今日は、クイズからスタートです。
あらゆるスポーツ競技の中で、100年以上にわたり1国が勝ち続けた種目がただひとつだけあるのですが、それは何でしょう?
日本ではメジャー競技とは言えないので難しいかもしれませんが・・・正解は、ヨットなんです。 そしてその大会名は
アメリカズカップ
America's Cup
1990~2000年にかけて日本も〝ニッポン・チャレンジ〟チームが挑戦したのでご存じの方も多いと思いますが、各国がそのヨット建造技術と操舵テクニックの粋を競うこの国際大会の第1回がニューヨークで開催されたのが、今から145年前の今日・1870年8月8日のことでした。
日本では明治3年・・・テニスの第1回全米オープン開催の11年前、ゴルフの第1回全米オープン開催の25年前、更にいえば近代五輪の45年前、サッカーW杯より79年も前の開催ですから、その歴史の古さが分かります。
元々は1851年にロンドンで開催された第1回万国博覧会の記念行事としてロイヤル・ヨット・スコードロンでアメリカから参加した『アメリカ号』が優勝し、ビクトリア女王から下賜された銀製のカップを持ち帰り、これがアメリカ号のカップ、即ち“America's cup ” と命名されたのが端緒。
そしてこのアメリカ号のオーナー達が「カップの保持者は、いかなる国の挑戦を受けなければならぬ」と記した贈与証書と共に、このカップをニューヨーク・ヨット・クラブに寄贈。
この精神に則り第1回大会が開催され、以降現在まで戦争による中断を除き3~4年毎に開催されています。
2013年 第34回大会
さて、この歴史ある大会の中では、どうしてもこの方の名前を出さざるを得ません。
デニス・コナー
Dennis Conner
なぜって、この人物こそ第1回以降113年間 (※イギリスでの勝利から132年間) アメリカが守り通したカップを他国に渡した張本人だから。
元々彼は1974、1980年とアメリカチームの連勝に貢献した名スキッパー。
ところが満を持して迎えた1983年の第25回大会で、オーストラリアチームに3-4でまさかの敗戦。
アメリカズカップは史上初めてアメリカから海を渡って南太平洋の国に渡ることに。
それまでの栄光から一転、彼は〝カップを失った最初のアメリカ人〟として国内で非難を浴びることに。
しかし、コナーはメゲませんでした。
まさかカップが他国に行くとは夢にも思わなかったアメリカは、それまでカップをボルトで固定していたんですが、そのカップをオーストラリアに渡す時にレーガン大統領が口にした
「どうかボルトでは固定しないでほしい。 次回はまたアメリカに戻ってくるのだから」 というシャレた予言(?)通り、3年後に敵地オーストラリアで開催された第26回大会で、彼は4-0で勝利し見事カップ奪回に成功。 一躍アメリカン・ヒーローとなった彼はホハイトハウスに招待され〝ミスター・アメリカズカップ〟と称賛されました。 デニス・コナー、カップ、レーガン大統領 ところが1995年の第29回大会では、今度はニュージーランドに敗戦。
「カップを2度失った最初のアメリカ人」という汚名を着せられることに。
これほど称賛と非難を繰り返し受けたスポーツマン、いないんじゃないでしょうか?
結局、1度の参戦で最低1億ドルはかかるという巨額な費用を捻出できず、彼は2004年に大会から撤退。
同様に他国のチームもバブル崩壊や恐慌等でスポンサーの撤退が相次ぎ、苦しい状況が続いています。
2003・2007年と連覇したのは、なんと海のないスイスだったのですが、これは資金難に喘ぐニュージーランド・チームがそっくり移籍したから。
これでは純粋な国別対抗とは言えませんょネ。
しかも2007年の大会後には挑戦権を巡って訴訟沙汰まで起きたとか。
2010・2013年とアメリカが勝ってはいるものの、今後この莫大な資金がかかる大会がどうなっていくのか?
多少の不安を抱きつつ、注目したいと思います。
「犬は犬好きが分かる」 ってよく言いますが・・・私は葬儀の打ち合わせでお客様のご自宅に伺う機会が多いのですけど、必ずと言っていいほど飼われているワンちゃんには尻尾をふって飛びかかられます。 そんな私はどちらかと言うと大型犬が好みなんですが、その中でも特にお気に入りなのが 秋 田 犬 あのキリッとした顔に武士の雰囲気すら感じるのですが・・・その秋田犬が日本初の天然記念物に指定されたのが、今から83年前の今日のことでした。 正式には「あきたいぬ」 と呼ばなければいけないこの犬の祖先は、〝秋田マタギ〟と呼ばれる中型の狩猟犬で、その名も 〝大館犬〟 と呼ばれていました。 江戸時代に現在の秋田地方である出羽国を治めていた佐竹氏が領内の士気を高めるために闘犬を奨励し、これが明治時代に入っても盛んに行なわれていたとか。 その中で大型化を図るため19世紀末から同じ闘犬が盛んだった高知から持ち込まれた土佐犬、更にはドイツ人技師が持ち込み飼育していたマスティフなどとの交配が行われるように。 しかし1908年に全国に先駆けて闘犬禁止令が出されると、交配は下火になり頭数が激減。 そこで、それまで様々な交配により種の混濁化を招いた秋田犬を保存すべしという声が学識者や関係者から上がり、1927(昭和2)年に大館町々長・泉茂家氏によって 『秋田犬保存会』 が設立され、犬籍登録などの実施を通して雑化防止に務めました。 そしてその甲斐あって、1931(昭和6)年7月31日に9頭が天然記念物に指定されたのです。 ちなみに、日本で・・・いや世界で最も有名な秋田犬・渋谷の〝ハチ〟が帰らぬ主人を待ち続ける忠犬として 『いとしや老犬物語』 という新聞記事で紹介され、全国的に注目を集めたのは、その翌年・1932年のこと。 しかし一難去ってまた一難・・・太平洋戦争に突入し、戦局悪化で食糧難に喘いだ時代は人間すら食いつなぐのに精いっぱい。 ただでさえ大型で食べる量が多い秋田犬は生き延びるのに困難を極め、終戦時点では血統の正しい秋田犬は僅か十数頭だけだったとか。 しかし関係者の努力により、生き残った犬を土台にして繁殖を続け、来日したヘレン・ケラーの要望により寄贈されるなどしたことから秋田犬は世界的に有名なブランドとなっていったのです。 さてこの秋田犬、忠犬ハチ公のイメージ通り飼い主には非常に忠実なのですが、一方で警戒心が非常に強く時として非常に攻撃的になるとか。 そりゃ祖先が猟犬や闘犬だったんですから、無理もないですょネ。 そういう意味では、番犬としては非常に優秀なのかもしれませんが。 ですから道を歩いていて秋田犬とすれ違った時、「かわいいですねェ」 なんて不用意に手を出すとガブッとやられるかもしれませんから、ご注意を。 そういえば、我が女房の実家では昔大きな秋田犬を飼っていたそうで、そのワンちゃんを女房が高校生の時に散歩に連れ出したところ、大通りの交差点の真ん中で突然座り込んでしまったとか。 結局お巡りさんが飛んできて歩道まで引っ張っていくまでピクリとも動かず、大渋滞を引き起こしたんだそうな。 ウチの女王様も、そんなカワイイ女子高生時代があったんですねェ。 今だったら 「なにやってんのョ!」 と蹴飛ばして、グイグイ引きずっていくでしょうに。
皆さん、犬はお好きですか?
私は戌年生まれなせいか、昔から犬が大好き。
岩手県の雫石・・・というと、若い方にはスキー場を連想されるでしょうが、私同様50歳代以上の方はおそらく
全日空機雫石衝突事故
を思い出すのではないでしょうか?
あの日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故が起きる前までは、死者162名という国内最大の犠牲者を出した忌まわしいこの航空機事故が起きたのは、今から44年前の今日・1971(昭和46)年7月30日のことでした。
同日午後1時25分、全日空58便(ボーイング727-281型機)は札幌・千歳空港から東京・羽田に向け乗客155名と機長以下乗員7名を乗せて離陸。
ボーイング727-281型 同型機
同機は巡航速度で岩手県内上空約8,400mを自動操縦で飛行していました。
そして一方、航空自衛隊第一航空団所属の教官と訓練生が操縦するF-86F戦闘機2機が編隊飛行訓練のため松島基地を離陸、秋田県横手市付近上空の訓練空域に向かいました。
そして同日午後2時2分頃、岩手県岩手郡雫石町付近の上空で全日空機と訓練生の操縦する戦闘機が衝突してしまったのです。
F-86F 同型機
衝突により操縦不能になった全日空機は、そのまま急降下。
音速の壁をも突破し、上空約5,000m地点で機体は空中分解し、墜落。
その時の衝撃音は、10km近く離れた盛岡市内でも聞こえたほどの大音響だったそうな。
乗客・乗員は全員死亡。
残骸は6km四方に飛び散り、猛烈な速度で地表に叩きつけられた遺体は見るに耐えない程の損傷だったといいます。
一方の自衛隊機も操縦不能になったものの、たまたまキャノピー(操縦席上部のフード)が脱落していたため機外に脱出してパラシュートで降下できたため無事。
機体は旅客機同様空中分解して落下。
幸いにも衝突地点が農村地帯だったため、部品が農家の屋根を貫通して女性がケガをした程度で人的被害は殆どありませんでした。
業務上過失致死および航空法違反で教官と訓練生は逮捕されたものの、その後の刑事裁判では訓練生は無罪。
そして教官については最高裁で懲役3年・執行猶予3年の刑が確定し、航空自衛隊の上層部については不問に。
(※ただし防衛庁長官は引責辞任)
しかし民事訴訟においては、被害者遺族が国を相手取った損害賠償訴訟が起こされ数千万円の支払いを命じる判決などが下され、また全日空と国は双方に機体損害の訴訟を起こし、全日空から国に7.1億円、国が全日空に2.7億円を支払うという過失割合に応じた判決が出されました。
当時東北地方では操縦士からの位置通報を元に指示を与えるという〝ノンレーダー管制〟方式だったために起きた事故であり、現在ではまず起き得ないケースとのこと。
とはいえ、この事故で一般的に知られることになった〝ニアミス〟はその後も起きています。
人間のやることに完璧は有り得ませんから、どんなに注意してもし過ぎることはありません。
余談ですが、無罪を言い渡された訓練生はその後救難機のパイロットに転向し、2003年に定年退職するまで人命救助に尽くしたとのこと。
少し救われた気持ちになります。
アメリカでは時々銃乱射事件が起きますが、過去に日本で・・・それも東京のど真ん中で同じような悲劇が起きたことを、ご存知でしょうか?
今からちょうど50年前の今日・1965(昭和40)年7月29日に起きた 渋谷ライフル乱射事件
の犯人Kは、驚くべきことに18歳の未成年だったのです。
Kは1947年に東京・世田谷区で4人兄弟の末っ子として生まれました。
小学生の頃から銃や兵器に関心を示し、ミリタリー雑誌 『丸』 を愛読。
父親は元陸軍上等兵だったこともあり、息子が銃器好きだったことに理解を示しつつも、
「間違っても銃で人を殺すな。 そんな事をするくらいならまず自分が死ね。」
と言い聞かせていたというのですが・・・。
彼が中学校卒業前に、長姉が卒業祝いとして35,000円のライフル銃と4,000円の照準器をプレゼント。
銃の所持は18歳以上という法律があったのですが、何とこの姉は自分名義で購入し弟に与えたとのこと・・・結果的に、これが事件の〝引き金〟となりました。
中学卒業後、自衛隊入隊を目指したものの試験に落ちた彼は自動車修理工場に就職するも長続きせず、タンカーのコック見習いに。
そして実際には退職していたにもかかわらず、家族に長期休暇を取ったとして帰省した彼は、何故か神奈川県座間市内の松林で自ら
「子供が銃を撃っている」
と警察に通報。
駆け付けた警察官の胸をライフルで撃ち、ピストル・制服・警察手帳を強奪。
後からやってきた警察官にも発砲し、逃走。
その後警官になりすましたKは車を強奪して渋谷に向かわせ、同区北谷町の銃砲店に押し入ると店員を人質にして籠城すると、ライフルを乱射。
近くを通る山手線は運転を取りやめ、周囲には野次馬が3,000人と警察車両が60台以上終結、周囲は騒然となりました。

しかし午後7時過ぎ、警察が催涙弾を店内に撃ち込み、たまらずKが裏口から飛び出したところを取り押さえ、事件は終結。
1967年4月、横浜地裁で無期懲役判決が出ましたが、翌年11月に出された東京高裁の二審判決は死刑。
更に翌年には最高裁で二審判決が支持され、死刑が確定。
『僕は親不孝の許しを乞い、被害者の方の冥福を祈りながら静かに死んでいきます。
でも、ぼくのような人間が2人と出ないよう、この社会から2度と出ないように、この最後の辛さ・苦しさの心境だけは若者たちに伝えてください。 自分との闘いに負けた人間の最後の哀れな姿が、自分をして、自分で自分の首を絞めるようなもので、こんな人間にだけはなるなと教えてやってください。 これが、僕の最後の頼みです。』
という言葉を残し、1972年に死刑は執行されました。
彼らは性犯罪者同様、自分の意志でその衝動を抑えられません。
子供の頃から小動物を殺し始め、やがては殺人に至るパターンが多いですが、それを防ぐには間近で見ている家族がそれに気づいて対処するしかないでしょう。
今回のケースでは、姉がその衝動を止めるどころかライフルを与えることで暴走を加速してしまった感があります。
しかしそれは結果論かつ第三者の見立て・・・もし私が彼の兄や父親だったら警察に通報出来たか? と問われると、明快にイエスとは言えません。
どうすれば彼らサイコパスの犯罪を未然に防げるのか?
非常に難しい問題であることを、この事件は物語っている気がします。
現代は晩婚が当たり前・・・30,40歳代で初婚という方が数多くいらっしゃいます。
しかし〝人間50年〟の戦国時代は10歳代で結婚するのが当たり前・・・ですが、いくらなんでもこれはちと早すぎるのでは? と思われるお輿入れがあったのが、今から412年前の今日・1603(慶長8)年7月28日のことでした。
その新婦とは
千 姫 当時なんと7歳! こちらもまだ10歳の子供・・・とはいえ、彼は既に3歳の時に元服を済ませており、扱いとしては大人でした。 この2人の結婚は、千姫が生まれた翌年に没した秀吉の意向に沿うものだったとか。 しかし子供同士の新婚生活って・・・どんなだったんでしょうネ。 長女・勝姫と長男・幸千代に恵まれましたが、長男は3歳で夭折。 その後、夫・姑・母を立て続けになくす不幸に見舞われた彼女は本多家を出て江戸城に戻り、その後出家。 以後40年一人身の生活が続きましたが、周囲に大事にされた彼女の人生は、幸せだったのかもしれません。 皆さんは、平凡かつ地味な一般人の結婚生活と、千姫のような華麗な血筋と早婚かつ波乱万丈な生涯・・・どちらを選びますか? 幼妻というより、まだほんの子供。
とは言え彼女、血筋は凄いんです。
父親は後の2代将軍・秀忠。ということは、当然祖父は家康。
母親の江は浅井長政の三女・・・つまり江の母親はお市の方。
従って千姫の大伯父はあの織田信長ということ。
1597(慶長2)年に生まれた千姫は、祖母・お市の方の血を受け継いだ美女だったといいます。
お相手の新郎は、豊臣秀頼。
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで勝利し、2人が結婚する4ヶ月前に征夷大将軍となった徳川家康は、江戸城の普請などに一定の勢力があった豊臣家に配慮し、秀吉の遺訓に従い2人の結婚を承諾。
これぞまさに政略結婚・・・でなければ、10歳と7歳の子供をくっつけようとはしないでしょう。
今でいう、ままごとみたいなものだったんでしょうか?
一説には、2人は非常に仲睦まじかったということですが、しかしその結婚生活は12年で終わりを告げました。
1615(慶長20)年の大阪・夏の陣で、秀頼は妻の実家・徳川家の総攻撃を浴び、炎上する大坂城内で自刃。
千姫は祖父・家康の命により救出され、その翌年には桑名藩主・本多忠政の嫡男・忠刻(ただとき)と再婚。
その後勝姫は池田光政に嫁ぎ、彼女は一人暮らしに。
しかし弟の3代将軍・家光の側室・夏と家光の三男・綱重と暮らすようになり、大奥で強い権力を手にしたといわれていますが、1666(寛文6)年に70歳の生涯を閉じました。
7歳で結婚し、18歳で夫と死別。 19歳で再婚し、29歳で再び未亡人。
いや、できれば秀頼と長く添い遂げたかったのかも・・・。
こればかりは、ご本人にしか分かりませんネ。
エンターテイメントの本場・アメリカにおいて、20世紀を代表するコメディアン・・・といえば、この方を外すことは出来ないでしょう。
ボブ・ホープ
Bob Hope
今日は1930~90年代という長期間にわたって第一線で活躍したこの超大物の命日・十三回忌にあたります。
とはいえ、ボブ(本名:レスリー・タウンズ・ホープ)はアメリカではなくイギリス・ロンドンの生まれ。
石工の父親とオペラ歌手の母親がもうけた7人兄弟の5番目として生まれた彼は、1907年に家族共々アメリカに移住。
ホープ自身は1920年に市民権を得ましたが、当初はなんとプロボクサーだったとか。
その彼が短編映画に主演したことが、人気者になるキッカケでした。
1938年公開のミュージカル映画 『百万弗大放送』 で女性歌手シャーリー・ロスとデュエットして大ヒットした “Thanks for the memory ” は以後生涯にわたって彼のテーマソングに。
その後ビング・クロスビー、ドロシー・ラムーアと協演し1941年から始まったドタバタ・コメディー映画の珍道中シリーズで、その人気は不動のものに。
残念ながらアカデミー賞は受賞しませんでしたが、映画芸術科学アカデミーは、アカデミー賞特別名誉賞と特別賞を各2回授与し、彼自身もアカデミー授与式の司会を数度務めています。
とは言え、彼本来の芸は、スタンダップ・コメディー・・・すなわち漫談でした。
絶妙なアドリブは他の追随を許さず、ライブ・ステージは大人気。
彼自身は入隊を志願したそうですが、米軍は「エンターテイナーとして兵士を楽しませてくれた方が役立つ」と言われ兵役を免除されたそうですから、如何に上手かったかが分かります。
その軍の期待に応え、彼は第二次世界大戦・朝鮮戦争・べトナム戦争、更には湾岸戦争に至るまで実に60年間に渡って慰問を繰り返したといいます。
またラジオ・テレビ放送には黎明期から深く関わり、放送歴は64年に渡りました。
ただ残念ながら私自身は彼の出演した映画やテレビ番組を観た記憶は殆どありません。
唯一彼の姿をナマで見たのは、彼の名がついたゴルフ・トーナメント『ボブ・ホープ・クラシック』。
通常のUSPGAトーナメントと違い、プロアマ戦形式。
多くのスポーツ選手や芸能人が一堂に揃う、華やかな大会。
毎年カリフォルニアの名コースで開催され、ホスト役として彼も出場して多くのギャラリーをギャグを連発して笑わせていたのが印象的でした。
日本で言えば、たけし・さんま・タモリ3人を合わせたような芸能人といえましょうが、現役時代はその時々の大統領の殆どとラウンドしたといいますから、その大物ぶりはちょっと想像がつきません。
それゆえか、彼は生前に死亡報道を流されています。
しかも、2度。
最初は1989年にAP通信社が誤報を流し、米下院では追悼演説までされたとか。
2回目はCNNが予定記事(?)を誤って配信。
長寿なるが故の珍事だと言えましょうが、3度目の正直・・・彼が本当に天に召されたのは、今から12年前の今日・2003年7月27日。
100歳の誕生日を迎えた2か月後のことでした。
私にとって残念なのは、彼が亡くなってから数年後にボブ・ポープ・クラシックの名がヒューマナ・チャレンジに代わってしまったこと。
でも米国内では、空港をはじめ彼の名がついた建物が複数あるそうですから、いつまでも忘れられることはないでしょう。
プロゴルファーでもないのにゴルフ殿堂入りし、ギネスブックでは〝(200以上という)最多受賞記録を持つ喜劇俳優〟と認定された超大物エンターテイナーのご冥福をお祈り致します。
その昔、「山は動いた」 と言って人気を集めた女性政治家がいましたが、今からちょうど30年前の今日・1985年7月26日、本当に山が動いてしまいました。
それは私の故郷・長野市・・・それも母校・長野高等学校のすぐそばで起きた
ぢづきやま
地附山地滑り災害
小学生の頃は、夏休みには早朝から昆虫採集に出かけたり、頂上まで運んでくれる 『善光寺ロープウェイ』 に乗ったりと実に思い出深いスポットだっただけに、事故当時は東京でサラリーマンをしていた私にとっても大変ショックな出来事でした。
同年6月の梅雨期に例年の2倍の降雨量を記録した長野市・・・1週間ほど前から、現地では「バキッ」という樹木の根が切れる音や、市内から飯綱・戸隠高原を結ぶ有料道路・戸隠バードラインに亀裂が入るなど、様々な予兆があったとか。
県など行政が24時間で監視体勢を敷く中、同日午後5時頃に大音響と共に中腹から地滑りが発生。
幅約450m、長さ約350mにわたり、約500万㎥の土砂が滑落。

膨大な量の土砂が麓の湯谷団地・望岳台団地に押し寄せて全半壊家屋は60棟に上りました。
同地区の住民は予め避難の準備をしていたため大事には至りませんでしたが、老人ホーム・松寿荘の寝たきり老人は避難が遅れたため、26名が犠牲に。
私は幼稚園児の時にその松寿荘を慰問し、歌ったりお遊戯をしておじいちゃん・おばあちゃんに大変喜ばれたことを憶えていただけに、一層胸が痛みました。
中高年の方はご記憶だと思われる当時のニュース映像が、こちらで1分28秒過ぎからご覧いただけます。(↓)
< http://www.youtube.com/watch?v=ks9Z-uNSyec >
メリッ、メリッと徐々に崩れていく様子は、一気に崩れるよりも恐怖感があります。
自宅がこんな形でひしゃげていく姿を見せられたら、堪らないでしょうネ。
で、私が最も驚いたのは、この数日後。
たまたま実家に電話した時に、オヤジから 「実は20年前に家を建てる時、湯谷地区にするかどうか迷ったんだョ。」 と聞いたこと。
当時オヤジは県庁勤務で地附山近辺の方が通勤距離は近かったのですが、何故か最終的にはそこよりも遠い現在地に建てたのだそうな。
全くの偶然なのか、はたまた何らかの力に導かれたのか?・・・いずれにせよ、もし地附山の麓に建てていたら、実家は消滅していた可能性があったわけです。
現場は今ではすっかり修復されて傷跡は殆どなくなりましたが、現地を含め山間部で今後何が起こるかは、神のみぞ知るところ。
一寸先は闇といいますが、人間の運命なんて分かりません。
ここのところ、巨大企業・東芝の不正経理問題が世間を騒がせています。
といっても庶民にはあまりピンと来ませんが、過去7年間にわたって粉飾決算を繰り返し、総額1,500億円以上もの不正会計を続けていたというのですから、これはもう立派な事件。
先ごろその責任を取って、田中久雄社長ら歴代トップ3人を含む取締役8人と相談役の計9人が辞任しましたが、事はこれど収まりそうにありません。
私自身は会計士ではありませんので、これ以上詳しい解説などできませんが、ひとつ気になったのは、複数のマスメディアが東芝に関して
〝上司に逆らえない企業体質だった〟
と報じていたこと。
これ、私には非常に違和感があったのですが、皆さんはどう思われるでしょうか?
私自身20年以上サラリーマンとして組織に属していましたし、経営者の立場になって10年以上になりますが、逆に
〝上司に逆らえる体質〟
を持つ会社になんて、存在するんでしょうか?
私はそんな会社なんて有り得ない、と思うんですが・・・皆さんのご経験でそんな会社、実在しますか? 内部告発をする社員の勇気は称賛に値しますが、こういう組織ぐるみの不正行為が起きた時、簡単に〝上司に逆らえない企業体質〟なんて言葉で片付けないでいただきたい。
組織とは、そのトップの決定に部下が一丸となって戦い、利益や勝利をもたらす団体。
そしてもし戦いに敗れれば、その責任はトップが追うべき・・・だと、私は考えます。
部下が上司の言うことを聞かずそれぞれ勝手なことをしたら、最早それは組織とは言い難いでしょう。
軍隊では、上司の命令は絶対。
もし命令に背けば軍法会議にかけられ、最悪の場合銃殺に処せられます。
なぜなら、たった一人の兵隊の勝手な行動が小隊全員の生命を危険に晒すことになりかねないから。
以前、自衛隊にタレントが体験入隊するテレビ番組を観た時、上官が
「オレがやれといったら、やれ! 空を飛べと言われたら、空を飛べ!」
とタレントに向かって真剣な表情で訓示していたシーンを、今でも鮮明に憶えています。
さすがにサラリーマンは即命取りになることはなくとも、チームプレーの精神は同じはず。
私は現在経営者の立場にいますが、もし自分の指示に従わない従業員がいたら即刻辞めてもらいます。
勝手な行動でお客様に迷惑や不愉快な思いをさせてしまったら、会社として他のスタッフにも示しがつきませんから。
もしどうしても我慢が出来ず自分のやりたいようにしたいなら、独立すればいいのです。
私自身がそうでしたし・・・。
今回の不正会計問題に関しては、そんな企業体質云々よりも会見上で辞任するとは言いながら、
「(過大な業績目標を各事業部に要求する)チャレンジという言葉は使っていない」
などと言い訳にもならない発言を繰り返し、まるで他人事のように責任逃れをする人物をトップに据えた人事システムこそが諸悪の根源だ、と私には思えます。
そもそも、そういう報道をするテレビ局や新聞社の企業体質は、どうなのか?
記者たちは、他人の批判をする前に自分の胸に手を当ててよぅく考えるべきでしょう。
政治家にはスキャンダルはつきものですが、その中でも男女関係のそれが政治生命にこれほど打撃を食らった例は日本政治史上ないと思います。
今から26年前の今日、辞任表明を行った
宇野 宗佑 第75代内閣総理大臣
が、その人。
1922(大正11)年に現在の滋賀県守山市に生まれた宇野氏は、実家が造り酒屋を営み祖父は町長を務めた地元の名家。
外交官を目指して神戸商業大学(現・神戸大学)に進学したものの、学徒出陣・シベリア抑留を経験したことで、人生は大きく変わりました。
1947年に守山市の初代商工会長に当選した彼は、その4年後に滋賀県議選で初当選を果たすと、河野一郎氏の議員秘書を経て1960年に衆院選に出馬し当選。
以後36年間にわたり代議士を務めました。
防衛庁長官・科学技術庁長官・通産大臣・外務大臣を歴任した彼は、1989年6月3日に念願の総理大臣の椅子に座ることに。
これは前任の竹下総理がリクルート事件と消費税導入による支持率急落によって辞任したことを受けての就任だったのですが、当時の後継候補だった安倍晋太郎・渡辺美智雄・宮澤喜一各氏らが皆リクルート疑惑の渦中にあったこと、またサミット間際だったこともあって当時外相だった宇野氏に白羽の矢が立ったのでした。
6月3日、自民党史上初の派閥の領袖でない総理大臣が誕生することになったのですが・・・まさに3日天下というべきか、就任3日後に週刊誌に女性スキャンダル記事掲載されてしまいます。
神楽坂の人気芸妓・Nさんが、「宇野氏が『もし自分の愛人になってくれたら、これだけ出す』 と三本指 (月30万円?) を出した」 と証言。
Nさんは更にテレビにも出演し、「このような人物が日本の総理大臣であってはいけないと考えた」と告発したからたまりません。
7月23日に行われた参院選では、リクルート疑惑にこのスキャンダルが重なり自民党は史上初の過半数割れという歴史的大敗を喫し、その翌日宇野総理は責任を取って辞任を発表。
その際に「明鏡止水の心境です」と淡々と語った姿が、妙に記憶に残っています。
正式な辞任は8月10日でしたが、在任期間僅か69日という超短命内閣でした。
1996年の衆院選には出馬せず静かに政界を引退し、1998年に75歳で泉下に没した宇野氏の政治的手腕についてはさまざまな見方がありますが、それは別にして当時私が不思議に思ったのは、プロの女性がなぜ自分の交際相手の告発を大っぴらにしたのか? ということ。
それまでの政治家には愛人の存在が公然の秘密(?)としてありました。
吉田茂氏には小りんさん、田中角栄氏には辻和子さんと〝越山会の女王〟佐藤昭子さん・・・もっと凄いのは選挙前の立会演説会で妾が4人いると指摘されたところ、「4人ではない、5人であります」と国会で堂々と答えた三木武吉氏のような豪傑も。

もちろんそれが良い事とは思いませんが、私は政治家に私生活の清廉潔白さを求めるべきではないと思っていましたし、今でもその考えは変わりません。
政治家としての仕事・・・すなわち領土・領海と国民の安全を守り、安心できる生活を保障してくれれば、それ以外のことは犯罪でない限り目くじらを立てる必要はない・・・と。
吉田氏・田中氏らは交際していた女性から告発されるようなことはありませんでしたから、自己責任で面倒をしっかり見ていたのでしょう。
それに反して宇野氏が私生活を暴露されたのは、それなりの理由があるからだと思いますが、同時に女性の考え方が時代と共に変わってきたことも感じました。
当時は同じ女性からも様々な意見が出されましたが、芸者だった女性がこういう暴露をすることに、私は正直抵抗感が強かったですけどネ・・・。
では総理大臣の首を切ったNさんのその後は、どうなったか?
テレビにも出演して顔を知られた彼女は、人々の好奇の目に晒され東京にいることが出来ず、既に離婚していた彼女はお寺の内弟子に。
しかしそこもマスコミに嗅ぎつけられたため、東京に戻ると新聞の求人広告を頼りに仏壇店に勤務。
その後マッサージ店に勤め、そこでに再婚した彼女は独立して店を持ったものの、夫が働かなくなってまたしても離婚・・・と波乱万丈の人生を送ることに。
でもおそらく彼女は、告発したことを後悔していないんでしょうネ。
宇野氏は後悔しきりだったでしょうが。
〝明鏡止水辞任〟は、男女関係の難しさを私たちに・・・いや、男性に教えてくれたようです。
旧日本陸軍では、曹長の下で伍長の上。
現在の陸海空の各自衛隊では、二等陸曹・海曹・空曹に相当し、アメリカでは“Sergeant ”。
兵の指導係として彼らを叱咤激励し士気を鼓舞し部隊の統制を取る役目を担い、時に〝鬼〟が頭につく階級。
戦争映画やTVドラマで出てくるこの〝軍曹〟 といったら、皆さんは誰をイメージしますか?
私の場合は、何といってもこの人・・・
ヴィック・モロー
Vic Morrow
中年以上の方だったらよくご存じ、アメリカのTVドラマ・『コンバット!』 の主演俳優ですが、今日は彼の命日・・・早いもので、没後33周年にあたります。
1929年にニューヨーク・ブロンクスで生まれた彼は、高校を中退して海軍に入隊。
大学進学後に演劇の道へと進み、1955年・『暴力教室』で映画デビューすると、『コンバット!』 のサンダース軍曹役で一躍人気スターに。
この番組は1962年から5年間・152回にわたり放送された、第二次大戦での陸軍361歩兵連隊K中隊に所属する1小隊の物語。
子供の頃の私はこの番組が大好きで、再放送を欠かさず観てました。
戦争映画でしたが残酷な戦闘シーンや派手なドンパチはあまりなく、むしろ兵士たちの心理状態や葛藤を描く上質の〝ヒューマン・ドラマ〟。
サンダース軍曹が無線で交信する、
「チェックメイト・キング・ツー、こちらホワイトルーク・・・どうぞ!」
というチェスから取ったコードネーム・・・今でも耳に残ってます。
10年近く前にNHK-BSで再放送され、何本か懐かしく観ましたが・・・白黒で余り良質とはいえない画像ながら、その内容は21世紀でも十分視聴に耐える出来栄えでした。
このサンダース軍曹役の印象があまりに強烈で、『がんばれベアーズ』 (1976年公開)に出演していたのを見た私は、ヘルメットをかぶっていない彼の姿に少なからず違和感があったものです。
そんな彼の悲報が突然飛び込んできたのは、私が社会人2年目だった1982(昭和57)年のこと。
映画 『トワイライトゾーン』 のクライマックス・シーン撮影中だった7月23日に、爆風を受けて落下してきたヘリコプターのローターに巻き込まれ、共演していたベトナム人少女2人と共に即死。
まだ53歳の若さでした。
当時ニュース映像でその瞬間が放送され、衝撃を受けたことを覚えています。
(※このシーンは、当然のことながら映画ではカット。)
それでは、あの懐かしのオープニング〝コンバット・マーチ〟を聴きつつ、サンダース軍曹のご冥福を祈りたいと思います。