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泥 沼

〝他人の不幸は蜜の味〟と言いますが、ここ数日大手家具メーカー 『大塚家具』 のお家騒動がマスコミを賑わしています。

同社は1969年に大塚勝久・現会長が創業し、一代で従業員約1,700人の大企業に成長させましたが、ここにきて長女の久美子・現社長との泥仕合が表面化。

26日に勝久会長が記者会見を開き長女の退任を迫ると、その翌日には長女が父親の放逐を宣言。

【父親・母親・長男 vs. 長女・次男・次女・三女】 という家族内の対立構造が浮き彫りになりました。

会見で「悪い子供を作った」という父親に対して、「会社はどこかで創業者の庇護から離れなければならない」と突き放す娘。

皆さんは、両者の会見をどうご覧になったでしょうか?



私も経営者の端くれですから、勝久氏が自分が起業し育て上げた会社が我が子同然、いやそれ以上に可愛いという感情はよく分かります。

しかし公の場で 「間違った子を作った」 と発言するのはいかがかと。

そもそも同族会社とはいえ、大塚家具はJASDAQ上場会社。

株式を公開した時点で、もう個人商店ではなくなったはず。


双方の言い分を聴く限りでは、成功体験に縛られた創業者に二代目が手を焼いている・・・という風に見えました。

今後は3月末の株主総会に向けて、18%の筆頭株主である勝久氏と、10%の株を持つ資産管理会社を握る久美子氏が、今後どれだけの委任状を集めるかが焦点となります。

どちらが勝つか、高みの見物・・・といったところですが、この問題はあくまで社内抗争であり、肝心の消費者は蚊帳の外。

実は我が家の家具、その殆どを大塚家具で買いました。

今から10数年前ですが、確かに若い担当者が店内をくっついて回ってくれました・・・が、実際には私たちがポンポンと決めて行ったので、その担当者は単に注文を書き足しただけ。

正直、勝久氏が自信を持つ接客方法に殆どメリットは感じませんでした。

またインテリア業界の売り上げを見ると、

                売上高      シェア
第1位  ニトリ     3,876億円   53.1%
第2位  良品計画   2,206億円   30.2%
第3位  大塚家具     562億円    7.7%
第4位  島 忠       528億円    7.2%
                 
(※2013~14年現在)

と、業界第3位とはいえ会見で名前の出たニトリ社とは大きな差が。

経常利益ではニトリが634億円に対し大塚家具は僅か10億円と、大きく水を開けられています。

第三者から見れば、もはや接客手法云々以前の問題・・・ましてお家騒動に血道を上げている場合じゃないと思うのですが。

私のような元(?)顧客としても、今回の騒動は決して気持ちの良いものではありませんし、このままだと今後家具を買おうと考えている潜在顧客から見放されることは必至。うー

果たして同社の運命は、如何に?

今回の泥沼の争いを見るにつけ、スパッと社長を引退して後進に任せ我が子を決して自分の会社に入れなかった本田宗一郎氏の慧眼ぶりと賢明さを再認識させられます。





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凱 旋

今日は、アメリカの産んだシンデレラ・ボーイとも言うべき天才ピアニスト

 ヴァン・クライバーン
    Van Cliburn

の命日・三回忌にあたります。


クライバーンは1934年にルイジアナ州で生まれました。

3歳からリスト直系の弟子だった母親からピアノを習い始めた彼は、翌年には既に公衆の前で演奏したという、まさに神童。

6歳で家族と共にテキサス州に転居した彼は12歳の時に同州のコンクールで優勝し、ヒューストン交響楽団と協演しています。

そんな彼を一躍国家的ヒーローにしたのは、現在最も世界的権威のある 『チャイフスキー国際音楽コンクール』 でした。


東西冷戦の真っ只中だった1958年・・・つまり私の生まれた昭和33年から始まったこのコンクールは、当時のソビエトがロケット開発競争だけでなく、文化的な優位性を西側諸国に誇示する目的で開催されたもの。

しかし皮肉にもその第1回大会で、23歳だったクライバーンが見事な演奏で観客を魅了したのです。

      


ジュリアード音楽院でロシア人教師ロージナ・レーヴィナ女史に師事していた彼のチャイコフスキーやラフマニノフの独特な解釈による演奏は、審査員だったソビエトの世界的ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテルがクライバーンにのみ満点の25点を、他の演奏者に0点をつけるという暴挙(?)に出た程、他の演奏者を圧倒していたといいます。

当時のソ連・フルシチョフ書記長も太っ腹で、アメリカの青年を優勝させることに同意・・・これがその後の米ソ関係にも好影響を及ぼしたと言われるほど、センセーショナルな優勝でした。


帰国した彼を待っていたのは、アメリカ国民の熱烈な出迎え。


空港にはアイゼンハワー大統領自らが出迎え、紙吹雪の舞うバレードには群衆が殺到。


後に月面着陸を果たしたアポロ11号の宇宙飛行士に勝るとも劣らぬ熱狂ぶりだったとか。


      

           ブロードウェイでのパレード(1958年)


また同年に発売された彼の演奏するチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番のレコードは、ビルボードのポップアルバムチャートで7週連続1位を獲得。

クラシック作品としては唯一無二の驚異的な販売記録を達成。

その後もラフマニノフ、ベートーヴェンなどのピアノ協奏曲を立て続けに録音・リリースし、まさアメリカを代表するピアニストとしての名声を確立しました。

とは言え、私自身クライバーンの演奏は殆ど聴いた記憶がありません。


何故なら、あまりの人気ぶりに練習をする間もなく世界各地の演奏旅行に引っ張り回され、彼は徐々に消耗していき、たびたび休養を余儀なくされ、通常ならこれから・・・という44歳で、引退してしまったから。

私がレコードを集め始めた頃には、殆ど演奏活動をしていなかったのです。


まるで甲子園の優勝投手が親善試合に引っ張りだこになった挙げ句、肩を壊すように・・・もしかしたら、今でいう〝燃え尽き症候群〟を患ってしまったのかもしれませんネ。

しかし演奏はしなくなったものの、彼は音楽界に大きな足跡を残しました。

それはチャイコフスキー・コンクールに優勝した彼の名を冠して1962年から始まった、『ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール』。

概ね4年に一度開催される同コンクールは多くのスポンサーが支え多額の賞金が出されること、また優勝者には3年間のツアー契約が結ばれるという、演奏者には破格の待遇が約束されているのです。

そして同大会が日本国内でにわかに注目されたのは、2009年大会で盲目のピアニスト・辻井伸行さんが優勝した時。

        

私が生前のクライヴァーンを見たのは、奇しくも表彰式で辻井さんの首にメダルをかけ、彼を抱きしめる姿が最期となりました。


その後彼は進行性のガンに侵され、闘病の甲斐なく2013年2月27日に78歳で天に召されました。


東西冷戦中に生まれたヒーローとして、トルーマン大統領以降のすべての米大統領の前で演奏を披露した名ピアニストのご冥福を、彼がチャイコフスキー国際コンクールで優勝した当時の演奏を聴きつつ、祈りたいと思います。(


  < https://www.youtube.com/watch?v=6qROema2MDI >
>
ところで余談ですが、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールの優勝者は、その後あまり活躍できない・・・というジンクスがあるそうな。うー

破格の契約で気持ちが緩んでしまうのか、はたまた彼同様に多忙を極めることで燃え尽きてしまうからなのか?

日本が誇る辻井伸行さんがそうならぬよう、クライバーンには天国からしっかり見守って欲しいですネ。

鬼 車
昭和時代にはどこにでもいたのに、今やすっかり絶滅危惧種となった、〝カミナリ親父〟。

テレビドラマでも何人かハマリ役がいらっしゃいましたが、今日はその中の1人、

 高松 英郎 さん

の命日にあたります。


高松(本名:武市 哲郎)さんは、大恐慌の起こった1929(昭和4)年に現在の高知県南国市で生まれました。

子供時分に東京の杉並区に転居すると、1947年に早稲田中学を卒業して鎌倉アカデミア・演劇科に入学。

1951(昭和26)年に大映の第5期ニューフェイスとして入社すると、2年後に同期入社の若尾文子さんの恋人役として映画デビュー。


その顔立ち(?)から、徐々に悪役としての出演が増えていきました。

1962年に大映を退社しフリーで活躍し始めた高松さんを私が初めてテレビで見たのは、おそらく 『柔道一直線』。

梶原一騎さん原作のスポ根マンガをドラマ化し、1969年6月から2年弱に渡って放映されたこの番組は、近藤正臣さんがピアノに飛び乗って足の指で 『ネコふんじゃった』 を弾く・・・という伝説的(?)なシーンで有名。

この中で、高松さんは桜木健一さん演じる主人公・一条直也を鍛える〝講道館の鬼車〟こと車周作を演じていましたが、その技のハチャメチャぶりと共に、ギョロ目が強く印象に残りました。

そしてその後、私が高校時代登校前に必ず観ていたNHK朝の連続ドラマ 『雲のじゅうたん』 では主人公のへばちゃんが入学した航空学校の怖い校長役も記憶に残っていますネ。

このドラマでは、主人公の父親役が中条静夫さん・・・まさにカミナリ親父の協演って感じでした。

           

その後もNHK大河ドラマや 『水戸黄門』・『大岡越前』 などのTVドラマ、また映画 『ラストエンペラー』 等にも出演。

時代劇から刑事・軍人など、様々な役をこなされました。

その目力や風貌から、ややもすると近寄りがたい雰囲気がありましたが、実は非常に温厚な紳士だったそうで、後輩俳優には懇切丁寧な演技指導をしたそうな。

まさに、人は見かけによらぬもの。


1962年に女優さんと結婚した際は、フジテレビの番組内で慈善結婚式を挙げ、浮いた結婚資金やスポンサーからの贈答品を全て施設に寄付したことや、また2003年にクルマを運転中子供をはねて重傷を負わせてしまい、カメラの前で涙ながらに謝罪し暫くの間自宅謹慎したことも、その律儀な性格を表していました。


そんな高松さんが77歳で亡くなられたのは、2007年2月26日。

前日までドラマのロケで茨城県鹿嶋市に来ていましたが、体調が思わしくなく急遽高速バスで帰宅し入浴後就寝。

ところが翌朝奥様が冷たくなっている英郎さんを発見・・・死因は心筋梗塞でした。

もう少し活躍できた方だっただけに、実に残念。

ところで、こうやって高松さんの経歴を振り返りながら思うに、日本の父親の威厳が無くなってしまったのは、やはりカミナリ親父の絶滅とリンクしていますょネ。

更に言うなら、〝お父さん〟とか〝オヤジ〟という呼称が何となく軽い〝パパ〟に変わったことが、その契機ではなかったかと・・・。

怖い父親役を演じた高松さんや中条さんらは、すっかり父権が地に落ちた現在の風潮を草葉の陰から眺めて、さぞ溜息をついていることでしょう。うー

世の若いパパさんたち・・・まずは我が子に 〝お父さん〟と呼ばせてみませんか?




プラチナ

大学生の頃からだったでしょうか・・・毎晩午前0時近くにになると、ラジオのスイッチを入れてFM東京(現・TOKYO-FM )から流れる、あのシブい声を聴くようになったのは・・・。


遠い地平線が消えて、深々とした夜の闇に心を休める時、遥か雲海の上を音もなく流れ去る気流は、弛みない宇宙の営みを告げています。

満天の星を頂く、果てしない光の海を豊かに流れゆく風に心を開けば、きらめく星座の物語も聞こえてくる、夜の静寂の何と饒舌な事でしょうか。

光と影の境に消えていった遥かな地平線も瞼に浮かんでまいります。

これからの一時、あなたにお送りする音楽の定期便 ジェットストリーム。
夜間飛行のお供を致しますパイロットは私、城達也です。


ご存じ、名曲〝Mr.Lonely 〟に乗せて流れる


 城 達也  さん


の名調子、〝ジェット・ストリーム〟のオープニングです。


今日・2月25日は、彼の命日・・・早いもので没後20周年にあたります。


       

城さんは1931(昭和6)年の大分県生まれ。

早稲田大学文学部仏文科を卒業後、当初は俳優をしていましたが、後にその美声を生かして声優に。

私のような中高年世代には、グレゴリー・ペック、ロバート・ワグナーの吹き替えが懐かしいですが、やはり多くの人々の記憶に残る彼の声は、ジェット・ストリームでしょう。


FM東京開局以来(厳密にはそれ以前から)放送され続けている、FM放送では最長寿番組である〝ジェット・ストリーム〟。


城氏が初代パーソナリティーとして機長役を務めたのは、1967(昭和42)年7月から亡くなる直前の1994年12月まで、実に27年半の長きに渡りました。


彼がこの番組の収録する時は、機長になり切るため必ずスーツを着てスタジオ入り、そしてスタジオの照明もコクピット同様に暗くして臨んだそうです。


まさしく〝プロ〟の仕事ぶりだったんですねェ。


私が毎晩のようにこの番組を聴いていたのは、音楽そのものよりも城氏の〝プラチナの低音〟にシビレていたからなんです。


ですから、TOKYO-FM さんには申し訳ないのですが、城氏がパーソナリティーを降板された後は、この番組を殆ど聴いていません。


降板して僅か2ヶ月後の1995年2月25日、食道癌でこの世を去った城氏は63歳・・・まだまだ現役で活躍できる年齢でした。


それではご冥福をお祈りしつつ、城達也氏の懐かしい声を最後の出演となった1994年12月30日のジェット・ストリーム・・・〝ラスト・フライト〟をお聴き下さい。(

    < https://www.youtube.com/watch?v=iIK8vsH4Mfs
>


夜間飛行のお供を致しましたパイロットは私、城達也でした。


また明日、午前0時にお会い致しましょう・・・。笑3

通常はそう番組を締めくくっていた城さんのラスト・メッセージは、こうでした。

ではみなさん、さようなら。  よいお年をお迎え下さい。





         

負 担

今から82年前の今日・1933(昭和8)年2月24日・・・国際連盟に於いてリットン調査団の報告書に基づいた 『中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書』 について審議・投票が行われ、賛成42・反対1・棄権1・投票不参加1の圧倒的多数で採択されました。

リットン調査団とは、1931年に関東軍が満州国を建国したことに中華民国が国際連盟に提訴したことを受け、リットン卿(英)を団長として組織され調査団で、1931年3月から3ヶ月にわたり現地入りするなどして実情を調査しました。

その報告概要は、同地における日本の権益・居住権は尊重されるべきとしながらも、関東軍の活動は自衛的行為とは言えず満州国は承認せず国際連盟の保護下で自治政府の樹立すべし・・・というもの。

当然日本はこれに反発して(唯一の)反対票を投じ、圧倒的多数で採択されたことを確認するや、松岡洋右首席全権は演説をした上で議場を退席。

翌月27日、日本は正式に国際連盟に対して脱退を表明。 (※正式発効は2年後の1935年3月)

我が国は大東亜戦争へと突入していくことに・・・。

さて、この国際連盟脱退に関しては教科書にも記載されていますので、今日は裏側から日本の外交を覗いてみたいと思います。


       

               議場を退席する松岡全権


日本は1919年に設立されて以来脱退するまで、国際連盟の常任理事国でした。



新渡戸稲造氏も事務局次長を務めるなど運営には多大な貢献をし、同時に多額の分担金も負担していたのです。

しかし脱退となれば、当然分担金など払う必要なし・・・と思えるのですが、実は脱退宣言した後も、猶予期間の2年間は払い続けていたのだそうな。驚き顔

そして分担金といえば、現在の国際連合についても然り。


2014年の『国連通常予算分担金』の内訳を調べてみると・・・。

               分担率(%)    金額(百万ドル)


1 位   アメリカ    22.000      621.2

2 位   日  本    10.833      276.5

3 位   ド イ ツ     7.141       182.2

4 位   フランス     5.593       142.7


5 位   イギリス     5.179       132.2


6 位   中  国     5.148      131.4

7 位   イタリア     4.448       113.5


8 位   カ ナ ダ     2.984        76.2


9 位   スペイン    2.973        75.9


10位   ブラジル    2.934        74.9 

この金額、基本的には加盟国の経済力(国民総所得の世界合計に対する各国の比率)を基礎に一定の計算式によって算出し、更に途上国に対しては対外債務や一人当たりの国民所得等を勘案して割引措置を行い、上限22%から下限0.001%の間で振り分けられるとのこと。
(※アメリカは上限枠がなければ約29%の負担率になるとか。 しかし同国は22%に負担率を減らされていても、全額支払いはしていません。)

しかし目立つのは、非常任理事国でない日本・ドイツが2・3位とかなりの負担を求められていることと、何といっても中国の比率の少なさ。

現在世界第2位の経済大国であり、全世界人口の約20%を抱える常任理事国がなぜ第6位なのか?

この分担率は3年に一度改定がなされ、前回よりも日本は少なく中国は逆に増えたそうですが、それでもこのバランスは納得できません。

因みに中国は、負担を抑えるために 「まだ先進国ではないから」 と主張しているとか。

だったら常任理事国を日本と代われ! と言いたいところ。


皆さんは、このバランスを見て毎年300億円近い血税が注ぎ込まれていることに納得できますか?

金払いが良くて、口先は達者でも喧嘩が弱いお坊ちゃま・・・こういうタイプが最も悪ガキに狙われやすいってこと、政治家や官僚は分からないんでしょうかねェ。うー





絶 景

今日は2月23日・・・ということで、語呂合わせから 『富士山の日』

と同時に、 『富士見の日』 でもあるそうです。

言うまでもなく富士山は日本のシンボル。

日本人なら誰もが愛する山であり、信仰の対象としてる方もいらっしゃるでしょう。

関東・中部地方には、富士山が見えることから〝富士見〟という地名がつけられているところが何箇所もあります。

東京都内でも、富士見坂と言われるスポットが10ヶ所以上あるそうな。


昔は東京(江戸)の様々な場所から富士山を眺めることが出来たのでしょうが、現在は高層ビルの林立で、殆どの富士見坂からは富士山の全体像を実際に見ることが出来ないようです。ダメだぁ顔


そんな東京でも、高層ビルの展望台に行かずとも、富士山を眺められるスポットが弊社の近くにあるんです。


環状8号線内回りを赤羽方面から荻窪方面に走り、相生陸橋から北町若木トンネルを抜けて、川越街道と交差する練馬北町陸橋の頂上に差し掛かった時、正面に富士山が! () 

            

環八富士見坂


私は、勝手にこのスポットを〝環八富士見坂〟とネーミングしています。


しかし残念ながらここは自動車道路上ですので、歩いて行ったり停車して眺めることは出来ません。

また、ヘタに減速すると後ろから追突される危険がありますし、うっかり見とれて坂を下っていくと、信号待ちの車列に追突してしまいますので、くれぐれもご注意を! 


今時期の冬、風の強い快晴の朝にはクッキリと稜線を見ることができますし、また日没間際には夕焼けに浮かぶ富士山のシルエットがコンな感じで楽しめます。 (

夕富士


「そんな一瞬じゃ見た気がしない!」・・・という方に、富士山の雄大絶景スポットをひとつご紹介しましょう。

中央自動車道・河口湖ICを下車して約20分のところに、『新倉浅間神社』 があります。


ここから更に徒歩で数分登ったところにある展望台から見た富士山はまさに絶景!


 新倉浅間神社 地図

この富士見ポイントは以前地元富士吉田市在住の知人に教えてもらったんですが、私は初めて見た時そのあまりの雄大さにただただ絶句、思わず手を合わせて拝んでしまいました。


ウチの女王様を一度お連れした際も、彼女はしばし無言・・・。


やはり風の強い快晴の日ならば、富士の裾野が目の前180°に広がっていると錯覚するくらいの大パノラマが楽しめると思います。


ご家族や恋人を連れて是非一度行ってみてください!扇子





竹 島

今日・2月22日は、領土問題で韓国と争いが続いている日本海に浮かぶ島、


 『竹島の日』


です。


これは今から110年前の今日・1905(明治38)年2月22日に、島根県知事が竹島の所属・所管を我が国(島根県)にある旨を閣議決定を経て告示したことに因み、その100周年にあたる2005年に島根県議会が制定したもの。


言うまでもなく、竹島は本来日本固有の領土。


我が国には1779年に初刊された 『改正日本輿地路程(よちろてい)全図』 他、竹島と鬱陵島を朝鮮半島と隠岐諸島との間に的確に記載している地図は多数あり、古くから日本が同島の存在を認識していたことが証明されていますが、一方で韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はありません。


 ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-竹島

17世紀初頭には、鳥取藩の町人が幕府から鬱陵島 (※当時の「竹島」) への渡海免許を受けて毎年1回渡航し、あわびの採取やアシカの捕獲、樹木の伐採等に従事していました。


その際、現在の竹島は鬱陵島に渡る船がかりとして利用されており、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を実質的に確立していました。


ところが17世紀末になって、鬱陵島において漁採に従事する朝鮮人と遭遇するように。


これを契機に、日朝両政府間で鬱陵島の領有権をめぐる交渉が開始され、最終的に幕府は1696年に鬱陵島への渡海を禁止しました。


しかし、竹島への渡航は禁じることはせず、このことからも我が国が竹島を自国の領土だと考えていたことは明らか。



そして前述の島根県知事による告示が行われたわけです。


戦後、日本が朝鮮の独立承認を規定する際には、日本が放棄すべき地域として 「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」 と規定。


韓国はこの時、アメリカに対し当該地域の一つに竹島を加えるよう要望しましたが、同国は


「かつて竹島は朝鮮の領土として扱われたことはなく、また朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない」


と回答し、韓国側の主張を明確に否定。


ところが1952年1月、李承晩韓国大統領は突如 『海洋主権宣言』 を行い、いわゆる 〝李承晩ライン〟 を一方的に設定、そのライン内に竹島を組み入れます。


そしてその翌月には竹島付近の公海上で操業中だった日本漁船が韓国の軍用船に拿捕される『第一大邦丸事件』が発生。


※『第一大邦丸事件』の詳細は、こちらの過去記事をご覧ください。(
< http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11613308485.html
>


その後韓国は竹島に部隊を駐留させ実質不法占拠を現在まで続けており、日韓漁業協定が成立する1965年までの13年間に、韓国によって一方的に抑留された日本人は3,929人、拿捕された船舶328隻、死傷者44人を数えているのです。


      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-竹島

竹島は一般人が定住するのは困難な島・・・韓国が領有権をいきなり主張・武力行使をするのは、領海の拡大による海洋資源の確保が主たる目的。


韓国は独自の論理で領有権を主張していますが、ならば国際裁判所に訴え出れはいいものを、我が国が1954年から提案している 『竹島領有権問題の国際司法裁判所への付託』 を拒否し続けています。


私たち日本人は戦後半世紀以上に渡る平和を享受したことによって、領土・国益に関して鈍感になっていることは否めません。


半島勢力に侵されている大手マスメディアは殆どこの問題について報じませんが、日本国民は日本海で実際にこういう問題があることを、その経緯を踏まえしっかり考える必要があるのではないでしょうか?扇子






対 立

アメリカにおける人種差別撤廃運動というと、キング牧師が推進した公民権運動をイメージする方が多いと思います。


それは彼が白人や黒人という人種の壁を越えて手を取り合うことを目指したからでしょうが・・・それとは別に、黒人が白人からの分離独立を目指す運動もありました。


その提唱者として後世に名を残したのが、


  マルコム X
  (Malcolm X


今日は穏健派のキング牧師とは好対照だった、この攻撃的な黒人解放運動指導者の命日・没後50周年にあたります。


出生時の名がマルコム・リトルだった彼がネブラスカ州オマハで生まれのは、1925年。


父親は反体制派のバプチスト牧師でしたが、マルコムが5歳の時に市電に轢かれて死亡。


公式発表では自殺とされているものの、実際には人種差別主義者によって殺害されたといわれています。


白人と黒人のハーフだった母親が残された9人の子供を育てようとしたものの、何度か万引きで補導されたマルコムは里子に出されることに。


裕福な白人家庭に引き取られたマルコムは学校でも黒人は彼一人という環境の中、成績優秀で学級委員長も務め医者か弁護士を目指していましたが、ある日白人の担任教師から


「黒人はどんなに頑張っても偉くはならない。黒人は黒人らしい夢を見なさい。」


と大工になるよう勧められたことがキッカケで彼の人種に対する考え方は変わり、以来白人を避けるように。


そして中学を卒業後ボストンに転居してから生活が荒れ出し、高校を中退してニューヨークに移り住んだ彼は、麻薬・ギャンブル・売春何でもござれのギャングの世界にドップリ・・・1946年、21歳の時に強盗で逮捕され、懲役10年の実刑判決を受け刑務所入り。


しかしそこで、ある囚人からイスラム教を説かれたことで、彼の運命は大きく変わります。


目覚めた彼は獄中でイスラム教に改宗、生活態度を一変して視力が2.0から0.2に落ちるほど勉学に励み、白人がいかに有色人種から詐取をしてきたかを学ぶと同時にブラック・モスリム(黒人イスラム教団)の教えに惹かれていきます。


出所後、同教団の発動拠点ネイション・オブ・イスラム(NOI )の指導者イライジャ・ムハマドに出会ったマルコムは、彼に魅せられて即入信。


その時に、〝X〟という名をもらいました。


1950年代、彼はNOI 活動家として白人の人種差別を糾弾。


キリスト教を〝悪魔の宗教〟と否定し、イスラム教への入信を勧め黒人の自立を説いて回りました。

「白人は悪魔だ」 と主張する彼が、白人との融和を説くキング牧師と相容れなかったのは当然だったと言えましょう

       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草


1957年にNOI メンバーの1人が警官に暴行を受け逮捕された際、彼を中心にして病院への転送を要求。 


それを認めさせたことで彼は一躍有名になり、その布教活動は多くの黒人に影響を与えました。


(1960年にボクシングのヘビー級チャンピオンのカシアス・クレイが彼に感化されてイスラム教に改宗しモハメド・アリと改名したり、1971年に米プロバスケットボール史上最高の選手と言われたスーパースターのルー・アルシンダーが彼の著作を読んで改宗、カリーム・アブドゥル・ジャバーと改名したのはその代表例。)


ところがその5年後、信奉するイライジャが少女を強姦したうえ子供を産ませたことを知って深く失望したマルコムは、彼を告発。


一転して彼は教団から命を狙われることとなり、1963年には暗殺されかかります。


教団を脱会した彼は1964年にメッカに巡礼。 


その時に彼はイスラム教の世界に人種差別は存在しないことを悟り、真の人類愛に目覚めた彼はその後白人批判を止めます。


更に国連の人権委員会にアメリカの人種差別や不正を告発すべく働き懸けた彼は、それまで批判していた公民権運動にも理解を示し、集会で演説するようになりました。


その後アフリカ各国を訪問して彼らと手を結ぶ必要性を痛感すると、アメリカに帰国直後にアフロ・アメリカン統一機構(OAAU )を結成。  


しかしそんな彼の命を、NOI は執念深く狙い続けていました。


そして遂に1965年2月21日・・・OAAU の集会で演説中だった彼は、3人のヒットマンから15発もの銃弾を浴び、絶命。


39歳の若さで生涯を終えたのです。


「黒は美しい」 という言葉を残し黒人の独立を夢見ながら黒人に命を奪われた彼は、自らの死から44年後に実現した黒人大統領の誕生を、天国からどんな思いで見つめていたのでしょうか?




印 章
・・・と言っても、ハンコの話じゃありません。

今日は、海外旅行に行かれる方なら100%所持する貴重品・・・そう、

 旅券(パスポート)の日

なのだそうです。


今から137年前の今日・1878(明治11)年2月20日に 『海外旅券規則』 が外務省布達第1号として制定され、〝旅券〟という言葉が初めて法律上使用されたことに因むのだそうな。


私たちが受給する旅券(パスポート)とは、日本政府が私たちが日本人であることや氏名・年齢等を証明する国際的身分証明書。

万一滞在先でトラブル等が起きた場合、その国の政府に対して私たちに必要な保護と援助を与えるよう要請する重要な公文書でもあります。

このパスポートの歴史は古く、ローマ帝国時代には

「この旅行者に危害を加える者は、ローマ皇帝に宣戦したものと見做す」


という文言が記入された旅券が発効されていたとか。

飛ぶ鳥落とす勢いのローマ帝国を敵に回そうという者はまずいなかったでしょうから、その効果は絶大だったでしょうネ。あせあせ


日本では上記の法令が発令される以前、開国後には既に旅券が発行されていました。

その第1号といわれているのが、1866(慶應2)年10月に江戸幕府の日本外国事務(外国奉行)がパリ万博に向かった『日本帝国一座』という曲芸団のリーダー・隅田川浪五郎という手品師に発給したもの。


その一座のメンバーであった神奈川三号亀吉という曲芸師に発給されたパスポートが、日本に現存する最古のパスポートだそうです。(↓)


       

これは表ですが、裏にも文面が書かれた1枚の紙切れでした。

中には「目が小さい」・「鼻が高い」など本人の特徴が書かれているとか。

当時は写真なんてありませんから、そうやって所有者を特定できるようにしていたんでしょうネ。

で、当時はこのパスポートを(御)印章 ・通行免状・海外証書・海外旅行免状・海外行免状などまちまちに言い表していたとのこと。


現在日本政府が発行しているパスポートは、通常有効期限5年(紺色)と10年(赤色)の2種類。

私が30年以上前にブラジル遠征に行った際初めてパスポートを取得した時には、1回しか使えない〝一次旅券〟なんてのがありましたっけ。


皆さんはどちらをお持ちでしょうか?
おそらく多くの方が赤色の方をお持ちだと思いますが・・・。


       

さて、このパスポートについて、皆様に気を付けていただきたいことがあります。

現在日本では国民の4人に1人が所有しているそうですが、その盗難・紛失が年間約42,000件も発生しているそうなんです。

そして意外にも、その80%以上(約35,000件)が国内で起きているとか。

その多くはうっかり捨てたり引っ越し等の際に紛失したなどの要因ですが、困るのは空き巣などによる盗難。

前述した通りパスポートは政府が発行する公的な身分証明書ですから、悪用される可能性が十分考えられます。

しかも最近は闇ルートを通じて国際的犯罪組織の手に渡って偽造され、本人が知らないうちに不正使用されるという事例が多々出ているとのこと。

運転免許証と違い、パスポートは普段その所在をあまり気にしませんから、くれぐれもお気をつけまください。

ここ最近パスポートを手にしていないという方・・・今日の記念日を良い機会に、所在を確認し厳重に保管してくださいネ。


えっ、お前は大丈夫かって?

はい、私は絶対に盗難とか不正使用の被害には遭いません。

だって、葬儀社を立ち上げた12年前から海外旅行はおろかゴルフすら1回も行かず、首都圏から出たことすら殆どない私・・・パスポートはとっくに切れて更新していませんから~。

上の画像は、時々海外にお出かけになる女王様のです。うー





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面 目

今から830年前の今日・1185(元暦2)年2月19日・・・源平合戦の中でも有名な

 屋島の戦い


が、現在の高松市で行われました。


1183(寿永2)年、それまで栄華を誇っていた平氏が源義仲に敗れ、安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちし、西方へ。

九州大宰府を追われ、翌年一ノ谷の戦いにも敗れた彼らが船で行きついたのが屋島でした。

平氏を追う源氏はそれまで水軍を保有していなかったため四国に迫ることが出来なかったのですが、その均衡を打ち破ったのは源氏のヒーロー・義経でした。


渡辺党・熊野水軍・伊予水軍を味方につけた義経は、彼らを渡邊津(現・大阪市の旧淀川河口)に集結させると、2月18日深夜、尻込みする船頭らを脅し僅か5艘・150騎で出航。

通常3日はかかるところを僅か4時間で阿波・勝浦に到着。
(※ただこの路線では現代のフェリーでも3時間半だそうですから、いくらなんでも早過ぎ。 実際には丸1日と4時間とする説が有力。)

現地で屋島の平家軍が手薄になっているという情報を得た義経は徹夜で屋島に進撃。


そして干潮時に騎馬で島に渡れることを知った彼は19日、周辺の民家に火を放って大軍と見せかけ、約3,000騎と圧倒的な兵力を保持していた平家軍を狼狽させ、彼らは壇ノ浦方面へと逃走。

しかし源氏方が少数と知った平家軍も反撃に転じる中、夕刻一時休戦。

その時、この戦いを有名にする出来事が。

平家軍から美女の乗った一艘の小舟が現れ、竿の先に扇をつけて 「これを撃ってみよ」 とばかりに挑発。

これを見た義経が、弓の名手として畠山重忠に白羽の矢を立てますが、彼はこれを固辞。

代わりに那須十郎を推挙するも、彼もまたケガを理由にこれを断り、おハチを実弟の那須与一に回したのです。

現代でもヤバい仕事は逃げて部下に押し付ける上司は沢山いますが、人間の本質は昔も今も変わらないようです。あせあせ

その与一も一旦は断ったという説もありますが、結局彼はこの大役を引き受けることに。


馬に跨ったまま海に入った与一は、船上で波に揺られる扇の的を中々定めることができず・・・しくじれば切腹と覚悟した彼は 「南無八幡大菩薩・・・」 と経を唱えると、狙いを絞って矢を一閃。

       

放たれた鏑矢は音を立てて扇に一直線・・・見事に命中。

赤い日輪の扇はヒラヒラと海に舞い落ち、両軍からはやんやの喝采。

・・・と、普通はここで話が終わるのですが、実際にはこのあと一悶着あったとか。

この見事な弓の技を目の当たりにした平家軍の武者が一人進み出て、的の下で舞いを始めます。

これを見た義経が、なんと与一に彼をも射るよう命じたというのです。

与一は大将のいう事には逆らえず、これまた見事に射倒したとか。

これに平家軍は激怒、再び源氏軍に襲いかかったというのですが・・・義経が武者まで射させたのは単に無粋だったからなのか、それとも敵の平常心を攪乱する作戦だったのか?


いずれにせよ、義経率いる源氏軍は20倍近い兵力を有した平家軍を撃破。

敗走した平家軍は、翌月の壇ノ浦の戦いで滅亡することになるのです。

余談ですが、この屋島の戦いでは戦闘中に義経が海に自分の弓を落とした際、平家軍に攻められながらもこれを捨てずに拾い上げた、〝弓流し〟という逸話も。

これは小柄だった義経が、「こんな(張りの)弱い弓を平家方に拾われて、源氏の大将の弓がかように弱いと嘲られては末代までの恥」と思ったからだとか。

牛若丸時代に今日の橋の上をピョンビョンと身軽に飛び回ったといわれる義経にも、体格コンプレックスがあったようです。

まずは面目を第一に考える武士ならではのエピソードと言えましょう。

このDNAは、良くも悪くも日本人の中にしっかりと遺されているようです。扇子

当時は(当然のことながら)島だった屋島も、現在は陸続き。

それでも那須与一が弓を射る際に馬を留めたという 『駒立岩』 などの名跡が現在も残されているそうな。

しかし干潮時でないと見られないそうですから、当地を観光で訪れる際は潮の満ち引き時間にご注意ください。