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細 長

アッと言う間に、2015年も今日1日を残すだけとなりました。


ゆっくりと自宅でこの一年を振り返る方、最後の最後まで大忙しの方・・・様々だと思いますが、この大詰めで事故やトラブルに遭わないよう、落ち着いて行動したいものですネ。


さて言わずもがな、今日は〝大晦日〟。


旧暦では、元々毎月30日目にあたる日を 〝晦日〟と呼んでいたそうです。


の 〝みそ〟は〝三十〟を表しており、転じて 月の終わり という意味にもなりました。


そして一年で最後の日、つまり12月31日は 大をつけて〝大晦日〟 と呼ぶようになり・・・現在は新暦の12月31日を指すようになったそうです。


この大晦日には、各ご家庭毎に恒例行事があると思いますが・・・おそらく多くの方が


 年越し蕎麦


を召し上がることでしょう。


                ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-年越しそば


この年越し蕎麦を食べる習慣は、江戸時代中期にまで遡るとのこと。


蕎麦の麺のように長く生きられるように、あるいは家運が伸びるように・・・という願いを込めて食べるようになったとか。


私の実家は蕎麦どころで有名な信州・長野。


大晦日になると、両親が善光寺近くの老舗蕎麦屋さんから買ってきては一家揃って食べてましたが、蕎麦粉10割だったためにブチブチと細かく切れてしまって、すすることが出来なかったんです。

これじゃあ、願掛けになってなかった?


しかし一方で、「細くて切れやすいから、1年の災いを年内に断ち切るため」 という説もあるんですって。


いずれにせよ、蕎麦を食べれば開運間違いなし・・・ってことのようです。笑2


ただし年越し蕎麦は、年を越す前に食べるのが慣わしとのこと。


うっかり 「年越しだから」 って明日食べると来年は運気に恵まれないそうですから、今日中にしっかり食べましょう。


私は年越しそばを食べ、夕方からは紅白を観ずにバッハの 『マタイ受難曲』 などを聴きながら読書をしつつ、『ゆく年くる年』 の時間を待つつもりです。


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-マタイ受難曲


・・それでは皆さん、良いお年をお迎えください!扇子




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出 番

先週、年に一度のお楽しみ・・・N響の第九演奏会に女王様と共に行きました。

今年はうっかりチケットの販売開始日を忘れていて出遅れてしまい、ここ数年行っていたサントリーホールが取れず、久しぶりにNHKホールへ。

        

指揮者が毎年違うこともこのコンサートを聴く楽しみのひとつなんですが、今年は私より4つ年下、ソビエト(エストニア)出身のパヴォ・ヤルヴィ。

非常に統率が取れていて、かつメリハリの効いていて、中々良い演奏でした。

この指揮者、横顔がブルース・ウィルスによく似ていて、私はなんだかクリスマス時期と相まって『ダイ・ハード』のマクレーン刑事がタクトを振っているみたいに見え、なんだかおかしくて前半は彼の動きばかりに目が行ってしまいました。

女王様にそう言ったら、彼女自身は〝鍛えていないプーチン大統領〟に見えたとか・・・皆さんの目には、どう映るでしょうか?あせあせ (


        


さて、この第九コンサートには、毎回新しい発見やハプニングが付き物なんですが…今年もありました。

今回チケット入手が出遅れたため、前から3列目とはいえかなり右側の席しか取れず。

毎年指揮者によってオーケストラの配置は変わるのですが、今回は通常ステージ右側にいるチェロやコントラバスが左に置かれた関係で、私たちが座った席の真ん前には、トロンボーン奏者が丸見え。

下の写真は2年前のもので配置は若干違いますが、右端にいるのがトロンボーンなのは同じですから、私との位置関係はお分かりいただけると思います。

 

第1,2楽章まではマクレーン刑事の指揮ぶりに見とれて(?)いた私ですが、第3楽章に入った辺りから、ふと正面にいるトロンボーン奏者に気になり始めました。

というのは、彼らはトロンボーンをスタンドに立てたまま、ジ~ッと佇んでいるだけだったから。

             

このトロンボーンは元々ミサなどの教会音楽に使われていた楽器ですが、初めて交響曲のパートとしてオーケストラに加えたのが、実はベートーヴェン。

有名な交響曲第5番『運命』で、初めて使われたのです。

とはいえ、演奏する時間は長くなく、第九でもあまり目立たない存在。

それは知っていましたが、いざ目の前でただ座っている奏者の姿に気がつくと、今度は

(一体、いつ吹くんだろ?)

と、気になって仕方ありません。

耳では演奏を聴いていても、目は殆ど彼らに釘付け・・・しかし第3楽章に出番はなく、第4楽章に入っても、じっとしたまま。

そして合唱が始まると、やっとスタンドに立てたトロンボーンからマウスピースを外したり、スライドを動かしたりと動きが。

(おっ、いよいよ出番だナ。)

と注目していると、合唱の第二主題の出だしから、いきなりフォルテで強烈な吹きっぷり。

あれだけ長い待機時間の末にほぼ独奏のような状態での出番でしたから、奏者はかなり緊張したことでしょう。

それが証拠に、それまではしかめっ面で待っていた奏者が、吹き終わってスタンドにトロンボーンを戻したときは、すっかりリラックス・ムード。

見ていた私も、ホッとしました。

オーケストラには、いろいろなドラマがあるものです。

※お時間のある方は、カラヤン指揮ベルリン・フィルの演奏で、そのパートをお聴きください。 55分55秒あたりから聞こえる金管楽器の音が、トロンボーン・・・画面でも少し登場します。(

      https://www.youtube.com/watch?v=KIUlUSWfILU


ところで、ハプニングといえば、ひとつありました。

この第4楽章の『合唱』が始まる直前、観客席の真ん中あたりから中年男性がダウンジャケットを手にコソコソとステージ前を通って会場から出て行ったのです。

コンサート中は携帯の電波は遮断されていますから緊急連絡など入るはずもないのに、一番イイところでなぜ?

私は瞬間的に、(もしかして、爆弾テロ?)と思いました。

女王様も同じことを考えたようですが・・・幸い何事もなかったとはいえ、非常識な行動は取ってほしくないもの。

人気アイドルのコンサートとは違って、会場入口での手荷物・身体検査は何もしていませんでしたが、今後はある程度する必要があるかもしれません。

全く、イヤな・・・というか、不安な世の中になったものです。うー



印 字

今日は、クイズからスタートです。

これは、何の機械でしょう? (

        

おそらく40歳以下の方は実物を見た事がないかもしれませんが、中高年の方なら懐かしい代物ではないでしょうか?

そう、正解は

 和文タイプライター

この機械の特許を篠原勇作という人物が取得したのが、今から108年前の今日・1907(明治40)年12月30日のことでした。


少ないアルファベット文字の組み合わせで済む英文タイプライターと違い、膨大な文字数の漢字を扱う日本語のタイプライターの開発は、当初不可能とされていました。

それを考案したのですから、ある意味画期的・・・だったのですが、残念ながらその時点では実用化には至りませんでした。

実際に和文タイプライターを発明・実用化に漕ぎ着けたのは、大阪活版印刷研究所の技術主任であった

杉本 京太 氏 (1882-1972)


          


1914(大正3)年に退職・独立し、翌年・・・つまり今からちょうど100年前に和文タイプライターを発明し、特許を取得。

これは英文タイプライターと全く構造が違い、字庫に並べた活字を前後左右に稼働するバーで選択しつまみ上げ、円筒に巻かれた紙に向かって打字する、というものでした。


使用頻度により選ばれた約2,400字を揃えたこの和文タイプライターは、当時1台180円・・・現代の20万円以上に相当する高級品。

しかし1920年代から官公庁の公文書作成に使われるようになると全国に普及。

検定試験も始まり、女性にとって和文タイピストは憧れの職種として持て囃された時期があったとか。

私が損保マンだった今から30年程前に勤務していた本店営業部のフロアの一角に 『タイプ室』 があり、そこには3人の女性タイピストがしらっしゃいました。

今のPCワープロ機能と違い、デリートキーなんてありませんからミスは許されず、故に一つの文書を作成するには時間がかかりました。

ゆえに自分が作成を依頼する文書を少しでも早く仕上げてもらうためには順番をスキップしてもらう他なし。

そこで私は時々タイプ室にウチの女王様より怖そうなオネエ様の好みのスイーツを差し入れて顔を売ってましたっけ。

今にしてみれば懐かしい思い出ですが・・・その中で彼女たちがすごく怒っていた話を憶えています。

それは、ある本店営業部の社員が、取引先の大手メーカーのゴルフコンペを取り仕切る際、参加メンバーに配るスコアカードに、タイプ打ちを依頼してきたこと。

私も、(そこまでやるか)と驚きましたが、タイプさせられるお姐様たちは

「いくら何でも、そんなことまでやらせるなんて、バカにしてるワ!」

とカンカンでしたっけ。

でもそんな和文タイプも、私が地方に転勤した後の昭和60年代から急速に普及したワープロに押され、再度東京に転勤で戻ってきた時には既にタイプ室は閉鎖されていました。

お世話になったタイピストさんたち、その後どうしているのやら。
そしてスコアカードの印刷・・・現在の担当者はどうやっているんでしょう?

因みに、1985(昭和60)年に特許制度制定百周年を記念した『日本の発明家十傑』で、豊田佐吉・御木本幸吉氏・鈴木梅太郎各氏と共に、杉本氏も選出されています。

それだけの大発明だったのに、今はもう・・・改めて技術革新の早さを痛感させられますネ。うー

シネマ

〝映画を発明したのは、誰?〟・・・と問われたら、多くの方はエジソンと答えるでしょう。

確かに正解なのですが、それは現在のような映画ではありませんでした。

彼が1891年に発明した 『キネトスコープ(Kinetoscope )』 は、やはり彼が発明した 『キネトグラフ(Kinetograph )』 という撮影機で撮影したフィルムを箱の中で覗き込んで観る方式でした。


       


1893年のシカゴ万博に出品され、翌年にはニューヨーク・ブロードウェイに世界初のキネスコープ・パーラー(映画館)が出店すると大人気となり、アッと言う間に全米にこのパーラーが出店したとか。

(※このキネスコープが日本で初上映されたのは、1896(明治29)年11月25日~12月1日の間、神戸・神港倶楽部でのこと。 これを記念して、『映画の日』 がキリのいい12月1日に制定されました。)


このキネトスコープをパリで観て衝撃を受けた人の中に、クロード・アントワン・ルミエールという人物がいました。

彼は元肖像画家であり、その時は写真館を経営していたのですが、このキネトスコープを観るや「これからは写真より動画の時代」であることを直感。

そして、2人の息子オーギュストとルイに動画の研究を勧めます。


       
 

           Auguste and Louis Lumière

元々父の仕事を手伝いながら、感光材や写真乾板の研究・製造を行っていた兄弟はキネトスコープを研究・改良し、1895年に映像をスクリーンに投影して多くの人が同時に映画を鑑賞できる 『シネマトグラフcinématographe )』 の開発に成功。

       

               cinématographe


そして2回の試写会を経て、今からちょうど120年前の今日・同年12月28日にパリのグラン・カフェ地階にあったサロン・ナンディアンで、世界初となる映画の商業(有料)公開が行われました。   


これを記念して、今日は


 シネマトグラフの日


とされています。

この日上映されたフィルムは 『工場の出口』を 含む10本の短編映画だったそうな。

この世界初の公開映画作品となった 『工場の出口』 は、弟ルイが撮影機を持って自ら経営する工場の出入口で従業員が出てくる様子を撮影したもので、全編僅か46秒。

     


何の変哲もない日常風景を撮影しただけのものですが、それでも当時の人々には珍しく、お金を払っても観る価値があった、時代の最先端を行く〝見世物〟だったのでしょうネ。


ルミエール兄弟は、その後シネマグラフの特許を売却して映画事業から撤退しましたが、1907年には世界初の実用カラー写真 『オートクローム』 も開発・販売。

写真・映像産業に多大な功績を残しました。


ちなみに日本で初めてシネマグラフが上映されたのは、1897(明治30)年2月20日・・・大阪戎橋の南池演舞場で映写機2台とフィルム8本を輸入してのことでした。

映画に関しては、東京より大阪・神戸が先だったんですネ。
さすが関西人は新し物好き!?

       

年末年始にかけてご自宅で映画を鑑賞される方も多い事でしょう。
エジソンだけでなく、どうかルミエール兄弟にも感謝の意を捧げていただきたく・・・。笑3





三冠王

・・・といっても、プロ野球の話ではありません。

登山家の憧れといえば、やはり世界最高峰のエベレスト登頂だと思います。

日本で最も有名な登山家といえば植村直巳さんであり、彼が1970年に松浦輝夫さんと共に日本人として初めてエベレスト登頂に成功したことは、皆さんもご存知でしょう。

通常エベレストの頂上アタックは最も気候が穏やかな春がシーズンであり、植村さんや80歳で登頂し話題となった三浦雄一郎さんをはじめ、過去20年間に登頂に成功した日本人は全て5月に登頂しています。

しかし、人間を拒絶するかのような8,848mの山頂に、世界で初めてネパール・チベット両ルートから登頂したぱかりか、春・秋そして最も過酷な冬と3度も登頂に成功という、これまた世界初の〝エベレスト三冠王〟という偉業を達成した日本人がいるのです。


その登山家の名は、

 加藤 保男 さん

今日は、この世界登山史上に名を残した彼の命日にあたります。


          


加藤さんは、1949年に埼玉県・大宮市(現・さいたま市)に生まれました。

弊社事務所のすぐそばにある大東文化大学第一高等学校在学中から、登山家だった実兄の滝男さんの影響で登山を始めた彼は、日本大学文理学部に進学しても大学の登山部には所属せず、滝男さんが主宰し、女性として世界で初めてアルプス三大北壁登攀に成功した今井通子さんも所属するジャパン・エキスパート・クライマーズ・クラブ(JECO)で腕を磨きます。


そして1969~72年にアルプスの3大北壁(アイガー、グランド・ジョラス、マッターホルン)を立て続けに制覇すると、翌73年10月にはネパール側・東南稜からエベレスト初登頂に成功。

しかし強行スケジュールでの登頂だったため山頂付近でのビバークを余儀なくされ、奇跡的に救出されたものの両足の指全てと右手の指3本を凍傷で失ってしまいます。

(足の指の切断といっても、28cmあった足のサイズが10~11cmになるほど根元からの切断。

しかもも彼は全身麻酔をかけるという医師の意見を拒否し、部分麻酔で自分の足が切られるところを 「ちくしょう、エベレストめ!」 と呟きながら自分の目で確かめ、2時間の手術耐えたとか。驚き顔

山男の執念、恐るべし。)


これだけの肉体的な致命傷を負えば、普通は登山家の道を断念しそうなものですが、この天才クライマーは違いました。

1980(昭和55)年5月には、チベット側の北東稜から2度目のエベレスト登頂に成功すると、翌年10月には、尾崎隆さんらと共にマナスルに無酸素登頂に成功。

ハンデを負ってレベルを下げるどころか、ますます困難な状況下での登山に挑戦し続けたのです。

そして1982(昭和57)年12月27日、不可能とも思える厳冬期のエベレストに東南稜から世界初の登頂に成功し、遂に三冠王を達成!

3回の挑戦で3回とも成功という成功率100%のおまけつきで。

しかし、これまで彼を見守ってくれていたはずの山の神様は、非情にもここで彼を見放してしまいました。


同日下山中に悪天候に遭遇した加藤さんは、やむなく同行した小林利明さんとビバーク・・・そのまま消息を絶ってしまったのです。

直前の交信では冷静な受け答えをしていたので、酸素不足で錯乱状態になったわけではないそうですから、おそらく猛烈な突風に吹き飛ばされたのでしょう。


彼が33年という短い人生を捧げた登山がいかに過酷なものだったのかを、この著書で知ることができます。

 『エベレストに死す』 (長尾 三郎・著 講談社文庫・刊)

        


現在、人類で初めてエベレストに登頂したのは、1953年・・・ニュージーランドの登山家エドモンド・ヒラリー卿とシェルパのテンジンとされています。

しかしそれ以前の1924年に頂上アタックを行い消息を絶ったジョージ・マロリーが登頂に成功したかどうか、が現在でも議論になっています。

※マロリーに関する過去記事は、こちら。(

 http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10825806036.html

そのマロリーが生前、「なぜ、あなたはエベレストに登りたいのか?」 と問われて


「そこに山(エベレスト)があるからだ。」 

   Because it's there


と答えたという逸話は有名ですが・・・もし加藤さんに同じ質問をぶつけたら、どう答えたのでしょうネ?


身長180cmと大柄ながら、山男なのに酒よりもスイーツを愛し、手足の指を失いながらもエベレストに3回、そして8,000m級の山に4度も登頂に成功した日本有数・・・というより世界的登山家のご冥福をお祈り致します。

その不屈のチャレンジ精神に敬意を表しつつ・・・。笑3


公 開

今から41年前の1974年11月、田中角栄氏が金権政治の批判を浴び退陣。

その跡目を争ったのが、福田赳夫・大平正芳・三木武夫の3氏でしたが、結局〝椎名裁定〟によって総理のイスに座ったのは、三木武夫氏。

その三木新総理が、就任早々の同年12月26日に行ったのが、自らの


 資産公開

でした。

彼の取り柄は田中氏との対比を鮮明にした金に関して〝クリーン〟だったこと。

自らの財布の中身をオープンにすることによって、国民の支持を得ようとしたわけです。


それから10年後の1984年には、第2次中曽根内閣が大臣規範により総理や国務大臣の資産を公開。

そして1992年には国会議員資産公開法 (正式名称:政治倫理の確立のための国会議員の資産等の公開等に関する法律) が制定され、国会議員の資産も公開されるように。

法律では毎年12月末時点での資産を翌年4月に議長宛てに報告することを義務付けています。

毎年マスコミによってそのランキングや、注目議員の資産内容が報道されますが・・・皆さんはそれをどのように見ていらっしゃるでしょうか?


           

                  三木 武夫 氏

私は、この資産公開に関しては冷ややかに見ています。

その理由としてはまず、この法律がいわゆる〝ザル法〟であること。

同法で公開を義務付けられている資産には、

 ◆ 普通預金
 ◆ 配偶者・親族名義の資産

が含まれません。

また借入金も報告しなければなりませんから、相殺されて〝資産0〟という議員が何人も出てきてしまいます。

これで実態が明らかになっている、とは到底言えないでしょう。

それから、もうひとつ。


資産額と議員の政治手腕は関係ない、ということ。

確かに同法の成立目的である〝国会議員の資産の状況等を国民の不断の監視と批判の下におくため、国会議員の資産等を公開する措置を講ずること等により、政治倫理の確立を期し、もって民主政治の健全な発達に資すること 〟自体は、ある程度達せられるかもしれません。

しかし国民の多くは、この報道を野次馬的というか(現在は公表されていませんが)高額納税者番付を見るような興味半分・やっかみ半分で見ている気がします。

また 【資産がない → お金にクリーン → 政治家向き】 という安直なイメージを有権者に植え付ける危険性も。

もちろん、資産があるから政治家として有能だとも言えません。

あの毎月母親から莫大なお小遣いもらっていた宇宙人がどんな政治家だったかを考えれば、納得いただけると思います。

以前から申し上げていますが、私は政治家に潔癖さなど求めません。
求めるべきは、国家の領土・領海を守り、国民の生活を安定させること。

それが出来る人であれば、個人的な資産内容はどうでもいいのです。

果たして国会議員の資産公開が、どれ程国民に有益なのか・・・皆さんは、どうお考えになるでしょうか?



短 文

現在のように誰もが携帯電話を持つ遥か以前、電話もあまり普及していなかった時代・・・遠く離れて暮らす家族や友人に緊急の連絡をする時は、


 電 報


を打つのが唯一の手段でした。


その電報が我が国で初めて導入されたのが、今から146年も前の今日・1869(明治2)年12月25日のことだったそうです。

但しこの時は東京-横浜間限定だったそうですが。

そして現在利用頻度が高い慶弔電報が開始されたのが、1936(昭和11)年のことでした。


昔は料金が高かったため、電文を1文字でも減らそうと人々は一生懸命知恵を絞りました。

『チチキトクスグカエレ』 とか 『カネオクレ』等々・・・短いカタカナ数文字に、その緊急性と切迫した様子がヒシヒシと伝わってきます。


現代では表紙を豪華にしたり音声が出るものやぬいぐるみ付き、あるいは最近よく現場で見かける弔電にお線香が埋め込まれているものも・・・。(↓)

        


更にはレタックス等々多様なバリエーションが登場しています・・・が、一方で肝心の電文が味気なくなっている気もします。


私は商売柄弔電を奉読させていただく機会があるのですが、故人様やご遺族の勤務先から送られてくる弔電の多くは表紙は押し花や漆調の高級品であっても、電文は定型文が殆ど。


〝以下同文〟ばかりだと何とも味気ないものですが、時として親しいご友人や参列できないご親戚からは、読ませていただく私でさえグッときて所々声に詰まってしまう名文が認(したた)められていることがあります。        

昔、ある新人の郵便局員が電報の配達係に配属されたました。 

まだ若く世間知らずの彼は、先輩局員に弔電の配達方法を教えられます。


「いいか、弔電を届ける時はちゃんと靴を脱いで上がらせてもらい、お線香を上げてくるんだぞ。」


彼はその教えを忠実に守り、どの家に行っても律儀に拝んで歩きました。


ある時、「お線香を上げたら、お饅頭をもらいました。」 と嬉しそうに先輩に報告したら、先輩こう言ったそうです。


「お、お前・・・本当にやったのか?」


そう、先輩はからかうつもりでウソを教えたんです。


その後彼が線香を上げ続けたかどうかは定かではありませんが、彼の配達地域では 「随分と丁寧な電報屋さんがいる」 という評判が立ったとか・・・。


たった一通の電報ではありますが、表紙にお金をかけるのもいいですけど、〝真心〟を乗せて送りたいものですネ。笑3


・・・あっ、それから業者としてのお願いがひとつ。


最近の電報は漢字を使った一般文章が殆どですが、もし発信人のお名前が読みにくい、あるいは読み間違えやすい時は是非フリガナを一緒に打電してください。


現場で誰も読み方を知らず、調べるのにてんてこ舞い、なんて事がよくあるのです。


フリガナをふるちょっとした気配りは受け取る側に伝わりますし、奉読する私もその会社名はしっかり記憶しています。




結 社

クリスマス・イブに相応しくないかもしれませんが、全くキリスト教と関係ないとはいえない話題です。

アメリカにおける陰の歴史ともいえる、人種差別を肯定し黒人に対して憎悪をむきだしにする

 クー・クラックス・クラン
     Ku Klux Klan

俗に KKK と呼ばれる、この白人至上主義を標榜する秘密結社が設立されたのが、今からちょうど150年前の今日・1865年12月24日のこととされています。

この日、南部連合の奴隷商人であり退役軍人だったネイサン・B・フォレストという人物によって、テキサス州ブラスキに設立されました。

この珍しい響きの結社名の由来は

◆ 名前の由来はギリシャ語の “kuklos (円環、集まりの意) ” の転訛と、英語の“clan (氏族、一族)“ を合成・変形させた合成語。


◆ 銃に弾丸を装填する擬音から

という説があるそうな。


フォレストは一兵卒として入隊しながら南北戦争末期に将軍にまで昇進したという、非常に稀な経歴の持ち主・・・それだけ軍人としては図抜けた才能があったのでしょう。


しかし設立当時は私たちがイメージする先鋭的な人種差別支持団体ではなく、あくまで退役軍人のサロン的なものだったとか。

それがやがて合衆国政府の占領統治への反対という政治的な活動を始め、更には奴隷解放反対も運動に加えられるように。

そしてある時、白い布で作った装束で黒人居住区を練り歩くと、黒人たちが彼らの集団に恐れをなして家に逃げ込みました。

当初は単なる嫌がらせ行為だったのですが、その様子を見たKKKのメンバーは味を占めて繰り返しこの示威行動を取るように。

設立から4年後、創立者のフォレストは当初の目的から外れて暴力化していったことに嫌気し総司令の座を辞し解散を宣言。


しかし他のメンバーは活動を続け、南部の人種差別主義者が続々と結社入りし会員数は増加の一途を辿りました。


        

そして20世紀初頭になるとW・J・シモンズという白人の伝道師により〝第2のKKK〟が誕生。


〝アメリカは予言によりキリスト教徒に約束された地。 白人のみがアダムの子孫であり、唯一魂を持ち一切の罪を犯していない、神に選ばれし民として他の人種からは隔離されるべき。〟

と主張する彼らは更に先鋭的で、黒人のみならず有色人種全体、更にはカトリック教徒・共産主義者の排撃をも主張。

これが白人貧困層の支持を集め、組織は拡大すると共に暴力的に。


1923年にはオクラホマ州だけで2,300件以上の暴行事件を引き起こしましたが、その勢力は政治的にも影響力を持つまでに発展。


インディアナ州ではKKK会員が州知事になったばかりか、信じられないことにトルーマン大統領も嘗ては会員だったとか。


しかしそんなKKKにも、衰退の時が訪れます。

1925年、結社の指導者的立場だったD・C・スチーブンソンなる人物が女性教師を拉致・強姦し全身を噛み、逃げ出した女性が死亡するという事件を引き起こします。

スチーブンソンが逮捕・起訴され終身刑に処せられたことで、KKKのイメージは大きく悪化。

この事件の起きたインディアナ州では、事件前に18万人もいた会員が、数年で4,000人まで激減。

他州も同様で、一気に結社の活動は沈静化していきました。

しかし現在でも、KKKは水面下で活動を続けているといわれています。

kKKの活動に関しては様々な映画やTVドラマで取り上げられていますが、私が最も印象に残っているのは、J・ハックマンやW・デフォーが出演しアカデミー撮影賞を受賞した 『ミシシッピー・バーニング』(Mississippi Burning 1988年公開)。

        


南部の強烈な人種差別の様子を描いた作品ですが、時代設定は公民権運動最中の1964年。

最も活動が激しかった1920年前後は、これより酷かったはず・・・そう思うと、ゾッとします。

全国組織としては1927年に崩壊しているとはいえ、地域別に水面下で(名前を変えて)活動は続いていると言われ、21世紀に入ってもマスメディアからネオナチと連携したとする報告もなされています。

(人種)差別や弱者に対するイジメは、ある種人間の自己防衛本能の為せる業。

そう簡単には無くならないようです。うー




査 問

1年前に行われた衆院選で、議席数を8から21に増やし躍進(?)した日本共産党。

随分鼻息が荒いコメントを志位委員長が残していました・・・が、私の見立てでは他に入れる党がなかったから共産党に入れた、という有権者が多かっただけのように思えます。

そして新たに同党に投票した有権者・・・特に若い世代の方々は、この党の歴史をどの程度までご存じだったのでしょう?

「そんなの知らない」という方のために、今日は共産党の少々暗い歴史をご紹介致します。

1922年に結党された日本共産党は治安維持法により当初から非合法活動を強いられ、収入源に苦しんでいました。

そして1932年10月、共産党は『熱海事件』・ 『赤色ギャング事件』 により多くの幹部党員が逮捕され、壊滅的な打撃を受けます。


(※この事件に関する過去記事は、こちら。 ↓)

   http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11287963833.html

これらの取り締まりをかいくぐって検挙を免れた幹部党員により、同党は辛うじて存続したのですが、しばらくして


 日本共産党スパイ査問事件


が露見することに。

今から82年前の今日・1933(昭和8)年12月23日、当時同党中央常任委員だった宮本顕治氏らが同党中央委員だった大泉兼蔵・小畑達夫両名にスパイ容疑をかけて呼出し監禁。

自白させようと〝査問〟と称するリンチを行い、同日小畑委員は死亡し床下に埋められたのです。

(この時大泉委員は壮絶な拷問に気絶、しかし宮本氏は死んだと勘違いして引き上げたため、その後蘇生し命拾いしたとか。)

          

                  宮本 顕治 氏


翌日付の 『赤旗』 紙には 「中央委員小畑達夫・大泉兼蔵の両名は、党攪乱者として除名し、党規に基づき極刑をもって断罪する」 という声明を掲載。

警視庁はこの〝極刑〟という表現に注目し、両名が殺害された可能性があるとみて捜査を開始し、3日後の26日に宮本氏は逮捕。

黙秘を続けたものの、治安維持法違反らの罪で無期懲役の判決を受け収監。


しかし終戦直後の1945年10月、GHQが政治犯の釈放を命じた事により、宮本氏は網走刑務所から釈放され、赦免が決定。


その直後から党を再建した彼は、1958~70年に同党書記長、70~82年まで委員長を務め、実質的には亡くなる2007年まで約半世紀にわたり共産党を指導し続けました。

この事件については、1988年に当時衆院予算委員長だった浜田幸一氏が


「宮本氏が人を殺したと言っただけじゃないか」


などと発言し、辞任するキッカケとなったことで注目を集めたことも。

しかし宮本氏の影響力は、現在でも同党から払拭されたとは言い切れません。

現在委員長を務めている志位氏は、かつて宮本顕治氏の長男の家庭教師を務めていた人物ですから。うー

同党はこの〝査問〟事件における小畑・大泉両名に対する暴行の事実をすべて否定しています・・・が、私はとても額面通りには受け取れません。

同党に関して詳しく知りたい方には、『日本共産党の研究』(立花 隆・著 講談社文庫・刊)のご一読をお勧めします。

また同党は、オウム真理教関連団体、革マル派・中核派・革労協などの過激派らと同様に、公安調査庁の監視対象団体であることも事実。


有権者の皆さんには、耳触りの良い選挙演説に耳を傾けるだけでなく、政党の歴史や背景も熟知した上で投票していただきたいものです。


口 髭

講釈師 見てきたような 嘘をつき〟

〝講釈師 扇で嘘を 叩き出し〟

なんて川柳もありますが・・・張り扇で釈台をパパン、パン、パンッと小気味よく叩きながらのリズミカルな語りで聴衆をその世界に引きずりこむのが、講談。

落語・漫才と並ぶこの日本独自の芸能の世界に私を誘ってくれたのが

 田辺 一鶴  師匠

今日は、モジャモジャの口髭をたくわえ、一度見たら忘れられない強烈なキャラの持ち主だったこの名講談師の命日・七回忌にあたります。


一鶴(本名:佐々木秀雄)師匠は、1929(昭和4)年の東京生まれ。

25歳の時に十二代・田辺南鶴師匠の内弟子となった彼は、信じられないことに当初は吃音で苦しみ、田辺の〝た〟さえ言えないことがあったとか。

それを克服する過程で独特の話術を身につけた彼を一躍有名にしたのは、万国旗を出しながら参加国の名を延々と読み上げる新作講談 『東京オリンピック』。

小学生だった私が一鶴師匠の講談を初めて聴いたのが、コレでした。

国の名前が次々と飛び出す話術に、当時各国の名前とその首都を全部覚えようとしていた当時の私は、とにかく(凄いな、この人。)と感心したものです。 


その5年後、NHKのTV番組『ステージ101』にレギュラー出演したことでその人気は全国区になり、1972(昭和47)年には、E・プレスリーの〝ポーク・サラダ・アニー〟をモジッた 『ポークサラダ兄ぃ』 を何とプレスリーとの共演でリリース。

2000(平成12)年にはロサンゼルスで 『イチロー物語』 を披露し大好評、以後4年連続でロス公演を実現しました。


          

一鶴師匠の凄いところは、演ずるレパートリーの多くが新作ネタだったこと。


師匠は将棋アマ五段をもつ明晰な頭脳の持ち主であると同時に、その時々の時事問題も織り交ぜるなど、とにかく勉強家。

読書好きが高じて、一時期都内で 『イッカク書店』 を経営したほど。


そのたゆまぬ創作意欲と情報収集能力で、『田中角栄伝』・『貴花田と宮沢りえ』・『野茂英雄物語』・『古賀政男物語』、そして自身がかつて居候をして仕事を手伝ったという『水木しげる物語』等々、次々と新作を演じました。


またビアニストの羽田健太郎氏と 『ショパンと名曲の人生』 で協演するなど、新境地も開拓。

そして一般人を対象とした講談大学を解説したり、講談界で初めて女性や外国人の弟子を取り育成したことは、講談という古典芸能の裾野を広げる大きな功績と言って良いでしょう。

「101歳まで現役」 を目標とし、自叙伝を執筆中だった講談界最長老となった一鶴師匠でしたが、残念ながら病には勝てず・・・2009(平成21)年12月22日、肺炎により80歳で天に召されました。

師匠晩年の語り、短いですがこちらでご覧いただけます。(↓)


      https://www.youtube.com/watch?v=-Fr0KeAAPWw


〝講談界の異端児〟とも言われた天才講談師のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3