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Wild Speed

彼の出演していた映画シリーズが大好きだっただけに、その突然の訃報は少なからずショックでした。

『ワイルド・スピード』 シリーズの主役を演じていた


  ポール・ウォーカー

 Paul William Walker IV


が乗っていたスポーツ・カーの単独事故でこの世を去ったのは、2013年11月30日・・・日本流にいえば、今日が彼の三回忌にあたります。


           


1973年にアメリカ・カリフォルニア州で生まれたポールの家系は、祖父がプロボクサー、父親も有名なアマチュァ・ボクサーだったという格闘家の血筋。

映画では周囲もデカいからかあまり大きく見えませんでしたが、身長188cmという長身。

ハンサムな彼は、2歳の時には既に赤ちゃんモデルとしていくつものCMに出演していたそうな。

そして子役としてTVドラマに出演していた彼は、一旦芸能生活から離れ普通の高校生活を送っていたそうですが・・・このマスクじゃあ周囲が放っておきませんょネ。

再び出演オファーが舞い込むようになり、俳優の道に。

そして彼の名を世界的に有名にしたのが、2001年公開の『ワイルド・スピード』でした。

子供の頃からスピード狂だったという彼には、ピッタリのハマリ役。

その後このシリーズはヒットを連発、彼も3作目の〝TOKYO DRIFT 〟を除く全作品に登場しました。

しかし2年前の今日、チャリティーイベントに出席後、親友のプロドライバーが運転するポルシェ・カレラの助手席に乗って移動中、単独事故に遭遇。

制限速度・時速72kmのところを160kmで爆走し、ハンドル操作を誤って街灯や街路樹に衝突したポルシェは大破・炎上・・・ポールは40歳の若さで帰らぬ人に。





彼が出演していた『ワイルド・スピード』のエンドロールには、〝これは閉鎖された場所でプロによって撮影されたものですから、真似しないで・・・〟という警告文が流されますが、まさかその映画の主役が制限速度を100km近くオーバーした車に乗って事故に遭おうとは。

彼の遺作となってしまったシリーズ最新作 『ワイルド・スピード スカイミッション』 は撮影が続行され、今年4月に無事公開されました。


クランクアップ寸前の事故だったため主要な出演場面は既に撮り終わっていたものの、細かいシーンは残されていたそうですが、そこを埋めたのが彼の2人の弟。


      


上の写真、真ん中がポールで両端が弟さんだそうですが、特に右のすぐ下の弟さんはソックリ。

まだ彼の遺作をご覧になっていない方は、どこで弟さんが代役出演しているか、見つけてみてください。

私生活では日産スカイラインGT-Rを乗り回していたという若きヒーローのご冥福を、あらためてお祈り致します。

そしてドライバーの皆さん、スピードはくれぐれも控えめに!うー


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地 底

人類で初めて北極点に到達したのは1909年4月6日・・・アメリカ人冒険家ロバート・ピアリーらによるもの。(但し、これには捏造説有り。)

そして南極点に到達したのは、1911年12月14日・・・ノルウェー人のロアール・アムンセンであることは、有名です。

彼らはそれぞれ犬ソリなどを使い徒歩で到達したのですが、彼らとは違い飛行機を使い人類で初めて両極地点に到達した冒険家がいます。 それは

 リチャード・イヴリン・バード (1888 - 1957)

    Richard Evelyn Byrd

という、アメリカ軍人。


まず彼は、1926年5月9日にノルウェー領のスピッツベルゲンからフォッカー3発機の搭乗して往復15時間かけて北極点に到達。

更に今から86年前の今日・1929年11月29日(または28日)、南極大陸のリトル・アメリカ基地からフォード3発機に搭乗し、やはり往復15時間余りをかけて南極点に到達したのです。

この両極点到達により、彼は一躍アメリカン・ヒーローに・・・ちょうど大恐慌が起きた年ですから、アメリカ国民の沈んだ心を鼓舞したのでしょう。

しかしバードの活躍は、これに留まりませんでした。


        


彼はその後1950年まで5回にわたりアメリカ海軍による南極調査を指揮。

中でも1946~47年にかけて行われた〝ハイジャンプ作戦〟は総勢4,700名、艦船13隻、更に多数の航空機を投入して、寒冷地における人間や機材の動作状況の確認、また恒久基地建設の可否を判断するための、実に大掛かりなもの。

これだけの大部隊を任されたバード氏の軍における信頼度は、非常に高かったと思われます。

が、その彼が実はとんでもない・・・と言うか興味深い体験談も残しているのです。

1947年2月に調査のため北極上空を飛行していた彼は、北極の氷原の上に黄・赤・紫が混ざったような色の奇妙な穴を発見。

それが何か確かめようと近づくと、その穴の中には森や川があり、マンモスのような動物が歩いていたとか。

しかも極点付近を飛んでいたはずなのに、機内の温度は急上昇し23℃に。

そしてそこには人間と殆ど変わらない背の高い地底人もいて、平和に暮らしていた・・・というのです。

その報告を聞いた海軍は1956年1月、彼に命じて今度は南極の穴から地球の空洞に入らせ、内部を撮影した写真や16mmフィルムを持ち帰ることに成功したとか。

しかしそれらは〝エリア51〟同様に最高機密扱いとなり、軍の外に漏れることはなかったといいます。



       


まがりなりにもバード氏は少将にまで上り詰めた海軍々人。


空想でホラを吹く人物とは思えませんが、彼が日記に残したという〝地球には空洞があって、そこには地底人が住んでいる〟という話、皆さんは信じますか?

もし本当に平和で自然豊かな地底の世界が存在するなら、そちらに移住するのも良いかも・・・。

今後北極圏航路の旅客機に搭乗する機会があれば、寝ていないで下界をしっかり眺めてください。

もしかしたら、ポッカリと大きな穴が開いているかもしれませんから・・・。冷や汗



番狂わせ <下>

角栄が行なったのは、電話作戦である。

北海道から沖縄に至る全国の知事・市町村長・正副議長・党三役・農協・漁協・商工団体そして地域のめぼしい企業のボス・・・そうした人々の住所・氏名・電話番号を幅1.5m×長さ20mに達する紙にギッシリと書き込ませた。

予備選が始まると、彼は午後からの来客を断り、執務室にテーブルを総動員して端から端までその長大な電話リストを並べさせた。

そして彼は靴を脱いでテーブルの上に立ち、赤鉛筆を持って

「××県の△△、番号は○○○○-○○-○○○○!」

と叫ぶ。 秘書の私は受話器を持ち歩き、ダイヤルを回して出た相手が本人かどうかを確認して「ただ今、田中と代わります」と言って、受話器を親分に渡す。

「オレだ。 お前は福田か? 大平か?」

とズバリ。 相手も口ごもる。

「そうか、福田か。 現職だからな。 しかし、大平が勝つよ。 


お前のところは3,000票ある。 四分六でいいから、大平にも回せ。」


「・・・・・・・・・。」

「あのなぁ、お前が2年越しに言ってた陳情、あの厄介なヤツ。アレ、昨日片づけたょ。」

「分かった、角サン」


と先方も答えたに違いない。

「よし、それでいい。 じゃあ、頼んだょ。」

ガチャン。 


「次、ええと、□□県の、※※。 番号は、◎◎◎-◎◎-◎◎◎◎!」


・・・この連続であった。 

         


夕食も店屋物を取り寄せ、夜9時まで電話をかけまくった。

これだけの票は間違いない。 千葉・神奈川が弱い。 こうしろ、ああしろ。

集票活動が終わると、彼はダブル・トリプルの水割りを口に流し込み、私にあれこれ指示した。

本来、角栄は人間に対して性善説を持っている。
しかし、こと選挙に関する限り彼は性善説に立たなかった。

フタを開けてみるまでは分からない。 寝返るかもしれない。

福田は最高権力者だ。 とにかく、30年の政治生活で知り合った大・中・小のボスに頼み込むしかない。

角栄は福井県鯖江市の眼鏡協同組合の専務理事にまで電話した。

影の総司令官が汗みどろで闘っていることを知り、田中派の国会議員・秘書団も奮起した。

そして肝心の大平派にも、熱気が伝わった。
選挙は常に総力戦である。 僥倖は有り得ない。

福田氏は大角連合の闘いぶりを知らなかった。

自ら〝世界のフクダ〟と称し、現職の力を過信して、敗北した。



              『駕籠に乗る人担ぐ人』(早坂茂三・著)より抜粋・編集にて
          ◆     ◆     ◆     ◆

思わぬ敗戦を喫した福田氏が残した、有名な


「天の声にも、時々変な声がある。」


というコメント・・・この裏話を知ると、実に味わい深いものがあります。


〝勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし〟

野村克也氏(※実際は江戸時代に肥前国平戸藩の第9代当主・松浦静山が遺した剣術所 『剣談』 からの引用) の名言として知られていますが、少なくとも選挙においては不思議の勝ちはない・・・勝利は自らの汗と努力で掴み取るものなのでしょう。

いや、それは選挙に限ったことではないのかもしれませんネ。うー

「奇跡は、起きるものではありません。 起こすもんです。」

『宇宙戦艦ヤマト2199』 最終話で真田副長が口にしたこの台詞・・・あらためて噛みしめたいと思います。





番狂わせ <上>

勝負は下駄を履くまで分からない、と言われます。

スポーツの世界では、ラグヒーW杯で日本代表が南アを破ったような奇跡的な勝利は国民を興奮させますが、こと政治の世界だとそう単純ではありません。

過去の中央政界で史上最大の番狂わせは? と問われれば、私は今から37年前の今日・1978(昭和53)年11月27日に行われた自民党総裁選の予備選だった、と答えます。

大学で野球に明け暮れていた私でさえ、テレビ・新聞の大騒ぎを憶えていますから・・・。

当時の自民党総裁(首相)は、福田赳夫氏。

彼は総理のイスに座った際、「2年でそのイスを大平正芳氏に譲る」 という、いわゆる〝大福密約〟を結んだといわけていますが、いざその期限を迎える段になって続投の色気がムクムクと・・・結局密約を反故にしてしまいます。

その結果、現職の福田氏に大平氏が挑戦状を叩きつける格好で総裁選が行われることに。


他に中曽根康弘氏・河本敏夫氏も立候補し、四つ巴の戦いとなりました。

下馬評では福田氏圧倒的優位と言われていたのですが、蓋を開けてみればビックリ・・・なんと大平氏が748票を獲得し、638票の福田氏を大差で破って当選。

この予備選の結果を見た福田氏は、本選への出馬を断念。
大平氏が自民党総裁・第68代内閣総理大臣に就任しました。



  ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-福田 赳夫

この大逆転劇の立役者・・・というか影で動いたのは、大平氏と親しく福田氏とは因縁があった、あのキングメーカー・田中角栄氏。

今日は田中氏の秘書・早坂茂三氏の述懐にて、この大逆転劇の裏話をご紹介致しましょう。

          ◆     ◆     ◆     ◆

「新聞は、また間違える。」 と笑ったのは、田中角栄である。

彼は金丸信氏を呼び、大平支持の協力を要請。 
「分かりました、やりましょう。」 と応えた金丸氏の地元・甲府で地方遊説の第一声を上げた。

「金丸がやるなら、オレもやる。」

党内最強の田中軍団が一糸乱れず大平支援に動き出した。

中曽根氏が強い大票田の東京では、後藤田正晴がローラー作戦を行い虱潰しに戸別訪問。

勢い余って、中曽根の自宅を訪問した若手党員が奥さんに向かって 「大平正芳をよろしくお願いします」 と頭を下げる珍プレーも飛び出したとか。

更に田中派の懐刀・竹下登氏が大きな仕事をした。

当時自民党の党員名簿は門外不出。 本部のコンピューターにインプットされた党員名簿は持ち出し禁止だった。

しかし竹下氏は予備選前に各都道府県の支部名簿が閲覧できることを逆手に取り、各地を廻ってそのコピーを入手していたのである。

この極秘資料を武器に、田中角栄は徹底的な集票活動に明け暮れたのだ。


     ・・・・・To be continued







インスタント

・・・といっても、ラーメンやコーヒーの話ではございません。


技術革新は時代と共にますますスピードアップしていくものですが、私がそれをつくづく感じる工業製品のひとつに〝カメラ〟があります。


フィルム付きレンズ 『写ルンです』 にもビックリしましたが、やはり衝撃度からいえばコレが一番でしょうネ。


 ポラロイドカメラ


従来のようにフィルムを現像することなく、撮影したその場で 〝ジ~~コッ!〟 と画紙が出てきて、あぶり出し(って、若い方は知らないか?)の如く徐々に画像が現れるという、いわゆるインスタントカメラ。

最初にコレを目にした時は、まるで手品を見ているようでしたが・・・
このカメラが発売されたのが、今から67年前の今日1948年11月26日のことでした。


私が生まれる10年前から売られていたとは! 驚き顔 ヘェ~


        
             発売当初のポラロイドカメラ95型    

                 

もともと、この現像を要しない画期的なカメラは、E・H・ランド博士が3歳のお嬢さんに、


「どうして写した写真をその場で見られないの?」


と尋ねられたことが、開発の発端となったのだそうです。


まさに〝必要は発明の母〟・・・というか、〝愛娘を思う父の執念〟ですネ

ハーバード大学を辞めた博士はハーバードの物理学教師ホイールライトと共にランド-ホイールライト研究所を創設し、1937年には社名を『ポラロイド・コーポレーション』に変更。

そして1947年に
『拡散転写法による画像形成とそれに伴う光学機器の開発』に成功すると、その翌年ポラロイドカメラの製造・販売に漕ぎ着けました。


ちなみにPolaroid (ポラロイド)という名は、Polarizer (偏光板) と Celluloid (セルロイド) の合成語なんだそうな。


発売直後からこの全く新しいカメラは爆発的に売れ、社名がそのままこの即席カメラの代名詞となってしまいました。 


(私もしばらくの間、ポラロイドが会社名であることを知りませんでした。)

損保在籍時には、一時期査定担当社員がこのカメラで事故現場や事故車両の写真をパシャパシャ撮っていましたっけ。


          ポラロイドカメラ


しばらくは隆盛を誇ったこのインスタントカメラでしたが、焼き増しや引き伸ばしができないことと画紙単価が高いことがネックとなり、やがては『写ルンです』やデジタルカメラの登場とともに、その存在価値は急激に低下。

ポラロイド社も2度経営破綻し、ブランド名は残っているものの会社自体は消滅してしまいました。


発売から60年余り・・・この一時代をなした画期的カメラの工業製品としての寿命は、果たして長かったのか、短かったのか?笑3


しかし現在でも、富士フィルム社からは〝チェキ〟というインスタントカメラが発売されています。

現在は携帯・スマホで誰でも気軽に撮影出来る時代ですが、このカメラは前述の事故現場の証拠写真や医療分野でその利用価値があるとか。

その理由は、デジカメ画像と違って加工したり改竄できないから・・・なるほど、納得。

開発会社は消滅しても、インスタントカメラは今後も生き残りそうです。





        

憂 国

若年層の方はご存知ないかも知れませんが、今から45年前・・・大阪万博が開催された1970(昭和45)年の今日・11月25日、東京・市谷で衝撃的な出来事がありました。 それは


 三島事件

作家・三島由紀夫が市谷自衛隊駐屯地を仲間4名と訪れ、益田総監を人質にとり篭城し。 コビーではなく全て手書きした檄文を撒いた上、バルコニーで自衛隊決起のアジ演説を行った後、割腹自殺をしたのです。


まだ45歳という若さでの憤死でした。

腹に残された傷は深さ5cm・長さ14cmで真一文字に切られており、それは余程の覚悟がない限り常人には到底為し得ない刀捌きだったといいます。


当時私は小学校6年生でしたが、当日のニュースはこの事件一色だったことを、おぼろげながら記憶しています。


        


1925(大正14)年、東京に生まれた三島由紀夫〔本名・平岡公威(きみたけ)〕氏は、幼少時代を祖母の元で過ごしました。 


彼女が歌舞伎・能・小説を好んだことが、彼の小説家としての素養を培ったようです。


学習院高等科を主席で卒業後、東京帝大法学部入学。 


太平洋戦争末期に召集されるも、幸運にも戦地行きを免れ終戦を迎え、1947年に大学卒業後、文壇に登場。


以降数々の名作・話題作を発表し世界的にも高い評価を受けましたが、一方で自衛隊に体験入隊するなどしながら、民兵組織による国土防衛を模索していたようです。

三島氏は自衛隊に関して、このような発言をしていました。

〝私は、私の考えが軍国主義でもなければ、ファシズムでもないと信じています。


私が望んでいるのは、国軍を国軍たる正しい地位に置くことだけです。


国軍と国民のあいだの正しいバランスを設定することなんですよ。


政府が為すべき最も重要なことは、単なる安保体制の堅持、安保条約の自然延長などではない。


集団保障体制下におけるアメリカの防衛力と、日本の自衛権の独立的な価値を、はっきり分けてPRすることである。


たとえば安保条約下においても、どういう時には集団保障体制の中に入る、どういう時には自衛隊が日本を、民族と国民の自力で守り抜くかという限界をはっきりさせることです。〟


まさに、今年夏に安保関連法案を巡って議論になった集団的自衛権に関して示唆しているのです。

そして自衛隊の覚醒を願いつつ4年間待ったと言う三島氏が、遂に〝その日〟を迎えることになったわけです。


私は三島氏が取った自衛隊の決起を促そうとしたこの日の行動自体には必ずしも賛同しません・・・がしかし、彼が抱いていたであろう〝憂国の想い〟には大いに感ずるところがあります。

当時現場に居合わせた若い自衛官たちは彼の演説をヤジりましたが、もし今再度彼が演説をぶったら、現在の若き自衛官は同じ反応をするのでしょうか?


亡くなる3ヶ月余り前に、サンケイ新聞の特集・『私の中の25年』に掲載された 『果たし得ていない約束』 という寄稿文の最後を、三島氏はこう締めくくっています。


〝私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。


このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。


日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。


それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。〟


・・・残念ながら、三島氏が45年前に残した〝予言〟はほぼ的中しているように感じるのです。


私たちは、〝無機質でからっぽになってしまった日本〟を、三島氏の憂国の想いに応えるべくこれからどうすればいいのでしょうか?うー



口封じ

今から52年前の今日・1963年11月24日・・・その2日前、突如世界的に有名になった男が暗殺されました。 彼の名は


 リー・ハーベイ・オズワルド

   Lee Harvey Oswald


・・・そう、あのJ・F・ケネディ大統領の暗殺犯として逮捕された人物です


1939年にニューオーリンズで生まれた彼は、17歳で海兵隊入りし任務でロシア語を学び、1957~58年には日本の厚木基地でも勤務経験がありました。


軍在籍中は一級射手に匹敵する腕前を持っていたといわれますが、同時に軍法会議にかけられるなどの札付きでもあったとか。


1959年に除隊後ソ連に旅行に出かけると、そのまま亡命。

その後ロシア人女性と結婚するというアメリカ人としては非常に珍しい経歴の持ち主だった彼は、1962年アメリカに帰国。


一旦共産圏に亡命したオズワルドに、なぜかアメリカは妻子共々入国を許可。


生まれ故郷・ニューオーリンズに居を構えましたが、収入はなく結婚生活も破綻していたといわれています。


そして1963年に入って親族が運営する競馬賭博事業を手伝い掛け金の徴収係をしていた彼は、突如として教科書倉庫の5階からケネディ大統領を狙撃した犯人として逮捕されたのです。


逮捕当初から 「ハメられた」 と主張していた彼の尋問調書は残っておらず、事件から2日後の11月24日昼前、群刑務所に移送するためダラス警察署の地下駐車場に姿を現したところを、地元の実業家ジャック・ルビーによって拳銃で射殺されたのです。


      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草


写真のとおり、大統領を狙撃した容疑者の護送とは思えぬ・・・いや、むしろ殺してくれと言わんばかりの無防備状態での犯行でした。


ウォーレン委員会の報告書では、オズワルドの単独犯行と断定。


しかしケネディ大統領を狙撃した銃弾が複数の方向から飛んできたと思われること、またいくら射撃の腕前があったとはいえ、オズワルドが使用したといわれるライフル銃・カルカノでは、10数秒という短時間に連続かつ正確な狙撃が困難であることから、その単独犯説を信じる者は私を含め少ないでしょう。


ソ連に亡命したにもかかわらず入国を許されたこと、そしてそれから僅か1年余りで事件が起きたこと、更には彼を拳銃で射殺したルビーが深く関わっていた事実から、私はCIAがかなり前からの暗殺計画立案及び実行に関与していた確率が高い、と思っています。


カネに困っていて適当な経歴を持つ人物を犯人に仕立て、犯行直後に消して真相は闇の中へ・・・こういう暗殺事件の展開は古今東西、そして日本でも起きています。


ウォーレン委員会の報告書は当初75年後の2039年に公開されることになっていましたが。その後の法改正によって、その98%が公開されています。

しかし残り2%については、従来通り2039年に公開される予定とのこと。


果たして24年後に公開される残り僅かな資料から、新事実が明らかにされるのか? 


それによってオズワルドの冤罪(?)が晴らされるのか?


個人的には、その確率は限りなく低いと思いますが・・・果たして? うー





珍 味

祝日ということで、明るいうちから家でビールを飲む方もいらっしゃることでしょう。

今日は、
その際一緒に口にするおつまみのひとつ・・・

 珍味の日

なのだそうです。


11月23日は古来より天皇陛下がその年の新穀を天神地祇(※てんしんちぎ=天地の神々)に供え収穫に感謝し、自らもそれを食する 『新嘗祭』。


皇居や伊勢神宮で山海の珍味が供えられることと、いい(11)つ(2)まみ(3)の語呂合わせから、全国珍味商工業協同組合連合会が制定しました。

略して 『全珍連』 ・・・世の中には、いろいろな業界団体があるものです。


さて、そもそも〝珍味〟ってナニ?

そう聞かれると、「そりゃあ、普通にはない珍しい味の食べ物」 としか答えられませんが、全珍連によれば

〝主として水産物(や陸産物)を原料とし、特殊加工により独特の風味を生かして貯蔵性を与え、再加工を要することなく食用に供せられる、一般の嗜好に適合する文化生活の必需食品〟


だそうな。

各地方には、独自の珍味があると思いますが、皆さんの故郷にはどんな珍味があるでしょうか?

私の出身地・信州でいえば、イナゴの佃煮とかハチノコですかねェ~。

これ、小さい頃から食べ慣れていないと、なかなか食べられないかもしれません。

※ちなみに、世界三大珍味といえば、〝キャビア・フォアグラ・トリュフ。〟
日本三大珍味は(一般的に)〝うに・このわた・からすみ〟なんですって。


そんな地域限定品や高級品ではくとも、スーパーやコンビニのおつまみ・珍味コーナーには、一般受けする商品が沢山並んでいますょネ。

イカ製品や豆製品が多い印象がありますが、私が個人的に印象深い商品は、『チーズ鱈』。

チーズの両面を加工した薄い鱈の白身で挟み、細切りした定番商品ですが、これが大相撲の呼出しさんの背中に社名が染め抜かれている 『株式会社なとり』 から発売されたのが、1982年・・・すなわち私が就職した翌年のこと。


            

                 新発売当時のチーズ鱈

接待営業の際、飲み屋さんでおつまみの中に入っているのを初めて見た時は、魚の白身でチーズを挟むという斬新な発想に感心した記憶があります。

まさに〝珍味〟って感じでしたネ。


同社では、初代社長が小さなチーズをキャンディーのように包装した〝一口チーズ〟を考案したものの、まだ冷蔵庫が普及していない時代だったため売れず。

しかし1980年代に入ると、日本人の食習慣が洋風化。

それを受けて二代目社長が西洋の食材・チーズと東洋の食材を融合された新商品の開発に着手。

当初はイカを使おうとしたのですが、時間が経過すると赤く変色してしまうため、これを断念。

その代わりに鱈を使ったのですが・・・実はご多聞にもれず、当初社内では反対意見が噴出。

しかしいざ試作品を食べてみたら、これが意外に好評。

発売すると大ヒット・・・この画期的商品が、なとりを一躍日本の珍味トップメーカーに押し上げたというわけ。

現在同社では数種類のチーズ鱈を発売していますが、なかに〝チータラ〟ってのがあるんです。

単に名前を縮めただけに見えますが、実は中身が微妙に違うんです。

今度お買い物に行かれた時は、裏面の成分表を見比べてみてください。

さて、皆さんの最もお気に入りの珍味は何ですか?

私は、チーズ鱈・・・じゃなくて、ビーフ・ジャーキーですけど。あせあせ オイオイ




元武士

江戸時代に始まり、現在でもその人情噺で多くの観客を泣き笑いさせる伝統芸能・人形浄瑠璃。

今日はその代表作 『曽根崎心中』 や 『心中天網島』 の作者として名高い


 近松 門左衛門


の命日にあたります。


       


門左衛門(本名:杉森信盛)は1653(承応2)年、越前国(現・福井県)に福井藩士の子として生まれました。

(※生誕地に関しては他に諸説あり)

藩主の弟が分家立藩するに伴って現在の鯖江市に転居した杉森家ですが、ここで1664(寛文4)年に突然父親が藩を辞し浪人になってしまいます。

京都に移った一家のその後の動向は殆ど分かっていませんが、門左衛門は19歳の時に本名で俳諧文集に句を載せており、また20歳前後で大変に人形浄瑠璃好きだった一条禅閤恵観という公家に仕えていたようですので、その頃に浄瑠璃との縁が出来たと思われます。


20歳代からいくつか作品を書いたと言われていますが、当時は作者名を明かさなかったため断定が出来ないとのこと。

確実に彼の手によるものと確認されている最初の作品は、1683(天和3)年に上演された『世継ぎ曽我』・・・31歳の時のもの。

そして34歳の時に、彼は初めて近松門左衛門というペンネームを使っています。

(※この本名と全く違うペンネームの由来は、彼が若い頃修業したのが〝近松寺〟だったから・・・というのが有力。)

その後門左衛門は、男女の機微を主に150本近い作品を次々に発表。

特に心中物は庶民の人気を博しました・・・が、それが故に物語を真似て心中する者が続出。

幕府はこの事態を憂慮し、1723(享保8)年に心中物の上演を一切禁止します。

それに失望したわけではないのでしょうが、門左衛門はその翌1724(享保9)年11月22日に72歳で没しました。


      
        『曽根崎心中 他 現代語訳付』 (角川ソフィア文庫・刊)



門左衛門の描く悲恋話は、現代人の心にも十分響きます。

 「此の世のなごり 夜もなごり 

           死に行く身をたとふれば あだしが原の 道の霜」

という有名な 『曽根崎心中』 の一節のように、七・五調の文章も浄瑠璃見物に訪れる観客の耳に心地よく残ります。

(ただし文楽の大夫に言わせると、近松作品は原作通りだと非常に演じにくいのだそうですが・・・。)冷や汗

今時の薄っぺらいTVドラマを見飽きた方には、是非門左衛門の残した江戸文学に触れてみることをオススメします。

お武家様から作家へ・・・見事転職に成功した彼ですが、亡くなる2週間前に描かせた上の自画像は、烏帽子を被った武士の正装姿でいかめしい顔立ち。

やはり最期まで元武士であった気概・ブライドを持ち続けていたのでしょうネ。




ブラック

3日前の拙ブログで、エネゴリ君がプラセンタをかじって泣いた話をご紹介しましたが・・・昨夜、またそのお店に行ったんです。

私はいつものカウンター席に座って、彼に話しかけました。

「一昨日のブログ、読んでくれた?」

実は彼、拙ブログの読者でもあるのです。あせあせ

「あっ、はい。 読みました。」

「そう、ありがとう。 内容に間違いはないょネ?」

「えぇ、ないです。」

「キミもすっかり人気者だネ。嬉しいだろ?」

「あっ、はい。」

・・・とは言うものの、エネゴリ君は今一つ浮かぬ顔。

「なんだょ、ちっとも嬉しそうじゃないじゃん。」

「いや、そんなことはないんですが・・・ボク、何であの話がウケるのか分からないんです。」

と真剣に言うものですから、私は思わず大笑い。

「えっ、分からないの? そうか、分からないのか~。
でも、そうだょネ。 分かるくらいなら、ああいう答え方しないょナ~。」


「ああいう答え方って?」

「だから、オーナーに『泣くなょ』って言われた時に・・・まぁ、説明しても分からないだろうナ。
いいんだョ、キミは分からないままで。 


いつまでもそのままのキミでいてくれればいいんだ。」

そしたら、彼は真剣な顔をしてこう言うんです。

「いえ、このままじゃイヤなんです。 

渡辺さんとちゃんと会話が出来るようにならなきゃ・・・。」

「いや、それじゃオレがつまらないんだって。」

「いえ、それじゃボクが困るじゃないですか!」

って、なにが困るんだか・・・かみ合わない会話は、殆ど禅問答。
横で聞いていたオーナーも呆れ顔。

まぁエネゴリ君、せいぜい悩みなさい。
人間は悩むことで進化するのだから。

あっ、ゴリラは例外か?


          


さて、そんなエネゴリ君の悩める姿を見ていたさすがの私も、ちょっぴり可哀想になりました。

で、彼に聞いたんです。

「ところで、キミは缶コーヒーなんて飲むの?」

皆さんがそう聞かれたら、どう答えますか?

普通は、ハイかイイエ・・・ですょネ。

ところが、質問された途端に目がキラキラ輝き出したエネゴリ君は、奢ってもらえると直感したんでしょうネ。

そういう嗅覚だけは、まさに動物的。

そんな彼の答えは、こうでした。

「ブラックが好きですっ!」

「誰がキミの好みを聞いたんだョ。


ウチの事務所に手つかずの缶コーヒーが20本くらいあるからキミにあげようと思ったんだけど、ブラックじゃないからダメだナ。」

「あっ、いやっ、普通のコーヒーでも大丈夫です。」

「今更遅いっちゅうの。 持ってくるの、や~めた。」

「あぁ~、しまった。 答え方を間違えた~。」

・・・エネゴリ君、やっぱりキミはそのままでいてくれ。笑2