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隻 脚

今日は、大東亜戦争前後・・・激動の昭和前期に於いて活躍した、というより敗戦国・日本の方向性に大きく影響を及ぼした外交官であり、外相も務めた


  しげ みつ  まもる

 重 光 葵 


の命日にあたります。

名前だけでピンとこない方も、戦艦ミズーリの甲板上で日本全権として降伏文書にサインした人物・・・といえば、お分かりになるでしょう。

       
             
重 光 葵 氏(左の山高帽)


1887(明治20)年に現在の大分県豊後大野市に生まれた重光氏は、旧制五高から東京帝国大学法学部へと進学した秀才。

大学卒業後外務省入りすると、在独・在英公使館の書記官、在シアトル領事を経て、1930(昭和5)年に在華公使に。

その翌年に満州事変が勃発すると、彼は外交努力によってこれ以上の衝突を回避しようと奔走、1932年には第一次上海事変の停戦交渉をまとめ上げます。

しかしその直後の同年4月29日、上海で開催された天長節祝賀式典に出席中、朝鮮人の爆弾テロに遭遇。

爆弾が投げ込まれた時、たまたま 「国歌斉唱の最中だったためその場から逃げなかった」 という重光氏は被爆し、後に右足を切断する重傷を負い、上の写真の通り以後彼は杖を手放せなくなってしまいます。

(この時、重光氏以外の日本人も皆同様の理由で動かなかったそうです。
 君が代を歌わない、起立もしないという今時の不敬な教師なら、真っ先に逃げたことでしょう。)

その後駐英・駐ソ公使を歴任し、本国に 「日本は欧州戦争に介入してはならない」 と盛んに打電したものの、政府はその意見を黙殺・・・遂に真珠湾攻撃により開戦。


東條・小磯内閣で外相を務めた重光氏は敗戦直後の東久邇宮内閣でも外相に再任された彼は、自らは反対し続けた戦争の敗北を認める署名をする役目を負うことに。

 『願わくば お国の末の 栄え行き 吾名さげすむ 人の多さを』

降伏文書に調印した自分のような恥ずべき外相が、将来は蔑まれるような栄えある日本になってほしい・・・そんな思いを込めた和歌を残してミズーリの甲板に向かい署名をしてホテルに戻った重光氏は、耳を疑うような話しを聞きました。

それは、マッカーサーが日本に軍政を敷き、かつ英語を公用語化しようとしている・・・というもの。

翌日重光氏はマッカーサーの許を訪ね、「占領軍が軍政を敷き直接行政の責任を取ることは、日本の主権を認めたポツダム宣言に反する」 と強硬に反対。

粘り強い交渉の結果、遂にマッカーサーは布告を取り下げたのです。

この結論に至るまでには紆余曲折があったのですが、もし重光氏なかりせば私達は今頃英語で日常生活を送っていたかもしれません。

開戦に反対していながら極東軍事裁判でA級戦犯として有罪判決を受け、巣鴨プリズンで7年収監された重光氏について、同じく収監されていた右翼の大物・笹川良一氏は自著でこう語っています。

「1本足の重光氏にとって、監獄の生活がどんなに不便で不自由であるかを察して、僕は本当に痛々しいと思った。

ところが重光氏は平気の面持ちで、実に悠然たるものであった。

同氏は平然として澄み切った心境を持しておられるものと見受けられた。」

中にはエゴを丸出しにして周囲の顰蹙を買った戦犯もいたといいますから、その態度は実に立派・・・まさにジェントルマンと言えるものだったようです。

公職追放解除後は、衆議院議員に3回当選。

吉田茂氏と総理大臣の座を争うなど政界の中心で活躍した重光氏は、1955年の自由民主党結党に参画。

以後鳩山内閣で外相を務め、ソ連との交渉を担当。
日本の国連加盟に反対しない旨の内諾を取り付け、1956年12月18日に国連総会は全会一致で日本の加盟を承認。

その5日後に鳩山内閣は総辞職したことで、重光氏も外相を辞任。

大役を果たしてホッとしたのでしょうか・・・その僅か1ヶ月後の1957年1月26日、狭心症の発作を起こした彼は、69歳でこの世を去りました。

重光氏の外交活動を振り返る意味で、私はこの自著をオススメします。

 『昭和の動乱』 上・下 (中公文庫) 


     



巣鴨プリズン収監中に書き下ろしたという、この戦争前後の外交に直接関わったご当人の回想録は、貴重な歴史資料・証言といえましょう。


「自分は、未だかつて弱腰で外交交渉をしたことがない」

という重光氏の言葉、現在の政府・外務省に是非聞かせたいもの。


また同書の中で、重光氏はこう記しています。


「日本人は健忘症である。

第一次近衛内閣が何をしたか、また、日本のためにいかなる存在で会ったか、は、さらりと忘れてしまっていた。

日本人の政治的責任感は、遺憾ながら一般的に薄い。

政治は結局国家の仕事であり、すなわち国民の責任であることは、未だ十分に自覚されておらぬ。

政治家もいったん辞職すれば、責任は解除せられるものと、簡単に考えている。

日本人は、政治を見ること、あたかも芝居を見るがごとく、鑑賞はしても自分自身が役者の1人であり、自ら舞台の上にあることを悟ってはいない。

いかに手際よく、その日の舞台劇をやって見せるかに腐心するのが、また政治家であって、国家永遠のことを考え得るの余裕を持つ者が少ない。」

この指摘は、戦後70年を経た今でも当たっていると言わざるを得ません。

命かげで日本の外交を支え、戦後日本の危機を身を挺して救った隻脚の硬骨漢のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3



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