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多 作


音楽室に壁に貼ってある肖像画の中で
、必ずと言っていいほどバッハ・ヘンデルと、モーツァルト・ベートーヴェンの間にいる人物・・・といえば、


 フランツ・ヨーゼフ・ハイドン

   Franz Joseph Haydn


今日はこの古典派を代表する大作曲家の命日にあたります。


ハイドンは1732年、ハンガリー国境に近いオーストリア・ローラウ村生まれ。


父は車大工、母は料理人という家庭に育ちましたが、幼い頃から音楽の才能を認められ、6歳で音楽の勉強のため学校長を務める親戚に預けられ、そこで基礎教育を受けました。


そして8歳でウィーンのシュテファン寺院児童合唱団に入りましたが、声変りをした17歳の時に殆ど無一文状態で解雇され、合唱団仲間の家に身を寄せて流しの楽団で仕事をするなど、苦労を重ねます。


18歳頃にチェンバロと教科書を手に入れた彼は独学で作曲の勉強を始め、25歳で弦楽四重奏曲、27歳で交響曲を初めて作曲。


徐々に名が売れ始めた彼は、29歳の時にハンガリーの大貴族・エステルハージ家の副楽長となり、5年後に楽長に昇格・・・以後58歳でその職を辞すまで、30年近くにわたり同家に仕えました。


         ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草


1781年頃にモーツァルトと出会い、彼から〝ハイドン・セット〟と呼ばれる弦楽四重奏曲6作品ょの献呈を受ける一方で彼の遺児の進学を援助するなど親交を深め、またベートーヴェンとも会ったり渡英するなど様々な触発を受けながら作品の完成度を高めていったハイドン。


何といってもその特徴は、作品数の多さ。


オラトリオやピアノ・ソナタ、ピアノ三重奏など様々なジャンルの作品を多数残しましたが、特に弦楽四重奏は83曲(但し一部に偽作の指摘あり)、そして交響曲はなんと104曲+α。


ベートーヴェンが9曲、モーツァルトでも41曲ですから、その作品数は驚異的。


ただあまりに多過ぎて全ての作品が演奏・録音されているわけではなく、私自身も80番~100番台の交響曲しか聴いたことがありません。


しかし、皆さんがよく耳にする有名なメロディーも、数多く残しているんです。

中でもおそらく最も多くの方がご存じなのが、この曲ではないでしょうか?


【弦楽四重奏曲 第77番 『皇帝』 第2楽章】・・・これだけではピンとこないと思いますが、ちょっとこちらを聴いてみてください。(


  < http://www.youtube.com/watch?v=PSLyrR-DYMo >
>


どこかで聴いた記憶、ありませんか? 実はコレ、ドイツの国歌なんです。


元々はハイドンが神聖ローマ皇帝フランツ2世(後のオーストリア皇帝フランツ1世)に献呈した 『神よ、皇帝フランツを守り給え』 という賛歌として作曲されオーストリア帝国の国歌となったもので、その旋律が 『皇帝』 に使われているのです。


ハイドンの死後ドイツの詩人アウグスト・ホフマンがこの曲に歌詞をつけたものが、1922年にドイツの国歌となり、現在に至っているそうな。


一方のオーストリアは、第二次大戦後にモーツァルトの曲を使用した 『山岳の国、大河の国』 に国歌を変更しているのです。


こんなエピソードからも、ヨーロッパの歴史の複雑さが伺えますネ。


ま、それはともかく・・・今から206年前の今日・1809年5月31日、77歳でこの世を去った大作曲家のご冥福をお祈り致します。
笑3




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吸 引

今日は、5月30日・・・5・3・0 → ゴミゼロってことで、

 掃除機の日


なのだそうです。

今や電気掃除機のないご家庭を探すのが大変なくらい普及している生活必需品ですが、世界初の〝真空〟掃除機が登場したのは意外と古く、日本が明治維新を迎えた1868年のこと。

シカゴのI・マカフィーが手動でレバーを引いて真空を作りだし、ノズルからゴミを吸って容器に溜めるという、掃除機の原型を発明。


この原理を1899年に電動式にしたのがJ・サーマンで、更に現在の掃除機に近い布フィルターを利用した電気式真空掃除機を1901年に開発したのは、イギリスのH・C・ブース。


そしてアメリカで家庭用の電気掃除機が発売されたのが1905年のことでしたが、当時の掃除機は重さが約40kgもあったそうですから、とても主婦が一人で操作できる代物ではなかったでしょう。

その後も改良が加えられ軽量化・低価格化が進みましたが、我が国で最初に電気掃除機を製造販売したのは、芝浦製作所(東芝の前身)。

1931年に、アメリカ・GE社製をモデルにして開発したアップライト型真空掃除機VC-A型は、一台110円・・・これ、当時の大卒初任給の半年分だったとか。

今で言えば軽く100万円以上・・・これを買えたのはかなりのお金持ちだったことでしょう。


          

                  <VC-A型>

しかし日本では、この電気掃除機はなかなか普及しませんでした。

それは当時の家屋が畳や障子という、箒やたたきでサッと掃いたり叩くだけで済む構造だったから。

そんな日常風景に変化が起きたのは、1960年代に入ってからのこと。

その頃から始まった団地ブームで、庭先にホコリを掃き出すことができなくなったことと、洋室が取り入れられ欧米と同じように絨毯を敷く習慣が定着したことで、ゴミを吸い取る電気掃除機の需要が出てきたのです。

その頃の掃除機は布フィルターで、吸い取ったゴミを捨てるのが大変でした。

私も子供の頃、使い古した歯ブラシで綿埃を取り除いた記憶があります。

その手間が省けるようになったのは、1980年代に入ってから。

いわゆる紙パック式フィルターが登場し、使い捨てが出来るようになりました。

実は冒頭の記念日を制定したのは日本電機工業会が 『純正紙パック使用推奨』 キャンペーンの一環として制定したもの。

なんだか 『掃除機の日』 って言えない様な気もしないでもなし。

それに現在は、ダイソン社を筆頭にフィルター不要のサイクロン式掃除機がシェアを伸ばしていますから、今後この記念日の存在自体が危ういかも・・・。

ちなみに我が家は女王様の意向により、昨年サイクロン掃除機に切り換えました。

あっ、もちろんそれを使って掃除させられて・・・いや、しているのは私ですが。うー

皆さんのお宅は、どんな掃除機をお使いですか?

えっ、ルンバが勝手にやってる? 




蒟 蒻


お題の漢字、皆さん読めますょネ。 今日はその


 コンニャクの日


なのだそうです。


5月29日の語呂合わせと、コンニャクの種芋の植え付けが5月に行われることを合わせて全国こんにゃく協同組合連合会が制定しました。

コンニャクはおでんの具には欠かせませんし、私が子供の頃よくおふくろが作ってくれた煮物の中に、クルッと捻った〝手綱コンニャク〟が入ってました。(


       


コンニャクはサトイモ科の植物で、ルーツはインドシナ半島と言われています。

日本に入ってきた時期ははっきりしませんが、コンニャク芋を加工して食べ始めたのは平安時代からだとか。


室町時代までは高級食材だったようで、庶民の口に入るようになったのは、江戸時代から。

1776(安政5)年に水戸藩の中島藤右衛門という人物がコンニャク芋を粉状にすることを考案したことがキッカケだったとか。

コンニャク芋はジャガイモと同じく種イモから増やします。

通常こんにゃく作りに使われるのは3年物で、大きいものでは直径30cmにもなるそうな。




       


収穫したコンニャク芋薄く切って乾燥させ、更に粉にしてからお湯に溶かし、石灰水を加えて均一に混ぜ合わせてから型に流し込み、アク抜きをするとコンニャクの出来上り。


それ自体では味のない食べ物ですが、近年注目されるのは、やはりダイエット食品としてでしょうか。

グルコマンナンを主成分としていますが、95%以上は水分。

100gあたり5~7Kcalという低熱量で、しか食物繊維が豊富ときていますから、確かにダイエットにはうってつけ。

しかしだからといって1日1kg以上食べると腸閉塞を起こすリスクがあるそうですから、いくら痩せたいからって、こればかり食べないように気を付けてくださいネ。

さて、日本国内でのコンニャク生産高は、年間67,000トン。

県別では群馬県が61,700トンで国内の92%を占めダントツの1位。

2位が栃木県の2,010トン、3位が茨城県で932トン。

この北関東3県で全国生産量96.4%を占めています。

道理で私が信州に帰省する際に横川など群馬県内のS.A.に寄ると、コンニャクの味噌田楽を盛んに売ってするわけです。


そして国内自給率も86%(原料のみで91%)と、珍しく高い比率を誇っています・・・が、これにはカラクリが。

実はコンニャクの関税率は1kgあたり2,796円で、これを比率に直すと313%。

米の778%に次ぎ、全農産物の関税平均22.5%を大幅に上回っているのです。(※平成26年現在)。

その理由は、国内の栽培地が山間地が多く、大規模化によるコスト削減が難しいから。

もしTTPが発効すると、一気に安い中国産が入り込んでくる可能性が大。

私は中国産の農産物は放射能より怖いと思っていますから、その事態はどうしても避けてもらいたいのですが・・・果たして、どうなりますやら?うー

コンビニで売られているおでんのコンニャクが中国産になったら、もう買うのは止めます。


そうそう、おでんのコンニャクといえば普通の板コンニャクと白滝がありますが・・・皆さんはどちらがお好きですか?

私はカラシがよく絡まる白滝派ですけどネ。



侵 入

1976(昭和51)年に、北海道にの函館空港にソ連の戦闘機ミグ25が強制着陸した事件に関しては、以前拙ブログでご紹介しました。(

< http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11262207259.html
>

当時の自衛隊は散々叩かれましたが、幸いにもその後本土に外国の戦闘機が着陸した事例はありません。

しかしその事件から11年後の今日・1987年5月28日・・・今度はソ連が外国籍の飛行機の着陸を、何と首都・モスクワに許してしまったのです。

ただしそれはジェット戦闘機ではなく、セスナ機でしたが・・・。 この

 赤の広場 セスナ機着陸事件

を引き起こしたのは、当時19歳の西独人マティアス・ルストMathias Rust


           


パイロットだった彼は、ハンブルグでレンタルしたセスナ172B型機をフィンランドのヘルシンキ空港へ飛ばし、給油後ストックホルに向け出発・・・と申告して離陸すると、機首を東に向けると、ソ連(モスクワ)に向け一直線。

この日は偶然にもソ連の国境警備隊の休日だったこともあって、セスナ機はモスクワまですんなり飛行。

途中ソ連の戦闘機が追尾したのですが、あまりに速度差が有り過ぎて追い越してしまうというマンガのような話も。

またこの前年に大韓航空機を撃墜して国際的なバッシングを受けていたこともあり、ソ連空軍は民間の小型機を撃墜することが出来ず・・・結局ルスト青年は5時間の飛行の末にモスクワのド真ん中・クレムリンに隣接する赤の広場に無事着陸を果たしたのです。


      


即時逮捕されたルスト青年は、航空法違反・不法入国などの罪で懲役4年の判決を受け、結局約1年半の間刑に服した後にグロムイコ外相の恩赦により釈放・帰国。

しかしソ連は今後激震に見舞われます。

当時最高権力者で改革推進派だったゴルバヂョフ書記長は、この機とばかりに抵抗勢力の中心であったソコロフ国防相とコルドゥノフ防空軍総司令官に責任を取らせる形で解任。

更に軍関係者約300人を処分し、一気に軍の勢力を削ぐことに成功。

これによりペレストロイカ(政治再構築)やグラスノスチ(情報公開)が一挙に進行し、最終的にはベルリンの壁崩壊へと繋がっていきました。

取り調べの際、飛行の動機を 「東西の対立を解消し平和をもたらすため」 と語ったルスト青年の本懐は、見事遂げられる結果となりました。

まさに〝蟻の一穴〟ならぬ〝セスナのひとっ飛び〟!?

しかし本来ならヒーローとなるべきルスト青年のその後は、波乱万丈というか踏んだり蹴ったりというか・・・。

彼の操縦するセスナ機がレーダーから消えたことで捜索した費用10万ドルをフィンランド政府から請求され、更に故郷に帰った翌年には交際を断った女性をナイフで刺して2年半の懲役。

その後も2001年には万引きで罰金刑を受けています。

およそヒーローとはかけ離れた生活を続けてきた彼も、来月47歳に。

現在はオンライン・ポーカーの賞金で食べているという、ギャンブラー・・・果たして今後はどうなることやら?

『あの人は、今?』 シリーズの格好の餌にならなければいいのですが。うー







厳 選

日本独特の文化のひとつに、和歌があります。

それを集めた歌集は過去数多く編纂されていますが、その中でも最もポピュラーなものといえば


 小倉百人一首

でしょう。 

この有名な歌集が完成したのが今から780年前の今日・南北朝時代の1235(文歴2/嘉禎元)年5月27日なのだそうです。

この歌集を撰じたのは、『新古今和歌集』・『新勅撰和歌集』 を編纂したことでも知られる鎌倉初期の公家・歌人であった藤原定家(1162-1241)。

彼の息子・爲家の義父であり鎌倉幕府の御家人だった宇都宮頼綱が、京都・嵯峨野の建築した別荘の襖の装飾にと、定家に色紙の作成を依頼。

それに応えて、彼は飛鳥時代~鎌倉時代にかけての名歌人100人の作から1首ずつを厳選、年代順に色紙に認めたとのこと。

現代流にいえば、〝日本の歌謡曲ベスト100選〟といったところでしょうか。

そして定家が小倉山で編纂したことから、後に 『小倉百人一首』 と呼ばれるようになったとか。

         


100人の歌人の内訳は、男性79名・女性21名。

天智・持統など天皇7名を始めとする高位の貴族、紀貫之・在原業平などの有名歌人、小野小町・紫式部・清少納言などの女流歌人・作家から、僧侶や蝉丸という正体不明(?)の歌人まで、実にバラエティーに富んだ人選。


反面、承久の乱で鎌倉幕府に反旗を翻し敗れた後鳥羽院や順徳院の歌は入っていませんから、多少なりとも政治的な配慮もなされている模様。


また恋歌が43首と半分近くも占めているるそうですから、定家もなかなかのロマンチストだったのかも。


私にとって百人一首の思い出と言えば、高校時代。

1年の冬休みの宿題が、百人一首の完全記憶・・・かるたを買い込んで毎日ぶつぶつ詠み続けたこと。

さすがに今は全部憶えてはいませんが、上の句のさわりを聞けばスッと下の句が出てきます。

この百首の中で皆さんが最もお好きな歌は、どれでしょうか?


私は、第4番の

   〝田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 

                 富士の高嶺に 雪は降りつつ〟


という、山辺赤人の一首。

その情景がスッと脳裏に描けるところが好きでした。

恋愛に疎い私には、どうも恋歌はピンときませんし・・・。

さて、百人一首といえば、最近毎年1回必ずニュースで報じられるのが『小倉百人一首かるた 名人位・クイーン位決定戦』。

       


上の句の最初の一文字を読み上げた瞬間に、「シュ
パッ!」 と札を飛ばし合うこの競技・・・素人が見ている限りでは、どちらが勝ったのか分からないくらいの一瞬の勝負。

記憶力とスピードと駆け引きが必要な、もう立派なスポーツですょネ。

今の私には到底無理・・・せいぜい 『坊主めくり』 を楽しむのが関の山。

あっ、今時の若者は、それすらやったことないのかも?うー


幸 域

中高年の野球ファンの方なら、かつていくつかの野球場には外野フェンスの前に金網で仕切られていた

 ラッキーゾーン

が設置されていたことをご記憶のことと思います。

実はこれ、日本独自の設備というかアイデア・・・野球の本場・アメリカでラッキーゾーンと言っても通じない、完全なる和製英語。

このラッキーゾーンが日本で初めて甲子園球場で設置されたのが、今から68年前の今日・1947(昭和22)年5月26日のことでした。

なんとプロ野球のシーズン途中に設置されたんですネ。

甲子園球場は1924(大正13)年に開場しましたが、当初は陸上競技など多種目利用が目的だったためグラウンドが扇形ではなくほぼ三角形・・・両翼110m・センター120m、左・右中間が128mもあるビックサイズ。

従って柵越えホームランは滅多に出ませんでした。

しかし戦後プロ野球が復活すると、ファンが豪快な柵越えのホームランに注目するようになったため、甲子園は慌てて左右両翼に金網フェンスを張ってラッキーゾーンを設け、それを超えたらホームランというルールにしたわけです。


昔の高校野球では、殆どがこのラッキーゾーンに入るホームランでした・・・が、PL学園時代の怪物・清原選手はそれを飛び越えてスタンドに軽々放り込んでいましたっけ。


        


この甲子園に倣って、その後西宮球場、鳴海球場、神宮球場などいくつかの球場にもラッキーゾーンが登場。


しかしその後バットやボールの品質が向上して飛距離が伸びたため、徐々に撤去・・・甲子園球場でも1991年12月に金網は取り外されました。

現在もラッキーゾーンが常設されているのは、鳥取県にある倉吉市営球場(グリーンスタジアム倉吉)だけだそうです。

※もっとも、今年からヤフオクドームに登場した『ホームランテラス』は実質的にラッキーゾーンと言えますが・・・。

現在プロ野球が行われている球場の外野フェンスは警備上の問題もあって高さ数メートルもあり、アメリカのように外野手が柵越えのホームラン性の打球を好捕するシーンが見られなくなりました。

しかしラッキーゾーンがあった頃は、そんなプロならではのファイン・プレーが何度も旅出したものです。

それではその中からとっておきの映像・・・1981年9月16日に西宮球場で行われた阪急-ロッテの後期11回戦の1回表に飛び出した、阪急・山森外野手の超ファイン・プレーをご覧ください。(




実は山森選手、このたった1プレーが高い評価を受け、アメリカのホームランキャッチ・ベスト10の第1位を獲得したばかりか、日本人で初めてアメリカの野球殿堂入りを果たしたのです。

でも、決してこの神がかり的なプレーは偶然に出来たわけではありませんでした。

山森選手は試合前、常にフェンスの高さや距離を確認し、金網の上を歩く練習までしていたとか。

まさにプロの仕事ぶり・・・単なる〝一発屋〟ではなかったのです。

もう今後プロ野球では、こんな職人芸が観られない・・・昭和オヤジとすれば寂しい限りです。


坊 や

「歳はとっても〝ボウヤ〟です。」

これを聞いたことのある方は、おそらく私を含め50歳代以上の方だけでしょうネ。

今日は、このキャッチフレーズ(?)で長らく活躍したコメディアン、

 坊屋 三郎 さん


の命日にあたります。


坊屋(本名:柴田俊英)さんは、1910(明治43)年に北海道・夕張で生まれました。

生後数ヶ月でお寺に養子に出され、お寺を継ぐべく日本大学・宗教学部に進学。

(もしかしたら、芸名はお坊さんから取ったのかも?)

しかし生来から音楽の道に進みたかった坊屋さんは同大の夜間部芸術学科(現在の日大藝術学部)に転学し、声楽やダンスを学びます。


卒業後入社した吉本興業が1935(昭和10)年に東京・浅草六区に浅草花月劇場をオープンすると、川田晴久さん、益田喜頓さん、それに実弟の芝利英と4人で『(第1次)あきれたぼういず』を結成。

タキシード姿でギター・ウクレレを手に浪花節からジャズ・オペラまで演奏しつつギャグを連発、〝日本初の冗談音楽〟として大人気を博しました。


日劇での公演では、観客の列が建物を3周以上したとか。


1939年に新興キネマが吉本興業の社員を大量に引き抜いた際、グループの中でただ1人吉本興業に残った川田さんの代わりに山茶花究さんを加えて『第2次あきれたぼういず』を結成。

レコード会社もテイチクに移籍し、ヒット曲を連発。


          

しかし時代は太平洋戦争へと突入・・・ジャズは敵性音楽として演奏禁止。

グループ名も 『新興快速舞隊』 といういかつい名前に変えざるをえず、メンバーも応召されるなどしたため1943年に活動を休止。

戦後再結成したものの、グループは1951(昭和26)年に解散。

坊屋さんは俳優として映画界入りすると、コメディーから『忠臣蔵』などのシリアスな作品まで数多くの作品に出演。


1980年以降は大林宣彦監督作品常連として知られました。


一方でお茶漬け屋を手掛けたものの失敗し、その借金返済のために全国のキャバレー回りもしたそうですが・・・。

戦前・戦後芸能界で長らく活躍し、ボーイズ・バラエティー協会の会長も務めた坊屋さんが92歳で急逝されたのは、今から13年前の今日・2002年5月25日。


その前日、喜劇界の盟友ともいえる清川虹子さんの通夜に参列する予定だったそうですが、その直前にバス停で突然倒れ、病院に搬送されたものの息を吹き返さなかったそうです

さて私にとって坊屋さんといえば、何と言っても1974(昭和49)年に放映された松下電器(現・パナソニック)のテレビCM。

身体の大きな外国人男性と、商品のテレビを挟んで交わすヘンテコな会話は、強烈なインパクトがありました。


それではその懐かCMをご覧いただきながら、昭和を代表するマルチ・タレントのご冥福をお祈り致します。

これ、今時の若者にもウケると思うのですが・・・いかがでしょ?笑2





             ペタしてね

ダンディ


中高年の男性でオシャレに興味ある人なら、この方を知らないはずはないでしょう。


今日は、一世を風靡した“VAN”ブランドの創設者にして我が国の男性ファッションのリーダー的存在だった

 石津 謙介 

の命日・没後10周年にあたります。


石津氏は1911(明治44)年に岡山県岡山市に5人兄弟の次男として生まれました。

紙問屋を営む父は仕事一筋の真面目人間でしたが母親が非常にオシャレだったそうで、彼はその血を色濃く受け継ぎ自分流に学生服を改造(?)するなど、子供の頃から着る服に拘っていたとか。


稼業を継ぐという条件で明治大学に進学した石津氏は、在学中オートバイ・クラブや自動車部などを創部したり夏は水上スキーに冬はスキーに熱中。

更に週に5回はダンスホール通いと、潤沢な仕送りを受けて流行の最先端を行く都会生活を満喫しました。

当然のことながら女性との交際も早く、彼は帰省したと際に中学生時代に知り合った笠井昌子さんを東京に駆け落ち同然に連れて行き同棲を開始。

卒業後約束通り岡山に帰って稼業を注ぐと同時に彼女と結婚しました。


しかし日華事変が起こり戦争へと突き進む日本では統制品となった紙の問屋稼業は続けることが出来ず、彼は親友の兄が経営する用品店・大川洋行を頼り、一家そろって中国・天津に移住。

ここでファッションの世界に本格的に足を踏み入れた彼は、敗戦の翌年故郷・岡山に戻ります。

そして大川洋行の取引先だったレナウンに誘われて入社。

大阪・神戸で勤務した後、そこで知り合い生涯のパートナーとなる高木一雄氏と組んで1951(昭和26)年に脱サラし、『石津商店』を設立。

1954(昭和29)年に、アメリカナイズされた社名 『ヴァンジャケット』 に変更すると、その3年後にアメリカ東海岸名門大学グループ〝アイビーリーグ〟に因んだ〝アイビー・ファッション〟をVANブランドとして売り出し、大人気を博しました。。

        

3つボタンのブレザー、ボタンダウン・シャツ
とコットン・パンツのコーディネートは一世を風靡。

このアイビー・ルックでキメた若者が銀座のみゆき通りを埋め尽くす〝みゆき族〟なんてものまで登場するほど。

(※ただし私自身は体型の観点から、全くアイビー・ファッションとは無縁でしたが・・・。)あせあせ

男性ファッション界の旗手となった石津氏は、1964年・東京五輪で日本選手団が着用した真っ赤なブレザーや、国鉄・警視庁・日本航空などのユニホーム・デザインも手掛けました。

その後も男性ファッション雑誌の創刊やアメリカンウットボールのチームも創設するなど、常に時代の先端を走り続けた石津氏でしたが、会社が急拡大すると従業員の組合問題などが起きるようになり売上も急落、徐々に会社経営の意欲を失くしていきます。

そして1978(昭和53)年4月、約400億円の負債を抱えて会社は倒産。
後に会社は復活を果たすものの、石津氏が関わることはありませんでした。

フリーの身となった彼は、その後もモスクワ五輪の日本選手団ユニホームのデザインを手掛けたり、衣料だけでなく食・住にも関わる新しいライフ・スタイルを提案し続けました。

そして2005(平成17)年5月24日、肺炎により93歳で天に召されたのです。

病院で寝たきりになってもパジャマを着ることを拒絶し、そのデザインが大のお気に入りだった三宅一生氏からプレゼントされたシャツを着て息を引き取ったことは有名。

その石津氏は、デザイン以外にも日本に大きな影響を残しました。

よく 「時と場所と場合」 をわきまえろ、という場合に〝Time )・Place )・Occasion )〟という言葉を使いますが、これを世に定着させたのは石津氏なのだそうな。

他にも私たちが良く使う〝カジュアル〟・〝トレーナー〟・〝キャンペーン〟、それに最近ビールなどによく使われている〝プレミアム〟も、彼がVAN戦略の中で使い始めたのが元祖

ファッションだけでなくライフスタイルや言葉まで流行の最先端を走り続けた〝Mr.ダンディー〟のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3




社会派

日本映画界はこれまで何人もの名監督を輩出していますが、その中でも最もシリアスな・・・というか重厚な作品を手がけた社会派監督といえば、


 熊 井 啓  


でしょう。 今日は我が故郷・信州が生んだこの巨匠の命日にあたります。


1930(昭和5)年に現在の長野県安曇野市に生まれた熊井氏は、旧制松本中学 → 旧制松本高校 → 信州大学と進学。

大学時代に演劇と映画に没頭していた彼は、『明日を創る人々』(東宝・1946年公開)で黒澤明氏と共同でメガホンを取った関川秀雄監督に誘われ、卒業後すぐに独立プロの助監督に。

そして1954年には日活撮影所・監督部に入社し、助監督をする傍ら脚本の仕事もこなしました。

1962年に10歳年下の高校の後輩・明子夫人と結婚すると、その2年後に監督デビュー。

その処女作が 『帝銀事件 死刑囚』・・・いきなりズシンとするテーマ。

その翌年に手がけ、戦後日本で起きたミストリー事件をアメリカの陰謀と結びつけた2作目の 『日本列島』 はモスクワ国際映画祭に招待され、早くも社会派の監督として注目を集めました。


         


その後の『地の群れ』(1970年)、『忍ぶ川』(1972年)、『朝焼けの詩』(1973年)と立て続けに海外映画祭のコンベンション部門に出品すると、遂に『サンダカン八番娼館 望郷』(1974年)でベルリン国際映画祭・銀熊賞を獲得。


またアカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされ、国際的にも知られる存在になりました。

その後も 『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』(1981年)や 『千利休 本覺坊遺文』(1989年)、また松本サリン事件を扱った 『日本の黒い夏-冤罪』(2001年)など問題作・話題作を撮り続け、その殆どが海外の映画祭に出品・招待され、複数の作品が受を果たしています。


しかし2007年5月18日に自宅で倒れているところを発見され、病院に搬送されましたが・・・その5日後の23日、クモ膜下出血により、76歳で天に召されました。

熊井監督作品は何本か鑑賞しましたが、やはり最も印象に残るのは、1968年公開の

 『黒部の太陽』


      

〝世紀の難工事〟と言われた黒部第四ダム建設に従事した人々の姿を描いたこの作品は、三船敏郎・石原裕次郎という二大スターに加え、多数の一流俳優が多数出演した大作。


劇場で公開されたものの 「映画館の大迫力の画面・音声で見て欲しい」 という石原裕次郎さんの意向により、長らくビデオ・DVD化されませんでした。

しかし2年前、石原プロモーション設立50周年を記念して遂にDVD化。

山崎豊子さんが 「この作品は映画評論を超えて、じかに日本人の魂に訴えて来る巨大な感動感を持っている」 と激賞されたこの作品を、ご家庭で楽しむことができるようになりました。

若い世代の皆さんにも是非ご覧いただきたい、日本映画を代表する秀作です。

また同作の脚本も手掛けた熊井監督自らが書き下ろした

 『映画「黒部の太陽」全記録』 (新潮文庫・刊)


      

もお勧め。

この伝説的映画が誕生するにあたり、2作目以降の企画が日活社内で採用されずクサッていた熊井監督に石原プロから監督オファーがあったこと。

そして五社協定の厚い壁や配給問題などの難関をいかに乗り越えたのか、また三船さんが演じた主役の北川次長(のモデルとなった芳賀公介氏)がトンネル貫通とほぼ同時期に愛娘を白血病で失くしたのが実話だったことや、トンネル内の出水シーンは実は事故であり想定以上の迫力になったこと等数々のエピソードが記されており、一層映画の迫真度と価値を高めてくれます。


今宵は、この本を片手に 『黒部の太陽』 を久しぶりに鑑賞しつつ、郷土の大先輩のご冥福をお祈りしたいと思います。笑3




評 論

クラシック音楽にハマってレコードを集め始めた中学生の頃、知識が乏しくてどんな演奏家のものを買えばいいのか分からなかった私が頼りにしていたのは、ジャケットの裏面などに書かれていた音楽評論家の批評でした。

今から考えれば、それらは当然広告記事みたいなもの・・・しかしその中でも、その卓越した文章でひときわ説得力があったのが、

 吉田 秀和 

の批評でした。 

今日はこのクラシック音楽界における〝大御所〟の命日・没後3周年にあたります。

吉田氏は1913(大正2)年の東京・日本橋生まれ。
父親は医師であり、吉田氏が西洋音楽に親しんだのは母親の影響だったとか。

しかし彼が進んだのは音楽ではなく、文学の道。

旧制成城高等学校(現・成城大学)の文科甲類(英語クラス)に入学した彼は、その後ドイツ語クラスの乙類に転じる一方、中原中也にフランス語の個人教授を受けたと言いますから、完全に外国語漬けの生活。

この時期に後のライバル(?)となる小林秀雄氏とも交流があったそうな。

1936年に東京帝国大学文学部仏文科を卒業して帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)でフランス語を教えた後、内務省地方局庶務係に勤務し英独仏語の翻訳に従事したり、戦時中は日本音楽文化協会の嘱託としてピアノの原料の鋼鉄や鉄筋を音楽産業のために確保したり、音楽家の軍事徴用を止めるよう説得したりしていたとか。


ある女性雑誌の付録『世界の名曲』への寄稿がきっかけで、音楽評論の道へと進むことに。

好きな音楽の世界で得意の文筆を生かした・・・と言ったところでしょうか。


       

1946年に『音楽芸術』(音楽之友社)誌上に〝モーツァルト〟を連載する一方、その2年後には齋藤秀雄氏らと 『子供のための音楽教室』 を開設し、初代室長を務めました。

この第一期生には小澤征爾・中村紘子・堤剛 各氏の錚々たるメンバーが名を連ね、この教室は後に桐朋学園音楽部門の母体となりました。

レコードやコンサート評だけでなくNHK- FMでは1971年から約40年に渡って 『名曲のたのしみ』 という番組の構成・司会を務められました。

その深い洞察力と感性豊かな文章は多くの音楽ファンを惹きつけ、音楽評論家として初めて個人全集が刊行され、大佛次郎賞も受賞。

更に1996年には文化功労賞、そして2006年には文化勲章も受章。

演奏家としてではなく、評論の世界で我が国の文化水準を高めたことが評価されました。

そして2012年5月22日、鎌倉市内の自宅で急性心不全により98歳で急逝・・・まさに大往生を遂げられたのです。


・・・ところで皆さんは〝評論家〟という稼業、どう思いますか?

私は正直、そういう肩書の方々がテレビや新聞で発するコメントをあまり信用していません。

会社を経営したこともない経済評論家の景気見通しなんて、その最たる例。


だって彼らは仮にその発言が後に間違っていたとしても、何ら責任に問われないですから。

そんな中にも、「おっ、この人は凄い」と思わせた評論家はいます。

ただし実在の人物ではないですが・・・。

それは2007年に公開されたアニメ映画 『レミーのおいしいレストラン』 (原題 : Ratatouille )に出てくるグルメ評論家アントン・イーゴ。(





フランスの料理界で最高の権威を誇るグルメ評論家の彼は、非常に辛口。

その辛辣な評価のおかげで潰れたレストランは数知れず。

そんな彼が評判を聞きつけて主役のレミーが腕を振るうレストラン 『グストー』 にやってきます。

そして出された南仏の家庭料理・・・映画の原題でもあるラタトゥーユに感動した彼は、それを作ったレミーがネズミである事を知り、愕然。

しかし彼は迷った末に、この料理を絶賛します。

結果的にレミーがネズミであることが公になりグストーは閉店、イーゴの名声は地に落ちます。

しかしイーゴは気にすることなく、レミーたちが再び開いたレストランに足を運んだ・・・。

つまり「良いものは良い、ダメなものはダメ」という是々非々の態度を貫き通せるかどうか。

テレビや雑誌取材でヨイショ・コメントや提灯記事を連発するようでは、評論家とは言えないということ。

そういう意味において、1983年に初来日した〝20世紀最高のピアニスト〟V・ホロヴィッツの演奏を「ヒビの入った骨董品」とこき下ろした吉田氏は、さすがと言えましょう。

正直、ホロヴィッツ信奉者だった私は、この評論を目にした時激怒したのですが、後にホロヴィッツが当時薬漬けで体調最悪だったことを知り、納得せざるを得ませんでした。

相手がどんなに名声を博していようとも、その演奏や料理を純粋に評価し反発を恐れず批評できる評論家・・・果たして、どれくらいいるのでしょうネ?うー