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買 収

毎年12月に巨大なクリスマス・ツリーがお目見えし、派手な点灯式が行なわれるニューヨークの観光名所・・・といえば、もうお分かりですょネ。 


 ロックフェラー・センター

   Rockefeller Center


マンハッタン中心部に大富豪J・D・ロックフェラーによって1930年から9年間かけて建設され、最も大きく有名な高さ259m・70階建てのGEビルディングをはじめ19もの商業ビルからなる建物が低層階で一つに繋がっている商業施設。

ここを日本の三菱地所が約2,200億円もの巨費で買収することを発表したのが、今から26年前の今日・1989年10月31日のことでした。


          


1985年のプラザ合意以降、日本の株価は鰻登り・・・いわゆるバブル景気に突入。

カネ余り現象からあらゆる投資に企業が血眼になり、1990年には松下電器産業がMCA(現・ユニバーサル・スタジオ)を約9,000億円で、ソニーがコロンビア・ピクチャーズを約3,700億円で、更にはコスモワールドがペブルビーチ・ゴルフリンクスを約1,250億円で、更には1992年には任天堂がシアトル・マリナーズを約1,000億円で買収。

その先鞭となったのが、このロックフェラー・センターの買収劇。


まさに飛ぶ鳥落とす勢い・・・だったのですが、この買収は(ロックフェラー側からの売却打診があったにもかかわらず)アメリカ国民、特にニューヨーク市民から

「日本人はアメリカの魂をカネで買った」

という批判が噴出し、反日感情を煽ることに。

まぁ日本でいうなら、東京タワーをアメリカ人が買ったってことでしょうから、そう思われても仕方ないかも。

その怨念なのでしょうか・・・この買収劇以降、アメリカの不動産市況は急激に悪化。

マンハッタンのオフィスピル売買価格は90年代に入ると80年代後半の半値近くに急降下。

また日本のバブル崩壊もあって、オウム真理教事件が起きた1995年5月、三菱地所は運営会社の破産を申請し、手に入れた14棟のうち12棟を売却。

結果的に三菱地所は全く収入を得られぬまま損切りする羽目に。

高値で買収した他の日本企業の多くも、巨額の損失を出したり安値で手放すなど同じ道を辿りました。

まさにバブル景気の夢の跡・・・あの買収劇は、結局アメリカを設けさせただけに終わったようです。

目の前の儲けに目が眩むとロクなことにならない。

毎年12月のクリスマスツリー点灯式のニュースを観るたび、私たちはこの教訓を思い出すべきでしょう。

      


そういえば、今年2月にアメリカのファンド会社が温泉旅館チェーン『大江戸温泉物語』の運営会社を500億円で買収するというニュースがありましたが・・・どうしてこの時、

「アメリカが日本人の魂をカネで買った」

って、誰も批判しなかったのでしょうネ? うー




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道 徳

数日前、新幹線の自由席に1人で座っていた女性に、

「指定席がいっぱいだったんで、私たちに譲ってください。」

と言ってきた若いカップルがいた・・・というツイートをネットで見つけて、呆れ返りました。うー

究極の自己チューと言えますが、こういう若者を少しでも減らすため、私は


  教 育 勅 語


の学校教育現場での復活を強く提案します。

この正式名称・『教育ニ関スル勅語』 が発表されたのが、今から125年前の今日・1890(明治23)年10月30日のことでした。 これは山縣有朋内閣時代、地方長官会議に於いて

「知識に偏る学校教育を修正し、道徳心の育成を重視する」


ことを求め、また明治天皇ご自身が道徳教育に関心を寄せられていたことと合わせ、井上毅・内閣法制局長官が原案を作成し、これを加筆修正したものを明治天皇の名の許に発表されたもの。

それから太平洋戦争の終戦頃まで我が国道徳教育の規範と捉えられていましたが、1947年に施行された教育基本法および翌年の国会決議により、教育勅語は学校教育から排除されました。


皆さんは、この『教育勅語』について、どのような認識をお持ちでしょうか?


戦後教育の影響等で、この勅語は〝天皇制を強制するもの、あるいは偏った戦前の思想教育の根本〟 と思われている方もいらっしゃると思いますが・・・。


しかし冒頭の「朕惟フニ・・・」はご存知だとしても、全てを読んだことのある方は意外と少ないのではないでしょうか?


以下に勅語全文(※原文には句読点・濁点・改行なし)を掲載致します。 まずは一度目を通してみて下さい。 


       ◆    ◆    ◆    ◆


(ちん)(おも)フニ、我ガ皇祖皇宗(こうそこうそう)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ、德ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ。


我ガ臣民克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ、億兆心ヲ一(いつ)ニシテ世々(よよ)(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ、此レ我ガ國體(こくたい)ノ精華ニシテ、教育ノ淵源(えんげん)(また)(じつ)ニ此ニ存ス。


(なんじ)臣民父母ニ孝ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相(あい)和シ、朋友相信ジ、恭儉(きょうけん)己レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、學ヲ修メ、業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ、德器(とっき)ヲ成就シ、進(すすん)デ公益ヲ廣(ひろ)メ、世務(せいむ)ヲ開キ、常ニ國憲(こっけん)ヲ重(おもん)ジ、國法(こくほう)ニ遵(したが)ヒ、一旦緩急アレバ義勇公ニ奉(ほう)ジ、以テ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)ヲ扶翼(ふよく)スベシ。


(かく)ノ如キハ獨(ひと)リ朕ガ忠良(ちゅうりょう)ノ臣民タルノミナラズ、又以テ爾(なんじ)祖先ノ遺風ヲ顯彰(けんしょう)スルニ足(た)ラン。


(こ)ノ道ハ實(じつ)ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守スベキ所、之ヲ古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ、之ヲ中外(ちゅうがい)ニ施シテ悖(もと)ラズ。


朕爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ拳々服膺(けんけんふくよう)シテ、咸(みな)(その)德ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ。




       明治二十三年十月三十日


              御名御璽(ぎょめいぎょじ)

   

   ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-教育勅語





いやはや、読むだけでも一苦労・・・お疲れさまでした。

しかしこれだけでは意味がお分かりいただけないと思いますので、以下に(私なりの意訳を含めた)現代語訳を記してみます。


私の思うには、我が皇室の祖先が国をお始めになったのは遙か遠い昔のことで、お築きになった徳は深く厚きものでした。


日本国民は忠と孝の道をもって心を一つにし、今までその美をなしてきましたが、これこそ我が国の優れた点であり、教育の根本もまたこの中にあります。


国民は皆父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の心で接し、学問を行い、手に職をつけ、知能を啓発し、徳と才能を磨き、進んで世のため人のために尽くし、憲法を重んじ法律に従い、もし有事となれば公のため勇敢に仕え、天下に比類なき皇国の繁栄に尽くすべきです。


これらは、ただ国民が我が忠実で良き臣民であるというだけのことではなく、あなた方の祖先の遺した良き伝統を継承していくものでもあります。


この道は実に我が皇室の祖先がお遺しになった教訓であり、国民の共に守るべきもので、昔も今も変わらず国内外問わず間違いなき道です。


私は国民と共にこれらを肝に銘じて守っていきますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことを願うものです。


      ◆    ◆    ◆    ◆

・・・いかがでしょう。


確かに一部現在では受け入れられない部分もありますが、主旨は親孝行・家族や友人との人間関係・勤勉・奉仕等々・・・まさに道徳の基本を説いているのです。

この勅語が発表された動機である 「知識偏重教育を是正し、道徳心を育成」 しなければならないのは、当時の人々よりむしろ一世紀以上経った現代に生きる我々ではないでしょうか?笑3


安倍政権では学校教育現場における 『道徳』 の教科化・充実を掲げていますが、たとえ使う文言や名称を変えても〝教育勅語の精神〟を子供達に伝える授業を実施させて欲しいもの。

時代は変われども、〝人として生きるべき道〟は不変のはずですから。




面 長

落語好きの方なら、タイトルだけで誰のことかお分かりでしょう。

今日は、落語だけでなくテレビ番組の司会や俳優としても活躍した


 五代目 三遊亭 圓楽  師匠


の命日・・・早いもので、七回忌にあたります。

         


圓楽[本名:吉河寛海(ひろうみ)]師匠は、1932(昭和7)年に台東区浅草にあるお寺の息子として生まれました。


身長177cmという大柄な身体からは想像しにくいですが、幼少時は病弱で腎炎や結核との闘病生活を経験したとか。

戦時中東京大空襲に遭いながら一命を取り留めた経験から、「これからは農業の時代だ」という父親の勧めで埼玉県の杉戸農業高校に進学した寛海青年の進路を変えたのは、上野鈴本演芸場で落語を観たこと。

戦争で全てを失い失意の底にいる暗い顔をした人々を笑わせる落語は凄い!・・・そう思った彼は、6代目・三遊亭圓生の門を叩きます。

「一人前になるまで50年は食えない」 と脅す師匠に 「30歳までに真打ちになれなければ辞めます」 と啖呵を切って入門した彼は、その言葉通り29歳10ヶ月で真打に昇進。

その後は端正なマスクで人気を博し、テレビ番組で司会をしたり歌ったりドラマに出演したりとマルチに活躍。

しかし圓生師匠から 「落語に専念しろ!」 と命じられ、1977年には全ての番組から降板。

その翌年、真打昇進の粗製乱造を批判したことから圓生師匠と会長の柳家小さん師匠が衝突して〝落語協会分裂騒動〟が勃発。

圓生師匠は落語三遊協会を設立し圓楽師匠もそれに付き従ったのですが、翌年圓生師匠が心筋梗塞で急逝すると、同協会は事実上崩壊。

多くの直弟子が落語協会に復帰したのですが、圓楽師匠だけは踏みとどまり、1980年に新団体〝大日本落語すみれ会〟を設立・・・現在も〝円楽一門会〟として存続しています。

そして1983年に 『笑点』 の4代目司会に就任。

当初はワンポイントのつもりだったそうですが、結果的には歴代最長・23年間も務めることに。

通常3問のところを2問だけで終わろうとした伝説(?)の珍プレーもありましたが、いつもニコニコ顔で穏やかな司会ぶりは、安心して観ていられました。

ただその間、一門の弟子たちのために私財を注ぎ込んで寄席・『若竹』を新築したものの、僅か4年後に閉館に追い込まれ、多額の借金を背負うことに。

それさえも笑いのネタにしたところ、またその借金も全て完済したところは、さすが。

しかし残念ながらその借金返済のために講演活動に勤しんだため、落語家として最も脂の乗る50代の時に高座にあまり上がれなかったことは、残念でした。

2005年に脳梗塞を患い入院。 


翌年に 『笑点』 の司会から勇退し、再起を賭けて2007年に 『芝浜』 を演じたものの、本人がその出来に満足できず、直後に引退を表明。

その半年後に胃ガンが見つかり手術したものの、肺に転移。


自ら後継者に指名した6代目・圓楽(楽太郎)の襲名披露を4ヶ月後に控えた2009年10月29日、76歳で天に召されました。


        

         『圓楽 芸談 しゃれ噺』 (白夜書房・刊)

生前は、その面長な顔立ちから仲間内から〝ウマ〟と言われていましたが、麻雀の腕前も名人級だったそうで、行きつけの雀荘の名前が〝サラブレッド〟だったというウソみたいな逸話を遺した圓楽師匠。


今は、1972年にインドで起きた日航機墜落事故で23歳で亡くなった元客室乗務員の妹さんと並んで眠る、〝星の王子様〟のご冥福をお祈り致します。

(※ちなみに『星の王子さま』というキャッチフレーズは、圓楽師匠が電車内で女学生が取り合いしていた本を見て、自分でつけたもの。

しばらくして出版元の岩波書店から「 おかげさまで本が良く売れました」 って礼状が届いたそうな。 お後がよろしいようで・・・。 )笑2


議 長

昨年、元慰安婦報告書の検証報道によって〝河野談話〟に正当性が無いことをスクープし、朝日新聞の記事取り消しを端緒を作ったのが産経新聞。

同紙を含め、フジテレビ・ニッポン放送などを中心に1967(昭和42)年に組織されたのがフジサンケイグループ。 


今日・10月28日は、この従業員1万人を超えるメディア・コングロマリットの創業者にして同グループ会議・初代議長だった

 鹿内 信隆 


の命日・没後25周年にあたります。


          


鹿内氏は1911(明治44)年、北海道夕張郡由仁町生まれ・・・財閥や資産家の出ではありませんでした。

父親は撮影技師から歯科医に転身した変わり種で、母親が写真館を経営するという、当地ではかなり風変わりな家庭に育ちました。

1929年に単身上京し、早稲田第一高等学院から早稲田大学政経学部に進学。

卒業後に教授の勧めで倉敷絹織(現・クラレ)に就職したことが、後に彼が実業界に躍り出る端緒となりました。

彼の後見人となったのが、同社専務で実質的な社長だった菊池寅七だったのです。(信隆氏の妻は、この菊池氏の次女・英子さん)

1938年に応召し陸軍入りした彼は主計少尉となり、軍出入りの民間企業幹部と知り合った鹿内氏は、軍用に設立された大日本再生製紙の担当事務官となり、除隊後は日産コンツェルンが支援する日本電子工業や経済同友会の創設に参画。

これが戦時中に知遇を得た、後に〝財界四天王〟の1人に数えられる日清紡の櫻田武社長に高く評価され、彼と共に日本経営者団体連盟(日経連)の設立に尽力。

軍部での人脈を生かし、敗戦・公職追放による財界大物のパージという時代の波にまだ30歳代でありながら口八丁手八丁だった信隆氏がうまく乗った、と言えましょうか。

そして櫻田総理事&鹿内専務理事のコンビで当時全国で展開された共産党主導の労働運動と対峙したことから、更に政財界での人脈を拡げます。

(とは言え、彼自身が団体交渉に出席したことはなかったようですが・・・。)

当時の財界は共産党をはじめてする左翼勢力の台頭に危機感を抱き、それに対抗するマスメディアの設立を画策。

そこで1954年に大企業200社以上が共同出資してニッポン放送を、更に3年後にはフジ(富士)テレビジョンを設立。 

鹿内氏は1961年にニッポン放送、1964年にフジテレビ、そして1968年に産経新聞社の社長に就任し、ラジオ・テレビ・新聞という当時の三大メディア全てを掌握。

議長という他の企業には見られない地位に就くと、フジサンケイグループの最高権力者・大株主として君臨しました。


       

         『指導者 カリスマの秘密』 鹿内信隆・著 講談社・刊

徹底した合理主義を導入する一方、会社設立の経緯から社内の組合活動をあからさまな左遷人事や大量の解雇などで徹底的に弾圧するなど、その経営手法には賛否両論が。

また一旦は長男・春雄氏に経営を任せ引退したものの、春雄氏が1988年に急死すると議長に復帰し、娘婿・宏明氏を議長代行に。

そして2年後の1990年10月28日、78歳でこの世を去りました。

その後のグループは、宏明氏が第3代議長に就任したものの社内クーデターにより失脚し、鹿内家の支配力は急激に減退。

しかしその後はライブドアによる株買い占め騒動や韓流ドラマ放送に対する抗議行動などで視聴率の低下に喘いでいます。

この現状をグループの総帥だった信隆氏が草葉の陰から覗き見れば・・・さぞ激怒することでしょう。

なお信隆氏の支配から宏明氏解任、ライブドアによる株買い占め騒動に至るフジサンケイグループの動向を知りたい方には、この書籍をお勧めします。

『メディアの支配者』(上・下) 中川一徳・著 講談社文庫・刊


     


一代でメディアの支配者となった一方、〝父子(フジ)テレビ〟と揶揄され公共電波のファミリー支配という批判も浴びた、鹿内一族の光と陰・・・講談社ノンフィクション賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞した本書は、読み応えがありますョ。



特 訓

今なら 「それは虐待だ」 とクレームがつくかもしれませんが、子供時代がスポ根アニメ全盛期だった私にとっては、懐かしい言葉・・・〝特訓〟。

競技によって様々な猛特訓があったでしょうが、個人的に最もこの単語が当て嵌まる練習といえば、今から54年前の今日・1961(昭和36)年10月27日に多摩川グラウンドで行われた

 雨中の特訓


だと思います。

練習したのは、巨人軍選手たち。 

そしてさせたのは、川上哲治監督でした。

         


水原監督の辞任を受けて、このシーズンから第8代読売巨人軍の監督に就任した川上哲治氏は、ドジャーズ戦法の導入やシーズン中盤に牧野茂コーチを招聘するなどしていきなりリーグ優勝を達成。

そして南海との日本シリーズも、10月26日の第3戦を終えて2勝1敗とリードしていました。

翌27日に予定されていた第4戦は早々に雨天中止が決定。


巨人ナインは 「これで骨休めができる」 とばかり、合宿していたお茶の水の旅館でノンビリ・・・しようとしていたら、監督から 「これから練習を行う」 というお達しが。

迎えに来たバスに乗り込んだ選手はてっきり室内練習で軽く汗を流すだけ、と思っていたら差に非ず。

到着したのは、土砂降りの多摩川グラウンドでした。

打席とピッチャーマウンドだけにテントを建てて、水浸しの
グラウンドでバッティング練習。


しかし打球はすぐに泥だらけ。


それを洗って焚火で乾かしてはまた使い、1人10発打つのがせいぜいだったとか。

現役だった広岡達朗氏や森昌彦氏は猛反対したそうですが・・・ではなぜこんな非効率な、しかも下手をすれば風邪をひいて体調不良になりかねない練習をしたのか?

ひとつには川上監督が子供の頃、父親から 「雨の中だとしっかり目を開けないと補給できない」

と集中力を養う方法を伝授されたことがあったといわれています。

また 「これだけ練習したら、負けるはずがない」 という意識を選手に植え付け、チームワークを高める効果を期待したとも。

この特訓を聞きつけた南海・鶴岡監督は、「もしかしたらこのシリーズは勝てないかも・・・」と呟いたそうですが、実際4勝2敗で巨人が日本一に輝きました。

しかし、もうひとつの〝真意〟が、川上監督の死後遺族が発見したノートに記してあったというです。

この年のシーズン前に敢行したペロビーチ・キャンプで、川上監督はメシャー・リーグにおける監督の権限の強さに目を見張ったといいます。

そしてその権限の強さを選手たちに知らしめるために、この雨中の特訓を強行した・・・というのです。

それが功を奏したのか、その後川上監督は14年間の長きにわたり巨人の監督を務め、その間V9を含めリーグ優勝11回、そしてその年全てに日本一になるという不滅の記録を残しました。

よく 「ONがいれば、誰が監督しても勝てた」 という方がいますが、私はそんなことはないと思います。

川上さんだったからこその偉業だと・・・。

この雨中の特訓を含め、広岡氏とは悉くぶつかった川上氏ですが、後に両者は和解したといいます。

あくまで私の推測ですが、広岡氏自らが監督を務めたことで初めて川上監督の心情が分かったからではないでしょうか?

「私の巨人軍における14年間の監督生活を〝報恩感謝の精神〟と〝チームプレー〟で貫いた」


と述懐する名監督の組織論・人心掌握術を、川上氏の著書から学ぶことが出来ます。


    

      左・『禅と日本野球』(サンガ文庫・刊) 右・『遺言』(文春文庫・刊)

闘将・星野仙一氏がNHKの解説者だった時、同じく解説者だった川上氏に、

「ONがいて、あの投手陣・・・楽だったでしょう。」

と話しかけたところ、川上氏の返事は

「君が率いても3連覇、4連覇は出来ただろう。 でも、9連覇は僕しかいない。」

川上氏の著作からは、そう答えるだけの努力と精進を重ねておられたことがよく分かります。

明日・28日は、その打撃の神様にして球史に残るこの大監督の命日・三回忌です。笑3




恩 人

今でこそ日本人メジャーリーガーが何人も誕生するなど日米プロ野球の交流は活発に行われていますが、昔はそれほどではありませんでした。

そんな中でアメリカ・ペロビーチで巨人がキャンプを張ったり、ドジャーズ戦法を導入してV9を達成するなど大きく日本のプロ野球にアメリカのベースボールが浸透するキッカケを作り、日本プロ野球界の発展に大きく寄与した〝恩人〟といえるのが、

 生原 昭宏 

今日は、私が大学時代野球をやっていた頃、よくスポーツ新聞・ニュース等に〝アイク生原〟という名前で登場していた、この方の命日にあたります。


         


生原氏は1937(昭和12)年、校長先生の父と体育教師の母との間の5人兄弟の長男として福岡県田川郡で生まれました。

地元・田川高校から早稲田大学に進学し野球部ではその生真面目さを買われて新人監督を務め、卒業後25歳で亜細亜大学野球部の監督に就任します。

在任4年間でチームを東都リーグ3部から1部に昇格させた生原氏は東京五輪の翌1965年、更に指導法を磨くべく早大野球部関係者の紹介で当時ドジャーズのオーナーだったウォルター・オマリー氏を頼って渡米。

同球団傘下のマイナー・チームに採用されました。
・・・しかし、それは無給(!)の雑用係として。

大学野球部監督のポストを捨てること自体もったいないと思うのですが、いくら渡米したかったとは言え雑用係とは・・・相当の覚悟がなければできない決断だったと思います。

しかし懸命に働き周囲からアイゼンハワー大統領と同じ〝アイク〟という愛称で呼ばれるようになっていた生原氏の仕事ぶりを、ちゃんと見ていた人がいました。

それはウォルター氏の息子であるピーター・オマリー氏。

父に代わってオーナーに就任した彼は、1982年に生原氏を球団のオーナー補佐兼国際担当に抜擢。

巨人などのベロビーチ・キャンプの世話役をしたり、野球留学してくる若手日本人選手の面倒を見るなど活躍。

あのドラフト会議の司会を務め、球界きっての大リーグ通と言われたパンチョ伊東氏も世話になった1人だったとか。


後にメジャー行きを目指す選手が増えたことで代理人と称する日本人が登場しましたが、莫大な契約金を獲得すべく暗躍(?)した彼らと違い、生原氏は純粋な世話人として選手たちに接しました。

指導者を目指して渡米した生原氏は、日米プロ野球の橋渡し役になったのです。

生原氏の誠実な人柄や仕事に対するひたむきさは、後に奥様が上梓したこの書籍でよく分かります。

 『ドジャーズと結婚した男  夫・アイク生原の生涯
           (生原 喜美子・著 ベスボールマガジン社・刊)


       


おそらく直接・間接的に生原氏の世話になった野球人の数は、巨人の長嶋・王、中日の星野、ロッテの村田各氏をはじめ4桁に上るはず。


その貢献度がいかに大きかったかは、プロ野球選手でも監督・コーチでもなかった彼が2002年に特別表彰で日本野球殿堂入りしたことでも分かります。

将来的には再び日本に戻って指導者になりたい気持ちがあったそうですが、残念ながらその願いは叶いませんでした。

今から23年前の今日・1992年10月26日・・・がんに侵された生原氏は55歳で天に召されてしまったのです。

入団して4年間芽が出ず、背水の陣でアメリカ留学をした際に生原氏からチェンジ・アップやスクリューボールの投げ方を伝授されたことで生き返り、見事200勝投手となったのが、つい最近50歳で引退を発表した中日の山本昌投手。

生原氏の葬儀の際は棺の前で人前を憚らず泣き崩れたそうな。

留学した選手たちにとっては、まさに父親的な存在だったのでしょうネ。

ドジャーズに野茂投手が入団した時には既にこの世にいなかった生原氏ですが、きっと彼の活躍を天国から手を叩いて喜んでいたことでしょう。

今はかつての上司であり友人でもあった先代会長ピーター・オマリー夫妻の墓の隣で眠る〝ドジャーズと結婚した男〟のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3


君が代

君が代は 千代に八千代に さざれ石の  

                 巌となりて  苔のむすまで

この 『君が代』 が1999年に制定された 『国旗及び国家に関する法律』 によって日本の国歌となったことは、多くの方がご存じの事と思います。

オリンピックで日本人選手が金メダルを獲得し、表彰式でこの曲が厳かに流れるのを聴くと、選手同様に感激する国民は多いはず。

いや表彰式でなくても、先般のラグビーW杯で日本代表の外国人選手が涙を流しながら歌っている姿を見て感動した方も沢山いらっしゃったでしょう。

この『君が代』は、今から約1,100年前に編纂された日本最古の歌集・『古今和歌集』 に収められている詠み人知らずの和歌がルーツとされています。

ただしその和歌の冒頭は、〝君が代は〟ではなく〝我が君は〟ですが。

元来は年賀のための和歌でしたが、鎌倉時代以降冒頭が〝君が代は〟に変わると共に年賀に限らずおめでたい和歌として使われるようになり、様々な歌集に収められるようになりました。

一方国歌は他国との盛儀大典の際にお互いの国歌を演奏するため、近代西洋で誕生したもの。


その流れの中、明治維新を迎え西欧諸国との交流が始まった日本でも、国歌の制定が必要となりました。

そして1870(明治3)年にイギリス公使館護衛隊の軍楽隊長J・W・フェントンから国歌を制定すべきと進言を受けた当時の薩摩藩歩兵隊長で後に元帥となる大山巌が自らの愛唱歌だった薩摩琵琶の『蓬莱山』の歌詞から『君が代』を採用したといわれています。


         

                大 山 巌  元帥

最初はフェントン自身が作曲したものの、西洋音楽調だったため日本人には馴染めず、1876(明治9)年に海軍音楽長・中村祐庸が 『天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀』 を提出するも西南戦争が勃発し、国歌制定は一旦凍結。

それから4年後に宮内省・式部職の奥好義がつけた旋律を一等伶人・林廣守が曲に起こし、更にドイツ人音楽家F・エッケルトが和声を付けて完成。

この『君が代』が初めて演奏(試奏)されたのが、今から135年前の今日・1880(明治13)年10月25日のことでした。

そして翌11月3日の天長節で初めて公に演奏され、1893(明治26)年に文部省が『君が代』を収めた『祝日大祭日歌詞竝樂譜』を官報に告示。

以降この曲は事実上国歌として用いられ、1999年に正式に国歌として制定されたのです。


各メディアの世論調査では、約7割の方が『君が代』を国歌として認めているようですが、残りの方はこの曲が軍国主義や天皇制護持を想起する等々の理由で反対しているとか。

君が代の歌詞そのものについては様々な解釈がなされていますが、それに関してここでご紹介することは差し控えます。

ただ以前拙ブログでも記事にしましたが、他国の国歌はそれこそ軍国主義丸出しで血生臭く、とても子供たちに学校で歌わせたくないようなものが多々ある中にあって、私は『君が代』は非常に厳か且つ穏やかな曲であり日本の国歌として十分相応しい、と思っています。

1903年にドイツで開催された〝世界国歌コンクール〟で 『君が代』 が一等賞に輝いたことが、それを証明しています。

1,100年以上前から先人たちの想いを積み重ねてきたこの曲を、次世代以降の子々孫々にも引き継いでもらいたいものです。

それでは、天女の如き素晴らしい歌声での日本国々歌をお聴きください。扇子



              

拳 聖

スポーツの世界には各種目に於いて〝連勝記録〟があります。

有名なところでは、大相撲における双葉山関の69連勝や、柔道・山下泰裕選手の(引き分けを挟んで)203連勝があります。

いずれも不世出の記録といわれていますが、もうひとつ・・・プロボクシングの世界にも47連勝というとんでもない記録が。

現代では世界ランカークラスの一流ボクサーだと年に数試合しか行いませんから、今後まず破られないであろうこの大記録を打ち立てたのが

 ピストン堀口 選手

今日は、昭和前期に活躍したこの名選手の命日・没後65周年にあたります。


         


ピストン堀口(本名:堀口恒男)選手は、1914(大正3)年に栃木県真岡市生まれ。

堀口家は彼が長男の5人兄弟でしたが、次男を除く4人がプロボクサーになったという、団子3兄弟ならぬ拳闘4兄弟。 

しかし彼自身は当初、警察官だった父親が勧めた柔道に打ち込んでおり、旧制真岡中学の主将として県大会で優勝を飾るなど、栃木県下で敵なしといわれた強豪選手でした。

そんな堀口選手がボクシングの世界に入るキッカケとなったのは、真岡中学の先輩で〝日本ボクシングの父〟といわれた渡辺勇次郎氏が真岡市に凱旋し模範試合を行った際、度胸試しとばかりに飛び入り参加してリングに上がり、プロ選手とほぼ互角に渡り合ったこと。

柔道とボクシングは全く違うスポーツなのに・・・やはり天性の素質があったのでしょうネ。

ボクシングに魅せられた堀口選手は渡辺先輩の誘いに乗って1932(昭和7)年に上京し、早稲田大学に通う傍ら日本拳闘倶楽部に入門。

その僅か半月後にアマチュア・ボクサーとしてリングに上がり1回1分12秒でKO勝ちして早くも才能の片鱗を見せました。

その後岡本不二というかつての名選手の指導を受け、上京1年後のプロ初戦も1ラウンド47秒でKO勝ちという鮮烈なデビューを飾ると、
5引き分けを挟んで47連勝を記録。

連勝中には日本タイトルはおろか、1936年にはB・D・グスマンを破り東洋フェザー級チャンピオンの座を獲得しています。

1941年5月には両国国技館で終生のライバルとなる〝槍の笹崎〟こと笹崎僙(たけし)選手と〝世紀の一戦〟といわれる死闘を演じ6回TKO勝ち。

以後〝拳聖〟といわれ、また対戦相手をロープに追い詰めると左右の連打を休みなく叩き込み、観客から 「わっしょ、わっしょ」 と掛け声が・・・いつしか〝ピストン〟という愛称がつくことに。

当時は蒸気機関車の時代だったからですが、今だったらどんな愛称になったんでしょうネ?

となれば、次は当然世界タイトルに挑戦・・・となるはずなのですが、残念ながら彼が世界タイトルマッチのリングに上がることはありませんでした。

その原因は、戦争。
全盛期と太平洋戦争が重なってしまい、試合どころではなかったのです。

彼より9年後に生まれた白井義男選手が1952年に日本人初の世界チャンピオンになったことを考えると、運命のいたずらとしか思えません。

1948年に日本ミドル級王座を獲得したものの、既に全盛期を過ぎていた堀口選手は、その2年後に現役を引退。


生涯戦績は176戦138勝(82KO)24敗14分。

(※82KOも日本記録であり、これもおそらく今後破られないでしょう。 また負け数が多いように見えますが、これは一旦1946年に引退宣言した後に事情があって短期間カムバックした後の敗戦が殆ど。)

驚くべきは、これだけ対戦がありながら、ダウンしたのがたったの3度(内2回はノーカウント)で、KO負けが無いこと。(レフェリーが止めたTKO負けでも2回のみ。)

打たれても打たれても前に出続けた堀口選手が、いかにタフだったか・・・想像を絶します。

その後ボクシング・ジムを開くなどしていた彼が突然36歳でこの世を去ったのは、引退から僅か5年後の1950年10月24日午前0時過ぎ。

東海道線の線路上を歩いていて列車にはねられるという、ショッキングな最期を遂げてしまったのです。

       
        『ラッシュの王者』 (山崎光夫・著 文藝春秋社・刊)

自殺説やバンチドランカー症状が出たのでは? という憶測もありましたが、上記書籍では普段から駅を乗り過ごすと線路を歩いて帰宅していたことを知る奥様や息子さんがそれを強く否定しており、真相は未だ不明。


しかし彼のボクサー魂は3代引き継がれ、現在でも孫にあたる元・日本ライト級2位の堀口昌彰さんが 『ピストン堀口道場』 の会長を務め、後進を育成しています。


道場の繁栄を願いつつ、〝拳闘こそ我が命〟と刻まれた墓碑の下に眠る 『拳聖』 のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3


Dive! <下>


実は、この日の〝スカイダイビング初挑戦〟で最も恐怖を感じたのは、このセスナ機に乗っている時でした。


ダイブ・ポイントは、地上10,000フィート(約3,000m)。


そこまで上昇するのに20分程かかったんですが、所々ガムテープ(!)で補修してある〝おんぼろセスナ〟の機内・・・コクピットの後ろはシートもなくガラ~ンとした空間。 


まるで大きなマッチ箱の中にいる感じだったんですが、そこで私は何もつけずにジ~ッとしているだけ。

私とペアを組むダイバーとパイロット、そしてビデオ撮影するカメラマンは既にパラシュートを装着済み。


ギシギシと音を立てて機体が轢むたびに、


(おいおい・・・今墜落したら、死ぬのはオレだけかョ!)


そう思うと、体は自然と硬直。 無神論者の私も思わず心の中で


(どうか無事に着地できますように・・・。)


と、ただただ神様・仏様に祈るのみ。


何とか無事に降下ポイントまで到着すると、ダイバーが私を手招きしてようやく〝合体〟。


ホッとしたのも束の間、すぐに立ち膝でズルズルと這うように右側のドアに近づき・・・私は地上3,000メートル上空で主翼を支えるポールに右足を乗せて身体を機外に出しました。


目の前2メートルには回転するプロペラ、そして足元の遥か下には砂漠が広がり、


うわ~、た、高っ!)

      


と思ったその時・・・ダイバーのカウントダウンが始まります。


3・2・1・・・GO


ダイバーは機体から手を離し、私は彼ともども真っ逆さま!


Wooooow!


声にならないような叫び声と同時に、鼻水が顔を伝い、風圧でゴーグルがズレていきます。


手足を広げてバランスを取り、体勢が安定すると、同時に飛んだカメラマンがビデオを持って近づいてきて、ハイポーズ・・・って撮影したワンカットが、こちら。


        ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-スカイダイビング

時速約200kmで降下 (新幹線の先頭にくくりつけられると、こんな感じ?) したのは、おそらくほんの20秒程だったのでしょうか・・・バラシュートが開くと同時にドンッという衝撃が身体に伝わり急減速、ホッとした後はゆったりと空中散歩。


私にしてみれば、もっと〝急降下〟を味わいたかったんですけど・・・でも、足元に広がる荒涼とした砂漠の真ん中に緑色の切手を張り付けたようなゴルフ場と、遥か前方に佇むフーバーダムは、今でもしっかりと目に焼きついています。


数分後にズザザザ~ッと無事着地した瞬間の爽快感といったら・・・も~っ、最高!扇子


費用はビデオ撮影のオプション付きで確か$250くらいだったと記憶していますが、十分にモトを取った初体験でした。


ところでこのスカイダイビング・ツアーでは、ふたつ印象的なことが。


まずひとつ・・・同行した仲間の一人が、実は高所恐怖症だったんです。


成田から飛行機に乗ってる間、ずっと青い顔で身体を硬直させていた彼が、

「自分を変えたい!」

と一念発起して、私のスカイダイビング計画に同行志願してきたのです。


飛び終えた私に、「どうだった? 怖くなかった?」 と彼は質問攻め。 


順番が来ると、顔面蒼白でセスナに乗り込んだのですが・・・着地した後は、もう大興奮。


「いやァ~、ナベちゃん。 ここに来て大正解だったョ!」


と晴れやかに語った彼は帰りの飛行機では別人のように元気。

すっかり恐怖症を克服してしまったんです驚き顔 ウソミタイ・・・


そしてもうひとつ。 


この日、私たちのグループとは別に1人でツアーに参加した、いかにも上品そうな50歳半ばの女性がいらっしゃったんです。


(女性1人なんて、珍しいなァ・・・。)


とシャトルバスに乗ってこられた時から気になっていたのですが、順番決めの時も私と一緒に

「最初に飛びたい! 」

って立候補するではありませんか


別のセスナに乗って飛んだ彼女と私はほぼ同時に着地。 後の参加者が飛び終わるのを待つ間、


「どうして一人でスカイダイビングに来られたんですか?」

って聞いたところ・・・


「私はネ、今まで一人で何かに挑戦したことがなかったんですの。

いつも主人について回っていただけで・・・。


で、今回の旅行では絶対に何か一人でやろうって決めてましたのョ。

おかげさまで素晴らしい体験ができましたワ。 ありがとうございます。」


輝くような笑顔で、そうおっしゃったんです。


人間、気持ち次第でいつでも何にでもチャレンジできるんだなァ・・・って、少なからず感動しました。


「自分の限界を超えたい」 とか、「自分を変えたい」 って思っている方は、是非一度スカイダイビングに挑戦してみては如何でしょう?

日本でも、埼玉県などで私のやった〝タンデム・ダイビング〟を32,000円~でできるスカイダイビングクラブがありますので・・・。


私、次回は是非〝単独降下〟に挑戦してみたいです!笑2 





Dive! <上>

今日・10月22日は


 パラシュートの日

   Parachute

なのだそうです。

※パラシュートとは、イタリア語の“parare ”(守る)と “chute ”(落下する)を合成した造語。


今から220年近く前の今日・・・日本では11代将軍・家斉の時代であり、伊能忠敬が日本地図製作のため全国を測量して歩いていた頃の1797年10月22日、フランス軍の元将校アンドレ・ジャック・ガルネランなる人物が、世界初のパラシュート降下をした日に因んでのことだとか。

彼自身がナポレオン戦争初期に3年間の捕虜生活を送っていた際に、脱走の手段としてパラシュートを思いついたのだそうです。

まさに必要は発明の母・・・といったところでしょうか。


彼が使用したパラシュートは直径7m、32本の骨がついた布製のもので、気球で地上900m上空に上がり、そこからのダイビングだったそうです。


事前に犬で実験したとはいえ、よくもまぁいきなりそんな高いところから飛び降りたもの。


その勇気たるや、初めてナマコや納豆を口にした人以上に称賛されますょネ。あせあせ


さて、パラシュートと言えば〝スカイダイビング〟を連想する方が多いと思いますが・・・皆さんはやったことがありますか?


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-スカイダイビング2


俗に〝バ〇は高いところが好き〟 って言いますが・・・実は私がそうでして、子供の頃からスカイダイビングをやりたくて仕方がなかったんです。


その願いが叶ったのは、今から20年程前・・・ラスベガスに行った時のこと。


行くと決まった時から、(絶対にスカイダイビングやるんだ!) と堅く決心していた私は、到着してすぐに2日後の自由時間に予約を入れました。


その前夜、予行演習としてストラトスフィア・タワーにある〝ビッグ・ショット〟に挑戦!

右下写真のタワー屋上の赤い支柱に取り付けられた椅子に座る
地上300mでの逆バンジーは、ラスベガスの夜景が一望できる中で一瞬の無重力状態と垂直落下が味わえ、素晴らしい体験でした。(


ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-ビッグショット

 


そして、いよいよ翌朝・・・指定されたホテル前でシャトルバスに乗り、約30分後に滑走路と飛行機の格納庫がポツンとある砂漠の真ん中(?)に到着。


他の希望者10名共々、格納庫脇の事務所へと案内されたのですが・・・まずビビッたのは、見せられた 『誓約書』。


要は、万が一墜落事故が起こってもその会社を訴えない、という書面にサインしろってこと。


さすが契約社会のアメリカ・・・と妙に感心すると同時に、

(あぁ、やっぱりそういう可能性があるんだなァ。)

という覚悟、つまり〝自己責任〟を思い知らされた瞬間でした。


サインが終わると体重測定。 

上限110kgを余裕(?)でクリアした私は、つなぎの防風スーツを着せられビデオを見て要領を飲み込むと、小さなテーブルの上にうつ伏せになって、インストラクターとのタンデム(2人組)降下の練習。


肩をポンと叩かれたら手足を四方にパッと伸ばすタイミングを教えられたのですが・・・コレ、傍で見ていると、まるでヒキガエルをつついて遊んでいるように見えて可笑しかったのですが、他の方々は緊張感で顔が引きつるばかり。


さて、全ての準備が終わって降下順を決めます。 

私は早く飛びたくてウズウズしてましたから、当然一番手に立候補。


無投票当選を果たし、「生きて帰って来いョ~」 という皆の声を背に受けながら意気揚々と滑走路へ。

しかしそこにあったのは、第一次大戦から使っているんじゃないか? と思えるような古いセスナ機。


(えぇ~っ、こんなオンボロに乗るの?)


と思わずたじろいだ私は、身長190cmはあろうかという担当ダイバー(元海兵隊員!)に


Hey,come on. Let's go!


と無理やりセスナに押し込まれてしまいました。


ドアを閉めるとバタバタとプロペラが回り始め、ギシギシと機体を軋ませながらおんぼろセスナは滑走路を走り、やがて車輪が地面と離れ・・・さぁ、もう後戻りはできません。 




             ・・・・・To be continued!!