FC2ブログ
Five angels

少子化の現代、子供が2人いるご家庭すらあまり見かけなくなりましたが、今からちょうど40年前の今日・1976(昭和51)年1月31日・・・日本中が喜びに沸いたビックな〝おめでた〟がありました。 それは、


 五つ子ちゃん誕生


どうしても子供が欲しいと願った奥様が排卵誘発剤を使用した結果、鹿児島市立病院で〝5卵性〟という世界でも大変珍しい〝5人の天使〟が誕生したのです。


たった9分間で一気に生まれたそうですが、一番大きい長男で1,480g、一番小さな女の子は僅か990gという、超未熟児の2男3女。


日本で初めての快挙、しかも当時はロッキード事件の影響で暗い世相だったこともあり、国民的慶事として大きく取り上げられました。

       

       


京都・清水寺の大西良寛管主(当時100歳)が名付け親となり、観音経・観音妙智力から文字を取って5人に名をつけるという大騒動。 


(しかしこれ、両親からするとどんなもんだったんでしょうねェ。 我が子の名前を付けられなかったご両親にとってはか小さな親切・大きなお世話だったかも?)冷や汗


ご主人に 「よく頑張ったな。」 と声をかけられた奥さんが、「ちょっと頑張りすぎたかしら?」 と答えたというエピソードが、何とも微笑ましく印象的でした。笑2

一気に5人の父親になったのは、当時三木首相番だったNHK記者の山下頼充氏で、手取りは16万円余り。



当時は5人全員が大学卒業するまで約9,500万円かかると試算されましたが、莫大な育児・教育費を捻出するのは、さぞ大変だったことでしょう。

某食品メーカーから、ミルク1年分提供の申し出があっても、NHK職員という立場上それをお断りしたなんてこともあったそうですから。


またNHK職員だったゆえ、五つ子ちゃん情報は頻繁に報道されました。


同局は、その後彼らが小学校に入学するまでを克明にカメラで追い、毎年特集番組を制作していましたネ。() 


      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-五つ子ちゃん


それまでは取材する側だったのに、一夜にして取材される側に回ってしまった山下氏・・・後日、

「取材する人間だから取材したい気持ちは痛いほどわかる。

でも子供たちをあまりカメラの前に晒したくない。」


と語っておられますが、その辛い気持ちは良く分かります。

(実際子供たちが30歳になった時、再びNHKからあった取材依頼を断ったそうな。)


それでも5人はスクスクと成長、長女は東大に合格したという報道もありました。

今日、その彼らは40歳の誕生日を迎えます。 


早稲田を出た長男は現在読売新聞の記者をされており、また立教卒の次男は母方の実家の跡取りとして養子に入っているとか。おそらくそれぞれに家庭も持ち、幸せに暮らしていらっしゃる・・・そう信じたいところです。


彼ら5つ子たちには今一度取材を受けていただき、社会人として立派に生活しているところを全国に報告していただければ、安心して子供をもうけるご夫妻が増えるのでは?

・・・私はそう思うのですが、いかがでしょう。扇子





スポンサーサイト



鬼 母


最近は、我が子を虐待するばかりか、殺してしまう母親がいますが・・・昔は、こんな鬼母がいました。

          ◆     ◆     ◆     ◆

少年は両親の愛情をいっぱいに受けて育てられた。
殊に母親の溺愛は近所の物笑いの種になるほどだった。

その母親が姿を消した。
庭に造られた粗末な離れ。 そこに籠ったのである。 

結核を病んだのだった。

近寄るなと周りは注意したが、母恋しさに少年は離れに近寄らずにはいられなかった。

しかし、母親は一変していた。

少年を見ると、ありったけの罵声を浴びせた。
コップ・お盆・手鏡と手当たり次第に投げつける。

青ざめた顔、長く乱れた髪・・・荒れ狂う姿は鬼だった。

少年は次第に母を憎悪するようになった。
哀しみに彩られた憎悪だった。

そして少年の6歳の誕生日に、母は逝った。

「お母さんにお花を」と勧める家政婦のおばさんに、少年は全身で逆らい決して柩の中を見ようとはしなかった。




父は再婚した。 少年は新しい母に愛されようとした。
だが、だめだった。 
父と義母の間に子供が生まれ、少年はのけ者になる。


少年が9歳になって程なく、父が亡くなった。 やはり結核だった。
その頃から少年の家出が始まる。


公園やお寺が寝場所だった。 
公衆電話のボックスで身体を二つ折りにして寝たこともある。

そのたびに警察に保護された。

何度目かの家出の時、義母は父の遺品を処分し家を畳んで蒸発した。

それからの少年は施設を転々とするようになった。
13歳の時には知多の少年院に入る、いっぱしの札付きだった。

ある日、その少年に面会者が現れた。
泣いて少年に柩の中を見せようとした、あの家政婦のおばさんだった。

彼女はなぜ母が鬼になったかを話した。
死の床で、母はおばさんにこう伝えたと・・・。

「私は間もなく死にます。 あの子は母親を失うのです。
幼い子が母と別れて悲しむのは、優しく愛された記憶があるからです。
憎らしい母なら死んでも悲しまないでしょう。

あの子が新しいお母さんに可愛がってもらうためには、親だ母親なんか憎ませておいた方がいいのです。
その方があの子は幸せになれるんです。」

少年は話を聞いて呆然とした。

自分はこんなに愛されていたのか。
涙がとめどもなくこぼれ落ちた。

札付きが立ち直ったのは、それからである。

                   『心に響く小さな5つの物語』(致知出版社・刊)より





不透明

どの業界にあっても、長くその仕事を続けたり大きな実績を残された方には、叙勲などで名誉が与えられます。

スポーツ界に於いては、〝殿堂入り〟がそれに当たるといえましょうか。

そのルーツともいうべきものに

 野球殿堂


があります。


本家・アメリカでタイ・カップ、ベーブ・ルース、ウォルター・ジョンソン、ホーナス・ワグナー、クリスティ・マシューソンという錚々たる5人の名選手が初めてその野球殿堂入りを果たしたのは、今からちょうど80年前の今日・1936年1月29日のことでした。

ただこの時には、アメリカ野球殿堂博物館 (National Baseball Hall of Fame and Museum )はなく
、ニューヨーク州クーパーズタウンに建設されたのは、3年後・1939年のことでしたが・・・。

   

現在まで、この博物館に名前を刻まれているのは累計で投手77人、野手167人。

また選手だけではなく、監督23人、審判員10人、更に野球発展功労者として33人も含まれています。


殿堂入りの対象となるのは、メジャーリーグで10年以上プレーし、引退後5年以上経過した選手。


その中から毎年25~40人の候補者が対象となり、投票によって選ばれるのですが・・・実は長年野球に携わってきた選手や関係者に取っ手名誉なはずの殿堂入りの選考方法に公平性が欠ける、という批判が以前からあります。

それは、投票権を持つのが、全米野球記者協会に10年以上所属する記者であること。

彼らが毎年候補者の中から最大10名を選び投票し、75%以上の得票を得た者が殿堂入りできるのですが、逆に5%以下の場合はもう殿堂入りの可能性が絶たれます。

つまり記者たちとの人間関係が良くないと、たとえ実績があっても選ばれない可能性があるのです。

更に得票を得た候補者は、更にベテラン委員会の審査にかけられるのですが、ここでも過去に委員の出身チームから集中して殿堂入りした選手が出ています。

そういう批判が強まったことから、ここ数年では委員会のメンバーを定期的に変えるなど、殿堂入りの選考は改良されています。

ただし、これはあくまでアメリカでの話。

日本の殿堂入りの選考は、15年以上野球報道に関わった者(約300人)が30人の候補者から7人までの連記で投票し、全体の75%以上の得票で選ばれる仕組み。

つまりアメリカ以上に記者の感情や好き嫌いで投票行動が変わってしまうのです。

それ故、過去にはかつて三冠王を3回も獲得した落合博満氏が2回も落選したり、原辰徳・前巨人軍監督が昨年落選し選手部門での殿堂入りの可能性が絶たれるなど、首を傾げなくたくなるケースが散見されます。

プロ野球は、ファンあってのもの。

オールスター出場選手もファン投票で決めているのですから、選手にとって一生の名誉となる殿堂入りも、全てとは言わないまでもファン投票を反映させるべきではないでしょうか?

ゴルフ世界殿堂には既に樋口久子・青木功・岡本綾子・尾崎将司の各氏が入っていますが、アメリカの野球殿堂入りした日本人選手は、金網フェンスによじ登ってホームランボールをキャッチするという超ファインプレーを披露した、阪急・山森選手ただ一人。

 ※山森選手に関する過去記事は、こちら。(↓)
   http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11932742318.html

現在でもクーパーズタウンの博物館では、彼のスーパーキャッチ映像が流されているそうですが・・・果たして第2号の殿堂入りを果たすのは、松井秀喜氏? イチロー選手? それとも、野茂英雄氏?

皆さんは、誰だと思いますか?扇子




火炎光背

毎月28日は 『お不動様』 などと呼ばれ、人々に親しまれている


 不動尊(不動明王)


の縁日です。


縁日は〝会日〟ともいい、恒常的に催される仏会の日・・・という意味なのだそうな。 


特定の神仏と人々が縁を結ぶ日、というわけですネ。


縁日に参詣すれば普段に勝るご加護があると信じられており、元々は年1回だったものの参詣人が増えたことで月1回になったとか。


では何故お不動様の縁日が28日なのか?


・・・実はこの理由、よく分かりません。


いくつかの不動尊に電話で問い合わせたのですが、いずれも 「さあ~?」、「昔からそうなんですょねェ」 というつれない回答ばかり。ダメだぁ顔


もしご存じの方がいらっしゃいましたら、是非ご教授ください。  


さてこの不動明王は、ヒンドゥー教の最高神・シヴァ神が起源といわれ、密教に於いては大日如来の化身であり、明王の中の主尊とされています。


         


不動明王は一切の煩悩や悪魔を降伏させるべく怒りの相を現しています。


眼を怒らせ、両牙を出し、右手に降魔の三鈷剣・左手に羂索(けんじゃく=投げ縄)を握り、背中に迦楼羅焔(かるらえん)を背負うのが一般的なお姿。


火生三昧(かしょうざんまい)と呼ばれる炎の世界に住まわれ、人間界の煩悩や欲望が仏界に波及しないよう聖なる炎で焼き尽くすと言われることから、炎の神力を以て祈願を行う護摩法要には、不動明王が本尊として据えられるのだそうです。


今日・1月28日は一年で最初の縁日・・・〝初不動〟と言われ、各不動尊では護摩焚き法要などが盛大に行われます。


関東では


◆ 成田山新勝寺(成田不動尊) 千葉県成田市 (※上の画像)


◆ 高幡山金剛寺(高幡不動尊) 東京都日野市


◆ 玉嶹山總願寺(不動ヶ岡不動尊) 埼玉県加須市


が三大不動といわれています。 


その他にも目黒不動尊・深川不動尊など、各地に不動明王を祠る寺院がありますから、今日は一年の無病息災を願って、お近くの不動尊にお参りに行かれてはいかかでしょうか?笑3





移 民

嘗ては日本人にとって憧れの〝南国の島〟だった、ハワイ。

今や年間150万人近くが日本から訪れるという、国内旅行と同じくらいポピュラーな観光地になっています。

日系人が多く住んでいることも知られていますが、その多くの先祖は移民でした。

日本・ハワイ双方の合意により、第一号の官約移民944名(成人男性682名、成人女性164名、子供98名)がハワイに向けて横浜港を出港したのが、今から131年前の今日・1885(明治18)年1月27日のことでした。 故に今日は、

 ハワイ移民出発の日


なのだそうです。

ハワイでは1850年に外国人の土地所有が認められ、白人投資家がこぞって同地にサトウキビ農場を設立。

1860年代には砂糖産業が急速に発達すると同時に、地元住民だけでは労働力が不足するように。

そこでハワイ王国は各国に移民受け入れの打診を行い、日本もその要請を受け入れて1885年1月に日布移民条約を締結し、ハワイへの移民を募集。

当時は全国的な凶作だったこともあり、全国から応募が殺到・・・当初の募集600名に対しなんと28,000名の応募があったとか。

※しかし選ばれた944名を出身地別にみると、山口県だけで420名(44%)、広島県で222名(23%)と全体の7割近くを占め、その他も西日本出身者が多かったとか。
これはこの移民政策を取り仕切ったのが長州出身の井上馨だったことが影響していたといわれています。


政府が斡旋(官約)し、〝3年で400円稼げる〟という好条件だったため、1894(明治27)年に官約移民が打ち切られるまで、26回・約29,000人が南の島に夢を託して渡航。

更にその後は民間業者による移民斡旋が続けられ、1924(大正13)年に排日移民法が成立するまでに累計約22万人もの日本人が海を渡ったといいます。


しかし常夏の島での農作業は過酷を極め、移民たちは現場監督にムチで打たれながら1日10時間労働・週休1日の労働に耐えなければなりませんでした。

     

上の写真は1920年の日本人移民たちを撮影したものだそうですから、おそらく移民開始当初はもっと酷い身なりだったのかもしれません。

3年間頑張っても思ったような貯金も出来ず、戻るに戻れない移民もいたり、中にはより良い条件を求めてアメリカ本土に渡る人もいたとか。

そんな先人の苦労を描いた映画があります。

『ピクチャーブライド(Picture Bride )』(1994年 アメリカ)


       

(工藤夕貴さん演じる)主人公のリヨが、両親を亡くし写真だけを頼りに:結婚を夢見てハワイに渡航・・・しかし待ち受けていたのは、父親とほぼ同い年男性。

慣れぬサトウキビ畑での農作業に悪戦苦闘しながらもたくましく生きていく姿を描いています。

観光でハワイを訪れる方は、是非この作品を鑑賞して先人の苦労に触れていただきたいですネ。

さて、このハワイ移民に関して、皆さんに知っていただきたい史実が。


実はハワイ移民に関しては、日本より先・1852年から中国人が入植を始めていました。


やはり3年間という約束で中国から移民が入ってきましたが、彼らは定着率が悪く、しかも契約期間が終わると同地で別の商売を始めて地元民とトラブルょ引き起こしたといいます。

この事態を憂慮したハワイ政府が、白羽の矢を日本に立てたというわけ。

移民はどの民族を受け入れても良いわけではない・・・という実例が、既に150年以上前にあったのです。

現在でも日本では移民受け入れの是非が論議されていますが、民族性を考慮し選別しないと国内が移民に荒らされることを十分に考慮すべきででしょう。

それは、昨年フランスやドイツなど西欧諸国で、既に証明されていますから。うー





隻 脚

今日は、大東亜戦争前後・・・激動の昭和前期に於いて活躍した、というより敗戦国・日本の方向性に大きく影響を及ぼした外交官であり、外相も務めた


  しげ みつ  まもる

 重 光 葵 


の命日にあたります。

名前だけでピンとこない方も、戦艦ミズーリの甲板上で日本全権として降伏文書にサインした人物・・・といえば、お分かりになるでしょう。

       
             
重 光 葵 氏(左の山高帽)


1887(明治20)年に現在の大分県豊後大野市に生まれた重光氏は、旧制五高から東京帝国大学法学部へと進学した秀才。

大学卒業後外務省入りすると、在独・在英公使館の書記官、在シアトル領事を経て、1930(昭和5)年に在華公使に。

その翌年に満州事変が勃発すると、彼は外交努力によってこれ以上の衝突を回避しようと奔走、1932年には第一次上海事変の停戦交渉をまとめ上げます。

しかしその直後の同年4月29日、上海で開催された天長節祝賀式典に出席中、朝鮮人の爆弾テロに遭遇。

爆弾が投げ込まれた時、たまたま 「国歌斉唱の最中だったためその場から逃げなかった」 という重光氏は被爆し、後に右足を切断する重傷を負い、上の写真の通り以後彼は杖を手放せなくなってしまいます。

(この時、重光氏以外の日本人も皆同様の理由で動かなかったそうです。
 君が代を歌わない、起立もしないという今時の不敬な教師なら、真っ先に逃げたことでしょう。)

その後駐英・駐ソ公使を歴任し、本国に 「日本は欧州戦争に介入してはならない」 と盛んに打電したものの、政府はその意見を黙殺・・・遂に真珠湾攻撃により開戦。


東條・小磯内閣で外相を務めた重光氏は敗戦直後の東久邇宮内閣でも外相に再任された彼は、自らは反対し続けた戦争の敗北を認める署名をする役目を負うことに。

 『願わくば お国の末の 栄え行き 吾名さげすむ 人の多さを』

降伏文書に調印した自分のような恥ずべき外相が、将来は蔑まれるような栄えある日本になってほしい・・・そんな思いを込めた和歌を残してミズーリの甲板に向かい署名をしてホテルに戻った重光氏は、耳を疑うような話しを聞きました。

それは、マッカーサーが日本に軍政を敷き、かつ英語を公用語化しようとしている・・・というもの。

翌日重光氏はマッカーサーの許を訪ね、「占領軍が軍政を敷き直接行政の責任を取ることは、日本の主権を認めたポツダム宣言に反する」 と強硬に反対。

粘り強い交渉の結果、遂にマッカーサーは布告を取り下げたのです。

この結論に至るまでには紆余曲折があったのですが、もし重光氏なかりせば私達は今頃英語で日常生活を送っていたかもしれません。

開戦に反対していながら極東軍事裁判でA級戦犯として有罪判決を受け、巣鴨プリズンで7年収監された重光氏について、同じく収監されていた右翼の大物・笹川良一氏は自著でこう語っています。

「1本足の重光氏にとって、監獄の生活がどんなに不便で不自由であるかを察して、僕は本当に痛々しいと思った。

ところが重光氏は平気の面持ちで、実に悠然たるものであった。

同氏は平然として澄み切った心境を持しておられるものと見受けられた。」

中にはエゴを丸出しにして周囲の顰蹙を買った戦犯もいたといいますから、その態度は実に立派・・・まさにジェントルマンと言えるものだったようです。

公職追放解除後は、衆議院議員に3回当選。

吉田茂氏と総理大臣の座を争うなど政界の中心で活躍した重光氏は、1955年の自由民主党結党に参画。

以後鳩山内閣で外相を務め、ソ連との交渉を担当。
日本の国連加盟に反対しない旨の内諾を取り付け、1956年12月18日に国連総会は全会一致で日本の加盟を承認。

その5日後に鳩山内閣は総辞職したことで、重光氏も外相を辞任。

大役を果たしてホッとしたのでしょうか・・・その僅か1ヶ月後の1957年1月26日、狭心症の発作を起こした彼は、69歳でこの世を去りました。

重光氏の外交活動を振り返る意味で、私はこの自著をオススメします。

 『昭和の動乱』 上・下 (中公文庫) 


     



巣鴨プリズン収監中に書き下ろしたという、この戦争前後の外交に直接関わったご当人の回想録は、貴重な歴史資料・証言といえましょう。


「自分は、未だかつて弱腰で外交交渉をしたことがない」

という重光氏の言葉、現在の政府・外務省に是非聞かせたいもの。


また同書の中で、重光氏はこう記しています。


「日本人は健忘症である。

第一次近衛内閣が何をしたか、また、日本のためにいかなる存在で会ったか、は、さらりと忘れてしまっていた。

日本人の政治的責任感は、遺憾ながら一般的に薄い。

政治は結局国家の仕事であり、すなわち国民の責任であることは、未だ十分に自覚されておらぬ。

政治家もいったん辞職すれば、責任は解除せられるものと、簡単に考えている。

日本人は、政治を見ること、あたかも芝居を見るがごとく、鑑賞はしても自分自身が役者の1人であり、自ら舞台の上にあることを悟ってはいない。

いかに手際よく、その日の舞台劇をやって見せるかに腐心するのが、また政治家であって、国家永遠のことを考え得るの余裕を持つ者が少ない。」

この指摘は、戦後70年を経た今でも当たっていると言わざるを得ません。

命かげで日本の外交を支え、戦後日本の危機を身を挺して救った隻脚の硬骨漢のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3



左 遷

学問の神様といて今でも崇められる、菅原道真公。

845(承和12)年、祖父・父ともに学者だった中流貴族の家に生まれた彼は幼少の頃より詩歌に才能を見せ、18歳で文章生、23歳で早くも正六位下に叙せられ、その後もトントン拍子で出世を重ねました。


更に宇多天皇・醍醐天皇に重用され、家の格を遥かに飛び越えた右大臣にまで上り詰めたのです。


しかし急な出世をやっかむ人間は、いつの世にもいます。
左大臣・藤原時平も、その1人でした。

彼はライバルの道真公を追い落とすべく、「あやつは政治を私物化し、貴方様を追い落とそうとしている」と盛んに醍醐天皇に讒言。

これを真に受けてしまった醍醐天皇は、道真公を九州・太宰府に左遷。

傷心の道真公が京の都から大宰府に出立したのが、今から1115年前の今日・901(昌泰4)年1月25日のこと・・・ということで、今日は

 左遷の日

なのだそうな。

          ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-菅原道真

                  菅原道真公


道真公は、その後復活することなく、失意のうちに2年後57歳でこの世を去りました。


その後国内では疫病や日照りが流行り、6年後に彼を追い落とした藤原時平が39歳で病死。 


そして彼の甥とその息子も相次いで病死すると、更には道真公の子供らを流刑に処したとされる藤原清貫が落雷で死亡。


これらの異変を朝廷は「道真公の祟りだ」 と恐れ慄き、彼の罪を免じて子供らの流刑を解除、京に呼び戻しました。


更に北野天満宮を建立して道真公を〝天神様〟として祀り、祟りを鎮めようとしたのです。


(※天神を祀る神社は、現在湯島天神・太宰府天満宮をはじめ全国で数千社あるそうな。)


げに人の恨みは怖いものです。

さて、現在の地位を下げられたり、本社から昇格なしで地方支社に転勤を命じられたりすることを〝左遷〟といいますが、この語源をご存じでしょうか?

これは昔の中国では、右を尊び左を卑しんだところから生まれた言葉だそうな。

まぁ勤め人にとって、左遷はしないに越したことはないですが・・・皆さんには左遷の経験はおありですか?

正直なところ、私は損保時代に2度左遷(と思われる)人事異動を食らった経験があります。

1度目は若い時でなにくそと思って頑張りましたが、2度目の時は人事異動の発表を見た瞬間にキレてしまいました。

会社を辞めたのは、その数ヶ月後・・・まぁ今となっては、自分にとって独立する良いキッカケになったと思ってます。

それに私を飛ばした(?)上司にとっても同じ事かと。

だって会社辞めてなければ、彼に落とし前つけてたかもしれませんから・・・。うー
オイオイ



地 価

皆さんは、 『鳩居堂』 というお店をご存知ですょネ。

何を売っているかを、また本店が京都にあることを知らずとも、銀座5丁目にある東京鳩居堂の前の歩道は、国税庁が発表する路線価が常時日本一高いことで毎年ニュースになりますから・・・。


この鳩居堂のルーツは、源平合戦の時代に遡ります。

源氏の武将・熊谷直実(なおざね)は平敦盛を討つなど軍功を上げ、源頼朝から〝向かい鳩〟の家紋を賜りましたが、後に出家して法然の弟子となりました。

その直実から数えて20代目の子孫と称する直心(じきしん)が、江戸時代の1663(寛文3)年に薬種商として店を開いたのが 『鳩居堂』。

店名は、家紋が向かい鳩であることもあり、儒学者・室鳩巣(むろきゅうそう)が中国最古の詩集とされる 『詩経』 の一節・〝維鵲有巣 維鳩居之(これかささぎのすあり、これはとこれにおる)〟から取って命名したと言われています。


戦前・戦中は宮内庁御用達で1942年には法人化した同社では、書画用品やお香などの販売をしており、店内に入ると何とも言えぬ良い香りが漂っています。


さて、なぜ今日この鳩居堂を取り上げたかというと・・・今から30年前の今日・1986年1月24日に、同社に絡む世間を驚かせる出来事があったから。

当時11代目社長を務めていた熊谷道一氏が、弊社事務所近くの高島平団地で飛び降り自殺をしたのです。


        


銀座5丁目の角地に建つ茶筒のような円筒形で有名な三菱ドリームセンターに隣接する東京鳩居堂の銀座本店が現在のビル()に建て替えられたのは1982(昭和57)年。

その4年後の1986年から現在に至るまで、国税庁発表の全国路線価で連続1位をキープしているのが、ビル入り口前の土地。

バブル末期の1992年には、1㎡の価格が3,650万円という最高値をつけました。

この頃、鳩居堂ビル前の石畳にハガキを置いて、「このサイズで約50万円!」 とかいうニュースをテレビで観た記憶があります。

報道によって、すっかりその名が全国的に有名になった同社でしたが、社長個人にとってはあまり嬉しい事ではなかったのかもしれません。

もともと道一氏は、東芝に入社後一時期日本原子力研究所に出向していたという、エンジニア。

ところが先代が亡くなったため急遽呼び戻されて社長に就任。

第三者からは既定路線というか華麗なる転身に見えますが、ご本人の意には反していたはず。

慣れない会社経営に加えて、遺産相続問題に相当苦しんでいたようです。

持つ人の悩みには、私のような持たざる者には分かり得ない深刻さがあるのでしょうネ。

彼が高島平団地で投身自殺をしたのは、国税庁が路線価を発表した僅か3日後・・・身に着けていた手帳には、税金対策のメモがびっしりと書かれていたそうな。うー

その後もジリジリと値を上げていきましたが、最高値を付けた1992年以降は急落。

1997年には現在までの最安値・1㎡当たり1,137万円まで値が下がりました。

その後再び値を上げ、現在では2,700万円近くまで戻していますが・・・道一氏にとっては、最悪のタイミングで先代が亡くなってしまったようです。

バブル景気は日本の経済だけでなく、人間の運命をも狂わせたと言えましょう。


時々銀座を訪れて鳩居堂の前を通り過ぎるたびに、思わず地面を見つめてしまう私です。



扁 桃

・・・・といっても、口の中の扁桃(腺)のお話ではありません。

実はコレ、ある農作物の和名なんですが・・・それが何かお分かりになるでしょうか?

今日は、その農作物の記念日、

 アーモンドの日

なんですって。

因みに扁桃(腺)は、このアーモンドの種子に形が似ていることから
そう名付けられたのだそうな。

このアーモンドの原産地はアジア西南部ですが、現在の生産シェアはアメリカがダントツの1位。

年間約75万トンを生産しているそうですが、これが世界全体の約85%近く。 第2位のオーストラリアが年間約3.5万トンでシェアはたったの4%ですから、比較になりません。

日本では小豆島などで生産されているとはいえ、その消費量の殆どを輸入に頼っているのが現状。


その年間輸入量2.8万トンの98%は、やはりアメリカから。

本格的に日本に輸入され始めたのは1950年代・・・グリコ社がアーモンド・チョコを発売したのが私の生まれた1958(昭和33)年でした。

アーモンドは高さ約5mの木になる実で、3~4月にサクラに似た白や桃色などの花を咲かせ、7~8月に実がなります。


          

しかし、この実は自然落下しないのだそうな。

ではどうやって収穫するのか?

これは、百聞は一見に如かず・・・ということで、映像でご覧ください。(



この木を揺さぶる映像は、1976(昭和51)年に〝アーモンドの雨が降る〟というグリコのテレビCMで流されましたから、中高年の方は見たご記憶があるのでは?

こんな豪快なやり方、日本では真似できません。

アーモンドの実は〝皮・果肉・核・仁(じん)〟からなっていますが、食用になるのは一番中心の〝仁〟。

まさにクルミと同じですネ。


アーモンドの品種は約100もあるそうですが、スイート種とビター種の2つに大別され、食用はスイート種のみ。

そしてこのアーモンドは、非常に栄養価が高いことで知られています。

活性酸素による体細胞・血管の酸化を防ぐビタミンEの含有量が、あらゆる食品の中で最も高く、また亜鉛・マグネシウム・鉄・カリウムを多く含みます。

また食物繊維も多く含み、脂質の約70%はオレイン酸で、悪玉コレストロールを制御するポリフェノールも多く含んでいますから、健康だけでなく美容にも効用が。

つまり女性にとってありがたい食物・・・ということで、実は冒頭のアーモンドの日は

〝成人女性にとって日のアーモンド摂取量は23粒が目安


であることから制定されたとのこと。


でも実際、毎日23粒もアーモンド食べている女性は殆どいないでしょう・・・というか、出来ませんょネ、普通。

現在はグリコ社などからアーモンド飲料が発売されているので、そちらをご利用になられた方が楽かもしれません。

いくら栄養価が高いからって、アーモンドチョコの食べ過ぎにはご注意を!あせあせ




国民食

私の周囲で、これがキライっていう方は皆無。


殆どの日本人が大好きな国民食・・・といえは、やはりカレーでしょうか? 今日・1月22日は、その


 カレーの日


なのだそうです。


その昔、全国学校栄養士会が全国で子供達の好きなメニューの調査をした結果がカレーライスだったことと、そして全国どこでも材料が手に入りやすく調理しやすいことも決め手となり、1982(昭和57)年1月22日を〝カレーの統一献立日〟としたことが由来だそうな。


もっともこのカレー給食の日・当日は既に献立が決まっていて変更できなかった学校も多く、実施できたのは全体の約2割だったとか。あせあせ


過去拙ブログではカレーに関して何度か記事ににしてきましたが、今日はこんな素朴な疑問を取り上げてみます。

【カレーライスとライスカレーは、どう違うの?】

私はてっきり関東と関西の違いかと思ったんですが、これは不正解。

ライスの上にカレールーがかけてあるのがライスカレーで、別容器にカレールーを入れて出されるのがカレーライス・・・なのだとか。


大抵のご家庭では前者のスタイルで召し上がっていると思いますが、皆さんはちゃんとライスカレーって言ってますか?

ちなみに私自身は、今までどんな盛り付けであっても〝カレーライス〟で統一していましたが・・・。

ちょっと話が横道に逸れますが、レストランなどでライスと別にルーが出される時によく用いられるアラジンのランプみたいなこの容器・・・なんという名前か、ご存知ですか?

     



これ、カレーポットと呼ぶのだそうですが、元々はソースボート(グレービーボート)と呼ばれるもので、ローストビーフのグレービーソースなど各種ソースの入れ物。

イギリスで使われていたこの容器をカレーに転用したので、カレーの本場インド料理店では使われないそうな。

でも確かにこのポットで出されると、庶民の味方であるカレーも高級感が出ますょネ。


さて、話を本題に戻しましょう。

盛り付け方で呼び方が違うと申し上げましたが、実際にはそれ程厳密に使い分けられてはいません。

むしろカレーの歴史を振り返ってみると、日本にカレーが紹介され、国民に浸透し始めた頃には、等しくライスカレーと言われており、戦後の高度成長期以降は一般的にカレーライスと呼ばれるようになったのだそうな。

ならば、私がライスカレーという呼び方に馴染みがないことも納得できます。

またライスカレーの名付け親が、「少年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士だという説も。


札幌農学校時代、日本人青年の体格があまりにも貧弱だったことを憂慮した博士が、何とか肉食を勧めるべく

「生徒は米飯を食すべからず。 但し〝らいすかれい〟はこの限りにあらず。」

と規則に書き加えたことが起源だというのです。

しかし残念ながら、彼の来日する以前の1874(明治6)年には、既に陸軍の食堂のメニューにライスカレーいう記載があるので、これはどうやら間違い。


結局、ライスカレーとカレーライスには、さほどの違いはないみたいですネ。

まぁ私としては、激辛で美味しければ呼び方はどっちでもいいんですが・・・。笑2