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破滅型


今や漫才人気はすっかり定着しつつあり、テレビ番組には若手の漫才師がとっかえひっかえ出演しています。


私自身お笑いは大好きですが、最近の漫才はやたら大声・早口の芸風が多く感じて、少々ついていけない感が。


中高年世代の方ならば、1980年代に一世を風靡した〝THE MANZAI〟ブームを憶えていらっしゃるでしょう。

ビートたけしのツービート、島田洋七のB&B、島田紳助の紳助竜介などが出演していましたが、そんな中でも絶対的な存在・漫才界の横綱として君臨していたのが、あの〝やす・きよ〟コンビでした。


現在でもテレビなどで活躍している西川きよしさんとコンビを組んでいたのが、


 横山 やすし さん


今日は、この天才漫才師の命日・早いもので没後20周年にあたります。


子供の頃から漫才師になる決意を固め、卒業式でも漫才を披露して拍手喝采を浴びた木村雄二(本名)少年は、松竹新演芸(現・松竹芸能)に入社。


しかし相方とのコンビ解消などの事情から横山ノック氏に弟子入り。 


横山やすしを名乗ると同時に吉本興業に移籍します。


何回か相方が変わった後、西川きよしさんと出会い、1966年に〝やすしきよし〟でデビュー。


当時から〝天才漫才師〟といわれ、才能だけで漫才をゆっていたようなイメージがあった横山さんでしたが、実際は 『コント55号』 を追い越そうと必死で勉強したのだそうです。


努力の甲斐もあって、1970年には上方漫才大賞を受賞するなど、着々とその地位を固めつつあったのですが・・・。


         


父親が電車にはねられて亡くなるという不幸が契機となったのか、彼は傷害事件や無免許運転、更にはコメンテーターとして出演していた 『TVスクランブル』 での暴言や遅刻など様々なトラブルを重ね、1984年に吉本興業から無期限の謹慎処分を受ける羽目に。


そして決定的(?)だったのは、相方・西川きよし氏の参院選出馬(1986年)でした。


西川氏の当選により、実質的にキー坊との漫才ができなくなった横山氏は、ますます生活が荒れ・・・遂に1989年、復帰して僅か3日後に酒気帯び運転で人身事故を起こし吉本興業を解雇されてしまいます。


子供の頃から負けず嫌いで、一番になることに憧れていたやっさん・・・もしかしたらキー坊との決別で 「もう一番にはなれない」 とヤケになってしまったのでしょうか?


また弟子には非常に厳しかったそうで、自分より若い者が酒席で先に帰るのを特に嫌ったのだそうです。 

チラッとでも時計を見ようものなら、その腕時計を外させて鍋に放り込んでしまうこともあったとか。


これも、もしかしたら寂しがり屋だったことの証左かもしれません。


酒におぼれた彼は、1996年1月21日に自宅で寝たまま意識を失い救急車で病院に搬送されたものの、再び目を開けることはできませんでした。

死因はアルコール性肝硬変・・・51歳の若さでした。


最期は哀れでしたが、私生活のトラブルを〝芸の肥やし〟としてきた古き良き(?)時代を象徴する最後の天才芸人であったことは間違いないでしょう。


やすし・きよしの漫才を見ながら()、ご冥福を祈りたいと思います。笑3




黒 猫

〝黒猫〟から、真っ先にイメージするものといえば?


中・高年の方だと 「タンゴ!」 と答える方もいらっしゃるでしょうが、おそらく多くの方は


 宅急便


でしょうネ。


           ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-クロネコヤマト

ご存知の通り、このロゴはヤマト運輸のトレードマーク。

これは1957年に大和運輸(当時)が提携していたアメリカ運送会社『アライド・ヴァン・ラインズ』が使っていた数種類の動物キャラクターの中から、お母さん猫が子猫を優しく加えて運んでいるイラストを創業社長・小倉康臣氏が気に入り、使用許可を得たもの。

しかしそれ自体は三毛猫だったそうな。

それを応用すべく同社広報部員が思い悩み、挙句自宅にまでその猫のデザイン画を持ち帰ったところ、その社員の子供さんが真っ黒に塗りつぶしたことがキッカケで、現在の〝クロネコ〟マークが誕生したとのこと。

さて、その大和運輸が 『宅急便』 の取り扱いをを日本で初めて開始したのが、今からちょうど40年前の今日・1976(昭和51)年1月20日のことでした。


「電話一本・1個でも翌日にお届け」 という、郵便小包しかなかった当時としては画期的な新サービスでしたが・・・認知度が殆どゼロだったため、初日の扱い高はたったの11個だったとか。ダメだぁ顔


年間13億個以上を取扱い、年間売上高が(連結で)1兆4,000億円弱に上る現在では、考えられないことです。


二代目社長・小倉昌男氏が父・康臣氏から引き継いだ大和運輸が路線開拓で立ち遅れ苦境に立たされた時、荷物1個あたりの収益が高い個人向け配送に着目。


全役員の反対を押し切り、大口顧客だった三越との取引を断ってまで業態転換の勝負に出たエピソードは有名ですが、それを断行した二代目の英断はとても余人に真似のできることではありません。


また小倉社長が、警察官が通報を受けて駆けつけるのと同じ距離に営業所を置くこと・・・つまり警察署と同じ1,200を営業所数の目標に設定して全国展開を目論む中で、許認可を出さない(旧)運輸省を訴えて勝利したことは、当時の官僚が持つ絶対権力を考えればまさに壮挙でした。

役所との争いに勝ったおかげで、現在同社の営業所・センター数は、約6,300。 当初立てた目標の5倍以上に達しています。


この宅急便誕生秘話は、NHKのジキュメンタリー番組『プロジェクトX』でも取り上げられました。

            



私が尊敬する経営者・小倉昌男氏は残念ながら既に鬼籍に入られましたが、氏の残された言葉


〝人間として大事なことは 『真心』 と 『思いやり』 〟


〝サービスが先、利益は後〟


は、常に我が胸に言い聞かせている金言です。


現在は多くの業者が凌ぎを削る宅配業界ですが・・・皆さんが普段愛用されているのは、クロネコ? 飛脚? カンガルー? パンサー? ペリカン? それとも・・・?笑2





キンコンカン

突然ですが、皆さんは〝チューブラーベル〟という楽器をご存知でしょうか?


ひとつひとつの鐘を管状(チューブラー)にして、ピアノ鍵盤の順番に並べて吊した打楽器なんですが・・・。


名前では分からなくとも、実物をご覧になれば 「あぁ~、コレね!」 と、ピンとくるはずです。


この聞き慣れない楽器・・・コレのことなんですョ。(


           


これをご覧になった殆どの方は、あるTV・ラジオ番組を連想されたことでしょう。 そう、


 NHK のど自慢大会


・・・ですょネ。 (※1970年までの番組名は 『のど自慢素人演芸会』 )


この第1回目のラジオ放送が流されたのが、今からちょうど70年前の今日・1946(昭和21)年1月19日だったのです。(※TV放送は1953年3月15日から開始) 


おそらく、日本の最長寿番組でしょう。


“キンコンカンコン、キンコンカンコン、キン・コン・カ~ン”音譜


子供の頃、毎週日曜日のお昼ごはんは、甲高いカネの音をラジオで聴きながら食べていたものです。笑3


           

この番組は、紅白歌合戦を企画したNHKの名プロデューサー・三枝嘉雄氏(※作曲家・三枝成彰氏の父が、軍隊の余興大会にヒントを得て製作したのだとか。


戦後間もない、物資の少ない時代に行われた第1回大会でしたが、本選出場者30名に対して応募者約900名、競争率30倍という狭き門だったそうです。驚き顔


現在でも毎週各地の放送に合わせて応募者が殺到、毎回書類審査で250名に絞られて予選会が開かれ、そこから20名(組)に絞られるそうですから・・・日本人って、よっぽど歌が好きなんですねェ。


毎年開催されるチャンピオン大会の歴代優勝者の歌唱力は、プロ顔負けですもの。


そのレベルの高さを証明している(?)というべきか・・・現在活躍している大物プロ歌手の方々も出場されています。


 ◆ 田中星児さん・・・全国コンクールで優勝
 ◆ 坂上二郎さん
・五木ひろしさん・・・地区大会で合格
 ◆ 北島三郎さん
・島倉千代子さん・・・カネ2つ
 ◆ 牧伸二さん・・・カネ1つ

・・・とまぁ、結果はそれぞれだったみたいですが。


そして最も驚くべき結果は、放送が開始された年の1946年に当時僅か9歳で出場した美空ひばり嬢が、たったカネ1つ!ダメだぁ顔


もしかしたらこの時の悔しさがバネとなって、その後の大活躍に結びついたのかもしれませんネ。


この大会、原則中学生以上のアマチュアの方なら、誰でも応募できるそうです。


カラオケ自慢の、そこのアナタ! 

チャンピオン大会出場目指して応募してみませんか?





メール
今日は、お待ちかね・・・あのエネゴリ君、2016年初登場です。

実は彼、昨年11月末に私を怒らせてしまいました。

彼の勤務するイタ飯屋さんは都内に2店舗を構えており、エネゴリ君はローテーションを組んで双方を行ったり来たりしているんです。

従って、彼からは毎月末に翌月のシフトがメールで送られて来て、それを見て彼がいる日に行っていたのですが・・・先月、彼がいる日の開店直後に行ったのに、既に店内は満員。

こんなことは初めてだったのでビックリして入口で佇んでいると、エネゴリ君が私の顔を見て慌てて厨房から出てきました。

「なにコレ、こんな早い時間から満員って?」

「あっ、すみません。 今日は貸し切りなんですョ。」

「貸し切りって、オマエ・・・今日午前中に 『今晩行くから、よろしくネ!』 ってメールしたじゃんョ。 なんで今日貸し切りだって返信しなかったんだョ。」

「えっ、あっ、そうだったんですか? 

すみません、今日はまだメール見てなくて。」

「なんだ、そりゃ。 せっかく寒い中歩いてきたのに。」

「はい、すみません。」

「もういい、分かった。 常連客にそういう仕打ちするような店には、当分来ないから。」

頭に来た私は、ただ 「すみません」 を連発するエルゴリ君を無視して、帰宅。

翌日、彼から 「昨日はすみませんでした。」 と電話が入ったのですが、

「ああ、分かった分かった。」

と生返事しただけで電話を切り、暫く店に顔を出しませんでした。

          
その後ビビッたのか、彼からはいつものように12月のシフト表メールは送られてこず。

いつも 「失敗しても、メゲずにお客さんには食いつくんだョ。」 と教えていたのに・・・業を煮やした私は、ちょうどやってきた彼の誕生日に、こんなメールを送りました。

『エネゴリ君、誕生日おめでとう。

もうすぐ不惑の40歳になるんだから、もっとしっかりしなきゃダメだョ。

ところで、未だに来月のスケジュール送ってこないってことは、もう来なくていいってことなのかナ?』

すると返信されてきたメールが、こんなんでした。


『ありがとうございます。

スケジュールの件は、すみません。

来月のスケジュールは、決まり次第お知らせします。

ホントにすみません。

来ていただけるなら、きてほしいです。』


来ていただけるなら来てほしいって・・・相変わらずのエネゴリ君節、炸裂って感じ。

更には、元旦にこんなメールが。



明けましておめでとうございます。

昨年は色々とありましたが、今年もよろしくおねがいいたします。

今年は、何卒ご指導よろしくおねがいします


いろいろあったんじゃなくて、キミがいろいろやったんじゃないの?

それに今年は・・・って、普通ここは今年〝も〟だろうに。

もしかして、彼には昨年まで私に指導された自覚がないってこと?うー

さて、皆さんが私の立場だったら、どうします?


① 可哀想だから、許してあげる。
② もう少しジラして反省させる。
③ 店に行ってこのメールを店主に見せて、2人で彼をイジッて楽しむ。

             

矜 持

早いもので、今日は中高年野球ファンには忘れられない、あのサイドスロー・ピッチャー

 小 林 繁 

の七回忌となります。


私が大学野球部時代にピッチャーをやっていた頃が全盛期だっただけに、今もって忘れられない選手の一人。


小林氏は1952年の鳥取県生まれ。 


由良育英高校からノンプロの全大丸に進み、大丸神戸店勤務時代は和服売場を担当。 


野球選手とは思えぬスリムな身体で和服を着こなし、当時から女性にはモテたそうな。


1971年に巨人からドラフト6位指名を受け翌年に入団すると、独特なフォームのサイドスローで、堀内・高橋両エースの後継者として活躍。 


第1次長嶋巨人の優勝にも貢献しました。


         ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-小林繁


しかし彼の名が球史に残ることになったのは、何といってもあの〝空白の1日・江川事件〟の犠牲者になったからでしょう。


1977年のドラフト前日、巨人軍は野球協約条文の不備を突き、江川投手と電撃契約。 


しかしプロ野球機構がそれを認めなかったことで巨人はドラフトを拒否。 


阪神が1位指名で交渉権を獲得するという異常事態となりました。


(※実はこの年、巨人はドラフト2位で落合博満選手を指名する予定でした。 もしボイコットがなければ同選手は最初からジャイアンツのユニホームを着ていたはず。 

この事件は2人のみならず、多くの男たちの運命をも変えたのでした。)


年が明けて1月末、当時の金子コミッショナーからの〝強い要望〟により江川投手は一旦阪神に入団、その後に阪神が指名した選手とのトレードで巨人入りすることに・・・そこで白羽の矢が立ったのが小林投手でした。


江川氏の後日談によると、彼自身は巨人側に

「トレードならば他の選手に迷惑がかからないよう金銭で」

と要請していたそうですが・・・しかし結果的に小林投手はキャンプイン前日という土壇場でトレード通告をされ、日本中を揺るがしたこの問題はようやく収拾へと向かったのです。

(といっても、この後江川投手が一軍登録されたのは6月でしたが・・・。)


小林投手は記者会見で、

「阪神に移籍した後の仕事で判断して欲しい。 同情は買いたくない。」

という潔いコメントを残し、阪神へ。


これによって小林投手は〝悲劇のヒーロー〟、片や江川投手は「エガワる」 という流行語になるほど〝ヒール役〟のイメージが定着する事となったのです。


その年、小林投手は22勝をマークして沢村賞を獲得する大活躍。

特に対巨人戦は8勝を挙げ、まさしく〝男の意地〟 を見せつけてくれました。


巨人ファンであると同時に江川ファンでもあった私でしたが、こと小林投手の活躍には心より拍手を送ったものです。


そして私自身よく彼の投球フォームをブルペンでふざけて真似していましたが、は関西の若手お笑い芸人だった明石家さんまさんが彼のモノマネでブレーク・・・一気に全国区で名前を売ったのもこの頃だったはず。


その後も毎年10勝以上を挙げましたが、「15勝出来なくなったら引退」 と公言していた同投手は、1983年に13勝しながら引退を発表。


以後解説者やコーチなどを務めていましたが・・・何年かぶりに彼の姿をTVで見たのは、2007年秋に流された江川投手との〝協演CM〟でした。


         ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-小林繁


事前打ち合わせ・リハーサル一切なしのぶっつけ本番で、1時間以上にわたって収録されたというこのCM・・・2人はあの事件から実に28年ぶりの顔合わせだったとか。


「とにかく直接お会いして謝りたかった」 という江川氏に対し、「お互い、シンドかったょな。」 と相手を気遣いつつ、大人の会話に終始した小林氏・・・50歳過ぎてもカッコ良かったです。


その小林氏が日本ハムの一軍投手コーチとして2週間後のキャンプインの準備をしていた福井県内の自宅で突然倒れ、心筋梗塞により57歳で天に召されたのは、2010年1月17日昼前のこと。

訃報が伝えられた17日当日・日曜深夜の日テレ系スポーツ番組では、江川氏がメイン・コメンテーター。


CMでは未公開だった収録部分がふんだんに流される中、目を充血させた江川氏が 「もう一度マウンド上で対戦したかった」 と絞り出すようにコメントしたのが印象的でした。


突然の逝去を予期していたわけではないでしょうが、このCM録りによって騒動の渦中にあった当事者同士の対面が果たされたことは、今となればご両人にとってはもちろん私たちプロ野球ファンにとっても、心の奥底に淀んでいたシコリが多少なりとも解れたのではないでしょうか。

プロ野球ファンにとって実に感慨深いCMを放映してくれたことに敬意を表し、今夜は〝黄桜〟で献杯しつつ小林氏のご冥福をお祈りしたいと思います。笑3

お時間のある方は、このCMのロングバージョンをご覧ください。(↓)

・・・最期に握手した時、2人はどんな会話を交わしたのか? 
ちょっと、気になります。




飛 躍

いよいよ本格的なウィンタースポーツ・シーズンの到来です。

日本で人気の種目といえば、まずフィギュアスケートがあげられますが、屋外競技ならジャンプでしょう。

1972年札幌五輪の笠谷・金野・青地の表彰台独占や、1998年長野五輪での原田・船木らの団体逆転金メダル、そして最近ではレジェンド葛西選手や女子・高梨沙羅選手など、日の丸飛行隊の活躍をご記憶の方も多いはず。

そのジャンプ競技における〝聖地〟といえるのが

 大倉山ジャンプ競技場

札幌市郊外に位置する日本を代表するこのジャンプ台が竣工したのは、今から85
年前の今日・1931(昭和6)年1月16日のことでした。


このジャンプ台が出来るきっかけ・・・それは、秩父宮殿下でした。


1928(昭和3)年1月、青森で開催されたスキーの第1回全日本学生選手権で優勝したのが、大野精七監督率いる北海道大学。

この大会に臨席された秩父宮殿下(昭和天皇の弟宮)が、その翌月スキーを楽しみたいと仰せられ来道。

3日間北大スキー部員たちとスキーを楽しまれたのですが、その時宿泊先の酒席で突然

「将来日本でオリンピックを開くとすれば、雪質が良く大学都市でもある札幌が一番適当であると思う。 そのために、オリンピック用の大飛躍台を作る必要がある。」

とお話になられたというのです。


しかし当時の日本には20m級のジャンプ台しかなく、設計できる人材すらいませんでした。


そこで翌1929年、秩父宮殿下自らの口添えでサンモリッツ冬季五輪ノルウェーチームの監督を務めたシャンツェ設計の権威オラフ・ヘルセット中尉を招聘。


同時に大野監督以下北大スキー部員たちは自らの足で候補地を捜し歩き、札幌市郊外の三角山に隣接する丘陵地を選定。

そして建設費は、これまた秩父宮殿下からご下問を受けた大倉財閥の総帥・大倉喜七郎氏が負担を快諾。

ヘルセット中尉の招聘費用と合わせ7万円(※現在の1億円弱)をポンと出したそうな。

所有権問題で一時工事が中止してものの、見事ジャンプ台は完成。

踏み切ると、まるで札幌市街に飛び込んでいくような錯覚に捉われるこのジャンプ台は札幌市に寄贈され、スポンサーに敬意を表し『大倉シャンツェ』と命名されたのです。


(※余談① 従って、現在に至るまで 『大倉山』 という山・地名は当地に存在していません。)


      


完成当時は60m級のジャンプ台で、翌年のバッケンレコード(最長不倒距離)は51.5m。


残念ながら1940年に東京五輪とセットで開催されるはずだった札幌五輪は、当時の政情から開催を返上せざるを得ず、秩父宮殿下の夢は実現できず。

その後1952年には80m級、1970年には7億7千万円の国費を注ぎ込んでジャンプ台は大改修を施され、名称も現在と同じ 『大倉山ジャンプ競技場』 に変更。


1972年の札幌五輪では90m級のジャンプ会場として使用されました。


更に1996年の大改修などを経て、現在はナイター設備やペアリフトも備えており、現在でも日本で唯一のジャンプ・ワールドカップ開催地として利用されています。


因みに現時点でのバッケンレコードは、男子は伊藤大貴選手の146.0m、女子が高橋沙羅選手の141.0m。

もし秩父宮殿下や大倉喜七郎氏が高橋選手の大ジャンプを見たら、さぞ驚くことでしょうネ。

現在は展望台も作られ、スキーシーズン以外でも有名スポットとして多くの観光客が訪れるとのこと。

札幌に行かれた際は、是非足を運んでみてください。

(※余談② 東急東横線の 『大倉山』 駅は、近隣にある実業家で元東洋大学学長を務めた大倉邦彦氏が設立した大倉精神文化研究所に由来しており、大倉喜七郎氏やジャンプ台とは無関係です。)あせあせ




3分28秒

昨年4月にアシアナ航空機が広島空港であわや大惨事という着陸失敗事故を起こしたことは、記憶に新しいところ。

この事故に限らず、機長の操縦ミスが原因とされている(墜落)事故は過去に何件も起きています。

人間である以上ミスは付き物ですが、何百人もの命を預かる旅客機の機長には許されるものではありません。

まして事故後に逃げて行方をくらましたアシアナ航空機の機長など、論外。

しかし中には、優秀な機長のおかげで多くの人命が助かったことも・・・。

皆さんは7年前の今日、
アメリカで起こった奇跡をご記憶でしょうか? それは


 US Airways 1549便 不時着水事故


乗員5名・乗客150名(うち日本人2名)を乗せた同便(エアバスA320)は、シャーロットに向け2009年1月15日午後3時26分にニューヨーク・ラガーディア空港を離陸。


その直後にバードストライク (エンジンに鳥を吸い込む現象) を引き起こして左右両エンジンが停止、空港管制はテターボロ空港への着陸を指示します。


しかしエンジンの再始動が出来なかったため、機長はハドソン川への緊急着陸を決断。 


衝撃を緩和するためわざわざ機体を下流方向に旋回させて着水を試み、見事ウォーター・ランディングに成功。


この場面は偶然監視カメラの映像で捉えられ、ニュース番組で何度も放映されました。

※その監視カメラ映像は、こちら。(
    https://www.youtube.com/watch?v=IC7gBV_jUR0


   ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-US Airways Flight 1549


着水後の乗務員の的確な誘導により、乗客は慌てることなく機外に出て脱出シューターや主翼の上で救助を待つことに。


水温・気温とも氷点下でしたが、水上バスや観光船、また消防艇などが次々と近づき乗客らを救助。


機体は不時着後1時間で沈没したものの、乗員・乗客全員が救助され、死亡者なしという奇跡的な結果となりました。


飛行中に両エンジンが停止するという緊急事態にも慌てず、エンジン停止から僅か3分28秒の間に川の流れまで計算して着水させ、なおかつ乗客が残っていないか浸水する機内を2度も見回わったという機長はこの方、


 チェズレイ・サレンバーガー三世 

 Chesley Burnett "Sully" Sullenberger III


          ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-Chesley Burnett  Sullenberger III

子供の頃から飛行機に憧れ、16歳で地元のパイロットから操縦を学んでプロペラ機を操ったという彼は、コロラド州の空軍士官学校を首席で卒業し大学で産業心理学・行政学の修士号を取得したというインテリの彼は、1973年にアメリカ空軍に入隊。

1973年にアメリカ空軍に入隊、空軍大尉となった彼は1980年に退役後パシフィク・サウスウェスト航空 (※1988年にUS Airways社と合併) にパイロットとして入社し、非常事態に対応する心理学を学んだといいます。

その30年近いキャリアと研鑚の集大成が、まさにこの3分28秒だったと言えましょうか。


エンジン停止という緊急事態にも慌てることなく、落ち着いた対応であったことが管制との交信記録からもよく分かります。

※管制塔とのやり取りの録音とCG再現画像は、こちら。(↓)
     https://www.youtube.com/watch?v=tE_5eiYn0D0

コクピット内にコンピューターの警告音が鳴り響く中で、ここまで落ち着いて不時着までに漕ぎ着けられるパイロットは、果たしてどれくらいいるのでしょう?

アメリカで英雄として称えられ数々の表彰を受けたサレンバーガー機長が発した事故後のコメントは、


「訓練してきたことをやっただけ。 自慢も感動もない。」


いやァ、カッコ良すぎます。


その彼がしばらく静養(?)した後の同年10月1日、事故機と同じ路線で機長として復帰。


副操縦士も事故当日と同じスカイルズ氏が務めたそうで、サレンバーガー氏が機内放送で自己紹介をした時、客室内は割れんばかりの拍手と大歓声が湧き上がったとか。


・・・その時の光景が、目に浮かぶようですネ。笑2


同氏はその後2010年3月にリタイア、30年に及ぶ現役パイロット生活に終止符を打ちました。

彼の自伝が邦訳・出版されています。

ハドソン川の奇跡 機長、究極の決断(静山社文庫・刊)


       


なかなか読み応えのある一冊で、オススメです。


余談ですが、この著書にサレンバーガー氏のこんな空中デートの思い出話が書かれています。

『私の様子を想像して欲しい。

 17歳の少年、隣には素敵な女の子、(狭いコクピットゆえに)彼女の足が私の足と2時間触れていて、腕もこすれ合う。 


彼女の香水が漂ってくる。 いや、シャンプーの香りかな?

時々操縦席側の窓をキャロルが覗き込むたびに、彼女の髪が私の腕に触れた。 私にとってはそれも初めての体験だった。

空を飛ぶのがこんなにもドキドキするものだったとは!』


もし私が中学生時代にこの自叙伝を読んでいたら、絶対パイロットを目指していたでしょうネ。

でもサレンバーガー少年とキャロルのデートはこれっきりだったそうですが。あせあせ


LCCが相次いで就航し、現在各航空会社は生き残りをかけて熾烈な競争を繰り広げていますが、何といっても最優先すべきは安全な航行。

どんなにコンビューター技術が進化しても、飛行機を飛ばすのは人間だ・・・と主張する彼は、こうおっしゃっています。


「空の安全に関しては、経験に代わるものはない」


英雄・サレンバーガー機長が残したこの言葉を、リストラに腐心する各航空会社トップには十分に噛みしめてもらいたいものです。





美 声

鼻の右側に大きなホクロがあった二枚目俳優・・・といえば、中高年の方ならもうお分かりですょネ。 今日は、その


 細川 俊之 さん

の命日・没後5周年にあたります。


         


細川(※本名同じ)さんは1940(昭和15)年に現在の北九州市に生まれ、山口県下関市で育ちました。


山口県立豊浦高等学校から学習院大学に進学し演劇部に所属した彼は、大学を中退して俳優座養成所第13期生となり、文学座研究生を経て1971(昭和43)年まで文学座に在籍。

その間1967年には女優の小川眞由美さんと結婚するも、6年後に離婚。
その翌年に宝塚歌劇団出身の藤本典江さんと再婚しています。

早くから二枚目俳優として舞台を中心に活躍されていたそうですが、私自身が初めて細川さんの姿を見たのは、おそらく人気TVドラマ 『時間ですよ 昭和元年』(1974~75)だったと思います。

何となく影というか憂いのある役でした。

文学座を抜けてフリーになった後は、様々な映画やドラマ、そして舞台で活躍された細川さんは、美声の持ち主でもありました。

ご自身がパーソナリティーを務めたFM東京のラジオ番組 『ワールド・オブ・エレガンス』 は16年半もの長寿番組でしたし、アラン・ドロンのダリダのヒット曲『あまい囁き』を中村晃子さんとカバーしたレコードもヒット。

また1980年に公開された『あしたのジョー』劇場版では、力石徹の吹き替えも。

そして変わったところでは、こんなCDを出されています。(↓)

        


百人一首かるたとセットで売り出されたそうですが、彼の甘い声で朗詠された和歌は、百人一首ファンから高い評価を受けたとか。

あたかも光源氏が詠んでいる雰囲気を味わえたのかもしれませんネ。


しかし甘いマスクと美声を兼ね備えた細川さんも、病には苦しめられたようです。


1995年には糖尿病で入院し、更には同じ年に脳内出血で倒れたとか。

それでも2004年からは大阪芸術大学・芸術学部の教授に就任して年10回の講義を受け持っていたそうですが、その翌年あたりに出演していたTV番組に出演されていた際は、呂律があまり回っていませんでした。

やはり脳内出血の後遺症だったのでしょうか・・・そして2011年1月12日午後に自宅で転倒した細川さんは意識不明のまま病院に搬送され、その2日後に70歳で帰らぬ人となったのです。


昭和を代表する二枚目俳優のご冥福を、あらためてお祈り致します。

・・・中古市場で、百人一首を探してみようかナ。笑2



平 和

私が大学生から社会人になって数年の間、これを吸っている方が多かった記憶があります。 その銘柄

 ピース

(の10本入り) が発売開始されたのが、今からちょうど70年前の今日・1946(昭和21)年1月13日のことでした。

当時一般的に売られていたタバコは20~60銭だったのに対し、最高級バージニア葉をブレンドしたこの10本入りピースは7円という、超高級品。


           


それでも日曜・祝日のみ一人・1箱限定で販売したところ、初日・13日の日曜日には売店で用意した1,000箱が1時間で売り切れたとか。

戦後直後で楽しみがなかった時代ですから、ある意味当然のことだったんでしょうネ。

このピースの箱・・・皆さんが見慣れているパッケージは、こちらの濃紺の小箱だと思います。


           


敗戦を味わった我が国が、平和を願う気持ちから〝ピース〟と命名したこのタバコには、発売当初から平和の象徴・鳩が描かれていたそうですが、よく〝ショート・ピース〟と呼ばれていたこのタバコのパッケージは、1952年からのもの、。

専売公社が〝ラッキー・ストライク〟のパッケージも手掛けたアメリカの著名な工業デザイナー、レイモンド・ローウィに依頼してデザインさせたものが、現在まで使われています。

当時の総理大臣の月給が11万円だったのに、支払ったデザイン料が150万円(!)だったそうですが、その後の売り上げを考えればそれでも安かったと言えましょうか?

実は私、一切タバコを吸わないんですが・・・そのキッカケとなったのが、このピースだったんです。

といっても、それはショートピースではなく、1949年7月から発売されているピース(50)・・・俗に言う、〝缶ピース〟。(


          

小学生時代、親戚の家に遊びに行った際、応接間にこの缶ピースが置いてあったんです。

伯父さんが来客の方と一緒に外出した後、応接間に行ったら大きなガラスの灰皿の中に、半分しか吸っていない吸殻が3,4本。

子供の頃って、大人の真似したくなる時期があるじゃないですか。

以前、道端でどこかのオッサンがシケモクを爪楊枝で刺して美味しそうに吸っていたのを思い出した私は、台所から爪楊枝を1本持ってきて一番長い吸殻に突き刺し、ライターで火をつけて思い切り吸ったんです。

どんなに美味しいんだろう・・・という私の期待は、その1秒後見事に裏切られました。

「ゴホッ、ゴホッ、ゲホゲホッ、グェッ!」

死ぬほどむせた私は、その苦さと息苦しさでノタウチ回ったのです。

以来現在まで、1本も口にくわえたことがありません。

幼児体験恐るべし・・・でも缶ピースのおかげで、今でも肺は綺麗なはず。あせあせ

そうそう、ピースといえばパージニア葉100%使用の 『ザ・ピース』 という超高級品が4年前から発売されているそうですネ。(




紙巻きたばことして初めて、ご覧の通り平型の金属缶に入れられて香りや味わいを長持ちさせたというこのタバコは、20本入りで1,000円。

実際に味わった方の感想を、是非お聞かせ下さい。

タバコを吸わない私の場合、1,000円あったら牛丼・豚汁セットを2回楽しみますが・・・。
あせあせ コラコラ




ミステリー

世界各国で翻訳され、その作品の累計販売冊数は小説としては世界一の推定約20億冊を誇る作家とは、誰でしょう?

・・・って、今日のお題と考え合わせれば簡単な問題ですょネ。

そう、正解は皆さんお察しの通り


 アガサ・メアリ・クラリッサ・クリスティー

   Dame Agatha Mary Clarissa Christie

    (※Dame は、女性に授与されるナイトの称号)

今日は、この世界的女流作家の命日・没後40周年

彼女は1890年にイギリス・デヴォンシャー州で資産家の三人兄弟の末っ子ととして生まれました。

母親のクララはかなり変わった女性だったようで、アガサに学校に行くことを禁じ自ら教育を施したとか。

しかし、なぜか 「7歳までは書けない方が良い」 と信じた母はアガサに字を教えなかったそうで、彼女は一般の子供より識字が遅く、大人になってからもスペルミスが非常に多かったとか。

後に作家になったことが、信じられないエピソードです。

学校に行かなかったために友達もおらず、遊び仲間はメイドや使用人だけ・・・という日常生活は異常でしたが、反面彼女は父親の書斎で本を読みふけることが出来、そこであらゆる知識を吸収することが出来たといいます。

1901年に父親が亡くなると、彼女は詩や短編小説の投稿を始めます。

なんでも 「インフルエンザを患い、読む本がなくなったから」 というのがその理由だそうですが、ここから彼女の作家人生はスタートします。


         

1909年に初の長編小説『砂漠の雪』を書き上げた彼女は、その5年後にアーチボルド・クリスティ大尉と結婚。

第一次世界大戦中には薬剤師の助手として勤務し、そこで毒薬の知識を得たことが後のミステリー作品に役立つことに。


そして1920年に 『スタイルズ荘の怪事件』 を出版し、ミステリー作家としてテビュー。

彼女の名を一躍世間に知らしめたのは、1926年に発表した『アクロイド殺し』。

この作品で描かれた大胆なトリックと意外な真犯人を巡り、いわゆる〝アンフェア論争〟がミストリー・ファンの間で巻き起こったのです。


しかし結局これがキッカケとなって彼女は注目を集め、以後 『オリエント急行殺人事件』(1934年)、『ABC殺人事件』(1936年)、『そして誰もいなくなった』(1939年)などヒット作を連発。

世にアルキュール・ポアロなどの名探偵を送り出しました。

1976年1月12日に風邪をこじらせて85歳で天に召されるまで彼女が残した作品は、長編66作、中短編156作の小説など多数。

映画化もされていますので、彼女の作品に全く触れていない人は世界に殆どいないでしょうネ。


しかし、彼女が世に残した最大のミステリーは、彼女が36歳の時に起こした失踪事件。


アンフェア論争が起きた1926年は、彼女の母親が亡くなったり夫の浮気が発覚するなど彼女にとって非常に辛い年でした。

その年の12月3日、彼女はメイドに外出すると伝え秘書と夫に手紙を書き残すと、一人で自動車を運転して自宅を出たまま行方不明に。

結局11日後に別人名義でホテルに宿泊しているところを発見され事なきを得たのですが・・・なぜ彼女が失踪し何をしていたのかは、様々な推測がなされているものの本人が口を閉ざしたまま天に召されたため、今もって不明。

決して解き明かされない謎を自ら演じた〝ミステリーの女王〟のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3