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H・J

世界的には現在でもしばしば起きているハイジャック事件。

この卑劣な犯罪が日本国内で初めて起きたのは、今から45年前の今日・1970(昭和45)年3月31日のことでした。 
世に言う、


 よど号事件


が、それです。

同日午前7時33分。 羽田空港発~板付空港(現・福岡空港)行きのボーインク727・日本航空351便 『よど号』 が離陸後、富士山上空で過激派グループ・赤軍派メンバー9名によってハイジャックされました。


これに先立つ3月15日、公安警察は同派議長・塩見孝也を逮捕し、その際 『H・J』 と書かれたメモを押収していたものの、それが 『ハイジャック』 の略語であることは分りませんでした。


なぜなら当時、日本国内にはそんな単語は知られていなかったから。


実行犯グループは、北朝鮮への入国を民間機乗っ取りによって果たすべくハイジャックを企てましたが、数日前に飛行機搭乗手続きに時間がかかることを知らずに数名が遅刻し、この日に再決行。 



また空港側も金属探知器を使ったボディチェックなどは全くしておらず、犯人らは易々と凶器を機内に持ち込めたという・・・今からは考えられない出来事でした。


(※ただし、犯人たちが持ち込んだ日本刀・拳銃・爆弾などは、全て玩具や模造品であったことが後に判明。)


給油のため板付空港に着陸、ここで女性・子供ら23名を解放。 

更に北朝鮮に向かったと見せかけて韓国・金浦空港に着陸するも犯人に偽装工作を見破られ、運輸政務次官・山村新次郎氏が交渉の末乗客の身代わりとなって搭乗し、よど号は北朝鮮へと向かいます。


人質となった乗客の中には、後に地下鉄サリン事件の際に迅速な決断を行なって多くの被害者の命を救った聖路加病院の日野原重明医師もいらっしゃいました。

また人質になった乗客の中には、この7年後に起きたダッカ日航機ハイジャック事件の際にも人質になってしまった方もいるとか。ダメだぁ顔

逆に搭乗券を予約していながら前日深酒したおかげで乗り遅れ、難を逃れた舛添要一・現東京都知事も・・・まさに人生いろいろです。

           

  
        <模造刀を手にした犯人の前を通って解放される乗客>


4月2日午後7時21分、同機は暗闇の中を平壌郊外にある美林飛行場跡地に目視で着陸。 


外交交渉の末、犯人グループ9名全員は亡命が認められて北朝鮮に留まり、機長ら乗務員3名と山村次官は5日に同機に搭乗して帰国・・・事件は一応決着したのです。


この事件から僅か2ヶ月後に、我が国はハイジャック防止法をスピード制定。 

そして一旦は英雄視された石田機長は、その後プライベート上のトラブルをマスコミに書き立てられ、本来ならば事件翌日から国際線機長になる予定だったにもかかわらず日航を退社する羽目になり、その後も過酷な人生を歩むことに。


また一般乗客の身代わりとして人質となった山村次官は国民的ヒーローとなり、大臣も務めました。 

そして、「我々は〝明日のジョー〟である」 という迷言(?)を吐いた犯人グループの多くは日本人妻と結婚していますが、その経緯ははっきりしておらず。


そればかりか、北朝鮮による日本人拉致事件に彼女らが関与しているという証言も・・・。


関係者の人生を大きく変えることになった、日本初のハイジャック事件・・・犯人の一部は既に鬼籍に入り、事件そのものが風化しつつある今も、日本国民にとっては完全に解決・終結はしていないのです。 うー


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真犯人
我が国の警察組織の威信を根底から覆す

 警察庁長官狙撃事件


が起きたのは、今からちょうど20年前の今日・1995(平成7)年3月30日のこと・・・そして同時に公訴時効が成立してから5年になります。


国松孝次警察庁長官(当時)が出勤のため自宅マンションから出たところを狙撃され、3発の銃弾を浴びて瀕死の重傷を負ったこの事件に関しては、以前記事にしました。(


  < http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10494138087.html
>


地下鉄サリン事件から僅か10日後に起きたため、捜査に当たった警視庁公安部は当初からオウム真理教の犯行と推定。

事件前からマークしていた信者の巡査長を取り調べたものの、決定的な証拠が出なかったことで立件できず。

一方刑事部は強盗殺人未遂という見立てをしていましたが、こちらも決定的な証拠は出ず犯人の特定には至りませんでした。

上記ブログ記事をアップした2010年3月30日には、公安部長が記者会見でオウム真理教犯行説を強調。

更に翌2011年2月にも記者会見を行って捜査内容検証結果を公表・・・秘密保持を優先して裏付け捜査が遅れた等々、捜査に不備があったことを認めました。

従って現在に至るまで警視庁は真犯人を特定出来ていないのですが、今日はこの事件に関して真犯人を名指しする著書をご紹介します。


 『警察庁長官を撃った男』 (鹿島圭介・著 新潮文庫・刊)


      


2010年3月に単行本が出版され、2年後に文庫化された同著では、それまでマスコミには登場しなかったオウム真理教とは無関係な人物・Nを真犯人と名指しています。

今年で85歳になるNは、現在大阪刑務所で服役中。

東大に入学した秀才ながら、在学中に窃盗事件を起こし自主退学した彼は、銃器の知識・操作はプロ級。


1956年、27歳の時に銀行強盗に失敗した後警官を射殺し無期懲役。


1976年に仮出所すると2002年に再び銀行強盗殺人未遂事件で逮捕されたこの男は、1995年に起き未だ犯人が特定されていない八王子のスーパーナンペイの強盗殺人事件容疑者にもリストアップされた、筋金入りの犯罪者。

そのNが自ら国松長官を狙撃したと告白し、犯人しか知り得ない情報を供述(秘密の暴露)をしているのです。

国松長官は約20メートル離れたところから拳銃で狙撃されていますが、4発中3発命中させる (残りの1発は意識的に外した) のは素人ではまず不可能。

また使用された拳銃コルト・パイソンやフォローポイント弾は国内で入手困難な代物ですが、Nは過去にアメリカでこの銃・弾丸を入手していることも分かっています。

その他この著作を読み進めると、このNは殆ど真っ黒・・・真犯人だと私には思えるのですが、警察はこのNから自白調書まで取っていながら、オウム犯行説を曲げていません。

確かにNが海に捨てたという凶器の拳銃は探すことは出来ませんが、他の事件では状況証拠の積み重ねだけで有罪にしているケースもあるのに、なぜ起訴しないのか?


国松長官を襲ったフォローボイント弾は、それ一発でほぼ確実に人間を死に至らしめる強烈な威力があるとか。

それを3発も被弾しながら、なおかつ病院で何度心停止になりながら生き抜いたのは、警察トップとしての責任感と執念の為せる技といって良いでしょう。

首の皮一枚のところで身体を張って警察組織の威信を辛うじて保った国松長官に対し、真犯人がNであるという確証がありながらオウム犯行説を取り下げられない理由が警察 (公安部) のごく一握りの幹部のメンツ・威信を保つためだけだったとしたら、誠にお粗末・本末転倒としか言えません。

最初に犯人に目星をつけ、それに沿った証拠集めや解釈・作文をするという冤罪を産みやすい体質は、一向に変わっていないといえましょう。

また、Nの名前が大手マスコミからなぜ出てこないのかも不思議ですが・・・。

この事件や警察組織の内幕に興味のある方には、ご一読をオススメします。





失 意

とかく世間は何事にも最初に達成したり1番になった人物やチームを持て囃し、2番以降の後塵を拝した人々の事は忘れてしまいがち。

しかし、そんな敗者の中にも記憶に留めるべき立派な人物がいるのです。

今日は、その中の1人・・・


 ロバート・ファルコン・スコット

    Robert Falcon Scott


の命日にあたります。

と言っても、この名前だけでどんな人物であったかが判
る方は、かなりのイギリス通か冒険通でしょうネ。


彼は日本ではちょうど明治元年となる1868年生まれ。

代々軍人の家系に生まれた彼は13歳で海軍兵学校に入学し、20歳で海軍大学を卒業して軍人に。

その彼の名を世間に知らしめたのは、南極探検でした。

1899年に王立地理学協会の南極探検計画に隊長として立候補し、1901~04年にかけて第1回の探検を行ない、ペンギンの生体観察など科学的な業績を残します。

そしてこの功績で大佐に昇進した彼は
1910年、再び科学調査と共に世界初の南極点到達を目指してイギリスを出発し、翌年10月には南極大陸に上陸。 


しかし同時期に、北極点到達をアメリカ人・ピアリーが達成したため目標を南極点に切り替えたノルウェー人冒険家・アムンセン氏も南極点到達に向かっていました。


1912年1月17日スコット隊が南極点に到達した時・・・そこには、約1ヶ月前の12月14日に一番乗りを果たしたアムンセン隊が残したノルウェー国旗やテント、そして手紙が置いてあったのです。


        ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-スコット

              南極探検中のスコット


失意と極度の疲労、そして荒れ狂うブリザードの中帰還を目指したスコット隊でしたが、食料基地まであと20kmの地点で遂に力尽き、5名全員帰らぬ人(※1名は行方不明)となってしまいました。


当初圧倒的に有利といわれたスコット隊が何故後塵を拝し、かつ命を落としたのか?・・・その原因に関しては後年様々な分析がなされ、


◆ アムンセン隊が犬ぞりを使用したのに対し、スコット隊は雪上車と

  馬を利用したが、雪上車が故障し馬が寒さに耐えられず次々に

  死亡、人力で荷物を運搬しなければならなかった。


◆ アムンセン隊は食料を現地で海獣を狩るなどして調達したのに対し、

  スコット隊は膨大な食料を運搬しようとした。


などと指摘されています。 


また途中で引き返せなかったのは、この冒険に際して〝世界初の南極点到達〟を謳って資金を集めたからだった、とも推測されています。


しかし私はこのスコット氏を、一番乗りを逃したとはいえ〝英国紳士〟として、また一人の男性として尊敬します。 


アムンセンの残した手紙を持ち帰って彼らの人類初の快挙を証明したこと、絶望の淵にありながらも亡くなる直前まで克明に日記を残して自らの行動を後世に知らしめたこと、そして最後まで家族を気遣う手紙まで遺したこと・・・いずれも中々出来ることではありませんから。


彼の日記のラストページ・・・即ち1912年3月29日付けの文面を以下にご紹介します。


           ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-スコット 最後の日記

            スコット氏が書き残した日記の最終ぺージ  


Thursday, March 29 - Since the 21st we have had a

continuous gale from W.S.W. and S.W.

We had fuel to make two cups of tea apiece and bare

food for two days on the 20th.


Every day we have been ready to start for our depot

11 miles away, but outside the door of the tent it remains

a scene of whirling drift.


I do not think we can hope for any better things now.

We shall stick it out to the end, but we are getting weaker,

of course, and the end cannot be far.


It seems a pity, but I do not think I can write more.



   R.Scott

   Last entry

   For God's sake look after our people.



3月29日 木曜日 ― 21日から西南西・南西の暴風が止まない。

我々には20日から1人当たり2杯の紅茶を沸かす燃料と僅か2日分の食糧しか残っておらず。


毎日11マイル先の貯蔵基地に出発する準備はすれども、外は猛吹雪。

状況が好転するとは思えない。 


我々は最後まで頑張る所存なれど、日々衰弱が酷く最期の時はそう遠くはなかろう。



残念ながら、私はこれ以上書き記すことは出来まい。

 

R.スコット

最後にこれを記す

願わくば我々に神のご加護を。  (※拙訳 ナベちゃん)



捜索隊により半年後に発見された時、詩集を手にしたまま息絶えていたという悲運の探検家のご冥福を、心よりお祈り致します。

そういえば、以前 「2番じゃダメなんてすか?」 という迷言を吐いた国会議員がいましたが・・・もしスコットがこれを聞いたら、即座に 「絶対にダメだっ!」と断言するでしょうネ。うー


楼 蘭

ヨーロッパ・地中海と東洋(中国)を、古くはローマ帝国と秦・漢の時代から結び多くの商品や文化を運んだ道、


 シルクロード


日本にも少なからず影響を及ぼしたこの遠大なる交易路に関しては、1980年に 『NHK特集 シルクロード』 が1年間にわたって放映されたことで一気に注目されるようになりました。

私も何回か観た記憶がありますが、古代ロマンを感じる一方で果てしない砂漠をラクダなどを使ってゆっくりと運んだ昔の人々の勇気にはただ敬服するばかりでした。

今日はこの 『シルクロードの日』 なのだそうです。


今から115年前の今日・1900年3月28日、スウェーデンの探検家

スヴェン・アンダシュ・ヘディン (1865-1952)


が廃墟となっていたシルクロード上の古代都市・楼蘭を発見したことに因むとか。


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

              Sven Anders Hedin


このヘディンという方・・・日本ではあまり馴染みがありませんが、実は凄い探検家だったんです。

スウェーデンの中流家庭に生まれた彼は、隣国・フィンランドの探検家にしてスウェーデン王立科学アカデミー教授・ノルデンショルトが北欧から東アジアの最短ルート・『北東航路』 を発見し1879年に日本に辿りつくという快挙に感銘を受け、生涯に渡って彼を師と仰ぎます。

またベルリン大学でシルクロードの提唱者として知られるリヒトホーフェンの指導を受けた彼は、中央アジアの探検を決意。

早くも20歳の時にペルシャやメソポタミアに旅行したのを皮切りに、1893~97年と1899~1902年の2回に渡り中央アジアのパミール高原やタクラマカン砂漠等を探検し、その間に楼蘭の遺跡を発見。

更に1906~08年にチベット高原一帯を探検し、カラコルム山脈に連なるトランス・ヒマラヤ山系をも発見。


それまで空白・不明だった同地域の探査に大きな足跡を残しました。

彼の探検において特に興味を引くのは、楼蘭の付近にあるとされた塩湖・ロプノールに関する仮説。


この湖のほとりで栄えたとされる楼蘭が3世紀頃から始まった湖の乾燥化と共に衰退し、シルクロードの道筋も変わったといわれ、以来その存在が伝説化されたロプノールに関して、ヘディンは1934年にこの湖を発見し、

「およそ1,000年周期で南北に彷徨っている」

という湖移動説を発表したのです。 


この仮説を含め、自ら筆を執った冒険記が


 『さまよえる湖』 (中公文庫BIBLIO・刊)


        ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

これを読むと、自分ではとても行けないアジアの奥地に身を置いたような錯覚に捉われます。

(※ただし現在ではロプノールは河床が干上がって消滅しただけと推測されており、移動説は否定されていますが・・・。)


その一方でヘディン氏は、あまりに探検に身を入れ過ぎて世情に疎かったのか、自身はユダヤの血を1/16受け継いでいるにもかかわらず、自身を厚遇してくれたナチス・ドイツを礼賛するなどして第二次大戦後母国スウェーデンで大きな批判に晒されてもいます。

そりゃ砂漠に何年も行きっ放しでは、激動のヨーロッパ事情など知る由もなかったでしょう。うー


考古学的ロマンを書き立てる〝シルクロード〟の旅・・・テレビ番組だけではなく、その地に半生を捧げた冒険家の足跡を辿ることで、別の楽しみ方が出来るかもしれません。笑3


侮 蔑

社会問題化している〝いじめ〟は、今に始まったことではありません。

人間の歴史が始まって以来ずっとあったことなのでしょうが・・・今日取り上げるのは、特に日本人特有のムラ社会的というか陰湿ないじめによって人生を狂わされた悲運の女性、

 斎藤 きち さん


この名前はご存じなくても 〝唐人お吉〟 といえばピンと来る方が多いと思いますが、今日は彼女の命日・没後125周年にあたります。

お吉さんは、1841(天保12)年に現在の愛知県南知多町で船大工・斎藤市兵衛の次女として生まれました。

その後一家は伊豆・下田に転居したものの仕事が減って生活が苦しくなったため、彼女は7歳の時に河津城主・向井将の愛妾・村山せんの養女となって三味線などを仕込まれました。

養母せんの死去により14歳で村山家から離れた彼女は芸者となってお吉と名乗ると、アッと言う間に下田一の人気者となりました。

まぁこれだけの美形ですから、それも当然のことだったでしょう。(

           

                 19歳のお吉さん


この人気芸者・お吉さんの運命を変えたのは、初代アメリカ総領事として来日した、タウンゼント・ハリスでした。


下田・玉泉寺を領事館として留まっていたハリスは、慣れない食事や環境のために吐血し体調を崩してしまいます。

そこで通訳のH・ヒュースケンは地元の役人に彼の世話をする看護婦の派遣を打診・・・ところが幕府側は、この時とばかり若い女性を妾として派遣しハリスの取り込みを画策。

そこで白羽の矢が立ったのが、お吉さんだったのです。

彼女は既に婚約者・船大工の鶴松がいたため当初固辞したものの、奉行所の役人から 「承知してくれたら鶴松には苗字帯刀を許し、大工頭の組下にする」 と交換条件を持ち出され、渋々ハリスの許へ。

ところがお吉は腫物があるという理由で (というのは表向きで、ハリスが幕府の策略に気付いたため)、たった3日でお役御免に。


その後も引き続き3ヶ月程 (※この期間については諸説あり) 玉泉寺に通ったお吉さんに対し、当初下田の人々は同情的でした。

ところが幕府から25両もの支度金をもらって羽振りが良くなった彼女を見ているうち、徐々にそれが嫉妬に・・・芸者に戻った彼女を待っていたのは、周囲の冷たい視線でした。

いたたまれなくなった彼女は、松浦武四郎という蝦夷を始め全国を渡り歩いていた武士に誘われて京都へ。

それからの5年間、彼女が何をしていたのかは詳しくは分かっていませんが、明治維新直後の1868年に鶴松と再会した彼女は、横浜で同棲。

3年後に下田に戻って髪結業を始めるも、相変わらず偏見の残る同地での商売は上手くいかなかったようです。

結局鶴松とも別れ芸者に戻ったものの、既にアルコール依存症になっていた彼女は酔って宴席で暴れるなどしたため、たった2年で廃業。

最後は物乞いにまで身を落とし、1890(明治23)年3月27日・・・48歳で身投げをして自ら命を絶ってしまったのです。


しかも人々は自ら引き上げられたお吉さんの遺体を汚らわしいと忌み嫌い、河原に3日間も放置したまま。

気の毒に思った下田宝福寺の住職が境内の一角に葬ると、今度はこの住職が周囲から迫害され、結局彼も下田を去らざるを得なかったとか。

いじめられっ子を庇うと、今度はその子が標的に・・・今、学校で起きているいじめと同じ図式です。


そんな彼女の生涯を悲話を含めて紹介しているのが、こちら。

 『伝承悲話 唐人お吉』 (石垣直樹・著 万来舎・刊)


      

国のために我が身を殉じた悲運の人・お吉さんに対し、あの新渡戸稲造は

〝からくさの 浮き名のもとに 枯れ果てし 君が心は やまとなでしこ〟


という歌を残しています。

また 『唐人』 とは、「お前は日本人ではない」 という意味の蔑称。

私は今後二度とお吉さんのことを 『唐人』 と呼ばないことを誓いつつ、冥福を祈りたいと思います。笑3




散るぞ悲しき

皆さんは、太平洋戦争時における日本陸軍軍人、

 栗林 忠道 大将

をご存知でしょうか?


C・イーストウッドがメガホンを取った映画 『硫黄島からの手紙』 (2006年公開)で、渡辺謙さんが熱演した主人公・・・といえば、お分かりいただけるかもしれませんネ。


アメリカ軍の本土攻撃を阻止すべく、太平洋の孤島・硫黄島を死守しようとした栗林大将が奮戦の末玉砕したのは、今から70年前の今日・1945年3月26日と推測されています。


          栗林忠道大将


1891年に長野県埴科郡に生まれた栗林大将は、1911年に旧制長野県立長野中学校を卒業。


実はこの学校、我が母校・長野県立長野高等学校の前身・・・つまり栗林大将は、私の大先輩なのです。


その後陸軍士官学校等を経て、1923年に陸軍大学校を次席で卒業。


アメリカ・カナダの駐在武官となってハーバード大学にも留学した、陸軍には珍しい米国通であり開戦批判派だったそうな。


開戦後、1943年6月に中将に昇進すると翌年5月に父島・硫黄島を守備範囲とする第109師団長となり、翌1945年2月19日に硫黄島入り。


それまで恒常的に行われていた理不尽な体罰を戒め、理論的・合理的な戦術を用いて圧倒的な兵力を持つアメリカ軍を苦しめたのです。


駐留日本軍20,933名中、戦死者20,129名。 


死亡率96%(!)という凄惨な戦場でしたが、一方米軍の損害も死傷者合計で28,686名を数え、太平洋戦争において米軍の戦死・戦傷者総数が日本軍のそれを上回るという、稀有な例だったとのこと。


食糧・水が絶対的に不足する中で3月26日、最後の兵力300名と共に総攻撃をかけ全員玉砕・・・最後の総攻撃の際、師団長自らが突撃したのは、日本軍戦史々上初めてのことだったそうです。


有能な軍人だった一方で、アメリカ在任中や硫黄島着任後も、奥様や1男2女の子供たちにこまめに手紙を書き続けた子煩悩な父親でもあった栗林大将の素顔を綴った、『散るぞ悲しき』梯久美子・著) という書籍があります。


大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したこの良書、ご一読をお勧め致します。


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-散るぞ悲しき

映画が公開されるまで日本国内では殆ど無名だった栗林大将ですが、アメリカでは太平洋戦争時の日本軍人の中で最も優秀な指揮官として彼の名をあげる軍人・軍関係者が多いのだそうです。


結果的に敗北したものの、援軍もないまま総面積僅か22K㎡の小島を日本軍の3倍もの兵力で攻撃を加えられながら、アメリカ軍の想定を遥かに上回って1ヶ月半も抵抗した戦術・指揮能力が高く評価されているからだとか。


絶望的な戦いの中、最期まで部下を鼓舞し先頭に立って戦い散っていった栗林大将の姿は、組織のトップに立つ者には学ぶべきところ大でありましょう。


玉砕決行の数日前、大本営に宛てた最期の訣別文に認められた辞世の句、


   国の為 重き努めを 果し得で 

        矢弾(やだま)尽き果て 散るぞ悲しき


溢れ出る総大将としての責任感と無念の想いに、私は涙を禁じ得ません。


郷里の誇る英霊、そして尊敬すべき母校の大先輩である栗林忠道大将閣下のご冥福を祈り・・・敬礼! 




大逆転

いよいよ明後日、プロ野球が開幕・・・本格的な球春到来です。

今年はどのチームが優勝するのか、ファンの間では喧々諤々の予想合戦が繰り広げられていることでしょう。


さて、〝筋書きのないドラマ〟といわれる野球で最もエキサイティングな場面は最終回の逆転劇・・・更に言えばサヨナラ・ゲーム。

その中でも、これ以上ないという値千金の一発といえば

 代打逆転サヨナラ満塁ホームラン


ではないでしょうか。


この最も劇的なホームランが日本プロ野球で初めて飛び出したのが、今から59年前の今日・1956(昭和31)年3月25日・・・後楽園球場で行われた巨人-中日戦でのことでした。


この歴史的な一打を放ったのは、巨人の樋笠一夫選手(1920-2007)。


          

この選手の経歴はちょっと変わっていて、旧制高松中学で全国中等学校優勝野球大会でベスト8まで進んだものの、卒業後は職業軍人に。

戦後は広島鉄道局などのノンプロで活躍していたところを広島カープの目に留まり、1950年に30歳で入団。


いきなり打点・本塁打でチーム二冠となったものの、僅か1年で退団。

その彼を巨人が熱心に口説き落として獲得したのですが、当時の巨人は青田昇・与那嶺要など外野陣の層が厚く、広島の主力打者も代打に甘んじていました。

その彼がこの試合で代打に立ったのは、9回裏。


0-3で負けていたものの、1死満塁で一発逆転の場面。

相手チームの杉浦茂投手の3球目・・・ストレートを狙い澄まして振った樋笠選手のバットは見事にボールをジャストミート!

打球は左中間スタンドに一直線・・・ここに史上初の快挙が達成されました。

ホームインした樋笠選手は、まるで優勝監督のようにナインから胴上げされたそうな。

8年間の現役生活で打率.229、ホームラン54本という平凡な記録しか残していない同選手ですが、この一発で見事歴史にその名を残しました。


さて、今までこの劇的なホームランは樋笠選手のものを含め、8本飛び出しています。

昨年がプロ野球80周年・・・現在ではCS・日本シリーズを含め年間890試合程行われていますから、少なく見積もっても累計試合総数は7万試合近く。

従ってこの劇的ホームランが出る確率は10年・約8,700試合に1度という低さ。


樋笠選手以降に達成した選手を年代順に並べてみると、




② 1956年6月24日 藤村富美男(阪神) 

    藤村監督自ら「代打はワシ」と告げて打席に・・・。

③ 1971年5月20日  広野 功(巨人)

④ 1984年6月11日  柳原隆弘(近鉄)

⑤ 1988年6月18日  藤田浩雅(阪急)

⑦ 2001年9月28日  藤井康雄(阪急)

⑧ 2011年10月22日 長野久義(巨人)

・・・あれっ、⑥は?

はい、決して忘れたわけではありません。

実は2001年9月26日に飛び出した史上6本目は、更に劇的・・・現在まで日本はおろかメジャーを含めても史上唯一、いや今後もおそらく出ないであろう〝代打逆転満塁サヨナラ優勝決定ホームラン〟なのです。

打ったのは近鉄の北川博敏選手。


前年阪神からトレードされてきた同選手の、まさに乾坤一擲・会心の一打・・・その映像を、どうぞご覧ください。(※2分過ぎ) 

   <
https://www.youtube.com/watch?v=YZG42fy9C5k
>


北川選手の名は、この一打で近鉄ファン・プロ野球ファンの記憶に永遠に留められることでしょうが、この僅か4日後に打った⑦の藤井選手の一発も、実はやはり史上唯一となる2死・(お釣り無しの)3点差での達成だったのです。

しかし、
北川選手の一発があまりに劇的だったため、完全に霞んでしまいました。ダメだぁ顔

これもいわゆるひとつの〝運〟ですネ。

さぁ今シーズン、果たして9本目は出るでしょうか?



架 空

今から45年前の今日・1970(昭和45)年3月24日、我が国で前例のない葬儀が執り行われました。


なぜならその葬儀、故人が実在の人物ではなかったからなのですが・・・その人の名は、


 力 石 徹


そう、スポ根漫画の名作・『あしたのジョー』 に出てくる、主人公・矢吹丈の終生のライバル。


少年院時代から因縁があり、プロボクサーとなった2人がボクシングの聖地・後楽園ホールで遂に決戦することに。


体格差を埋めるために壮絶な減量をして試合に臨んだ力石選手は、強烈なアッパーカットでKO勝ちを収めたものの、ダウンした際に頚椎をロープで強打したことが原因で、試合直後に息を引き取ったのです。            

        ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-力石徹

彼の死が描かれた少年マガジンが発売された直後、同誌の内田勝編集長の元には読者からの弔電や香典が山のように届いたといいます。


その後作家・寺山修司氏が世話人となって、彼の葬儀が講談社の講堂で執り行われることとなりましたが、(当然のことながら)読経してくれるお寺様を探すのにも一苦労・・・寺山氏の作った告別式の台本が配布されたのは、開式直前だったそうです。


後楽園ホールのリングを解体して式場に持ち込み、そこでアニメの主題歌歌手・尾藤イサオさんがプロボクサーと模擬ファイトした後、熱唱。


「お前を殺したのは誰だ、誰なのだ、力石よ!」 


弔辞者がそう叫んで弔辞文を破り捨てるという型破りの告別式には、平日にも拘わらず小学生から社会人まで約800名が参列、読経が流れる中で焼香をしたそうです。


当時は東大紛争など学生運動が盛んな時代・・・この葬儀の一週間後には犯人が 「我々はあしたのジョーである」 と叫んだ〝よど号乗っ取り事件〟が起きています。


(2002年には同じ講堂で三十三回忌法要が行われ、その時にも約300名のファンが参列したとか。)


現在に至るまで架空人物の葬儀が本格的に執り行われたのは、力石徹、ラオウ(北斗の拳)、マーズ(六神合体ゴッドマーズ)、上杉達也(タッチ) 、ヤン・ウェンリー(銀河英雄伝説)ら。


また法要としては赤木しげる(闘牌伝説アカギ)の十周忌が執り行われ、1,000人もの参列者が列をなしたとか。

主役ではない力石徹やラオウの死に、なぜこれ程までに人々が涙するのでしょうか? (2人とも男臭い、武骨なキャラクターなのは、単なる偶然?)


人間は、2度死ぬ・・・といわれます。

1回目は、肉体が滅んだ時。

そして2回目は、人々の記憶から消えた時だとか。

その意味では、力石徹はまだ1度しか死んでいないと言えましょうか。

4年後の2019年には、彼の五十回忌を迎えます。

果たして何人のファンが、焼香に訪れるのでしょう?

講談社さん、ちゃんと法要を執り行ってくださいまし。


さて、皆さんには葬儀を実施してほしい架空の人物は、いますか?

宇宙戦艦ヤマト・ファンの私としては、沖田十三艦長の葬儀を
実施してほしいところですが・・・あれは未来の話だから、無理?あせあせ




コロンボ

今日は、かつて東映ヤクザ映画で活躍した・・・というより、『刑事コロンボ』 の主役ピーター・フォークの吹き替えでお馴染みだった


 小池 朝雄 さん


の命日・没後30周年にあたります。


             


小池さんは1931(昭和6)年の東京生まれ。

都立青山高等学校卒業後、1950年に文学座附属演劇研究所に入所し、役者の道を歩み始めました。


文学座を選んだのは、当時読んでいたお気に入りの小説の作家・久保田万太郎さんがおられたからだったといいます。

しかしその文学座が1963年に分裂すると、彼は劇団・雲の創設に参画。

更にその雲が分裂すると、新たに結成された劇団・昴へ・・・同劇団の中心俳優として活躍しました。


ただ私個人としては舞台俳優というよりは、映画やTVドラマで活躍されたというイメージが強いです。

東映のヤクザ映画『仁義なき戦い』シリーズでは常連でしたし、TVドラマでは『ザ・ガードマン』や毎週欠かさず観ていた『キイハンター』、更には『大岡越前』や『子連れ狼』、『Gメン’75』等々、ヤクザから刑事・社長まで、様々な役柄をこなして数多くの作品の脇をしっかり固めていました。

そして何といっても小池さんの名をメジャーにしたのは、『刑事コロンボ』。

コロンボ刑事役のピーター・フォークも小池さん同様性格俳優だったことも相まってか、小池さんの吹き替えは見事にハマッていました。       

         

後年字幕版の刑事コロンボを観た時、ピーター本人の声が思いの外甲高くて幻滅してしまったのは、それだけ小池さん=コロンボというイメージが固まってしまっていたからなのでしょう。



また個人的には、『フレンチ・コネクション』(1971年)のジーン・ハックマンの吹き替えも印象に残っていますネ。


そして小池さんのコロンボ・シリーズ最後の吹き替えとなったのは、1983年に日本テレビで放映された 『黒のエチュード』 の120分ノーカット版。

(※NHKで1972年に放映されたのは約73分の短縮版。)

その僅か2年後の1985年3月23日、小池さんは肺不全で天に召されました。

まだ54歳の若さ・・・俳優としてはまだまだこれからという時だっただけに、訃報を聞いたときは驚きました。


実は小池さん、意外なところで歌手として声を遺しておられます。

それは人気アニメ・あしたのジョーのエンディング・テーマ 『ジョーの子守歌』。(

   < https://www.youtube.com/watch?v=Zr8MMWMgRxc
>


「ウチのカミさんがねェ・・・」


NHKで刑事コロンボの放送当時、学生だった私にはピンとこなかったこの名セリフ・・・今では常套句として使う年齢になったことをかみしめつつ、名脇役のご冥福をお祈りしたいと思います。笑3





有名無実

今からちょうど90年前の今日・1925(大正14)年3月22日に、社団法人東京放送局(現・NHK東京放送局)が日本初のラジオ(仮)放送を行ないました。  故に今日は


 放送記念日


なのだそうです。

同日午前9時30分、東京・芝浦の東京高等工芸学校に設けられた仮スタジオから京田武男アナウンサーの発した第一声は


「ア~、ア~、ア~、聞こえますか。 JOAK、JOAK、こちらは東京放送であります。 今日(こんにち)只今より放送を開始致します。」

だったそうな。


冒頭ア~ア~と発声したのは、当時殆どのラジオが『 探り式鉱石受信機』 だったため、この発声の間に聴取者が一番感度の良いポイントにダイヤルを合わせられるように・・・という配慮だったとか。

この放送開始が開始された3月時点では、ラジオ受信契約者数は、僅か5,455人。

ラジオが置いてある商店などには連日人だかりが出来たとか。

テレビが放送開始された直後、街頭テレビに見物人が押し寄せたのと同じ光景が繰り広げられたのでしょうネ。

         

           初放送を聴く犬飼毅逓信大臣


ところで、このラジオ放送が始まったきっかけは何だったのか?

それは、この2年前に起きた関東大震災でした。

未曽有の大地震と火災で情報を遮断された人々はパニック状態に陥り、様々な流言飛語が飛び交い被災地は大混乱に陥りました。

この反省に立ち、人々により早く正確な情報を伝達する手段としてラジオ放送の開始が急がれたのです。

そしてラジオの威力は、4年前の東日本大震災でも立証されました。

今後またいつ大地震が起きるか分からない中、私たちも常に携帯ラジオを持つべきですネ。

さて、ラジオ放送開始から90年。 そして1953年2月からテレビ放送が始まって62年・・・現在では多くの放送局が連日24時間にわたって放送電波を流し続けています。

しかし、その内容は当初ラジオ放送を始めた動機と比べて、どうなのでしょうか?

我が国には『放送法』という、放送事業者を規制する法律がありますが、その中にこんな条文があります。


第4条 放送事業者は、国内放送及び内外放送の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない。


 1.公安及び善良な風俗を害しないこと。
 2.政治的に公平であること。
 3.報道は事実をまげないですること。
 4.意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を
   明らかにすること。


さて現在、これに抵触していないテレビ・ラジオ局はあるのでしょうか?

社会評論家の大宅壮一氏は1957年、テレビの普及を見て

『テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。 ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、〝一億白痴化運動〟が展開されていると言ってよい。』

という、いわゆる〝一億総白痴化〟を予言しましたが・・・残念ながらそれは見事に的中してしまったと言わざるを値得ません。

下らないバラエティー番組が幅を利かせ、同じ顔ぶれのお笑い芸人がどこの局にも登場し、また他局で視聴率を取った番組を臆面もなくパクる情けなさ。

更に酷いのは、公平性の欠如と偏向報道。

一部を除く放送局が中国・韓国に対し腰が引けている、というより反日報道を繰り返す現状は、とても日本の放送局とは思えません。

なぜそうなってしまったのか? それには様々な要因があります。

が、ひとつ実例を挙げると・・・以前TBSの生放送の番組中、同局の人気アナウンサーA氏が

「ウチはハングル語を話せないと役職に就けませんから。」

と発言し、その場を凍りつかせたことがありました。

おそらくこれは真実であり、なぜそうなのかは推して知るべし。

ではなぜこんな放送局が偏向・捏造報道を垂れ流し続けられるのか ?

実は、上記放送法第4条には罰則規定がないのです。ダメだぁ顔

こんなザル法であること自体問題ですが、これを改正しようとすればマスコミはこぞって大反対キャンペーンを展開するでしょう。

である以上、私たち国民がその実態を把握し彼らが流す情報をチェックするしかないのです。

皆さんにはそんな事実を、この放送記念日に是非知っていただきたく・・・。