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野 菜

今日は8月31日・・・ということで、

 野菜の日

なのだそうです。 1983(昭和58)年に全国青果物商業協同組合をはじめとした関連組合9団体が制定したとのこと。

確かに分かりやすい語呂合わせですが、そのココロは・・・まぁ多分、野菜を沢山食べてほしいという願いが込められているんでしょうネ。

健康のために野菜をたくさん食べるべきだということは、皆さんも感覚的には理解されていると思います。

では具体的に1日どれくらい食べればいいのでしょう?


厚生労働省の指針では、15歳以上で1日350g (内緑黄色野菜は120g) 以上の摂取が必要とのこと。

では350gとはどれくらいかというと・・・口で説明するより、画像で見ていただいた方が分かりやすいでしょう。(


  

パッと見、結構な量ですょネ。

某民間企業の調査によると、この1日350gの目標値は過去10年以上達成しておらず、また十分野菜を食べていると思っている女性でも、その4割以上が実は野菜不足だった・・・という調査結果が出ているそうな。

「煮れば2倍は食べられる」 なんてCMが昔ありましたが、生で野菜サラダを食べるだけでなく、夏場でも何らかの熱処理をして食べる習慣をつけないと、野菜の摂取量は意外と少ない・・・と言えましょうか。


さて、ここで野菜に関するクイズをひとつ。

次の作物は、野菜・果物どちら?

 ① メロン  ② スイカ  ③ トマト  ④ イチゴ

いかにもヒッカケ問題っぽいですが、お分かりでしょうか?

正解は・・・とその前に、そもそも野菜と果物の違いは何か、というところから始めましょう。

実はこれ、明確な定義はないんですって。驚き顔


ざっくりとした区別としては、『木になる(※木本性)のが果物で、そうでないのが野菜』 あるいは


『多年生が果物で、一年生が野菜』 fなどと一般的に言われますが、農林水産省の定義だと、野菜とは


 ◇ 田畑で栽培されていること
 ◇ 副食物(※米・麦・芋などは除外)
 ◇ 加工を前提としないもの(コンニャク等)
 ◇ 草本
(地上部は通常1年以内に開花・結実・枯死し、茎は木化せず肥大成長しない)性であること


なのだそうな。

とすると、クイズの答えは、①~④全てが野菜ということになります。

※ただしイチゴは多年生木本植物であり、定義に従えば果物なのですが、実際には毎年苗を植え直して栽培し直すため、実態としては野菜という微妙な立ち位置。


一方文部科学省から出されている 『日本食品衛生分科表』 では、逆に①~④すべてが果物に分類されているそうな。

こういうところにも、お役所の縦割り体質の弊害が・・・?うー


まぁ細かいことは抜きにして、普段の食事では野菜・果物を今まで以上に多く摂ることを心がけましょう!


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先 見

現在では多くの自動車に標準装備されている〝エアバック〟。


これが初めて実用化されたのは、1980年のことでした。。

その年メルセデスベンツのSクラスにオプション装備され、その後各メーカーの高級車にオプションとして採用され、やがて標準装備として広がっていきました。


ちなみに日本では1985年にホンダ・レジェンドに装備されたのが最初とか。

この流れを見ると、この安全装置を開発したのは西ドイツのように思われがちですが・・・実はこの技術を最初に発明・開発したのが日本人であったことをご存知でしょうか? その開発者の名は、


  こ ぼ り  やすざぶろう

 小堀 保三郎 


今日は、この先見性に満ち溢れた天才的エンジニアの命日・没後40周年にあたります。

小堀氏は1899(明治32)年、栃木県河内郡に生まれました。

地元の小学校を卒業するとそのまま奉公に出た彼は、その後様々な知識を独学で吸収していったというから驚きます。


25歳の時に大阪に出て帝国通信社の記者となった後、大阪電気鉄道(現・近鉄)を経て1937年に自ら大阪工機製作所を創業し、起重機製造工場の経営に乗り出しました。


戦前は軍用機のエンジン取付用の小型クレーンを開発し、戦後は石炭エネルギーに着目して炭鉱採掘の機械化に知恵を絞り、その時期に発明の素養を養うと同時に、日本の石炭産業に大きな貢献を果たします。


その後大同工業に資本参加を求めるなどした後、1962年に会社の経営権を資本参加した石川島重工業に経営権を譲渡して上京。


品川区に居を構えると、新機種開発を目的としたG・I・C(グッドアイデアセンター)を設立。 サンドイッチ自動製造機の開発などで数多くの特許を取得しました。


その様々なアイデアのひとつに、エアバックの構想があったのです。


        ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

東京五輪が開催された1964年、小堀氏は元は航空機事故などで衝撃を緩和させる装置として考案したものを自動車に転用すべく、安全ネットやエアバックの開発に着手。


技術的な裏付けを得るために東京大学はじめ複数の大学教授や防衛庁・航空医学実験隊などの研究機関にも協力を求め、実験を膨大なフィルムに録画。

同時に世界14ヶ国で特許を取得し、自動車関係者にアピール。


更に当時から運転手だけでなく助手席や後部座席、更には側面・ルーフにまでエアバックの装着装置も考案していたというのですから、その先見性には舌を巻きます。


しかし当時としてはあまりに飛躍していたエアバック装置は、業界関係者に受け入れられませんでした。

発表会に出席した自動車関係者からは失笑を浴び、また当時は火薬の使用が消防法に抵触することから日本国内では公的な支援はもちろんのこと、誰も開発に協力する者は現れず。


結局私財を注ぎ込んで開発研究を続けた小堀氏は、資金繰りに行き詰まり・・・ちょうど40年前の今日・1975年8月30日に、G・I・C事務所内で奥様と共にガス自殺して果てたのです。


しかしその後彼の研究開発を欧州企業が引き継いだ結果、冒頭のようにエアバックは実用化され人命救助に大きく貢献。


斬新な発想にもう少し役人や大企業が柔軟に対応していれば、稀代の発明家の命を救えたものを・・・残念でなりません。


しかし現在多くの自動車に自ら考案したエアバックが標準装備されているのを天国から見つめている小堀氏は、きっと喜んでいらっしゃることでしょう。笑2


ところで、普段皆さんが乗られているクルマには、エアバックついていますか?


装着されている場合、多くはハンドル中央や助手席の前に SRS と表示されているはず。


これはupplemental Restraint System (補助拘束装置) の頭文字を取ったもの。 


つまりエアバックはあくまでもシートベルトの補助装置であり、それ単独では十分な人命救助にはなり得ないということ。


自動車に乗る際は、小堀氏の命を懸けたエアバック開発に感謝しつつ、シートベルトの装着をお忘れなきよう! ご迷惑をおかけします




改 名

今は外国人の活躍ばかりが目について全く興味がなくなった大相撲ですが、子供の頃は大好きだった私。

当時は大横綱・大鵬をはじめ所謂キレイな力士が多かった気がします。

その中の1人で私のお気に入りだったのが、

 龍 虎 

今日は、この元・小結の命日・一周忌にあたります。

龍虎(本名:鈴木 忠清)さんは、1941(昭和16)年に東京都大田区で生まれました。

都立大森高校を中退して花篭部屋入りし1957年に初土俵を踏んだ彼は、身長が186cmありながらヒョロヒョロ。

入門同期には、後の横綱・北の富士がいましたが、彼曰く 「50人の同期新弟子の中で、オレと龍虎が最も弱かった」そうな。 


しかし結果的にその中で関取になったのが彼ら2人だけだったそうですから、勝負の世界は分かりません。

彼の四股名は、『鈴木山』 を皮切りに 『花武蔵』 → 『若神山』 → 『花武蔵』 と変遷しましたが、中々番付が上がらず。

そこで1966年5月場所の前に、師匠の花篭親方から

「双葉山関や大砲関のように、漢語由来の四股名にすれば出世する」

と言われた彼は、『龍虎』 に改名。

するとそれが功を奏したのか、1967年3月場所に十両入りし晴れて関取になると、翌年3月場所に新入幕。

初土俵から新入幕まで11年は、当時のスロー記録でした。

横綱・大鵬から金星を挙げたり、3場所連続優勝力士に土をつけるという珍記録も作った龍虎是は1970年3月場所、遂に念願の小結昇進・三役入りを果たします。


        

当時は体重が130kgにまで大きくなり、均整のとれた体格と甘いマスク・・・まさに五月人形のよう。

人気は力士の中でも1,2を争っていたと記憶しています。

しかし、ケガが彼の行く手を阻みました。


1971年11月場所で取組中にアキレス腱断裂の大ケガを追い休場。

以後3場所連続休場を余儀なくされ、番付は一気に幕下まで転落。

これではあまりに可哀想・・・ということで、相撲協会は(その年に横綱・玉の海が急病で亡くなったこともあり)『公傷制度』を導入。

ところが皮肉なことに、制度導入のきっかけとなった龍虎自身には適用されませんでした。

しかし捲土重来を期した彼は、見事復活。

実力で這い上がり、1975年1月場所に再び小結にカムバック。
幕下まで降下しながら再び三役入りした史上初の力士となりました。

しかしその4ヶ月後の5月場所で、またしてもアキレス腱を断裂。

結局この場所限りで現役引退を発表。

幕内成績は240勝262敗5休で勝率は5割を切り、小結在位僅か4場所・・・ではありましたが、まさに記録よりも記憶に残る二枚目力士でした。

その美形(と美声)を生かした彼は、放駒親方を襲名したものの1977年に廃業し、タレント業に転身。


おそらく若い方々は、彼の土俵姿ではなく背広を着て 『料理天国』 で美味しそうに食べる彼の姿しかご存じないのでしょうネ。

       

        


その他にもドラマや映画に俳優として出演したり、歌手としてレコードも出したり、また大相撲が不祥事などで話題になるとコメンテイターとしてワイドショーに出演したりと大活躍。

しかし昨年8月29日、家族で神社参りをした際に階段で心筋梗塞を起こして倒れ、お子さんたちの蘇生を試みたもののその甲斐なく、病院搬送後に死亡が確認されました。

それまで1990年・2008年とクモ膜下出血で倒れていた龍虎さんには、真夏の階段登りが想像以上にキツかったのかもしれません。

でも73歳は元力士としては長命・・・現役引退後の活躍を合わせれば、充実した一生を送られたたのではないでしょうか?

それも、四股名の改名があったからこそだったのかも。

(※ちなみにタレントとしての芸名も、龍虎の他に 『龍虎 孝宗』、その後 『龍虎 勢朋』 と改名していました。)

あらためて改名王子 ジャナカッタ 〝角界の二枚目〟のご冥福をお祈り致します。笑3




国 産

何とも切ない弦の響きが心に沁みる楽器・・・今日はその

 ヴァイオリンの日


なのだそうです。

この楽器の代表作といえばストラディバリウスですが、その名器とこの記念日は関係ありません。


今から135年前の今日・1880(明治13)年8月28日に、東京・深川に住む松永定次郎氏が国産第1号のヴァイオリンを完成させたことに因むとか。


この松永氏、実は三味線作りの職人さんだったんです。

彼が 「西洋には三味線に似た音色の良い楽器がある」 と聞き、それがニコライ会堂にあると知った彼は、そこを訪れて現物を目にします。

見た目で図面を書き取って帰ると、輸入ラシャの外箱を使って製作したのだとか。

そしてこのヴァイオリン製作を工業化・量産化することに成功し、『日本のヴァイオリン製作の祖』といわれる職人が登場します。 その方の名は、

 鈴木 政吉  (1859-1944)


         



名古屋・尾張藩士の次男として生まれた彼も、偶然ながら元・三味線職人でした。

手先が器用な父親が内職で琴や三味線を作っており、一旦奉公に出た政吉氏も父親が立ち上げた琴三味線店を手伝うように。


しかし彼が26歳の時に父親が亡くなり、文明開化の影響で和楽器職人では食えなくなった彼は、子供の頃から父親の勧めで続けていた長唄を生かして音楽教師の道を模索します。

これが運命の分かれ道・・・彼が教師になるべく唱歌を習っていた愛知県尋常師範学校の同門だった甘利鉄吉氏が所有していたヴァイオリンを目にしてその美しさにすっかり魅了されたことが、彼をヴァイオリン職人への道へと誘うことに。

そして彼が見たそのヴァイオリンこそが、松永定次郎氏の作品だったのです。


「ヴァイオリンを作れば売れる」 と甘利氏に言われた彼は、その初めて目にした楽器を模写し、それをもとに第1号を製作。

       

             鈴木氏の記念すべき初作ヴァイオリン


学校の音楽教師に高く評価された鈴木氏は続けて2作目を製作するとすぐ売れたことで、彼はヴァイオリン職人として身を立てることを決意。

一度は舶来品のヴァイオリンに押されますが、その修理を任されたことでノウハウを蓄積し、1890(明治23)年には自宅の向かいに工場を建設。

同年に開催された第3回内国勧業博でヴァイオリン部門の最高賞・3等有功賞を獲得。

その後北米コロンブス世界博の賞碑や第4回内国勧業博の進歩賞など数々の賞を受賞し、海外でもヴァイオリン好きの科学者・アインシュタインから激賞されるなど、その品質の高さを評価されるように。


1927(昭和2)年には昭和天皇との単独拝謁の栄に浴し、その3年後には株式会社鈴木バイオリン製造を設立。

戦後の混乱や不景気などによる分社や倒産など紆余曲折はありましたが、現在でも同社は国内唯一のヴァイオリン製造会社として国内シェア30%以上を占め、1本10万円未満からプロ仕様の100万円以上のヴァイオリンを製作し続けています。

日本人の高い技術力は、こんなところにも発揮されているんですネ。

最後に、亡くなる3日前まで工場でヴァイオリン作りを続けたという根っからの職人・鈴木政吉氏の口癖をご紹介します。


それは・・・〝ふたつのぼう〟

つまり、「辛抱」 と 「貧乏」。

結婚式のスピーチにも使えそうなこの言葉は、時代は変わっても技術立国・日本を支える職人やエンジニア・・・いや人間が生きていく上での背骨になりそうですネ。笑2




限 定

先日、ウチの女王様が大阪に日帰り出張した際、

「こんなもの売ってたわョ。」

と買って帰ったのが、コレ。(


      

柿の種の関西限定・たこ焼ソース風味。

実は彼女、柿の種が大好物。
ですから見たことのない柿の種があれば、必ずゲット。

その彼女でも初めて目にしたこの商品・・・亀田製菓さんのHPを見ても出ていませんから、本当に地域限定品なんですネ。

皆さんのお住まいの地域でも、限定品・柿の種はありますか?

ところでこの柿の種、開発したのは新潟県下No.1・・・というより日本最大の米菓メーカー・亀田製菓だと思っている方が多いようですが、実は違うんです。


長岡市にある 『浪花屋製菓』 という会社が最初に開発、しかも大正時代末期(!)に販売を始めたという長い歴史を誇っているんですョ。 

「へぇ~、そうなんだ。」

と驚いた方に、ちょっと面白い本をご紹介致しましょう。


 『元祖浪花屋 柿の種のココロ』 (恒文社編集部・刊)
 

        

1895(明治28)年に農家の三男坊として生まれ、身体も弱く学歴もなかった浪花屋製菓の創業者・今井與三郎が、いかにして柿の種を生み出したのか?

そこには、よくありがちな偶然 と人との出会い」があったようです。


アイデアマンだった今井氏の波乱の人生、そして浪花屋製菓の変遷が描かれている非常に面白い読み物です。 


進物缶の誕生や、そこに描かれているイラストやCMソング等々・・・90年以上も売れ続けている超ロングセラー商品には、多くの方の強い思い入れがあったんですねェ。


この本に出てくるエピソードを、ひとつだけご紹介しますと・・・。


皆さんは柿の種にピーナツが混ぜられている人気商品・〝柿ピー〟をご存知だと思いますが、実はこれを最初に考案したのは、帝国ホテルのバーテンダーなんですって


昭和20年代の後半、「外国からのお客様に、日本ならではのおつまみを」 ということで、柿の種に千葉産のピーナツを混ぜて出したのが最初なのだとか。


帝国ホテルと柿の種・・・何ともいえない取り合わせだと思いませんか?


ビールを飲みながらお好みの〝柿の種〟をおつまみに、是非この本をお楽しみください。

現在は、チョコでコーティグしたものやマヨネーズ味など様々なバリエーションがありますが、皆さんはどんな味がお好きですか?


ちなみに我が家の女王様は、夏期限定のカレー味とわさび味が大好きで、私は当然の如く激辛。

えっ、たこ焼ソース風味はどうなんだって?

すみません、所有権は女王様にあるので私は勝手に封を開けられないんです。

もし先に食べたことがバレたら、どんなお仕置きをされることやら・・・。うー




長距離

残念ながら、未だ地球上から廃絶できない核兵器。

その中でも最大の脅威となるのが

     大陸間弾道弾
 Intercontinental Ballistic Missile

俗に〝ICBM 〟と呼ばれる長距離ミサイル。


この兵器(R-7)の開発成功を世界で初めてソビエト連邦が公表したのが、今から58年前の今日・1957年8月26日のことでした。

このミサイルは核弾頭を搭載し、アメリカ本土の北東国境とソ連の北西国境を結ぶ最短距離・5,500km以上を有効射程とするもの。


       


第二次世界大戦後、長距離爆撃機戦力で後塵を拝していたソ連がアメリカに対抗するために開発に着手。

アメリカに先駆けて打ち上げに成功した人工衛星スプートニク1号の技術を転用し開発したのが


R-7でした。

これに対抗してアメリカが〝アトラス〟を配備したのが、2年後の1959年。


その後東西冷戦の中、両国は開発競争に鎬を削ることになります。

このミサイルは宇宙ロケット開発技術を転用しているだけに、敵国からすれば非常に厄介な武器。

核弾頭だけでなく、化学・生物兵器の搭載が可能。

そして発射後飛行するのは殆どが地上100~1,000km以上の大気圏外であり、再び大気圏内に突入した時の速度は音速の20倍近い秒速5~7km(!)という超高速。

敵国がこれを撃墜するのはほぼ不可能。

被弾を防ぐには、発射前か発射直後に破壊・撃墜するしかありません。

しかし開発当初はサイロを掘り地下から発射させていたICBMも、現在は自走式発射機や潜水艦から発射可能。(





これだと発射地点の特定が難しく、特に潜水艦の場合は偵察衛星でも探知ができないため、まさに神出鬼没・・・敵国にとっては非常な脅威となるのです。


東西冷戦が終結し、米ロ両国が軍縮トレンド・・・とはいえ、両国とも核弾頭は1万発前後も保有していますから、緊張状態は続いています。

そして我が国にとって最大の脅威は、中国。

同国も核保有国であり、かつ現在米・ロと共にICBMを保有しているのです。

昨年その存在が明らかになった最新鋭の『東風-41』は、複数の核弾頭を搭載可能で航続距離が11,000~12,000km・・・つまりアメリカ本土をほぼ射程に捉えるもの。

更に北朝鮮が開発している 『テポドン2号』、『KN-08』 もICBM。

性能は未知数とは言え、過去に同国のミサイル(銀河2号)には日本本土上空を通過した前科が。

軍事大国であるイギリス・フランスでも所持していないミサイルを隣りの核を保有する2国が開発を続けていることを、日本人はしっかりと認識すべきでしょう。

「日本が戦後70年平和だったのは、憲法9条があるから」

と主張する方がいらっしゃいますが、相手はそんな憲法の条文など関係なく我々の頭上にミサイルを飛ばせるし、飛ばしているのです。

仮に我が国ではなくアメリカを狙って発射したとしても、途中で我が国に墜落する可能性も十分ある中、我々が平和を維持するために何をすべきか?

理想主義者の方々は、よくお考えになった方がよろしいかと・・・。うー




五・七・五

〝昼食は 妻がセレブで 俺セルフ〟

〝デジカメの エサはなんだと 孫に聞く〟

〝「課長いる?」 返ったこたえは 「いりません!」〟

〝うちの嫁 後ろ姿は フナッシー〟

〝皮下脂肪 資源にできれば ノーベル賞〟!〟


これらは、毎年第一生命が公募するサラリーマン川柳の歴代第一位作品の数々・・・時代を反映しているとともに、いつ読んでも笑えますょネ。


この他にも社団法人全国有料老人ホーム協会主催のシルバー川柳とか、ウォシュレット2,000万台突破を記念してTOTOが始めたトイレ川柳など、最近では様々な川柳が公募されています。

今日は、その


 川柳発祥の日


なのだとか。 

この『川柳』・・・実は柄井川柳 (からい せんりゅう 1718-1790) という江戸中期に実在した人物から命名されました。


        



彼が生きていた時代、江戸庶民の間で〝前句付〟という文芸が流行っていたとか。

これは出題された七・七の前句に対して五・七・五の付け句をするもの。

現在でも、時々『笑点』でこの形の問題が出されますょネ。

柄井川柳は、その前句付けの点者・・・今でいう審査員でした。

彼の選句眼は非常に優れており、階層に関わらず広く信頼を得ていたそうな。


そして今から250年余り前の今日・1757(宝暦7)年8月25日に、彼が主催して第一回の万句合が行われたのです。

更に1765(明和2)年に刊行した 『誹風柳多留』 が前句付けの人気に拍車をかけます。

同じ五・七・五でも、俳句のように季語や「・・・けり」という切れ字の制約がない分、庶民には受け入れられやすかったのでしょう。

但し当時は川柳とはいわず、『雑俳』 と呼ばれていたとか。

なんだか雑草みたいですが、俳人からすれば同じ土俵で語られることを良しとしなかったのかもしれません。

これを川柳と呼ぶようになったのは、明治時代に入ってからだそうです。

前出の〝サラ川〟が火付け役になったともいえますが、最近はテレビ番組でも川柳を取り上げており、口語体でダジャレも字余りもOKの川柳は現代人にも親しみやすい言葉遊び。

世界で最も短い17文字の定型句は、日本独自の文化。

他人様の作った秀作川柳で笑うのも良いですが、自分で作ってみるのも一興かもしれません。 でも、


〝つまずいて 足元見れば 何もなし〟

〝恐妻を 天使に変えた 認知症〟

〝どこで見る 東京五輪 天か地か〟


なんていうシルバー川柳は、身につまされてあまり作りたくないですけど・・・。うー


不 買

ここ数年、賞味銀の偽装など食品の安全性を揺るがす事件が相次いで起きましたが、おそらく日本国内における最初の大規模食品事故といえるのは

 森永ヒ素ミルク事件


でしょう。 この全国的に拡大した赤ちゃんの食品中毒が発覚したのが、今からちょうど60年前の今日でした。

1955年6月末頃から、西日本一帯の人工栄養児に下痢や発熱が続き、飲んだミルクを吐くという症状が多発。

しかし当初はその原因が分からず奇病扱いされていたのですが、岡山大学医学部法医学教室が森永ミルクからヒ素を検出。

それを新聞各紙が同年8月24日付の朝刊で一斉に報じ、大騒ぎになったのです。

調査の結果、森永乳業・徳島工場で製造された缶入り粉ミルク『森永ドライミルク』の製造過程で用いられた第二リン酸ソーダに多量のヒ素が含まれていたことが判明。

          


この第二リン酸ソーダは、当時まだ流通システムが未発達だったため搬入過程で乳製品の酸化を防げず、その凝固防止のために使用されていた薬品。

同社では試験段階で純度の高い試薬1級のものを使用していましたが、導入時には価格の安い低純度の工業用のものを使用。

工業用第二リン酸ソーダの用途はボイラーの洗浄や殺虫剤など・・・こんなものが赤ちゃんのミルクに混入したのですから、たまりません。

翌年2月の厚生省発表では死亡した乳児131名、中毒症状を起こした乳児が12,159名。

(※これはあくまで発覚後1年以内での数字ですから、実際にはこれ以上の被害があったはず。)


1958年生まれの私・・・もしあと3年早く生まれていたら、と思うとゾッとします。


被害者の親たちは同盟を結成し森永製菓に対して補償交渉を行いましたが、国や厚生省は企業側寄りの対応を行ない、結果的に殆どの被害者は不満の残る妥協案を吞まされることに。

しかし岡崎哲夫氏ら少数の被害者らはその後も粘り強く運動を続け、再びこの事件が脚光を浴びたのは、世間がこの事件を殆ど忘れていた14年後のこと。

大阪大学医学部・丸山博教授らによって、森永ミルクを飲んだ子供たちに後遺症の可能性があることを学会で発表。


これを再びマスコミが取り上げたことで問題が再燃。

しかし当初森永乳業はその被害の原因を第二リン酸ソーダの納入業者に押し付けていましたが、民事裁判中に国鉄がボイラー洗浄剤として使用する前の品質検査でヒ素を検出・返品していたことが発覚。

それを検査せずに食品に使用していた森永側の対応に、世論は反発。

結局、森永乳業は1970年に被害の原因が自社製品に混入したヒ素化合物であることを認め、1973年に財団法人ひかり協会を設立し被害者の恒久的な救済を行なうことに合意。

強気だった同社がそうせざるを得なくなっキッカケは、被害者団体が呼び掛けたことによる全国的な森永製品の不買運動でした。


     

             岡山県内での抗議デモ


1960年代に始まった不買運動が全国に波及したために、それまで業界トップだったシェアを大きく落としたことに危機感を募らせ、大幅に譲歩せざるを得なかったのです。

まさに民衆の力が大企業を屈服させた好例といえましょう。

とはいえ、現在60~61歳になられている被害者の中には、今でも脳性麻痺・知的障害・てんかん・精神疾患などの後遺症に苦しんでいる方が約700名もいらっしゃるとか。

60年前の事件は過去形ではなく、現在進行形であることを忘れてはいけません。



都 銀 <下>

ムカムカしながら電話を切った私ですが、この件に関しては意外な展開が待っていました。


電話を切ってから1時間も経たないうちに、某信用金庫の男性職員から弊社に電話が入ったのです。

(取引もしていないのに、何だろう?)

怪訝に思いつつも電話口に出ると、彼は開口一番、

「〇〇銀行さんから、振込先の問い合わせが来たもんですから、もしやお困りかと思って電話させていただきました。」

〇○銀行とは、例の都銀ではありませんか。

嗚呼、なんという対応の違い!

しかし彼の話では、当該振り込みは確かにその支店からなされているものの、ATMを利用したため振込人欄には弊社の名前しかなく、振込人を特定できる情報はないとのこと。

この行員さんは、弊社名からネットで電話番号を調べ、わざわざかけてきてくれたんです。

とは言え肝心の振込人の情報はなし・・・と思ったんですが、私は彼に再度尋ねました。

「すみません、御行の支店名は何ておっしゃいましたっけ?」

「はい、△△支店ですけど。」

「あっ、なるほど。 いや、助かりました。 
それで特定できると思います。 ありがとうございました。」

そう言われた行員さんは

「はぁ、そうですか・・・。」

と怪訝な様子で電話を切りましたが、私は大助かり。

なぜならその支店名が大変珍しい地名で、私が電話で受付をした際記憶に残っていたのです。

早速ファイルをひっくり返して、その地名に所在する会社の申込書を見つけ、担当者に電話して確認してもらうと、その会社からの振込みであることが確認できました。

「ちゃんと会社名入れて振り込むんだぞ」

と上司に言われた新入社員が、間違って自社ではなく弊社名を入力して振り込んだことも判明。

男性行員の好意で、一件落着!扇子



       


昨日も書きましたが、銀行が多様化・巧妙化する犯罪に対応するため、様々な対策を講じなければならないことは、私も十分理解しています。

しかし若手行員は知らないかもしれませんが、今から20年近く前にバブル崩壊した時、都銀の殆どは経営悪化で倒産寸前まで追い込まれ、貸しはがしなど取引先を追い込むような真似をする一方、1兆円もの公的資金(即ち税金)を投入してもらって生き長らえたのですョ。

もう少し利用者に対して感謝の気持ちや誠意を以って接すべきだし、今回のような案件も柔軟に対応してくれても良いのでは?

現実に、わざわざ気を利かせて電話をかけてくれる銀行員もいるのですから。

〝都銀は経営が安定しているが対応が慇懃無礼、地銀や信組などは地域は限定されるけど反面対応は親切〟という風評を以前から耳にしていましたが、今回はそれを実体験した形。

そんなことを思いつつ、翌日夜に帰宅したら、〇〇銀行から留守電が入っていました。

「渡辺様、昨日お問い合わせの件につき振込先銀行が判明しましたので、折り返しお電話をください。 こちらの電話番号は・・・」

もう途中で消去しましたョ。

これが吹き込まれたのは、信金の男性行員が電話をくれて問題解決してから30時間近く経過した時刻でした。

・・・これを機会に、都銀と取引するの止めようかなナ。うー


都 銀 <上>

先日、会社の預金通帳を眺めていたところ、変な入金があるのに気が付きました。

振込人が、ウォームハート・・・つまり我が社が自社口座に振り込んだ形になっていたんです。

もちろんそんな指示も操作もしていませんから、どこかのお客様が間違えて弊社名を振込人欄に記入したのでしょう。

こちらとしてはどなたが間違えたのか早く特定して教えて差し上げようと思い、口座を開設している某都銀の支店に電話を入れました。

今は銀行に電話すると、支店でも機械による音声案内なんですょネ。

長々とした案内を(せっかちな私は)じりじりとしながら聞き続け、ようやく最後に行員と直接話せる番号を押すと、女性行員が電話口に。

事情を話して、振込人の情報を教えてほしいと依頼したところ、彼女の対応は素っ気ないものでした。

「当行としましては、振り込んだ方の個人情報をお教えすることはできません。」

「じゃあ、どうすれば特定できるんですか?」

「さぁ・・・振込金額で特定できませんか?」

あのねェ、そんなことが出来るなら電話しないっての。

少し前に大きな社葬のお手伝いをして、100本以上お飾りした供花の請求書を一斉に発送したから、他のご喪家の供花と共に同じ金額の入金が集中していて特定できないから電話しているのに。(↓)


       


そのことを話すと、相手の女子行員は

「振込先の銀行名と支店名はお教えできますけど。」

「じゃあ、その連絡先を教えてください。 私の携帯番号は・・・」

と言いかけると、彼女はそれを遮ってこういうのです。

「アッ、お客様。 当行からは、口座開設時に届け出られた番号にしかおかけできないんです。」

「えっ、そうなの? その番号って、何番?」

「あっ、それはこちらからは申し上げられません。」

結局、私から番号をいくつか喋った結果、届出番号は自宅の固定電話番号。


思い返せば、口座開設した時は会社を設立したばかりで事務所にまだ電話を引けておらず、仕方なく自宅の番号を届け出たのでした。

「いや、それは自宅だから日中は電話に出られないんですょ。
何とか会社か携帯にかけてもらえませんか?」


「すみませんが、それは規則でできないんです。」

規則、規則って・・・そりゃあ振り込め詐欺とかいろいろあるから慎重になるのは分かるけど、今回は私の個人情報から本人であることは特定できているんだから、もう少し柔軟な対応してくれてもいいだろうに。

そう思うとだんだん腹が立ってきて、こちらも語気が粗くなってきます。

「じゃあ、いい機会だから届出電話番号変えるワ。
この電話で変更できるの?」

「いえ、それはできません。」

「じゃあ、どうすればいいのょ?」

「届出の印鑑をお持ちになって、支店にお越しください。」

そんなこといちいち出来ないからネットバンキング導入しているのに・・・頭に血が登った私は、

「じゃあ、届け出の電話に相手先の銀行の情報が分かったら、お宅の連絡先を留守電に吹き込んでくれる? そうしたら翌日電話入れるから!」

そう言うが早いか、電話をガチャンと切った私。

ええぃ、このもどかしさと怒りをどこにぶつければよいのやら!?怒


                  ・・・・・To be continued!