界初の冬季マッキンリー単独登頂を成功された植村氏は、下山中の翌日に交信を絶ってしまったのです。

「冒険は生きて帰ってくるのが絶対、何よりの要件」だと生前語っていた植村氏は、その日以来母国に帰ってくることはありませんでした。

消息不明になってから約2ヶ月後に国民栄誉賞を受賞しましたが、遺族はどんな思いでこれを受け取ったのでしょう・・・。


実は私、彼に助けられたことがあるんです。

高校生時代から植村氏の大ファンだった私は、彼の著作や記事を読み漁っていました。

そして 「浪人しても、学費は4年分しか出さないからナ!」 という父親からのプレッシャーで緊張しまくりの大学受験を迎えた私にとってラッキーだったのは、2校目の最初の科目・英語で、その植村氏に関する問題が出題されたんです。

例文を殆ど読まずに回答が出来たことで心理的に余裕が生まれた私は、その後の受験もスムーズにこなすことができたのです。

正直、植村氏のおかげで浪人生活をせずに済んだ・・・と、今でも感謝しています。

そんな植村氏の遺品などを展示した記念館は全国に何ヶ所かありますが、実は弊社の事務所から徒歩5分の板橋区蓮根2-21-5に、『植村冒険館』(月曜休館・開館時間は10~18時)があるんです。

※同館のHPは、こちら。(

      http://www.uemura-museum-tokyo.jp/


植村氏が15年間板橋に住んでいたことから作られたというこの記念館・・・三十三回忌の今日、久々に足を運んでみようと思います。

皆さんも板橋区にお越しの際は、是非お立ち寄りください。

如何にシンプルな装備で植村氏が命懸けの冒険を続けていたかを知って、きっと驚かれることでしょう。

いつかご遺体が発見され日本に帰国できる日が来ることを願いつつ、冒険王のご冥福をお祈り致します。笑3


白 髪


あなたが最も好きな歴史小説家は誰ですか?・・・と問われたら、多くの方はこの人の名を挙げることでしょう。


 司馬 遼太郎 


今日は、この白髪がトレードマークだった作家の命日・没後20周年にあたります。


司馬(本名:福田定一)氏は、関東大震災のあった1923年、大阪市に生まれました。


乳児脚気により3歳まで母親の実家に預けられていたそうですが、小学校に上がってからは悪ガキぶりを発揮し、意外にも勉強嫌いだったとか。


しかし中学時代に井伏鱒二の著作に感銘を受けてからは図書館通いするほどの読書好きとなり、大阪外国語大学卒業まであらゆる分野の書籍を乱読・・・これが将来作家となった司馬氏を大いに助けることとなります。


1943年、学徒出陣により兵庫県の戦車第十九連隊に配属、翌年満州戦車学校へ。


そこでの成績が良かったことで久留米に戻れたことが彼の命を救いましたが、同時にこの時の戦争体験から

「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に生まれたのだろう? 
いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」

という疑問を持ったことが、作家活動の原点になったといわれています。


終戦後、2つの小さな新聞社勤務を経て1948年に産経新聞社・京都支局に入社。


同社での記者時代に湯川秀樹氏ら京都学派の学者をはじめ多くの人々との出会いがあったことも、後の大きな財産になりました。


30歳を過ぎたら小説を書こうと思っていた司馬氏は、1955年に、『名言随筆・サラリーマン』 を本名で発表。 

更に翌年の 『ペルシャの幻術師』 が海音寺潮五郎氏に絶賛され、講談倶楽部賞を受賞。


そして1960年、『梟の城』 で直木賞を受賞すると産経新聞社を退職、作家として独立します。


          ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-司馬遼太郎


〝司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(その代表的名前・太郎)〟に由来する司馬遼太郎というペンネームで当初は推理小説も発表したものの、『竜馬がゆく』・『国盗り物語』 などを次々新聞紙上で連載し、1966年に菊池寛賞を受賞したあたりで、史小説家としての地位を確立。


1981年に日本芸術院会員、1991年に文化功労者、そして1993年に文化勲章を受賞。


1996年2月12日、腹部大動脈瘤破裂により72歳で生涯を閉じるまで、数多くの長編小説・エッセイを世に遺しました。


司馬氏の作品は、概ね主人公を好意的に捉え合理主義に信頼を置く作風ですが、一方で軍神と崇められていた乃木将軍の力量に疑問を投げかけるなど、独特の歴史感があります。


その〝司馬史観〟をどう見るかは皆さんの判断に委ねますが、その作品は従来の娯楽性が強い歴史小説とは次元の違う、本格的歴史資料と位置づけてよいのではないでしょうか。


それまで殆ど取り上げられることのなかった坂本龍馬を一躍幕末のスターにしたのも氏の作品がきっかけですし、NHK大河ドラマの原作としては(番組オリジナル作品を除いて)最も多い6作品が取り上げられていることも、その証左といえましょう。


その裏打ちとなっているのは、司馬氏の膨大な資料収集と調査能力


新聞記者出身らしく話し上手・聞き上手で〝座談の名手〟と呼ばれ、多くの人脈を持つだけでなく、ひとたび資料集めとなると軽トラックで古本屋街に乗りつけて、数千万円(!)単位で根こそぎ買い取ったとのこと。驚き顔


そしてそれらを読みこなす速さも超人的・・・友人と歓談していた時、その友人がコーヒー1杯飲む間に話をしながら文庫本1冊を読破する程だったといいます。


司馬氏の頭脳は、私のような凡人には考えられないような広大な宇宙が広がっていたんでしょうネ。


さて、皆さんが最も好きな氏の作品はなんでしょうか?


私は膨大な著作のごく一部しか読んでいませんが、その中では 『坂の上の雲』 かなァ。



紀 元

今日・2月11日は、


  建国記念の日


これが〝国民の祝日〟として制定されたのは1966(昭和41)年・・・つまり今年が50周年の節目となります。

でもこの祝日が、他の祝日とは少々性格が違うことをご存知でしょうか?


それは、正式名称がとかく世間で使われる 『建国記念日』 ではなく、『建国記念日』 であることに表れているのですが・・・。


「建国をしのび、国を愛する心を養う」 という趣旨により1967年から適用されたこの祝日は、他の祝日が 『祝日法』 において日付を定められているのに対し、この日だけは 〝政令で定める日〝 と規定されているのです。


元々2月11日は、嘗ての祝祭日である 『紀元節』 でした。


これは日本書紀に記された初代・神武天皇の即位が旧暦の紀元前660年1月1日であり、それを新暦に直すと2月11日になることから制定されたもの。


          ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草


しかしこれが1948年、GHQの指導により廃止。


その後与党・自民党から 『建国記念日』 として復活させる法案が提出されますが、社会党ら野党は「神武天皇即位日は、科学的根拠が薄い」等々の理由で反対。


その後法案の提出・廃案を9回も繰り返した末、間に〝の〟を入れ 「建国されたという事象そのものを記念する日」 ということで妥協が成立。


祝日が、『紀元節』 から 『建国記念の日』 と名称を変えて復活した・・・というわけです。


この祝日の制定については現在においても賛否両論がありますが、私はその日付の選択基準はともかくとして、国家には建国の記念日は不可欠であると考えます。


現に他国の殆どは建国記念日を制定していますし。

(名称は独立記念日・解放記念日等、様々ですが・・・。)


その記念日を制定し国民全員で祝うことが、国家・民族に対する誇りを持つ第一歩であり、歴史を振り返る契機なのですから、当然だと思います。


ただ我が国の場合、他国のように独立宣言をした日などと明確なものでなく、神話に基づくところが独特。

(※神話に基づく記念日を制定しているのは、他に韓国のみ。)


でも私は、それで一向に構わないと思います。


何故なら、それは見方を変えれば我が国が他国にない長い歴史を持つ独立国であるというひとつの証しになるから。

神武天皇即位の年を元年として換算すれば、今年・2016年は 『皇紀2676年』。


少なくともひとつの皇室がこれだけ長期にわたって存続してきた国家は、日本をおいて他になし。


(※よく中国四千年の歴史といいますが、その間何度も支配する皇帝や民族が変わっていますから、日本とは比較になりません。)

おそらく日教組に属する教師は学校でこの歴史や経緯を教えていないでしょう。

単に 「祝日でラッキー」 と思うだけではなく、親御さんはお子さんたちに祝日の制定経緯と同時に我が国が稀に見る長期的安定国家・民族であることを教えていただきたいものです。


「この国に生まれて、そして日本人で良かった!」


そう子供に思わせることは、躾のひとつであり親の義務のはずですから。扇子





子 役

芦田愛菜ちゃんや寺田心くんなど、今までお茶の間で人気を博した子役は何人もいますが、おそらくこの人ほど長きにわたって多方面で活躍した方はいないでしょう。 

と言っても、若い方はピンとこないかもしれませんが・・・今日は、その

 シャーリー・テンプル 

  Shirley Jane Temple


の命日・三回忌にあたります。


銀行員だった父の3番目の子(兄2人)として1928年にカリフォルニア州サンタモニカで生まれたシャーリーは、小さい時から音楽なダンスが大好き。

それを見た母親がメグリン・ダンス学校に入学させると、4歳の時から短編映画に10本以上も出演。

栴檀は双葉より芳しということでしょうか・・・彼女に目を付けたフォックス・フィルム(現・20世紀フォックス)が彼女と7年契約を結び 『歓呼の嵐』の準主役として出演、高い評価を受けます。


        


その後主役として 『可愛いマーカちゃん』・『ベビイお目見得』 に主演すると、これを観た当時のF・ルーズベルト大統領が

「大不況の最中、国民が映画で見るシャーリー・テンプルの笑顔に励まされ苦労を忘れられることは素晴らしい。」

とコメント。 彼女は僅か6歳にして映画界の大スター・・・というよりも、アメリカの救世主となりました。


撮影前に登場人物全てのセリフを暗記し、決してNGを出さず1回の撮影で監督を満足させ、しかも遅刻せず予定より早めにスタジオ入りしたという、驚くべきこの天才子役は、同年にアカデミー賞特別賞を受賞。

彼女のために特別に小さなオスカーが用意されたそうですから、如何に人気があったかがうかがえます。

※ちなみにこの6歳の受賞はアカデミー賞の最年少受賞記録として未だ破られていません。


フォックス社の大物プロデューサー、S・ゴールドウィンは 「シャーリーはいくつになっても素晴らしい才能を発揮するだろう」 と予言したそうですが、それは見事に的中。

その後 『シャーリーの~』と冠せられた映画シリーズに何本も主演し、ゲーリー・クーパーら一流俳優と共演した彼女は大統領やFBI長官らと会うほどになり、子役だけでなく10代の若手女優としても活躍。

         



17歳の時に、大手食品メーカー創業者の孫で同級生の兄だった軍人と結婚。

しかし夫の性格と酒癖に問題があり、結婚生活は僅か4年余りで破綻。

その後時を経ず、彼女は1950年12月にチャールズ・ブラック海軍少佐と再婚。

この際フーバーFBI長官は国民的ヒロインが2度と結婚に失敗しないよう部下に徹底した少佐の身上調査を命じたそうですが、その結果問題なしと判明。

そんなお墨付きをもらったブラック少佐ですが、12年間映画を観なかったために彼女が大スターであることを知らず。

またシャーリーも彼が大企業パシフィック・ガス電機会社々長の次男だったことを知らなかったことで、後に〝おとぎ話のよう〟と言われたこの結婚は、2人に末永い幸せをもたらしました。


3人の子宝に恵まれた彼女は育児に専念。

末娘が3歳になって手がかからなくなると、主婦業の合間を縫って1958~61年にかけ当時の一流スターをゲストに迎えた子供向け番組 『シャーリー・テンプル・ストーリーブック』と『シャーリー・テンプル・シアター』 のホスト役兼主役として出演。


         


更に1980年代に入ると、彼女が子役として出演していた映画がカラー化されてテレビで再上映され、こちらも高い視聴率を記録。

現在でもクリスマス当日に彼女の作品が流され続けているといいます。

そんな彼女の活躍は、映画界だけに留まりませんでした。

小さな時から大統領や有力政治家と交流のあった彼女を政界が放っておくわけはなく、結婚後共和党の活動に参加していた彼女は、同党が政権を獲っていた時期に国連代表メンバーや人権問題などのアメリカ代表として会議に参加。

1974~76年にかけて駐ガーナ大使を務めた他、エジプトとイスラエルの和平や中国の国連加盟に尽力し、その功績を以って1987年にはアメリカ史上初の名誉外交官の称号を授与されています。

単なるお飾りではなかったことが、これでお分かり頂けるでしょう。

         



また実業界においても、かつて父親が勤務していたカリフォルニア銀行やバンク・オブ・アメリカ、更にはデルモンテやウォルト・ディズニー・カンパニーの重役も務め、実績を上げた彼女が85歳で天に召されたのは、2014年2月10日。


その日、アメリカ全土は深い悲しみに沈んだといいます。

単なる子役だけで終わることなく、映画界・政財界で長く活躍したアメリカン・ヒロインの冥福を、あらためてお祈り致します。

さぁて、これから何十年か先・・・芦田愛菜ちゃんが外交官や政治家として活躍する日がやってくるのでしょうか?あせあせ