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呪 い

中高年の映画ファンにはお馴染みだった女性映画評論家といえば、小森和子さん。

この〝おばちゃま〟自身が永遠の恋人と言って憚らなかったのが、アメリカの映画俳優の


 ジェームズ・バイロン・ディーン
     James Byron Dean

今日・9月30日は、彼の命日・没後60周年にあたります。


          


ジェームズ・ディーン(本名)は、歯科技工士の父親の子として1931年にインディアナ州マリオンで生まれました。

しかし母親が9歳の時に病死したため、彼はイリノイ州フェアマウントに住む叔母夫妻に預けられ、彼らに育てられます。


高校時代から演劇に興味を持ちUCLAの演劇科で学んだ彼は、俳優としてのキャリアを積むために大学を中退し、ニューヨークへ。

そこで何本かのテレビ番組に出演した後、映画スターを夢見てハリウッド入りすると、『底抜け艦隊』等数本の端役を演じたのち、1955年公開の『エデンの東』の主役に抜擢されるといきなりアカデミー賞・主演男優賞にノミネートされ、一気に有名に。

その年続けて公開された 『理由なき反抗』 でも主役を演じ、翌1956年に公開された 『ジャイアンツ』 ではエリザベス・テイラー、ロック・ハドソンという当時超一流の役者と協演。


将来を嘱望されたヤング・スターとして注目を浴びたのですが・・・その『ジャイアンツ』がクランク・アップしてから僅か1週間後の1955年9月30日、彼はレース出場のため愛車ポルシェ550スパイダーを駆ってサリナスへ移動中、交通事故を起こして亡くなってしまったのです。

弱冠24歳・・・1950年代の若者の鬱屈をシブい表情で演じた若者は、出演わずか数作品で天に駆け上ってしまいました。

それ故に、現在に至るまでそのカリスマ性は色褪せてはいませんが・・・次回作『傷だらけの栄光』には、代役としてあるポール・ニューマンが抜擢され、彼がその後大物俳優として活躍する第一歩となったことに、何とも言えぬ因縁を感じます。

さて、彼がハンドルを握っていたポルシェには、その後も不吉な逸話が残されています。


        


ディーン自身はこの車をいたく気に入り、自分で改造を加え〝リトルバスタード〟と名付け大切にしていたそうですが、友人らはこの車に只ならぬ雰囲気を感じ彼に乗らないよう忠告していたといいます。

残念ながらディーンは友人の言葉に耳を貸さなかったばかりに命を落としてしまったわけですが・・・高価なクルマだったため事故後使える部品を回収しようとした業者がそれを落として足を骨折。

更にこのリトルバスタードのエンジンに積み換えた車でレースに出たレーサーは走行中タイヤが外れ、またトランスミッションを利用した別のレーサーは事故を起こして死亡。

そして警察がこのポルシェを交通安全キャンペーンに展示しようとしたところ、この車を会場へ運んだ陸送車が走行中にスリップ事故を起こし、運転手が投げ出されて死亡してしまったのです。

私も以前新車を買った時、納車された瞬間から何となくイヤな気配を感じたことがあったのですが、やはり僅か3日後に車上荒らしに遭い鍵穴を潰されたことがありました。

また買った中古車の写真を撮ったら変なものが写りこみ、その数日後に事故に遭ったという知人もいます。

車に呪いがかかる・・・皆さんは信じますか?

このポルシェは1960年にマイアミで展示された後、貨物列車で輸送中に忽然と消え、行方知れず。

クラシックポルシェをお持ちの方・・・もしかしたら、それにリトルバスタードの部品が使われているかもしれません。


ある時、バックミラーにディーンの顔がフッと映るかも。驚き顔 ワッ




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さんだん <下>

う~ン・・・と唸った後にエネゴリ君の出した答えは、こうでした。

「サンダンっていうんだから、ジャキッ、ジャキッと2回スライドを動かした後にズドンッて撃つ銃のことなんじゃないですか?」

彼はどうやら〝3段(階の)銃〟だと思ったようです。

私はすぐに答えを教えるのをやめて、更に聞きました。

「あはは、伊東のハトヤじゃあるまいし・・・じゃあさ、もうひとつ聞くけど、『長篠の合戦』って知ってる?」

「あっ、それは知ってます。 ボク、歴史好きなんですョ。」

「へぇ~、そうなんだ。 じゃあ、誰と誰が戦ったか分かるょネ?」

「えぇ、もちろん。 織田信長と・・・」

「おぉ、正解。 正確には、徳川家康との連合軍だけどネ。 
で、相手は?」

「う~んと、武田、武田・・・信玄!」

「ブ、ブ~。 惜しい! 正解は、その息子の勝頼。」

「あっ、そうでした。 しまった~。」

「まぁ、キミにしちゃあ(?)上出来。 


ところで、その 『長篠の合戦』 で、信長が武田の騎馬隊に仕掛けた鉄砲の三段撃ちっていう戦法で勝ったことは知ってる?」

「あっ、はい。 知ってます。」


        

「じゃあ、その三段撃ちって、どんな戦法なのョ。」

「さっき言った通り、一発撃つのにスライドを2回動かしたんじゃないですか?」

と大真面目に答えたから、大笑い。

「あのなぁ、安土桃山時代にスライド付きの銃なんてあるわけないだろうが! 火縄銃だぞ、ヒ・ナ・ワ・ジュ・ウ。」

「あっ、そうか。 じゃあ、腹ばいと、片膝と、立って撃つのとで3段?」

「まぁ、さっきのスライドよりはマシな答えだけど、ハズレ。
正解は、撃ち手を3チームに分けて交代で攻撃したんだョ。
それで騎馬隊が簡単に自陣に近づけないようにしたんだ。
もっとも、これは史実じゃないっていう学者もいるけどネ。」

「なるほど~、そうだったんですか。 信長って、あったまイイ!」

そりゃそうだろうョ。

「で、渡辺さん。 サンダンジュウって、どんな銃なんですか?」


「それは、自分でパソコン検索して調べるんだネ。
 私ゃもう笑い疲れたから、帰る。」

えぞ鹿のパイ包みを食べ終わって席を立ちながら、私は彼に言いました。

「いやぁ、今日も楽しかったョ。 おかげでまたブログネタが増えたし。

今日の話で、上・下2日分の記事が書けそうだョ。」

それを聞いたエネゴリ君、怪訝そうな顔をして私にこう言ったんです。

「えっ、上・中・下じゃないんですか?」

「どうして?」

「だって、3段の話でしょ?」


・・・・・おあとがよろしいようで。笑2





さんだん <上>

今月9日の拙プログ記事『ハーフ』の続編・・・と言えばいいでしょうか。

その後しばらくして、例のエネゴリ君のいる店に行きました。

「この前、またキミのことを記事にしたョ。」

「そうですか、ありがとうござます。」

う~ん、感謝されるような記事じゃないんだけど、まぁいいか・・・と思いつつメニューを見ると、あの、『えぞ鹿のサルシッチャとセロリのパイ包み』 がまだあるじゃないですか。

「あれ、まだあるんだ。 美味しかったから、またちょうだい。」

「はい、分かりました~。」

「じゃあ、ハーフで。」

「えっ、あっ、いやっ・・・。」 とまた彼が困った顔したんで

「いいょ、いいょ。 1人前で。」

ホッとした顔をしたエネゴリ君を横目で見ながら、私は店主と雑談。

「ところで、えぞ鹿って野生だょネ?」

「えぇ。 なんでも北海道じゃ増え過ぎて獣害被害が酷いんですって。

それで間引いたヤツの肉が、時々入ってくるんですョ。」



          


「ふぅ~ん、そうなんだァ。 今でもえぞ鹿を狩るのは〝またぎ〟なのかナ?」

と言ったところで、私はエネゴリ君に話を振ってみました。

「ところで、キミは〝またぎ〟って知ってるかい?」

「いえ、知りません。」

「やっぱりなぁ。 君の年代じゃ聞かないだろうナ。

〝またぎ〟ってのは、シカやイノシシ、それにクマなんかを狩って生活をする猟師のことなんだョ。


今はそういう言い方しないのかもなァ。

でも彼らが散弾銃で仕留めた獲物なら、気を付けないと弾を噛んじゃうかも。

昔、地方の旅館でイノシシ鍋食べた時、ガリッて噛んだことあるし・・・」

と話したところで、今度はエネゴリ君が私に聞いてきたんです。

「あの~・・・その〝サンダンジュウ〟って、何ですか?」

「えっ、知らないの?」

「はい。


「あらら、そうなの。 それは・・・」

と言いかけたところで、私はちょっと彼をイジッてみたくなりました。

「じゃあ、キミはどんな銃だと思う?」

と、彼に逆質問。

さて、ここで皆さんにクイズです。

天然ボ〇のエネゴリ君は、この後どんな銃だと答えたでしょう?あせあせ

               ・・・・・To be continued!





          

very hot

久しぶりに、ナベちゃんの〝激辛〟リポートをお届けします。

先日セブン・イレブンに寄った際、レジの近くに初めて見るカップ麺が積んでありました。

首都圏にお住いの激辛党員なら、知らなきゃモグリと言われても仕方ない・・・蒙古タンメンで有名なラーメン店・『中本』で最も辛いといわれる、〝北極〟。

以前販売されていた蒙古タンメンのカップ麺は私にとってそれほど辛くなかったので、今度こその期待をかけて即購入。

   


ご覧の通り、何故か蒙古タンメン(右)より一回り小さいサイズの北極ラーメンのカップに早速お湯を入れて、指定通り5分間じっと待機。

そして仕上げに後入れの極辛オイルを入れると、こんな感じ。(

        

・・・どうです、見ただけで汗が出てきそうな唐辛子色でしょ。

食べてみると、見た目通りの辛さ。

おそらく今まで食べたカップ麺の中では、最も辛いと思います。
でもただ辛いだけではなく、味噌ラーメンの味もしっかり。

完食しただけでなく、ついついスープも飲み干してしまいました。


調べてみたら、去年も期間限定で発売されていたそうですが、なぜか私は気付かず。 今年7月下旬から再発売されていたそうな。

日清食品の製造ですが、セブン・プレミアムの商品ですので興味のある方は近くのセブン・イレブンでご購入を。

いつまで売られているかは、保証できませんが・・・もし売り切れだったら、来年まで待ってみてください。あせあせ

それから、もうひとつ。 レトルト・カレーをご紹介しましょう。

カレーの激戦地として有名な東京・神田で人気№1ともいえる

 『エチオピアカレー』

       


アフリカ・エチオピアで人気のカレー・・・というわけではなく、1988(昭和63)年にカレーとコーヒーの専門店としてオープンした際、出していたエチオピア・コーヒーが好評だったので、そのまま店名にして現在に至っている、というお店。

以前から辛くて美味しいという評判や、激辛グルメ祭りにも出店していたことも知っていましたので、たまたまスーパーでこのレトルト・パックを見つけ、手に入れた次第。

パッケージの辛さランクは最高の〝5〟にランクされていますが、野菜を長時間煮込んでいるためか、食べた瞬間はそれほど辛くはありませんでした。

しかし12種類のスパイスが、ジンワリと体に浸透・・・食べた後に全身からジトッと汗が。

お店では辛さ70倍(裏メニューでは100倍!)までチョイスできますが、このレトルトはおそらく2倍くらいらしいです。

それでもグリコのLEE×10倍より辛く、かつ美味しいと感じました。

こちらは激辛というよりもウマ辛。

通販でも入手できますので、今まで食べたことのない方は是非お試しください。

激辛食品も、これからはお店ブランド毎に楽しむのが面白そう・・・。メラメラ

古 学

今日は、あの吉田松陰をして〝先師〟と言わしめた、江戸時代前期の儒学者であり山鹿流兵法及び古学 (後世の解釈に頼らず、論語などの経典を直接実証的に研究する学問) 派の祖、 


 やまが そこう

 山鹿 素行


の命日・没後330周年にあたります。

〝山鹿〟という名前、どこかで聞き覚えがありませんか?

そう、忠臣蔵・討ち入りの際に大石内蔵助が打ち鳴らしたと言われる〝山鹿流陣太鼓〟・・・彼は赤穂藩と非常に縁が深い学者でした。


(※ただしその陣太鼓は歌舞伎の世界での創作であり、実在していません。)

素行は1622(元和8)年に山鹿貞以の子として現在の福島県会津若松市に生まれました。

6歳の時に父親が奉公先の改易によって浪人になったため、町医者を開業すべく家族共々江戸へ。

その頃から親に書を読まされた彼は何と8歳の時には四書五経などを暗記し、その翌年には幕府のブレーンだった林羅山にその才能を認められて弟子入りしたといいますから、驚くべき秀才。

有能な師についた素行の才能は開花し、15歳の頃には大人の武士たちに 『論語』・『孟子』 を講釈し、更に兵学も修めて20歳過ぎで 『山鹿流兵学』 を確立します。


その天才ぶりを耳にした各藩から誘いがあったものの安易に仕官せず、結局29歳の時に播州赤穂・浅野内匠頭長直(※殿中・松の廊下で刃傷沙汰を起こし切腹した長矩の祖父)に1千石という破格の待遇で賓師として迎えられます。

更に3代将軍・家光も彼を幕府で召し抱えようとしましたが、その前に家光が亡くなったためその願いは叶いませんでした。


これが運命の分かれ道になったのか、9年間赤穂藩に籍を置いた後江戸に戻り、学者として身を立てていた彼が44歳の時に書いた『聖教要録』 が当時幕府公認の学問・朱子学を批判したとして幕府の重鎮で2代将軍・秀忠の子だった保科正之が激怒。

かつて世話になった赤穂藩に配流されてしまいます。

(この時点で打ち首にならなかったことが、彼の学者としての力量がずば抜けて優れていたことを逆に示しているとも言えましょうか。)

        


幕府の温情(?)でかつての仕官先に再び戻った素行は約10年を赤穂で過ごし、この間いよいよ研鑽を積んで『中朝事実』・『武家事記』・『配所残筆』など数々の書を記しました。

吉田松陰が200年も前に生きた素行を先師と仰いだのは、自分と同じく幕府に身柄を拘束された中で研鑽を積んだことに尊敬の念を抱いたからなのかも。

またこの配流中8~17歳だった大石内蔵助も 「大義に行きよ」 という素行の教える武士道に接したことが、後の仇討に繋がったと言ってよいでしょう。

家光の二十五回忌で赦免され1675(延宝3)年に江戸に戻った素行は、その後も兵学などを弟子に10年間教え続け、1685(貞享2)年9月26日に64歳で天寿を全うしました。


     

        『山鹿素行の思想』(立花 均・著 ぺりかん社・刊)


彼の提唱した武士道は〝死ぬことと見つけたり〟という 『葉隠』 的なものとは違う〝人倫の道を自覚しそれを実現することを武士の本分とする〟という儒教的なもの。

しかし私はその武士道よりも、彼が当時勢力が強かった中国(明朝)が優れているという中華思想に反論し、何度も王朝が変わった中国に比べ、

「日本ほど連綿たる歴史と優れた風土・国体を持った国は他にない。」

と母国を高く評価した点に注目したいのです。

乃木希典元帥が学習院々長時代、若き昭和天皇にその素行の思想が記された 『中朝事実』 を読むよう勧めたことからも、その想いの深さが伺えます。

その2日後に執り行われた明治天皇の葬儀の日に、乃木元帥は奥様と共に殉死していますから、ある意味素行の教えが昭和天皇に対する乃木元帥の〝遺言〟といえましょう。

敗戦後アメリカによる自虐教育を受けた日本国民の誇りを取り戻すためにも、今一度山鹿素行の教えに脚光が当たることを願って止みません。



影の主役

2013年に公開された 『宇宙戦艦ヤマト2199』・・・大のヤマト・ファンである私も満足する出来栄えでした。

しかしチョッピリ不満だったのは、元祖 『宇宙戦艦ヤマト』 と声優さんが違ったこと。

極力同じ声質の方を起用したのだとは思いますが、まぁ40年近く時が経過しているのですから、仕方ないんですけどネ。

特に、沖田艦長役の納谷悟朗さんが公開直前に亡くなられていたこと、そしてもう一人・・・同作の主役・古代進役だった

 富 山 敬 さん


が既に他界してしまっていた事が残念でした。

今日は、アニメ声優ブームの火付け役でもあった彼の命日・・・早いもので、没後20周年にあたります。


                        

1938(昭和13)年に満州で生まれた富山(本名:邦親、芸名の〝敬〟は、本名のイニシャル〝K〟をもじったものだとかさんは、引き揚げ後東京で育ち、日大芸術学部演劇科中退後からアニメ・洋画の吹き替えなどの声優として活躍されました。


前述の 『宇宙戦艦ヤマト』 は、私の人生観を変えたといっていい程の作品でしたが、古代進の声を聞いた時に、


(どこかで聞いた声だょなァ。)


と思ったものですが・・・それもそのはず、私が小学生時代に熱狂したアニメ 『タイガーマスク』 の主人公・伊達直人役も演じていたんです。


調べてみたら、その他にもアタック№1・男一匹ガキ大将、ハクション大魔王・ムーミン・いなかっぺ大将・ガンバの冒険等々、1960年代の作品から数え切れない程の作品に出演していたのです。


『巨人に星』・星飛雄馬役で有名な古谷徹氏の先輩でもあったんですねェ。


少年役から老人役、正義のヒーローから悪役まで、まさに〝七色の声〟で広いレパートリーをこなした富山氏は、『宇宙戦艦ヤマト』 の大ヒットをきっかけに、同作品の森雪役を演じた麻上洋子さんと共に、縁の下の力持ち的な〝声優〟 という仕事を若者が憧れる職業へとステータスを一気に引き上げました。


大変な人格者で後輩の面倒見も良く、独立して自らプロダクションを設立した際は多くの声優が彼についてきてしまったため、後に業界内に確執が生まれてしまったのだとか。


しかしその生真面目な性格が災いしたのか、体調不良をおして仕事を続けた富山さん・・・体が動かなくなって病院に担ぎ込まれた時には既に末期ガンに侵されており、手の施しようがありませんでした。


もし早く病院に行っていれば、今でも富山氏の老境に入ったシブい声を楽しむことができたかもしれないと思うと、何とも残念でなりません。


入院後僅か1ヶ月後の1995年9月25日・・・彼は56歳の若さでこの世を去ってしまいました。


「雪、見てごらん・・・地球だョ。 地球に戻ってきたんだ!」


         


懐かしい古代進のセリフを思い起こしつつ、黒子役にスポットを当てた立役者のご冥福をお祈りしたいと思います。笑3


民族性

先日、拙ブログで東京五輪組織委の会長として森喜朗氏の代わりに私が推薦した、スポーツ界の名リーダー・川淵三郎氏が読んで感涙にむせんだ・・・という本があることを知り、さっそく取り寄せて読んでみました。

その書籍は、こちら。


 『逝きし世の面影』 (渡辺京二・著 平凡社ライブラリー・刊)


         


同書は、幕末から明治維新後にかけて来日した外国人が残した自身の日本における目撃・経験談をまとめたもの。

西洋人が見た極東の異文化は驚きの連続だったようですが、それは決してオリエンタリズムに感化され色眼鏡で見たものではなく率直な感想・実感が語られたものであり、ある意味当時の日本人を生き生きと描いているといえましょう。

非常に多くの文献が引用されていますが、例えばこんな記述が・・・。

◆彼ら(日本人)は私に不信を抱いたりあつかましくふるまうことは一度もなく、時には道案内のために、世話好きではあるが控えめな態度でかなりの道のりをついて来たり、あるいは子供たちにそれを命じたりした。

子供たちは外国人とばったりと出会うと叫び声をあげて逃げ去ったが、知り合いになるとすぐに打ち解け、群れをなして 「おはよう」 と挨拶した。

◆その日の旅程を終えて宿に着いた時、馬の革帯がひとつなくなっていた。 もう暗くなっていたのに、宿の男はそれを探しに1里(4km)も引き返し、私が何銭か与えようとしてのを「目的地まで全ての物をきちんと届けるのが自分の責任だと言って拒んだ。


◆みっともない格好の女は、休息した場所で普通2,3銭を断固として受け取らなかった。 私がお茶ではなく水を飲んだからだと言うのだ。 私が無理に金を渡すと、彼女はそれを同行の通訳に返した。


◆これ以上幸せそうな人々は、どこを探しても見当たらない。 喋り笑いながら彼らは行く。 遠くでも近くでも 「おはよう」、「おはようございます」 とか、「さよなら」 というきれいな挨拶が空気を満たす。 夜なら 「おやすみなさい」 という挨拶が。 この小さい人々が街頭でお互いに交わす深いお辞儀は、優雅さと明白な善意を示していて魅力的だ。

貧しくても、礼儀正しく快活で笑いが絶えない当時の日本人の姿を、多くの外国人がそこかしこで見かけ証言しています。

そして〝お・も・て・な・し〟の精神も、無意識に発揮されていることも・・・。


        

               外国人が描いた〝口上を述べる〟の図

また、隣国との比較で、こんなことを書き残した方もいました。

◆支那に長らく住んで、その背景の単調、その沿岸の不毛、ピエル・ロッティが『黄金の地獄』と言った、ヨーロッパ人がひどく嫌う恐ろしく醜い人間の群れが、汚い暮しをしているあの支那の部落の不潔を見慣れた者にとって、この日本との対照は全く驚異に値するものだった。

かつて 『黄金の国・ジパング』 といわれた日本と中国とでは、当時月とスッポン以上の差があったのかもしれません。

しかし日本人の文化水準・精神性の高さに驚く一方で、こんなことを〝予言〟した外国人もいます。

アメリカの総領事として来日したハリスは、日本に上陸後わずか2週間にして

「厳粛な反省・・・変化の前兆・・・疑いもなく新しい時代が始まる。


敢えて問う。 日本の真の幸福となるだろうか?」

と自問し、そしてその2年後には日本人への温かい心からの賛辞を漏らすとともに

「衣食住に関する限り完璧ともいえるひとつの共存システムを、ヨーロッパ文明とその異質な信条が破壊し、初めのうちはそれに替わるものを提供しない場合、悲惨と革命の長い過程が間違いなく続くだろう」

・・・と述べています。 またハリスの通訳だったヒュースケンも

「今や私がいとしさを覚え始めているこの国よ。 
この進歩は本当にお前のための文明なのか? この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾り気のなさを私は称賛する。


この国土の豊かさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見ることが出来なかった私は、おお神よ、この幸福な情景が今や終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳を持ち込もうとしているように思われてならない。」

と。 2人とも西洋文明が日本を悪い方向にもっていく、と予言していたのです。

おそらくそれは他のアジア諸国のように近い将来日本も植民地化されることを見越してのことでしょうが、幸いにも我が国は明治維新前後に植民地化されることなく、西洋文明を取り入れ富国強兵に成功し、独立を堅持しました。

とは言え、大東亜戦争に敗れアメリカ主導の戦後教育を素直に受け入れてしまったがために、結果的に彼らの予言は的中・・・日本人の道徳性は破壊され、狩猟民族の自己主張・権利偏重主義が浸透したと言えましょう。

しかし私は、日本人のDNAには、150~200年前に私たちの先祖が持っていた倫理観・道徳観がしっかり刷り込まれていると信じています。

この本は、その眠れる良き民族性を覚醒させるスイッチの役割を果たしてくれる・・・だから川淵キャプテンも涙したのではないか? と、私は推察します。 

少々分厚い本ですが、一読の価値はありますョ。

まずはしっかりと挨拶が出来る人間作りから始めましょう!扇子


生き仏

人間はどの世界で生きていくにせよ、その技術や人間性・感性などを向上させるためには〝修行〟が必要ですが、その中でも最も過酷と言っていいのが、『千日回峰行』。

これは、比叡山中を1日数十km歩く(というより走る)行を約7年の歳月をかけて延べ千日続け、しかも途中9日間にわたる断食・断水・断眠の行もするという荒行。


万一途中で行を続けられなくなった場合は自害する定めであり、行者はその時に備え常に紐と短刀を懐にしているそうですから、まさに命がけ。

凡人には千日どころか1日でも出来ない様なこの厳しい荒行・・・これを1度ならず2度も達成した修行僧が、過去1千年の歴史の中で3人いらっしゃるそうですが、今日はその中のお一人である

 さ か い  ゆうさい
 酒井 雄哉 大阿闍梨


の命日・三回忌にあたります。


        


1926(大正15)年に大阪市で生まれた酒井師は、慶應義塾商業学校(慶大の夜間商業学校)に入学したものの落第しそうになり、教授に勧められて1944(昭和19)年に熊本の予科練に入隊。

そこで訓練を受けた後、鹿児島・鹿屋飛行場に配属・・・つまりは特攻隊員に。

幸運にも飛び立つ前に終戦を迎えると、図書館職員からラーメン屋を開業するも火事で廃業、株取引で1億円もの借金を抱えてその後も職を転々。

更には逃げられた奥さんが自殺するなど、壮絶な前半生を過ごされた方。

その酒井さんが、突如思い立って39歳の時に得度し仏門に。

比叡山延暦寺入りした酒井さんは1973(昭和48)年から1度目の千日回峰行に入り、1980(昭和55)年に満行。

これにより酒井師は 『北嶺大行満大阿闍梨』 となりました・・・が、これに満足感を得られなかった酒井師は、その半年後に再び入山。

そして1987(昭和62)年、史上最高齢の60歳で2度目の満行を達成したのです。

         

1990(平成2)年に下山した酒井師は、その後日本全国や中国・エジプトなどを巡礼し、バチカンではローマ法王にも謁見。

2013年9月23日に87歳で入滅されるまで、テレビ出演されたり多数の著書を出版されるなどの活躍を続けられました。

またその間多くの著名人が教えを乞いに酒井師の許を訪ねたことも知られています。

        
          『超人の教え』 中央公論事業出版・刊


私のような凡人からすればまさに〝雲上人〟といえる方なのですが、以前テレビで拝見した酒井師からは尊大さなど微塵も感じられませんでした。

好々爺のごとく穏やかなお顔で、


 ◆ 「行」とは、人生そのもの
 ◆ 一日一生
 ◆ やり始めたら真面目にやり続ける

 ◆ 全てが仏に見える 


・・・等々、淡々と語る酒井師の言葉に力みなどは全く感じられませんでしたが、一見当たり前の言葉でも荒行を達成し大悟したかの如き名僧の口から出ると重みが違いました。


そして番組の最後に仰った言葉が、無始無終』

つまり、修行には始めもなければ終わりもない・・・つまり人生そのものが修行の日々、ということ。

修験者だけでなく、全ての方に当て嵌まる言葉でありましょう。

これを胸に刻みつつ、〝生き仏〟として崇められた大阿闍梨のご冥福をお祈りしたいと思います。笑3






転 機

今からちょうど30年前の今日・1985(昭和60)年9月22日、その後の日本経済を揺り動かす大きな決定がなされました。 それは

 プラザ合意


それまでの過度なドル高是正のため、アメリカのベーカー財務長官が音頭を取って日本・イギリス・ドイツ・フランスの先進5ヶ国(G5)の大蔵大臣と中央銀行総裁がアメリカに集合。

彼らが会議を行なったのが、ニューヨーク・セントラルパークに隣接したプラザホテル。

1907年に建設され、古くは『北北西に進路を取れ』 から 『クロコダイル・ダンディー』 シリーズや 『ホーム・アローン2』 など多くの映画に登場しているこの老舗ホテルの名が、この時の合意文書につけられそう呼ばれています。


        


その内容は、「基軸通貨であるドルに対して、参加各国の通貨を一律10~12%幅で切り上げ、そのための方法として参加各国が外国為替市場で協調介入を行なう」 というもの。


1980年代前半のアメリカは、レーガン政権の金融引き締め策などで高金利となり、過剰なドル高を招いて貿易赤字を膨らませ、財政赤字と合わせて〝双子の赤字〟が大問題となっていました。


プラザ合意によって為替はドル安基調となり、アメリカは貿易赤字を減らすことに成功。


しかし実質的にアメリカから押し付けられたこの合意・・・日本にとっては大きなマイナスとなりました。

各国首脳の思惑としては〝近い将来10~12%のドル是正〟だったのですが、我が国ではそれを遥かに上回る円高が急激に進行。

それまでの1ドル240円だったのが、合意1年後には150円に。

これにより、それまで好調だった輸出産業は一挙に苦境に陥り、町工場など中小企業の倒産が続出。

生き残りをかけた大企業は海外に生産拠点を移すなどしたため、国内産業の空洞化を招きました。

あまりにドル安が進み過ぎたため、G5に加えカナダ・イタリアが1987年2月にパリで会議を開き、ドル安抑制を計りました(ルーブル合意)が上手くいかず、同年末には1ドル120円と2年前の半値にまで進行。



      

そして1986年の石油価格急落に伴い、日本では積極的な不動産投機によるバブル景気が始まりました。

〝地上げ〟という言葉が流行り、不動産業者が銀座で一晩に〇百万使ったなどという武勇伝(?)が話題になったのも、この頃。

しかしその景気も1990年3月に大蔵省が出した 『土地関連融資の抑制について』 という、いわゆる総量規制の通達によって、一気に終息。

その後の日本は、10年とも20年とも言われる〝失われた時代〟に突入したのです。

いわばこのプラザ合意は、その後荒波に翻弄される小舟の如き日本経済の波乱の幕開けになった、と言えましょう。

一連の経済動向についてその原因には様々な説が存在しますが、ひとつ言えることは・・・日本の経済は自らの意志によって制御できない、ということ。

今後どんな波が我が国を襲うのかは予測できませんが、常に受け身にならざるを得ない状況が続くことだけは確かでしょう。

しかし私自身、あのバブル景気を経験したことは決して悪い事だったとは思っていませんが・・・。笑2




自由契約

 フリー・エージェント
    
Free Agent


直訳すれば、まさに題記の通り 『自由契約』 。

しかし日本プロ野球界において、自由契約はほぼ〝クビ〟と同義語で使われています。


現在フリー・エージェントといえば、一定の条件をクリアしていずれの球団とも選手契約を締結できる権利を持つ選手を指すのが一般的。

そういった選手の権利を認める、いわゆる 『FA制』 の導入を日本プロ野球機構が決定したのが、今から22年前の今日・1993年9月21日のことでした。

そもそもこのFA制を初めて導入したのは、アメリカ大リーグ。

1975年、球団が提示した契約条件に納得せず、契約書にサインしないまま同年のシーズンをプレーしたモントリオール・エクスポスのデーブ・マクナリー投手(下・写真左)トロサンゼルス・ドジャースのアンディ・メッサースミス投手(下・写真右)が

「球団に自分を拘束する権利はなく、他球団との契約交渉は自由にできるはず。」

と声を上げたのがきっかけ。





結局同年12月のシーズンオフに調停委員会の仲裁で両名にフリー・エージェントの権利が認められたのです。


昭和時代、日本のプロ野球選手は、ドラフト会議でくじ引きにより行き先を決められ、トレードも球団フロントがほぼ一方的に決めていましたから、選手にすれば職場選択の自由が殆どゼロ。

当然このFA制の導入を要求する声が出され、アメリカに遅れること18年目にして実現に至りました。


当時とは条件が多少違いますが、現在では国内・国外と2通りのFAがあり、簡単にいうと国内が在籍7~8年、海外は9年以上1軍でプレーすれば権利を取得できます。

ちなみに導入が決まった1993年にFA第1号になったのは、阪神の松永弘美選手でした。

また、この時移籍した超大物選手は、中日から巨人に入団した落合博満選手。

逆に思い止まったのは、巨人の槙原寛巳投手。

片や大物を口説き落とし、片や自軍のエースを引きとめるべく自宅に赤いバラの花束を持って説得に向かったのが当時の巨人・長嶋監督だったことは、今でもよく憶えています。

しかし彼らのようにチームの主軸やエースならばともかく、それ以外の選手にとってFA宣言するのは結構勇気が要るんです。

というのは、一旦FA宣言をして他球団と交渉しても、もしうまく話がまとまらにないと元の球団とも契約が出来なくなり、本当にフリーになる恐れがあるから。

ですから余程行き先がはっきり見えていないと、なかなか踏ん切りがつかないのです。

傍から見ているとFA宣言をした選手は自由に球団を選べ、年俸も高額になってうらやましい限り・・・ように見えますが、実は選手にとってそれほどバラ色の制度でもないんです。

例えば1993年の場合、有資格者は52名いたのですが、実際にFA宣言したのは5人だけで、実際に他球団と契約したのは、僅かに4名。

前述の落合・槙原両選手は、そのうちの2人というわけ。

またこの年に移籍した選手に巨人・駒田徳広選手がいますが・・・実は現在に至るまで22年間、巨人から他球団にFA移籍したのは彼だけ。

このFA制度がどの球団にとって有利なのかは、想像に難くないですネ。


ちょっと古い本ですが、2009年に発行されたこんな本があります。

プロ野球 FA宣言 「天国と地獄」 (洋泉社・刊)

       


これを読むと、FA制度は当初特定球団に戦力偏向が見られたものの、現在は主として海外移籍の手段になっていることが分かります。

それ故にトップ選手の流出に加速がつき、結果的に日本プロ野球の地盤沈下・人気低迷に拍車をかけているようにも感じます。

果たしてFA制は今後も必要なのかどうか?

ところでこの制度・・・ビジネス界で導入したら、どうなるでしょう。

在籍10年経過したら同業他社へのFAを認める、なんて面白いと思いませんか?

能力に自信のあるサラリーマンなら、新天地を求めて手を挙げられる・・・まぁ、大抵の場合は体良く自由契約にされるのがオチかもしれませんが。うー